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2010年9月 9日 (木)

「広告」というのはひとつのテクノロジーなのだと思う

 それは、よきにつけ、悪しきにつけ。

 当たり前のように広告の仕事をしてきて、それなりに広告の方法論を身につけて、広告という文化圏の中で息をして、広告というものの考え方にどっぷり浸かってきたけれど、その「広告」というやつは、「広告」というやつの外部から見れば、かなり異質なものの考え方のような気がします。

 所詮はビジネスではあるから、いろんな組織のごたごたに従うしかないこともありますし、それが現場のリアリズムかもしれませんが、本来的には、広告とは、そんなごたごたさえ排除するものの考え方のような気がします。だからといって、つくり手がいちばん尊重されるかというと、組織のごたごたさえ原理的には排除されるのと同様に、つくり手のプライドや自我さえ排除される、そんなものの考え方。ある意味で、きわめて悪魔的な考え方なのかもしれません。

 つまり、なによりも尊重されるべきは、広告。そして、広告によってかたちづくられるブランド。

 デザインより、コピーより、広告、そしてブランド。広告やブランドという命題の前では、デザインやコピーは、ブランドをつくる、あるいはブランドのメッセージを伝える手段である広告の、単なる一要素に過ぎません。

 元電通関西のCR局長である堀井博次さんは、こう言っています。

 「広告を芸術に利用するんやない。芸術を広告に利用するんや。」

 芸術に、自己表現とか、デザインとか、コピーとか、いろんな言葉を入れるとわかりやすいかもしれません。そして、また、広告は、広告クリエイターのキャリア形成の過程で、デザイナーやコピーライターの自意識を存分に利用しながら、と同時に、その自意識を、その都度、広告の名のもとに叩き潰しながら、広告至上主義者たちを創り出していきます。

 その過程で、ある者は、広告という冠を自ら外し、広告という呪縛から逃れ、冠なしのクリエイターとして生きるでしょう。しかし、それができなかった、あるいは、あえてしなかったものは、同じクリエイターでも、冠なしのクリエイターとは、まったく逆の倫理観をもって生きることになります。ほとんど宿命的に。

 広告というのは、それ、そのもの自体が、ひとつのテクノロジーなのだと思います。そのテクノロジーは、これまで、功罪あれど、経済や産業、文化の発展を支えてた、近現代の主要なテクノロジーのひとつのように思いますし、なんの因果か、私は、そのテクノロジーに取り付かれてしまっているのだろう、とは思います。

 それは、でも、やはりテクノロジーであるがゆえに、普遍的な考え方ではないことは事実なのでしょう。その内部では、その倫理は当たり前であっても、その外部では、異質なものの考え方ではあるのでしょうね。で、広告がテクノロジーであるがゆえに、そのシステムを貫く倫理に忠実な者にしか、広告がもたらす果実を手にできないだろうけれど、その外部にあるものが、その倫理に従えないことは、なんとなく分かるような気がします。

 今、自分が何をやりたいのか。何よりも、それがいちばん尊重されるべき。そういう文化圏に、私はたぶんいないんだろうと思います。今、広告のために、ブランドのために、何をやるべきなのか。そういう倫理の中にいます。そのことは、当たり前のように思っていたけれど、きっと、異質な考え方なのでしょう。

 と同時に、異質であるからこそ、テクノロジーをつかさどるテクノロジストとしての価値を持ち得るのだし、とも思います。そしてまた、きっと、そういう視点を持たない限り、広告クリエイターなんて職種は、これからは、中途半端なクリエイターとしての価値しか持ち得ないだろうとも思うし、たぶん、時代は、そんな中途半端さは必要としないでしょう。

 それにしても、厳しい時代に生きているものだなあ、と思います。たかが広告クリエイターが、夜中にブログでこんなことを書く時代。ほんとは、そんなことは体でわかっていて、夢とか希望とかを書くほうがいいんでしょうけど、やっぱり、時代が書かせるんでしょうね。

 まあ、なんとかなるさ、みたいな根拠のない自信みたいなものも、なくはないですけどね。どっちにしても、この5年でしょうね。根拠ないけど、たぶん、5年。広告をとりまくまわりの風景は、きっとガラッと変わる。そんな気がします。

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コメント

素敵な文章ですね。
池本さんの真摯さにはいつも感嘆していますが、今回はひとしおでした。

投稿: カズキ | 2010年9月 9日 (木) 12:23

いえいえ、なんか、体の底のほうから来る危機感があるんですよね。

投稿: mb101bold | 2010年9月 9日 (木) 23:10

これは一気に読めました。
いい。
mb101boldさんは、”広告が好きっ”なんだなあ。
これを読むと私は違うってのがよく分かります。
私は映像と物語が好きなんです。
20年以上広告の世界にいますが。
広告で利用していただければ光栄です。利用されただけではすまないものを作る姿勢でやります。

投稿: denkihanabi | 2010年9月11日 (土) 03:51

たぶん、それはクリエイティブディレクターとCMディレクターの職能の差だと思うんですよね。私のこの話というのは、きっと、クリエイティブディレクターが強く持っている倫理なんでしょうね。
逆に言えば、CMディレクターは映像と物語に強いこだわりがないと、いいCMなんかつくれるわけがないのだし、そこに特化しないといけない職能だと思うんですよね。
それは、コピーライターやアートディレクターも同じことだと思います。
言葉のつたないコピーライターも、デザインが下手なアートディレクターも、本人がどう思おうと、自分をどう位置づけようと、コピーライター、アートディレクターですらなく、ましてやクリエイティブディレクターなんて、ということだと思います。
つまり、私のようなクリエイティブ・ディレクター稼業は、あらかじめ、こんな二重性というか矛盾を抱え込んじゃっているんですよね。
私の場合、コピーライターがベースになっていますので、自分なりの言葉にこだわりや愛着を強く持っているにもかかわらず、その言葉は広告に従属するという二重性。ほんと因果な職業だと思いますが、その二重性によってしかできないことっていうのはある、と思っています。
なので「広告が好き」と問われれば、そうですね、としか言えないとは思いますが、なんとなく複雑な思いというのがあるにはありますね。
なんとなく、コメントに触発されて長々と書いてしまいましたが、つづきはまたどこかの居酒屋さんで、近いうちに。ではでは。

投稿: mb101bold | 2010年9月12日 (日) 00:12

じょうずに言葉にされると、もやもやしてたことが一気に整理されてきます。ありがとうございます。

僕が「受注仕事」に誇りをもってて新事業・メーカー・メディアをやろうとすることに興味がないのは、広告至上主義者だからだなあと思いました。いつも感じる同業他「者」との強烈な違和感はこういうことかと。
といって広告制作者として大した実績もないですが。頭の使い方が「ブランドファースト」にはなってると感じます。
ブランドファーストは、=クライアントファースト=生活者ファースト=世の中ファースト。そこにやりがいや社会貢献性を感じます。
だから、純粋に自分のしたいことはない。受注仕事である広告が、自分のしたいことになってしまっている感じです。

あとは、「広告」の意味をどこまで広げていけるか。箭内さんほどではなくても、ああいうダイナミックな考え方が必要な気がする。クライアントの方はすでにそういう解決を求めている感触があります。

そういう意味で、「5年」という言葉にドキッとしました。今年35。広告の捉え方やいろんな選択を間違うと、10年後えらいとこに流れ着いてる気がしてこわいです。

投稿: yunbo | 2010年9月15日 (水) 11:30

>「広告」の意味をどこまで広げていけるか。

そこですよね。
私は「広告」ってつまるところ、こういうことだよ、というコアの部分を抽出できれば、そこから広げていけるんじゃないか、というふうに考えます。なので、思考としては逆なのかもしれません。最終的な目的は一緒のような気がしますが。
今、メディア環境が変化の過渡期で、いろんな手法が出て来ていますし、求められていますが、その中では、すでに従来メディアにおいて、その広告的効果や社会的妥当性が否定されているものも多く、過渡期であるがゆえにそれは新しく見えるのですが、でも、遅かれ早かれ、同じようなことになるよ、みたいな部分もあるんですよね。
そういう意味で、おおざっぱには5年かな、と思っております。従来メディアが20年かけて辿って来た道は、今の速度だと5年。もちろん、それは業界も含む、ですね。
なんか、そういうことをひたすらこのブログで書いて来たような気がします。

投稿: mb101bold | 2010年9月16日 (木) 00:47

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