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2010年5月の11件の記事

2010年5月28日 (金)

アップル讃

 私は熱烈なマカー(なんか最近、この言葉使わなくなりましたね)ではないけれども、マックユーザーです。このエントリも、MacBookのブラックで書いてます。テキストエディタはmiです。古参のユーザーだと、ミミカキエディットという名前になじみがあるのでしょうね。軽くていいんですよね。

 iPadが話題になったりして、ついに時価総額でMSを抜いてしまいました。びっくりですね。

米Apple、時価総額全米2位へ - 米MSを抜きIT部門で1位に - マイコミジャーナル

 私は67年生まれで、はじめて触ったマックはLCでした。新卒で入社した、大阪のベーシックデザイン会社に2台ありました。当時はまだDTPなんて言葉もなく、企業ロゴの設計図をデジタル化したり、そんな感じの使い方でした。そのファイルが入ったフロッピーディスクを鍵のついた金庫に入れたりしてたっけなあ。

 それからどんどんマックの台数が増えていって、デザイナー1人につき1台という感じになってきました。でも、社罫や簡単なグラフィックをマックでつくって、それを出力屋さんで印画紙出力して、版下の台紙に貼ったりしてました。印刷、製版は、まだまだ版下。データ入稿が当たり前になるのは、CPUがPowerPCになってからではなかったでしたっけ。

 書体も少なくて、明朝はリュウミン、ゴシックは新ゴくらいしかなくて、mb101とかは写植を頼まないと使えませんでした。代用で、キャッチを新ゴで組まれるのが嫌で嫌で、それが私のハンドルネームにつながっているんですよね。

 今でこそ、無敵のアップルという感じですが、一頃、ずいぶん迷走してましたよね。日本の広告デザイン業界や出版業界は、なぜかアップルがデフォルトになっていて、印刷や製版も当然アップルがデフォルト。あの頃、アップルは日本の広告デザイン業界や出版業界に助けられてたんじゃないでしょうか。

 私は、デザイン事務所から外資系広告会社に転職して、欧米では、そこそこウィンドウズが使われていたりすることをはじめて知りました。欧米ではZipドライブが主流のときも、日本ではMOでしたし、いろいろと面倒なこともたくさんありました。そんな感じの日本の業界だから、ジョブズが復帰して、ようやく念願のOS Xの時代になっても、数年は業界はOS9でした。これは、アップルとしてはイライラしたんだろうなあ。

 Twitterにも書きましたが、今、あらためて読むと感慨深いですよ。読み物としてもなかなかの力作。おすすめです。お暇なときに、一気読み、いかがでしょうか。

アップル インコーポレイテッド - Wikipedia

 いろいろあったんだなあ。順風満帆という感じではまったくなかったんですよね。もしかすると、アップルはキヤノンになっていた可能性もあったんですよね。転機は、iMacだったんでしょうね。iMacがなければ、きっとiPodもiPhoneもなかったし、iPadもなかったんだろうと思います。あそこで、はじめて、パーソナルコンピューターが生活に入っていくんですよね。

 少し前、私はこんなことを書いていました。

 つまり、Appleは(というかジョブスは)、「これからのパーソナルコンピュータはもっと生活に入ってくるよ」と言いたくて「だからこそ、生活を豊かにするフォルムやカラーこそがこれからのパーソナルコンピュータの本質価値なんだよ」と言いたかったのだと思います。もちろん、MacOSの設計思想と技術的達成が担保になっているのは言うまでもありません。

本質価値と付加価値についての覚え書き

 このエントリを書いていたのは1年半ほど前。私は、時価総額でアップルがあのMSを抜くなんて、微塵にも思っていませんでした。いやはやです。脱帽。

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2010年5月27日 (木)

ソーシャルメディアとの距離の取り方

 これからはネットの時代なんだよ。

 そんなふうに語られていた頃は、じつはマスメディアとネットという構図をとりながら、その台詞を口にする人の頭の中では、じつは別の構図が描かれていたんだろうと思います。本当は、マス広告とネット広告という構図ではなく、純広告的アプローチと非純広告的アプローチの構図だったりします。純広告ではなく、タイアップ、コラボレーション、口コミなどなどでうまくやれないか、ということだろうな、と。うまくやれないか、という言葉の意味は、安くやれないか、ということなんでしょう。

 マス広告とネット広告ということなら、わりと話は簡単で単純。不特定多数に広く伝えたいのなら、Yahoo! JAPANなどの大手ポータルサイトのバナー広告なんかは、もはやマス広告と言ってもいいだろうし、ターゲットセグメントで言えば、雑誌に出稿するのも、セグメントされたサイトに出稿するのも、手法的にはほぼ同じであって、それほど頭を悩ませることもないんだろうと思うんです。

 でも、頭を悩ませる部分は、こういう部分ではなくて、ネットにはブログやSNS、Twitterなんかで積極的に情報発信し、コミュニケーションを活発に行う消費者がいて、このかつてなかった環境下で、うまくこれを使えないかな、どうすればいいんだろう、みたいな悩みだったと思うんですね。

 この目の前の新しい環境を使って、タイアップやコラボ、口コミなんかでうまくやれないかな、と。うまくいけば、マスメディアの高い媒体費を節約できるし、そのうえ手法的には未来感もあるし、とてつもない可能性を秘めているはずだよなあ、という感じでしょうか。

 一頃、そういう非純広告熱が高まった時期がありましたが、それなりの成功もあり、その一方で失敗もあり、なんとなく、非純広告手法のだいたいの効果がわかってきた時期が今なのではないでしょうか。ネットの側でも、ネットユーザーに金品を支払って、人為的に口コミを起こすような手法は、Googleのペナルティ措置なんかもあり(参照)、ずいぶん下火になってきました。その一方で、ネットをうまく使っている企業もたくさんありますし、ブログで情報発信して人気を得ている企業もあります。

 その多くは、自らソーシャルメディアに普通の人と同じ目線で参加している企業です。参加しないで、ソーシャルメディアを広告にだけ使うというのは、なかなかうまくいかない、という、考えてみれば、論理的にきわめて当たり前のことが、ようやくわかりはじめてきた、というのが今なんだろうな、という印象を私は持っています。

 ソーシャルメディアは、一方通行の従来メディアではなく、個人単位の発信者が双方向でつながり、集合的になって、はじめて括弧付きの「メディア」としてのボリュームを持ち得たのだから、その中で存在感を得るためには、そこから距離をとって、自らがネタになるか、もしくはその中で個人と同じ単位のひとつになるかしかないわけです。

 つまり、少なくとも原理的には、やるか、やらないか、どちらかしかない。やらないで使う、というのはない。やらない、の場合は、ソーシャルメディアが持つ集合的な感性に適合した情報発信によっていいネタになるということが求められるし(まあ、言い方は身も蓋もないけど、それが私がよく言う表現の問題)、やる、の場合は、わかりやすく言えば、個人と同じように、ソーシャルメディアの住人になる、ということが求められます。

 ローマは一日にしてならず、という言葉もありますが、特に企業ブログなんかは特にそうで、地味な更新の積み重ねが成功の秘訣だったりします。個人ブログだって、毎日おもしろいエントリを書くのは大変。企業ブログなら、なおさらです。おもしろいエントリもあれば、それほどでもないエントリもある。そんな淡々とした積み重ねしかないんですよね。それに、炎上とかもあるかもしれないし。それほど過敏になる必要はないかもしれませんし、普通にやればめったなことではトラブルはないし、トラブルがあっても早めの対処で大丈夫だけど、それでも心配する必要がない、というのは嘘だから。

 これ、個人だったらなんでもないことですが、企業にとっては敷居が高いことかもしれないですね。そんなリスクをとれないですよ、というと、ネットでは、遅れた企業として嘲笑のネタになってしまうことが多いですが、でも組織が大きくなって来たら、気軽な発言は慎むべきだというのは、至極真っ当に理解できます。他の人はともかく、とりあえず私は理解します。

 初期費用は限りなくゼロに近いけれど、そのぶん、じつは敷居は高い。しかも、販促情報の発信だけでは、よほどの人気企業でない限り人気が出ないので、メディア的な価値も持ちにくい。それが、企業におけるソーシャルメディアの活用だと思います。継続は力というけれど、そこには、広告表現のようなプロフェッショナルまかせではないコミュニケーションスキルがある程度は求められますし。

 Twitterが盛り上がって、Twitterのビジネスでの活用が増えてきました。いわゆる企業アカウントですね。気軽にできるというのが、企業参加を即している部分もあるのでしょうね。でもね、ブログなんかよりもっともっとコミュニケーションが活発なTwitterは、企業にとっては、上記の理由から、さらに敷居が高いはずなんです。本気で考えれば、相当に高いはず。

 その部分を理解した上で、ソーシャルメディアとの距離の取り方を考えることは、これからの企業活動では必須になるのではないかな、と私は思っています。みんながやっているから、遅れたくないから、やる、というのではなく、既存メディア(ネットメディア含む)に広告を出稿するよりも、コミュニケーションとしては敷居が高いことを理解して、そのうえで、どこまでやれるのかを考えて、その軸をぶらさずに継続していくことが大切なのではないかな、と思います。

 で、そのことさえ明確にすれば、ソーシャルメディアでの情報発信はそれほど難しいことではないと思います。それは、いくつかの実務経験からも言えることです。もちろん、やらないという判断もありだと思いますし、やらないというスタンスでも、ネットにコミットする方法はいくらでもあるわけですし。その部分で工夫をしていけばいいと思うんです。恥じることはない。それが、ソーシャルメディアがある程度育って来た今の、あるべきスタンスだと私は考えます。

 Twitterから、わりと厳し目の商業利用についてのガイドラインが発表されました。まだ未確定な部分もあることを含めて、「はてなブックマークニュース」がわかりやすかったです。

何ができて何ができない?Twitter、タイムラインへの有料広告挿入禁止へ - はてなブックマークニュース

 まだグレーな部分は多いものの、先のGoogleのPay Per Post(ユーザーに金品を支払い一般ユーザーにブログエントリを書いてもらうこと)へのペナルティと同様のベクトルにあるようです。これは、自社アカウントでの広告ツイートを禁止するものではありませんし、そもそも、販促オンリーのツイートは人気が出にくいだけのことですが、身のあるソーシャルメディアの活用をしようと考える企業の方は、ソーシャルメディアが広告に対して、このような認識を持っていることは知っておいてもいいとは思います。特に、敷居が比較的低い小さな企業は。

 せっかくのソーシャルメディアへの参加です。初期費用はゼロに近くても、継続のもろもろを考えればゼロではありません。短期の成果を急ぐあまり、ソーシャルメディアで嫌がられては本末転倒です。マイナスのブランディングだけは避けたいですよね。そのためにも、どうソーシャルメディアと距離を保ちながら付き合っていくのかを考えることは大切です。めんどくさいけど、そのことをきちんやるのとやらないのとでは、2年後、3年後、ずいぶん違ってくるのだろうな、と思います。

 これは、広告の専門家としてだけではなく、ある程度、ソーシャルメディアで情報発信をしてきた個人ブロガーとして思うことです。ちょっと説教臭いかなあと思いながらも、なにかの気付きになればいいな、と思っています。それに、世のTwitter本は、敷居が高いなんて言わないだろうし、そのあたりは、率直に書けるブログの良さでもあると思いますし。

 ではでは。

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2010年5月22日 (土)

Twitterをはじめて思うこと

 普段からおしゃべりはあまり得意ではないので、あまりつぶやいたりはしていないのですが、それなりに機嫌よくやっています。タイムラインをながめているだけでも楽しいです。なんとなくおだやかな感じ。その感覚は、今までのどのウェブにもなかったもののような気がします。それは、ソーシャルウェブというものの、ひとつの理想のかたちでもあるんでしょうね。

 なぜそうなるか、というと、きっとそれはフォローというシステムのなせる技なのでしょう。私は、はじめた段階から、Twitterで最新情報を入手しようとか、あの人のつぶやきを眺めてみたいとか、あの人と話してみたい、というような感じではなかったので、基本的にはフォローしていただいた方をフォローしてみる、というだけなんですが、だからこそ、なんとなくおだやかな感じがつくられているんだろうな、と思うんですね。

 これは、フォローの仕方によって違う場をつくることもできるということでもあって、たぶん私がフォローしている方々には、また違ったタイムラインが見えているのだろうと思いますし、私のタイムラインから見えるつぶやき以外のTwitterの世界は、それこそ多種多様で、そこには炎上もあるし、論争もあるけれども、それでも、とりあえずはフォローというシステムによって、その人にとって居心地のいい交差点をつくることができる、というのが、Twitterがここまで流行した理由でもあるのでしょう。普通の人が、それなりに心地いいという部分では、今のTwitterは、ちいさなキャズムは超えたのだろうと思います。

 だからといって、タイムラインが、コミュニティ特有の息苦しさを感じさせないのは、140字の制限ということもあるだろうけど、それよりも大きいのは、ひとつひとつのつぶやきに固定リンクが発行されていて、その発言の責任をきっちりと発言者に担保することで、ウェブに開かれているからだなのでしょうね。

 前に、私が『交差点的』というTwitterについての考察を書いたとき、同じタイミングでさとなおさんが『ツイッター「ホコテン」論』という考察を書かれていて、なんか恐縮しながら同じようなことを同じタイミングで考えていたんだなあ、なんて、ちょっとうれしかったのですが、交差点とホコテン、喩えは違えど、どちらも同じなのは、見上げると空があるということ。

 今いる足下はホコ天だったり交差点だったりするけれども、見上げると、そこには天井はなく、同じ空がある。それは、ほんとに社会というものの優れたメタファーになっていると思います。そういう意味では、Twitterは、今のところ、仮想的に社会をつくるというソーシャルウェブとして、最も成功しているウェブサービスのひとつではある、と思うんですね。

 息づかいや表情、体温は、140字のつぶやきから想像するしかないけれども、Twitterにはリアルにはない、場所を飛び越えて人と人をつなぐ、ウェブならではのよさがあって、この新しいコミュニケーション環境は、きっと人のコミュニケーションのあり方を少なからず変えてしまうんでしょうね。

 正直言えば、私は広告人であるけれども、広告人であるがゆえに考えはするけれど、Twitterを広告に活用するということには、ほんとはあまり興味はなくて、それよりも、こうした新しい環境において、広告コミュニケーションはどうあるべきかということに、ずっとずっと興味があります。つまり、手法ではなく、表現の問題です。その意味では、いわゆる次世代広告人ではないのでしょうね。

 私のタイムラインに流れてきたleoponmuraさんのつぶやきに、こんな言葉がありました。

世の中では、身近なとこでもいろんなことが行われてて、いろんな人がいろんなとこでつながってるんだなぁ、とTLを見てて思う。素晴らしいなぁ。
http://twitter.com/leoponmura/status/14441259238

 そうですよね。ほんとそう思います。夜中に、Twitterのタイムラインを眺めて、ほんの少しのやりとりをし、そこで思ったことを、こうしてブログに書き記す。そのすべては、固定リンクによって、そのすべてが、世の中に開かれ、つながっている。そんな新しい社会は、人の心をどう変えていくのでしょうか。その中で、変わらないものは何なのでしょうか。

 愚直ではあるけれど、そのことを考え続けるしかないのだろうと思います。これまでうまくいったことが、そう簡単にうまくいかなくなる、ということは、それに気付きつつあった数年前とは違って、もうすでに現象としてあらわれていて、もう、気付かないふりはできないんだろうな、と思います。

 それは、とってもきついなあ、と最近思います。そんなこと考えなけれなよかったなあ、と思うこともあります。でもまあ、心の奥では、世の中、そんなに甘くはないし、原理的には絶対に逃げ切れないだろうという思いもありますけどね。まあ、こんなブログを始めた時点で、考えるに決まっていたわけで、一度考えてしまったからには、考え続けないといけないんでしょうね。因果なものだなあ、とは思うけれど。

 と同時に、最近は、ま、なんとかなるでしょ、とも思ったりもするんですけどね。

 
 Twitter関連エントリ:

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2010年5月17日 (月)

それでも私はジャズが好き

 ジャズピアニストのハンク・ジョーンズさんが亡くなりました。91歳でした。私は学生時代からエバンス、エバンス言っていたので、オールドスタイルの安定感があるプレイスタイルはもの足りなく思っていて、それほど聴き込んだわけでもありませんが、なんか最近、すごくよく思えてきたんですよね。いいんですよね。ジャズジャイアントですから。落ち着けるし、安心できるし。最近は、食わず嫌いがなくなってきたようです。

 好みにかかわらず、いいものはいい。そう思えるようになってきました。歳のせいかな。

 アドリブに続き、スイングジャーナルも休刊とのことです。なんか残念です。とは言え、最近は、どちらの雑誌も購入してなかったので、偉そうなことは言えませんが。ジャズとフュージョンみたいな区分けも無意味になってきたし、アドリブの扱っていた領域はスイングジャーナルで扱うのかな、と思っていたら、このニュース。63年の歴史に幕、とのこと。

 スイングジャーナルで検索してみると、Wikipediaに項目がないんですよね。それが、今のジャズが置かれている状況なんでしょうね。さみしいですけど。

 でもね、駅前で若い人がジャズを演奏しているのを見ることが多くなって来ているような気もするんですよね。私は、大学時代はモダンジャズ研究会で、ベースを弾いていたんですが、あんなに上手に弾けなかったものなあ。最近の若い人は上手いです。レパートリーも、Oleoをやると思ったら、Spainをやったり、いいものはなんでも吸収というところが今どきな感じ。ルパン三世のテーマなんかもやったりして、お客さんも結構楽しそうに聴いていたり。それに、お客さんも幅広いのがいいなあ、と思います。

 ジャズという音楽は、ほんとは聴く人を選ばないんですよね。ま、ボーカルものもあるけど、多くはインストルメンタルだから言語に縛られないし、やる曲は世界の誰もが一度は聴いたことがあるスタンダードナンバーだしね。

 そう言えば、私の大学時代の友人に、ジャズをやってる男がいて、今日、ライブがあったんですよね。私は、残念ながら行けなかったんですが、行きたかったなあ。フュージョンバンドでピアノを弾いてます。

 彼とは一緒にCMをつくったりもしました。いろいろ作ったけど、中でも、アウディのラジオCMは面白かったなあ。

 ピアノトリオのインプロビゼーション。ピアノ、ドラム、ベースを別々のチャンネルで録音して、それぞれの音を順に流すんですね。ピアノだけ、ドラムだけ、ベースだけ、そんな単体楽器の奏でる音は、わけのわからない音なんですが、それを合わせて流すと、ほら、見事な音楽に、というような企画です。様々な分野の最先端テクノロジーの融合で高次元の世界へ、みたいなメッセージ。結構長い間使ってもらえたんですよね。新作がつくれないのは商売的には残念でしたけど、制作者としてはちょっとうれしかったりもしました。

 あのときのプロデューサーは、もういないんですよね。ほんと、言葉ではいい表せないくらいお世話になりました。あっちで元気でやってるかなあ。

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2010年5月16日 (日)

Goodbye iPad

 前回、「Thoughts on Flash vs Freedom of choice」というFlashを巡るAppleとAdobeの応酬についてのエントリを書きました。あのあとぼんやりと考えたことなどを、ゆるゆると。ま、休日なんで、コーヒーでも飲みながらゆるめに書いてみたいと思います。

 Flashを巡る事柄については、ほんとまあいろいろと複雑な事情を含んでいるものよなあ、という感想を持ちました。Flashで優れたアプリを作っているクリエイターの立場で考えれば、バカヤローAppleだろうし、Adobeが言うように、少なくともクリエイターやユーザーに「Freedom of choice(選択の自由)」くらいは提供するのが筋ってもんじゃないの、という気持ちにもなります。一方、Appleの立場に立てば、ジョブスの声明の結びに尽きるんでしょうね。

New open standards created in the mobile era, such as HTML5, will win on mobile devices (and PCs too). Perhaps Adobe should focus more on creating great HTML5 tools for the future, and less on criticizing Apple for leaving the past behind.

HTML5のようなモバイルの時代に作られた新しいオープンスタンダードこそが、モバイルデバイスにおける(そしてPCにおいても)勝者になるでしょう。Adobeは未来のために素晴らしいHTML5ツールの開発に注力し、過去を振り切り、未来へと歩みを進めるAppleへの批判をやめるべきなのです。

 かなり強い決意なんですよね。この結びに至るまでに、「オレたちは、10年前からOS Xをつくっているのに、お前さん方がCocoaに完全に対応したのは2週間前だぜ。これはさあ、メジャーなサードパーティーの中でもいちばん遅いんだよ。」というような、Adobeへの不信感が滔々と語られていて、かなり腹に据えかねているご様子。AdobeのCSは、軽いソフトでもないし、高機能かつ高額だし、ユーザーも多いし、影響力は計り知れません。ソフトウェアのせいでOS Xって駄目よね、と言われるのは、もうごめんだよ、という感じだったんでしょうかね。その二の舞だけは、iPhone OSでは絶対に避けたい、というような。

 特にiPadは未来のデバイスというイメージですし。この製品自体は、なにもAppleの新しいアイデアでもなんでもなくて、ずっと前からタブレットPCはあったし、であればこそ、無理矢理、PC用OSのタブレットPCアレンジ版を走らせることによって、もっさりと使いにくかったタブレットPCの辿った道を繰り返したくないし、「なんでもできる」は、非力なモバイルデバイスにおいては「なにもできない」と同じだ、というのは、Windows CEやPalm OSなんかのパームサイズPCの長い歴史が教えてくれた教訓でもありますしね。

 こういう文脈で考えると、「WE LOVE CHOICE. WE LOVE APPLE.」というメッセージは、やっぱりちょっと詰めが甘かったかもなあ。言葉は悪いけど、女に愛想を尽かされて三行半をつかされた男が、「それでもおまえを愛している」と言っているのと同じだものなあ。まあ、FlashやAcrobatは、クロスプラットフォームの旗手ですし、その恩恵もユーザーとしてずいぶん享受してきたので、そう言いたくなるAdobeの気持ちは痛いほどわかりますけどね。

 でもまあ、女は彼女だけではないわけで、モバイルデバイスはiPadだけではないわけです。そう考えると、本当に言うべきメッセージは「WE LOVE CHOICE. WE LOVE APPLE.」ではなかったのかもしれませんね。もしかすると、こういう感じのほうがよかったのかも。
 

Goodbye iPad


 いっそのこと、こちらからさよならを言ってみる。こちらはさよならをしたくはなかったんだけどね、というニュアンスをボディコピーに込めて。そんな感じです。で、じっくりと腰を据えて、Flashのパフォーマンスやクロスプラットフォームの考え方を訴求し、Flashを使ってくれるユーザーたちととともに進化を重ね、Flashを搭載してくれるデバイスたちの中で、そのパフォーマンスやクロスプラットフォームの実力を見せつけて、Appleに「やっぱり搭載しないとやばいよなあ」、と思わせて、最終的にこんなふうに言えるようになるという感じ。
 

Hello (again) iPad


 どうでしょう。やっぱり、これは理想論なんでしょうかね。でもまあ、広告的にジョブスの声明に対抗するには、こういうことしかないような気がします。もしくは、沈黙するか。まあ、どっちにしても、Adobeにとっては相当に難しい局面であることは間違いがなさそうです。

 

※ For example, although Mac OS X has been shipping for almost 10 years now, Adobe just adopted it fully (Cocoa) two weeks ago when they shipped CS5. Adobe was the last major third party developer to fully adopt Mac OS X.

 追記:

 Twitterのタイムラインを眺めていたら、TumbrのURLが紹介されていました。

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And Apple’s response:

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Adobe’s new ad and apple’s response.

 青いのは、OS Xで、デバイスが認識しないことを表す「?」のついた青いブロックのピースのアイコンです。これは、きっとApple公式のものではなくて、誰かがつくったものだと思うんですが、やりますねえ。おもしろいことを考える人がいるもんですねえ。ちょっと毒がありすぎのような気がしますが、いい意味でも悪い意味でも今のAppleの人柄を表現していて、かなり秀逸。参りました。

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2010年5月14日 (金)

Thoughts on Flash vs Freedom of choice

 どっちが正しいのかはよくわかりませんが、久しぶりに興奮しました。広告が届きにくくなったとか言うけどね、極限まで突き詰められたメッセージであれば届くんですよ。やっぱりね、広告っていうのはメッセージなんですよ。

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 まずは、Appleのスティーブ・ジョブズが署名入りでウェブサイト上で表明。

1_3

http://www.apple.com/hotnews/thoughts-on-flash/

 これを広告かと言えば、少し微妙なところがあるけれど、でもまあ、広告を「広告主が管理可能なメディアを通して広く社会にメッセージを伝える行為である」と定義すれば、これはまぎれもなく広告。というか、こういうのこそが広告。日本語訳はこちら("Thoughts on Flash"(日本語訳) - Kenichi Maehashi's Blog)。

 で、このジョブズの表明に対してAdobeが反応。wired.comなどのIT系ニュースサイトのバナー広告でこんな広告を出稿しました。今、クリックするとバナー広告が掲載されています。(2011年5月11日現在)

Weloveapple_3

 同内容の新聞広告も出稿されたそうです(シリコンバレー地方版 - Adobeが新聞に一面広告「WE LOVE APPLE」)。そのコピーには、こうあります。

WE LOVE APPLE

We love creativity
We love innovation
We love apps
We love the web
We love Flash
We love our 3 million developers
We love healthy competition
We love touch screens
We love our Open Screen Project partners
We love HTML5
We love authoring code only once
We love all devices
We love all platforms

What we don't love is anybody taking away your freedom to choose what you create, how you create it, and what you experience on the web.

Adobe

 ウェブサイトでは、「Freedom of choice」と題したページが。ブラウザ上には「Flash and Creative  Freedom | Adobe」とあります。

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http://www.adobe.com/choice/

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 日本で言えば、こんな事例があります。ニッカがサントリーのイメージ広告戦略を批判するような文脈で、自身のウィスキーの製法について新聞全面を使って滔々と語る「ウィスキーは、ノンフィクションで語りたい。」という広告を掲載。対して、サントリーが中上健次さんの掌編小説を掲載した「イメージのない酒は、退屈だ。」という広告を出稿するんですね。

 いいでしょ。こういう喧嘩、いいですよね。オンタイムで見ていて、いいなあ、こんな応酬、やってみたいなあと思いました。もっとやれやれ、という感じで見てました。で、同業者として、少し嫉妬もしました。

 AppleとAdobeのケースは、これだけメディアが多様化して、情報がかたちを変えながら拡散していく今の時代においても、広告的手法がまだまだ有効であることを示しているんでしょうね。但し、逆に言えば、ここまで切迫しないと、パブリシティや口コミだけでなく、広告さらに限定して言えばAdvertisingが得意とするところの「コントーラブルなメッセージの伝達」の必要に迫られない、ということでもあるんでしょうね。

 Flashに関する件では、もはや、情報が変質しやすいパブリティや口コミにまかせるだけでは駄目だ、という危機感というか動機がきっと両者にあったのだと思います。

 ●    ●

 広告的手法が有効である領域は、今の時代は、かなり限定的になってきていると思います。ニッカとサントリーの例は、かれこれ20年近く前の事例ですが、もうそんな牧歌的な時代はやってこないと思います。だけどそれは、あの頃にはなかった新しい広告コミュニケーションを生み出すことができる、ということでもありますし、限定的と言えども、こうした事例を目の当たりにすると、へばってばかりはいられないな、と。

 しかし、AppleとAdobeはどっちの言い分が正しいんでしょうね。両者のメッセージを読むと、どちらも説得力がありますし。この問題、ほんとよくわからないです。それに、私、WILLCOME 03使ってて、Windows Mobileだったりするしなあ。完全に蚊帳の外。時代に取り残されてしまった感がありますね。ちょっと前までは最先端だったのになあ。

 嗚呼、ドッグイヤー。

 ●    ●

 追記:

 この問題は、わりと専門外の事柄なので、ほんとのところはよくわかっていないんですが、これまで、ニュースやブログなんかで見聞きした時は、最近のAppleって少し横暴だよなあ、という印象を持っていましたが、今回のジョブズの「Thoughts on Flash」とAdbeの「Freedom of choice」を読み比べると、Appleのほうが説得力が少しあるかな、とも思いました。

 やはり、Adobeのキャンペーンって、ジョブズというかAppleの質問にきちんと応えずに、話をずらしている気がしました。所謂、情に訴える、というか。モバイルデバイスの消費電力の問題や、HTML5やH.264に関しする事項については、華麗にスルーという感じ。

 まあ、こういうやり取りは、反論ではなく、当方の言い分(ここで言えば、Flashがリッチかつ圧倒的なユーザーを持っていること)とを述べればいい、ということはあるのでしょうけど、そうなると、相当のシェアを持ってるiPhoneや話題のiPadと言えど、一メーカーの製品にすぎないわけで、単純に言えば、Flashを搭載しなければ、あなた不利ですよ、市場競争に勝てませんよ、ということに過ぎないような気が。

 でも、そういう一メーカーの単なる一製品の問題にすぎないとは言えないということなのかもしれません。Appleは、モバイル分野でMSやGoogleのような存在になりつつある、というか、ほとんどなっているということかも。

 ま、それは、とりあえず置いておいて。

 構図的には、Appleの真正面からの批判に対して、Adobeがレトリックで返している感じにどうしても見えてしまいます。その意味では、Adobeは、メッセージの突き詰め方が、Appleより甘いというか、メッセージのクリエイティブにおいて、少し劣るような気が。その足りない部分を「I LOVE APPLE」というレトリックのクリエイティブに追わせている感じに思えます。

 それは、広告に対する考え方の新旧という構図、つまり、メッセージ vs レトリックの構図にも見えてきて、いろいろと考えさせられます。

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2010年5月12日 (水)

青空の美しさは雲の影がつくっている

 撮影で、たまに雲待ちをすることがある。それはなぜかと言うと、たいがいの場合、曇り空が撮りたいからではなくて、いい青空を撮りたいから。雲のない青空は、メディアに通すと青空に見えにくい。

 青空の美しさは雲の影がつくっている。ダイヤモンドが輝いてみえるのも、光の屈折でできる影の部分があるからだし、金色を平面で表現するのも単色では無理。

 影の力は白黒にすればよくわかる。青空には雲がいるし、雲は濃淡があってはじめて雲に見える。逆に言えば、影さえしっかり表現できれば、ダイアモンドもゴールドも白黒でも線数が多少足りなくても、それなりに表現できてしまう。宝石のモノクロ写真を人は偽物だとは言わない。

 今のメディア環境の変化から導かれる新しい広告コミュニケーションやブランディングは、つきつめると、影の部分が重要なんだ、ということでもあるのだと思う。それは、ことさら影を強調することではなくて、きっと、影を存在から消去してはいけないということ。

 「ゆるさ」の中には影がある。入り込む。にじみ出る。「ゆるさ」をあらかじめ設計するという言葉は、きっと過渡期の言葉だ。なぜなら、「ゆるさ」を持ち合わせた姿は、普段の私たちと同じだから。
 

 関連:「表現の問題」についての覚え書き

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2010年5月10日 (月)

「春一番コンサート」と音楽の未来

 

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 毎年、ゴールデンウィーク中の1日は「春一番コンサート」に出かけています。今年は、5月2日に出かけました。もとともは、コピーライターの先輩(参照)に誘われたことがきっかけでした。「春一番コンサート」は、今年で25回目。コンサートの概要は、Wikipediaがわかりやすかったので、冒頭の部分を引用します。通称「春一(はるいち)」は、こんなコンサートです。

春一番 (コンサート)(はるいちばん)は、1971年から、福岡風太阿部登らが中心になって、関西を中心としたミュージシャンを集めて、大阪の天王寺公園野外音楽堂で5月のゴールデンウィークに開催した大規模な野外コンサート。フォークソング、ロック、ジャズなど、ジャンルにこだわらないコンサートとして親しまれている。

1979 年まで続き、裏方スタッフが業界人となり、一時中断となったが、阪神淡路大震災の起きた1995年から再開し、現在に至っている。コンサートを続ける理由を福岡風太は「死んだからや、渡が。それだけや」と語っている。

春一番(コンサート) - Wikipedia

 ここに書かれている「渡」というのは、高田渡さんのこと。高田渡さんの演奏を生ではじめて見たのもこのコンサートでした。それまで、福岡風太さんは毎年「今年で春一やめる。」とおっしゃっていて、毎年、ゴールデンウィークが近づくたびに今年はあるのかな、と思っていたことを思い出します。

 高田渡さんと言えば、いつも春一では出番が早かったです。大御所なのに、すごく早いんです。春一は午前11時開場で、午後7時前に終わるのですが、いつも出番が12時前後でした。なぜかというと、出番が遅いと酔いつぶれてしまうから。演奏が終わると、高田渡さんはビールが入った紙コップを片手に、客席や芝生席をふらふら歩いておられました。すごく機嫌が良さそうな顔で、いろんな人に声をかけられながら、楽しく飲んでおられました。

 高田渡さんが亡くなってから、もう5年になるんですね。時が経つのは早いです。若い時から長老のような風貌でしたが、56歳だったんですよね。若いです。若すぎます。

 ●    ●

 「春一番コンサート」には、スポンサーはまったくついていないんですね。普通、野外ロックフェスとかは冠がつきますが、この春一には、そんな冠がありません。ゴールデンウィークと言えど日中は暑いです。ビールが売れるし、清涼飲料水も売れますよね。だから、飲料メーカーの協賛とかありそうですよね。でも、協賛も一切なし。地元のテレビ局、ラジオ局も協賛してません。

 あえて協賛なしでやっているのか。詳しいことはわかりませんが、見たことろでは、あえて、という肩肘張った雰囲気はないようです。風太さんに聞いたわけではありませんが、きっと「協賛に頼っていたら、協賛がなくなったら終わってしまうやん。それに、いろいろじゃまくさいこともあるしなあ。」みたいなことなんじゃないでしょうか。

 そのかわり、この春一には、関西のライブハウスのマスターたちが大集合します。東京や名古屋のライブハウスのマスターも芝生席にちらほら。

 「おお、久しぶりやね。元気にしてた?」

 そんな言葉を掛け合って、芝生席でお手製のおつまみをつまみながらビールや焼酎、バーボン、日本酒などを飲んでおられます。まわりには、ライブハウスの常連さんたち。

 だったら、きっと排他的な雰囲気なんじゃないの?

 そう思った人も多いでしょう。でも、そんなことはまったくなくて、家族連れの人、恋人同士、友達、ご夫婦も方もたくさんいますし、ひとりの人もたくさんいます。ここ数年は、関西ではゴールデンウィークの恒例イベントになってきましたので、あっさりと音楽を楽しんでいる普通のお客さんも増えたように思いますし、ある意味、メジャー系の野外ロックフェスやフォークフェスよりも自由な感じがあるかもしれません。

 それは、登場するアーチストによるものもあるかもしれません。天王寺野音時代からの、これぞ春一という方々はもちろん、若手ミュージシャンもたくさん出ますし、ブルースあり、フォークあり、カントリーあり、ロックあり、ジャズあり、お笑いあり、民謡あり、なんでもありのコンサートです。だから、特定のコアなファンだけが盛り上がるなんてこともありません。

 それに、ベテランが早めに出てきたり、演奏の順番も、わりと順不同。これがまたいいんですよね。

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 今回、よかったなあと思ったのは、「桜川唯丸一座」という河内音頭のグループ。ドラム、ベース、ギター、ブラス&ホーンという、ソウル風の編成での演奏で盛り上がりました。バックの「スターダスト河内」という若いダンスグループもパワフルでとってもよかったです。河内音頭は、こういう機会でもないとなかなか生で聴けないですよね。お祭りなんかでは聴けるかもしれませんが、そういう場ではなく、ブルースやフォーク、ロックと一緒のステージで演奏することはとても意味があることだと思います。

 若い人が、踊りながら盛り上がっていました。ほんと、それは素晴らしい光景でした。

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 写真を見ていただいたらわかると思うんですが(クリックで拡大)、ステージがとても簡素なんですね。写真は、遠藤ミチロウさん演奏の時のものですが、アンプも置きっぱなしで、ステージがある、遠藤さんが歌う、お客さんが聴く、ただそれだけ。でも、こういうコンサートを見たからこそ思うんですが、それ以外に何がいるんだとも思うんですよね。それでいいじゃないか、と。

 こういう簡素なステージだから、ステージチェンジがとても早いんです。多くのアーチストはギター1本、ピアノ1台の弾き語りですし、バンドであっても、アンプにつないで音出して、すぐに演奏。ドラムは2台あって、それをみんなで使います。日本を代表するスーパードラマーも、若手のドラマーも、同じドラムを使います。こういうところも、素敵だなあと思うんですね。多くのアーチストが演奏できるということは、若手にチャンスが回ってくるということでもあります。こういうことは、ほんと大事だと思うんです。

 お客さんも自由にうろうろ歩き回っています。私もうろうろ歩きました。お気に入りのアーチストが登場すると、客席を立って、前に繰り出す人も。だからといって、騒いでわやくちゃになるわけでもなく、大人の分別もきちんとあって、会場全体が音楽に対するリスペクトにあふれているというか。

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 そうでした。音楽の未来です。

 ここ最近、CDが売れなかったりするそうです。これは日本だけでなく世界的な傾向みたいで、相当な大物アーチストでも苦戦しているようです。これは、構造的な要因もありますし、ここ最近の不況のせいでもあります。

 レコードが生まれ、歌謡曲の時代からニューミュージックへ。そして、ジャンルがどんどん細分化されていって、ついにCDが売れない時代になってしまいました。これは、あらゆる消費についての傾向と同じ構造です。

 でも、今回、「春一番コンサート」を見て、そこに未来を見たような気がしたんですね。これまでは、どちらかというと、天王寺野音時代の「春一」や伝説のウッドストック的なノスタルジーだったのが正直なところだったんですが、今回は未来が見えました。きっと、時代が春一に追いついたのでしょう。

 春一に出ているアーチストたちの多くは、メジャーレーベルからCDは出していないけれど、小さなライブハウスでコアなファンに支えられています。そのひとつひとつの集合は、音楽の細分化そのものです。それは、コアであるけれど、コアであるがゆえにマスにはならない。あえてマスという言葉を使いましたが、音楽にもよりますが、ひとつの音楽が前提とするマスのサイズは、ライブという条件で縛れば、本当は5000人前後なのだろうと思います。

 細分化して、コアなファンに支えられること。きっとそれは、それぞれのアーチストの音楽活動におけるベースなのだろうと思います。でも、それだけでは閉じてしまうし、開くためには、やはり5000人規模のマスが必要になります。

 「春一番コンサート」は、そんな、それぞれのコアな音楽シーンを結びつけるマスになっているのだと思うんですね。しかも、もっともプリミティブな「ライブ」というかたちで、マスに提示している。ノンジャンルで5日間ぶっ通しで聴かせるシステムは、今、最も未来に近い音楽流通の姿を見せてくれている気がします。ブルースもロックもフォークもソウルもジャズも、垣根なくフラットにつなげてしまうノンジャンルであれば、マスになるんです。できるんです。

 このかたちは、福岡風太さんは嫌がるかもしれないけれど、ある意味でウェブ的なんですよね。音楽が広がる、という一点において、古典的であるけれど未来的な音楽流通の姿。点としてのブログやTwitterがあり、それをつなぐ、はてなブックマークのようなCGMサイトがある。そんなイメージ。

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 そう言えば、第一期の「春一番コンサート」が終わったのが1979年。あの80年代の消費の狂乱に春一はなかった。そして、1995年、春一復活。それは、これからの音楽流通が進む道を暗示しているようにさえ思えます。

 空白の15年に福岡風太さんは、様々なノウハウやアーチストとのつながりをたくさん蓄えて、今、「春一番コンサート」として、音楽を愛する人たちに示してくれている。それは、本当にありがたいことだと思います。このノウハウが若い人に引き継がれ、広がって、大阪だけでなく全国で「春一番コンサート」のようなノンジャンル音楽イベントができてくれればいいと思うんですよね。そういう動きは、今、確かにあるし、そこは本当に希望なんだと思います。

 それは、あえて言えば、既存のマーケティングからの決別でもあると思うんですね。既存のマーケティングが得意としていた、精密なターゲティングと囲い込みの否定とも言えます。

 閉じるのではなく、つなげる、開く。そこが、ほんと未来だと、そんなふうに思うんです。そして、これは音楽だけの話ではないような気も、私はしています。

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2010年5月 7日 (金)

「表現の問題」についての覚え書き

 このブログでは、アンチテーゼとして「表現の問題」という言葉をよく使ってきました。文脈は、広告コミュニケーションにおいて、想定するテーゼは「手法の問題」です。

 「表現の問題」と言い始めた頃は、私はあまりウェブの仕事をしていませんでした。それでも、いくつかの仕事はしていて、印象に残ったもので言えば、Yahoo!トップページ右上のバナー(今よりずっと小さかった)でテレビCMをできる限り小さなファイルにすることで、ナローバンドでもなめらかに動くようにした仕事があります。4、5年ほど前の話です。

 これは広告としては大成功でした。Yahoo!の媒体資料に事例としてしばらく出ていたんじゃないでしょうか。アイデアとしては、パラパラ漫画のようだったナローバンドのバナー広告がまるでテレビCMのようになめらかに動く。ただそれだけ。白ホリゾンで撮影した白色が多いCMだったから可能だったんですね。出演者も有名人ではありませんでしたし、音も流れませんでした。でも、ナローバンドで映像が流れれば、いけると思いました。それは、ある種の確信がありました。

 手法としては、単なるバナー広告。しかも、Yahoo!。しかも、CM連動。当時としてもまったく新しくなかった。王道中の王道。要するに、ここで決め手になったのは「ナローバンドで動画を」という「表現」なんです。(あと、本旨とは関係ないですが、エクスパンドレクタングルのような特殊なアクションがある広告ではなく、広告がコンテンツの邪魔をしないカタチでの表現の差別化というのは大きなポイントでした。)

 でも、これは、あの時代だからこその過渡期の事例です。今、同じことをやっても通用はしないと思います。だから、これはちょっと昔の自慢話にすぎないかもしれません。

 あれから、ウェブを取り巻く環境は相当変わりました。でも、この変化を、所謂、メディアの変化ととらえると、何かを取り違えるように私は思っているんですね。メディアの変化ととらえると、問題は「手法」ということになります。もちろん、こういう捉え方もありです。ただ、私は、そう考えない、もしくは、そう考えないようにしよう、ということです。

 変わったのは、メディアではなく、人々を取り巻くメディアの「環境」である。そう考えれば、問題は「表現」ということになります。少なくとも、私は、そのように考えるほうが、広告にとってはわかりやすいのではないかと思うのですね。先の事例はもう使えないけれども、「環境」の変化による「表現」の問題ととらえると、思考の構造は、なんの変わりもないように思います。それに、こう考えることで、普遍的な事柄を見失うとこもありませんし。

 Twitterが人気ですし、例えば、あの頃と今との決定的な違いを、ソーシャルメディアの台頭だと考えれば、話はわかりやすいかと思います。これをメディアの変化ととらえれば、広告はソーシャル化するべき、という結論になりますよね。手法の変化です。ただ、どれだけ時代が変わっても、広告は広告なんですよね。どれだけうまくやっても、広告が広告であるということは、薄めることはできても、絶対に変えることはできません。

 広告は、本質的に、ある任意のコミュニティに外部から入っていくのは得意ではないはず。すごく苦手なはずです。例えば、仲の良い友達どおしで特定の話題で盛り上がっているときに、これまで友達だと思っていた人が、絶妙のタイミングで「それなら、ちょっと、いい話あるんだけどさ」と自分の商品について話してきたらどうでしょう。嫌ですよね。ムカつきますよね。これは、いくら巧妙になったところで、広告の宿命です。

 しかし、ソーシャルメディアの台頭を、メディア「環境」の変化だととらえると、話は違ってきます。要するに、自分を含めた人々を取り巻く「環境」の変化なのだから、その環境に「表現」を最適化すればいい、という「表現」の問題になります。別に、無理してソーシャル化する必要もないし、広告であることを自覚して、広告が広告として受け入れられる、最適な「場」において、まっとうに広告すればいい。そういうふうに文脈が変わります。

 そのときに大事なのは、「表現」にソーシャルメディアの台頭を折り込むことです。ある試みと、小さな成功体験は私にはあるけれど、明確な答えは、私はまだ持っていませんし、その時その時で考えていかなくちゃいけないことでしょうが、それは、このブログで書いてきたことで言えば、たとえば、すべてのコミュニケーションの芯になる部分において、設計段階からあらかじめ「ゆるさ」や人が入り込む「すきま」を折り込んでいくことだったりします。

 要するに、この芯の部分を、今のメディア「環境」に耐えられるだけのものにするという目論みです。先ほど、無理してソーシャル化する必要もないと書きましたが、言ってみれば、それは、ソーシャル化した場合にも十分に耐えられるだけの芯をつくるということでもあります。もちろん、ソーシャルメディアには入らないことを前提にした芯というのもあると思います。ただ、どちらにしても、もう今までの「表現」では通用しない。ある意味、「手法」の問題より、こちらのほうが困難な道なのかもしれないけれど、10年先を考えると、今、この道筋で考えておくほうがいいのではないか、というふうに私は思っています。「手法」は後からついてくる。これまでを振り返ってみて、私は、そんなふうに考えているように思います。

 今のところ、少しばかり複雑でわかりにくい感じになっていましたが、覚え書きとして。もう少し考えると、もっとすっきりとしたカタチで書けそうな気がします。というか、書けるといいなあ。

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2010年5月 5日 (水)

ほんまは痛かってん

 母が入院している病院にお見舞いに行こうと準備をしていたら、病院から電話が。また足を骨折したとのこと。今度は左足。右足股関節の手術が終わって、リハビリを始めたばかりなのに、ああ、やっちゃったなあ、という感じで、すぐさま病院へ向かう。

 今回は、さすがにちょっとめげていた。連休中なので、すぐにとはいかず、連休明けの金曜日に手術になるとのこと。手術の承認もあり、先生から説明いろいろしていただく。2回目なので、少し余裕を持って聞くことができた。

 前回同様、足首にロープを引っ掛けて、重りで吊るしていて、見た目はちょっと痛々しかったけど、まあ、前と同じなので、こちらはあまり動揺せず。女性の場合は、お年寄りは骨が弱っているケースが多いらしく、しかも右足がまだ自由に動かないわけだから、無理をすると一方の足が折れやすくなる。

 左足の時は、まったく痛がっていなくて、今回はどうなだろうと思って、母に聞いてみた。

 「痛いか?」
 「うん、痛い。」

 休日なのでレントゲンはまだ撮れていないけれど、先生から、母と同じケースの他の症例を見せてもらうと、今回は太ものの骨が折れていて、それが神経を圧迫して痛みがかなりあるとのこと。

 看護士さんに聞いて、おやつを食べてもいいということだったので、アイスクリームやら何やらを近くのコンビニで買って来た。病院食は、真面目な食べものばかりなので、うれしそうだった。アイスクリームが不真面目というわけじゃないけど、まあ、いくつになってもアイスクリームはうれしいものだし。

 一時期、少しでもいいものをと思って、駅前のこ洒落たケーキ屋さんでちょっと高めのケーキを買っていったことがあるけれど、それよりも食べ慣れた普通のアイスクリームやロールケーキの方がいいみたい。まあ、そんなもんだろうな。

 前の骨折でレントゲンを見て、痛くないはずはないのにとすこし不思議に思っていて、ひそひそ声でちょっと聞いてみた。

 「前もほんまは痛かったのとちゃうの?」
 「うん、ほんまは痛かってん。」

 やっぱりなあ。やせ我慢してたんだなあ。まあ、それだけの元気があれば、リハビリもうまくいくでしょう。

 今日で連休は終わり。妹も行けるとのことで、久しぶりに全員集合。しかしまあ、やっぱりいろいろありますねえ。

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2010年5月 2日 (日)

さよなら八角弁当

 なんかさみしいですね。ゴールデンウィークを前に、大阪の老舗お弁当屋さん「水了軒」が破産。廃業ということになってしまいました。大阪へは夜中に帰って来たので私は見ていませんが、新大阪駅の新幹線乗り場前広場にあった水了軒のお弁当売場は、シャッターが降りたままになっているそうです。

 東京と大阪を行き来するビジネスマンの間では、東の「崎陽軒 シウマイ弁当」、西の「水了軒 八角弁当」として人気がありました。でも、若い人にも人気があったシウマイ弁当に対して、八角弁当は少し年輩の人に好まれていたようです。

 価格も、シウマイ弁当が780円で平均的な駅弁よりも安価なのに対して、八角弁当は1100円。やっぱり、駅弁と言えども1000円を超えると、今の時代、少しきついかもしれません。例えば、980円と1100円は、わずか缶コーヒー1つ分しかかわりませんが、心理的にはやはり大きな差があるでしょうね。それに、新幹線に乗ることが今や特別なことではなくなりましたから。

 八角弁当は、弁当箱が八角形ということ以外、これといった個性がないお弁当でした。こう言うと、なんの取り柄もないお弁当のように聞こえますが、そんなことはまったくなくて、個性がないからこその良さというのが八角弁当にはありました。

 お弁当の中身は、たくさんのおかずが少しずつ。鶏ロース、海老の炊いたもの、焼き魚、なずびの含め煮、筍、そら豆、人参、高野豆腐、蒲鉾、昆布巻き、お豆さん、蒟蒻、椎茸、焼きイカ、穴子の鳴門巻き、ごぼう、お漬物。それに、黒胡麻がパラリとふられ、八つに仕切られた白いごはん。

 これぞという派手なおかずもないし、たこ焼きとか串カツのような大阪名物もなく、個性はまったくないけれど、そのひとつが、ほんと丁寧につくられていて、とてもぜいたくな気分になれるのです。さめてもおいしいというか、さめたときにいちばんおいしくなる、というような味付けで、ある意味では、上方文化の粋が詰まったお弁当でもありました。1100円は高くないと本当に思えました。

 きっと、この八角弁当がつくられた当時は、おせち料理や割烹料理のような華やかさをお弁当に、ということだったのでしょうね。でも、今や列車の旅も当たり前になって、特に東海道新幹線のようなビジネスユースの路線では、その華やかさは時代遅れになってしまったのかもしれません。さみしいですけどね。でも、私も、最近は、ロッテリアのチーズバーガーセットだったりしますし、さみしがってばかりもできないんですけどね。私も、そんな時代に生きる一人の人だったりもします。

 私が八角弁当を知ったのは、東京で仕事をはじめて大阪出張が増えたときでした。重要なプレゼンが終わって、みんなで東京に帰るときに、チームのボスから「今日はお疲れさん。今日はぜいたくしよか。」と八角弁当と缶ビールをごちそうになったんです。

 少量だけど多彩なおかずは、缶ビールのつまみにもちょうどいいんですよね。時代は変わるし、変われば消えるものもある。そんなことはわかってはいるけれど、やっぱり少しさみしくて、どこかの企業が、八角弁当だけでも復活させてくれないかな、という淡い期待もあるにはあるけれど、それでも、なにがなんでも八角弁当を復活させてほしいという気持ちにも、正直言えばなれない自分もいたりもして、とりあえず、ある時代の小さな終焉の記録として、ささやかだけど言葉で残しておこうかな、と思いました。

 さよなら、八角弁当。またどこかで。

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