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2010年9月の10件の記事

2010年9月25日 (土)

秋の気配

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 とまあ、今の時期にぴったりのタイトルを付けてみたものの、今年は、秋の気配なんかはまったくなく、雷と豪雨の後、いきなり秋がやってきましたね。写真は、大阪のマンションから見た風景です。都島から大阪城方面。左側の高層マンション群は梅田方面。私が子供の頃は、梅田の高層ビル群も見えましたし、双眼鏡で覗くと、マルビルの最上階に備え付けられていたオレンジ色の電光掲示版のニュースが読めたんですよね。今は、マルビルの電光掲示もその役割を終えました。

 このあたりは、最近、マンションがたくさん建って、街の様子がずいぶん変わりました。写真の高層マンション群は、昔はカネボウの本社や工場がありました。当時は、大きな空き地があって、秋になると、そこでバッタをよく穫りました。近辺にあった十条製紙工場跡もマンションになるそうです。一頃は、大阪市内に住むより、少し離れた郊外のベッドタウンに、という感じでしたが、値ごろ感が出て来て、やっぱり市内がいいよね、という流れになってきたようです。

 秋の気配と言えば、オフコースの「秋の気配」ですよね。そうでもないですか。そうですか。ちょっと古いですものね。1977年に発売された、オフコースの11枚目のシングル曲です。アルバムでは「JUNKTION」に収録されています。たくさんのミュージシャンがカバーしていますので、ご存知の方も多いのではないでしょうか。

 そう言えば、秋の気配を「秋の気配」はどう表現してたっけ、と思って、調べてみると、ほとんど表現していないんですよね。季節感を表現している箇所は、この部分だけ。

たそがれは 風を止めて
ちぎれた雲はまた ひとつになる

 たったこれだけ。つまり、「秋の気配」という歌は、タイトルが所謂、歌詞の要約的なタイトルではなくて、曲の世界観をセットアップする重要な要素なんですね。歌詞を見ただけでは、春ともとれるし、夏とも、冬ともとれます。あの曲がなんとなくせつない気がするのは、タイトルが「秋の気配」だからこそ、なんですよね。詞とメロディとタイトル、どの要素も主でもなく従でもなく、いい緊張感を持って、均衡している。そんなところが、「秋の気配」という歌の魅力だったりもします。

 この歌は、なんども聴いていますが、いまだにはっきりとはわからない部分があります。前述の「たそがれは 風を止めて ちぎれた雲はまた ひとつになる」の後に出てくる歌詞です。

あの歌だけは 他の誰にも
歌わないでね ただそれだけ

 この台詞、男性が言っているのか、それとも女性が言っているのか。歌をなんとなく聴いたところでは、歌の主体である男性が言っているように思えるんですが、でも、よく考えてみると、女性が言っていてもおかしくないように思えます。

 男性が言っているとすると、男性は歌をつくっていて、「あの歌」はその女性のために作った歌だから、「あの歌だけは 他の誰にも 歌わないでね ただそれだけ」と言っている、ということになります。自然な解釈ではありますが、でも、男性は、きっと小田さんを投影しているわけだから、そう考えると、あまりにナイーブすぎるような気もしないでもないです。もしくは、女性がミュージシャンで、男性が「歌わないで」と言っている。そうだとしても、まあナイーブですよね。

 女性が言っているとすると、「あの歌」を女性がつくったか男性がつくったかはわかりませんが、その「あの歌」は大切な歌だから、たぶん小田さんと同じミュージシャンである男性に「あの歌だけは 他の誰にも 歌わないでね ただそれだけ」と言っていることになります。歌の主体から見ると、言われたということになります。

 ほとんどおしゃべりもないのに、やっとしゃべってくれたかと思うと、今、「あの歌」を「歌わないでね」と言われたなあ。出会った頃は、そんなことはなかったのに、僕たちの関係どうなっちゃったんだろう、なんとなく付き合うのがつらくなってきたよなあ、という曲。

 「秋の気配」という曲は、当時は女子高生や女子大生が、恋へのあこがれの気持ちを持って歌った曲ですから、後者だとすると、なんとなくがっかりなんだろうな、とは思いますが、後者だと、歌詞全体の流れが非常にすっきりするんですよね。

 「あの歌だけは 他の誰にも 歌わないでね ただそれだけ」という要求は、さりげないようにみえて、男性にとってはすごく重いはずなんですよね。女性は、「微笑むふり」さえしないつれない感じけれど、男性には、そのそぶりとは裏腹にたいへんな要求をしているわけです。

 つまり、この「秋の気配」は、自分にとって、すごく重くなってしまった恋人に対して、気持ちが離れていくという歌で、わりと普通の、というか、普通なエゴが発露された恋愛感情の歌だったのかもしれません。

 まあ、主体が明示されていないわけですから、どっちにとってもいいんだろうとは思いますし、作り手としては、主語を明示しなかったのは、わざと、だとも思いますので、どっちなんだろうな、と思いながら聴くのが正しいようにも思います。

 きっと、これから暑さがぶり返すことなく、本格的に秋ですから、そんなところに着目しながら「秋の気配」を聴いてみてはいかがでしょうか。ずいぶん昔の曲ですが、けっこうたのしめると思いますよ。

 では、あと一日になってしまいましたが、引き続きよい休日を。

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2010年9月24日 (金)

時限爆弾と世代論

 所謂、「大阪地方検察庁による郵便不正事件に絡む証拠改ざん事件」。

 ずいぶん重苦しい事件が起きてしまったものだなあと思います。重苦しい事件は数多くありますが、この事件は、自分にかかわるいろいろな領域と重なる部分もあります。私は、普段、こうした事件に言及しないし、言及するほどの能力も情報も持っていないので、ブログにはあまり書かないでいましたが、今回は、この重苦しさの理由について書いてみようかな、と思いました。

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 この事件、もともとは、広告業界にからむ事件でした。事件のあらましは、こう。Wikipediaの「障害者団体向け割引郵便制度悪用事件」を引用します。

障害者団体とされる「凛の会」(白山会に改称)や「健康フォーラム」が、2006年〜2008年ころ、大手家電量販会社、紳士服販売店、健康食品通販会社などのダイレクトメールを障害者団体の発行物と装い、「低料第三種郵便」として低価格で違法に発送して、通常の第三種郵便物の料金との差額を数十億円単位で不正に免れたとされる郵便法違反事件である。

大阪地検特捜部が公表した捜査結果では、障害者団体6団体の定期刊行物を装って、11社の広告主のダイレクトメール約3180万通が違法に発行され、正規の料金との差額は約37億5000万円を免れたとされている。

 重苦しさのひとつめは、発端のこの事件。

 広告業界では、90年後半くらいから、競合コンペにおいてメディアコミッションの割引合戦がはじまって、「できるだけ安く」というお題目が第一義になってきました。景気のいい頃は、広告会社の営業担当、媒体担当の仕事は、有限な広告媒体で、できる限りいい枠をおさえるというものでした。そのために、飲むのが仕事みたいなことが、広告の仕事における武勇伝として語られることが多かったんですよね。そんな広告業界の状況が、ガラッと変わったのが、前述の90年後半で、私はその新しい時代とともに、広告人として独り立ちをはじめ、自身のキャリアを積み重ねてきました。

 前の世代の広告人がいくらバブルの頃の牧歌的な日々を懐かしもうと、それは、私の世代にとっては、もはや夢物語でしかなかったし、まあ、ちょっときれい事っぽくはあるけれども、最小コストで最大効果を追い求め、日々、研鑽を重ねて来たわけです。だからこそ、その前の世代の広告人に比べて、華はないかもしれませんが、私の世代、いや、正確に言えば、私の世代の中で、前の世代の夢物語に自身の夢を重ねることやめた僕らにしかないノウハウやテクノロジーは絶対にあるんです。そのことで、広告業界や組織の中で、僕らは、得意先に対して信頼を得て来たし、前の世代の広告人が、次々に信頼を失っていく中で、リアルな日常の中で、それなりに広告会社の稼ぎを生み出してきた、そんな自負が僕らにはありました。

 ひとつの案件に対しては、僕らは、この環境を真正面から受け止めて、それを、広告の終焉なんてレトリックも使わずに、その環境で、いかに広告が機能していけるかということを一生懸命考え続けてきたわけです。もしくは、考え続けさせられてきた、と言ってもいいのかもしれません。

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 その姿勢は、諸刃の剣でもあると思います。広告の効果を追い求めるという命題が、効果という言葉に重きが置かれるようになると、たやすく、広告を逸脱して効果を追い求めるということになります。ここでいう広告は、社会的な責任と公共性をもった企業活動としての広告のことで、小さな逸脱は、一方ではニュービジネスとして賞賛されながら、その一方では、炎上マーケティングなんて揶揄されながら、ネットでもしばしば話題になっていますよね。

 でもね、その逸脱は、長期的に見て、絶対に、広告への信頼を損なうものです。広告なんて信頼されなくてもいい、そんな広告はもう終わっていいという意見もあるかもしれません。でも、私はその意見には絶対に与できません。それは、私が広告人だからです。私がそういう、一見新しそうに見える広告からの逸脱に対して、過剰に嫌悪を感じるのは、こういう私特有の世代感覚もあるのかもしれません。それと、そういうものに対しての、私の後に続く世代の無垢で無邪気な感覚も、すごく気になったりもします。

 もしかすると、後者は、世代として新しい世代に敗北するのかもしれませんが、でも、私は、私の世代をかけて、これだけは間違った認識ではないと思っています。それは、ここ100年の従来メディアの歴史を見ればわかります。ネットだからといって、メディアの原則がまったく変わるわけではありませんし、もう、ネットだから新しいという時代でもないですし。

 話を戻します。

 その逸脱のベクトル上にある事件が、上記の事件だったわけです。もちろん、社会的には絶対に許されない違法行為ではあるので、明快に区別されるべきことなのかもしれません。でも、コストを徹底的におさえ、効果を追い求めるその先に、この事件があったのは間違いはありません。それは、私の仕事に対する姿勢の中の、その延長線上にあるかもしれない事件でもあるのです。だからこそ、この事件を知ったとき、私は、そのグロテスクさに目を背けたくなったのです。それは、自分の中にも、ひとつ間違えると表れてしまうグロテスクさでもあるからです。私の世代の、ある種の生真面目さの中には、その悪魔は潜んでいるような気がします。

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 大阪地検特捜部は、この事件を立件し、そのストーリーを、当時、厚生労働省障害保健福祉部企画課長だった村木厚子さんが虚偽有印公文書作成を首謀したというストーリーを描きます。そのストーリーは、第一審で否定されます。そして、控訴断念で、完全に否定されることになりました。

 このストーリーをつくったのが、大阪地方検察庁特別捜査部主任である前田恒彦検事。大阪地検特捜部が押収したフロピーディスクの日付を改ざんした証拠隠滅容疑で逮捕されました。もちろん、検察の信頼を大きく損ねてしまったことに対しての驚きもありますし、これは検察の危機と言ってもいいだろうとも思います。

 でも、私がニュースを見て感じたのは、まったく別のことでした。私と同じ年齢なんですね。なんでもかんでも世代とか年齢に還元してしまうのは、愚の骨頂だとはわかっているけれども、この、年齢が同じであるということが、どうしても心から離れないのです。

 この前田検事は、同僚にこのようなことを話したということです。asahi.comの『「FDに時限爆弾仕掛けた」 改ざん容疑の検事、同僚に』という記事から引用します。

 検察関係者によると、今年1月に大阪地裁で開かれた村木氏の初公判で、FDに記録された最終更新日時内容が問題になった。このため、同僚検事の一人が東京地検特捜部に応援に行っていた前田検事に電話をかけ、「FDは重要な証拠なのに、なぜ返却したのか」と聞いた。これに対し、前田検事は「FDに時限爆弾を仕掛けた。プロパティ(最終更新日時)を変えた」と明かしたという。

 この同僚への「時限爆弾」発言とは別に、上司にはこう報告しているようです。asahi.comの『改ざん「上司に報告」 前田容疑者、村木氏初公判の直後』から引用します。

 証拠隠滅容疑で逮捕された大阪地検特捜部検事の前田恒彦容疑者(43)が地検の内部調査に対し、「今年1〜2月に当時の特捜部幹部や同僚に押収したFDのデータを書き換えてしまったかもしれないと伝えた」と説明していることがわかった。検察関係者が朝日新聞の取材に対して明らかにした。

 検察という組織の中で、モードによる、本音と建前の使い分けがそこにあり、また、その使い分けが可能なほどに、その行為に対しての危機意識が決定的に欠如している感覚が伺えます。本音は、「時限爆弾」にあったのだと思います。

 まだ、前者の発言は、組織防衛的な政治的意図があっての発言であるという可能性は残ってはいますが、このことは、もしかすると私の世代の最もグロテスクな部分を表してしまっているんじゃないか、と私は思ってしまいました。否定しようとしても、どうしても、否定できない気持ちわるさが残ります。これは、世代特有の感覚もありますし、また、今現在、この世代が、組織全体、あるいは部門全体の責任者ではなく、現場の責任者として最前線で仕事を遂行する年齢になっていることもあると思います。これも、心底、目を背けたくなるんです。

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 前田検事にとって、このグロテスクな「障害者団体向け割引郵便制度悪用事件」が、もっと大きなグロテスクなるものであらねばなかなかった、という情熱を感じます。その、あらねばならないという情熱は、検察の意義から逸脱して、事実をねじ曲げようと、あらねばならなかったのでしょう。彼の中でも。もし、「時限爆弾」という発言が真実であったとるすならば、この情熱は、同僚には共有できると考えてのことだろうと思うのです。でなければ、組織防衛はもとより、自己防衛の観点からも到底理解できないことです。

 世代論というものが、ある集合的なあいまいさでしか物事を語り得ないとわかってはいるけれども、その捻れた正義感というものが、私の世代に特有のものである感じがしてしょうがないのです。自分の中の闇の部分を見るのは嫌なことではあるけれど、その幼く、かつ捻れた正義感というものが、私たちの世代にはあるような気がします。また、その正義を、現場責任者として行使できる立場にも、私たちの世代は、今、あります。

 どうにもこうにも、私たちの世代は、はざまの世代、過渡期の世代のような気がするのです。バブル時代の武勇伝を斜にかまえながら聞き流し、しかしながら、前の世代に対して反抗するわけではなく、うまくやりすごす、そんな世代。

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 私の世代は、これまで世代論としてメディアに登場することが少ない世代でした。世間をにぎわせるのは、その前の世代と、その後の世代。だから、私は、これまで自分の世代について、なかば考えることを放棄していたような気がします。けれども、今回の一連の事件は、自分のいる世代って何だろう、という思考をいやがおうでも強いてくる感じがします。

 この世代として、私は何ができるんだろう、みたいなことを柄にもなく考えました。

 きっと、はざまの世代で、過渡期の世代。これまでの価値観の良さも、それなりにわかり、その価値観の中で、共感と違和感の入り交じった感情で、キャリアを重ねて来た世代。そしてまた、新しい世代の価値観にも理解をしながらも、その新しさゆえの幼さや危うさにも気付いてしまう世代。だからこそ、私たちの世代の正義というか、信念みたいなものは、針の穴のような細かさの中でしか存在しないような気がします。

 その針の穴の正義を象徴する言葉。それは「時限爆弾」と同僚に対して語られたかもしれない言葉だと思います。仮に、その発言が創作であったとしても、その創作主、つまり同僚の感覚を表した言葉でもあります。この言葉は、けっこう根が深い言葉のような気がしますが、その根深さを正確に語る言葉を、まだ私たちの世代の誰も持っていないように思います。私を含めて。そこには、ただ感覚だけが、胃液のように底の方に沈んでいます。

 私たちの世代は、「時限爆弾」のような壊しつくす情熱を拒絶する覚悟みたいなものがいるのかもな、と思います。それが、針の穴のような小さな情熱であったとしても。「時限爆弾」は、考えることをやめる宣言。考えることをやめること、それは、敗北なんだと思います。そのためには、小さくても、新旧の世代のいいとこどりだ、と揶揄されようとも、考えて、考えて、つくりつづけることなんだろうと思います。いささか凡庸な結論であるけれども、それが、今、現場の最前線である私の世代が求められることのような気もするし。

 それに、はざまの世代、過渡期の世代にしかできないことは、必ずあるはずだと思うし。それは、きっと重要なものだとも思うし。だから、「時限爆弾」をしかけている場合じゃないと思うんですね。それは、自分に対する戒めの言葉として、思います。

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 小さくても、地味でも、華がなくても、考えろ、考えつづけろ。つくれ、つくりつづけろ。

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2010年9月21日 (火)

瀬戸の夕凪

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 瀬戸田の夕方。風がやんで、波の音もなくなります。観光客には風情のある光景ですが、地元の人にとっては、むし暑くてちょっとうんざりの時間らしいです。瀬戸大橋ができましたが、三原から船で20分くらいなので、生口島では船がまだまだ現役。朝、学生さんが船で通学していました。

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2010年9月20日 (月)

月見うどん

 大阪にいたときは、月見うどんがきらいでした。

 どうしてかって言うと、せっかくの澄んだ黄金色の昆布出汁のおつゆがにごってしまうから。おつゆに生卵が完全にまざって乳白色になるんですよねえ。あれがええんやんか、と言う方もいらっしゃると思うんですが、私はあれがちょっと苦手です。

 同じような人がいるからなのか、大阪では、立ち食いではなく、ちゃんとしたうどん屋さんには、けいらんうどんというものがあります。けいらんは、漢字にすると鶏卵。片栗粉でとろみのついたおつゆに、生卵をといたものを入れて、かき玉にしたものです。ものすごく熱くて、お口の中の皮がべろべろになるけど、あれは好き。生姜なんかも入っていて、寒い冬はいいんですよね。でも、月見うどんはどうも駄目。

 なのに、東京では月見そば(東京ではなぜかうどんは頼みません)をよく頼みます。それは、なぜか東京の鰹だしの濃いめのおつゆなら、生卵がまざらないからなんです。なんか理屈はあるんでしょうけど、とにかく関東風のおつゆなら混ざらないんです。不思議。月見天ぷらだと、生卵の黄身のとろっとした部分にかき揚げやそばをからめて食べると、満足感が格段に上がります。

 このあいだ、そのことを忘れていて、新大阪の立ち食いうどん屋さんで月見天ぷらを頼んでしまって、一瞬、あっ、失敗した、と思ったんですが、ていねいに食べると大丈夫なんじゃないか、とゆるゆると黄身をやぶると、みるみるおつゆがにごってしまいました。関西風のおつゆの生卵まざり力、おそるべしです。

 生卵と言えば、子供の頃は、ざるそばを頼むと、かならずうずらの生卵がついてきました。ざるそばって、そういうものだと思ってましたが、東京ではそうでもないんですよね。関西、とくに大阪は、そばに対する扱いがぞんざいですよね。最近では、ざるそばにうずらはつかなくなりましたし、おそばもかなりレベルが上がりました。それは、東京でのお好み焼きやたこ焼きのレベルが上がったのと同じですね。一頃は、東京のお好み焼きやたこ焼きは、ホットケーキみたいでしたものねえ。

 話が横道にそれますが、さきほど、ぞんざいとタイプして、漢字に変換されないなあ、と思って調べてみると、いろいろ謎の多い言葉のようですね。お暇なかたは、こことかここを見るとおもしろいかもです。

 生卵。入れる派、入れない派があるようです。関西で食べる月見うどんは苦手だけど、私は、断然入れる派です。カレーに生卵を入れて、醤油をかけて食べますし、納豆にも生卵を入れます。牛丼にも生卵です。温泉卵ではなんかものたりません。牛丼は、生卵をとかずに落とすのも、よくとかして、黄身と白身が完全にまざったものをかけるのも、どちらも好きです。後者は、すごくまろやかな味になります。

 というか、なんでこんなことを書いているんだろ、とは思わなくはないですが、まあ、ブログだし、休日だしねえ。ブログ、万歳。休日、万歳。

 きっと、昼飯に、卵焼き用のフライパンに、鰹だしにおじゃこと青ネギを入れて、火をかけて、煮たってきたらといた生卵をいれて、ぱしゃぱしゃかき混ぜたものをつくって食べたからですね。卵のぱしゃぱしゃと呼んでます。味醂とかお酒を入れると、もっと旨くはなりますが、そうなると、卵のぱしゃぱしゃではなく別の料理になってしまいます。まあ、勝手に定義して、なってしまいます、もあれですけど。親子丼の具のできそこないみたいな簡単な料理ですけど、けっこうおいしいですよ。

 では、引き続き、よい休日を。

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2010年9月19日 (日)

めしがうまけりゃ、なんとかなるさ。

 ということを、よく思います。

 たとえば、なんか、人の問題とか、お金の問題とか、経営状態の問題やらで、やな感じになっているお得意先の仕事なんかで、でも仕事だからやらなくちゃならなくて、みたいなとき。どうやってモチベーションを高めるかというと、ビジネス本に書いてあるようなことではまったく効かないんですよねえ。そんなもの、人間なんだから、やなもんはやなんです。

 そんなとき、意外に効くのは、めし。

 そのお得意先の近くに昼飯がおいしい食べ物屋さんを見つけるんですね。で、それをたのしみにするんです。だから、打ち合わせは、できる限り、朝一にします。普通は、やな仕事だと、気分的に後まわしになるんですが、昼飯のために、あえて朝一にするんです。

 そうなると、その仕事は案外好転するんですよね、なぜなら、と続くと、ライフハックになるんですが、まあ、現実は、あんまりそうはならないです。そんなにうまいこといくわけがないですよねえ。でも、とにかく、とりあえずは、その仕事がつらくてつらくてしょうがない、ということはなくなります。それだけでも、ずいぶん違います。

 勤め人の方、特に外回りの営業の方は、いろんなところに、とっておきの食べもの屋さんを持っているんでしょうね。私は、制作職なので、営業の方ほどあるわけではないですが、それでも、たくさんの得意先の仕事をやってきましたので、それなりにありますです。本日は、それをご紹介したいと思います。

 あっ、べつにこの近辺の得意先がいやだったってわけではありませんからね。大好きな得意先でも、おいしいお店は探しますので。どっちかというと、食通っぽい感じではなくて、気軽に入れて、そんなに高価じゃなくて、ひとりのときでも、さくっと行ける感じのお店を選んでみました。私は東京で仕事をしているので、東京近辺になります。

田町「ホーカーズ

 東京のカレーでは、ここがいちばん好きかも。私はカレー通ではないでの、本場のインドカレーやタイカレーがどんなものかは知りませんし、それに比べてどうか、ということは言えませんが、ここのココナツミルク入りの赤いカレー、サラサラで真っ赤なのチキンカレーは、ほんとおいしいなあ。なんというか、味がシンプルなんですね。いろいろ混ざりあった、複雑な味ではなく、キリッとしたおいしさ。
 ランチは、2種盛りというのがあるんですが、私はいつもこの組み合わせ。価格も良心的です。でも、お昼は落ち着いて食べる感じではないです。あと、とろっとバターが効いたポークカレーもおいしいです。それと、数量限定のカレー炒飯も人気。食べたい人は、早めにいかないとなくなります。


銀座「山形田

 前は京橋にありましたが、ウェブサイトを見たら、銀座に移転とのことです。また、食べにいかないとなあ。山形そばのお店で、いわゆる太めの田舎そばです。東京のそば屋さんと言えば、さっとくぐって、みたいな粋な感じのお店が多いですが、ここのは、かなり食べごたえがあります。そば食ったなあ、という気になります。
 おすすめは、「蔵王地鶏冷やし蕎麦」のおろし付き。これは、ほんとうまいです。そばも鶏も当然うまいんですが、出汁がいいんです。飲み干せる出汁。東京にあるのおそば屋さんでは、ここの「地鶏冷やし」がいちばん好きかも。
 

日本橋「ますたにラーメン

 京都銀閣寺の「ますたに」からのれんわけしたお店です。ラーメンは、人それぞれ好みがありますが、私は、ラーメンではここがいちばん好みです。九条ネギを多めで、無料のごはん付きでいただきます。銀閣寺の「ますたに」にも行ったことがあるんですが、こっちのほうが洗練されてて好きかなあ。
 

新宿「永坂更科布屋太兵衛

 麻布十番の永坂更科ですが、新宿の地下鉄ビルの「メトロ食堂街」にある支店は、立ち食いコーナーがあるんですよね。気軽で、新宿に寄ったときは、よく利用します。かき揚げが豚天なところも働く人の味方という感じです。かけともりがあります。立ち食いだけど、そば湯があるのがうれしいです。
 じつは、このお店、東京ではじめて食べたそばなんです。大学受験のとき、新宿で降りて、私、方向音痴なので、地下で迷って、そこで立ち食いそば屋さんだ、と思って入ったら、すごくおいしかったんですね。びっくりしました。大阪って、そばを大事にしないんですよね。うどんの代用というか、そんな感じ。まずは、そばの角が立っているのに驚いて、腰というか、プリプリしているのにびっくりして、へんな表現ですが、ラーメンみたい、と思っちゃったんです。
 あとから知ったことですが、普通の立ち食いそばは、まあ、麺は大阪と同じなんですよね。「永坂更科」は特別でした。
 

神田「サモサ

 ナンで食べる本格インドカレー。ということだけなら、たくさんありますが、ここはスタンド式で気軽に食べられるんですね。ガード下の入り口から入ると、券売機があるスタンドで、商店街側から入ると、テーブルでゆっくり食べるレストランになっています。その間にキッチンがあって、インド人のシェフがつくっています。つまり、レストランでゆっくり食べるカレーと味が同じなんです。
 

神保町「スヰートポーヅ」

 ここは有名ですよね。老舗だし、わりと有名なので、説明不要かもしれません。あっさりしているので、ときどき食べます。味噌汁がおいしいです。餃子の皮が筒上に巻かれてあるんですよね。つまり、両端が閉じていないんです。肉汁を楽しむ餃子という料理的にはどうなんだろうと思いますが、ま、それがスヰートポーヅという食べ物なので。資料集めのときに、よく行きます。
 

 とまあ、そんなところですかね。おいしいお店はたくさんありますが、あえて、というとこんな感じになりますね。やっぱり、ひとりでも大丈夫な気軽な感じというのが、私にとっては大切な気がしました。だから、立ち食いとかスタンドとかが多くなりますね。このあたりのお店は、いまだに用がなくても行くことがありますね。

 あと、必ずしも味だけじゃないかもです。今はもうないけど、有楽町のマリオンの近くにあったスタンドカレーとか、六本木のばくだんラーメンとか、絶品というにはちょっと足りない感じでも、帰りにあれ食べていこ、という気になります。仕事ではあまり行かないけど、高円寺の「ニューバーグ」なんかは、その代表格ですね。

 最後に、新大阪駅の「浪花そば」という立ち食いうどん。在来線のコンコースにあります。まあ、これといって特別なうどん屋さんではないですが、帰省やら出張やらで、東京から新大阪に立ち寄るときには、いつも利用します。帰って来たなあ、という気になるんですよね。きざみうどんを頼みます。味のついていない薄あげを刻んだのが入っています。いかにも大阪らしく、昆布だし。新大阪で降りるときにも、在来線に入って、うどん食べてから降ります。おすすめです。

 ほんとね、めしがうまけりゃ、なんとかなるさ、です。振り返ってみると、おいしいたべもの屋さんには、ずいぶん助けられたなあ、と思います。

 では、よい休日を。

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2010年9月12日 (日)

プライドの話

 土曜日に、ある人と話していたときに出た話。

 プライドっていうのは、やっかいなもんで、ないとどうしようもないし、プライドをなくせっていっても、どうしようもなく芽生えてくるものではあるけれど、妙なプライドっていうのは、人の成長とか可能性を閉ざしてしまうもんなんだよなあ、困ったもんだよなあ、もしかすると、妙なプライドっていうのがいちばん駄目なものなかのかも、と。

 妙なプライドってどんなものかというと、「私は専門家だから、私のやっていることに口を出さないでね。」というような、外部からのコミットメントを閉ざしてしまう方向のプライド。

 私はもともとコピーベースですから、そういうコピーライターさんをよく見てきました。

 「私は言葉の専門家なんだから、素人が口出ししないで。」

 コピーの場合は、わかりやすいんですよね。だって、誰でも言葉は書けるし、つっこみやすいんです。それに、コピーは誰にでもわかりやすく書く表現の最たるものだから、口出しされる時点で、もうね、コピーが駄目ってことで。その人は、コピーライターの職能の最低条件である「言葉を書く」ということがプライドになっちゃってるんですよね。

 じゃ、デザインの場合はどうか。これも、どんどんつっこみやすくなっていますよね。DTPが主流になってずいぶんたって、デザインの敷居がどんどん低くなってきています。写真の場合も、そうですよね。

 でもまあ、このレベルの話っていうのは、あまりおもしろいものでもないし、結局、その人、力がないよなあ、っていうことで終わってしまうし、つきつめると、「責任と自由」ではなく「義務と権利」のモードに行ってしまうので、不毛な話になりがち。ガタガタ言わずに、言われたことをやれよ、と。実際には、このレベルの話で困ってしまう状況はたくさんありますけどね。

 問題は、もうひとつ上のレベルの妙なプライド。「私は、この作風で勝負をしていますから、それはやれません。」的なプライド。作風を方法論と言い換えてもいいですが。これは、難しいんです。これも、外部からのコミットメントを閉ざしてしまうプライドのあり方なんですが、こちらは、まわりの人も少し困るけど、いちばん困るのは、自分自身だったりします。

 今、広告を含めたあらゆる制作稼業というのは、時代の変わり目にあります。つまり、時代が安定していないんです。そのとき、このプライドは、話を聞く分には、自分を変えない姿勢的ないい話にはなるんですが、でも、その結果、活躍の場がなくなっちゃうのは本末転倒だと思うし、あいつは自分を変えないまっすぐな奴ってほめる人が、その結果までケツを持ってくれるかといえば、そんなことはあるわけなくて、私は、この手の話では、苦言を呈してくれる人のほうが信用できると思っています。だって、人ごとだから、あいつはいいね、とほめられるんですもの。

 ざらっとした、身も蓋もない言い方をすれば、要するに市場原理なんですけどね。「私はこの作風」って言ったときに、買い手がなければ、それは市場に求められていないっていうことで、買い手を求めるという目的であるならば、どうしようもなくて、やがて求められる時代が来るまで待つしかないんです。

 このプライドは、ほめる人も多いと思いますし、私自身もわかるし、持っていたりもするんです。ある程度は必要なことのような気もするし。でも、自分の作風や方法論とは違うことをやることを、自分を捨てることではなく、たとえば、こういうふうに考えられないかな。

 相手がそれなりに力のある人であったとして、その人が、自分にないものを求めている、それは、自分の成長や可能性を広げる絶好のチャンスである、と。

 せっかく、多くの人から評価される作風を身につけたわけだから、それは、違う方法論であっても、一からはじめる人よりもアドバンテージがあるはずなんです。そのバックボーンをうまく使えれば、新しい作風が生まれるかもしれないし、人の可能性なんて、そんな異物が入り込んでくることによる反応でしか生まれないと思うんですよね。私自身も、振り返るとそうでしたし。

 それに、古典芸能ではないんだし、そうそう違うことやったところで、自分が大切にしている作風や方法論なんてなくなったりはしないし、逆に言えば、なくそうと思っても、なくならないわけだし。なくそうとするほうが難しいくらいだし。

 私は、時代が時代なんだから、もっと柔軟に、世渡りうまく、みたいなことをアドバイスはしたくないので、ちょっとまわりくどい書き方になってしまいましたが、これもやっぱり、時代が時代なんだから、と一緒のことなのかなあ。うーん。

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2010年9月 9日 (木)

「広告」というのはひとつのテクノロジーなのだと思う

 それは、よきにつけ、悪しきにつけ。

 当たり前のように広告の仕事をしてきて、それなりに広告の方法論を身につけて、広告という文化圏の中で息をして、広告というものの考え方にどっぷり浸かってきたけれど、その「広告」というやつは、「広告」というやつの外部から見れば、かなり異質なものの考え方のような気がします。

 所詮はビジネスではあるから、いろんな組織のごたごたに従うしかないこともありますし、それが現場のリアリズムかもしれませんが、本来的には、広告とは、そんなごたごたさえ排除するものの考え方のような気がします。だからといって、つくり手がいちばん尊重されるかというと、組織のごたごたさえ原理的には排除されるのと同様に、つくり手のプライドや自我さえ排除される、そんなものの考え方。ある意味で、きわめて悪魔的な考え方なのかもしれません。

 つまり、なによりも尊重されるべきは、広告。そして、広告によってかたちづくられるブランド。

 デザインより、コピーより、広告、そしてブランド。広告やブランドという命題の前では、デザインやコピーは、ブランドをつくる、あるいはブランドのメッセージを伝える手段である広告の、単なる一要素に過ぎません。

 元電通関西のCR局長である堀井博次さんは、こう言っています。

 「広告を芸術に利用するんやない。芸術を広告に利用するんや。」

 芸術に、自己表現とか、デザインとか、コピーとか、いろんな言葉を入れるとわかりやすいかもしれません。そして、また、広告は、広告クリエイターのキャリア形成の過程で、デザイナーやコピーライターの自意識を存分に利用しながら、と同時に、その自意識を、その都度、広告の名のもとに叩き潰しながら、広告至上主義者たちを創り出していきます。

 その過程で、ある者は、広告という冠を自ら外し、広告という呪縛から逃れ、冠なしのクリエイターとして生きるでしょう。しかし、それができなかった、あるいは、あえてしなかったものは、同じクリエイターでも、冠なしのクリエイターとは、まったく逆の倫理観をもって生きることになります。ほとんど宿命的に。

 広告というのは、それ、そのもの自体が、ひとつのテクノロジーなのだと思います。そのテクノロジーは、これまで、功罪あれど、経済や産業、文化の発展を支えてた、近現代の主要なテクノロジーのひとつのように思いますし、なんの因果か、私は、そのテクノロジーに取り付かれてしまっているのだろう、とは思います。

 それは、でも、やはりテクノロジーであるがゆえに、普遍的な考え方ではないことは事実なのでしょう。その内部では、その倫理は当たり前であっても、その外部では、異質なものの考え方ではあるのでしょうね。で、広告がテクノロジーであるがゆえに、そのシステムを貫く倫理に忠実な者にしか、広告がもたらす果実を手にできないだろうけれど、その外部にあるものが、その倫理に従えないことは、なんとなく分かるような気がします。

 今、自分が何をやりたいのか。何よりも、それがいちばん尊重されるべき。そういう文化圏に、私はたぶんいないんだろうと思います。今、広告のために、ブランドのために、何をやるべきなのか。そういう倫理の中にいます。そのことは、当たり前のように思っていたけれど、きっと、異質な考え方なのでしょう。

 と同時に、異質であるからこそ、テクノロジーをつかさどるテクノロジストとしての価値を持ち得るのだし、とも思います。そしてまた、きっと、そういう視点を持たない限り、広告クリエイターなんて職種は、これからは、中途半端なクリエイターとしての価値しか持ち得ないだろうとも思うし、たぶん、時代は、そんな中途半端さは必要としないでしょう。

 それにしても、厳しい時代に生きているものだなあ、と思います。たかが広告クリエイターが、夜中にブログでこんなことを書く時代。ほんとは、そんなことは体でわかっていて、夢とか希望とかを書くほうがいいんでしょうけど、やっぱり、時代が書かせるんでしょうね。

 まあ、なんとかなるさ、みたいな根拠のない自信みたいなものも、なくはないですけどね。どっちにしても、この5年でしょうね。根拠ないけど、たぶん、5年。広告をとりまくまわりの風景は、きっとガラッと変わる。そんな気がします。

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2010年9月 6日 (月)

iPadをさわっているほうが、ヘタな広告本を読むよりいいかもしれない

 会社でiPadを触る機会があって、いろいろといじってみて、こりゃすごいもんだよなあ、それまでにもタブレットPCという名前で同じようなものはあったけれど、こんなに見事ではなかったよなあ、と感心しました。ちょっと見事すぎて、逆に買う気がうせるというか、以前、某社のタブレットPCの広告に携わっていたこともあって、少し涙目になるんですよねえ。はい。要するに、嫉妬です、嫉妬。

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 まず何がすごいかっていうと、単純だけど、ウェブの表示がきれい。

 今のウェブサイトのサイズは、Yahoo! JAPANの横幅サイズがひとつの基準だと思いますが、縦表示でも、そのサイズでつくられたウェブサイトが無駄なくぴったり表示されるんですな。仕事でiPadでの表示を見据えてウェブサイトをつくってて、それがどんなふうに表示されるかを試すためにさわっていたんですが、液晶の美しさもさることながら、このどんぴしゃの表示がまあ、とってもいい感じなんです。

 縦表示だから、スクロールなしで表示される部分が多くて、もしかすると、横幅が広いデスクトップPCやノートPCよりもいいかもしれません。

 で、iPadを横に傾けると、センサーが働いて、ウェブも横向きに。表示はもちろん、横幅いっぱいに表示されます。つまり、大きく表示されるわけです。ほんと、気がきいてます。

 私、自分ではiPadを所有していないので、ほとんどはじめて触る感じなのですが、操作がほんと簡単で、これなら、今まで1回もPCを触ったことがない人でも、十分に使いこなせるでしょうね。

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 なぜ、今まで、先行したタブレットPCにこれができなかったんでしょうか。センサーやPC関連のテクノロジーが未発達だったから?ウェブや通信のインフラも整備されてなかったから?それはそうでしょうけど、でも、やっぱりそれは言い訳だと思います。

 タブレットPCって、既存のPCにタブレット使いのための機能をプラスしただけだったんですよね。これまでのPCのように何でもできます。そのうえ、タブレットの便利な機能をプラス。ね、お得でしょ、みたいな感じ。だから、PCの難しさに、さらにタブレットの機能が加わって、結果としては、すごく重くて難しいものができあがってしまった。

 時代というのはあるとは思うんですが、決定的に違うのは、ターゲティングなんでしょう。iPadはターゲティングがすごくしっかりしてて、タブレットPCには迷いがあった。そんな感じがします。

 iPadは、完全に、これまでPCを使ったことがない人を対象にしているんでしょうね。つまり、テレビのようにiPadを使う人。難しいことはよくわからないけど、さわっていたら、こんなことができた、あんなことができた、みたいな感じで使う人。

 そういう人たちに受け入れられるために、動作がびっくりするほど機敏だし、ソフトを立ち上げるのは、ボタンをタッチだけにしちゃっているし。そのかわり、PCみたいに、内部の深い階層へのアクセスやカスタマイズは切り捨ててしまっているし、OSだって簡略化してしまっています。ソフトウェアの選択肢もMac以上にないし。

 Flashを切り捨てたのは、きっと、Flashによってリッチコンテンツが見られることと、Flashによって、ウェブの表示が遅くなったり、時にはクラッシュしたりすることを天秤にかけて、使う人が、iPadっていらつくなあ、と思うのは後者だな、と思っての決断なんでしょうね。もちろん、政治的な部分もあるんでしょうけど。

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 つまり、iPadにあるのは、新しい顧客に対しての、見事なまでの最適化なんです。その最適化に、デバイス側の都合、言い換えれば、言い訳が一切ないんです。もちろん、Flashを使えたほうがいいとは思いますよ。でも、現状、新しい顧客への最適化を考えたら、そこは切り捨てよう、みたいな部分も含めて、最適化が行き届いています。

 これ、そのまま広告にもあてはまるんですよね。広告って、その設計の部分で言えば、顧客に対しての、「コミュニケーションの最適化」なんですね。まずは、顧客は誰かを見極めて、その顧客に対して、一切の妥協や自己都合、言い訳を排して、徹底してコミュニケーションを最適化する。それが、広告なんです。

 だから、広告は効くんです。当たり前ですよね。だって、ものすごい想像力で、コミュニケーションを最適化するわけですから、ほかのコミュニケーションに比べて効かないわけがないんです。本当は。広告が効かなくなった、みたいなのって、要するに、その最適化がうまくいっていないだけ。むしろ広告って駄目じゃん、無駄じゃん、みたいなことって、本質的に、広告はコミュニケーションの最適化であるにもかかわらず、その最適化が、結果として違う方向を向いてしまっているから。最適化が本分なのに、根本で間違えると、そりゃマイナスになります。

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 ほんと、iPadをさわっていると、広告についてたくさんのヒントがもらえます。ヘタな広告本を読むよりいいかもしれません。

 前の「広告表現とターゲティング感覚」というエントリでも書きましたが、最初の部分のターゲティング設定が難しくなってきている現状もあるし、それができなかったら、コミュニケーションの最適化もへったくれもないんですが、でもまあ、こんな時代でも、iPadは見事にやってのけているわけだし、それに、PCというプロダクトを取り巻く状況だって、広告をとりまく状況と似たようなもんだしね。

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2010年9月 5日 (日)

夢の話

 私の場合だけかもしれませんが、寝ているときに見る夢にはあるパターンがあって、そこからなかなか外れないんですね。もっと文学的というか高尚な夢を見たいもんだなあと思うものの、いつも見る夢は同じものばかり。しかも、これがまあ、ほんと人間がちいさいよなあ、という夢なんですよね。

 状況は、会社で、私はそこで仕事をしているんです。たぶん広告の仕事。具体的に何をつくっているかは夢ではわかりませんが、仕事の内容がまるきり違うという記憶はありません。とにかく、仕事をしているんです。けっこう忙しくしてて、だけど、仕事がもう間に合わない、という感じでもなくて、忙しいなりにうまくやっている感じ。

 でも、夢の中の自分はすごく葛藤しているんです。じつは、私はまだ大学に通っている身分で、仕事はちゃんとしているし、夢の中でも、リアルな自分と同じように中堅なんですが、大学生なんです。なんじゃそりゃ、とは思いますが、夢の中では、その状況は自然なんです。自分が大学生で、大学を卒業していないことは、自分だけが知っている感じで、まわりは大学を卒業しているものだと思っているか、もしくは、そんなことなんか知ったことか、みたいな感じ。

 仕事はさくさくこなしているけれど、頭の中ですごい葛藤があって、そろそろ授業に出ないと卒業できないのに、ああ、今日もまた大学に行けそうにないな、みたいなことを考えているんです。ちょっと外出します、みたいなこと言って抜け出せばなんとかなるかな、みたいなことを考えるけど、大学が八王子で、しかもけっこうな山道を歩かなきゃいけなくて、ああ、しんどいなあ、どうしようなか、なんて悩んでて、でもまあ、仕事はそこそこ楽しくて。

 そうそう、私、出身が中央大学なんですね。中央大学は八王子の山の中にあって、当時、私は府中に住んでいましたので、京王本線で高幡不動まで行って、そこで乗り換えて多摩動物公園で降りて、山道を登って、トンネルを抜けて、やっと大学のキャンパスにたどり着くというような感じだったんです。今ではモノレールで、大学前まで行けるそうですが、当時の私には、それが結構めんどうで、その記憶が、夢の中のシチュエーションにもなってて、しみじみ、ああしんどいなあ、どうしよう、なんて夢の中の私は悩んでいるわけです。

 それに、夢の中でも、大学で勉強することも、刑事訴訟法とか商法とか民法とか、そんな感じになっていて、表見代理がうんぬんかんぬん、とか考えてたりするんです。自分がしている仕事とものすごく関係が薄い感じで、夢の中の私もそれがわかってて。だから、もういいか、広告の仕事をしているし、みたいな逃げの気持ちがあるんです。夢の中では、大学を卒業しなきゃ就職ができない、といった悩みはこれっぽっちもなくて、それがほんと不思議。

 ただただ、せっかく大学行って、もうちょっとで卒業できるのに、ああ、授業が行けないし、行く気が起らない、どうしよう、といった悩みなんです。卒業できなくても、今日と同じような明日が来るんだろうな、ということも、夢の中の私はわかっているんです。夢の中の私は、現実の私の年齢と同じくらいで、経験もキャリアもそこそこある感じ。だから、この商売、あんまり大学の卒業とか関係ないかもなあ、みたいなことは分かっているわけです。

 だけど、もうちょっと努力すれば卒業できるものを、自分の怠惰な気持ちでできないのがちょっと嫌で、だけど、あの大学までの道のりをかんがえると、心底じゃまくさくて、みたいな葛藤が頭の中でぐるぐるぐるぐる回っていて、どうしよう、どうしよう、という感じなんですよね。

 そのあたりで、だいたいいつも目覚めます。この夢は、もう何度も見るけれど、この展開以外はないんです。なんでしょうね。少しくらいは、違う展開があってもいいのになあ、と思うんですが、いつも葛藤して終わり。で、目覚めると、ああ、大学卒業してるんだよなあ、もう、悩む必要なんかないんだよなあ、よかったなあ、とほっとするんです。

 昨晩、Twitterで、そのことをすこし書いたら、いろんな方から言及をいただきました。結構、同じような夢を見ている人が多いみたいですね。大学院受験の話だったり、内定をもらっているのに卒業できないだったり、大学入試の話だったり、バリエーションもあるようです。

 ほんと、なんなんでしょうねえ。そないに何度も夢に出てこなくてもいいのに。精神分析とかで、理由はすぐにわかりそうですけど、なんとなく言われそうなことはわかるし、あまり知りたくないなあ。

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2010年9月 3日 (金)

広告表現とターゲティング感覚

 広告をつくる際に大切なのもののひとつに、ターゲティング感覚があります。と、あります、と書いてしまいましたが、実際にはターゲティング感覚なんて言葉はなくて、私が勝手にそう呼んでいるだけのことなんですが。

 ターゲティング感覚というのは、メッセージを投げかける相手を想定する感覚のこと。たとえば、よく、ブログは不特定多数に向けて書け、と言いますよね。これは、私も言ってきました。ウェブに言葉を投げかけているわけだし、それは誰でも読めるわけだから、不特定多数に読まれることを意識せよ、みたいなこと。

 でもね、不特定多数を意識せよ、というのは、心の底で意識せよ、ということで、不特定多数に向けては、本当はメッセージなんて投げかけられないわけです。メッセージは、メッセージそれ自体にフィルタリング機能が備わっていて、自ずから人を選んでしまうもの。多かれ少なかれ、メッセージを投げかけるときには、そのメッセージを投げかける相手の像を、ある程度は想定しているんですよね。

 私のブログの場合、きっと、「広告人の」というタイトルをつけている時点で、ある程度は広告に携わる人に向けて、というのがあるんでしょうが、過去ログを読んでもらえば分かると思うんですが、世に言われる広告系ブログの中では、その意識は低い方だと思います。ということは、意識的であれ無意識的であれ、「広告人の」と言いながら、そういう、わりと広い層を私は書くときにイメージしているわけです。

 でも、それは不特定多数ではないです。不特定多数に読まれることは意識しているけれど、書くときに想定している相手は、そうではありません。書く際に、私の書くものに興味のない人は、フィルタリングしてしまっています。

 ブログに限らず、おしゃべりでもなんでもそんなもんだろうと思います。Twitterなんかは、自分が快適なターゲティング感覚でおしゃべりできる環境をフォロー機能でつくっていて、そこはクローズドのSNSと同じなんですが、それがオープン性も同時に兼ね備えている、というのが特徴で、ターゲティング感覚を軸にして見ると、ほんとよくできたコミュニケーションサービスだなあ、と思います。

 で、広告。

 広告表現は、このターゲティング感覚がとても重要になってくるんですよね。広告はターゲティングが大事と言われますよね。ターゲティングがしっかりしていないと、広告メッセージはうまくつくれません。で、いい広告メッセージをつくることができるかどうか、というのは、表現技術も大いにあるでしょうけど、ターゲティング感覚が優れているか否かにかかっている、と言ってもいいんじゃないかな、なんて私は思っています。

 マス広告は、オールターゲットだ、みたいなことを言われますよね。誰でも新聞を購読していた時代は、新聞広告は社会に向けてメッセージするということでしたし、メディアが多様化した今も、ある程度は成り立つでしょう。

 でも、オールターゲットだから、ターゲティング感覚がいらないか、というとそうでもなくて、さらに、新聞広告やテレビCMなんかは、その層の広さゆえに、ターゲティングがしやすいんですよね。要は、お茶の間をイメージ、みたいなことが可能ですから。

 広すぎるがゆえに、吉本隆明さん的な「大衆の原像」がイメージしやすくて、いわゆる、一般社会の人々をイメージできさえすれば、それでよかったんです。今の時代、「大衆の原像」というのをイメージしにくくはなっていますが、それでも、まあ、想像はできますし、そこはどれだけターゲティング感覚が優れているかが試される部分であって、その感覚の質はともかく、やりやすいんですよね。

 メディアが多様化して、広告の主な場が、どんどんウェブに移って来ています。では、ウェブではどうでしょうか。実際には、あまり違わないと思います。こんなことを言うと、いや全然違うでしょ、の大合唱が起きそうですが、ほとんど違いはありません。ほぼ同じです。というか、同じだと思えないという既成概念はそろそろ取り払ったほうがいいと、私は思っています。

 けれども、この話、ただし、という言葉がつくんですよね。

 ただし、という言葉の後には、ブランドのコアの部分を語っている分には、という言葉が続きます。書き手の感覚としては、実際にそうです。理屈は簡単。だって、それは世の中の誰にとっても新しい価値、あるいは普遍的であるべき価値なんですから。

 そうじゃない広告は、まったく違います。例えば、ある情報をアレンジして伝えるとか、告知していくような広告。現時点における情報の鮮度が問われるような広告。そのとき、ウェブが場であれば、ターゲティング感覚がちょっと混乱するんですよね。新聞広告やテレビCMではやりやすかったことが、ウェブではとたんに迷ってしまことになります。えっ、誰に向けて書いたらいいの、みたいな感じになるんです。で、必死で相手の像を決めるんですが、それでも、やっぱり迷う感じがあるんですよね。それは、やっぱり拭えないですね。新聞やテレビのようにはいきません。

 なぜか、考えてみたんですね。

 きっと、ウェブという場は、百科事典みたいなものだからなんでしょうね。自社やブランドが伝える情報を含めて、ウェブにはさまざまな情報がアーカイブされていて、理論上、すべての情報について、その情報、すでに読んだよ、という人を想定しうるんです。これは、社会一般だってそうだけど、少なくともウェブはアーカイブとして、即時に閲覧可能な場なんですよね。だったら、すべてを知っているということを前提にしてメッセージすればいいか。そんなことはありえないですよね。百科事典的な場であっても、ほとんどの人は、自分の興味のある数ページしか見ていないのが現実ですから。

 これは、ちいさいけれど、かなり大きな、ウェブ媒体の特性なんでしょうね。これは、広告表現から見たメディアにおける、ウェブ媒体のいちばん重要なメディア特性のように思えます。これは、検索ワードとか、広告するウェブメディアの特性を考えることで、かなり解決される問題のようにも思えますが、それでもこの問題は、本質的なものとして必ずついてまわります。

 このあたりの特性をしっかり考えないといけないんだろうなあ、でも、かなり難しいなあ、というのが実際のところですが、まあ、それが実感できただけでも、今のところはよしとするか、というところです。

 でもまあ、ブログを書いているときには、あまりそういうことを意識しないですんだのは、やっぱりこのブログはニュース的価値みたいなものではないところで書いているからなんでしょうね。逆に、ニュース的価値で勝負しているブログなんかは、こういう問題に毎回直面しているんでしょうね。

 しかしまあ、妙な逆説がここにあるなあ。アップトゥデートで更新される百科事典のような場であるがゆえに、情報告知系のメッセージが、ターゲティングしにくく投げかけにくい。メディアニュートラルだから、だったら他を選べばいいとは思いますが、これからは、ますます、できればウェブで完結、みたいなことが現実的には多くなってくるでしょうし、なんかうまいやり方はないものでしょうか。そのあたり、広告表現にとって、これからの課題かもしれません。

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