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2010年6月12日 (土)

東京はあまり雨が降らないですが「雨が降る日に」という歌について書きます。

 
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 東京は雨が降らないですが、あじさいは咲いています。昭和っぽい写真ですが、2010年の写真です。Willcom03で昨日の朝に撮影しました。こんな写真は、きっとiPhoneには撮れないですよね。偉いぞ、Willcom03。

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 オフコースに「雨の降る日に」という3分にも満たない短い歌があります。1975年に発表された「ワインの匂い」というアルバムに収録されています。アルバムA面の最初の曲です。レコード針を落とすと、まず雨の日に自動車が道路を走る音が流れ、そのあとに小さなピアノの前奏。オフコースにしては珍しい素直な和音が四分音符に添ってゆっくりと進行していきます。小田和正さんの作詞・作曲です。

赤いパラソルにはあなたが似合う

 そんな歌詞が出てきます。何気ない描写なんですが、妙に心に引っかかるんですよね。30年以上前の歌なのに、この時期になるといつも思い出します。

 あなたには赤いパラソルが似合う、ではなく、赤いパラソルにはあなたが似合う、なんですよね。ああ、赤いパラソルには、なんだよなあ。そんなふうに思うんです。いつも。要するに、この描写をする人の世界は転倒しているんですよね。普通は、こういう描写はしないはずなんです。

 どうしてこう表現するのかな、と考えると、きっと、この世界は自意識の世界なんでしょうね。私がいて、私の意識の中に世界があって、その中に、世界の一部として赤いパラソルがある。

 この曲はこういう言葉ではじまります。

人はみな誰でも流れる時の中で
いくつもの別れに涙する
だけどあなたはひとり

 私を中心とする自意識の世界の中では、たくさんの赤いパラソルがあり、いくつもの別れがあるけれど、そんな中で、唯一の例外として、たったひとりの交換不可能な「あなた」がいて、それは、安定した自意識の王国に侵犯してくるものであって、その自意識が揺れ、王国が壊れそうになる感覚を、小田さんは「愛」と名付けていたような気がします。

 小田さんの歌には「恋」という言葉はあまり出てこないんですよね。少なくとも、オフコース時代は。鈴木康博さんの歌とは対照的です。小田さんの「愛」は、没交渉的なものが多く、内省的。その自意識を中心に閉じられた世界が、この転倒を生んでいるんだろうな、と思います。

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 1977年に発表された「秋の気配」という歌があります。中期のオフコースを代表する曲ですから、ご存知の方もいらっしゃるのではないでしょうか。ガットギター、フォークギター、エレクトリックピアノ、ボリュームペダルを使ったエレキギター、ストリングス、エレキベース、ドラム、パーカッション、そして、コーラスが、それぞれ控えめなのに練り込まれ考え抜かれたフレーズが丁寧に重ねられていきます。ベースラインも美しくて、音楽的にもかなり高度。

 歌詞は、広角の世界から、徐々に焦点が絞られて、心的な世界へ至る情景の転換が、まるで映画を見ているような感覚があります。今で言えば、キリンジの「エイリアンズ」の感覚と似ていますね。最近、なぜか「エイリアンズ」をよく聴くのですが、ほんといい曲ですよねえ。公団、ボーイング、バイパス、僻地。私の世代からすると、ちょっとかっこ良すぎるけどね。

 すみません。少し話が脱線しました。「秋の気配」という歌の中に、こんな言葉がでてきます。

こんなことは今までなかった
僕があなたから離れていく

 つれない恋人に「嘘でもいいから微笑むふりをして」と願うわりには、あなたが離れていくのではなく、「僕があなたから離れていく」と描写するのですね。変ですよね。あなたが離れる、私は追う、ではなくて、さめていくあなたから目をそらして、港に視点を映して、自意識から見える世界を変えているんですね。それを、「僕があなたから離れていく」と表現しているのだと思います。

 この頃、オフコースファンは女性が多かったそうです。女子校の学生さんが、修学旅行のバスの中で「秋の気配」を合唱したという話も聞いたことがあります。きっと、当時の女子高生たちは、そんな男に憧れたのではなく、この歌が描く自意識の王国に自分の自意識を重ねたのだろう、と想像するのですが、どうでしょう。

 確か小田さんの著書にこの歌詞についての言及があったなと思いましたが、ウィキペディアの同曲の項目(参照)にありました。孫引きですが引用します。

“僕があなたから離れていく”って歌うと、まるでとてもやさしい人で、やむを得ず離れていくような…。“別々の生き方を見つけよう”とかって、よく映画の別れの場面であるじゃない? “いつの間にかすれ違った”、とか。でも、本当に好きだったら、別れないもんね。別れるのは“好き度”が低下したからなんだし、もっといい相手が出てきて “こっちのほうがいいなあ”と思ったからかもしれないんで。そういう傲慢な気持ちを横浜の風景の中に隠したのが、あの曲だったんだ。でも、書いたときは必死だったんだよ、言葉さがして。本当はそんなつもりなかったんだけど、あとで考えたらひどい男だな。
「たしかなこと」小田和正

 小田さんらしいですね。どこか建築的なんですよね。つまり、すべてを力学で見ると言うか。傲慢さは自意識の特徴でもあるし、あながち仮説は間違っていないのかもしれません。

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 この転倒した世界の構図は、今でいうところの「セカイ系」と同種のような気もするけれども、違うところは、「私ーあなた」を世界としていないところでしょうね。まあ、「セカイ系」という概念も定義が揺れているから、一概には言えませんが。

 小田さんの転倒した世界の構図は、つねに「私」なんですよね。小田さんは、きっと近代的自我の人なんだろうと思います。だから、「君のために翼になる 君を守り続ける」と宣言した後に「個人主義」や「相対性の彼方へ」というキーワードが出てくることは合点がいきます。

 小田さんは、早大の建築科大学院時代の修士論文に「建築との訣別」と題したそうです。これは教授に却下され「私的建築論」として受理されるのですが、きっと訣別するほどに「社会」という確実な手応えが、小田さんにはあったのでしょう。

 先ほど言及したキリンジの「エイリアンズ」の世界は、そのような確実な社会が感じられない気がします。あえて言えば、社会というものは「私ーあなた」つまり「エイリアンズ」という小さな世界に溶けています。その小さな世界が、目に見えない大きな社会に対峙するという感じです。

 キリンジの「Drifter」という歌から。

たとえ鬱が夜更けに目覚めて
獣のように襲いかかろうとも
祈りをカラスが引き裂いて
流れ弾の雨が降り注ごうとも
この街の空の下 あなたがいるかぎり

僕はきっとシラフな奴でいたいんだ
子供の泣く声が踊り場に響く夜
冷蔵庫のドアを開いて
ボトルの水飲んで 誓いをたてるよ
欲望が渦を巻く海原さえ
ムーン・リヴァーを渡るようなステップで
踏み越えて行こう あなたと

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 「雨の降る日に」という歌について書きます、と書いたわりには、話が広がって、「自意識」についての考察めいたものになってしまいました。書いているうちに、なんとなくわかったことがありました。それを書いて、このエントリをひとまず終えたいと思います。

 「自意識」とは、キリンジの歌にあるように、きっと「シラフ」のことです。そのシラフの世界は、多くの人の「自意識」が重なって、つねに「酔った」状態として表れる、今ここで動いている社会というものに対しては転倒として表れるのだろうな、と思います。それを、かつて、思想家の吉本隆明さんは「自己幻想は共同幻想と逆立する」と呼んだりしました。

 だからどうなんだ、と言われれば、何もないけれど、私としては何かをつかんだような気もしています。前回のエントリ「「大衆の原像」をどこに置くか」とも関連しますが、もし、そのイメージの根拠を求めるならば、酔った状態である、アクティブな社会現象に求めるのではなく、「シラフ」の状態である「自意識」に求めたほうがいいのだろうな、ということ。

 そのためには、こちら側もさめていることが必要で、そこでは自身の「自意識」を見つめることにもつながっているのでしょう。そのことは個人的には大きな収穫ではありました。なんとなくまとまりのない文章になってしまいましたが、それを生で提示できるのもブログという個人がどうにでもできる自由なメディアのよさなんでしょうね。

 では、よい休日を。今日は、東京は一日晴れのようです。

 
  

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コメント

どうも。私も長年のwillcomユーザです。

秋の気配は学生の頃に付き合っていた子が好きだった歌で、よく聴かされました。小田はそんなことを言ってたんですか。小田の近代的自我は、あの高い透る声にあったんじゃないかなぁと思います。遊眠社の野田秀樹が必ずと言っていいほど舞台の山場で独白を入れるんですよ。そのことについて彼が、アイライトを浴びて独白を語れるのは、透き通る高い声の持ち主でなければダメだと言ってたんですよねぇ。どこで言っていたか忘れましたが。透き通る高い声は、酔えるんですよ。きっと。酔って、自意識に沈んでいくことができるんじゃないでしょうか。

投稿: | 2010年6月12日 (土) 11:42

なるほど。身体と精神の関係っていうのはあるでしょうね。キリンジの堀込泰行さんも「透き通る高い声」ですものね。

投稿: mb101bold | 2010年6月12日 (土) 15:44

こんにちは。始めての書き込みになります。失礼がありましたら、ご容赦頂けたらと思います。

単純に、僕は消費は「酔う」状態でしか、促されないと思うのです。

「酔う」ことって何?、と考えると、それはたぶん幼児期のお遊びに集約されていると思うのです。男の子は一生「秘密基地ごっこ」をして遊んで、女の子は一生「おままごと」をしている感じ、という。

男の子は決して攻めてはこない敵に備えて、分析をして、ただ、敵なんてそもそもがいないのですから、その分析が正しいかどうかなんて証明される機会はないに等しく、だからそれが証明されたりすると、凄く嬉しい訳です。

女の子は決して誰からも尊敬される訳ではないけど、自分が仕切って「あなたはこれをして、あたしはこれをやるから」で、自分が周りに影響を与えられたりすると、凄く嬉しい訳です。

女の子は自分が周りに影響を与えていられていることが実感できる環境があると、自分に酔えて、で、お金を使ってくれます(バブルのおばちゃん達の「ストーリー」)。

男の子は自分なり、他人の分析が証明されていく過程に酔い、お金を使ってくれるような気はしています(AKB48)。

ストーリーもAKBも声なき声ではない、という向きもあるかとは思いますが、声なき声も本質は変わらないのではないでしょうか。本質が極端に出るか奥ゆかしく出るか、の違いでしかない、と。

ただ、その酔った自分の自意識を「シラフな自分」と言ってあげることが、奥ゆかしく反応が出る層に対してある種の「おだて」になる、ということなら、何だか解る気はしました。

つまらないコメントで申し訳なかったかもしれません。それでは、これからも頑張って下さい。

投稿: ilandcorp | 2010年6月13日 (日) 13:57

コメント、ありがとうございます。

消費って何か、と問われたなら、確かにそうかもしれませんね。バブル期の消費の構造はまさにそんな感じだったのだろうと思います。バブルが崩壊してしまった今も、小さなバブル構造をつくることで消費が促進され、ヒットが生まれるということもたくさんありますし、そのバブルの構造を抽象的に取り出していって、小さな消費のしくみと提示していくという方法論もあるとは思うのです。それは、私たちのようないかにして売るかを考える人々が、意識的に、あるいは無意識的に日常的にやっている方法論でもあると思いますし。

ただ、このエントリの問題意識はそこにあるのではなくて、そのようなバブル、あるいは祭り、遊びといったものを直接分析するのではなく、ある種の普遍的な「人っていうのはね」という「人」を精密に構築することで、ひとつの像として取り出し、イメージすることで、バブル期以降の時代において有効かつより確実な、新しい方法論がみつけられるかもしれないなという、少し斜め、あるいは下から切り込んだ、言ってみれば逆説的なものとして書いている部分が私にはあるんですね。

その「人」というイメージするときに、これまでは、アクティブな「消費者」という人を分析してきたんですね。私たちは。インサイト抽出も基本的には、活動的な「消費者」として人をとらえてきました。そこはそこで今も有効ではありますが、私としてはものも買わないし多くを話さない「シラフ」のモードをしっかりと見据えなければ、「人っていうのはね」というのは出てこないのではないか、という気持ちがあるのです。その「シラフ」のモードっていうのは、他人から見れば「自分に酔っている」状態のことと同義なのかもしれません。それと、ここで例として出した、オフコースやキリンジを売れたものとして出しているのではなく、自意識が純化されたかたちで表出された芸術作品のひとつとして出しています。

「酔う」「シラフ」というのは、そういう意味で、通常の逆の使い方になっていると思います。それは、そのもとになったキリンジの歌も同様です。なので、ilandcorpさんのご指摘は間違っていないと思います。

>その酔った自分の自意識を「シラフな自分」と言ってあげることが、奥ゆかしく反応が出る層に対してある種の「おだて」になる、ということなら、何だか解る気はしました。

たぶん、この部分がこのエントリに対してのilandcorpさんの違和感が最も表れていると思うのですが、その部分は明快に違うんですね。この「シラフな自分」というのを私は消費シーンにおける消費者へのメッセージとしては考えていないんです。だから、「おだて」の意図もありません。あくまで自分自身が「人っていうのはね」というものの精密なイメージを持つためのもの、自分のためのものだったりします。

>ストーリーもAKBも声なき声ではない、という向きもあるかとは思いますが、声なき声も本質は変わらないのではないでしょうか。本質が極端に出るか奥ゆかしく出るか、の違いでしかない、と。

それはその通りです。私の論にそって言うならば、そのAKB48という一連の表現の中で、私自身が「シラフ」の部分を見つけ出す、想像するということになります。また、AKB48というプロジェクト側に視点を映せば、そのプロジェクトを生み出し、進行させていくときには、人の「シラフ」な部分をきっちりとつかんでいるかどうかが、多くの人に受け入れられるかどうかの鍵になっているのではないか、という感じです。

論じている軸がそれぞれ違うと思うので、どちらが間違いということができませんので、そのとおりですねとしか言えないのですが、私としてはそんなところですかね。かなりわかりにくく未消化なエントリを丁寧に読んでいただきありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。

投稿: mb101bold | 2010年6月13日 (日) 15:04

キリンジとオフコースってすごい似てますよね?
よく言われてることなんでしょうか。
キリンジを10年以上聴いていて、
去年あたり初めて「眠れぬ夜」を聴いて、
まんまキリンジでびっくりしました。

オフコースの何かをアップデートさせたのが
キリンジなんでしょうか。

聖子ちゃんと一十三十一(ヒトミトイ)の関係のような。
(ご存知なかったらおすすめです、ヒトミトイ。)


それから、「自意識=シラフ」その通りですね!
腑に落ちます。
でもいつも僕はどうにかシラフをやめたくて、
引いた姿勢をすてて世の中に飛び込んでいきたいなと思います。
シラフ〜ヘベレケの往き来がうまくできないんですよね。

投稿: yunbo | 2010年6月14日 (月) 15:16

何だか僕のコメントも意地悪な文章になっていて申し訳なかったです。

>その「シラフ」のモードっていうのは、他人から見れば「自分に酔っている」状態のことと同義なのかもしれません。

そこが僕には伝わっていなかったのだと思います。

「酔った」状態、というのは、確かにその人にとっての一杯一杯の状態に近いものですから、だからこそ、そこに付込んだりしてお金儲けをしたり、されたり、の側面は、どうしても避けられないものがあったりすると思う訳です。

それでもそこは、青臭く書けば「愛して」良いと思うのでした。

本当の一杯一杯の状態と「酔っている」状態の間にあるほんの僅かな「シラフ」の部分は、道徳観に支えられている部分と、本能に支えられている部分の二つがあると思うのです。

道徳観に支えられている部分は、悪い言い方をしてしまえば「擦り込み」の部分ですから、そこはアンタッチャブルな領域だと思うのです。宗教家か親でない限り。

本能に支えられている部分とコミットできることがあるとするなら、それは意味があることだと思ったりしています。本能が支えている部分にコミットしようとするなら、自分がまず本能剝き出しで突き進む、的なことをしないと何ともならないのかな、と僕は思っていたりします。そこはやっぱり「シラフ」ではどうしてもムリ、と実感するものがあります。

バブルの方法論が通用しなくなったのは、人々の「擦り込み」の部分が社会の現状からズレてしまったからですが、そこから新たな道徳観を探し出さなければならない過渡期に頼りになるのは「本能」の部分、が僕の考えなのでした。

意地悪な文章、お詫び致します。申し訳なかったです。

これからも是非、頑張って下さい。

投稿: ilandcorp | 2010年6月14日 (月) 21:49

>yunboさん

わりとよく言われていることみたいですね。キリンジ本人たちはオフコースの影響は否定しているみたいですけど。オフコースでも、中期のオフコースのテイストがあるんですよね。アレンジとか、ああ、私が好きだった頃のオフコースだなあ、と。
一十三十一という人は知りませんでした。おもしろい名前ですね。女性シンガーみたいですね。私は聖子ちゃんも好きなので、こんど聴いてみようと思います。
>シラフ〜ヘベレケの往き来がうまくできないんですよね。
これは私もですね。もっとはじけたいとは思うものの、なかなか難しいですねえ。

>ilandcorpさん

意地悪な文章だとはひとつも思いませんでしたよ。ややこしい文章を丁寧に読んでもらって、ほんとありがたいなあと思っております。
たぶん着眼点が違うんですね。でも、ilandcorpのおっしゃることもわかりますよ。理解もしています。バブルの方法論は、ちいさな社会をセットアップすれば今も適応可能のような気がしています。結構有効でもあるし。でも、それじゃつまらないし、違う方法というか、また誤解を生むかもですが「シラフ」な意識にコミットするコミュニケーションを探してみたいもんだよなあ、と。できるかどうかはわかりませんが。
またいつでもお気軽にコメントしてください。ではでは。

投稿: mb101bold | 2010年6月15日 (火) 00:22

たまにブログをのぞきこんでる者です。
前に1度コメントさしあげたと思いますが・・・
今は大きなお仕事をしてらっしゃると言う事で・・
頑張ってらっしゃるんですね~♪
私は一地方の普通の主婦です。
人生折り返し、もうすぐ子育ても終了。
人生悔いは数えきれませんが、自分に自信がなかった事で、ありきたりな生活を送ってきた事は否めません。
もう一歩踏み出し、都会で自分の好きな音楽の仕事に就いてたら後悔の数も、もっと減っていたはずです。
この記事の「雨が降る日に」
私も好きです。最初の雨の日のクルマの通り過ぎる音・・素敵!
 小田さんの詩には、いつもまっすぐ見つめた視線があると思います。
彼女に対してもその子を見てるようで
ホントはクールにもっとその奥を見透かしてる・・・。
 すいません、表現がへたくそで・・・
みなさんのコメントみていると素晴らしい表現で圧倒されます。
 実は20才になる娘がキリンジさんの大ファンでいつも聴いてます。
 もしかしてDNAの中に組み込んである音楽の系統が繋がっているのかも知れませんね。

投稿: ぴかりん | 2010年8月30日 (月) 16:46

ぴかりんさん、こんばんは。
「雨の降る日に」はとても短い曲ですが、ほんといい曲ですよね。小田さんの視線って、やっぱりなんとなく見透かしているような、まあ、言い方はあれですけど、すこし冷たい感じがありますよね。でも、私、男性だからわかるんですが、結構、冷静でいるようで、本人は、すこし混乱の中にいるんですよね。自意識の中ではすごく揺れているんです。その揺れが、なんとも言えないリリシズムになっているんだと思います。
娘さんがキリンジさんのファンというのは、時を超えて、つながっている感じですねえ。きっと、オフコースの「ワインの匂い」とか初期の楽曲を聴いたら好きになるのではないでしょうか。今、ひさしぶりにオフコースを聴いています。やっぱりいいなあ。オフコース、万歳。では、また。

投稿: mb101bold | 2010年8月31日 (火) 02:54

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