所謂、「大阪地方検察庁による郵便不正事件に絡む証拠改ざん事件」。
ずいぶん重苦しい事件が起きてしまったものだなあと思います。重苦しい事件は数多くありますが、この事件は、自分にかかわるいろいろな領域と重なる部分もあります。私は、普段、こうした事件に言及しないし、言及するほどの能力も情報も持っていないので、ブログにはあまり書かないでいましたが、今回は、この重苦しさの理由について書いてみようかな、と思いました。
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この事件、もともとは、広告業界にからむ事件でした。事件のあらましは、こう。Wikipediaの「障害者団体向け割引郵便制度悪用事件」を引用します。
障害者団体とされる「凛の会」(白山会に改称)や「健康フォーラム」が、2006年〜2008年ころ、大手家電量販会社、紳士服販売店、健康食品通販会社などのダイレクトメールを障害者団体の発行物と装い、「低料第三種郵便」として低価格で違法に発送して、通常の第三種郵便物の料金との差額を数十億円単位で不正に免れたとされる郵便法違反事件である。
大阪地検特捜部が公表した捜査結果では、障害者団体6団体の定期刊行物を装って、11社の広告主のダイレクトメール約3180万通が違法に発行され、正規の料金との差額は約37億5000万円を免れたとされている。
重苦しさのひとつめは、発端のこの事件。
広告業界では、90年後半くらいから、競合コンペにおいてメディアコミッションの割引合戦がはじまって、「できるだけ安く」というお題目が第一義になってきました。景気のいい頃は、広告会社の営業担当、媒体担当の仕事は、有限な広告媒体で、できる限りいい枠をおさえるというものでした。そのために、飲むのが仕事みたいなことが、広告の仕事における武勇伝として語られることが多かったんですよね。そんな広告業界の状況が、ガラッと変わったのが、前述の90年後半で、私はその新しい時代とともに、広告人として独り立ちをはじめ、自身のキャリアを積み重ねてきました。
前の世代の広告人がいくらバブルの頃の牧歌的な日々を懐かしもうと、それは、私の世代にとっては、もはや夢物語でしかなかったし、まあ、ちょっときれい事っぽくはあるけれども、最小コストで最大効果を追い求め、日々、研鑽を重ねて来たわけです。だからこそ、その前の世代の広告人に比べて、華はないかもしれませんが、私の世代、いや、正確に言えば、私の世代の中で、前の世代の夢物語に自身の夢を重ねることやめた僕らにしかないノウハウやテクノロジーは絶対にあるんです。そのことで、広告業界や組織の中で、僕らは、得意先に対して信頼を得て来たし、前の世代の広告人が、次々に信頼を失っていく中で、リアルな日常の中で、それなりに広告会社の稼ぎを生み出してきた、そんな自負が僕らにはありました。
ひとつの案件に対しては、僕らは、この環境を真正面から受け止めて、それを、広告の終焉なんてレトリックも使わずに、その環境で、いかに広告が機能していけるかということを一生懸命考え続けてきたわけです。もしくは、考え続けさせられてきた、と言ってもいいのかもしれません。
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その姿勢は、諸刃の剣でもあると思います。広告の効果を追い求めるという命題が、効果という言葉に重きが置かれるようになると、たやすく、広告を逸脱して効果を追い求めるということになります。ここでいう広告は、社会的な責任と公共性をもった企業活動としての広告のことで、小さな逸脱は、一方ではニュービジネスとして賞賛されながら、その一方では、炎上マーケティングなんて揶揄されながら、ネットでもしばしば話題になっていますよね。
でもね、その逸脱は、長期的に見て、絶対に、広告への信頼を損なうものです。広告なんて信頼されなくてもいい、そんな広告はもう終わっていいという意見もあるかもしれません。でも、私はその意見には絶対に与できません。それは、私が広告人だからです。私がそういう、一見新しそうに見える広告からの逸脱に対して、過剰に嫌悪を感じるのは、こういう私特有の世代感覚もあるのかもしれません。それと、そういうものに対しての、私の後に続く世代の無垢で無邪気な感覚も、すごく気になったりもします。
もしかすると、後者は、世代として新しい世代に敗北するのかもしれませんが、でも、私は、私の世代をかけて、これだけは間違った認識ではないと思っています。それは、ここ100年の従来メディアの歴史を見ればわかります。ネットだからといって、メディアの原則がまったく変わるわけではありませんし、もう、ネットだから新しいという時代でもないですし。
話を戻します。
その逸脱のベクトル上にある事件が、上記の事件だったわけです。もちろん、社会的には絶対に許されない違法行為ではあるので、明快に区別されるべきことなのかもしれません。でも、コストを徹底的におさえ、効果を追い求めるその先に、この事件があったのは間違いはありません。それは、私の仕事に対する姿勢の中の、その延長線上にあるかもしれない事件でもあるのです。だからこそ、この事件を知ったとき、私は、そのグロテスクさに目を背けたくなったのです。それは、自分の中にも、ひとつ間違えると表れてしまうグロテスクさでもあるからです。私の世代の、ある種の生真面目さの中には、その悪魔は潜んでいるような気がします。
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大阪地検特捜部は、この事件を立件し、そのストーリーを、当時、厚生労働省障害保健福祉部企画課長だった村木厚子さんが虚偽有印公文書作成を首謀したというストーリーを描きます。そのストーリーは、第一審で否定されます。そして、控訴断念で、完全に否定されることになりました。
このストーリーをつくったのが、大阪地方検察庁特別捜査部主任である前田恒彦検事。大阪地検特捜部が押収したフロピーディスクの日付を改ざんした証拠隠滅容疑で逮捕されました。もちろん、検察の信頼を大きく損ねてしまったことに対しての驚きもありますし、これは検察の危機と言ってもいいだろうとも思います。
でも、私がニュースを見て感じたのは、まったく別のことでした。私と同じ年齢なんですね。なんでもかんでも世代とか年齢に還元してしまうのは、愚の骨頂だとはわかっているけれども、この、年齢が同じであるということが、どうしても心から離れないのです。
この前田検事は、同僚にこのようなことを話したということです。asahi.comの『「FDに時限爆弾仕掛けた」 改ざん容疑の検事、同僚に』という記事から引用します。
検察関係者によると、今年1月に大阪地裁で開かれた村木氏の初公判で、FDに記録された最終更新日時内容が問題になった。このため、同僚検事の一人が東京地検特捜部に応援に行っていた前田検事に電話をかけ、「FDは重要な証拠なのに、なぜ返却したのか」と聞いた。これに対し、前田検事は「FDに時限爆弾を仕掛けた。プロパティ(最終更新日時)を変えた」と明かしたという。
この同僚への「時限爆弾」発言とは別に、上司にはこう報告しているようです。asahi.comの『改ざん「上司に報告」 前田容疑者、村木氏初公判の直後』から引用します。
証拠隠滅容疑で逮捕された大阪地検特捜部検事の前田恒彦容疑者(43)が地検の内部調査に対し、「今年1〜2月に当時の特捜部幹部や同僚に押収したFDのデータを書き換えてしまったかもしれないと伝えた」と説明していることがわかった。検察関係者が朝日新聞の取材に対して明らかにした。
検察という組織の中で、モードによる、本音と建前の使い分けがそこにあり、また、その使い分けが可能なほどに、その行為に対しての危機意識が決定的に欠如している感覚が伺えます。本音は、「時限爆弾」にあったのだと思います。
まだ、前者の発言は、組織防衛的な政治的意図があっての発言であるという可能性は残ってはいますが、このことは、もしかすると私の世代の最もグロテスクな部分を表してしまっているんじゃないか、と私は思ってしまいました。否定しようとしても、どうしても、否定できない気持ちわるさが残ります。これは、世代特有の感覚もありますし、また、今現在、この世代が、組織全体、あるいは部門全体の責任者ではなく、現場の責任者として最前線で仕事を遂行する年齢になっていることもあると思います。これも、心底、目を背けたくなるんです。
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前田検事にとって、このグロテスクな「障害者団体向け割引郵便制度悪用事件」が、もっと大きなグロテスクなるものであらねばなかなかった、という情熱を感じます。その、あらねばならないという情熱は、検察の意義から逸脱して、事実をねじ曲げようと、あらねばならなかったのでしょう。彼の中でも。もし、「時限爆弾」という発言が真実であったとるすならば、この情熱は、同僚には共有できると考えてのことだろうと思うのです。でなければ、組織防衛はもとより、自己防衛の観点からも到底理解できないことです。
世代論というものが、ある集合的なあいまいさでしか物事を語り得ないとわかってはいるけれども、その捻れた正義感というものが、私の世代に特有のものである感じがしてしょうがないのです。自分の中の闇の部分を見るのは嫌なことではあるけれど、その幼く、かつ捻れた正義感というものが、私たちの世代にはあるような気がします。また、その正義を、現場責任者として行使できる立場にも、私たちの世代は、今、あります。
どうにもこうにも、私たちの世代は、はざまの世代、過渡期の世代のような気がするのです。バブル時代の武勇伝を斜にかまえながら聞き流し、しかしながら、前の世代に対して反抗するわけではなく、うまくやりすごす、そんな世代。
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私の世代は、これまで世代論としてメディアに登場することが少ない世代でした。世間をにぎわせるのは、その前の世代と、その後の世代。だから、私は、これまで自分の世代について、なかば考えることを放棄していたような気がします。けれども、今回の一連の事件は、自分のいる世代って何だろう、という思考をいやがおうでも強いてくる感じがします。
この世代として、私は何ができるんだろう、みたいなことを柄にもなく考えました。
きっと、はざまの世代で、過渡期の世代。これまでの価値観の良さも、それなりにわかり、その価値観の中で、共感と違和感の入り交じった感情で、キャリアを重ねて来た世代。そしてまた、新しい世代の価値観にも理解をしながらも、その新しさゆえの幼さや危うさにも気付いてしまう世代。だからこそ、私たちの世代の正義というか、信念みたいなものは、針の穴のような細かさの中でしか存在しないような気がします。
その針の穴の正義を象徴する言葉。それは「時限爆弾」と同僚に対して語られたかもしれない言葉だと思います。仮に、その発言が創作であったとしても、その創作主、つまり同僚の感覚を表した言葉でもあります。この言葉は、けっこう根が深い言葉のような気がしますが、その根深さを正確に語る言葉を、まだ私たちの世代の誰も持っていないように思います。私を含めて。そこには、ただ感覚だけが、胃液のように底の方に沈んでいます。
私たちの世代は、「時限爆弾」のような壊しつくす情熱を拒絶する覚悟みたいなものがいるのかもな、と思います。それが、針の穴のような小さな情熱であったとしても。「時限爆弾」は、考えることをやめる宣言。考えることをやめること、それは、敗北なんだと思います。そのためには、小さくても、新旧の世代のいいとこどりだ、と揶揄されようとも、考えて、考えて、つくりつづけることなんだろうと思います。いささか凡庸な結論であるけれども、それが、今、現場の最前線である私の世代が求められることのような気もするし。
それに、はざまの世代、過渡期の世代にしかできないことは、必ずあるはずだと思うし。それは、きっと重要なものだとも思うし。だから、「時限爆弾」をしかけている場合じゃないと思うんですね。それは、自分に対する戒めの言葉として、思います。
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小さくても、地味でも、華がなくても、考えろ、考えつづけろ。つくれ、つくりつづけろ。