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2010年7月の9件の記事

2010年7月31日 (土)

そら、しゃあないわ。

Sora

 
 っていう言葉がなかったら、人生ってけっこうきついかもですねえ。

 写真は、東京中野の空。そら、と、空がかかっているんですけどね。でもね、そら、しゃあないわ、の、そら、っていうのは、それは、の略だから、あまりうまくはかかっていないんですよね。ほんとにかけようと思ったら、そら、見たことか、なんて言葉もあるけれど、そっちはなんかやな感じ。ますますきつくなりそう。

 まあ、そら、しゃあないわ、っていう言葉も使い方によるんですよね。そらしゃあないわ、自業自得だよ、なんて流れとか。やっぱりね、そら、しゃあないわ、の続きは、でも、人生、捨てたもんじゃないよ、とか、つぎあるしさ、とかであってほしいですねえ。

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2010年7月28日 (水)

「あえて狙わないほうがいい」という時代

 消費者が広告を見る目があきらかに変わって来たなあ。

 そんなふうに思ったのは、思い返してみると、2000年を少し過ぎてからのような気がします。これまでも、メインストリームではなく、どちらかというと異端的な考え方を好んでしてきたので、それ以前から、なんか新しいやり方は探してはいたけれど、それは、例えば、Saatch & Saatchが提唱していたSMP(Single-minded Propsition)だったり、どちらかというとメッセージ開発の手法的な話が中心だったような気がします。私にとっての90年代は、そんな感じです。

 SMP理論は、簡単に言えば、あるブランドがある市場環境に置かれるとき、そのブランドが持つ課題を達成するために必要なのは、つきつめると、たったひとつの短く強いメッセージになるはずだ、という理論で、その成功例としては英国の労働党から保守党へ政権交代を実現した"LABOUR ISN'T WORKING."という広告キャンペーンがあります。日本語に訳すと「労働者は働いていない。」あるいは「労働党は働いていない。」ということになります。つまり、労働党が政権を担っているのに失業者ばかりじゃないか、労働者は働いてないし、労働党も働いていないでしょ、ということ。

 これは、Saatch & Saatchの躍進をつくった、もはや古典と言われる広告キャンペーンですが、その広告キャンペーンを見て大きな衝撃を受けました。この考え方に基づいて、日本橋三越で「あす10時スタート。」という単純極まりないコピーの広告をつくったりして、それなりの成果もありました。で、この後、Saatch & Saatchの日本法人に入ることになって、こんな広告をつくったりもしました。

 この一連の広告は、1990年後半から2000年まで。その頃の実感としては、私の場合は、よりプリミティブな表現を目指してはいたものの、まだ広告の技法やレトリックは通用していたような気がします。それに、広告業界も、「外資系らしい」という形容のもと、それなりの評価をしていたような感じもありました。

 それが明らかに変わって来たのが、私の感覚では、今思えば2000年に入ってからなんですよね。もう、広告業界で、とりわけ広告クリエーター界隈で評価されているような表現の大部分は、広告としてはもはやきちんと見てはくれないよ、みたいな肌感覚がありました。そして、広告としてみてくれないよ、というこの感覚は、広告よりもっと広い概念である表現としても批評の対象にさえならない、ということとほぼ同じような感覚で、脱広告というポストモダニズムさえ、陳腐な戯れ言に聞こえてしまうような感覚です。

 これは、広告が否定されてきたのではなくて、言ってしまえば、これまでよしとされてきた広告表現のあり方が飽きられて来た、底が見えて来た、裏が知られてしまった、という感覚です。

 ちょうどその時期に、私は広告代理店でクリエイティブ・ディレクターとして働くようになりました。因果なものだな、と思うけれど、気付いてしまったものは、もうしょうがないですよね。他の同業者がこれまでの手法の究極を目指しているときに、私はなんとなく、その方向はもう先がないかもと思ってしまったんですよね。逃げたわけではなく、もうその方向では、広告は広告になれないかもな、という感覚でした。で、こんな広告をつくったり。それが、2003年頃。

 ●    ●

 今週号のSPA!の「エッジな人々」というインタビューで、作曲家で音楽プロデューサーの小室哲哉さんがこんなことを語っていました。

小室 あえて狙わないほうがいいと思いますよ。以前は、プロの作曲家なら、“狙い過ぎ”の曲ってすぐわかったんです。「サビはCMのタイアップ用で、絶対あとからAメロとBメロつけたな」とか。それが今は“一億総ジャーナリスト状態”で、一般の人もそういうことに気づいている。何かに似ているとか、何にインスパイアされたとか、「そんな細かいところまでわかるの!?」って驚かされます。だからごまかせない。当然ですけどね。'90年代までは一般の人が“通”になっているとは感じなかった。みんなが驚いてくれる、喜んでくれるカードを'80年代に僕はいっぱいためてたんです。

ーーーー今、そういうストックは?

小室 ない‥‥っていうと、何もないのかよ!ってなっちゃいますけど(笑)、今は一度ゼロに戻って作ってるっていうことです。僕はもう自分らしさについて考えているだけ。聴いてくれる人がジャーナリスティックに総評してくれればいいなと。ブログやツイッターでも‥‥‥

SPA! 2010年 8月3日号「エッジな人々」より引用

 音楽と広告という分野の違いはあるけれど、時代認識としては、まったく同じような感覚なんですよね。それは、どちらも社会の変容が作用しているわけだから、同じ感覚であることは当然と言えば当然ではあるのですが。

 引用では、これからの小室さんの抱負としてブログ、ツイッターが言及されています。だからといって、読み手が、この社会の変容が、個人メディアとソーシャルメディアによるものだ、と考えるのは間違っています。2000年には、個人メディアやソーシャルメディアは普及していませんでした。つまり、主客が逆なんです。

 2000年くらいから、個人メディア、ソーシャルメディアを受け入れる素地が社会にできた、ということなんですよね。そういう、個人が発信するメディアを受け入れるだけの素地が、いつのまにかできていたということなんです。ただ、それにインフラやテクノロジーが追いつかなかっただけで。

 これは、きっと成熟と呼んでもいいものだと思いますが、その社会の成熟に、音楽や広告が対応できなかったということなのかもしれません。音楽や広告は、人がつくるわけですから、原理的には、人々の変化より少し遅れます。表現には制作というタイムラグがありますし、表現はかなり強い文化の拘束がありますから、変化には相当の痛みが伴います。

 ●    ●

 小室さんは、こう言っています。

今は一度ゼロに戻って作ってるって言うことです。

 それは、音楽に戻るということだろうと思います。であるならば、広告の話にあてはめると、広告に戻るということなんだろうと思うんですね。脱広告ではないはずなんです。なぜなら、脱広告は、メディアの変容にあわせた“狙い過ぎ”の広告に過ぎないとも言えるからです。

 すごく逆説を含む、ややこしい話ではありますが、メディアが多様化し、広告の受容が複雑で細切れになってきたのは、メディアがそうなってきたから、ではなく、社会に、そのきめ細かなメディアを受け入れる素地ができたということです。であるならば、広告が、まさしく広告として機能するためには、“狙い過ぎ”を排除したプリミティブな力を持った広告である必要があるということなのだろうと思います。

 その社会の変容は、例えば、ブログやツイッターはおろか、ネットさえ一切見ない、私の親父でさえ含む変容です。

 なぜこんなことを書いたのかというと、このブログをずっと読んでいただいている方ならわかると思いますが、私がブログにこういうことを書いている、ほんとうのきっかけは、2000年にあって、そのときにはブログやツイッターはなかったということをもう一度、私自身が確認するべきだろうと思ったから。

 メディアの変容の前に、社会の変容があったということ。それは、すでに2000年を契機にしてはじまっていた。そこをおさえておかなければ、その先のすべてを間違えてしまうような気が私はしています。自戒の意味を込めて、もう一度確認しておきたいと思います。つまり、今のメディアの様相は、その変容した社会が求めたものとしての時代に表れたものにすぎないということ。

 「あえて狙わないほうがいい」という時代、という認識が正しいとすれば、その前提は、必然的に2000年を契機とした変化になるはずです。もし、そうではなく、個人メディアやソーシャルメディアの台頭が時代を変化させたとすれば、その帰結としては「細かく狙っていく時代」になるはずで、それは今の複雑化、細分化された広告手法として表れています。

 今の広告を考えるとき、このふたつの論点の対立は、じつはあるのだろうなと、私は思っています。それは、以前のようなメッセージ開発手法のような派手さはないけれど、より本質的でプリミティブな問いかけのような気がしていて、この先、私が考えていく際に、このエントリは、一見地味ではあるけれど、後から振り返ったときに、結構重要なエントリだったんだな、と読み返すエントリになるんじゃないかなと思っています。

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2010年7月22日 (木)

新しくできた回転寿司屋さんで自由と多様性についてぼんやり考えました

 回転寿司が好き。

 あまりほめられた嗜好ではないし、回転寿司が好きなんだよなあなんてことは人前ではあまり言わないけれど、まあ、好きなものはしょうがないよなあ。そんな感じの好きさ加減です。味もそこそこ、なにより手軽。ひとりものには、とてもありがたい存在だったりもします。あまりお腹がすいてないけど食事を済ませたいなあ、でも牛丼は重いしなあ、なんてとき、さくっと食べて出て行けるのも回転寿司屋さんのいいところ。それに、回転しててもお寿司なので、ちょっとした満足感や贅沢感も満たせますし。

 回転する寿司なんて本当の寿司じゃないよ、なんて意見もあるでしょうけど、ま、それでも回転寿司屋さんは多くの人に支持をされているわけで、回転寿司屋さんには回転寿司屋さんの挟持なんてものもあるのでしょう。

 回転しない寿司と回転する寿司の違いは何か。そこらへんに回転寿司が支持される理由がありそうです。と、もったいぶって書くまでもなく、回転寿司が支持される理由は、こんなとこですね。

  1. 半セルフサービスだから価格が安い
  2. 半セルフサービスだから板前さんとやりとりしなくていい
  3. 均一価格で明朗会計で安心

 お寿司屋さんは、料理店の中では敷居が高い。一見さんお断りな感じがある。寿司職人さんとのやりとりが前提。これはすべて寿司屋さんの魅力ではありますが、その一方で、そんな魅力がしんどいなあ、もっと気軽にお寿司をつまみたいなあ、というニーズがあったからこそ、街に、寿司屋さんの敷居を低くした回転寿司屋さんがあふれているのでしょう。

 回転寿司屋さんは、基本的には「脱コミュニケーションのセルフサービス」の方向性のサービスです。ならば、この方向性を追求すれば、もっともっと支持される回転寿司屋さんができるんじゃないか。そう考える人がいてもおかしくはありません。

 で、やっぱりそんな人(というか企業)がいて、とある繁華街に新しいスタイルの回転寿司屋さんができたんですね。で、行ってみました。

 そのお店のシステムは、こんな感じ。

  1. お客さんの席の少し上にタッチパネルのディスプレイ(チェーンの居酒屋さんにあるようなやつ)が1つずつ設置されている
  2. お寿司はマグロとか人気ネタの皿しか流れていない
  3. ディスプレイにはメニューが表示されていて、食べたいお寿司は板前さんや店員さんに注文しなくても画面のボタンを押すと自動で注文が入る
  4. 注文が完了すると席から離れた調理場で寿司が握られる
  5. 電車のカタチをした台にお寿司が乗せられて運ばれてくる
  6. 電車のカタチをした台は席の前できちんと止まる
  7. お客さんが皿を取ると電車のカタチをした台が去っていく

 ついでに言うと、お会計の時もボタンを押します。すると、店員さんがやってきて、その場でお会計ができます。回転寿司屋さんの「脱コミュニケーションのセルフサービス」の方向性の究極を具現化したようなお店でした。

 味は悪くなかった。むしろ、おいしかった。でも、まったくもって楽しくなかったんですよね。回転寿司屋さんが受け入れられる理由をつきつめると、台が電車のカタチをしている遊び心はともかくとして、まあこうなる。理論的には、これが究極。でも、楽しくなかった。

 感覚的には、簡単に、これは駄目だろうなとわかるんですが、あえて感覚ではなく、理詰めで理由を考えてみました。仕事じゃないのでぼんやりと、ではありますが。で、考えてみると、自分が回転寿司屋さんで振る舞う姿を振り返ってみることで、なんとなくわかることがありました。

 私は、回転寿司屋さんでは流れているお寿司を取る人です。でも、まわりを見渡すと、若いカップルなんかもいて、お店の人と楽しそうに話していたりもします。敷居が高いお寿司屋さんの、あの板前さんとのコミュニケーションを、お金をそんなに持っていない若者が楽しんでいるんですね。一方で、お年寄りもいて、その人は、回転しているお皿には目もくれず、注文をしながら、好きなネタを楽しんでいたりします。

 その姿を見てて、いやな気はしないし、ああ、楽しそうだなあ、とも思うんですね。だからといって、私は板前さんと話したりはしないし、注文もめったにしないんです。流れてきたお皿をとって、黙って食べるだけです。で、私が他のお客さんを見て不快な思いをしないのと同じように、私のような人がいることで、板前さんと話したり、注文をしたりするお客さんが不快な思いをするということもないと思うんですね。

 つまり、そこにあるのは、自由を認め多様性を許容する価値観なんです。一方で、先の新しいお店になかったものは、この価値観なんだろうと思います。

 お寿司屋さんは、敷居が高い。その敷居を低くして、もっと多くの人にお寿司を楽しんでほしい。そういう思いで、回転寿司屋さんという業態ははじまったはずです。であるならば、その中心には、やっぱり本来の寿司屋さんの文化があって、その核の部分を保持しつつ、そうじゃない人もここにいていいですよ、というものだと思うんですよね。

 私は回転寿司が好きな理由は、本当はこういう自由と多様性だったんだな、と思います。その新しいお店は、本来の寿司屋さんの価値のアンチテーゼである「脱コミュニケーションのセルフサービス」を、絶対の価値としてお客さんに提供してしまっていて、そうなると、私にとっては、その「脱コミュニケーションのセルフサービス」は受け入れられなかった。そんな極論、いらないよ、となった。きっと、そういうことなんだろうと思います。

 もちろん、私のニーズが世間のニーズではないので、そのお店はもしかすると成功するかもしれません。でも、やっぱり、回転寿司という合理性の固まりのようなサービスでも、そこに自由と多様性がないと駄目なんだよなあ、回転寿司屋さんに限らず、自由と多様性のない世界はしんどいなあ、息苦しいよなあ、というのは、少しばかりの真理を含んでいるんだろうとは思うんですけれどね。

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2010年7月18日 (日)

NHKアーカイブス「極楽家族」を見ました

 32年前に制作されたドラマで、今は亡きミヤコ蝶々さん、若き日の国広富之さん、大竹しのぶさんが出演されています。 第33回芸術祭優秀賞受賞、第19回モンテカルロ・テレビ祭UNDA賞受賞とのことです。かなりドラマの内容に踏み込む部分がありますので、これから何らかの形でご覧になる方は、後でお読みになることをおすすめします。

■ドラマ「極楽家族」
80分/1978年(昭和53年)

舞台は、浪速の人情が溢れる下町・大阪の通天閣界隈。事故で次男を失い悲しみに暮れる老夫婦と、その次男に瓜二つの若者が偶然出会い、一緒に暮らすことになる。若者は、やがておばあちゃんのことを「お母ちゃん」と呼び、三人はまるで本当の家族のように振る舞い始める。
それまでは親をかえりみることのなかった長男が、それを知り若者に嫉妬。そして、老夫婦の遺産相続へと話が及んでいく──。
赤の他人同士が、家族を演じることから巻き起こる、珍騒動を描いたドラマ。
仲の悪い本物の家族と仲の良い偽の家族…どちらが本当に幸せなのかとドラマは問い掛けている。

NHKアーカイブス」より引用

 上のあらすじではよくわからない部分を少し補足しておくと、老夫婦のおじいさんが脳梗塞の後遺症と認知症。この老夫婦は、少し前に事故で次男を亡くしています。レッツゴー長作さん演じる長男夫婦が、おじいさん、つまり父を精神病院に入院させようと提案するのですが、それを拒否。で、ミヤコ蝶々さん演じるおばあさんがひとりで面倒を見ているんですね。そこに偶然、亡くなった次男にそっくりな若者が現れ、三人で、偽の家族として一緒に暮らすようになる、という筋立てです。

 この亡くなった次男にそっくりな若者を演じるのが、国広富之さん。で、近所の食堂で働く娘さんを演じるのが大竹しのぶさんで、亡くなった次男と恋人同士だったという設定です。

 昭和53年という時代背景を考えると、やっぱり精神病院という言葉には拒否感が強かったんでしょうし、おばあさんが、「おじいさんを精神病院に入れる」と言われて、長男や長男の嫁さんを憎んでしまうのはしょうがないことなんだろうと思いながら見ていました。実際、自分でも抵抗感がなかったというと嘘になるし。

 でも、このドラマでは、介護の実際の部分にも少し踏み込んでいました。長男の嫁さんが「だって、精神病院しか受け入れてくれなかったんだもの」と言っていて、このひとつの台詞で、誰一人として単純な悪者にはしていないことがわかります。いろいろな人間模様が凝縮された優れたドラマになっているように思えました。この台詞の意味は、分かる人にはわかる言葉です。

 本当は、精神病院しか受け入れてくれなかった、ということではなくて、介護サービスではなく医療サービスが必要な場合(しかも当時は今のような介護制度もなかったはずだし)、認知症を専門とし、いろいろなケアの体制が整っているのが精神科であることに過ぎないんですよね。この長男の嫁さんも精神病院に入れてしまうという後ろめたさを持っていて、そのあたりの諸々は、感覚的には、今もあまり変わらないのかもしれませんね。

 個人的には、このあたりの偏見や先入観は、もっと取り払われたほうがいいとも思うし、精神病院で行われている認知症に対する医療ケアの実際なんかももっと知られたほうがいいと思うんですけどね。ドラマやファンタジーではなく、もっとドライに知られてほしいと思っています。ま、これはドラマに関係ない話ですが。

 かつて次男と付き合っていた娘さんと若者が恋に落ち、その娘さんは、若者に、なぜ赤の他人である老夫婦と一緒に暮らすのかを問いかけるんですね。若者は、自分の過去に少し触れながら、こう言います。

「それは、わしの義務なんや。わしにはその義務があるんや。」

 若者は前科があり、その償いの意味での義務。その義務を果たすことで、彼は、働くことに意味を見いだし、生きることの張り合いを見つけていきます。この偽家族のつかのまの生活は、何よりも楽しそうで、血のつながりはあるけれど、関わりが希薄な長男夫婦との関係と対比されていきます。

 このドラマは、じつは「義務」って何だろうということが隠れたテーマだったのかもしれません。義務のコインの裏側には権利があって、このドラマではそれは「おじいさんの面倒を見ること」と「遺産を相続できること」が対応しています。義務と権利が、このつかの間の楽しい生活の成立要件だとすれば、若者には、前科への償いという時点で、「義務」しか残っていなくて、奇跡的に「権利」を主張することなく成立要件を満たしてしまっていています。

 だからこそ、このつかのまの偽家族は、家族以上に結ばれ合っていて、このドラマをレッツゴー長作さん演じる長男の目線から見たとき、それは、この奇跡的に成立してしまった家族に嫉妬し、それを必死に取り戻す物語とも言えるのでしょう。

 この偽家族は、あっけなく終焉を迎えます。ドラマが終わったあとに脚本の中島丈博さんがインタビューの中でおっしゃっていましたが、この長男こそが、本当の主人公なのかもしれません。

「まあ、遺産も入るし、おまえには苦労をかけるけど、しんぼうしてや。」
「そんな悲しいこと言わんといてよ。私、そんなつもりでやってるんやないわよ。家族じゃない。家族だからじゃない。」
「そうか。家族か。家族やもんな。」
「当たり前やんか。家族なんやもん。」

 ここで、長男の義務は、若者と同じ義務になるんですよね。このエンディングは、人情劇にありがちなエンディングに見えて、きっとまったく別のものなんだろうな、と思いました。あらかじめ権利を主張しない義務。たぶん、中島さんは、家族というものはそういうものだよ、と言いたかったのではないかと思いました。

 それが家族であり、その条件さえ満たせば血のつながりなく家族であり得る。家族とはそういうもので、若者は義務と呼んだけれど、ほんとうはもっと別のものだったりもするのでしょう。さらに言えば、会社と同格ではなく、家族って本来は別の原理でできていて、権利と義務みたいなものではできていない別のものじゃないか、ということを作者は言いたかったのだろうと思います。

 最後に若者と娘さんが、こんな会話をします。

「楽しかったなあ。ほんとうの家族みたいに楽しかったなあ。」
「なに言うてるのん。あんたもこれから親になるんやで。」

 このエントリには書きませんでしたが、ミヤコ蝶々さん、言葉に表せないほどよかったです。こういう人を天才と言うんでしょうね。関西育ちの私は子供の頃からずっと見ていて、空気のようにその芸に触れてきましたが、あらためてじっくり見て、その演技に圧倒されました。いいドラマでした。おすすめです。

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2010年7月12日 (月)

不支持が力を持つ時代

 選挙特番を見ながら、こんなことを思いました。

 今回の選挙で何が支持されたのか。わからない。何が支持されなかったのか。いくつかの事柄が思い浮かびます。選挙区レベルで言えば、いろいろな勝因、敗因はあるとは思うけれど、それを全国ネットの選挙特番的に見れば、今回の結果のドライバーは、まぎれもなく不支持という気分だったのだと思います。

 不支持が力を持つ時代。こういう時代はいい時代なんでしょうか、それとも悪い時代なんでしょうか。Twitterでとある方とツイートのやりとりをしていたら、その方からこんなキーワードが。

 代案のない否定。

 確かに。代案のない否定が集まっても、とりあえずそれ、やめとこ、ということしか決まりません。それでも時間は流れるので、じゃあどうする、と瀬戸際まで追いつめられて、時間切れというカタチでものごとが決まっていく。その積み重ねの総体が時代というものだとすると、こんな不確実なものはないですよね。

 多かれ少なかれ、我々を覆っている時代の気分って、そんな感じかな、とも思ったりします。とりあえず今はやめとこ、という気分が、今の停滞をつくっているのかも。

 もう一方の視点。

 でも、成熟っていうのは、そんなものなのかもしれない。有無を言わせない圧倒的な支持をもとにしてものごとが動いていく時代に比べれば、不支持が力を持つ時代は、よっぽどましな時代なのではないか。

 好む好まないにかかわらず、不支持が力を持つ時代に僕らは生きています。もう、おおざっぱな支持さえあれば大丈夫、という気楽な時代は終わったのかもしれません。

 であれば、やれることはひとつ。

 今の時代に、大きな肯定は似合わないのでしょう。大きな肯定は、些細な否定でいとも簡単に否定に変わります。小さな代案をひとつひとつ提示して、小さな肯定、小さな支持を積み重ねていくこと。小さな。それは、具体的に、ということでもあります。

 小さくあれ。具体的であれ。積み重ねろ。

 もちろん、そのためには、幹の部分がしっかりしてなくちゃいけないんだけれど、とりあえずは、そういうことなのかな。小さくあれ。具体的であれ。積み重ねろ。しばらくは、そんな感じでやってみようかな、なんて考えた月曜日。

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2010年7月 9日 (金)

結局、僕らはテキストデータが欲しいんだ、と思う

 KindleやiPadにはじまる電子書籍の動向で、根本的な違和感がひとつだけありました。それは、どうしてそんなに紙の本の形式にこだわるんだろう、ということでした。だって、今や新聞の記事もPCでたくさん読んでいるし、学術論文だって、ウェブでは書籍の形式にこだわらず読んでいるじゃないですか。

 このブログだって、横書きでフォントもPCに依存しているからって、こんなもん読めるかよってことではないだろうと思うし。それに、ケータイ小説だって読む人は熱心に読んでいるでしょ。有料のメールマガジンだって、数は多くはないけれどちゃんと成立しているし、メールであるがゆえに極端に読みにくいってことはないですし。読みたい内容なら、読者は読みます。

 もちろん紙の本のように読みやすくデザインされているに越したことはないと思うし、紙の本のような読書のしやすいデバイスがあればなお良しだとは思うけれど、それが必須でもないとも思うし、結局、今のブックリーダーと独自フォーマット争いというのは、心のどこかで、テキストコンテンツは紙を模倣しなければお金を払ってはくれない、より紙に近づけた方が勝ち、という気持ちがあるんだろうと思います。

 でも、有料メールマガジンの例をあげるまでもなく、テキストコンテンツは紙を模倣しなければお金にならないというのは間違いだと思いますし、究極言えば、本当は、読者としてはテキストデータが欲しいんだろうと思うんですよね。それが、特にコアなネットユーザーの本当のインサイトなんだと思います。

 その内容がお金を払うだけの価値があれば、払うと思うんですよね。PCで読みたい人はPCで読めばいいし、軽いブックリーダーで読みたい人は、それで読めばいい。

 読みやすさは、読者側でなんとかするからさ。今は、ハードもソフトもいいの揃ってるし。電子書籍のニーズって、そんな感じだと思います。

 もちろん、紙の本は、パッケージングで商品として、ある意味、すごく歴史があって成熟もしているし、読書という行為においては完璧だったりするので、テキストコンテンツに同じお金を出すようにはならないと思います。でも、それと同じように、紙の本を模倣した、特定のブックリーダーによる電子書籍が代替するとも私には思えないんですよね。

 そんなふうに思っていたら、「Googleエディション」。

電子書籍販売「Googleエディション」、日本で年明けスタート - ITmedia

 なるほど。これは、はじめてしっくり来ました。さすがに、スキャンしたテキストデータ、もしくはそれに近いかたちのデータの販売みたいなラディカルなものではないけれど、端末に依存しないというか、するつもりがないという部分で、考え方はすごく現実的でGoogleらしいですね。先ほどのITmediaの記事からの引用ですが、そういうことだなと思います。

 書籍のデジタル化を進めるGoogleだが、「電子書籍が紙の書籍に置き換わっていくという強いイメージはもっていない」(佐藤マネージャー)という。「その時々で便利な方を使いながら、書籍のマーケットが大きくなっていけば」と佐藤マネージャーは話している。

 たぶん、この考え方の先には、テキストコンテンツの中身だけをなにかしらのデータで販売して、特定デバイスではなく、ケータイを含めたそれぞれの端末側で読み手が好きずきに表示するという未来があるんだろうと思います。それがEPUBになるかもしれませんし、もっとプレーンな別の形式になるかはわかりませんが。(じつは、AmazonもAppleも本音ではそうなると考えているのかもしれません。)

 ユーザーのインサイトにサービスや商品が近づいていくのが世の中の常。つまりは、パッケージングされたコンテンツとコンテナの分離だけでなく、コンテンツとパッケージングの分離が、電子書籍では大きく進むような気がします。きっとそれは、紙の本とも、パッケージングされた電子書籍とも、それぞれ販売価格の3層レイヤーとして共存していくんでしょうね。

 電子書籍のニーズを考えると、コンテンツとパッケージングの完全な分離という未来が最も描きやすいんですよね。私には紙の本が、パッケージされた電子書籍と完全に置き換わる未来は想像しにくいし、読書体験におけるパッケージング対決だと紙の圧勝だと思うし。なんとなく、電子書籍の未来って、華麗で豪華絢爛な電子書籍の未来じゃなくて、ちょっぴりチープで、だけどとっても気軽な、ちょっぴり「青空文庫」っぽい、そんな方向の未来なのだろうな、と勝手に思っております。

 それは、かつて見た景色ではあるけれど、ハードとソフト、それを支えるインフラが成熟した今だから確実に描けるようになった景色でもあって、どこか、これまで何度も各社がチャレンジしてきたスマートフォンやタブレットPCが、iPhoneやiPadという優れたハードによって、いとも簡単に普及してしまった、あの、あっけにとられた感じに似たことになるんだろうな、と思います。これは、まだ実現していない未来の姿ではあるけれども。

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2010年7月 5日 (月)

なぜ選挙ポスターはみんな同じなのか

 私は1回だけ選挙ポスターを作ったことがあります。友人の親戚のおじさんが市会議員選挙に出るとのことで、とにかく目立つものを作ってほしいということでした。何か新しい方法はないものかと、あれこれ考えてはみたのですが、最終的にはごくごくありきたりなポスターになったことを覚えています。

 公営の掲示板(今、街に立てられている白いペンキで塗られたベニア板のやつ)に貼られる選挙ポスターは、意外ですが、表現については規制はあまりないんですよね。つまり、文字だけでもいいし、掲示責任者と印刷責任者の明記があれば写真だけでもいいんです。ま、写真だけだと意味をなさないからあり得ないとは思いますが。虚偽と利益誘導は駄目。それくらいのもの。

 一発勝負で今までにない手法を試してみるという手もありますが、そうもいかないのが選挙でしょうし、人生をかけた一発勝負になかなか冒険はできないでしょうから、結果として、広告やデザインの普遍的な法則に則ってつくることになるわけです。

 選挙は「人を選ぶ」ことですから、限られた寸法の選挙ポスターに求められることは、何よりもまず人がアピールできること。ということは「顔」と「名前」なわけです。ということは、顔写真と名前を大きく、ということになります。顔写真は、笑顔で。目線は正面に。なぜ目線を正面にするかというと、目線を外すと、人は顔に視線がいかないから。人間の目というのは力があって、こちらを見つめる目がそこにあると、視線はいちばん最初に目にいくんですね。

 これは普通の広告でも同じで、タレントさんが正面を見つめていると、まずそこに目がいきます。そういう広告では、たいがいはその目の近くにキャッチコピーがレイアウトされているはず。まず目に視線がいき、少しの視線移動でメッセージ。その手の広告デザインはそういうしくみになっています。

 逆に、まず商品に目をいかせたい場合や、ビジュアルとコピーで掛け合わせたアイデアでメッセージを伝えたい場合は、その広告に登場するタレントさんの目線は正面を向いていないことが多いです。

 今度、そのあたりを注意しながら広告を眺めてみてください。ほとんどの広告は、そんなふうにつくられているのがわかるかと思います。

 土曜日の夕方に興味深いテレビ番組を見ました。日本テレビの「所さんの目がテン!」。「選挙運動を科学する」という回で、様々な目線の選挙ポスターを街の人たちに見せて、どの人がいいですかという質問をする実験をやっていました。やはり目線を外した一見格好良さげなポスターよりも、真正面に目線がある笑顔のポスターが圧倒的な人気でした。

 この番組では、連呼についても実験していました。事前に名前を連呼でアナウンスしていたアイスコーヒーを最もおいしいアイスコーヒーと選ぶ人が圧倒的。じつは、用意された複数のアイスコーヒーはどれも同じなんですが、名前を連呼されると親しみが生まれるんですよね。知っているというのは、すごい力なんです。たかが名前なのにね。

 番組を見ながら、あれこれ新しい表現はないものかと試行錯誤をする広告屋としては、その結果は当たり前じゃないかと思うものの、どこかつまらないなという思いと、だからこそ新しいことって難しいんだよな、という思いが交錯しました。

 つまり、新しい表現というのは、こういう身体的な「当たり前」を超えなきゃいけないわけなんですよね。ありきたりの表現だけど効果がある。そんな、ある意味で強烈な「当たり前」を超えなくちゃいけない。

 今、いろんなことが変化していってますが、それでもこの「当たり前」というやつは、ものすごい壁として相変わらずあるんですよね。番組では、街の人にインタビューをしていました。私は政策で選びます、と話す人がたくさんいましたが、その人たちも、顔も名前もよく知らない人には投票しないんだろうと思います。ちょっとやそっとじゃ、この「当たり前」は変わらないし、これからも変わることはないでしょう。

 選挙活動は、よくよく眺めてみると、そんな旧来からの最強の広告的手法が凝縮されているんですよね。駅前の演説とか、握手とか、そんな直接的なコミュニケーションがいまだに強い、ということも含めて。

 こういう「当たり前」を見据えた上で、なお新しいことを考えていく。それが、新しいことを考えていくということだろうと思います。もちろん、あえて「当たり前」を知らない無鉄砲さが新しいことを生み出していくということもあるかとは思うんですが、でも、よほどのことでもない限り、知らないままでは新しいことをやろうとしても、結果的に「当たり前」の劣化コピーにならないんだろうな、とも思います。無知や無垢は、基本的には駄目だという思いが私にはあります。

 どちらかと言えば、そういう「当たり前」を取り込んだうえで、戦略的に軸をずらしたり、別の軸を持って来たりする。それが、新しいことをつくるということなんでしょうね。ジャズなんかもそうした進化をしてきたわけだし、私はジャズくらいしかわかりませんが、ジャズに限らず、あらゆる分野はそんな進化の仕方をしてきている気もしますし。

 私は、外資系広告代理店育ちでもあり、これまで予算の少ない中堅を担当してきましたので、どこかで、これまでの「当たり前」をひっくり返したいという気持ちが強いです。だって、「当たり前」をつきつめると、物量がものを言うんですよね。それはつまらないし、そんな「当たり前」をひっくり返すのはとても愉快だしね。

 さあ、月曜日。今週もがんばりましょ。

※選挙期間中の公営掲示板のポスターの規制について「ない」と言い切りましたが、「あまりない」に修正しました。ちなみに、選挙期間中の政治活動用ポスターについては、かなり厳しい規制があります。参考:選挙運動 - Wikipedia

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2010年7月 3日 (土)

餃子もたのもか

 夜10時頃の中野、18、9の娘さんとその母親らしき人が、とある中華料理屋さんの前でショーケースに飾られたサンプルを眺めておりました。地元の人ではなさそうで、どこかから用事で来ていたような感じでした。

 きっと、夜も遅くなって、家でつくって食べるのもじゃまくさいので、中野で夜ご飯を食べて帰ろう、みたいなことなんでしょう。

 「お母さん、タンメン。」
 「じゃあ、私、五目ラーメンにする。」
 「餃子もたのもか。」
 「うん、たのも、たのも。」

 とびきりおいしい中華屋さんでもなさそうなごくごく普通のお店でしたが、その餃子は、なんとも言えない幸せな味がするんでしょうね。

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2010年7月 2日 (金)

理由がわかれば、人は動く。

 ことあるごとに思い出す言葉です。ネスレの広告コピー。私が書いたものではなく、とあるコピーライターさんが書いたコピー。誰かは忘れました。でも、広告コピーってそういうものだと思います。作者は忘れられても、言葉が残ればいい。そんなところが広告っぽくて、私は広告が好き。

 いきなり脱線してしまいましたが、このブログを検索すると、2つのエントリで「理由がわかれば、人は動く。」についての言及が見つかりました。もっと多いかなと思ったけれど、この2つ。せっかくなので、自分のエントリの該当部分を引用します。

 私は、あるインスタントコーヒーの広告コピー「理由がわかれば、人は動く。」が好きなのですが、その「理由」は、対象への洞察なしに知り得ないこと。そのCMは、アルピニストの野口さんが子供たちに凍ったバナナを見せながら「いつまでも山に残るんだ。だから、山にものを捨てちゃいけないんだ。」というものでした。山はきれいだ。登山は楽しい。それだけの人には、決してその「理由」は見つけられません。
川瀬さんの言葉」2009年1月29日

このブログにも何度か書いているかもしれませんが、私が好きな広告コピーに「理由がわかれば、人は動く。」というものがあります。
ほんとそう思うんですよね。それは自分に対してもそうで、人というのは多かれ少なかれ理由が分からなければ動くことができないものなんだろうと思います。
で、理由がわかるためには考えるしかないんだろうとも思っていて、もう少し考えてみようと思っています。
よいお年を。
静かに年が暮れていく」コメント欄より 2009年12月23日

 なぜこの言葉が好きなのかというと、自分自身がそうだからなんでしょうね。理由がわからないと動けない。そういう人なのでしょう。あまりほめられたものではないし、理由がなくても動けるほうがしなやかだとは思うんですが、でも、しょうがない。

 逆に言えば、理由さえわかれば、多少無理難題でも、よしやろうか、という気にもなって、そんな自分はとても不思議だな、とも思います。だからこそ、理由はなんだろうかと懸命に探すことにもなって、そのあいだは、それこそ悶々と考え続けるしかなくて、理由がわかるまでのあいだは動けないわけだから、自分に嫌気がさしてきたりもするんですよね。

 動きたいけど動けない。そういう状態がいちばんつらい。

 仕事だって同じで、理由さえわかれば、そこでほぼできたも同然。だって、あとは動けばいいんですから。動くことが仕事という言い方もできるけれど、でも、20年ほど働いてきて思うことは、動けさえすれば大丈夫なんですよね。どんどん前へ進んでいくわけですから。

 本当は、理由を見つけるのが仕事なのかもしれないなあ、と最近思います。自分の領域に関して言えば、なかなか理由を見つけづらくなってきているような気がします。簡単には見つからない。だけど、理由はあるんですね。それなりの理由は。

 できるだけシンプルな理由を見つけたい。それが絶対の理由でなくても、そのシンプルな理由にかけてみる。信じてやってみる。結局、広告なんてものは、つきつめれば、そんな不確定な要素がどこまでいってもついてまわるものだと思います。不確定だからこそ、理由の精度を高めなきゃいけないし、それには、徹底的に考えるということしかないんだろうし、仕事というのは、本質的につらいものだったりするんだろうなあ。

 そのつらさがあるからこその仕事の楽しさだったりもして、つらさの先の楽しさを想定できる人が、仕事を楽しむ人ってことなのかもしれません。仕事を楽しむ人というのは、きっとつらさ自体を、理由が見つけられない自分自身を楽しいと思える人なのでしょう。つらいんだけど、楽しい。そんな自分がおもしろい。ちょっぴり倒錯気味な感覚。

 でね、そのつらさを少なくする方法はあることはあるんですよね。それは、簡単に理由をわかっちゃうこと。でも、簡単にわかっちゃう理由は、理由ではないんですよね。そんな理由では人は動かんよ、みたいな浅い理由になりがちなんです。よっぽどの天才でなければ、簡単には理由はわからない。で、天才と呼ばれる人に、よくそんなに簡単にそんなことがわかりますよね、って聞いてみたら、きっとその人はムッとすると思うんですよね。常人とは違う密度で考えまくっているに違いなんです。

 理由がわかれば、人は動く。

 ほんと、何度も思い出すんですよね。ことあるごとに。理由がわかれば。理由さえわかれば。そんな感じで、悶々とね。もう、これはしょうがないんでしょうね。そういうふうになっているんだから。さあ、もうちょい考えてみますかね。きっと見つかるさ。

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