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2010年6月27日 (日)

「広告は性格の良い人がやるものではない」について考えてみました。

 リファラで気付いたのですが、Googleで「広告は性格の良い人がやるものではない」を検索すると、このブログの「「タイプ別性格判断」というものをやってみたのですが」という記事がトップに表示されるようです。ちなみに、当該エントリにはその答えは書かれていません。

 それにしても、どういう事情でこんなワードで検索をしたんでしょうね。何か嫌なことでもあったのでしょうか。

 若い広告クリエーターで、上司ができる人かつ性格が悪くて、その上司に自分の企画が通らなくて、そのうえ「君、広告向いてないんじゃないの?辞めれば?」みたいなことを言われて、「あのCDむかつく。性格最悪。だいたい広告なんて性格が悪くないとできないんじゃねえ?きっとそうだ。そうに違いない。」みたいなことなんでしょうかねえ。

 ともあれ、「広告は性格の良い人がやるものではない」というフレーズは妙に気になります。どうなんでしょうね。そんな気もしますし、そうじゃない気もします。でも、「広告は性格が良い人がやるものである」とはちょっと言えないような。

 例えば、純粋にピュアアートが好きで、自分でも絵やらイラストを描いていて、自分なりの美やら価値観を純度の高いかたちで持っていて、そんな自分の能力を広告で活かしていきたいと思っている人がいたとして、その人が広告制作の現場に入ってきたとしたら、たぶんしんどいことになるんじゃないかな、と思います。純粋な人ほどしんどいことになりがち。

 なぜしんどいかというと、広告っていうのは、企業のコミュニケーション活動の一環だから。つまり、原則的にはそこに自分の美や価値観が入り込むすきまがないんですよね。広告制作では、自分の美や価値観、もっと言えば、普遍的な美よりも、広告というものが上位概念に位置していて、あらゆる美は、広告にめいっぱい利用するものとしてあります。ある意味でさみしい考え方かもしれないけれど、広告主はパトロンじゃないから、しょうがないことですよね。

 入り込む隙間があったとすれば、それはたまたま自分の美や価値観がその目的に合致した場合だけ。で、このたまたまの合致が幸福かって言えば、そうとも言えないんだろうなあ、とも思うんです。若くてまだ世の中に名前が出ていない人なら、それは世の中に出るチャンスにもなるでしょうけど、ある程度名前が出ている人なら、自分の芸術が広告に利用されているという苦悩が出始めます。と考えると、若くて名前が出ていない人であっても同じことが、本当は言えるわけで、そう思わなくて済むのは、その人の人生の過程で、たまたま広告に利用されるメリットが勝っていたというだけのこと。

 これは広告だけでなく商業芸術すべてに言えるし、ピュアアートであっても少なからず同じとこが言えるんでしょうけど、その中でも広告は、そんなジレンマが鋭く出てくるものではあるのでしょう。

 だからと言って、自分の美や価値観を一切持たない人が広告でうまく生きていけるのかというとそうでもなくて、そういう人のほとんどは、単に技術のない人として、現場では使いものにならない人になってしまうんだろうなとも思います。

 自分の美や価値観を持っていなければ広告クリエイターとして有能にはなれないけれど、その意識を純化すればするほど、今度は自分の美や価値観と広告との間で引き裂かれてしまう。この矛盾をしなやかに受け流して、その時その時でうまく立ち回っていくことが「性格が悪い」というのなら、きっと「広告は性格の良い人がやるものではない」というのは正解なんでしょうね。

 私はそのあたりをどう考えているのか。

 うーん、どうなんだろう。なんとなくは、その「性格の悪さ」を引き受けるというか、まあしゃあないわなあ、という感じではあるかなあ。私はキャリア的にもディレクションワークをすることが多いのですが、今まで何度か「それはわかる。わかるけど、今、それは関係ないから。非情かもしれないけれど、この広告にそれは一切いらないんです。あなたの価値を否定しているわけじゃないけど、今は、それはいらない。わかってください。」みたいな思いを持ったことがありました。

 私はもともとがCIプランナーだし、表現者としての思いに鈍感な部分もあるのかもしれませんが、それでも、若い頃、自分の価値を否定された気分になったことが一度もないと言えば嘘になります。その時からいくらかの時が経って、若い時の自分に言うとすれば、それは表現者としてのあなたを否定してロボットになれ、ということではなくて、自己表現としての技術と同じくらい、いや、もしかするとそれ以上、広告の表現技術の世界って奥が深いし、繊細なんだよ、ということなんだろうと思います。

 それに、社会と密接に関係するコミュニケーション・アートとして広告を捉えれば、これほど奥の深いものはないと思うし、世の中の変わり目で、今までの広告手法が通用しにくくなって来ている今だからこそ、その技術の磨きがいがあるとも思うんです。

 広告は、基本、作り手の立場で言えば、匿名表現です。コミュニケーションの主体は、企業、あるいはブランド、商品だから。でも、だからこその社会性や社会的意義もあったりして、きっと「広告は性格の良い人がやるものではない」というのは、そのまま、「性格が良い」人ばかりでは世の中は回らないのよ、という意味で、その表現がより大きな社会性を担っているからだ、とも言えるんじゃないかな、なんてことも考えたりします。

 Googleで「広告は性格の良い人がやるものではない」と検索した方がどんな方かはわかりませんが、これが私の答えです。ちゃんとした答えになっているかどうか、自信はないけれど。ではでは。

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コメント

いつも興味深く読ませていただいています。
初期の広告とちがいデザイナーやアーティストなど細分化しているのは、取捨選択する、される痛みを軽くする効果もあるのでしょうね。

「広告は性格の良い人がやるものではない」ですが、エコや健康関連・金融などの広告をみているとそう感じます。
「team-5%」が顕著ですが、政府のエコプロジェクトの形を取っていますが、博報堂ー経済界主導の消費促進の企画ですね。無邪気に賛同している人をみるともやもやします。

投稿: | 2010年6月28日 (月) 13:30

広告を含めていろんなことが牧歌的ではなくなってしまいましたからね。クリエイティブディレクターという職種でさえ、少し前はなかったわけですし、広告は今よりもっとゆるかったんですよね。少なくとも業界の界隈では。
広告の上位概念には社会というものがあると思うのですが、今は広告の社会性を、規制だけでなく消費者の声として直接問われる時代なんでしょうね。
私にしても、やれAppleの広告がどうのこうの、Adobeがどうのこうのってブログで書いているわけだし、このあたりの時代の空気感を折り込まないと、これからの広告は駄目なんでしょうね。その空気を積極的に取り入れるにしても、あえて取り入れないにしても、意識はしないといけない。そんなふうに思います。

投稿: mb101bold | 2010年6月28日 (月) 22:54

以前はこちらが消費者へ広告を一方的に通知するのみで
消費者からのリアクションが限定されていましたから…
企業によるのでしょうけど、かつては口コミマーケティングや口コミ効果、
今はtwitterなどを介してより「中の人」との距離が縮まってきているように感じます。

「広告」もかつては「中の人」がみえず、消費者を誘導することを
優先されていた時と違い、「中の人」はずいぶん身近になりました。
裏にいた「中の人」が表に顔を見せるようになってきている今
裏と表を使い分けるような広告は避けるべきなのでしょう。
いつみても自分本位なジョブス様みたいなのもちょっと嫌ですが
素直で正直が一番ですね。

投稿: yuu | 2010年6月29日 (火) 14:55

>素直で正直が一番ですね。

ほんとそう思います。難しいですけどね。

投稿: mb101bold | 2010年6月29日 (火) 23:12

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