時代の変わり目に僕らの世代ができること
まあ、いつの時代だって過渡期と言えば過渡期だし、あまりセンチメンタルに意味付けをしないほうがいいと思いますが、それにしても、私にとってわりと大切なものたちが、次々と話題になっていたりして、少ししんみりしています。
ネット広告費が新聞広告費を抜き(参照)、百貨店がどんどん閉店(参照)していきます。どれもこれも、理屈の上ではなんとなくわかっていて、いずれはそうなるんだろうなということが、経済不調の今、結果として表れただけなのに、やっぱり堪えます。事実というか数字というものの大きさを思い知らされます。
ちょっと自分語りをさせてください。15年ほど前の話です。
私は、CIプランナーからのドロップアウトでコピーライターになり、経験が1年も満たない新米のときに東京に出てきました。大阪では結構有名ななんばシティという駅ビルの仕事をやっていて、その作品を持って東京の広告制作会社を回りました。でも、東京ではそんな駅ビルを知っている人も少なく、転職活動には結構苦労をしました。
流通の仕事を細々と続けながら、チャンスを伺う日々が続きました。しばらくして出会ったのが、日本橋三越本店の仕事。日経新聞、朝日新聞、読売新聞の夕刊ラテ10段が主な舞台で、それが2週に1回ありました。当時は、広告制作者として、新聞広告は、自分の腕を試せる絶好の場だったし、今思うと、ほんと夢のような感じで夢中で作っていました。
華やかだった流通広告が下火になっていた頃です。当時から百貨店という業態はもう駄目じゃないか、と囁かれていました。ライバルの広告会社がつくった日本橋三越の新聞広告。お子様ランチのビジュアルに「百貨店をつづけます。」というコピー。誠実で品があってすごくいい企業広告でした。当時の私にとっては、あの素晴らしい広告をつくっている百貨店という感じでした。
私が所属していた広告会社のチームは、サブ的なポジショニングで、どちらかというと催事広告が中心でした、売りに徹した表現が求められていて、私は、その売りを活路に新しい方法論を模索していました。密かに、「百貨店をつづけます。」を書いたコピーライターをライバルだと思っていて、その人に勝つには別の方法論しかないと思っていました。よく比較されたし。だから、売りに徹することはあまり苦にはなりませんでした。今となっては、そのことはよかったなと思います。
その時に出会ったのが、後に入社することになる、英国の外資系広告代理店SAATCH & SAATCHのSMP(Single Minded Proposition)という考え方。簡単に言えば、目的に最も適したProposition(まあ、メッセージみたいなもの)を設定するというもの。百貨店の催事の目的は、場所に人を集めること。だから、その目的にフォーカスして、シンプルなメッセージを作っていくという感じで試行錯誤していました。
ゴルフクラブのセールがあるとして、その新聞広告の目的は、商品を広告することではなく、セールそのものを広告すること。当時は、目玉商品の商品広告的なセール広告が多かったのです。
まず百貨店に来てもらうこと。話はそれからだ。百貨店広告なんだし。少々過激ですが、そういう考え方です。だから、その1点に表現は集中すべき。表現の本質が来店であれば、他の要素はすべて排除する。で、「あす10時スタート。」というコピーを書きました。ビジュアルは、ゴルフクラブ7本を並べただけの写真。そこに、美しい明朝体で大きくコピーがレイアウトされている。ただそれだけの新聞広告。カラーではなくモノクロ。日経の夕刊ラテ面に掲載されました。
次の朝、開店前に背広を着た会社員が行列をつくりました。午前中で、目玉商品がすべて売り切れました。お詫びの店内放送が流れました。宣伝部長と握手しました。
その方法論を説明する企画書と表現案を持っていったとき、宣伝部長は、セール商品の見直しを担当部署に指示しました。その7本のゴルフクラブは安かろう悪かろうじゃ駄目だ、ということでした。当時は、目玉商品として1万円を切る格安商品を設定するのが通例だったんですよね。でも、その広告では、メーカーさんとの折衝の上、7本とも自信を持って届けられる6万円から7万円代の品に変更になりました。このとき、広告は表層の表現だけでは駄目なんだということを学びました。
この時の仕事が、私の今の原点なのかもしれないと今思います。
ウィーン展では「あすからしばらくウィーンとします。」というコピーを書きました。ビジュアルは、三越前でモーッアルトの格好をした北欧の少女。北海道の物産展では、毛ガニが丸ごと入った大きな北海丼に「ほっかいどーん。」というコピー。北海道が日本橋三越にどーんとやってきた、ということです。とってもバカっぽいけど、つくっている本人はくそ真面目にやっていました。
当時、百貨店業界では新聞広告の効果が疑問視されていてました。そんなとき、新聞広告はまだまだ効くんだぜ、ということを示したかったし、その思いは、まだ若かった私にとっては、新聞広告が好きだからという思いがベースになっていたんだろうと思います。効かないなんて気軽に言うんじゃねえ、みたいな。
それは、きっと今だって同じだと思うんですよね。
ネットが登場してきたからこそ見えてきた新聞広告のメリットもあると思うし。ネットでできることはネットに行く。だってそれは当たり前です。価格優位性もないし、しょうがないですよね。要因は違えど、百貨店も構造的には同じだろうと思います。だけど、こんなややこしい時代の変わり目だからこそ、良い部分が際立って見えるようになったのもある。百貨店、そして新聞広告に育てられた者としては、そう思いたい。
きっと、百貨店も新聞広告も、この先、カタチを変えていくだろうと思います。もしかすると、なくなってしまうという可能性も否定できません。あの頃の時代の変わり目と、今の時代の変わり目は違います。それは、事実です。でも、だからこそ、今、考え抜かないといけないんだろうと思います。次の時代をきちんと迎えるために総括だけはきちんとやっておかないといけないのでしょうね。
終わってるよね、とか、逆に、終わるわけないよね、とか、そんな気軽なスタンスじゃなくて、いい部分も駄目な部分も、目をそらさずに、しっかりと見つめて考えること。そして、その成果を次に活かしていくこと。それは、百貨店や新聞広告からたくさんのものを学んできた僕らの世代にしかできないことなのかもしれないな、と思うし、そこにしか、ネットネイティブではない僕らの世代の意義はないんだろうな、とも思うんですね。
それに、幸い、バブル崩壊と同時に社会に出た僕らの世代は、バブルを懐かしむこともないし、だからこそルサンチマンも持ちようがないし、社会の変化にも慣れてもいるし、変化に対してそこそこ柔軟だとも思うしね。
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コメント
■Googleが次世代広告配信技術を発表、売り上げ最大化へ4分野改良-やはり広告にもイノベーションですね!!
http://yutakarlson.blogspot.com/2010/02/google4.html
こんにちは。Googleが、広告4分野の技術の改良について発表をしました。グーグルといえば、IT企業の代名詞のようでもありますが、そのビジネスモデルの本質は広告です。だからこそ、広告分野のイノベーションは欠かせないのだと思います。Googleやはり、広告がうまいです。最近では、私のところにアメリカから封書がとどきました。これは、なかなかうまいやり方だと思いました。詳細は、是非私のブログをご覧になってください。
投稿: yutakarlson | 2010年2月24日 (水) 09:30
はじめまして
僕も百貨店の新聞広告が
まだ王道だった時代に
この仕事はじめたひとりです
真木準さんの伊勢丹の広告が
自分にとっては教科書みたいなものだったのですが、あの頃の百貨店の広告には
夢がつまっていたなぁと思います
ちなみに、
「あすからしばらくウィーンとします。」というコピーよく覚えていますよ。なんだ、こりゃあ〜とインパクトにビックリしましたもの(笑)
投稿: あかさか王子 | 2010年2月24日 (水) 09:32
>yutakarlsonさん
うーん、今回のは、以前にもましてエントリの内容に関係ないし、なんともコメントのしようが。
>あかさか王子さん
はじめまして。
あれからほんの少ししかたっていないのに、百貨店や新聞広告の持つ意味がずいぶん変わってしまいましたね。みんなが同じ夢を見れなくなっちゃったというか、夢もひとりひとり違うというか、夢見る場所もひとりひとり違うというか。
>「あすからしばらくウィーンとします。」というコピーよく覚えていますよ。
そうですか。それはそれは。なんかうれしいです。あの催事にもいっぱい人が来てくれたんですよ。
投稿: mb101bold | 2010年2月24日 (水) 10:51
こんにちは。
いつだって『過渡期といえば過渡期』なんでしょうけど、確かに過渡期だなあと思うのが、「自分はこれで行く」という宣言が虚しく聞こえてしまうことです。
「自分は新聞が好き」とか「自分は百貨店に行き続ける!」と宣言する人が見えてこなくて「これからはピストルの時代ぜよ」という幕末な英雄にならなくてはならないような強迫観念を感じます。ツイッターやってネットで買わないといけないの?みたいな。
百貨店も新聞もコアの顧客を摑み切れてなかったのか、ちょっと欲が出て富裕層に気をとられていたのか、「やられっぱなし」のように見えてしまうのです。本当はそうではなくて、誠実に仕事している方もいるのだろうし、新しい関係作りに懸命なのだろうと思うのですが、伝わりにくくなっている。
「みんなが離反するらしいから私も離反する」「みんなが個別だといってるから一斉に個別にやってみたけど、実はあんまり面白くない」みたいな、妙な寂しさがあるような気がします。
もしかしたら個人が「新聞広告に私は反応して店頭でそのことをきちんと表明する!」「百貨店で買ってそのことを周囲に宣言する!」みたいな気合が必要なのかもしれないですね。
案外、危機の中でコアなものが見えてきたり、顧客と広告主のお互いが「これだよね」と了解し合うことができたら、それはそれで良いかもしれないですね。
その「繋ぎ役」、mb101boldさんに期待したいです。
投稿: mistral | 2010年2月24日 (水) 12:13
そうですねえ。私も「新聞、百貨店、大丈夫」とはまったく言えないけれど、「これからはネットだ」とも素直には思えない部分もあって、その言えなさ加減にはわりと理屈が伴っていたりするんですよね。私はネットも大好きだけど。
新聞や百貨店が持っている良さは、今のままのネットの進化ではきっと代替できないと思うし、ウェブのテクノロジーの本質から言えば、代替は無理だと思います。そんなまま時代が進むということは、大切で素敵なものを失うだけになってしまうんですよね。
で、人間というか社会というものは、どこかでそういう失うだけという状況を嫌ってバランスするはずだから、そういう意味では、きっとほんとの答えは、その間にあって、結局は24時間の奪い合いにしか過ぎないのだから、スモールサイジングはしょうがないにしても、メディアが最も得意とするものが多様化するという感じにしないといけないんだろうな、と思います。
新聞広告は、じつはやり方次第で今も効くんですよ。その効き方は、効果においてはまだネットに代替できていないです。費用対効果の部分でもそうです。それは仕事でも実感しています。でも、このあたりは、一度しょんぼりしてしまうと、やり方が古い、効かない、のスパイラルで、貧すれば鈍するになってしまいがちなんですけどね。
投稿: mb101bold | 2010年2月24日 (水) 22:59
私の母は大阪出身ですが。なんばCITYがオープンした時「なんばがCITYになる」というコピーを見て、“難波市”ができると本気で思ったらしいです。mb101boldさんの仕事なのかは存じ上げないのですが。
投稿: いつも読ませていただいてます。 | 2010年2月25日 (木) 21:30
私の仕事はそれからずっと先ですね。関空ができた時で、「新しい関係、はじめよう。」や「関空効果。」というコピーを書いていました。シティのもっと南にあるなんばPierの「とにかく、南だ。」というコピーも書きました。
「なんばがCITYになる。」の広告は見たことがあります。誕生の時の広告ですよね。ロゴは田中一光さん(今はリデザインされていて、私はそのロゴを制作した会社に当時おりました)で、その関係で結構有名な東京のクリエイターがつくっていたように思います。
難波はまだ「市」にはなっていませんが(笑)、このあいだ、久しぶりに立ち寄ったら、丸井ができていたり大阪球場後に大規模な商業施設ができていたり、結構様変わりしてましたよ。
投稿: mb101bold | 2010年2月26日 (金) 00:56
今は違う部署ですが、去年の秋まで百貨店のフレーム(毎週の催事)新聞広告書いていました。5段しかないスペースに該当週に百貨店でやっていることの全てを詰め込むため、コピー勝負なんてありません。。それでもコピーライターと名乗るのが嫌でした。今はプランナーしています。やはりコピーの時代は終わったのでしょうか。「タイは若いうちに行け」のコピーでコピーライターに憧れ、ようやくつかんだポジションでしたが、淋しいです。
投稿: Rin | 2010年2月26日 (金) 10:49
率直に言えば、Rinさんの世代に対しては、私たちの世代はまだ夢があったとも言えるのかもしれません。広告はビジネスですから、条件に従い、それを最大化していくことが、どうしようもなくミッションになってしまいます。それでも、その中でなんとか、みたいなことが必要ではあると思いますが、そうは言ってもという感じなんだろうと思います。その感覚はわかります。だからこそ、慰めや建前は言う必要はないですよね。
コピーの時代は終わった、と簡単に言えるけれど、そういう命題がそもそも無効だというふうにも言えるとも思います。いつの時代も言葉の力はありますし、それがレトリックで通じる時代ではなくなっただけとも言えます。今の時代は、非言語の行動が言語化されてメッセージとして伝わる時代です。それは、人のコミュニケーションとしてある意味健全とも言えるのではないか、と最近思うのです。
もしコピーライターという肩書きに躊躇があるのであれば、プランナーという肩書きに誇りを持ってください。プランニングされた行動の総体がメッセージであり、コピーであるというのが今の時代です。
なんか、もったいぶったお返事ですみません。でも、私が今言えるのは、こんなことしかないとも思います。お互い、がんばりましょう。
投稿: mb101bold | 2010年2月27日 (土) 04:03
いい記事に、いいコメントが続いていますね。
共感します。
新聞広告は、1980年ジャストに広告代理店に入り、
コピーライターを始めた者としては
(その後→制作会社→独立して会社→13年あたふた!)
特に思い入れがあります。
黄色くなった、ほこりまみれの新聞広告のキリヌキを、
いまも大事に持っています。
もう、捨てようか。過去の新聞広告と広告クリエイティブの
幻想にさよならして…なんて思いつつ。
「売り」も「情報」も大切だけれど、
行間や紙面の「すきま」で語る新聞広告は、
無くなってほしくないです。
投稿: 川島孝之(表参道の小さな広告屋から) | 2010年2月27日 (土) 20:18
私が社会に出たのが1991年だから、川島さんより10年ほど下の世代になりますね。私は制作会社で三越の仕事をしていたときは、ちょうど指定原稿、写植、版下、色指定からマックでのデータ入稿に移行しつつある時でした。
あの頃の新聞広告の切り抜きは、私も大事に持っています。ここ最近はデジタルデータがあるので、ゲラや本紙は保存しないようになってしまいました。なんとなく、さみしいなあと思いつつ、日々の忙しさの中でまあいいか、という感じになってしまっています。
新聞広告は企業にとっても檜舞台でしたよね。15段なんかだと、それこそ清水の舞台に飛び降りる気持ちで出稿していました。今もそういう気持ちでメッセージを打ち出せるメディアって、あまりないと思うんです。少なくともネットは代替していないし。
それは大きな新聞広告の優位性だと思うんですね。そこに新聞や新聞広告の生き残る道はあると思っているのですが、それはとにかく経済状況が落ち着くまでは見えてこないでしょう。それまで踏ん張れるかどうか、ということかもしれません。
投稿: mb101bold | 2010年2月27日 (土) 22:57