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2010年2月 5日 (金)

パッケージングの問題

 パーソナル領域のデジタル技術が成熟してきて、見えてきた問題があるように思います。

 読書という体験に関しても、いまだ試行錯誤中だと言えどもデジタルでほぼ再現できるようになってきました。映像に関しても、YouTubeでみんなが楽しんでいます。子供を持つ親から聞く話では、テレビでアンパンマンを見ながら「パパ、今のもう1回見る」なんて言うそうです。生まれたときからパソコンがある環境で育った子供たちは、YouTube的な見たいときに何度も好きな映像を見られるということがネイティブになってきているようです。

 アナログのレコードがCDになったとき、音楽ファンからはこんな話がでました。

 「ジャケットが小さくなるのがさびしいよねえ。」

 もちろん、それよりももっとあったのは、圧縮されたデジタルデータだから音質が悪くなるというような話でしたが、質がいいのに越したことはないけれど、日常の生活においては、多少の質の劣化は、便利とのかけひきにおいて我慢できるような部分があるように思います。その道のプロにとっては由々しき問題ではあると思いますが、それはそれとして、使い手は便利をとるのが人間の道理のように思えます。

 写植文化もそうだったし、デジタルカメラもそう。時間の経過で、テクノロジーが漸近線的にその差を埋めていきます。今や、編集はほぼDTPになってしまいました。きっと、今話題のデジタル書籍についてもそうなると思いますし、映像もそうなるでしょう。

 そんなデジタルの流れの中で、質の問題よりも、もっと本質的につきつけられている問題があるように思います。それは、パッケージングの問題です。

 デジタル書籍に関して、大きな問題がひとつあるとすれば、デジタル化によって、あの紙が束ねられ製本された「書籍」というパッケージングを失うということなのだろうと思います。商品が独立した商品であるための要件としては、じつはパッケージングという要素が重要です。ブログと書籍の違いは、社会的な要件を無視して、あくまで物性だけで言えば、パッケージングの違いです。ブログにとってのパッケージングは、このブログを閲覧しているパソコンやケータイがパッケージングになります。だから、同じパッケージングの中で、他のブログやコメント、トラックバック、その他サイトからの言及というつながりを得るのですが、そのメリットは、書籍という独立したパッケージングを捨てることで得られたものなのだろうな、と思います。

 先の音楽ファンの「ジャケットが小さくなるのがさびしい」という感想は、商品としての音楽にとっては、結構本質的だったのではないかな、と思うようになりました。これは、パーソナルなデジタル技術の成熟によって見えてきた、商品というものの本質だったのかもしれません。

 コンビニに行くと棚にガムが並んでいます。言ってみれば、デジタル化が進む究極の状態というのは、透明なビニール袋にキシリトールやクロレッツ、キシリッシュが粒のまま入っていて提供されるような状態であるとも言えます。コンビニでは、そんな状況も進行しつつあります。100円均一のお菓子なんかがそうです。でも、今は、中身のお菓子の形態が個性的なものばかりのようです。つまり、商品自体が個性的にパッケージングされているものばかり。消費者にとっては、パッケージがなくても、そのお菓子の独立した個性がすぐにわかるようなお菓子が、同じパッケージで同列に売られている状態なので、それほど気にはなりませんが、あの状態は、じつはコンビニというアナログな空間に表れたデジタル化の状態と言えるのではないでしょうか。

 文字というのは、どちらかというとガムに近いものです。どの文章も文字の羅列であり、一目見ただけでは違いはよくわかりません。つまり、「書籍」というものが商品であるためには、よりパッケージングの助けを求めるものであると言えそうです。

 これから進みそうな、「書籍」のデジタル化は、このパッケージングの問題が大きな問題として表れてくるのだろうな、と私は見ています。また、デジタル化の進展によって、世の中がパッケージングはなくてもかまわないという流れであることと、現在の広告の状況はリンクしているように思います。商品やブランドにとって、広告もひとつのパッケージングだからです。

 KindleやiPadが今後苦戦するとすれば、そういう人間の感覚におけるパッケージングの役割に対してなんだろうなと思います。人は、どこまでパッケージングなしで大丈夫なのか。それとも、新しいパッケージングをデジタル機器がつくることができるのか。また、紙の書籍で言えば、物理的に切り離したパッケージングができる、「書籍」というテクノロジーのすごさにどこまで意識的になれるのか、ということなのだろうなと思います。それは、広告も同じで、広告をパッケージングとして考える視点は、これまで以上に重要になってくるように思います。

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パソコン・インターネット」カテゴリの記事

コメント

“包装”には心を感じます。心を表現の一つにデザインも生まれたと思います。デザインは、心遣いです。
デジタル化が進み、コミュニケーションの形態が変化している今、パーソナルな世界観の心遣いは、不要というより使えなくなっちゃった。でも、人の本質として心遣いというものを失わなければ、きっとデジタルな世界でも、パーソナルな世界と同じように、デザインの表現ができるはずだと信じたいなぁ。

投稿: たか | 2010年2月 5日 (金) 10:44

こんにちは。
最初に働いた会社は音楽CD制作会社でした。
10数年前ですから、音楽配信とかが噂されつつも、CD全盛、OLのカラオケ用にシングル売る時代でした。
カラオケ辺りから「パッケージング」の枠が外れてきて、歌えればいいじゃん、という形に移行してました。
ちょっと面白い音楽を作っていたプロデューサーは、そういうところを横目に見つつ「でもやっぱパッケージングで、インチキなもの売るのがこの商売でしょ?」と明確に言い切ってました。デザインや販促なども、面白いことをやっていました。
それから時代は変わって、おそらくそうしたパッケージングにこだわるマーケットは確実に縮小しました。難しいのが、こうしたポジショニングは、一定の質が高いので、関わっていた人はどうしてもパッケージレスに移行できない。
なんとなく、書籍とかファッションとか食とか新聞なんかで同じことが起きているのかな、と思っています。
そのうち、雇用とか教育にも同じような動きが及んでくるのかもしれません。
アートなんかはパッケージングにこだわってないとありがたみがないのでしょうが、初めっからパッケージレスなんてありえない、という姿勢にも、なんだか違和感があります。
パッケージングの世界で小さな村ができて、そこだけで閉じたルールでやっている、というのだけは、ご勘弁だなあと思うのです。
広告って、先日の言葉にありましたように「半歩後」で、謙虚に、パッケージレスにも対応していく。そんなスタンスなんでしょうか。

投稿: mistral | 2010年2月 5日 (金) 12:07

とっても大事な視点ですね。
iTunes MSでジャケット付きを配信し始めたのが
ひとつの参考になるかもしれません。
ただ、CDはパッケージ商品として流通しているので
そういったハイブリッドも可能なのかと。
究極、単なる書籍コンテンツになった場合、
書籍の表紙をどこまでつくるのか、
っていうことにもなりますね。
ちなみに、最近の若者はジャケ買いってしたこと
ないらしいです。

投稿: suprejetter | 2010年2月 5日 (金) 15:28

>たかさん

きっとデザインそのものの本質は変わらないとは思いますし、そのあたりのことは私は信じています。でも、そういう心遣いとしてのデザインで物理的なパッケージングを代替できるのかというのがまずありますよね。もちろん、考えられる未来としては、どこかのレベルでノンパッケージとパッケージが均衡するというのもあります。そのとき、デザインとか広告は、そのどちらも射程に入れないといけないんだろうな、なんて考えています。

>mistralさん

広告とかプロモーションを含めて過剰なパッケージングというのはあったんだろうな、とも思いますね。一時的によくても、その過剰はいつかまるごとクラッシュしてしまうんですよね。それが今の状況なのかもしれません。
>広告って、先日の言葉にありましたように「半歩後」で、謙虚に、パッケージレスにも対応していく。そんなスタンスなんでしょうか。
そうかもしれません。私はそういう意味で、「広告の終焉」なんてことは、これっぽっちも信じてないんですよね。まずは小さな村を出よう、みたいなことは大事なんでしょうね。ほんとそう思います。

>superjetterさん

「ジャケ買い」はもうないというのは、考えてみればそうかもですね。このエントリの言及トラックバックを別のエントリでもらったのですが(きっと間違いかな)、「CDは中身だけリッピングして、ジャケットは捨てるものです。」http://ameblo.jp/kimurasatoru/entry-10451156716.htmlという感覚も、ちょっとさみしくはあるけれどわかる気もするんですよね。
と同時に、こういうノンパッケージで手軽に中身を届けられるというのは、ブログツールと同じように表出の敷居を下げたということも言えるし、難しいところですね。物としてのCDや書籍を前提にしないデジタルコンテンツのパッケージングは、なんか別のアイデアがいりそうです。

投稿: mb101bold | 2010年2月 6日 (土) 00:55

つながる、それはエコ
というコピーを掲げているNTT東日本のCMがありますね。新垣さんが出演していてかわいいことこの上ないのですが、そのCMの中では、デジタルカタログなどのサービスが、ペーパーレスにつながり、つまりエコロジーだと言っています。そのCMの伝えたいメッセージというかビジョンは、とても簡潔で聡明な感じがします。
パッケージングって、デジタルじゃなくてアナログの商品、ものとしての存在の「淵」って感じます。たとえばDVDとか、その商品を手にしているって実感したくて、パッケージを手にしたくて、近くに置いておきたくて買うのかも。そういう感覚だから、特典映像が30分だとか90分だとかは大きな違いではないのかも。最近は映画のセルDVDにはメイキングから、はてには別のエンディングが収録されています。それはまぁ、作品のエンタメ性として別問題な気もしますが。

投稿: jim | 2010年2月 6日 (土) 10:47

パッケージングはそのままコストになりますから、商品単体で見れば、デジタルによるノンパッケージングはエコにはなりますよね。で、コストがかからないということは販売価格が下がるということで、販売価格が商品価値と近似的だとすれば、表層的には商品としての価値は下がる(語弊はありますけどね)ということになってしまいます。
その商品価値が下がるという現象は、アナログ商品との比較においては優位として考えられますが、デジタル単独では単純な商品価値の低下となりますので、つまりはそのままそのジャンルの価値の低下、すなわちジャンルの衰退にもつながります。そこを補完するのが多様性、ロングテールというモデルで、そういう状況が今進行中なんだろうな、と。
俯瞰的に見ると、そんな感じなんでしょうね。

投稿: mb101bold | 2010年2月 6日 (土) 12:48

こんにちは。
私がかつていた業界を含め、パッケージにあれこれサービスをつけていた。それを供給側は付加価値だと思っていたが、それは顧客にとっては本質的な価値ではないことが多く、不要なコストを「抱き合わせ」で売りつけられていた。
これが現在「そんなもん要ら~ん」という選択肢が可能となったら、ほとんどの顧客はパッケージの付加価値を不要と判断するようになってきた。
供給側としては「抱き合わせによる」利益はあてにできなくなった分、ロングテールによって販売を確保することが可能となった。
で、ここで思うのは、ロングテールというのは、「その国なりコミュニティの民度」が影響するのかな、ということです。
欧米って階級が日本より明確で、知識人はそれらしい顔をしたがるし庶民は相応の消費でよしとしていて、比較的ロングテールになじんでいるような気がします。庶民は高級ブランドを買わない分、本を読んだり菜園をやったりしている。新聞はキオスクで買う。本は高いが買う人は買う。
日本の消費って、成熟し始めてはいるものの、どこか「メディアに煽ってほしい」「横並びしたい」欲求があるような気がしています。
案外、ロングテールが成立せず、マーケットや商品自体が淘汰されてしまう可能性もあるのかな、と思ったりするのですが、どうでしょうか?

追記:「ジャケ買いしない」のは寂しい気もしますが、個別にはジャケットと密接な関係を築いているバンドもいるし、その人たち次第で自由度が増したのかな?
(アジアン・カンフージェネレーションと中村佑介さんの関係を見ていると、僕らがやってきたジャケットと音の関係より、一歩先に行っている気がしますし、ファンもそこに関与しているので、全体的には成立しなくなっても、個々にはしっかりできているのかもしれません。)

長文失礼しました。

投稿: mistral | 2010年2月 8日 (月) 17:38

「民度」と言っていいのかはわからないけれど、その「民度」の向上にインターネットが果たしている役割っていうのは大きいんでしょうね。少なくともリンク、シェア、フラットというインターネットの理念は、簡単に言えば、どんなひともみんなに必要な知識にアクセスできますよ、ということだから。その理念を下支えするのがフリーという理念で、だからこそ付加価値であるところのパッケージングを省略する方向に、そのシステムが促進しているように思います。
ロングテールは日本でもすでに成立しているように私は感じています。ただ、それがお金になっているかどうかは疑問だし、それは欧米含めてすべての世界で同時進行している感じもするんですよね。YouTubeのあの音楽の多様性は、合法、違法を含めてロングテールとしか言いようがないもの。でも、それは有志が無料で提供しているんですよね。だから、多かれ少なかれ、既存のマーケットや商品を淘汰するように機能してしまうんでしょう。
よく、インターネットでは情報は基本的には無料であると言われるけれど、基本的には情報は無料であるはずはないわけで、じつは、その感覚は「情報のパッケージング」に関係しているような気がしています。パッケージングに関しては、インターネットでは情報を享受する側がすでにお金を払っているんですよね。つまり、それはプロバイダ料であり、パソコン。オレたちはすでにお金払って用意しているよね、ということ。この感覚は、これからの情報コンテンツにとっては相当な強敵だと思います。
インターネットでの直販で勝負するアーチストたちは、きっとファンとの関係性という、無形のパッケージングがなされている気がするんですよね。だからこそ、それがノンパッケージの音楽ファイルだとしても、きちんとお金を払おうと思えるのではないかな、と考えています。でも、この方法は、一歩先行くものであると同時に、いつの世の中でも基本中の基本としてずっとあったんでしょうね。プリミティブなパッケージングの姿というか。
それとともに、音楽は、一度手にしたら、ステレオセットやPC、シリコンオーディオなど、観賞するときはコンテンツに対するコンテナを柔軟に変える種類のコンテンツだから、ノンパッケージに最もなじみやすいでしょうね。心の納得感はかなり高いような気がします。現に、本格的なクラシックファンの人たちは、すでにCDではなく、非圧縮のオーディオファイルに移行してますしね。
それに比べて、やっぱり文字コンテンツは難しいですよね。どんな状況でも書籍というコンテナで観賞しますし、だから、音楽だとダビング(今だとCDに焼く)だけど、本は本を貸すになるんですよね。

投稿: mb101bold | 2010年2月 9日 (火) 00:48

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