もし日本で戦争が起きてしまったら、僕は戦争のコピーを書くのだろうか
馬場マコトさんの『戦争と広告』という本を読みました。重い本。もしかすると、今、懸命に広告の仕事をがんばっている人にはおすすめできない本なのかもしれません。広告人なら、読んだ後、自分自身にこういう問いかけをするのだろうと思います。
「もし日本で戦争が起きてしまったら、戦争のコピーを書くのだろうか。」
著者の馬場マコトさんは、馬場コラボレーション主宰のクリエイティブディレクター。私の世代だと、東急エージェンシーの馬場さんといういい方になじみがあるかと思います。1999年に、東急エージェンシーを退社され、「広告を得意先のものにするためには、ひとりのキャンペーンディレクターが、マーケティングからメディアまでをトータルに責任をもってプランニングする必要がある」との考えから、「一人広告代理店」を標榜し、クリエイティブエージェンシーを設立。
私は、外資系広告代理店出身なので、たぶん馬場さんとは同じ文化にいます。馬場さんは、東急エージェンシーの前は、マッキャンエリクソン博報堂に在籍されていました。私がいた外資系広告代理店文化の中に、ドメスティック代理店の方ではありましたが、東急の馬場さんは確かにいましたし、その文化の中心人物のひとりでした。
広告は得意先のもの。
広告はソリューションである。
報酬モデルはフィーであるべき。
広告は、目的を持ったマーケティングソリューションであり、よって、それは得意先のものであり、そのソリューションを提供するのが、我々広告人のミッションである。広告表現は、目的を達成するためのひとつの手段であり、アートでもポエムでもなく、ましてや広告クリエーターの自己表現ではない。売り物は、ソリューションそのものであるべきで、報酬モデルはコミッションではなく、フィーであるべき。
要するに、そんな文化です。そこには、広告を、自己表現のひとつのフィールドとして考えることを嫌悪する心情があります。でも、これは、広告表現の仕事を、仕事として割り切るということを意味するのではありません。むしろ、こういう心情を持つ人の方が、広告表現に自己を入れない分、表現として高度化、緻密化する傾向にあります。この傾向は、ある程度、外資系に限らず、広告表現を真剣に考えているクリエイターであれば思い当たることなんじゃないかと思います。
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『戦争と広告』は、戦中、戦後を駆け抜けた、広告クリエイターたちのドキュメンタリー。本書の帯を引用します。
広告依頼主は内閣情報局。仕事は戦意高揚を図るポスター制作など。山名文夫、新井静一郎ら「報道技術研究会」の精鋭たちが取り組んだ、最前線の成果から考える、戦争の悲しい宿命。
この本は、告発、批判の書ではありません。広告人の宿命を描いた本です。化粧品会社で、自らの表現技術を磨いてきた一人のクリエイターが、戦争によって、その表現の場を奪われ、そのとき、内閣情報局から、その才能を国家情宣に生かしてほしいと依頼があった。時代は、戦争一色。だから、断る理由はない。新しい広告、新しい広告表現を懸命に追い求める日々。
戦争が終わったとき、48歳になった山名文夫さんは「さよなら、みんな終わりだ。」という言葉とともに、戦後の広告界で、新しい広告、新しい広告表現を、リセットするかのように、再び追い求めはじめます。いや、もしかすると、リセットさえしていないのだろうと思います。新しい広告、新しい広告表現という意味では、戦前と戦後は地続きであったのでしょう。
大政翼賛会で「おねがいです。隊長殿、あの旗を撃たせて下さいッ!」というコピーを書いた新井静一郎さんは、戦後の広告代理店システム構築の中心人物として活躍し、その壁新聞のコピーを「射たせて下さいッ!」と修正したほうが強くなるとディレクション、デザインした花森安治さんは、戦後、「男たちの勝手な戦争が国をむちゃくちゃにしたのだから、今度は自分は女性のために償いたい」として、広告のない雑誌『暮らしの手帖』を創刊。その後、花森さんは、大政翼賛会時代については生涯沈黙しつづけました。
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戦後、多くの芸術家、文学者、学者がその戦争責任を問われました。しかし、広告人はその責を問われることは、ほとんどありませんでした。それは、広告が、依頼主があり、その基本的な性格を、課題解決のためのソリューションであるとしているからなのかもしれません。いかに広告クリエイターが業界で名が知れていたとしても、広告が世に解き放たれたとき、その表現の裏にいる表現者、つまり、広告クリエイターは、基本的には匿名存在、広告は匿名表現です。
けれども、そのソリューションの手段である広告表現は、才能や感性など、個人の資質に多くを依存する、芸術的創作によって立つ手段です。元電通関西の堀井さんは、こう言っています。
「広告を芸術に利用するんやない。芸術を広告に利用するんや。」
同じ広告人として、至極真っ当な言葉だと思います。広告という命題のもと、芸術だけでなく、生活者としてのクリエイターの思いさえ溶けてしまう。それが、広告。そこに、表現としての広告の捻れがあり、広告の危険があるように思います。
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『戦争と広告』は告発、批判の書ではないけれども、この本の中には、戦後、吉本隆明さんが行った転向論と同じようなラディカルな投げかけが含まれているように思いました。個人な興味としては、戦後における個人のメンタリティの分断と連続性、そのベースになる広告に対する考え方そのものに興味あります。
それは、本書の中では、山名さんと花森さんの両氏は、対照的な態度で戦後を生きた人として描かれています。山名さんが書かれた戦前と戦後のポエムを示すとこで暗示的に描かれ、花森さんに対しては、「戦争犯罪から逃げてしまった。」「そこが」「弱さになった」と書かれています。
また、馬場さんは「戦争責任を追求する人々の視点からは、戦争に傾斜し、加担せざるを得ない表現者の資質と、またそうしなければ暮らせなかった生活者としての視点に欠けると思う」と述べられています。
吉本隆明さんの転向論の文脈で言えば、戦前は大政翼賛会で広告立案を担当し、その才能を発揮し、戦後は一転して、「男たちの勝手な戦争が国をめちゃくちゃにした」として、戦後の消費者運動を牽引した花森さんの、戦前、戦後を通してのラディカルな活動の中には、アドバタイジングとは何か、プロパガンダとは何か、アドバタイジングがプロパガンダと違うものだとすれば、そこにはどのような違いがあるのか、ということを示唆するものが含まれているように思います。
本書では触れられていないけれど、表層は真逆な戦前と戦後の活動の中の、見えない同一性にこそ、よりラディカルな問題が含まれているように思います。それは、表層は真逆でありながら、どちらも庶民という下からの視線を偽装した啓蒙、つまり、プロパガンダである、という同一性があり、だからこそ、『暮らしの手帖』という雑誌は、広告と同居できなかったのでしょう。
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「もし日本で戦争が起きてしまったら、戦争のコピーを書くのだろうか。」
著者の馬場さんは、率直に「書くだろう」と述べています。そして、だからこそ、「そんな時代を迎えないためには、戦争をおこさないことしかない。」と言います。
私は、どうだろうか。
一生活者としては、できればやりたくはない。けれども、職業人としてはどうなのだろう。「書かない」と言いたいし、葛藤もするのじゃないか、とも思います。でも、生活者として、勤め人として、断れるかどうかは、わかりません。もしかすると、これは正義である、もしくは、こういう考え方もあり得ると簡単に納得し、職業人として新しい広告を追い求めるのかもしれません。けれども、少し違う考え方も、あり得るんじゃないか、と思っています。
2007年9月に、私は「消費者金融のマス広告は是か非か。」というエントリを書きました。あれから、少し時間が経ちました。馬場さんと20年下の世代の広告人である私は、少し違う結論が導きだせる気もしています。この問題は、なんとなく大げさかもしれませんが、世代が乗り越える課題だと思っています。
その鍵は、前述のアドバタイジング、プロパガンダの違い、そして、アドバタイジングの社会性、言い換えれば、社会的表現としてのアドバタイジングの限界。簡単に言えば、社会的なコンセンサスを根拠にしながら、邪悪なインサイトは描いてはならない、という社会の一部である企業表現としての広告の範囲を、広告制作者自身が、自ら問い直すことなんだろうと思います。
要するに、広告の再定義の問題のような気がします。その意味では、今言われているような、PPPなどの小さな問題も、じつは地続きなんだろうと思うのです。
● ●
私たちの世代は、戦争を知りません。馬場さんの世代も戦争を知らない世代であるけれど、より戦争が感覚的につかめない世代であることは間違いはないでしょう。戦争とは、社会のコンセンサスが戦争イコール正義である状態なのだから、上記の考えは、もしかするとまったく無効になってしまうのかもしれません。その意味では、馬場さんが言う「戦争をおこさないことしかない」という結論は、正しいのでしょう。
でも、そうであるからこそ、私たち下の世代は、そうなる前に考えていかなといけないのではないかと思います。馬場さんと違う結論を導きださなければいけないのではないか。遠くを見通して、小さなこと、些細なことにも注意深く耳を傾けながら、新しい広告の倫理をつくっていくしかないのだろうと思います。世の中に必要とされなければ、広告で飯を食うことさえできないのだから。それが、一生活者としての広告人の視点のように思います。少し、青臭いけれど。
だからこそ、この『戦争と広告』のあとがきに書かれている馬場さんの言葉を、結論としては受け止めませんでした。それが、広告人の先輩が届けてくれたこのという誠実な仕事に対しての、後輩広告人がとるべき正しい態度なのだろうと思っています。
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コメント
> その壁新聞をディレクション、デザインした
> 花森安治さんは、戦後、「男たちの勝手な戦
> 争が国をむちゃくちゃにしたのだから、今度
> は自分は女性のために償いたい」として、広
> 告のない雑誌『暮らしの手帖』を創刊。その
> 後は、花森さんは、沈黙しつづけました。
なるほどー。あの「垢抜けた」感じは広告クリエーティブのなせる技だったのですね。そして、あの反商業主義も。納得です。
政府からの仕事は基本的にゼロサム(国民の税金)ですから、新しい価値を生み出さないので、粛々とやるしかないでかもしれませんねえ…
投稿: tom-kuri | 2010年11月 3日 (水) 16:53
わ〜、重い話題ですね。
私は、怪力乱神、似非科学の類いが大嫌いで、でも商業の世界では結構その手が有って、そんな商売をしているクライアントの担当になったら困るな、どうしよう、と思っていました。
上司が理解ある人で結局そういったクライアントの担当には成らなかったのですが(ケンカされても困ると思ったのでしょうね)、そんな商売をやってるクライアントを横から数年見ていて、そこから商品を買った客が幸せに成れるならそれで良いじゃないか。と自分を納得させていました。今回のブログでは、答えの出せない問い掛けをされました、良く考えて見ます。
投稿: をたくな講師 | 2010年11月 3日 (水) 21:28
tom-kuriさん、こんばんは。
花森安治さんの広告(あるいは編集)クリエイティブの理解者である大橋鎭子さんとの出会いという、人生の幸福な来事もあったんでしょうね。
http://bit.ly/bUIoRE
花森さんのクリエイティブ=「暮らしの手帖」的なるものには、どこか魔力があるような気がします。惹かれるけれど、どこか納得のいかなさがあるような、もやもやした魅力がありますね。
投稿: mb101bold | 2010年11月 3日 (水) 22:56
をたくな講師さん、こんばんは。
ソリューションを専門にする職業の方には、いつもついてくる難問です。私はそのときそのときで答えをひねり出してやってきたように思います。また、会社に所属していれば、まあ、受ける受けないのコードはありますよね。また、その上位には業界のコードがあって、結局、そのコード、あるいはもっと上位の社会的なコンセンサスしかないのかなあ、とちょっと弱気に考えています。
それは、細かい積み重ねしかないんだろうな、とも思っていて、そうした上で、個々人では、会社に反して断る、もしくは、邪悪なインサイトは用いない、抵抗する、くらいしか実際はできることはない気がします。
怖いのは、社会全体がかわってしまったときです。これが、馬場さんがおっしゃることなのかもです。
投稿: mb101bold | 2010年11月 3日 (水) 23:10
>怖いのは、社会全体がかわってしまったときです。
「戦争」という切り口では無いですが、この辺に関しては、強く感じて居る事があります、商品の特性、特徴で「ヒアルロン酸」「コラーゲン」「マイナスイオン」・・・・これらは血液型や星座占いと同じで科学的になんの根拠も意味も無い事です、これらが、大企業の広告の中で平然と売りの為の言葉として使われています、テレビのニュースショーの中で「今日の運勢」と称して占いが行われています。
今私は広告の場から離れて居ますが、現役で有ったなら、健康食品の売り文句に「コラーゲン」と書かれた商品の販促や、広告にタッチする事を良しと出来たか自問します(多分出来ない)。
自分にとっては、こじつけであろうと大義のある「戦争」の広告に携わるより、世間に対し、科学的根拠のない事をあたかも有るようなな嘘をつく行為を恥じます。
そして、今我々のいる世間は、科学的根拠のない事でも広告の為には平然と嘘をつく事を許容する社会に変わってしまっています。
投稿: をたくな講師 | 2010年11月 4日 (木) 18:02
今の時代は、広告・プロモーション活動にCGMがからんでくきて、より複雑になってきているからなおさらなんですよね。
投稿: mb101bold | 2010年11月 5日 (金) 09:37
「戦争をおこさないことしかない」という決意を実現するためには、例えば自国(政権)の利益と対立する「仮想敵国」のコピーを書くか、とか、現代はややこしくて、ジレンマのあり方もさまざまになりそうですね。
僕は戦争を起こさないためには「戦争を起こさないことで利益になる集団がパワーをもつ」、つまり自国(政権)の国益と違ったベクトルをもつ利害関係が絡むことが必要なのかな、と思ったのですが、どうもそれだと単に「身動きできなくなる」だけのような気もするし、最近の「海の向こうで戦争が始まる」ような雰囲気はしんどいなあと思います。
投稿: mistral | 2010年11月 5日 (金) 12:04
mb101boldさん、
リンク先の記事読みました。
すごく納得しました。
ありがとうございます。
投稿: tom-kuri | 2010年11月 5日 (金) 12:43
>mistralさん
そうですね。グラデーションが幅広くありそうです。とにかく、大前提は、戦争はいやだなあ、戦争になると広告もくそもないしなあ、ということは間違いはなさそうです。
>tom-kuriさん
いえいえ。今回、ああ、そうなんだなあということが私も多かったです。馬場さんの本、いい本ですよ。おすすめです。
投稿: mb101bold | 2010年11月 5日 (金) 22:04
こんにちは。広告に期待している一人としては、「そもそも何のために広告つくってるんですか?」というところからはじめてほしいなあーと思います。広告を受け取る人の幸せとか、新しい価値の提案とか、そういうものを発信してくれているといいなと。合わせてクリエーターの方たちは、自分の力の大きさを自覚してほしいです。その力をどう使うか。その自覚を持つことも含めて、プロなんじゃないのかなと思います。こんなふうに公開で自問自答される池本さんみたいな方ばかりだといいんですが。
投稿: sereno | 2010年11月 9日 (火) 15:04
いえ、私も「書かない」と即答できない一人に過ぎないですし、おっしゃるように「そもそも何のために」と考えればシンプルな問題を、あえて難問と思ってしまっている一人でもあります。
馬場さんもおっしゃっていましたし、私も前にブログに書きましたが、例えば「消費者金融」の広告はどう判断すべきか。もちろん、今、CMの放送が認められているわけだから、社会的なコンセンサスがあるし、社会的な存在意義がある事業です。
でも、馬場さんもお書きになっていましたが気軽さ手軽さを暗示的にでもインサイトとして使った広告はどう判断していったらいいのか。そのグレーの部分が、たえずあります。
私は、serenoさんがおっしゃるとおり、表現ひとつで流れを変えることができる技術は、それが大きいか小さいかに関わらず力だと思うし、少なくとも一個人のクリエーターとしては、 どう使うかを絶えず社会とのバランスの中で考え続けていかないといけないと思っています。それがプロなんだろうと思います。
投稿: mb101bold | 2010年11月10日 (水) 01:51
戦争は選べませんが、消費者金融はまだ選択肢が他にあるかな…という気がします。私はメディアリテラシー教育に興味があるので、ちょろちょろ調べたりしているのですが、スウェーデンなどは「広告がどのように作られているのか」といったことを子どもたちがかなり勉強しているようです。広告をつくりながら、「広告にだまされるな」みたいな大人なアプローチって、どうでしょう(笑)。それともすでに日本でもやられているのかな。
投稿: sereno | 2010年11月10日 (水) 09:37
戦争もじつはグラデーションがあるように思うんですね。当然、私は戦争体験はありませんが、ある日、パッと戦争みたいなことではなく、徐々にそんな気分になっていって、いつのまにか、という感じかなと思います。
リテラシーについては、日本もそこそこのような気がします。それは教育というよりもメディア環境の結果だと思っています。少なくとも、80年代のような広告情報の受容は今の人たちにはないです。
またそれはをたくな講師さんもコメントで書かれていましたが、別の問題も生み出してはいるのですが。
>「広告にだまされるな」みたいな大人なアプローチ
某電機メーカーの「広告より口コミを信じましょう。」とか、ファッションビルの「ホントのことを教えてあげる。」とか。
そう言えば、私も、某プロバイダーの広告で「インターネットプロバイダー選びでは、広告を信じないほうがいい。」なんてコピーを書いたことがあります。なつかしいです。
投稿: mb101bold | 2010年11月10日 (水) 23:46
実際に戦争が起きてしまったら通常勤務は恐らく出来ないと思います
それに、戦時下になってしまうと今までの法律のタガが外れてしまいます
一番恐ろしいことです
戦争反対等デモをしようとするものなら間違いなく全員逮捕され投獄されます
また、国内で騒乱が勃発し多くの人が血を流すことでしょう
戦争は嫌だ!行きたくない!と叫んでしまうと準敵前逃亡罪(一番罪が重く裁判なしの直接死刑制が発令されます)で処刑されます
今まで人の命は地球より重いと言われていても戦時下に入ると「敵を多く殺せば殺すほど名誉」に摩り替わってしまうから恐ろしいもんです
投稿: windows95愛好会 | 2010年12月29日 (水) 06:44
windows95愛好会さん、コメントありがとうございました。
私はなんとなく、その間のグラデーションがある気がするんですね。
一夜にして、価値観がガラッと変わってしまうのではなく、気付くとそうなっていたという感じなのではないかと。
それを、例えば今から見ると、180度変わってしまったように見える、ということなんだろうと思います。私は、価値観の急激な変化と同じように、そのあいだのゆるやかなグラデーションも恐ろしいです。
実際に『戦争と広告』でも、戦時下において、終戦のギリギリまで新しい広告表現を追究する日々があったわけです。それは、戦争のない今の私の日常と地続きだと思いますし、そういった現実を前提にして考えていきたいです。
投稿: mb101bold | 2010年12月29日 (水) 12:51
こんなエピソードが参考になるかどうか。
ジョンソンとゴールドウォーターが大統領選をやったとき、故ケネディとの約束でDDBは民主党のキャンペーンを引き受け、ジョンソンを当選させました。
しかし、そのスタッフから「あれは、DDBが引きうけた唯一の欠陥商品であった」
とつぶやかれました、
以後、DDBは政治広告は社としてでなく、個人で休暇をとってやるという社の方針にしたと。
戦争とはいささか違いますが、政治広告にも戦争協力広告と似た面があるようにおもいます。社としてはやらないほうが正しいのではないでしょうか。
投稿: ちゅうすけ | 2011年1月 4日 (火) 11:37
そうですねえ。
この事例は、ネガティブキャンペーンとか広報PR、口コミでもいろいろ考えさせられる事例でしたよね。
もちろん、その後の顛末も。
http://d.hatena.ne.jp/chuukyuu/20080226
このあたり、ほんと難しいです。
投稿: mb101bold | 2011年1月 4日 (火) 13:18