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2010年7月 5日 (月)

なぜ選挙ポスターはみんな同じなのか

 私は1回だけ選挙ポスターを作ったことがあります。友人の親戚のおじさんが市会議員選挙に出るとのことで、とにかく目立つものを作ってほしいということでした。何か新しい方法はないものかと、あれこれ考えてはみたのですが、最終的にはごくごくありきたりなポスターになったことを覚えています。

 公営の掲示板(今、街に立てられている白いペンキで塗られたベニア板のやつ)に貼られる選挙ポスターは、意外ですが、表現については規制はあまりないんですよね。つまり、文字だけでもいいし、掲示責任者と印刷責任者の明記があれば写真だけでもいいんです。ま、写真だけだと意味をなさないからあり得ないとは思いますが。虚偽と利益誘導は駄目。それくらいのもの。

 一発勝負で今までにない手法を試してみるという手もありますが、そうもいかないのが選挙でしょうし、人生をかけた一発勝負になかなか冒険はできないでしょうから、結果として、広告やデザインの普遍的な法則に則ってつくることになるわけです。

 選挙は「人を選ぶ」ことですから、限られた寸法の選挙ポスターに求められることは、何よりもまず人がアピールできること。ということは「顔」と「名前」なわけです。ということは、顔写真と名前を大きく、ということになります。顔写真は、笑顔で。目線は正面に。なぜ目線を正面にするかというと、目線を外すと、人は顔に視線がいかないから。人間の目というのは力があって、こちらを見つめる目がそこにあると、視線はいちばん最初に目にいくんですね。

 これは普通の広告でも同じで、タレントさんが正面を見つめていると、まずそこに目がいきます。そういう広告では、たいがいはその目の近くにキャッチコピーがレイアウトされているはず。まず目に視線がいき、少しの視線移動でメッセージ。その手の広告デザインはそういうしくみになっています。

 逆に、まず商品に目をいかせたい場合や、ビジュアルとコピーで掛け合わせたアイデアでメッセージを伝えたい場合は、その広告に登場するタレントさんの目線は正面を向いていないことが多いです。

 今度、そのあたりを注意しながら広告を眺めてみてください。ほとんどの広告は、そんなふうにつくられているのがわかるかと思います。

 土曜日の夕方に興味深いテレビ番組を見ました。日本テレビの「所さんの目がテン!」。「選挙運動を科学する」という回で、様々な目線の選挙ポスターを街の人たちに見せて、どの人がいいですかという質問をする実験をやっていました。やはり目線を外した一見格好良さげなポスターよりも、真正面に目線がある笑顔のポスターが圧倒的な人気でした。

 この番組では、連呼についても実験していました。事前に名前を連呼でアナウンスしていたアイスコーヒーを最もおいしいアイスコーヒーと選ぶ人が圧倒的。じつは、用意された複数のアイスコーヒーはどれも同じなんですが、名前を連呼されると親しみが生まれるんですよね。知っているというのは、すごい力なんです。たかが名前なのにね。

 番組を見ながら、あれこれ新しい表現はないものかと試行錯誤をする広告屋としては、その結果は当たり前じゃないかと思うものの、どこかつまらないなという思いと、だからこそ新しいことって難しいんだよな、という思いが交錯しました。

 つまり、新しい表現というのは、こういう身体的な「当たり前」を超えなきゃいけないわけなんですよね。ありきたりの表現だけど効果がある。そんな、ある意味で強烈な「当たり前」を超えなくちゃいけない。

 今、いろんなことが変化していってますが、それでもこの「当たり前」というやつは、ものすごい壁として相変わらずあるんですよね。番組では、街の人にインタビューをしていました。私は政策で選びます、と話す人がたくさんいましたが、その人たちも、顔も名前もよく知らない人には投票しないんだろうと思います。ちょっとやそっとじゃ、この「当たり前」は変わらないし、これからも変わることはないでしょう。

 選挙活動は、よくよく眺めてみると、そんな旧来からの最強の広告的手法が凝縮されているんですよね。駅前の演説とか、握手とか、そんな直接的なコミュニケーションがいまだに強い、ということも含めて。

 こういう「当たり前」を見据えた上で、なお新しいことを考えていく。それが、新しいことを考えていくということだろうと思います。もちろん、あえて「当たり前」を知らない無鉄砲さが新しいことを生み出していくということもあるかとは思うんですが、でも、よほどのことでもない限り、知らないままでは新しいことをやろうとしても、結果的に「当たり前」の劣化コピーにならないんだろうな、とも思います。無知や無垢は、基本的には駄目だという思いが私にはあります。

 どちらかと言えば、そういう「当たり前」を取り込んだうえで、戦略的に軸をずらしたり、別の軸を持って来たりする。それが、新しいことをつくるということなんでしょうね。ジャズなんかもそうした進化をしてきたわけだし、私はジャズくらいしかわかりませんが、ジャズに限らず、あらゆる分野はそんな進化の仕方をしてきている気もしますし。

 私は、外資系広告代理店育ちでもあり、これまで予算の少ない中堅を担当してきましたので、どこかで、これまでの「当たり前」をひっくり返したいという気持ちが強いです。だって、「当たり前」をつきつめると、物量がものを言うんですよね。それはつまらないし、そんな「当たり前」をひっくり返すのはとても愉快だしね。

 さあ、月曜日。今週もがんばりましょ。

※選挙期間中の公営掲示板のポスターの規制について「ない」と言い切りましたが、「あまりない」に修正しました。ちなみに、選挙期間中の政治活動用ポスターについては、かなり厳しい規制があります。参考:選挙運動 - Wikipedia

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コメント

「歳とったなー」と思ったことに、若い人が「新しいことやりたい!」と言ってくると「まず基本を踏まえないとダメだよ」と反論したくなり、前例を踏襲していると「新しいこと考えなきゃダメだよ」と言いたくなる、というのがありまして。
「当たり前のこと」と「新しいこと」の間に何かあるんでしょうね。新しいだけだと届かないし、「当たり前のこと」だけだとつまらない。
その場での相互作用というか、ぶつかり合いが必要で、その場限りの意外性みたいなのが面白さを結果的にもたらしたりするのでしょうね。

投稿: mistral | 2010年7月 5日 (月) 12:27

ま、新しいことっていうのはそれだけ難しいということなんでしょうね。ジャズの歴史なんかを見ていると、新しいことをやる人は勝手にやっちゃっていることが多いようです。
やり始めた頃は批判ばかりでも、本当に新しい価値があれば、それが新しい潮流になって、また若い奴がそれを否定して超えていく。だけど、ジャズっていう1本の幹は脈々と生き続ける、みたいな。そんな感じなんでしょうね。

投稿: mb101bold | 2010年7月 5日 (月) 22:28

 選挙ボスターと言えば、私はもともと印刷会社で制作をしていたので、おっしゃることが良くわかります。
 かなり昔の選挙ポスターですが、元竹下首相の選挙ポスターは印象的でした。バックは白で、しかめっ面。斜め上を見つめているポスターだったと思います。良くも悪くも目立ちましたし、他の選挙ポスターにはない「想い」というのを強く感じとりました。
 
 “「当たり前」をつきつめると、物量がものを言うんですよね”

 なるほど。ランチェスターみたく、妙に納得してしまいました。

投稿: たか | 2010年7月 6日 (火) 01:12

竹下さんは地盤が強固で地元で信頼があったから目的の大部分をすでにクリアしてて、もうひとつ上の領域にいけたんでしょうね。
そう言えば、蓮舫さんのポスターは首を傾げてたりしますねえ。

投稿: mb101bold | 2010年7月 6日 (火) 09:16

検索で見つけ、楽しく読ませていただきました。私は、政治・選挙関連の企画・デザインを生業にしておりますオノと申します。もちろん仕事柄、選挙ポスター(公営掲示場ポスター)と、政治活動用ポスター(こちらはデザインに限らず)には、特にこだわりがあります。何を隠そう私がこの仕事を始めた最大の理由には、街に貼られているポスター群で、何よりもダサいのが政治活動用ポスターと気付き、着手しようとしたのがきっかけなんです・・・
ポスター絡みの記事も掲載しておりますので、お時間がありましたら、私のコラムも一度お読みください。
http://onocolumn.onopo.jp/

投稿: 小野五月 | 2011年7月 8日 (金) 07:55

広告だって、やり方次第。コメントも同じだと思います。

投稿: mb101bold | 2011年7月11日 (月) 06:35

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