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2010年7月28日 (水)

「あえて狙わないほうがいい」という時代

 消費者が広告を見る目があきらかに変わって来たなあ。

 そんなふうに思ったのは、思い返してみると、2000年を少し過ぎてからのような気がします。これまでも、メインストリームではなく、どちらかというと異端的な考え方を好んでしてきたので、それ以前から、なんか新しいやり方は探してはいたけれど、それは、例えば、Saatch & Saatchが提唱していたSMP(Single-minded Propsition)だったり、どちらかというとメッセージ開発の手法的な話が中心だったような気がします。私にとっての90年代は、そんな感じです。

 SMP理論は、簡単に言えば、あるブランドがある市場環境に置かれるとき、そのブランドが持つ課題を達成するために必要なのは、つきつめると、たったひとつの短く強いメッセージになるはずだ、という理論で、その成功例としては英国の労働党から保守党へ政権交代を実現した"LABOUR ISN'T WORKING."という広告キャンペーンがあります。日本語に訳すと「労働者は働いていない。」あるいは「労働党は働いていない。」ということになります。つまり、労働党が政権を担っているのに失業者ばかりじゃないか、労働者は働いてないし、労働党も働いていないでしょ、ということ。

 これは、Saatch & Saatchの躍進をつくった、もはや古典と言われる広告キャンペーンですが、その広告キャンペーンを見て大きな衝撃を受けました。この考え方に基づいて、日本橋三越で「あす10時スタート。」という単純極まりないコピーの広告をつくったりして、それなりの成果もありました。で、この後、Saatch & Saatchの日本法人に入ることになって、こんな広告をつくったりもしました。

 この一連の広告は、1990年後半から2000年まで。その頃の実感としては、私の場合は、よりプリミティブな表現を目指してはいたものの、まだ広告の技法やレトリックは通用していたような気がします。それに、広告業界も、「外資系らしい」という形容のもと、それなりの評価をしていたような感じもありました。

 それが明らかに変わって来たのが、私の感覚では、今思えば2000年に入ってからなんですよね。もう、広告業界で、とりわけ広告クリエーター界隈で評価されているような表現の大部分は、広告としてはもはやきちんと見てはくれないよ、みたいな肌感覚がありました。そして、広告としてみてくれないよ、というこの感覚は、広告よりもっと広い概念である表現としても批評の対象にさえならない、ということとほぼ同じような感覚で、脱広告というポストモダニズムさえ、陳腐な戯れ言に聞こえてしまうような感覚です。

 これは、広告が否定されてきたのではなくて、言ってしまえば、これまでよしとされてきた広告表現のあり方が飽きられて来た、底が見えて来た、裏が知られてしまった、という感覚です。

 ちょうどその時期に、私は広告代理店でクリエイティブ・ディレクターとして働くようになりました。因果なものだな、と思うけれど、気付いてしまったものは、もうしょうがないですよね。他の同業者がこれまでの手法の究極を目指しているときに、私はなんとなく、その方向はもう先がないかもと思ってしまったんですよね。逃げたわけではなく、もうその方向では、広告は広告になれないかもな、という感覚でした。で、こんな広告をつくったり。それが、2003年頃。

 ●    ●

 今週号のSPA!の「エッジな人々」というインタビューで、作曲家で音楽プロデューサーの小室哲哉さんがこんなことを語っていました。

小室 あえて狙わないほうがいいと思いますよ。以前は、プロの作曲家なら、“狙い過ぎ”の曲ってすぐわかったんです。「サビはCMのタイアップ用で、絶対あとからAメロとBメロつけたな」とか。それが今は“一億総ジャーナリスト状態”で、一般の人もそういうことに気づいている。何かに似ているとか、何にインスパイアされたとか、「そんな細かいところまでわかるの!?」って驚かされます。だからごまかせない。当然ですけどね。'90年代までは一般の人が“通”になっているとは感じなかった。みんなが驚いてくれる、喜んでくれるカードを'80年代に僕はいっぱいためてたんです。

ーーーー今、そういうストックは?

小室 ない‥‥っていうと、何もないのかよ!ってなっちゃいますけど(笑)、今は一度ゼロに戻って作ってるっていうことです。僕はもう自分らしさについて考えているだけ。聴いてくれる人がジャーナリスティックに総評してくれればいいなと。ブログやツイッターでも‥‥‥

SPA! 2010年 8月3日号「エッジな人々」より引用

 音楽と広告という分野の違いはあるけれど、時代認識としては、まったく同じような感覚なんですよね。それは、どちらも社会の変容が作用しているわけだから、同じ感覚であることは当然と言えば当然ではあるのですが。

 引用では、これからの小室さんの抱負としてブログ、ツイッターが言及されています。だからといって、読み手が、この社会の変容が、個人メディアとソーシャルメディアによるものだ、と考えるのは間違っています。2000年には、個人メディアやソーシャルメディアは普及していませんでした。つまり、主客が逆なんです。

 2000年くらいから、個人メディア、ソーシャルメディアを受け入れる素地が社会にできた、ということなんですよね。そういう、個人が発信するメディアを受け入れるだけの素地が、いつのまにかできていたということなんです。ただ、それにインフラやテクノロジーが追いつかなかっただけで。

 これは、きっと成熟と呼んでもいいものだと思いますが、その社会の成熟に、音楽や広告が対応できなかったということなのかもしれません。音楽や広告は、人がつくるわけですから、原理的には、人々の変化より少し遅れます。表現には制作というタイムラグがありますし、表現はかなり強い文化の拘束がありますから、変化には相当の痛みが伴います。

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 小室さんは、こう言っています。

今は一度ゼロに戻って作ってるって言うことです。

 それは、音楽に戻るということだろうと思います。であるならば、広告の話にあてはめると、広告に戻るということなんだろうと思うんですね。脱広告ではないはずなんです。なぜなら、脱広告は、メディアの変容にあわせた“狙い過ぎ”の広告に過ぎないとも言えるからです。

 すごく逆説を含む、ややこしい話ではありますが、メディアが多様化し、広告の受容が複雑で細切れになってきたのは、メディアがそうなってきたから、ではなく、社会に、そのきめ細かなメディアを受け入れる素地ができたということです。であるならば、広告が、まさしく広告として機能するためには、“狙い過ぎ”を排除したプリミティブな力を持った広告である必要があるということなのだろうと思います。

 その社会の変容は、例えば、ブログやツイッターはおろか、ネットさえ一切見ない、私の親父でさえ含む変容です。

 なぜこんなことを書いたのかというと、このブログをずっと読んでいただいている方ならわかると思いますが、私がブログにこういうことを書いている、ほんとうのきっかけは、2000年にあって、そのときにはブログやツイッターはなかったということをもう一度、私自身が確認するべきだろうと思ったから。

 メディアの変容の前に、社会の変容があったということ。それは、すでに2000年を契機にしてはじまっていた。そこをおさえておかなければ、その先のすべてを間違えてしまうような気が私はしています。自戒の意味を込めて、もう一度確認しておきたいと思います。つまり、今のメディアの様相は、その変容した社会が求めたものとしての時代に表れたものにすぎないということ。

 「あえて狙わないほうがいい」という時代、という認識が正しいとすれば、その前提は、必然的に2000年を契機とした変化になるはずです。もし、そうではなく、個人メディアやソーシャルメディアの台頭が時代を変化させたとすれば、その帰結としては「細かく狙っていく時代」になるはずで、それは今の複雑化、細分化された広告手法として表れています。

 今の広告を考えるとき、このふたつの論点の対立は、じつはあるのだろうなと、私は思っています。それは、以前のようなメッセージ開発手法のような派手さはないけれど、より本質的でプリミティブな問いかけのような気がしていて、この先、私が考えていく際に、このエントリは、一見地味ではあるけれど、後から振り返ったときに、結構重要なエントリだったんだな、と読み返すエントリになるんじゃないかなと思っています。

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広告の話」カテゴリの記事

コメント

凄く興味のある話でした。
「広告はラブレター」という言葉が前にもありました。私は好きな例えです。ただ、一つの違和感があったのが「ラブレターは複数に向けて出さないよなぁ」って。。。例え話にそんな突っ込みしたらKYなのですが、なんか、その違和感と似ている気がしました。
「どうせ皆にラブレター出してんでしょ」といった意味で。。。
狙い方が露骨だったというか、強欲だったというか、消費者も広告の先にある相手のはらを察するように疑い深くなってきたし、冷静な目をしてきたんですよね。
今の時代、ラブレターを書く人はほとんどいないです。みんなメールだったり、もっと先に行ってる。
人に心を伝える手段も変わってきて、広告はラブレターと例えて「ラブレターって、何」みたいな時代がくる。
そんな時代で広告を例えるとすればなんなのか。小室さんがいう「ゼロ」というのは、過去ではなく、原点なんだろうなぁっというのが、このブログを読んで理解できました。

投稿: たか | 2010年7月29日 (木) 07:20

>消費者も広告の先にある相手のはらを察するように疑い深くなってきたし、冷静な目をしてきたんですよね。

これはほんとそうですね。80年台のパルコ的な広告のあとに、関西系のおもしろ広告の流れがありました。広告の前提をあっけらかんに投げ出した、みも蓋もない広告。あれはあれで面白かったし、大好きでしたが、今思うと、脱広告というポストモダニズム広告で、広告を見る側はそんなポストモダン的なものを遥かに超えて、もっと先に行ったような気がします。

「広告はラブレター」というメタファは、私はそのロマンティックな響きではなく、ラブレターであるがゆえに、相手に「ごめんなさい。」という権利がある、わりとドライなコミュニケーションとして捉えています。

こういう言い方をすると語弊があるけれど、広告って本質的に一方通行のコミュニケーションなんだろうなと思うんですね。これは、時代が変わっても、ソーシャルメディアの台頭でメディアの双方向性が高まってもやっぱり変わらないでしょうね。だから、大事なことは活用ではなく、対応だと思っています。活用は、その本質から挫折するだろうけど、でも、そういう環境に対応してないとしんどいですね。

投稿: mb101bold | 2010年7月29日 (木) 23:18

90年代頃、表参道付近で飲んでいると「アレ、オレが仕掛けたんだよ」と語る人がなぜかいつも隣にいて、まるでモンティ・パイソンのコントみたいでした。今もいるのでしょうか?まあみんなその気でいるのでしょうが。
現在の変化って、ああいう「オレが仕掛けた」みたいなものへの集団のNOという意思表示があるような気がします。(とはいえパブリシティやスターマーケティングにはころっとダマされてしまいますけど)
そこいらをまだ広告業界では気付いていないのか気づきたくないのか、カリスマ伝説みたいなものを特集したい気分が溢れている気がします。広告を受け入れる前提にある「親密さ」「信用」という面では、確実にシビアになっているのでしょうね。

そういえばある「大物」歌手が10年ほど前に「私は一生分の曲のストックがあるから、それを出していくだけでよい」と語っていて、すごく嫌悪感を感じました。流行歌というのは、半分は聴き手が作るものだと思っているので。小室さんが言いたいことも、多分そういうことかなと思っています。あの「大物」歌手、今、どうしているんだろう?世間では、ロマンスもゲレンデもどっか行ってしまったのだけど。

投稿: mistral | 2010年7月30日 (金) 12:01

いやはや深みのあるエントリーですね。
なんとなくわかります。

個人的には
「小さな個性は邪魔になる」時代のような気がしています。

小室氏について

「狙わなくなった」のではなく
「狙えなくなった」のでしょう。

狙ってヒットを出し続けられる人はいないと思います。

自分の中にある「幼少の頃から培ったもの」が、
たまたま時代とシンクロしたから大ヒットを生み出せたわけで、
「ヒットを狙う」のは当然ですが、結果が出たのは「たまたま」だったのです。

氏が語る
「'90年代までは一般の人が“通”になっているとは感じなかった。
みんなが驚いてくれる、喜んでくれるカードを'80年代に僕はいっぱいためてたんです。」

は、“普通の音楽好きの人の声が(億万長者の)彼に届いてなかった”
ということの証明に過ぎないように思います。
(この頃になると周りに、意見する人がいなかったのでしょう)

ゼロに戻らなくていいから、ブレイク当時の安室奈美恵に作った
幾つかの良心的な「佳曲」をまた聞かせて欲しいですね。

投稿: オスギ | 2010年7月30日 (金) 15:41

>mistralさん

「アレ、オレが仕掛けたんだよ」というのは、広告業界にいる動機でもあるんでしょうしね。まあ、そういう自己顕示みたいなものは、私は全面的に否定する気もないですし、なんだかんだいってもキャリアにつながる、というか、つなげて見ようとする環境もあるし。「彼は、あのキャンペーンをやった人なんだよ」みたいな、ね。まあ、バランスなんでしょうね。

>オスギさん

小室さんの音楽はあまり詳しくはありませんが、個人的には、すごくベタですが「My Revolution」はいい曲だなあ、と思います。ほんとよくできた曲だなあ、と感心します。歌詞の内容とか世界観はあまり好みではないですし、苦手ではありますが、でもやっぱりいい曲なんですよねえ。今聴きなおしてみても、やっぱり完璧。

投稿: mb101bold | 2010年7月31日 (土) 12:10

小室氏は純粋に音楽面でも沢山の端切れを大量にストックし、それを組み合わせて作るタイプの作曲家でしたので、それらが通用しなくなったことを知って一度リセットしたのかな、とも思います。
音楽ってのは割と「狙って」いける媒体でしたからね。

ただそういった「プロくささ」からの脱却というのは、昨今のニコニコ音楽などの盛り上がりを見ても流れとしては確実にあると思います。

氏はそれを嗅ぎ取っているのかな?

投稿: | 2010年8月 6日 (金) 07:45

>氏はそれを嗅ぎ取っているのかな?

だろうと思います。
Twitterに書いていらっしゃることを読んでも、そう思います。わりと率直に書かれていて、いいな、と思いました。

投稿: mb101bold | 2010年8月11日 (水) 01:54

あえてねらわない方が面白いのは昔からじゃないですか?
私は「面白い」の基本は「驚き」だと思っています。

投稿: denkihanabi | 2010年9月 2日 (木) 01:01

「面白い」の基本を驚きだと定義すれば、そうなりますよね。

投稿: mb101bold | 2010年9月 3日 (金) 00:33

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» 小室哲也、僕はもう自分らしさについて考えているだけ。 [三茶農園]
以下、ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね) さんからの抜粋引用です。 メディアの変容の前に、社会の変容がある説。 社会の変容が、個人メディアとソーシャルメディアによるものだ、と考えるのは間違っています。 今のメディアの様相は、その変容した社会が求めたもの... [続きを読む]

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