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2010年2月28日 (日)

「そうは問屋が卸さない」考

 普段何気なく使う「そうは問屋が卸さない」という言葉。これって、言う方も言われる方も、かなり強度が高い言葉のように思います。

 英語では何と言うのかな、というと、対応する訳語がありませんでした。意味から翻訳しているようです。You are expecting too much.とかThings don't work that well in the real world.とか。そないにうまいこといくかいな、という感じです。

 言う立場で考えてみると、「そんな自分に都合のいいことばかり言ってからに。そんなことでうまくいくのだったら苦労はしないよ。」みたいな気持ちがあって、とどめの決め台詞として使われることが多いように思います。その気分は、これまでの時代がつくってきた規範や価値観を根拠にしているような気がします。

 言われる立場で考えてみると、「そうか。そこまで言うなら、何が何でも実現してみせるからな。」みたいな気分になります。この気分は、時代や価値観、規範の変化を根拠にしていることも多いようです。

 まあ、どちらの立場に立ってみても、この言葉を使ってしまったり、使われてしまったりする状況はあまりいい状況ではないように思いますので、できれば使わずにいたいものだなあ、なんてことを思います。つまり、すごく不快指数が高くて、やな言葉のような気が。それを言っちゃあ、あるいは、言われちゃおしまいよ、な感じがするんですよね。

 意味は「そんなに甘くないよ」ということですが、「そうは問屋が卸さない」という「問屋」という流通システムを比喩として語ってるところが、表現として強いし、ゆえに嫌らしくもあるんでしょうね。

 この言葉は、そんな安値では問屋は卸してくれない、ということから来ているようです。つまり、そんな目論みでは、そもそも問屋が商品を卸してくれないから、商売がはじめられないよ、ということ。

 この10年を考えてみると、こうした問屋的なシステムをどんどん省略していこうとしてきた10年だったような気がします。そういう問屋的システムが完全になくなるとは思わないけれど、必然のない問屋的システムはなくなる方向にあるのは間違いはないし、そういう意味では、「そうは問屋が卸さない」という言葉は、やがて死語になっていくのかもしれません。

 この話の展開だと、そういう中抜きシステムがうんぬんかんぬん、既得権益がどうたらこうたら、時代は変わった、さあ、新しい時代へ、という感じになりそうですが、そういう展開は得意な人にまかせるとして、そもそもこの「そうは問屋が卸さない」という言葉は、先の英語で言えば、real world、つまり現実はそう甘くないということで、その甘くない現実を「問屋」で表現していたところがナイスだったわけですよね。つまり、この問屋的システムが弱くなっても、現実が甘くなったとは言えないわけで、依然として現実は厳しいわけですよね。

 この現実の厳しさを「問屋」で表現するということが、時代の変化とともにナイスでもなくなってきた今、「問屋」の変わりに何を入れればいいのかな、というのが私は気になります。

 個人的には、「現実はそう甘くないよね」という言葉で十分だと思いますが、この「問屋」の変わりに何があるのかということを無理矢理考えたとき、「問屋」というクッションがなくなって、直接送り手と受け手が結ばれるわけだから、やっぱり、受け手の集合という意味で「世間」ということなるのかな。

 つまり、「それは世間が許さない」なんですよね。いい悪いはともかく、これは今も有効な感じがしますし、ますますそういう感じが強くなってきている気もしますね。究極的にはその通りだとは思うし、道理とか原理とか言われているものは、科学に求めるしかないわけで、社会的な事象で言えば、その科学の根拠は、人の心だったりするから。でも、表層的にこの言葉が適用される状況や、この「世間」というものが狭く適用される状況を考えると、ありゃま、ずいぶん後退してしまったなあ、とも。

 まあ、こういう後退と感じられるのは、今が過渡期で、いろんなシステムが混乱期にあるということに求められるのでしょうが、でも、何でも過渡期で済ませられる気も。過渡期をマジックワードにしちゃいけないとは思うものの、でもやっぱり過渡期ではあるしなあ。

 繰り返しになってしまいますが、私としては、こういう言葉を使ったり使われたりする状況には陥りたくないなあ、という感じです。こういう状況に身を置かないためなら、じゃまくさいことをいくらでもしますよ、いくらでもねちねち考えつづけますよ、説明させていただきますよ。そんな感じです。

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コメント

次の時代は「そうは問屋がおろさなかったんだけど...」となるのか、「それではロングテールでも売れませんよ」なのかわかりませんが、「問屋」のテンションが失われてしまいますね。
「問屋」のもつ情報力とか交渉力とか編集性に変わるものがちょっと今見つからない。
でも「現実は甘くない」という言い方そのものが通用しないというか。
案外通用するのは僕ら側ではなくて、「非現実的」と思っている若い人たちだったりするのだろうな、とここでも弱気になってしまいます。

投稿: mistral | 2010年3月 1日 (月) 12:29

「それではロングテールでも売れませんよ」はきつい言葉ですねえ。言われたら立ち直れなさそう。
確かに「問屋」の交渉力や編集性は代替するものがなさそうです。いわゆる目利きなんでしょうけど、それは今、流れとしてはコンシューマーということになっていますが、それは個なので、また編集がいるんですよね。CGMがその編集を実現するとは言われていますが、若い人たちはそこに幻想を見ないだろうから、おっしゃるように「そうは問屋が卸さない」の新しい表現をつくるのは彼らなのかもしれませんね。

投稿: mb101bold | 2010年3月 1日 (月) 23:21

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