« 伝える、つながる、かさなる | トップページ | パーセプション・チェンジはコンテキスト・チェンジである »

2011年1月 6日 (木)

個人がメディアを持てるようになったということ

 私がここで書いていることも、個人がメディアを持てるようになったという時代を象徴していると思うし、言葉で伝えたい私にとっては、ブログがその中心的なツールになったし、映像で伝えたい人にとっては、YouTubeやニコニコ動画、USTREAMなのでしょう。

 個人がメディアを持てる、ということ自体は、インターネットができたときから実現していることであり、とりたてて今言うべきことではないかもしれないけれど、それでも、今なお言えることは、今も進行しつつあるメディア環境の変化は、やはり、個人がメディアを持てるようになった、という変化を中心にして起きているものである、ということだと思うのです。

 ●    ●

 広島市の秋葉忠利市長が、テレビでの退任会見ではなく、自らが語る14分50秒の動画をYouTubeに投稿しました。秋葉市長は、マスコミをすべて拒んだわけでなく、4日には地元民放の生放送に出演し、その後に複数の新聞社からの単独インタビューの申し入れに対して、「テレビの生放送ならば検討する」と言っていて、つまりは、自身の見解が編集されることに対してNOと言ったということになります(参照:asahi.com『秋葉・広島市長、退任の弁「ユーチューブで」 会見拒否』)。

 たぶん、秋葉市長にとって、編集されることがNOといっても、自身の見解が二次的に編集されることについてではなく、一次情報、つまり会見の内容の一部を切り取って、一次情報を非公開にされ、編集されたものがすべてであるかのように扱われることを拒んだ、ということではないかと思います。

 これこそが、個人がメディアを持てるという意味を最も象徴的に示した行為だったように思います。事実上、テレビはこの動画を部分的に選択して、そこに解釈を加えるしか編集の方法がなく、一次情報は、ネットにそのまま保持されることになります。この、多くの人が閲覧できる状態で一次情報が保持される、ということが、秋葉市長が欲したもののような気がします。秋葉市長は、この一連の行動を見るに、YouTubeの動画をすべて引用することも含めて、動画を引用しそこに論評を加えてテレビのニュースにすること自体は、なんら問題にしないのではないでしょうか。つまり、第三者の批判については、問題にしていないように思えます。

 ●    ●

 もう、この時点で、マスコミは「詰み」ですね。詰まれてしまっています。asahi.comの記事の中で識者が語っていましたが、マスコミは、この時点ですでに、市民の代理として自己規定し、それに答えるべきである、答える義務がある、という言い方しかなくなっています。そこには、少なからず欺瞞があるでしょう。

 それがいいことであるか、それとも困ったことであるかはわからないし、いろいろな意見があるでしょうが、少なくとも、そのことをブログに書いている私を含めて、今、メディアの状況が、このようににあるということは確実に言えることだと思います。

 ●    ●

 ちょっと暴論になるかもしれませんが、インターネットがもたらしたものの、もっとも大きな意味は、インタラクティブ性ではなく、個人がメディアを持つことができるということにあるのではないか、と思います。

 インターネットのインタラクティブ性は、既存メディアと補完的であるけれども、個人メディアの実現は補完的にはならないし、そもそも、インタラクティブ性やコミュニケーションは、例えば、従来からあるラジオとリスナーのインタラクティブな結びつきは、個人がハガキというメディアを持ったことで実現されているように、メディア同士の結びつきが実現するものであり、インタラクティブ性は、いつも個人がメディアを持つこと(あるいは使うこと)によって生まれるのもで、それはテクノロジーの進化であっても、本質的な変化ではないように思います。

 この変化は、1億総表現者時代、のようなことが重要なのではなく、個人がメディアを持つことができる、という可能性そのものが重要な気がします。ブログを書く人、YouTubeで表現する人は、これからもそれほど多くはならないでしょう。けれども、その可能性が開かれた、ということそのものは、ブログもYouTubeも使わない人を含めた世界を変える。そんなふうに思います。

 ●    ●

 インターネットがはじまったとき、マスコミ人や広告人は、インターネットのインタラクティブ性にばかり目を奪われがちだったし、新しい広告とは、インターネットのインタラクティブ性を活用したものとイコールだった気がします。

 もちろん、コミュニケーションの新しい形を生み出せるし、使うにこしたことはないけれど、でも本質は、そうじゃない。重要なのは、インターネットとは、個人も含めて、さまざまな主体が自分の場を持つことができるということであり、そのことは、インターネットを使わない人にまで影響を与える変化だと私は思っています。

 その可能性だけで、テレビへの、新聞への、広告への感受が確実に変わる。その変化は、インターネットを使わない人にまで及ぶ。だからこそ、変わらなきゃいけない、ということなんだろうと思います。

 変わらなきゃいけない、は、インタラクティブであらねばならない、とイコールではなく、個人がメディアを持てるという可能性を手に入れた世界で、どういうことを、どういうふうに伝えるかを考えていくということだろうと思うのです。それは、手法の問題ではなく、もっと根本的な問題であるように思います。

■1月7日追記

 産経新聞より、インタビュー記事が出ました。

 【秋葉市長インタビュー詳報】ネットならカットなし。テレビは数秒 取材受けるかは信頼関係 - MSN産経ニュース

 YouTubeで引退表明の広島・秋葉市長「伝えたいことをカットなしに伝えられる」- ITmedia

|

« 伝える、つながる、かさなる | トップページ | パーセプション・チェンジはコンテキスト・チェンジである »

メディア」カテゴリの記事

コメント

興味深く読ませていただきました。

最後の件にある「根本的な問題」に関してですが、より具体的には、それはいかなる形で立ち現われてくるとお考えでしょうか? 「個人がメディアを持てる世界で、何をいかに伝えるか?」 は私のテーマでもあり、ご意見おうかがいしてみたいと考えた次第です。

投稿: kawajiring | 2011年1月 6日 (木) 15:09

このエントリでじつは私がいちばん言いたい部分でもあり、まだはっきりとは言えない部分に対して反応していただけて、書いた本人としては本当にうれしい気分です。ここで書いた「根本的な問題」というのは、このブログでよく使う言い方で言えば「表現の問題」です。

●    ●

ネット以降は、ネットのインタラクティブ性が注目されるあまり(と言うか、従来メディアの広告人にとっては、インタラクティブ性だけに着目することで安心や希望が感じられるからかもしれませんが)従来メディアと新メディアのクロスオーバーなコミュニケーションを指向してきましたよね。それは、広告会社の利益構造とも合致していました。

けれども、ネット以降の本質的な変化は、このエントリで書いた例をあげるまでもなく、個人がメディアを持てることから来る変化のほうだと思います。このことによって、マスメディアは心理的に相対化されます。これは、マスからネットへという主役交代でもなく、マスが終わったというマス終焉論=広告終焉論でもなく、あくまで相対化であることが重要だと考えます。

その是非はともかくとして、事実、モバゲー、GREE、パチンコ関連企業はテレビCMを使ってビジネスをドライブしていますし、健康食品系通販もテレビCMです。それは、なぜか。今のメディアの中で受動メディアとして、今なお、テレビが最も優れているからです。しかし、それは、残念ながら、それだけの理由しかないのも事実で、結局のところ、他に受動性に優れたメディアがあれば、その企業たちは、他のメディアに移るでしょう。たぶん、それら企業に従来からの広告文化を守るといった矜持はありませんから。

●   ●

広告は受動メディアにおいて効果を発揮するマーケティング手法です。考えるとそれは当然のことで、何ごとにも「何かを伝える」という行為は、相手の意識を0から1にすることであり、0ベースの心理にすんなりと入り込む場というのは、メディアに受動的に対する受動メディアしかないわけで、受動性が高ければ高いほど、広告の場としては優れていると言えます。

今、ソーシャルメディアを活用した新しい広告と言われるものの多くは、じつは、1を2、3、4にするコミュニケーションのことで、それは、0を1にする広告の補完になっても、0を1にするコミュニケーションの代替にはなりません。(その部分では、広報がその代替になるかもしれませんが、でもそれは部分的ではないかな、と私は思っています。)

そのように考えたとき、受動メディアでの0を1にするコミュニケーション、つまり広告は、これまで相対化されていなかった、ほぼ独占状態にあったメディアでの振る舞いは通用しなくなるのは自明ですよね。個人メディアによって相対化されたメディアの中での、受動メディアにおいての振る舞いは当然のこととして相対化されたメディア環境での振る舞いになるはずです。

●    ●

そこで「表現の問題」が立ち上がってきます。これまでは、相対化されていなかったメディア環境では、その場は絶対であり、だからこそ、広告は何ものにもなれました。私も広告クリエイターとしては、そこに自由や可能性を感じてきましたし、実際に、バブルの頃は、いかに広告から離れるかという逆説的な表現手法も有効でした。なぜなら、そこが唯一のメディアであり、広告は、番組コンテンツや記事の次の地位を持つコンテンツでしたから。

でも、今はそうじゃない気がします。具体的に言えば、コピーライターブームの頃の生活の実感や気付き広告コピーが持つよさは、たぶん、ブログやTwitterが代替しています。CMのような映像に関しても、個人メディアで個人が発表される質もさまざまな映像コンテンツの中で相対化されてしまいます。

●    ●

そんな時代に、広告はどうすればいいのか。そういう数多のコンテンツに抜きん出るというのも手だと思います。だけど、もうひとつの手があると私は思うんですね。

それは、広告に戻ること。

広告以外の何者にもなろうとせずに、広告として、広告という行為そのもので人を惹き付けることだと思っています。そのうえで、絶対的なメディアの中での選ばれしコンテンツといった感覚ではなく、あくまで個人制作コンテンツと同様の目線で、その表現の中に「ゆるさ」を織り込んでいく。その「ゆるさ」は、人によっては「つっこみどころを残しておく」みたいなことかもしれませんし、あるいは、見た人が想像できる自由の部分には突っ込まない「押し付けがましさのなさ」なのかもしれません。

たぶん、この「ゆるさ」というのは、個人がメディアを持てる時代に重要なことで、見た人が何かを言う自由みたいなものを織り込んでいくことで、はじめて、広告は相対化されたメディア環境の中での表現になれるような気がしています。(とともに、正攻法ではありますが、BUZZを組み込むためにもこのことは重要だと思っています。)

具体的に言えば、広告が見た人は自分のメディアで書くという手段をすでに持っているわけですから、それを奪うのは不粋だよね、みたいなことでもあるし、自分のメディアを持たない人でも、いろいろ人に話したり、自分の心の中で膨らましたりするわけですから、その消費者の自由を奪うことは、今の時代は得策ではないだろうな、みたいな感覚です。

●   ●

これまでは、わりと「賞賛と憧憬」のマーケティングこそが広告の独壇場でしたが、今はそうじゃないんでしょうね。個人がメディアを持てるという可能性が担保された世界では、「賞賛と憧憬」はしんどいんじゃないかなあと思っています。

ちょっと長くなりました。ちゃんとした答えになっているかどうかはわかりませんが、とりあえず今考えていることを書いてみました。じつはこのあたりは、私もまだ整理されてなくて、考えている途中です。このあたりのことは、断定的に語らずに、断片的に、その都度その都度、このブログに書いてきましたので、お暇なときにでも過去ログをお読みいただければさいわいです。今後とも、どうぞよろしくお願いします。

投稿: mb101bold | 2011年1月 6日 (木) 23:37

あけましておめでとうございます。
これ、特に、コメントの返事の部分、「広告」じゃなくて「表現」の話になってますよ、mb101さん。つづきは、新年会で。

投稿: denkihanabi | 2011年1月 7日 (金) 02:54

あけましておめでとうございます。
ま、それは「広告」が「表現」と切り離しては成り立たないからでしょうね。では、つづきは新年会で。本年もよろしくお願いします。

投稿: mb101bold | 2011年1月 7日 (金) 11:31

たいへん興味深く拝見させていただきました。

さとなおさんも同じような視点でソーシャルメディアを見ているのではと思いました。

投稿: eightman3rd | 2011年1月 7日 (金) 12:42

ありがとうございました。

投稿: mb101bold | 2011年1月 7日 (金) 17:53

ありがとうございます!
確かに「個人メディア」は、メディアの相対化を推進していますね。
僕も基本的にはそういう認識です。

(「Twitterやブログは本当にメディアなのか?」を考え始めると話がややこしくなりそうなので、とりあえずトータルの“社会的機能”としてそういうものと考えるとして)

広告にせよ、ジャーナリズムにせよ、その他のコンテンツ制作にせよ、コミュニケーション領域に携わる者は、その(相対化の)前提に立ち、いま起こっていることをよく観察し、その流れを全身で感じながら仕事に取り組む必要がありそうです。

 ●      ●  

おっしゃっている「相対化」の現象を、僕はよく「森」の比喩で考えます。いただいたコメントを自分なりの書き方でトレースしてみます。

マスメディアは言うなれば「木」です。それは立派で美しい。ものすごく巨大な木もあれば、珍しい木もあるでしょう。

一方、個人メディアは「下草」、いわば雑草ですが、それも雑草的に美しい。もちろん、下草の中には“毒キノコ”的なものも混じっていますが、それはそれで森の浄化なのかなんなのか、なんらかの役割を果たしているのかもしれません。

従来のメディアという森は、下草が育ちにくい環境だったため、木がグングン伸びていました。
しかし、デジタル化がガンガン草の種を撒いてしまったため、下草は育ち始め、いまや木から栄養を奪って成長を続けています。

 ●      ●  

表現とはいわば、こういった植物群の姿形や、それらの発する匂いのようなものではないでしょうか。いずれにせよ森に暮らす我々は、そういったものを目にしたり、その空気を吸ったりしながら暮らしているのだと思います。

しかし、ひとつ危惧しているのは、あまりに下草が育ちすぎると、木によっては枯れてしまうものがある気がするんですね。日光を浴びづらい、あるいは栄養を得にくい環境に生えている下草の中には、「てめえなんて枯れちまえ!」的なオーラを木に向けて発するものもあります。

まあ、確かにいままでは木の天下でしたから、それもある程度はしようがないのですが、ひとつ気になることが……。木が枯れたとき上からさす直射日光に下草が耐えられるかが、現状不明なわけです。土壌がカラカラになってしまうからです。

多少話をはしょりますが、今後の「何をいかに伝えるか?」には、この新しい森の環境をいかに人が暮らしやすい状態に保つか、という作業が含まれる気がしています。「少なくともそれを意識しつつ「木」や「草」を作らないといけないのでは? でも、はて、さて、それをどうすればいいのやら?」というのがいまの私の位置です。

私はこの作業を、流行言葉を素直に受け入れて「キュレーション」と呼んでいます(いまよく言われている“それ”とは行為の意味が少し違うかもしれません)。

しかし、おっしゃるように、こうなってくると「表現」の意味はかなり変わってきそうですね。

 ●      ●  

「広告」に関しても、森の比喩で考えると、それは木の葉みたいなものかもしれません。あるいは木に貼付けたプレートかもしれません。例えば「バナナ」みたいな。

葉っぱはやがてはハラハラ散って土壌の栄養になる。そして、木には果実(商品)がなり、我々はそれを食べる。葉っぱのあいだに実るから果物もおいしそうに見える、この関係が絶妙に成立していたように思います。「逆説的な表現手法」とおっしゃっているのは、奇妙な葉っぱをはやして気を引きつけるといったことなのでしょう。ときには果物に色を塗ってまで食わそうとする輩もいます。

しかし、もはや我々はあまりにもたくさんの、そして色んな種類の果物を食べ過ぎたため、ちょっとお腹一杯なのかもしれません。下草のあいだに生えてる野いちごみたいなもんでいいや、ということかもしれません。「賞賛と憧憬」の限界でしょう。

ですから「広告」も、森の景色をよく見極めた上で、葉っぱ的な機能をある程度は脱する必要がありそうです。果物をもいでお客のところに持って行ってあげたり、「この木はこういう果物をはやしたほうが、食べてもらえるんじゃないっすかね。桃がなってるけど木の形はバナナっぽいすよ」的なアドバイスをしたり、あるいは新種の果物を作ったりすることさえも「広告」であると僕は思います。それも一種のキュレーションではないかと愚考するわけです。

ですが、「0→1」の例でおっしゃっている通り、葉っぱもやはり必要だと思います。そこがスカスカな森は明らかに感じ悪いですし、風がピューピュー入ってきたりして寒いです。暮らしていて元気出ません。葉っぱはコンテンツの比喩でもあります。それが繁らない森は中にいて居心地よくなさそうです。

だけど、きちんと育てられたというか、その土地の栄養を反映している感じのする葉っぱでないと、いまは人々は遠ざかってしまうような気もするんです。そういう葉っぱの作り方を研究したいですね。

好みとしては好きなのですが、やたら派手な葉っぱとか、不健康な感じの葉っぱとか、笑える葉っぱとか(違う意味にとれそうですが…)、そういうのはキツそうですよね。もちろん、大人気の実がなる木の場合、それでも機能すると思うのですが。

まあ、葉っぱ作りと同時に、やはり森のウオッチ野郎(木こり?)が自分の役割かなと思っているわけです。

この環境において「何をどう伝えるか?」とは、私にとっては上のような問題として立ち現れています。

長くなりまして恐縮です。

関係ないですが私もJAZZをやっておりました。コンボでトロンボーンという特殊なポジションでした(笑)。

投稿: kawajiring | 2011年1月 7日 (金) 21:04

森の比喩から示唆されることがたくさんありました。

>だけど、きちんと育てられたというか、その土地の栄養を反映している感じのする葉っぱでないと、いまは人々は遠ざかってしまうような気もするんです。そういう葉っぱの作り方を研究したいですね。

これは本当にそうですね。

マスメディアにも言えますし、ネットメディアも同様です。森ですものね。どちらもすこやかでないと森は豊かにはなりませんよね。その意味でも、そもそも広告って、個人メディアやTwitterなどのソーシャルメディアも含めたメディアにとって、つまり、人々が豊かに暮らす森にとって何なんだろうということを根本から考えたほうがいいよね、ということを広告制作を生業にしている私は考えています。

広告って、基本はおじゃま虫だと思うんですよね。できれば見なくてもいいもの。でも、ないと森に活力は生まれませんし、人間が商行為を行う限り必然的に生まれる行為だとも思います。そんな広告だからこそ、私はおじゃま虫の広告です、と胸を張って、広告のおもしろさで勝負したいと思うんですね。

それは、広告のトーンアンドマナーの話ではなく、スタンスの問題かもしれません。派手であってもいいし、時には時代の空気にあらがって違う価値観を表明したりすることもあってもいい(というかそういうの大好きです)。でも、それが、私は広告じゃないですよ、みたいな顔をしていては、もう個人がメディアを持てる時代、しんどいんじゃないか、という思いはありますし、それは森の健康にとってよくないという強い思いがあります。だから、私はブランデッド・エンターテイメントやある種のBuzz広告系のサービスには否定的なのです。

従来メディアについて言っても、たとえば、車雑誌がなくなった原因のひとつは、記事がパブまみれになったこともあると思いますし、そういう不健全な場では、ちゃんとした広告(いわゆる純広告)が効かなくなるのは自明なんですよね。すこやかな森でないと、広告も成り立たないわけですから。

話がすこし離れますが、表現領域については、じつは、この変化はネットを契機とするメディアの変容ではなく、2000年頃の社会の変容にあるのではないかと思ったりもしています。それは、ある種の感覚でしかないのですが。(「あえて狙わないほうがいい」という時代 http://mb101bold.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-bb39.html)

最後に、私にとっての「表現の問題」になりますが、そのあたりのことを書いたエントリがありましたので、私の備忘録のためにも、ここに記しておきますね。

「表現の問題」についての覚え書き
http://mb101bold.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-3f04.html

「キュレーション」については、これからはますます重要になってくるでしょうね。それは、新たなマスメディアの役割かもしれません。このエントリで言えば、市長のYouTubeでの表明をマスメディアはきちんと解釈を含めて伝えるべきなんですよね。それと、ネットメディアで言えば、個人的には、その部分で「はてなブックマーク」や「BLOGOS」に期待しているところがありますね。

コンボでベースと、コンボでトロンボーンは、少し似ているところがあるかもですね。どちらも、ビッグバンドでは目立たないポジションだけど、コンボじゃ暴れるよっていうこところで(笑)。では、今後ともどうぞよろしくお願いします。

投稿: mb101bold | 2011年1月 8日 (土) 01:19

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 個人がメディアを持てるようになったということ:

« 伝える、つながる、かさなる | トップページ | パーセプション・チェンジはコンテキスト・チェンジである »