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2010年3月の11件の記事

2010年3月29日 (月)

ん、ほんとに、そうなん?

 てな表現が持つ感情のニュアンスは、「ん」という文字が確立されてなかったら、表現するのはちょっと難しかったんでしょうね。きっと、このような言い方は、時代時代で言い方は違えど、話し言葉ではずっと前からあったんでしょうが、それを書くための文字というものが発明されなければ書けないわけで、それを考えただけでも「ん」という文字の表現力はすごいもんだなあ、と。

 私は、ブログでは話し言葉で書くことが多いけど、たくさんの「ん」を利用することで可能になっていると思うし、いろいろな発音の「ん」を「ん」のひと文字で代用するという簡便化があったからこそ、これだけ広まったということもあって、「ん」の謎ときが示唆するものって、じつは様々なことに応用可能なことなんだろうとも思ったりしました。

 「ん」というのは、しりとりで負けになっちゃうような、普段はあまり有り難みがわかりにくい奴ではあるけれど、結構、いい仕事をするもんだなあ。数学でも、虚数の発見で格段に世界が豊かになったとも言うし、いろんな分野の「ん」みたいなものを発見したりつくりだしたりしていくことは、結構大切なことなんだろうな、と思ったり。

 なんかへんな読み方だけど、もうちょいがんばってみようかな、なんて思ったなあ。日本語の話だけど、読み方によっては、きっと、いろいろな分野の人たちにいろいろな示唆があると思うんですよね。

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2010年3月26日 (金)

んー

 んー、おもしろかったなあ。

 何気なく本屋さんで手に取った新書で、ずっと鞄の中で眠ったままだったんですよね。タイトルが面白そうだなあ、なんて感じで、他の本とあわせて買いました。この手の本って、買ったこと自体忘れちゃうんですよねえ。でも、電車に乗って、なんか読みたいなあと思って、鞄を開くと、この本しか入ってなくて、でもって読み出したら、もう止まらない、止まらない。

 本の名前は、『ん 日本語最後の謎に挑む』です。新潮新書から出ています。著者は、大東文化大学准教授で中国及び日本の文献学がご専門の山口謠司さん。山口さんはマルチな活躍をされていて、林望さんのファンの方だと、イラストレーターとしてご存知の方も多いかと思います。

 冒頭に、こんなエピソードが出てきます。

 ところで、唐突ではあるが、筆者の妻はフランス人である。彼女は日本の伝統文化に対して深い興味があるというタイプのフランス人ではなく、結婚してから日本にやって来て、日々の生活のなかで日本語を習得した。そのため日常生活の会話ができる程度の日本語力しかない。
 その妻が、時々、イヤな顔をして筆者に言うことがある。
「そういう音、出さないでくれる」
 彼女が「出さないでくれる」という音は、筆者が何かを考えていたり、どう応えていいか分からずに「んー」という返事をする時の声である。

 この山口さんの奥さまの反応にはどのような理由があるんだろう。その謎に、いろいろな角度から、あの手この手で迫っていきます。空海、最澄、紀貫之、清少納言、本居宣長、幸田露伴。まさに、オールスターキャスト。

 この本には、日々使っている書き言葉や話言葉を考えるうえで、いろいろな示唆があって、それはまたいつか書きたいなあ、と思いますが、今は解説なんかより、ただただ読んでみてください、というしか書くことないよなあ、と思うくらい、エンターテイメントとしても面白かったです。まるで、よくできたテレビ番組みたいな、そんな面白さがあります。というより、もともと本が持つおもしろさって、本来はこういうことで、その論法をテレビが模倣した、というのが順序で言えば正しいんでしょうけどね。

 きっと、編集の方と山口さんの関係が絶妙なんでしょうね。本書に出てくる言葉で言えば、「阿吽の呼吸」。

「あっ、その‘ん’についてのお話、おもしろいですねえ。山口さん、今度、その切り口で、一冊書いてみませんか。」
「えっ、‘ん’をテーマにしてですか。んー…」
「あっ、こめんなさい。やっぱり、ちょっと無理がありますか。」
「いやいや、それ、すごくおもしろい!」

 みたいな、会話を想像してしまいました。この本が示す、日本語における「ん」の役割って、つまりはこういうことなんですよね。私も、わりと「ん」をよく使うほうですが、その理由がよくわかりました。それと、「だ・である」が苦手なわけも。

 ほんと、久しぶりに新書らしい新書を読んだ気がしました。最近は、新書は、脱稿から出版までの速度が速くなって、長文ブログという感じのものも多いけれど、もともとは、文庫に対する新書というのは、こういうおもしろさを提供するものだったんだろうなあ、なんてことを思いました。

 おすすめです。

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2010年3月25日 (木)

「つぶやき」と訳したのがよかったのかもね。

 検索してみると、わりと既出のことなので、またかよとか今さらとか思われそうですが、まあいいや。

 今や、Twitterは、「クチコミ戦隊つぶやくんジャー」というバラエティ番組もありますし、一般的にも「つぶやきツール」なんて言われたり、すっかりTwitterと言えば「つぶやき」という感じになっていますが、Twitterや、Twitterへの投稿を意味するTweetって、英語の語感で言えば、日本語で言うところの「つぶやく」とか「つぶやき」とはちょっとニュアンスが違うんですね。

 で、Yahoo!辞書(プログレッシブ英和中辞典 第4版)で調べてみると、twitterはこんな感じ。

twitter

[動](自)
1 〈鳥が〉さえずる((away))(▼「チ, チ, チ」という断続的な鳴き声に用いる);〈人が〉(…のことを)ぺちゃくちゃしゃべる, しゃべりまくる((on, away/about ...));くすくす笑う.
2 (興奮などで)身震いする;どきどきする.
━━(他)〈鳥などが〉… をさえずって表す;〈人が〉…をさえずるように言う.
━━[名]
1 [U]((the twitter ))さえずり;おしゃべり(の声);くすくす笑い.
2 興奮, 身震い
    ・be all of [be in] a twitter
  ぞくぞく[そわそわ]して.
3 ((米俗))警察の手入れ.

 その投稿を意味するtweet(英語圏ではtweetsと複数形で表現するとのこと)は、こんな感じです。

tweet

[名](小鳥の)さえずり声.
━━[動] (自)さえずる.

 まあ、チチチとかピーチクパーチクとかいった「小鳥のさえずり」ですね。そのニュアンスを忠実に訳すなら、きっと「おしゃべり」でしょうね。ちなみに、高音用スピーカーをツイーター(tweeter)と言いますが、これは上記のtweetから来ているとのこと。

 ということは、Twitterというサービスは、わりとあっけらかんとしたコミュニケーションを指向しているということですね。英語圏の人は、このネーミングから、みんなでワイワイ、ぺちゃくちゃと話すというようなイメージを感じていたはず。「つぶやき」という言葉から来るイメージとはちょっと違います。

 サービスがはじまった当初のキャッチフレーズは、こうでした。
 

   What are you doing?

 
 日本語で言えば、「今、何してる?」という感じですね。Buzz(このBuzzって、蜂のブンブンという羽の音のこと)的な、気軽で前向きなコミュニケーションの指向性を感じますね。これも、相手に語りかけるという意味では「つぶやき」とは違います。

 で、今の英語版のキャッチフレーズは、こうなってます。
 

4_3

   Share and discover what’s happening
   right now, anywhere in the world.

    See what people are saying about…

 
 うまく訳せませんが、直訳で言えば「世界中のいろんなところで、たった今何が起っているかを共有しよう、発見しよう。みんなが何を話しているか、見てみる…」という感じでしょうか。それが、日本語版ではこうなります。
 

2_3

   あなたの今を共有して、
   ツイッターで世界の出来事を知ろう

    みなさんが何をつぶやいているか見てみよう

 
 英語では、tweetではなくsayが使われ、そのsayが日本語では「つぶやく」と訳され、みたいな関係です。まあ、tweetはsayの比喩表現でもあるから、地の文としてはsayになるでしょうね。それが、日本語では「話す、話しかける」とか「おしゃべりする」とかではなく「つぶやく」となっていて、これは既に「Twitter=つぶやく」という構図が出来上がっているということも多分にあるでしょうけど、この「つぶやき」というキーワードは、とても日本語圏のユーザーに受け入れられやすい言葉のような気がします。

 say、つまり「話す」という行為は、必ず相手が必要な概念です。一方の「つぶやき」は相手がいらない言葉で、そこがよかったんでしょうね。最終的には、「コミュニケーションを楽しむ」という同じベネフィットがあるにしても、その導入では、英語圏と日本語圏ではちょっと切り口が違うんですよね。日本では、まず自分。内省的。これは、日本語圏のユーザーが内省的というわけではなく、導入において「さあ、楽しいコミュニケーションを」といくと、まず入り口でつまずくということ。心理的な敷居が高すぎるんです。

 日本語版の訳は、英語の元の文とは少し意味が違っていますね。このあたりは、すごく興味深いです。英語の元の文が、shareとdiscoverが同列なのに対して、日本語ではshareすればdiscoverできるという関係になっています。少し啓蒙的です。shareしなけりゃ、discoverなんてできないんだよ、という感じ。

 これも文化の違いなんでしょうね。日本では、shareという概念は、どうしても身内の中でのshareという概念になりがち。でも、Googleなんかが代表的ですが、いわゆるWeb2.0的な文脈のshareは、コミュニティ内のシェアではなく、もっとソーシャルに広く、言ってしまえば、ウェブのすべてに広がるshareです。ここでは、前者のshareと後者のshareは、じつは対立概念になります。この少しばかり啓蒙的な日本語の言い回しには、もしかすると、そんな日本人スタッフの思いも少し入っているのかもしれませんね。

 第一次Twitterブームの時、ミニブログという文脈で語られて、なんだかよくわかりませんでした。それが、字数制限から、「書く」とか「話す」じゃなく「つぶやく」みたいなキーワードが出て来て、このサービスの魅力が、日本語圏のユーザーに理解しやすくなったような気がします。

 今のTwitterブームの前にリリースされた、はてなのミニブログサービスのネーミングは「はてなハイク」です。こちらは、ユーザー層が少し違いますが、それなりに賑わっているようです。そのネーミングも、同じような気分を感じます。「つぶやき」も「ハイク」も内省的。その、ポンと投げ出された内省の言葉が、誰かにピックアップされて、小さなコミュニケーションが始まって、そこからつながりができて、みたいな流れ。

 結果的には、どちらのサービスもワイワイと楽しいコミュ二ケーションの場になっていますが、それを伝えるには、ストレートじゃないし、ちょっとじゃまくさい感じだけど、こういう順を追った解釈が日本人にはなじみやすいんでしょうね。(このあたり、外資的なベネフィットステートメントの日本市場での限界と関係があるような気もします。そのあたりは、また別の機会に。)

 とまあ、Twitter関連のあれこれをブログにたらたら書く私ですが、私はTwtterユーザーではないんですよね。といっても、よく見ていたりはするし、気になってはいるんですけど、でも、ブログだけで精一杯だし、どうもタイプとしてはブログが合っているような感じでもあるし、時間もないし、余裕ができたら、でも、やっぱり、やったらやったで、私の場合、グダグダかもなあ、という感じです。なんだか投稿も久しぶりだし、せっかくなんで、これまで書いたTwitter関連エントリも置いておきますね。

 ではでは。

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2010年3月18日 (木)

radiko.jpで、AMラジオが息を吹き返すかも

Radiko

 
 関東と関西の民放AM局、FM局が参加するサイマルラジオ「radiko.jp」が始まりましたね。今は試験配信とのことですが、はてなブックマークでも2000を超えるブックマークを集めていたり(参照)、Twitterで多くの人につぶやかれたり、久々の大型の話題になっているようです。

 ただし、現在のところ放送エリア以外の場所では聴けません。放送エリア以外では下のような画面が表示されてしまいます。

Radiko_out

 ラジオ好きのネットユーザーとしては、例えば、関東在住の人が関西のラジオを聴きたいというニーズはあるだろうし、サイマルラジオなら、当然そこを期待してしまうのですが、それは、まあ大人の事情ということですね。そこまで急速に時代は変わらない、ということかもしれません。

 このradiko.jpがこれまでのインターネットラジオやポッドキャストと決定的に違うのは、民放のAM、FMの放送コンテンツが、CMも含めて何ひとつ省略されず、タイムテーブルもそのままにインターネットで再現されるという点。これは、日本の放送史でも歴史に残る出来事ではないでしょうか。

 ラジオCMがいい感じで耳に入ってきます。ラジオを聴いている感覚そのままなんですよね。いつもは能動的に接しているネットで、ラジオというメディアの「受動性」が当たり前のように実現されてしまっていることに、少しばかり驚いています。考えてみると、まあラジオを聴いているのだから当たり前ではあるのですが、それでも、こんなに簡単に実現されてしまうんだなあ、という感覚がありますね。ほんの少し前まで、楽曲やタレントなどの権利がからむCM素材は、自社のウェブサイトにさえ掲載できなかったんですよね。なんか感慨深いです。

 何度か聴いてみた感想としては、まずは音がいいこと。これはかなり新鮮でした。これもまた、理屈としては、そりゃそうだろうということなんですが、AMとFMが音質的にほとんど違いがないんですよね。となると、コンテンツはAMの方がネットにはなじみやすい気がします。このradiko.jpは、もしかするとAMラジオ復権のトリガーになるかもしれないなあ。最近はFMも音楽ばかりでなく、AM的なトーク中心のコンテンツづくりをしているようですが、その傾向に拍車がかかるのかも。

 というより、ラジオメディアの衰退って、もしかするとハード、つまり受信機の問題だったんじゃないかな、と思いました。つまり、ラジオ受信機というハードがもはや時代に合わなくなってきた、というような。考えてみると、そりゃそうだろって話ですが、こうしてあらためて、こういう状況を突きつけられると分かりやすくなりますね。結構、単純な問題だったのかも。

 ずいぶん前に、AMラジオの復活のためには、Appleに陳情してでもいいから、iPodにAMラジオチューナーを付けてもらうべきなんじゃないか、みたいなことを書いたのですが、そんなこんなもradiko.jpで一発解決。これは見事なもんだなあ、と思いました。

 私はAMラジオが好きだし、AMラジオを聴きながら他の用事をする習慣があるから、家に帰ると、まずラジオをつけて、つけっぱなしにしていることが多いけど、たとえばネットをやっているときに、わざわざラジオをつける、という行為は、簡単に思えて、結構敷居が高いのだろうと思います。ネットなんかでも、1クリック行程が増えるだけで、ユーザーが半減と言われているのに。それに、今どき、ラジオ受信機を持っていない人や、防災用にしまっている人は多いでしょうし。

 ラジオというメディアは、ターゲティング的には、自動車を運転する人や商店や町工場で働いている人のメディアとされてきましたが、このradiko.jpで、もしかするとその認識が変わるのかもしれません。

 ラジオやテレビというメディアは、いずれはこういう感じになっていくんでしょうね。汎用的には、すべてPCで、という感じになって、ちゃんと観たいときは高画質のテレビ受信機、自動車に乗っていたりして、ネット環境にないときはラジオ受信機、という棲み分け。で、PCで提供されるコンテンツとして、テレビ、ラジオのコンテンツをとらえたとき、お金がかかっているだけに、もともと優位性はかなりあるんですよね。

 それにしても、民放ラジオ各局は思い切りましたね。NHKオンデマンドや日経電子版など、従来からのマスメディアの新しい試みが続きましたが、これは、ひさびさ、当たるかもと思いました。あとは、地方局がどう判断するか、ということですね。一応、建前としては、都会の難聴取解消のためということですが、PCでラジオを聴きたいというニーズは、地方でも同様にあると思います。この流れは、早い段階で全国に広がりそうな感じがします。

 エリア制限解禁は、いろいろ難しい課題をクリアしないといけないのでしょうが、ユーザーのニーズは、確実にエリア制限解禁の方向にあるので(今、TBSラジオを聴いていたら、雨上がりの宮迫さんが「radikoで全国のみなさんが聴けるようになったんですよ」と話していました。これは間違った情報ですが、まあ、一般のニーズはそういうことですよね。)、地方局はいろいろと頭が痛いのでしょうね。このあたり、なんとかならないんでしょうか。理想論としては、その地方に住む人が聴きたくなるような魅力的なコンテンツの提供ということですが、現実はそうもいかないでしょうし。

 放送の使命としては、全国津々浦々平等に享受できるように、というものがあるにもかかわらず、これまでの放送インフラでは、いまだに実現できずにいます。でも、ネットを使えば、いとも簡単に解消できてしまうんですよね。それで万々歳と言えばそうでもなくて、そのことが地方の独自性を阻害する結果を生み出すことにもなってしまいます。それが時代の流れだよ、冷たく言い放つこともできると思うけれど、どこかに無邪気によろこべない気持ちも私の中にはありますし、現在のエリア制限は、その過渡期での現実的な解であるような気もしています。なんか、もやもやはするけれど。

 なんか自分の中には、矛盾した2つの気持ちがありますね。どちらも本音だけれど、そのどちらにも完全にはいけないもどかしさがあります。やっぱり、「ぬかるみの世界」とか「ヤンタン」とか「サタデーバチョン」とか、関西ローカルAM局の深夜放送を聴いて育ってきましたしねえ。その矛盾を一気に解決するブレイクスルーはないものでしょうかねえ。

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2010年3月17日 (水)

さんざん

 ちょっと疲れてるし、元気をつけなきゃなあ、でもまあ、今頃食べると太るよなあ、なんてうだうだと自分会議を開きつつ、とある定食屋さんに。遅い晩飯。ちょっと贅沢しようと、焼魚定食に豚汁、納豆、生卵をつけたりして。

 もそもそと箸をすすめて、豚汁のお椀に手を添えたら、あっ、やっちゃた。

 そこらじゅうに豚汁の汁やら、人参やら、ごぼうやら、大根やら、こんにゃくやら、里芋やらが飛び散って、マンモス西に。

 「うどん野郎!」
 「わ…わいはあかん…だめな男や…」

 うどんじゃないし、豚汁だし、具だくさんだし、ジョーに殴られたわけでもないけど、なぜか、そんな台詞が頭の中のFM局でヘビーローテーション。どんだけ「あしたのジョー」が好きやねん、とツッコミを入れる間もなく、鞄にどんどん汁気がしみていく。

 席の近くにお客さんがいなかったからよかったものの、それでも店には客がいて、あのサラリーマンの人、疲れてるんだろうなあ、わかるよその気持ち的な視線がとっても痛い。

 すぐに店員さんがかけつけて、鞄についた豚汁を布巾で拭いてくれたりして。ありがたいなあ、今どき親切だなあ、と思う反面、ますます逃げ出したい気分に。いたたまれなくなって、あ、あとは家でやりますので、と言っても、その店員さん、手を休めず、にっこり、大丈夫ですよ、どうぞ、どうぞ、食事の続きをどうぞ、と。

 ふたたび箸をすすめるも、恥ずかしいやら申し訳ないやらで、もはや味もわからず。とりあえず、一刻も早くお店を出ようと、ごはんに納豆、卵をぶっかけて、ざくざくとかっこんでいると、もうひとりの店員さんが、新しい豚汁を。

 あ、結構です、と一応言ってみるも、にっこり笑って、大丈夫です、遠慮せずに、どうぞ、どうぞ、と。そうですか、どうも、どうも、ともう一杯。

 ようやく食べ終え、ごちそうさまでした。

 ありがとうございます、またどうぞ、の声を背中に、豚汁の匂いがする鞄をぶら下げ、ようやく店の外に。ああ、夜風が冷たいなあ、と言いたいところが、今夜は妙に暖かく、生温い都会の風が吹くばかり。だめ、泣きそうかも、大人なのに、おっさんなのに、と思って、わけもわからず走ってみるも、信号が黄色になって、立ち往生。

 信号が青になるのを待ちながら、なんだかなあ、さんざんだったよなあ、でもまあ、店員さんたち、いい人たちだったよなあ、世の中、まだまだ捨てたもんじゃないよなあ、なんてことを考えていたら、今頃、満腹感。

 鞄、朝までに乾くかなあ。

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2010年3月11日 (木)

改札の前で若い女性が泣いていました

 とあるターミナル駅の改札。人の流れから、ほんの少し離れた場所。きっと恋人同士なんでしょうね。若い男女が人ごみにまぎれて、話し込んでいました。結構な人ごみだったのですが、本人たちは、まわりにたくさんの人がいることがまったく見えていないようでした。

 女性が泣いていました。きっと、別れ話か何かをしているのでしょう。

 こういうシーン、改札前で何度か見たことがあります。私もそんなことを改札前でしたかどうかは忘れてしまいました。都合の悪いことは忘れるたちですので。

 改札を通って、電車に揺られながら、どうして改札前なんだろうな、そう言えば、ドラマでは、港とか公園とかで別れ話をしているのをよく見かけるけど、実際に見かけるのはきまって改札前なんだよなあ、なんてぼんやり考えました。

 ひとつの仮説です。

 ほんとは別れ話はしたくなかったんでしょうね。楽しい食事をして、いつものように、じゃあまたね、という感じでいこうと思ったんでしょう。でも、今日はなぜかできなくて、立ち止まって。話しているうちに、別れ話になって、どうしようもなくなって。話が長くなるから、喫茶店で話そう、みたいなわけにもいかないし、でも、もともと、じゃあまたね、という気だったので、そこから離れると、ほんとに別れ話になってしまいそうで。

 話しがこじれて、もうだめなんじゃないかと思っても、心のどこかで、ハッピーエンドを望んでて、だから、涙がこぼれても、人が見てても、そこからは離れたくない。だって、離れたら、別れ話だってことを認めてしまうことになるから。そんな気持ちなのかも。

 あとちょっとしたら桜が咲きますね。

 春は、いろいろはじまる季節でもありますが、いろいろはじまるということは、いろいろ終わるということでもあるんですよね。でもいろいろ終わるから、いろいろはじまるわけで、駅の改札で泣いていた女性がどなたかは存じませんが、あなたにとって、もうすぐ来る春が、いいはじまりになるといいなあ、なんて思いました。 

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2010年3月10日 (水)

いまどき感

 前回のエントリー「そもそもの話として」は、いつもの3倍くらいのアクセスがありました。3月8日のアクセス解析を見てみると、早朝にアクセスが上昇していって、朝8時頃に急激なアクセスの増加。きっかけは、ジャーナリスト佐々木俊尚さんのTwitでした。

よみうり寸評のTwitter批判は、Twitterをやってない人だけに向けて書かれている。読者にTwitterユーザーがいることを想定していない。だから高齢者メディアとか言われちゃうわけだが。 http://bit.ly/aLsDnN 3:25 PM Mar 7th via web
sasakitoshinao
佐々木俊尚
http://twitter.com/sasakitoshinao/status/10141153304

 このブログの記事は、livedoorニュース「BLOGOS」にも編集部のセレクトで配信されることもあって、件のエントリは2日間くらいアクセスランキングの1位だったようです。ブログへの逆流はあまりなたっかようですし、私には「BLOGOS」でどのくらいのアクセスがあったかはわかりませんが、人気サイトに育っているようですし、かなり多くの人に読まれたのでしょう。

 この「BLOGOS」というメディアは、わりと政治系エントリが多く掲載されていて、私の書く記事とは少し雰囲気が違うのですが、今回なぜアクセスが多かったかというと、「BLOGOS」トップページセンターカラムのいちばん上部にある「トピックス」に掲載されていたから。

 こんな感じで紹介されていました。

証明されるマスメディアの影響力
ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
03月08日 09:57掲載

 面白いなあと思ったのは、今回のアクセスが「はてなブックマーク」の人気エントリになったわけでもなく、大手ニュースサイトに取り上げられたわけでもなく、Twitterと「BLOGOS」のトピックスだったということ。

 それは何を意味するかというと、わかりやすく言えばタイトルの扱いの違い。「はてなブックマーク」にしても、ニュースサイトにしてもタイトルは元記事のものが保持されます。で、タイトルの下に感想がつくカタチ。けれども、今回は、「そもそもの話として」という地味なタイトルではなく、第三者の目を通した新しいタイトル、もしくはタイトルとして機能する文章になっていたということ。

 そこがとても面白かったです。いまどき感があるなあ、と思いました。

 そこに介在しているのは、第三者の「批評」という視点なんでしょうね。もちろん、「はてなブックマーク」にしてもニュースサイトにしても、なぜその記事をブックマークしたのか、なぜその記事をセレクトしたのかという「批評」はあるのですが、それが全面に立つ形式ではありませんでした。「はてなブックマーク」なんかは、公共性の観点からタイトルは変更不可になっていますし、あえて個人の「批評」する目を全面に立たないようなしくみにしてあります。ニュースサイも同様ですが、公共性を意識するという観点は、それはそれで、集積的なソーシャルウェブサービスのひとつの見識だと思います。

 そのもう一方の多様性として、Twitterで言えば個人の視点、「BLOGOS」で言えば編集部の視点が全面に立っていくようなしくみが新たに加わってきているという実感を持ちました。今回の件は、現象としてはわりと地味でしたが、結構新しい兆候なのかもしれないなあ、と思っています。

 

※「はてなブックマーク」のヘルプを見ると、一定の条件で変更可とのこと。(参照)ちなみに、独自の要約は不可とのことです。以下、ヘルプからの引用です。

対象のページにタイトルが設定されていない場合や、記事のタイトルが取得できない場合(ブログそのもののタイトルは取得できたが、記事のタイトルが取得できない場合)など、全ユーザーにとってもタイトルが変更されることが望ましいと判断できる場合にのみ変更し、極力オリジナルのタイトルを尊重してください。

タイトルを要約することは一部のユーザーにとっては有益であっても、全ユーザーにとって利益であることはあり得ません。可能な限りオリジナルのタイトルを尊重してください

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2010年3月 8日 (月)

そもそもの話として

 政治家がTwitterを使うようになって、大手新聞がいろいろとTwitterについて言及しています。その中でも3月6日付けの「よみうり寸評」が話題になっていて、はてなブックマークでも多くのコメントが書かれていて、そのほとんどが批判的なようです。Twitterでも批判的な意見が多いようですね。

1)なぜ、こんなものが流行(はや)るのか。
        ↓
2)そう首を傾(かし)げている人は多かろう
        ↓
3)今週話題になったのが原口総務相だ
        ↓
4)1週間前のチリ地震で自ら津波情報をつぶやいて発信。
        ↓
5)水曜日は国会予算委に遅刻したが、
  その間もつぶやいていた
        ↓
6)発言を取り消せない。
  流言飛語が怖い災害時も使えるか。
        ↓
7)気軽につぶやいてもらっては困る時もある。

 という流れの文章です。

 1)2)の導入部分と、6)7)の結論部分の関係を見ると、確かに、Twitterユーザーを中心とする、割合リテラシーが高めのネットユーザーにはイラッとくる文章ではありますが、6)7)の結論だけ見ると、まあそういう考え方もあるかな、というような意見でもありますし、もう少し冷静な文体で、じっくり語れば、ひとつの新しいメディアの可能性とその限界、そして、限界を超えるためにどうすればいいかを考えるきっかけにもなったのだろうな、と思いました。

 「よみうり寸評」は、いささか堅苦しすぎる嫌いがありますが、そういう堅苦しい提言も含めて、いろいろ論議をしたり考えたりする土壌は、Twitterユーザーを中心とした、コアユーザーにはあると思いますし。発言を取り消せない、流言飛語が怖い、というのはTwitterもブログも同じことでしょう。厳密に言えば、それを防ぐすべは、即時性の高いネットメディアの方があるとも言えます。広がる速度も速いけれど。

 本当は、特に公的な人が活用する時に、活用するべきかの是非を含めて、どうバランスをとっていくかが、6)7)の提言が持つ本質的な意味だったのに、なんとなくそれは伝わってこない感じがします。やはり、1)2)の部分が決定的に考えが浅かったのでしょう。さらに言えば、冒頭がもう少し肯定的もしくは中立的に書かれていればなあ、とも思いました。こういう提言は、それこそネットのコアユーザーにこそ問われるべきだとも思うし。

 たぶん、この文章は、きっと紙の新聞を読んでくれる従来の読者を想定にして書かれたものだろうと思うんですね。そこまで限定していなくても、ネットユーザーでTwitterが流行ることに違和感がある、もしくはTwitterというものが何だかわからない層。きっとそこ止まり。

 でも、そもそもの話として、この文章は、Yomiuri Onlineを通して、ネットに即日無料配信されているわけです。その文章を読む対象にTwitterユーザーもいるし、当のYomiuri Online自身もユーザーだったりもします。

 もしネット配信をしない紙限定のメディアであれば、こういう文章展開はありだと思いますし、メディアの存立構造とあまり矛盾もしなかったのだろうと思うんですね。それでも、ネットユーザーから批判はされるかもしれませんが、それはひとつの集団が持つ考えに対して、もうひとつの集団が持つ考えが対立するだけのことです。

 でも、自身が、ネットに無料ニュースサイトを持ち、多くの読者を持ち、さらにそのニュースの告知媒体として「利用者100万人以上」のプラットフォームであるTwitterを活用している。つまり、すでに足を踏み入れている存在なんですね。やはり、この文章は、自己矛盾があるように思えるのです。

 私は、新聞をはじめとするマスメディアなんていらない、とは思いません。むしろ、これからの社会にとっても必要だと思っていますし、どちらかと言うと、6)7)のような、今の流れとは少し違う提言ができるメディアがこれからも世の中にあり続けていくことを望んでいます。

 要は、今、マスメディアが置かれている状況がこういうことだということなんです。それは、マスコミ人が望んだことではないかもしれないし、ビジネス上の要請でそうさせられているのかもしれないけれど、そうであるならば、なおさら、それが社会の必然だとも言えるし、その条件の中で、その自身の社会的意義を維持しつつ、いかにして存続していくのか、ということがマスメディアの今の課題だと思うんですね。

 もちろん、Twitterという新しいプラトフォームに可能性を見いだしている人たちも世の中なら、「なぜこんなものが流行るのか」に「首を傾げている」人たちも世の中で、後者の世の中を取りこぼさないことがマスメディアの使命のひとつだと思います。であるならば、自身の矛盾にも率直に言及することが、後者の人たちに対しての誠実だとも思いました。

 で、「よみうり寸評」がTwitterを取り上げ、Twitterの影響力の大きさを証明してしまったように、こうして、ネットで目にした「よみうり寸評」の短い文章について長々と考えて、ブログに記したりしている私をはじめとする、多くのネットユーザーがマスメディアの力を証明してしまっているわけです。個人的には、その事実をふまえたうえでないと、なにもはじまらないような気がしています。

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2010年3月 7日 (日)

「やまない雨はない」というメッセージ

 テレビドラマ「やまない雨はない」を見ました。

 このドラマは、昭和60年頃に「お天気おじさん」として人気を博したお天気キャスター倉嶋厚さんと妻・泰子さんの夫婦愛、泰子さんが癌で他界することをきっかけに発症したうつ病の闘病を描いた同名の実話エッセイをドラマ化したものです。倉嶋さんは、現在86歳でホームページも運営していらっしゃいます。

 倉嶋厚さんを渡瀬恒彦さん、泰子さんを黒木瞳さんが演じていました。新聞のテレビ欄にもヒューマンドラマと題されているだけあって、全編、人間愛に貫かれていて、ドラマとしても見事だと思いましたが、私がとくに感心したというか、リアルだなあと思ったのは、ドラマ後半のうつ病を発症した倉嶋さんを描いた部分でした。

 うつで抑うつ状態になって歩く渡瀬さんの姿(すごく説明が難しいけれど、ただ落ち込んでいる状態の歩き方ではなく、うつ病や躁鬱病のうつ状態特有の歩き方の特徴がありました。あえて言えば、脳の指令がそこに介在している感じ)や、精神科の入院病棟の様子から、役者さんを含めたスタッフさんたちの、心の病を正しく理解しようとする姿勢が伝わってきました。相当、きめ細かく観察し、いろいろな意見を咀嚼し、考え尽くして演出されたものだろうなと思いました。もちろん、テレビドラマですから限界はあるでしょうし、人によってはこんなものではないという意見もあるかもしれませんが、それでも、なるだけ脚色をしないで伝えようとする意志が画面に表れていたと思いました。

 私はまだ原作のエッセイを読んでいませんが、それは倉嶋さんが伝えたいことのひとつであったと思いますし、その意図をテレビドラマのスタッフさんたちはきちんと受け止めていたように思います。

 渡瀬さん演じる倉嶋さんは、心の病を「心に雨が降る状態」であると言います。そして、精神科の入院病棟を「雨宿り」の場所であると言います。また、少し元気になった岩嶋さんのお見舞いに訪れたテレビプロデューサーが「傷ついた人たちとこれ以上一緒にいることは岩嶋さんにとっていいことではないと思うな」とも言っていて、それを岩嶋さんが「もう少しここにいます」と拒み、立ち去るテレビプロデューサーは「もうあの人は駄目かもしれないな」とつぶやきます。

 結果として、入院しているある女子高生の言葉をきっかけに、発症後、岩嶋さんがはじめて笑い、寛解へと向かうシーンは、いろいろな意味で考えさせられました。(実際は、寛解に向かった後、仕事に復帰し、忙しく日々を過ごしていくうちに、自分の判断で薬を少なくしたり飲まなくなって再発してしまったということです。参照

 ドラマでは、どちらが正しいのかは提示していませんでしたし、きっとどちらも正解なのだろうと思います。でもひとつだけ言えることは、うつ病にしても躁うつ病にしても統合失調症にしても、「心に雨が降る」のが見えるのは本人だけであり、その雨宿りの場所として精神科があるということ。それは心が晴れている状態の人が、晴れている状態を根拠にして、どうこう言えることではないのだろうな、ということです。これは励ましたい当人にとっては無力感があるのですが、でもその原則を無視することから、すべての無理解がはじまるのでしょう。それは、自戒を込めてそう思います。

 「心に雨が降る」という状態は、降る雨を傘をさしながら、もしくは窓から外を見ながら憂鬱になるという状態とは違います。躁うつ病だった中島らもさんは、自身の心の状態を「心が雨漏りする」と表現していました。心の病の多くは、そのきっかけがたとえストレスや悲しい出来事であったとしても、そのことをきっかけにして起る脳内の神経伝達物質の働きの異常によるもので、そこから先は医療の領域です。

 予防に関しても、風邪にならない生活という意味では有効だとは思うけれど、風邪になってしまったら、そこから先は気の持ちようとは言えないし、風邪になったらすぐに病院に行くように、単なる憂鬱ではないなと思ったときにすぐに精神科に行ける状況を作ることは大切だと思います。「心に雨が降る」という表現は、そこのことが感覚的に理解できる言葉ですし、抑うつ状態とうつ病、躁うつ病の違いを知る手がかりにもなります。この感覚は、心の病になっている人を支えるときも、心の病になる可能性を持つ私たち自身に向き合うときにも、大切な感覚だと思っています。

 風邪やインフルエンザと同じくらいには心の病についても知っておくべきなんでしょうね。もちろん、知ったその先には、薬のこととか、精神論や思想・哲学を含めたいろいろな考えが錯綜し、ややこしい党派性があって、それはそれで、学者ではない一般人としてはわけがわからなくはなってしまうんですが。それでも、教養として、知れるだけ知ったほうがいいとは思います。

 とことん知った上での偏見は、それはもう悪意でもあるからしょうがないけど、知らないがゆえの無邪気さは、いちいち指摘はしないけれども、無邪気な明るさがあるだけに、なおさら悲しいなあとも思うし。今回のドラマだって、エンディングがあるドラマだからこそ気付きにくいけれど、その時々でいろいろとあったのだろうなと思います。倉嶋さんもこんなふうにおっしゃっています。明るい感じの言葉ですが、そこには壮絶な葛藤があったのでしょう。

自分でも、とてもこれではどうしようもないなというところまで落ちてしまっていても、やはり精神科に入院するということは、精神的な病であると認めることになるわけで、仕事的にもなにか偏見をもたれたりして支障がでるのではと、その時はそんな不安が広がったのだと思うんです。
UTU-NET 「うつ」を克服した人々 倉嶋 厚さんの体験談

 このドラマが伝えたかったメッセージは、タイトルである「やまない雨はない」が、様々な人たちの支援と、この最後の精神科の入院というエピソードがあって、はじめて言える「やまない雨はない」であるということなのではないかな、と思います。

 

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2010年3月 6日 (土)

E-MOBILEが「予期しない理由で終了」でネットにつながらなかったけど、Googleで調べてすぐに解決、いう一連の流れで思ったこと

 MacBookをAC電源につながずE-MOBILE(D02HW)をつないでいて、そのまま長時間ほったらかしにしていたら、バッテリーが空になってMacBookが終了。AC電源につないで再起動すると、E-MOBILEの接続ユーティリティが作動しなくなってしまいました。

Em

 アイコンをクリックすると、上のアラートが出て、ネットにつなげられなくなって、これは困ったなあと、とりあえず別の手段でネットにつないで、Googleで調べてみました。

 まずこの段階で、なんとなくもやもやした感情が。

 トラブルでネットにつながらなくなったにもかかわらず、その原因を探るのもネットを使って、というのは、なんか気持ちの悪い現象だよなあ、なんて。これは今となってはじまったことではなく、昔からそう。電話線をつないで、@niftyのアクセスポイントに接続して調べるということをやっていました。

 でも、昔は、それでもまだ紙の冊子でアクセスポイントを調べたりしていたので、あいだにネット以外のものを介在させていたので、もやもやは少なかったけど、今は、私の場合、電話サポートとか取り扱い説明書を読み直すということをかっ飛ばして、すべてネットで完結という感じになってしまっています。こういう人は多いとは思うんですが、こうでない人も多いとも思うんですよね。こうでない人は、いろいろ面倒くさいことになってしまいそうです。

 さて、Googleで調べるか、という気になるのも、こういうトラブルは、自分だけに起ったことではなくて、多くの人が遭遇することだろうな、ということの予測がつくからで、予測がつかなければ、Googleで調べるという発想も起きないと思うんですよね。

 まず検索したのが、次のキーワード。

E-MOBILE MacBook 不具合

 でも、このワードでは今回の件についてはヒットしないんですよね。で、何度か試して情報にたどり着いたキーワードは、

D02HW 予期しない原因で終了

 トップに2009年の3月に書かれたブログのエントリがありました。

E-mobile D02HW ユーティリティが「予期しない理由で終了しました」- //Webbabies

 larrabieさん、ありがとうございました。助かりました。larrabieさんも書かれていましたが、Leopardで多く見られる不具合だそうです。こちらにも解決策を書いておきます。システム環境設定にあるネットワークから直接つなぐ方法です。パスワードを入れずに済むので、セキュリティ的には心配な反面、ユーティリティ接続よりも便利ではあります。

[システム環境設定] > [ネットワーク]> [HUAWEI Mobile]

 でもまあ、Googleで調べるにしても、検索語にもちょっとしたコツがいるんですよねえ。できる限り具体的に、かつ、その事例固有の検索語を入力する、みたいな。これは、まあ慣れると別になんということもないけど、ネットをはじめたばかりの人やあまりネットに親しみがないひとにとっては、敷居が高いのだろうな、とも思ったり。

 で、そのあとGoogleで調べてみても、E-MOBILEの接続ユーティリティが「予期しない原因で終了」してしまうことを修復する方法については見当たりませんでした。でも、ユーティリティが使えなくなってもネットにはつながるし、案外、システム環境設定のネットワークから直接接続する方法は便利でもあるし、現実的には何の不都合もないので、この不具合は、解決されずにずっと不具合として残されたまま、という感じなんでしょうね。こういうところのもやもや感もネットならではですね。

 こういう一連の流れを見てみると、ネットがテレビみたいな感じになるのは、もう少し時間がかかるのかもなあ、という気がしますね。というか、今のネット論からは逆行しているかもしれませんが、もしかするとネットはいつまでもスーパーサブのポジションなのかもしれないなあ、なんてことも。特に、最近のモバイルの動向を見ていても思います。

 まあ、ともあれ、E-MOBILEが復帰してよかったです。

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2010年3月 2日 (火)

人が介在することの意義

 とあるブログを見ていて、少し気になったこと。

 そのブログにはGoogleのAdWordsが貼られていて、見ると、ブログの主張とは真逆の広告が表示されていたんですね。それ自体はとりたてて珍しい現象でもなく、ウェブの商業メディアでさえよく見かけることではあるのですが、でもやっぱり、AdWordsを表示しているそのブログを、広告モデルで運営されているひとつのウェブメディアと考えると、きつい現象ではあるなあ、とは思いました。ブログ主さんも嫌だろうなあ。がっかりだろうなあ。

 例えば、ホメオパシーについて批判的な主張のエントリにホメオパシーの広告が表示されていたり。それはいくらなんでもなあ、と少し考え込んでしまいました。

 読者である私は、そんな困った広告が配信されてしまうしくみを知っているから何とも思わないということはあるんです。でも、それは比較的ウェブについての知識があるから、というだけなんですよね。要は、慣らされてしまっているということ。何の知識もなく見れば、やっぱり相当に変。

 紙媒体の雑誌ではあり得ないと思うんですよね。

 広告を選別するプログラムはテキストのワードを認識しているだけで、その内容まで認識しているわけではないのでそういうことが容易に起るわけです。その文章が、その単語が示す題材を肯定しているのか否定しているのかといった価値判断は、コンピューターには荷が重いのかもしれません。当然、その分野の研究開発は今も続いているのでしょうけどね。

 これは、自動化の最大の弱点なのかもしれません。人が介在していれば、そういう広告は、ありえないでしょの一言で拒絶するだろうし、そもそも広告主だって、そんなメディアには出稿はしないはず。人が簡単にやってしまえることが、コンピュータにはかなり難しいことになっていて、なんとなく二足歩行ロボットを連想してしまいました。

 もちろん、ほとんどのケースではうまくいっているとは思うんですね。上手いなあ、その内容でこの広告か、と思う広告もたくさんありますし。でも、広告モデルでのメディア運営を考えたときに、たったひとつのミステイクでも、本来はメディアの存亡にかかわることではあるはずなんです。

 個人メディアであるブログの場合は、個人が手弁当で運営しているということもあるし、個人運営メディアを収益で支えるウェブ広告のテクノロジーが発展途上であることも読み手は十分にわかっているから、まあ今のところしょうがないし、なんかへんな広告が表示されているよなあ、ブログ主さん災難だよなあ、という感じで、メディアとしての信頼が揺らぐというわけではないのですけどね。

 それに私自身、ブログにAmazonのバナーを貼っていて、エントリの内容に関係ない、もしくは矛盾する書籍やCD・DVDがたまに表示されていることもあるから、人のことを言えた立場ではないしね。

 こういう価値判断を含む領域では、どこまでいっても人が介在することに意義があるのでしょう。この先、テクノロジーがどれだけ進んでも、コンピュータには代替できないような気がします。ウェブがもっと一般化して、商業的な部分も含めて、現状の紙メディアとほぼ同等の見られ方をするようになったとき、案外大きな問題となって表れてくるかもしれません。

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