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2010年10月の7件の記事

2010年10月26日 (火)

iPhoneやiPadが売れた理由は、きっとこういうことなんじゃないでしょうか

 iPhoneにも、iPadにも、食指が動かされなかった私がMacBook Airが猛烈に欲しくなって、その理由はなんだろうと考えていて、少しわかったことがあります。Twitterでもやりとりをしながら、自分なりに整理できました。

iMac、MacBook、MacBook Air=クリエイションツール
iPhone、iPad=ビューア・プレイヤー

 きっと、Appleは自社の製品群に対してこういうポジショニングをしているはず。で、私は、職業では制作だし、ウェブの住民としては、ウォッチャーというよりブロガーだったりするので、当然、前者のクリエイションツールとしてのApple製品に興味が持てたりするんだろうな、ということですね。

 essaさんがブログ「アンカテ」の「CGMコンテンツという金鉱の脇でスコップを売る男」というエントリで、こう書いておられます。

 ゴールドラッシュの時に、一番儲けたのは、金鉱の脇でスコップを売る男だったと言うが、アップルは、CGMという金鉱の入口をMacBookで押さえ、出口をiPadで押さえようとしている。

 CGMとかプロシューマとかいうことは、随分前から言われているが、今好調な企業は、アップルに限らず、そういう長期のトレンドを後押しすることで儲けようとしている。商売としてはまっとうなやり方だと思う。CGMという金鉱そのものが新しい富を生み出すことはないが、出口と入口には儲けるチャンスがあったのだ。

 そうなんですよね。ここが、Appleの憎たらしいくらいうまいところで、しかも子供っぽいというか青年っぽいウェブ界隈の企業群の中では、圧倒的に大人なところ。

 私は、大昔から、Windows CEのハンドヘルドPCやモバイルフォンを使って来たけれど、いまいち売れなかった(もちろん市場は作ったし、それは今につながっているわけだから、大きな役割は果たしたとは思うけど)のは、Appleのような大人なポジショニングができなかったことがあったからじゃないかな、と思います。

 つくるほうも、あの非力なOSとマシンで、PCにやれることの限界までやろうとしたし、ユーザーもそれを求めました。今となってはいい思い出ですが、OSの深いところを、よくわからないのにチューンナップして、あれができた、これもできたとよろこんだりして。でも、できたときはうれしいけれど、速度とか容量では実用にはほど遠く、結局はいつもPCに戻ってしまうんですよね。

 それは、W-ZERO3やBlackBerryの小さなQWERTYキーボードが象徴していますよね。あれはあれで便利ではあるんだけど、あの物理キーボードが象徴するものは、クリエイションツールとしてのW-ZERO3、BlackBerryなんだと思います。

 クリエイションツールへの思いを断ち切って、あくまで、基本は、ビューア・プレイヤーというCGMを含めたコンテンツの出口担当デバイスとしたところが、iPhone、iPadが売れた理由なんじゃないでしょうか。

 さらに言えば、Windows Phone 7がいかに優れたインターフェイスと性能を持って、iOSに迫ったとしても、Appleのような明確なポジショニングを持たない限りは、これまでのモバイルがいつも経験して来た「モバイルのジレンマ(あれもできる、これもできる、だけど、それならPCの方がもっとできるし)」という宿命からは逃れられないんじゃないか、と思います。もっとも、いちユーザーとしてはがんばってはほしいんですけどね。

 でも、もう一方で「クラウドコンピューティング」というAndroidに代表される流れもあって、どうなるかは微妙ではありますが、でもまあ、それでもやっぱり、ビューア・プレイヤーとしての明快な位置づけがない限り(クリエイションツールへのすけべ心を振り切らない限り)、個人的にはしんどいんじゃないかと思います。クラウドに期待票とかそういのじゃなくて、冷静にプロの目から見て、どうなんでしょうね。そのあたりは、いまいち疎いのでよくわからないところですが、勘としては、やっぱりしんどいという気がしています。

 それにしても、Appleというか、スティーブ・ジョブズさんは、ほんと憎たらしいですね。この10年のいろいろな栄枯盛衰を見ながら、相当考えたてきたんだろうなあ。

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2010年10月22日 (金)

消費と自由意志、そして、広告

 いやまあ、予想通りでましたね。11インチのMacBook Air。今使っている、MacBookのブラックの充電池が膨張してしまって、モバイルではちょっと難しくなってきて、バッテリを変えるか、新しいのを買うか迷ってたところでした。ちょうどよかった。買います。

 CPUが一世代前だったりして、ちょっと迷いもあるけれど、今あるMacBookよりもコンパクトだし、重さも半分だし、MacBookを家専用にして、Airをモバイル専用にすることで、もったいない感もないし、モバイルだと、まあブラウザが使えて、テキストが打てればいいので、実際は問題ないんですよね。それに、一昔前のモバイルにくらべりゃ、格段に性能いいし。昔、リブレットL2を買った時のような残念感はもうないでしょう。やっぱり、Crusoeはきつかったです。

 とまあ、今回は、わりとあっさり「買い!」と決めてしまったわけですが、そのとき、ああ、これが消費のたのしさだったりするんだよなあ、とあらためて思いました。

 つまり、思いっきり、誰にもじゃまされずに「自由意志」を行使できる行為なんですよね、消費って。どれを買うかも自由だし、やっぱり買わないのも自由だし、今回はまだ見合わせるのも自由だし、別のものを買うのも自由。それは、お金払ってものを手に入れる瞬間まで自由。この自由は、Libertyじゃなくて、Freedom。犬井ヒロシさんが叫ぶ「自由だ!」ってやつ。でもって、こういうFreedomを満喫できることって、あまりないんですよね、こんなに便利な世の中になってもね。

 だから、Twitterでも、ブログでも、お買い物について語りたくなるんですよね。だって、そこにまぎれもない、私の意志があるんだもの。これが私だっていうことを、消費で表現できるんですよね。

 広告は、たぶん、この自由意志にひとつの選択の理由を提示するものだと思います。ここで言う広告は、狭義の広告で、SPやPRではない、いわゆるAdvertisingのことですが、Advertisingは、きっとこの自由意志を阻害しちゃいけないんでしょうね。

 他社を選ぶという選択肢を消去しようとする比較広告がいまいち効かない、少なくとも、長期視点において続かない理由がわかった気がします。比較広告に対しておおらかな欧米でも、ずっと比較広告を打ち続けるブランドは見たことがないし、それは、たぶん、このあたりに理由があるんでしょうね。

 なんか、「自由意志」という補助線を引くと、とたんに消費がわかりやすくなったなあ。まあ、気のせいかもしれませんが、とりあえず、今回はメモがてらに。ではでは。

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2010年10月18日 (月)

中央線

 中央線のオレンジ電車が引退しました。約30年間のお勤めだそうです。お疲れさまでした。正式な名称は、201系と言うそうです。

 東京で仕事を始めてから、毎日のように乗った電車でした。ずっと中野で暮らしているので、かれこれ20年近く乗り続けていたことになります。その間に、いろいろと職場が変わったりはしましたが、中央線には乗り続けてきました。

 近頃は、もっぱらアルミでできたE233系ですが、ときたま201系に出会うと、ほんの少し得した気分になったりもしました。なんでしょうね、あの気分。

 広告屋なので、車内広告を眺めることが多いです。最近は、ローンの広告やパチンコの広告の隣に、法律事務所の広告があったりして、広告は世相を表すなあ、と思ったりしていますが、そんな中に、ひっそりとJRの広告があって、その広告には、荻窪か三鷹あたりの風景写真に「中央線が好きだ。」と書いてあります。

 運営している会社が「中央線が好きだ。」と思うのは当たり前だよなあ、どの路線も好きでないといけないし、わざわざ言う必要はないよなあ、みたいなことは思わなくはないけれど、でもまあ、その気分はすごくわかります。中央線と、その線路を走るオレンジの電車には、理屈をこえたものがあるんでしょうね。

 201系は、ドア上の広告枠が好きでした。かなり横長の車内ポスターです。新聞で言えば、全3段くらいの比率ですね。あの枠にいつも掲載されている某空調メーカーの広告があって、東京で仕事をするようになってから、ずっと眺めていたんです。その広告は、表現としてはうまい広告ではなかったけれど、なぜか好きだったんですね。

 いつか、この枠でこのメーカーの広告がつくれたらなあ、と思っていたら、不思議なことですが、ご縁があって、2年間くらい担当することになりました。ひたすら、空気について語る、わりと静かな広告をたくさんつくりました。その中で、赤ちゃんの写真で、「人は、寝ているあいだも空気を吸っている。」というコピーがついた企業広告があって、その広告は、今も使われたりしているんですよね。今も、ときどき新聞や雑誌で見かけることがあります。かれこれ、10年くらいになるんじゃないかなあ。

 つくった広告が長く使われることは、広告屋としては、とても光栄なことで、その間に、とあるおばあさんから、若い頃に病気で亡くなった子供に似ていて、我が子のように思えるので、あの写真をいただけないでしょうか、という手紙をもらったりもしました。そんな思い出が、あのオレンジ色の電車にはあります。

 あのドア上の広告枠は、E233系に切り替わるにつれて、デジタルサイネージ「トレインチャンネル」になり、姿を消しつつありました。201系の引退で、中央線のあの広告枠は完全に姿を消すことになりました。時代の流れですが、少しさみしいですね。

 あの横長のポスターは、言葉が主役になれるんですよね。そんなところも、好きだった理由のひとつかもしれません。「トレインチャンネル」は、やっぱりストーリーや映像や情報が主で、広告は字幕付きのテレビCMが多いようですし、あのポスターと同じような感じでは広告をつくるわけにはいかないです。時代が変わって、新しく生まれるものもあれば、静かに姿を消していくものもある、ということなんでしょうね。

 それは、なんでも同じだと思いますし、ことさら思いを深くしても、そんな感傷とは関係なしに時は流れていくわけだし、まあ、さみしいけどしょうがないなあ、と思いますけど、201系が引退したその日の深夜に、ひっそりと、その思いを残しておこうかな、なんて思いました。

 もうすぐ、中央線が走り出します。

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2010年10月17日 (日)

「このブログ、広告がすごく好きだということが伝わってくるんだけど、ときどき、本当は、広告がすごく嫌いなんじゃないか、と思うことがあるなあ。」

 長いことブログをやっていると、私に向けてではない言葉で私について言及されていることもたまにあって、まあ、それなりに俗な人間でもあるので、それなりに見つけては読んだりしているんですが、ずいぶん前にですが、その中で少し気になる言葉があったんですね。

 その言葉は、特に批判や反論というわけじゃなく、私のブログを読んでの感想みたいな言葉でした。確か、はてなブックマークか、ブログかで語られた言葉ですが、探してみたけど見つかりませんでしたので、だいたいこんな感じ、と思っていただければと思います。

 「このブログ、広告がすごく好きだということが伝わってくるんだけど、ときどき、本当は、広告がすごく嫌いなんじゃないか、と思うことがあるなあ。」

 確かになあ、そうなんかもなあ、みたいなことは少し思います。広告がすごく好き、というよりも、実際は、広告は職業だし、唯一、私の専門分野だとも思うし、一応それなりに長く真剣にやってきて、有名とか無名とか関係なしに、それなりに、やっぱりあるわけですよ。言いたいことが。それに、この領域では、誰よりも考えているし、わかっている、みたいなことが。実際に、ひとつのジョブ単位では、誰よりもいいソリューションを出す自信がある、ということを前提に仕事をしているわけで、ずいぶんと思い上がった言い分ではあるけれど、それくらいのずぶとさがないとやってられないわけで、ね。

 だから、好き、というのとは、ちょっと違う気もしますが、まあでも、それを好きと言うんだよ、と言われれば、そうですね、としか言いようがない気もしますので、まあ、広告がとても好きなんだろうと思います。

 広告がすごく嫌いなんじゃないか、ということについては、正直、あっ、痛いとこついてくるなあ、と思いました。嫌い、ではないけれど、そう見える部分は確かにある、と自分でも思います。

 この言及は、確か、PPP(Pay Per Post=お金払って提灯ブログを書いてもらうこと)関連のことを書いたときの指摘だったと記憶しているんですが、私はPPPについては、rel=nofollowで、エントリに明示していたとしても、あまりいいことではないと思っていますし、そんな流れが新しい広告だとすれば、私はその新しい広告に否定的。というか、そんな新しい広告はいらないと思うし、最終的には絶対にうまくいかないと思っています。このあたりについては、『「純広」という言葉が持つ意味』というエントリなんかで書きましたので、お暇なときにお読みいただければと思います。

 もうひとつ。

 かの人に、このブログ主、もしかすると広告が嫌いなんじゃないか、と思わせた要因は、きっとこれかな、と思いあたることがあります。最近では『「あえて狙わないほうがいい」という時代』というエントリにも書きましたが、2000年に入ってから、なんとなく、あっ、もうこれまでの広告の言葉は信じてもらえなくなっているんじゃないか、みたいなことに気付いたからなんですよね。

 2000年と言えば、Web2.0とか言われるずっと前。その頃に、なんとなく、そんな気分が少しありました。消費者は、もう、所謂コピーライターの言葉を企業の言葉として信じてはくれないんじゃないか、みたいな気持ちがあったんですね。イコールで結べない、みたいな感覚。

 これまで、興味をもたれて、それなりに信じてもらえた広告の言葉は、いつのまにか信じてもらえなくなってしまった、という意識が私にはあります。それは、私の場合、すこしばかり過剰に、という気がするけれど、まあ、その領域に執着している限り、ちょっとバランスが悪いなあ、とは思うけれど、しょうがないことではあるんでしょうけどね。

 今、広告に書いてある言葉のとおりにメッセージを受け取る人は、どれくらいいるのでしょうか。メッセージは、書いてある言葉、その言葉を裏切らない企業行動、品質、サービス、言動、経済活動、そのほか諸々のことが統合的にあわさって、はじめてメッセージ足りうるものだと思います。それは、昔も今も変わらないけれど、時代の空気は、そのことを厳密に評価するようになっている気がします。言ってることと、やってることが、まったく違うやんか、とか、会ってみると、ちょっと嫌なやつだったよ、みたいな、ね。

 単純に言えば、もう、レトリックだけでは駄目かもね、ということですね。

 でもね、だから、反コピー、反言葉というわけではなくて、だからこそ、その統合されたイメージの核になる言葉を選ぶ、というか、つくっていかなきゃならないんじゃいか、という思いが、私には過剰にあるんです。その、あれも違う、これも違う、っていう中で、残った言葉をつむいで提示することが、広告コピーなんじゃないか、といった。

 その核があって、そこからぶれなければ、逆に、どれだけ長くてもくどくても、信じてもらえるし、読んでもらえる。特に、ウェブがあったり、メディアが多様化している、つまり、モードが複数ある状況下では、この、様々なものの中心となるべき、広告コピーは大切になってくるんじゃないかな、と思います。そして、この核の部分がしっかりしていて、しかも包容力がありさえすれば、もう一度、広告は、その核の部分をベースに、表現として、もっと自由に飛び立てるんじゃないか、みたいなことは、希望として思ったりもしています。

 加えて言えば、その核をつくるのは、今も、本当は、専門職たる広告人固有の領域ではないか、という自負はあります。でも、実際は、そういうふうな世の中の流れはないですけどね。今、広告人はみんな弱ってるから。

 広告は信じているけど、それは、今までの広告じゃない。でも、その、これからの広告っていうのは、世間で言われている「新しい広告」でもない。

 まあ、こういう私のややこしい部分が、広告嫌いに見せているんだろうな、と思います。というか、私にも、その先の深層心理はわかりませんので何とも言えませんが、自己言及の限界というものがあるにしても、とりあえずは、広告って信じてもらっていない、だから、信じてもらえる広告はどのようにあればいいのか、みたいな捻れが、私にはあるんでしょうね。つまりは、これまでの広告の文脈からは、少し距離は置いています。

 でも、距離は置いているものの、そういえば、手法としての広告については、今まで一度も懐疑的になったことはないですね。それは、あらためて考えると、ほんとそうだったなあ、と思います。広告はもうだめ、これからは口コミとPRだ、プロモーションだ、ブランデッドエンターテイメントだ、みたいなことは、一度も思ったことがありません。それは、単にモードの問題。モードがたくさんあるだけの話で、根元は同じ。実務で言えば、ここで根元がバラバラになってしまうのは、かなり問題だと思っています。

 そういう意味では、やっぱり、根っからの広告好きなんでしょうね。では、よい日曜日を。

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2010年10月10日 (日)

ラーメンの話

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 最近は、涼しくなってきて、ようやく、ラーメンでも食べよっかなという気になってきました。とはいいつつ、それほど頻繁に食べているわけではないですが、それでも新しい店ができたら、一度は食べてみる、みたいな感じですから、一応はラーメン好きとは言えるのかなあ。でも、私がラーメン好きだと、世の中のほとんどの人がラーメン好きになってしまいそうですし、当然、小麦のどうのこうの、無化調のどうのこうのはあまり語れませんし。

 ま、そんな普通のラーメン好きのラーメンの話です。

 それにしても、この夏は暑かったから、ラーメン屋さんはしんどかったでしょうね。さずがに、ああも暑いとラーメンはいいやってなりますものねえ。秋冬ものが振るわずで、ユニクロ減益、といったことはニュースになるけれど、ラーメン屋が減益というのはニュースになりにくいので、そのあたりはよくわかりませんが。

 なんの気なしに中野の街を歩いていると、ラーメン屋さんがたくさんオープンしているんですよね。ここ数ヶ月で一気に増えた感じがします。中野は「青葉」の成功もあって、すっかりラーメンの街になってきて、若いラーメン職人さんは中野を目指す、みたいなことになっているのでしょうか。それとも、賃料が下がって、若い人でも借りられるようになったからなのでしょうか。

 隣町の高円寺でもラーメン屋さんが増えた気がします。そのぶん減ったのは、パチンコ屋さん。高円寺は等価交換ではなかったので、いまの状況ではきつかったのかもですね。中野にくらべて高円寺はそのぶん設定や釘が甘い印象がありましたが、もう、こうも景気が悪いと、そんな方針ではやっていけないということなのかな。なくなったのは、独立系ばかりで、そのあたりも時代を反映している気もします。

 ラーメンは、バリエーションがあるから、若者を惹き付けるのでしょうね。よし、一発ラーメンで勝負、みたいなことが成り立つのは、バリエーションがあってこその話。どこかに自分の立ち位置を見つけられそうな気がするし。味噌あり、醤油あり、豚骨あり、魚介あり。家系、二郎系、大勝軒系などなど、流派もいろいろですし。

 これは、ラーメンに限らず、いろいろな業界に言えることでしょうね。バリエーションの豊かさがなくなってきたら、若い人はそこに入りようがないですから。このあいだ、テレビのドキュメンタリーを見ていたら、ある女性が立ち上げた農業ベンチャーに新卒で入社した女の子がこんなことを言っていました。

 「ここなら、商社的なことができるかもしれないから。」

 その女の子は、商社志望で、商社中心に就職活動をしていたそうです。でも、このご時勢、商社は全滅。それよりなにより就職だってままならない。悪戦苦闘の末、縁あって、その農業ベンチャーに入社することになったそうです。商社的なことができるかも、と言う言葉がとても印象的でした。こういう発想の転換、いいですね。とってもいいです。

 中野や高円寺にできたラーメン屋さんの若い店長さんたちにも、そんな発想の転換があったのかもしれないですね。和食やイタリアンをやっていて、ラーメンに転身なんて人も多いんでしょうね。

 ラーメンには夢があるのでしょう。きっと。

 可能性と言い換えてもいいかもしれませんが、まだ誰も手をつけていない領域がそこにありそうな感じがラーメンにはあります。そばにもうどんにも、もうないですよね。でも、ラーメンにはある。ありそうな気がする。ほんとにあるかどうかはわかりませんが、とりあえずは、ありそうな気がするっていうことは大事な気がします。

 これは、どこかIT業界と似ている気がします。今だとモバイルがそんな感じなんでしょうね。GREEには希望がある。モバゲーには希望がある。そんな感じ。実際にあるかどうかはわかりませんが。

 その希望感、ほんと大切ですよね。実体はともかく、希望感がなくなったら終わりですから。希望感は、何がつくるのか、というと、これはもう多様性なんでしょうね。硬直化した中でも、なんとかラーメン的なものを見つけられればなあ、と。

 写真は、ラーメンとはまったく関係のない東京青山の空ですが、青山はどうかというと、ラーメン屋さんはあまり増える気配はありません。そのかわり増えたのは、お弁当屋さん。働く人は、今、節約してて、オフィス街ではラーメンは流行らないのかもですね。

 でも、この流れは、ちょっと希望かもな、なんて思ったりもします。

 中野とか高円寺とか、生活の街で天下穫りを目指す、若いラーメン屋店主たち。いいじゃないですか。私は、そんなふうに思います。みんながみんな、銀座や六本木を目指さなくてもいいんですよね。今、中野のサンロードを入った路地は、とってもおもしろい感じになってます。ラーメンに限らず、立ち飲み屋さんや、居酒屋さんなどなど、独立系のお店がしのぎを削っています。

 みんな、お店の内装は質素な感じでがんばってます。これは、ちょっと希望だなあ。ほんと、希望です。

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2010年10月 7日 (木)

人はひとつの球しか受けきれない

 私がやっている仕事って、何の仕事なんだろう。

 いや、別に懐疑的になっているとか、そういうわけじゃなく。

 簡単に言えば「広告の仕事」とか「コミュニケーションの仕事」とか、そんな話で済んでしまうんだけどね。でもね、じゃあ「広告」とか「コミュニケーション」を仕事にするって、どういうことなの、みたいな、ね、本質的に、それはどういうことを意味しているんだろうか、なんてね。

 ちょっと角度を変えて、たとえばコピーライターなら、言葉を書く人だし、アートディレクターならアートをつくる人。でもね、言葉を書く人も、アートをつくる人もいっぱいいますよね。だったら、その、コピーライターなり、アートディレクターなりの専門性って何なの、みたいな。

 クリエイティブディレクターっていう役職がありますよね。それは、単にクリエイティブチームの責任者とか偉い人とか、そういう意味合いだけでなくてね。

 クリエイティブディレクターっていうのは、実質的には、コピーライターとかアートディレクターとか、日系の広告業界のカルチャーで言えば、CMプランナーとかを兼ねる場合がほとんどだし(欧米の広告業界ではCMプランナーという職種はないんですよね)、欧米では、クリエイティブディレクターは、コピーベース、アートベースとか言ますけど、そういうベースになるものの実務部分を捨象してなお残る専門性というのが、まさにクリエイティブディレクターの職能だったりもして、そこには、それなりの専門性っていうのが確実にあるわけなんです。

 ただのお飾りの言葉じゃないし、私自身は、そういう思いで、やってきたし、今もやっているわけですね。他の人は、実際にはどうか知らないけれど、ま、同じ思いなんだろうな、とは思います。

 ちょっと迂回してしまったけど、クリエイティブディレクターって、実際に何しているの、っていう問いに答えることが、「広告」や「コミュニケーション」を仕事にするって、どういうことなの、という問いの正確な答えになるんだろうな、なんて思うんですね。

 で、なんだろうなあ、と考えていくと、つまるところ、「人はひとつの球しか受けきれない」という人間の心理的な条件のもとで、そのひとつの球をどうするかを考える仕事である、と言えるんじゃないかな、と。

 人って、キャッチボールと同じで、基本的にひとつの球しか受けきれないものなんだと思います。ひとつの球だと簡単に受けられる球でも、同時にたくさんの球が飛んできたら、ひとつも受けられなくなってしまいますよね。

 だから、投げる球はひとつにしないといけないんですよね。投げたい球はいっぱいあっても、投げられる側が受けきれるのは、たったひとつなんです。そのたったひとつの球をどういう球にするか、ということを考えることが、「広告」とか「コミュニケーション」を仕事にするってことなんだと、と。

 足し算は、誰でもできるんですよね。それに、足し算を考えるって、たのしいことだし。足し算は、みんな大好き。

 でも、あれも足して、これも足して、を重ねると完璧になるか、というと、そうじゃないんです。足して、足して、足して、を重ねると、何を言っているかわからない、が生まれるだけなんです。だから、「広告」とか「コミュニケーション」の仕事は、じつは、引き算にあるんです。

 引き算は、基本的には、人間の本性に反した行為なんでしょうね。たぶん、人間は本質的に引き算が嫌い。でも、引き算をしないと、ひとつの球はつくれません。その引き算を考えるのが、「広告」とか「コミュニケーション」を専門にするってことなんだろうな、と思います。

 この「人はひとつの球しか受けきれない」っていうのは、大昔から広告業界で語られてきたメタファではあるんですが、結局、そこに戻るんだろうな。で、そのことは、大昔から語られてきたことだけど、実際は、ほんと難しいことでもあるんですよね。それに、たったひとつの、自分が投げた球が、ほんとにその球でいいの、ということもたくさんありますし。

 また、「広告」や「コミュニケーション」の舞台が多様化してきて、基本、ネットがあるから、いろんな球を投げられると勘違いしがち。でも、ネットができたり、メディアが多様化しても、人間が変わったわけではないですしね。やっぱり、人は、あいかわらず、ひとつの球しか受けきれないんですよ。たとえがちょっとずれるかもしれないけれど、ネットだって、ヘビーユーザーになると、半径ワンクリックとかになるでしょ。

 行動でさえそうなのに、ブランドのメッセージの受容なら、なおさらなんです。

 引き算をミッションにして、こういう感じのことをネチネチと考える仕事。それが、私のやっている仕事だと言えるんじゃないかな。まあ、そんな、みんながあまり考えたくないことを考えるのがたのしい、たのしくてしかたがない、みたいな感じだから、やっていけるし、お金ももらえたりするんだろうな、なんて思うんですよねえ。

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2010年10月 5日 (火)

ブログだけど180字で書いてみました

 締め切りは発明の母とよく言います。もし、締め切りがなくて、予算も青天井で、思いのままに作っていいよって言われたら、きっと、すごく困ってしまうんだろうと思います。そんなことは一度も言われたことないけど。まあ、そんなわけで、最近思ったことなどなど、Twitterみたいに180字しばりで、あれこれ書き連ねていきます。べ、べつに、ネタがないわけじゃないんだからねっ。

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 歯医者さんにて。金属を入れるとき、すごく歯がしみたんです。神経にさわる痛み。なんとか我慢ができるけど、不安が痛みを増幅するというか、とにかくたまらん気持ちになったんです。で、聞くと、きちんとした治療をしてもそんなものらしいです。あとで痛みはちゃんとひく、と。その話を聞いたら、不思議と痛みに耐えられるんですね。理由がわかることって、すごく大事なことなんだなあ。

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 お墓参りに広島に行きました。広島といっても生口島というところで、新幹線の最寄り駅は、三原なんです。新大阪からは、のぞみで福山。そこからこだまに乗り換え。最近のこだまって、普通席のチケットでグリーンの席に乗れるんですよね。帰りは500系のグリーン席。はじめて座りました。とっても快適。新大阪からだと、あまり時間がかわらないので、こだまでゆっくり、おすすめですよ。

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 生口島では、旅館に泊まりました。部屋も広くて、レモンが入った風呂もあったり、ごはんもおいしかったし、とってもよかったんですが、ひとつだけ。夕ごはんの量が多すぎるんです。というか、旅館って、どこも量が多いんですよね。あれ、食べきれる人いるのかな。でもまあ、適量だと、あの旅館、飯が貧弱って言われるんだろうな。そのあたりのバランスのとり方って、難しいんでしょうね。

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 最近思うのは、バランスって難しいなあ、ということ。所謂、いい塩梅というやつ。もしかすると、バランスをとるのって、いちばん難しいのかも。これは、若い時は思いもしなかったことです。バランスひとつで、せっかくのアイデアがえらく変わってしまうんです。逆に、バランスがとれていたら、細かいことがある程度どうなっても大丈夫。きっと、バランスがのりしろをつくるんでしょうね。

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 広告制作を例にとると、戦略、企画、制作、定着というプロセスを踏みます。これ、どのプロセスも大事ですが、バランスの話で言えば、最後の定着がバランスをつくるんでしょうね。定着っていうのは、制作のあとの微調整のことです。ブラッシュアップとも言います。定着をしっかりやるっていうのは、バランスをしっかり見るということです。だから、ないがしろにしちゃいけないんですよね。

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 ところで、戦略という言葉。英語で言えば、ストラテジー。あまりいい言葉ではないですよね。でも、言い換えが難しいし、妙な言い換えをすると、逆に妙なニュアンスがついてしまって鼻につきます。プランニングに近いけど、ストラテジーは、もっと上位の概念だし、このあたりは明確にしたほうがよさそう。個人的には、このあたりの言い換え問題、もういいやと思ってます。戦略は戦略だし。

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 他にも、消費者とか、ユーザーとか。生活者と呼ぶべきとか、お客様とか、顧客とか。これも、もういいかな、と。なんか、言い換えるべき、というコンテクストに取り込まれることが嫌というか。もう、そのレイヤーでものを考えたくないというか。そっちに行ったら行ったで、なんか妙なとこもあるし。だから、このところは、戦略、消費者、ユーザーと、ざくっとさらっと言うことにしています。

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 なんとなくね、そろそろ、その論議はいいかな、と。それより、先に行きたいなあ、みたいな気持ちが強くなってきました。消費者と言ったからって、数字として見ているわけじゃないし、戦略と言ったからって、戦争を思い描いているわけじゃない。そんなの当たり前。このあたりの概念用語って、あくまで概念としてドライに使うべきかも。でも、このあたりのことって反論も多いんだろうなあ。

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 とまあ、無制限に書けるブログで、あえて180字しばりで書きましたが、コピーライターの方なら、あっ、ここで調整してる、みたいなことがわかるんじゃないかなあ。ボディコピーの練習にもってこい。800字のテキストを、200字、100字と短くするんです。できれば、元テキストは他人の文章で。これは、かなり鍛えられます。ポイントはどこかを見極める練習にもなるし。おすすめ。

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 と、投稿してから気付いたけど、Twitterって140字ですよね。うっかりしておりました。仕事だと、書き直さなきゃなあ、さて、やるかってところですが、ブログなんで、まあいいや。おかしいなあって思ったんですよね。ところで、実際の仕事では、字数制限のほかに改行とか、書体による調整が入って、もっと複雑。あっ、話変えよった、と今思いましたね。そんなわけで、ではでは。

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