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2010年5月 7日 (金)

「表現の問題」についての覚え書き

 このブログでは、アンチテーゼとして「表現の問題」という言葉をよく使ってきました。文脈は、広告コミュニケーションにおいて、想定するテーゼは「手法の問題」です。

 「表現の問題」と言い始めた頃は、私はあまりウェブの仕事をしていませんでした。それでも、いくつかの仕事はしていて、印象に残ったもので言えば、Yahoo!トップページ右上のバナー(今よりずっと小さかった)でテレビCMをできる限り小さなファイルにすることで、ナローバンドでもなめらかに動くようにした仕事があります。4、5年ほど前の話です。

 これは広告としては大成功でした。Yahoo!の媒体資料に事例としてしばらく出ていたんじゃないでしょうか。アイデアとしては、パラパラ漫画のようだったナローバンドのバナー広告がまるでテレビCMのようになめらかに動く。ただそれだけ。白ホリゾンで撮影した白色が多いCMだったから可能だったんですね。出演者も有名人ではありませんでしたし、音も流れませんでした。でも、ナローバンドで映像が流れれば、いけると思いました。それは、ある種の確信がありました。

 手法としては、単なるバナー広告。しかも、Yahoo!。しかも、CM連動。当時としてもまったく新しくなかった。王道中の王道。要するに、ここで決め手になったのは「ナローバンドで動画を」という「表現」なんです。(あと、本旨とは関係ないですが、エクスパンドレクタングルのような特殊なアクションがある広告ではなく、広告がコンテンツの邪魔をしないカタチでの表現の差別化というのは大きなポイントでした。)

 でも、これは、あの時代だからこその過渡期の事例です。今、同じことをやっても通用はしないと思います。だから、これはちょっと昔の自慢話にすぎないかもしれません。

 あれから、ウェブを取り巻く環境は相当変わりました。でも、この変化を、所謂、メディアの変化ととらえると、何かを取り違えるように私は思っているんですね。メディアの変化ととらえると、問題は「手法」ということになります。もちろん、こういう捉え方もありです。ただ、私は、そう考えない、もしくは、そう考えないようにしよう、ということです。

 変わったのは、メディアではなく、人々を取り巻くメディアの「環境」である。そう考えれば、問題は「表現」ということになります。少なくとも、私は、そのように考えるほうが、広告にとってはわかりやすいのではないかと思うのですね。先の事例はもう使えないけれども、「環境」の変化による「表現」の問題ととらえると、思考の構造は、なんの変わりもないように思います。それに、こう考えることで、普遍的な事柄を見失うとこもありませんし。

 Twitterが人気ですし、例えば、あの頃と今との決定的な違いを、ソーシャルメディアの台頭だと考えれば、話はわかりやすいかと思います。これをメディアの変化ととらえれば、広告はソーシャル化するべき、という結論になりますよね。手法の変化です。ただ、どれだけ時代が変わっても、広告は広告なんですよね。どれだけうまくやっても、広告が広告であるということは、薄めることはできても、絶対に変えることはできません。

 広告は、本質的に、ある任意のコミュニティに外部から入っていくのは得意ではないはず。すごく苦手なはずです。例えば、仲の良い友達どおしで特定の話題で盛り上がっているときに、これまで友達だと思っていた人が、絶妙のタイミングで「それなら、ちょっと、いい話あるんだけどさ」と自分の商品について話してきたらどうでしょう。嫌ですよね。ムカつきますよね。これは、いくら巧妙になったところで、広告の宿命です。

 しかし、ソーシャルメディアの台頭を、メディア「環境」の変化だととらえると、話は違ってきます。要するに、自分を含めた人々を取り巻く「環境」の変化なのだから、その環境に「表現」を最適化すればいい、という「表現」の問題になります。別に、無理してソーシャル化する必要もないし、広告であることを自覚して、広告が広告として受け入れられる、最適な「場」において、まっとうに広告すればいい。そういうふうに文脈が変わります。

 そのときに大事なのは、「表現」にソーシャルメディアの台頭を折り込むことです。ある試みと、小さな成功体験は私にはあるけれど、明確な答えは、私はまだ持っていませんし、その時その時で考えていかなくちゃいけないことでしょうが、それは、このブログで書いてきたことで言えば、たとえば、すべてのコミュニケーションの芯になる部分において、設計段階からあらかじめ「ゆるさ」や人が入り込む「すきま」を折り込んでいくことだったりします。

 要するに、この芯の部分を、今のメディア「環境」に耐えられるだけのものにするという目論みです。先ほど、無理してソーシャル化する必要もないと書きましたが、言ってみれば、それは、ソーシャル化した場合にも十分に耐えられるだけの芯をつくるということでもあります。もちろん、ソーシャルメディアには入らないことを前提にした芯というのもあると思います。ただ、どちらにしても、もう今までの「表現」では通用しない。ある意味、「手法」の問題より、こちらのほうが困難な道なのかもしれないけれど、10年先を考えると、今、この道筋で考えておくほうがいいのではないか、というふうに私は思っています。「手法」は後からついてくる。これまでを振り返ってみて、私は、そんなふうに考えているように思います。

 今のところ、少しばかり複雑でわかりにくい感じになっていましたが、覚え書きとして。もう少し考えると、もっとすっきりとしたカタチで書けそうな気がします。というか、書けるといいなあ。

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コメント

池本孝慈さま

なぜか、ここにたどり着き、ツィッターもフォローさせていただきました。

生まれ年が同じで、親近感。
広告のお仕事に、好奇心と学習意欲。
広告で使われる立場の環境にいたので、もっともっと、作り手の気持ちを身につけたかったなあと反省。
今は、人に伝えることの困難さを痛感。

そんなこんなで、池本孝慈さまの思考力と文章に惹かれております。

じっくり、ゆっくり、読ませていただきたいと思います。

考える時間をありがとうございます。
また、コメントさせてください。

投稿: 小幡万里子 | 2010年5月 9日 (日) 16:38

今後ともどうぞよろしくお願いします。

投稿: mb101bold | 2010年5月 9日 (日) 23:20

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