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2010年10月17日 (日)

「このブログ、広告がすごく好きだということが伝わってくるんだけど、ときどき、本当は、広告がすごく嫌いなんじゃないか、と思うことがあるなあ。」

 長いことブログをやっていると、私に向けてではない言葉で私について言及されていることもたまにあって、まあ、それなりに俗な人間でもあるので、それなりに見つけては読んだりしているんですが、ずいぶん前にですが、その中で少し気になる言葉があったんですね。

 その言葉は、特に批判や反論というわけじゃなく、私のブログを読んでの感想みたいな言葉でした。確か、はてなブックマークか、ブログかで語られた言葉ですが、探してみたけど見つかりませんでしたので、だいたいこんな感じ、と思っていただければと思います。

 「このブログ、広告がすごく好きだということが伝わってくるんだけど、ときどき、本当は、広告がすごく嫌いなんじゃないか、と思うことがあるなあ。」

 確かになあ、そうなんかもなあ、みたいなことは少し思います。広告がすごく好き、というよりも、実際は、広告は職業だし、唯一、私の専門分野だとも思うし、一応それなりに長く真剣にやってきて、有名とか無名とか関係なしに、それなりに、やっぱりあるわけですよ。言いたいことが。それに、この領域では、誰よりも考えているし、わかっている、みたいなことが。実際に、ひとつのジョブ単位では、誰よりもいいソリューションを出す自信がある、ということを前提に仕事をしているわけで、ずいぶんと思い上がった言い分ではあるけれど、それくらいのずぶとさがないとやってられないわけで、ね。

 だから、好き、というのとは、ちょっと違う気もしますが、まあでも、それを好きと言うんだよ、と言われれば、そうですね、としか言いようがない気もしますので、まあ、広告がとても好きなんだろうと思います。

 広告がすごく嫌いなんじゃないか、ということについては、正直、あっ、痛いとこついてくるなあ、と思いました。嫌い、ではないけれど、そう見える部分は確かにある、と自分でも思います。

 この言及は、確か、PPP(Pay Per Post=お金払って提灯ブログを書いてもらうこと)関連のことを書いたときの指摘だったと記憶しているんですが、私はPPPについては、rel=nofollowで、エントリに明示していたとしても、あまりいいことではないと思っていますし、そんな流れが新しい広告だとすれば、私はその新しい広告に否定的。というか、そんな新しい広告はいらないと思うし、最終的には絶対にうまくいかないと思っています。このあたりについては、『「純広」という言葉が持つ意味』というエントリなんかで書きましたので、お暇なときにお読みいただければと思います。

 もうひとつ。

 かの人に、このブログ主、もしかすると広告が嫌いなんじゃないか、と思わせた要因は、きっとこれかな、と思いあたることがあります。最近では『「あえて狙わないほうがいい」という時代』というエントリにも書きましたが、2000年に入ってから、なんとなく、あっ、もうこれまでの広告の言葉は信じてもらえなくなっているんじゃないか、みたいなことに気付いたからなんですよね。

 2000年と言えば、Web2.0とか言われるずっと前。その頃に、なんとなく、そんな気分が少しありました。消費者は、もう、所謂コピーライターの言葉を企業の言葉として信じてはくれないんじゃないか、みたいな気持ちがあったんですね。イコールで結べない、みたいな感覚。

 これまで、興味をもたれて、それなりに信じてもらえた広告の言葉は、いつのまにか信じてもらえなくなってしまった、という意識が私にはあります。それは、私の場合、すこしばかり過剰に、という気がするけれど、まあ、その領域に執着している限り、ちょっとバランスが悪いなあ、とは思うけれど、しょうがないことではあるんでしょうけどね。

 今、広告に書いてある言葉のとおりにメッセージを受け取る人は、どれくらいいるのでしょうか。メッセージは、書いてある言葉、その言葉を裏切らない企業行動、品質、サービス、言動、経済活動、そのほか諸々のことが統合的にあわさって、はじめてメッセージ足りうるものだと思います。それは、昔も今も変わらないけれど、時代の空気は、そのことを厳密に評価するようになっている気がします。言ってることと、やってることが、まったく違うやんか、とか、会ってみると、ちょっと嫌なやつだったよ、みたいな、ね。

 単純に言えば、もう、レトリックだけでは駄目かもね、ということですね。

 でもね、だから、反コピー、反言葉というわけではなくて、だからこそ、その統合されたイメージの核になる言葉を選ぶ、というか、つくっていかなきゃならないんじゃいか、という思いが、私には過剰にあるんです。その、あれも違う、これも違う、っていう中で、残った言葉をつむいで提示することが、広告コピーなんじゃないか、といった。

 その核があって、そこからぶれなければ、逆に、どれだけ長くてもくどくても、信じてもらえるし、読んでもらえる。特に、ウェブがあったり、メディアが多様化している、つまり、モードが複数ある状況下では、この、様々なものの中心となるべき、広告コピーは大切になってくるんじゃないかな、と思います。そして、この核の部分がしっかりしていて、しかも包容力がありさえすれば、もう一度、広告は、その核の部分をベースに、表現として、もっと自由に飛び立てるんじゃないか、みたいなことは、希望として思ったりもしています。

 加えて言えば、その核をつくるのは、今も、本当は、専門職たる広告人固有の領域ではないか、という自負はあります。でも、実際は、そういうふうな世の中の流れはないですけどね。今、広告人はみんな弱ってるから。

 広告は信じているけど、それは、今までの広告じゃない。でも、その、これからの広告っていうのは、世間で言われている「新しい広告」でもない。

 まあ、こういう私のややこしい部分が、広告嫌いに見せているんだろうな、と思います。というか、私にも、その先の深層心理はわかりませんので何とも言えませんが、自己言及の限界というものがあるにしても、とりあえずは、広告って信じてもらっていない、だから、信じてもらえる広告はどのようにあればいいのか、みたいな捻れが、私にはあるんでしょうね。つまりは、これまでの広告の文脈からは、少し距離は置いています。

 でも、距離は置いているものの、そういえば、手法としての広告については、今まで一度も懐疑的になったことはないですね。それは、あらためて考えると、ほんとそうだったなあ、と思います。広告はもうだめ、これからは口コミとPRだ、プロモーションだ、ブランデッドエンターテイメントだ、みたいなことは、一度も思ったことがありません。それは、単にモードの問題。モードがたくさんあるだけの話で、根元は同じ。実務で言えば、ここで根元がバラバラになってしまうのは、かなり問題だと思っています。

 そういう意味では、やっぱり、根っからの広告好きなんでしょうね。では、よい日曜日を。

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コメント

>だからこそ、その統合されたイメージの核になる言葉を選ぶ、というか、つくっていかなきゃならないんじゃいか、という思いが、私には過剰にあるんです。その、あれも違う、これも違う、っていう中で、残った言葉をつむいで提示することが、広告コピーなんじゃないか、といった

広告って成功すると、そのいやらしさみたいなものも際立ってくるような。そこのところ、広告の核で粉砕したいんでしょ?広告のいやらしさを避けたいという感じが、外側から見るときっと広告が嫌いなんだろうなっていう感想になるんでしょうね。

投稿: ggg123 | 2010年10月17日 (日) 13:43

商品には、それが社会に存在するという必然や必要性がどこかにあって、それを提示する行為が広告なのかな、と思うことがあります。
なんとなく、その必然、必要性を広告は超えてはいけないんじゃないかな、と思っているのかもしれません。
広告のいやらしさというのは、そのあたりの過剰な部分にあって、その過剰さが魅力でもあるので、そこがむずかしいところなんですけどね。

投稿: mb101bold | 2010年10月17日 (日) 15:44

こんにちは、時々読ませてもらっています。「広告」に対して、とても真面目で真剣なところ、プロを感じます。これぐらいでないと、仕事なんてできないんじゃないの、と思ってます。ところで「広告の影響力」って、商品の購買数とか費用対効果などで測るものなのでしょうか。

投稿: sereno | 2010年10月18日 (月) 10:54

広告は、商品がここにありますよ、と伝えるもの。そもそも路上でものを売ってる時代には通りがかりの人を呼び込めばよかった。その商品が隣町で評判になり、隣の隣の町の人まで呼び込もうとした時に広告が始まった。隣の隣の町からわざわざ買いにきて期待以下の商品だったら、2度と人は来てくれない。これを「広告倒れ」という。広告の善し悪しなんて、常に商品満足度によって検証されている。商品満足度以上の広告は嘘になり、商品満足度以下の広告では人は集まらない。「情報を発信して人々に喜んでもらうのは楽しい仕事。でもコントロールしようとするのはもう終わり」佐々木俊尚のこの言葉には商品評価の視点が抜けている。広告はこんな言葉で否定されるようなものじゃない。

投稿: 広告屋 | 2010年10月18日 (月) 14:43

>serenoさん

広告の影響力を測るには、広告を出稿する目的によるでしょうね。いちばんわかりやすいのが売り上げや来場者数で、広告の前と後でどれくらい売れたか、あるいは人が来たかはだいたいわかりますよね。また、目的をブランド認知率に置けば、広告実施前の認知率と実施後の認知率で、広告が効いたかどうかの見当がつきます。
で、この目的をはっきりと決めておかないと難しいことになります。たとえば、制作者は認知を上げるつもりでつくっていて、発注者は売り上げを上げるためにつくっていると思っていたら、あとで大変です。
また、例えば認知で言えば、どのように認知するかも問われますし、売れ方もさまざまですよね。セールで短期で売るのか、正規価格で長く売るつもりなのか、とか。そのための方法は、実施前の様々な調査や、実施後の好感度調査などがあります。
費用対効果に関しては、事前に決めることが多いです。で、広告制作者の役割は、この費用対効果の基準からどれだけ上にいけるか、ということになりそうです。プラスアルファは、表現で決まると思います。経営とか、マーケティングとかで、広告を見た場合、そういうことかな、と思っています。
でも、会社によっては、大幅に上回ることをよしとしないところもあります。目標に対していかに100%にしていくか、みたいなことですね。まあ、そういう会社は多くはありませんが。

>広告屋さん

CGM的なメディアの影響力はますます高まっていきますが、だからこそ、これまでの、いかに「伝える」かを考えるフェイズから、どのように「伝わる」かを考えるフェイズに移行していくと私は思っています。それを、「もう終わり」ととらえるのか、「新たなはじまり」と捉えるのかは、その人次第なんでしょうね。
コントロールというと上から下への強権というイメージがありますが、今の時代だからこそ、きちんとした「伝わり方」をするかを発信側がコントロールは必要です。いままではマスメディアというモードを考えておけばよかったけれど、これからは複数のモードを考えていかなくちゃいけない。その意味では、ますます繊細で複雑な作業が必要になってくるように思います。

※追記

「情報を発信して人々に喜んでもらうのは楽しい仕事。でもコントロールしようとするのはもう終わり」という言葉、?でしたが、Twitterで佐々木俊尚さんが紹介されてたんですね。今、知りました。確かに「コントロールしようとするのは」と限定されているけど「もう終わり」と言われたら、「広告はこんな言葉で否定されるようなものじゃない。」と言いたくなりますね。まあ、好意的に見れば、このエントリの正しい要約な気もしますが、未来のイメージは、たぶん違います。これは、広告の定義が違うからだと思います。

投稿: mb101bold | 2010年10月18日 (月) 23:03

通りすがりの名も名乗らぬ無礼者に、丁寧なお返事ありがとうございます。なるほど、計算されつくした中での、出稿となるのですね! そうした手法はアメリカから学ぶことが多いのでしょうか。広告が転換期を迎えているとするならば、人がものを買うという行為そのものの転換期のようにも思います。でも、広告業の最大の顧客がアメリカ政府、のような国みたくなっちゃったら、やだなーと思います。わたしはこの業界の人間ではありませんが、広告が好きなので、「どうかギリギリまではいかないで~」と、願うばかりです。

投稿: sereno | 2010年10月19日 (火) 18:01

広告やマーケティングは欧米からが多いでしょうね。消費についても転換期なんでしょうね。というか、消費が転換期だから広告が転換期、が正しいかもしれませんが。
>広告業の最大の顧客がアメリカ政府
こういう未来も描きにくくなったのが、今の混沌とした状況かもしれません。欧米でも、広告業界は日本と同じように疲弊しているようです。逆に言えば、もういちど基本に戻るチャンスかもですけどね。

投稿: mb101bold | 2010年10月20日 (水) 01:12

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