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2011年3月の8件の記事

2011年3月25日 (金)

あっ、そういえば

 ずっとガスがでなくなってまして、ちょっと困ったなあとなってたんですね。うちは、煮炊きは電気だから問題はないけど、風呂とか入れないし。でもって、しょうがないので、ずっと銭湯に通っておりました。今、東京は450円なんですよ。寒いし、行くのじゃまくさいな、と思いつつ、行ったら行ったでお湯がたっぷりで、薬草湯とかもあるし、銭湯もけっこういいよなあ、と呑気な感じで。

 修繕工事をたのまなきゃなあ、と思いつつ、ガス屋さんに頼めばいいのか、それとも電気屋か、いやいや水道屋か、なんて考えていると、猛烈にどうでもよくなって、いつか、知らない間にガスが使えるようになってるかもしれんし、なんてやりすごしてたわけなんですね。

 大阪に住む親父が元水道設備屋なんで、親父に電話で聞いたりもしたんです。それ、給湯器の電池がなくなってるんとちゃうか、と言うので、これは給湯器かもなあ、とまあ、そんな感じで。うちは築20年ものの物件で、給湯器もそのままなので、ああ、きっと寿命かもなあ、いつかは修理をしなければならない、でも今はそのときではない、と。

 でも気になるので、給湯器のスイッチを入れたり。カチカチいってるので、これは電気は通ってそう、やっぱりガスか、とか考えてて、でも、マンションでガスがでなくなってます、みたいな話はないしなあ、困ったなあ、と思っていると、ふと、16年前のことを思い出したんです。

 あっ、そういえば。

 玄関のガスメーターを見ると、やっぱり。赤いランプが点滅しておりました。非常時の停止装置が働いていたんですよね。説明書通りにボタンを押して、待つこと3分。出ました、出ました。お湯。

 それにしても、人は忘れやすいもんですね。あの日のことは、けっこう鮮明に覚えているつもりでも、ガスのことはすっかり忘れておりました。お湯につかりながら、ああ、人間ってなあ、そんなもんだよなあ、とか思いながら、数日前なら、こんなことをtwitterに書いたら、不謹慎です、風呂に入れない人もいるんです、とか書かれたんだろうな、とか考えたり。

 ホウレンソウとか水のこともありますが、twitterが少し前の雰囲気に戻って来ているようです。感覚的な印象ですが。とりあえずは、よかったなあ、と。もともとそんなにつぶやいたりはしていないけど、ちょっと前からtwitterでも書いております。復興は長くなりそう。元気な人は、元気でいましょ。それが、被災されている方への力にもなりますし。

 そういえば、もうすぐ桜が咲きますねえ。

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2011年3月21日 (月)

Google Crisis Responseのこととか

 大阪。両親と会うために、この3連休を利用して。火曜の早朝に東京に戻る予定。1ヶ月に1度は大阪に帰っているので、まあ普段通りでもある。話をしたり、一緒に飯を食うことくらいしかできない。要は、こちらの気持ちの問題。大阪は、ほとんど揺れなかったし影響はなかったとのこと。空気感はやはり東京とは違う。この差を考えても、被災地と東京とはずいぶん違うだろう。

 この空気の差が、不謹慎とか自粛とかのムードをつくっていて、それは困ったもんだなあと思う。社会全体としてはそうでもないだろうし、大多数の人は不安を感じながらも冷静だろうけど、でも、この手のことは、ごくごく少数が積極的な行動を起こしてしまうから、困る。また、そういう人は、その困った行動が目立つ場所に集まるから、なおさら困る。つまり、必要以上に目立つ。今のtwitterとか典型的。

 ちなみに、twitterの利用率は、2010年12月1から5日に実施されたインターネット調査によると、16%。1万2437人から回答とのこと(参照)。また、この調査はインターネット調査だから、実際はもっと低いと思う。twitterの実際は、この規模のコミュニティ。しかも、メディア特性的に、震災発生から10日経過した今は、批評、批判、啓蒙が飛び交う場であると同時に、上記の困った人が濃くなる時期だから、twitterを見て日本社会の今を認識すると、かなりのバイアスがかかり、見誤る。自戒を込めて思う。

 あくまで私の感覚でしかないけど、ここしばらくのtwitterは、震災関連の情報を得るという目的で言えば、相当な情報リテラシーが要求されると思う。逆に、相当情報リテラシーがある人にとっては魅力的な場にはなっている。様々な視点で、有識者が有用な情報をセレクトして伝えてくれているし、自分の基準を持って情報を取捨選択していけば、相当に使える情報プラットフォームにはなっている。

 受け手としては、情報提供者、今風の表現で言えば"エバンジェリスト"の方向性を醒めた目で見る必要がありそう。また、できれば複数の人に注目し、自分の中で相対化することが大切。それ以外の、日常の交流とか、本来のクローズドのSNS的に近い使い方では、フォローもしていな人から名指しで不謹慎と言われて気分が悪い、ちょっとした発言で言い争いに巻き込まれる、ということはあるけど、まあ、それは程度の差があれ、オープンなSNSの宿命かも。

 東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)版のGoogle Crisis Response(Google運営サイトの震災情報ポータル)のテレビCMがはじまった。いいことだと思う。Person Finder(消息情報)には、現時点では39万以上の情報が集まっていて、その情報はNHK安否情報との連携もされている。TBSと連携したYouTubeの消息情報チャンネルもあり、携帯電話での震災伝言板をはじめとする震災関連の各種リンクも必要最低限を厳選して掲載。本田技研からの情報を受けての自動車・通行実績情報マップも用意されている。

 このサイトは、震災当日の11日に立ち上がった。震災発生から、驚くべき早さだった。Googleの社員は、勤務時間の20%は自分のやりたいことに使ってよいという「20%ルール」があり、その時間の大半を使って、日本をはじめとする世界各国のスタッフが力をあわせて開発しているものとのことで、今回の件に関してはGoogleも支援しているとのこと(参照)。このカルチャーあっての、このスピードだと思うし、このスピードこそが、Webなんだと思う。

 Person Finderをはじめとする各種安否情報は、MSNの震災についての情報サイトがまとまっていてわかりやすい。Google Crisis ResponseのPerson Finder(消息情報)は、下のようにウェブサイトに貼ることができる。
 


   

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2011年3月19日 (土)

人はたくさんのボールを同時には受けられない

 これ、有名な広告づくりの教えなんですが、今の状況にも役立つと思います。キャッチボールってあるじゃないですか。1対1でボールを投げ合う。たのしいですよね。そのとき、突然、横から誰かがボールを投げる。受けられますか。きっと、受けられません。たぶん、プロ野球選手だって受けられないんじゃないでしょうか。

 たった2つでも、人間は受けられないんです。

 その広告づくりの教えでは、だからたくさんのメッセージをひとつの広告につめこんではいけません、メッセージはひとつにしぼるべきです、と続きます。たくさんのお金を出して出稿する広告です。受け止められないと、お金を溝に捨てるようなものですから。

 広告情報ならば、消費者はノイズとして無視、となりますが、震災の情報はちがいます。人の生き死にに関わりますから、無視はできません。できるだけ多くの情報を得たい、とりこぼしたくない。それが、人情というものです。

 でも、人間は、多くのボールを同時には受け止められない。悲しいけれど、人間の心はそういうふうにできています。いやがおうでも情報を受けてしまう。それはしょうがないことです。私もそうです。だけど、人間にはそれができない。そういうふうにはできていない。

 そのことは、知っていてもいい、損はないと思います。

 自分のために、愛する人のために、多くの情報を受け止めたい、でも、受け止められない。ひとつの暴投に目が奪われる。次から次へと、大小、いろいろなボールがやってくる。どんどんあせりがつのります。あせる、あせる、あせる、あせる、そして、あきらめる。そのあとに来るのは、絶望感、無力感、虚無感です。その感情が次に求めるもの。

 それは、決して揺るがない絶対的な原理です。しかし、そんなものは、この世界には、たぶんないと思うのです。

 1995年のことを思い出します。阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件があった年です。あの頃は、今みたいにネットも発達してなくて、マスメディアが情報の命綱でした。今は違います。テレビ、新聞、ネット、twitterなどなど、数え上げたらきりがありません。それでも、そんな牧歌的な時代でも、今思えば、阪神淡路大震災のあと、人々の心の中に、絶望感、無力感、虚無感があったように思います。

 私は、このことを忘れることはできません。

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2011年3月18日 (金)

がんばれ、NHK_PRさん。応援してます。

 そもそもの問いが愚問だけど、今、この状況で、広告人として何ができるか、と問われれば、NHK_PRさんみたいなことかな、と答えます。それくらい、NHK_PRさんの中の人の仕事は見事だなあ、と思います。あっ、中の人などいない、でしたよね。失礼しました。

 twitterをやっていない人はわからないかもしれませんが、NHK_PRは、NHK広報局の公式twitterアカウントのこと。NHKの番組の広報ツイートをtwitterで日々届けておられます。twitterのアカウントページの自己紹介は、こんな感じ。

名称 NHK広報局(番宣・広報/ユルいです)

自己紹介 このたびの大きな震災では、皆さん長い緊張状態が続いているようで、様々なところに、イライラと批判と強い口調の言葉が流れています。だからこそ、このアカウントでは出来るだけ日常的なユルいツイートを心がけております。ご批判もあるとは思いますが、ご理解ください。PRはパブリック・リレーションズの略、アイコンはおやつの時間です。

http://twitter.com/NHK_PR

 自己紹介でも書かれているように、今、「批判と強い口調」がtwitterにあふれています。そんな中で、震災発生時から、番組の番宣・広報の枠を超えて、常に有用な情報をツイートしてこられたNHK_PRさんにも「批判と強い口調」が向けられているようです。でも、NHK_PRさんくらいの強者なら、心配は無用。役者が何枚も上。安心して見ていられます。

 震災の発生直後、TLにたくさんのリツイートが飛び込んできました。その中で、私が、ああ、このリツイートは私にとっても役立つし、被災されている方にも役立つだろうな、と思ったのが、たくさんの人にリツイートされたNHK_PRさんのツイートでした。その時は、今よりもちょっとだけユルさひかえめで、最近、少しずついつものユルい感じに戻されているようです。見ていた人はきっと、そうそう、と思っていただけると思いますが、そのモードの見極めとタイミングも見事でした。

 パブリック・リレーションを含めた広告って何かっていうと、つまるところ、コミュニケーションの最適化だと思うんですよね。最適化なんていい感じの言葉を使いましたが、別の言葉で言えば、身も蓋もないけれど、コミュニケーションのコントロール。

 一頃、ホリスティック・コミュニケーションやコミュニケーション・デザインという用語が流行しましたが、なぜ、立体的、全体的にコミュニケーションをデザインしないといけないかというと、それは、これだけ複雑になって、個々人も発信する時代になってきてたら、全体を考えて立体的に情報発信を考えないとコミュニケーションがコントロールできないからでしょ。マスだけ考えても、無理。とりわけコントロールできにくいソーシャルメディアがからむからこそ、今の時代、広告は、コミュニケーション全体をデザインすることが必須なわけです。

 この震災に、広告人として何ができるか。これは、あらかじめ言っておくと愚問です。うちの親父は水道工事をやっていましたが、水道人として何ができるか、という問いに関しては、依頼された仕事を淡々とこなすことしかないわけです。それは、広告人でも同じです。

 それでも、あえてその問いに答えるなら、自分の仕事の範囲で、自分の職業のノウハウを活かす、ということ。

 広告人としてのノウハウ。それは、究極的に言えば、コミュニケーションの最適化、コントロール。コピーやビジュアルは、その手段に過ぎません。広告にコピーやビジュアルが使われるのは、その時に、コミュニケーションの最適化の目的を達成するために有効な手段であるからでしかありません。それだけのことです。

 NHK_PRさんは、会社の求める仕事を超えて、また、所属する日本放送協会も震災時にそれを許して、さらには、支援して、震災時に必要な情報を提供しつづけました。

 その語り口は無駄がなく、気の利いたレトリックもなく、過剰に心を動かすアジテーションでもなく、正しい事実だけを淡々と伝える普通の言葉でした。あの、いつもはユルユルのNHK_PRさんがあえてそうしたのは、きっと、NHK_PRさん自身が、この震災時に、職業人として持つ広告的なノウハウを使って貢献しようと思っていたからでしょう。ここで言う、広告的というのは、NHKの広告になるという意味ではなく、広告的なノウハウを使って、今の状況を最適化し、復興の道筋をつくるということ。だから、どんな見事な広告コピーより、NHK_PRさんの言葉は、力がある言葉でした。NHK広報局は、多くの人がフォローするアカウントです。不特定多数に受動的に伝える、という狭義の広告(アドバタイジング)の要件が揃った中で、そのツイートは、twitterを利用する人たちに、どんな広告よりも「広告的」に届きました。

 私のTLには、必要なときに必要な情報がNHK_PRさんから届いていました。そして、twitterというコミュニケーションの場が、有用な情報を求める場から、この不安で厳しい状況化で毎日をともに生きる人が考え、対話する場になろうとしたとき、淡々とした口調で語られる有用な情報を織り交ぜながらも、いつものユルい語り口に戻りました。その変化が、どれほどの人の心を和ませているか。

 私には、NHK_PRさんが懸命に、コミュニケーションの場を、これからの復興に向けて最適化しているように見えました。それは、自然のままにまかせるのではなく、明らかにコントロールの強い意志が見えます。その意志は、正真正銘、広告人のものです。業務のために、業務を超えて、依頼主である日本のために、広告のノウハウを活かしています。

 NHK_PRさんは、TLに表現されない返信ツイートという手法で、NHK_PRさんを不謹慎だと批判する人に直接きちんと答えています。そのきめの細かさにも、驚かされます。(追記:あらかじめ言っておきますが、逐一答えることが正しいというわけでは決してありません。むしろ、ある一定の割合で起ることとしてスルーするのも正しいやり方のひとつです。また、NHK_PRさんもそのようにお考えでしたが、スルーすると電話で苦情という流れになるので、この時期は特に応答しているとのことです。個人的には、応答により第三者が群になって批判する人を批判し、小さな個人をつぶしてしまうことになりがちなので、現状のtwitterのシステムではできる限りスルーがいいんじゃないかと思っています。また、第三者が叩くのは当事者の望むことではないと思います。)

 広告は、本来的に企業コミュニケーションです。パーソナルなコミュニケーションではありません。なぜなら、企業、つまり公共性を持ったコミュニケーションだからです。あらかじめ属人性は排除された、企業という、法律用語が示すように「法人」が行うコミュニケーションです。NHK_PRさんが「中の人などいない」とおどけながら言うのは、そのいないことになっている中の人が、まさに広告(狭義ではパブリック・リレーション)を行っている自覚からでしょう。

 今、よく言われる話す人が見える企業コミュニケーションの意味は、担当者の顔が見える人ということではなく、その主体たる企業、つまり「法人」に人が見える、感じられるということだと思います。NHK_PRさんのユルさのバランスは、ひとつの理想のように思えます。

 応援しています。同じ広告人として。誰が何を言おうと、NHK_PRさんの行っている仕事は、新しい、明日の「広告」だと思います。同業者として、嫉妬すると同時に、励みになっています。最後に、ひとつだけNHK_PRさんの言葉を引用してこのエントリを終わります。

不謹慎ならあやまります。でも不寛容とは戦います。それでは、あらためてciao!!

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2011年3月16日 (水)

ここ数日のこと

 ブロガーなんだし、地震発生からこれまでのことを、自分のためにも備忘録として記録しておこうと思い、エディタを開いた瞬間、また大きな揺れ。震源は静岡東部。震度6強。東北地方太平洋沖で発生した地震だけど、今回は広範囲で次々と地震が起る。twitterでフォローしている方に、仙台在住の方もいる。お会いしたこともないし、やりとりもしたことはないけれど、たまに私のブログやツイートの言葉について言及してくださるので前から気になってはいて、その方のアカウントページを覗いては現状を確かめたりしている。現在進行形の被災の姿がそこにあって、胸が痛む。

 11日の地震発生時、東京の勤務先にいた。強烈な横揺れだったけれど、感覚的には阪神淡路大震災に大阪で感じた揺れよりも若干弱く、その分、妙に落ち着いた気持ちでいた。不謹慎かもしれないが、この揺れではまだ大丈夫。そんな感覚があった。

 twitterにアクセス。阪神淡路大震災の時、発生直後はマスメディアには情報はあがらなかった。神戸が壊滅的な状況になっているのが報道されるのにかなりの時間がかかった。速報性では今は圧倒的にソーシャルメディア。ほぼリアルタイムで地震の情報が更新される。フォローの関係からか、その多くは東京から。テレビを見た人が、発生源は仙台だと知らせるツイート。まずいことになった、と思う。震源が東京近辺なら、この揺れが最大限なはずで、それほどの惨事にはならないだろうと思っていた。仙台か。相当まずい。

 けれども、正直に告白すると、東京より西ではないことに安堵感もあった。認めたくない感情。だけど、確かにあった。大阪に住む両親のことがあった。特に母のこと。昨年、日をあけて両足の股関節を骨折し、リハビリも断念。最近、車椅子で生活することになり、その母に地震が直撃すると大変なことになる。それだけは避けたい。西じゃなくてよかった。心の中にどうしようにもある闇の部分。

 テレコムセンターで火災、というツイート。職場の窓に人だかり。お台場方面に煙が上がっている。テレビでは被災地の映像。津波。飲み込まれる家。街が消える。246号線の歩道。周辺のオフィスの人々。近くの公団住宅では、住民の方々が集まってラジオに聴き入っている。それ以外は、何も変わらないいつもの風景。JR、私鉄、地下鉄が次々運転中止に。

 夕方、勤務先を出る。徒歩で渋谷東口。電車はすべて運転中止。バスターミナルに人があふれている。中野行きのバス停を探す。どうやら西口らしい。中野行きの列に並ぶ。待ち時間は1時間ほどとの話。この列は阿佐ヶ谷ですか、と聞く人。いいえ、ここは中野です、阿佐ヶ谷はあっち、と答える人。そのやりとりを聞きながら、いつしか私も答える人になる。バスが来るたびに、通り道を開けるために列が分断される。分断された列を元に戻しているうちに、中野行きの列を見失う。列を整理するバス会社社員の目が泳いでいる。クレームする人。どさくさに列に割り込む人。列の前の若い女性が、不安、と一言。大丈夫です、新宿まで行ければなんとかなります、と答えになっていない答えをする。とにかく、何かを話すということに意味があるんだな、と思った。全体としては、状況のわりには冷静な人が多く、いくつかの時代を経て、日本人はパニックを起こしにくくなってきたんだと思った。何度かの列の分断のうちに、その女性と私のあいだに10人ほどの人が入っていて、その女性は、後ろを向いて、ずっとそのことを気にしていた。

 バスに乗車。運転手さんがすばらしかった。幹線道路はすべて渋滞していますので、中野まで2時間半かかります、この先長時間のご乗車になりますが、よろしくお願いします。なかなか言えない言葉だと思う。渋滞する道玄坂。反対車線のバスとすれ違うたびに、窓を開け、バスの運転手さんに、この先、渋滞でターミナルに入れないから、お客さんを降ろしてあげたほうがいい、と伝えていた。

 2時間ほどの乗車で、私は断念。富ヶ谷でバスを降り、徒歩に切り替える。道にはスーツを着た人たちが列をなして歩いている。どの人も顔は明るい。ある種の興奮状態なのかもしれない。沿道のファーストフード店はどこも閉店している。中野坂上でラーメンを食い、帰宅。11時半。

 地震発生直後からtwitterを利用して思ったこと。いろいろあったけれど、震災時、twitterは想像以上の役割を果たしたと思う。繰り返しになるが、震災発生直後はマスコミの情報は手薄になる。また、どうしても情報に優先順位がでてしまう。それはメディアの特性上当たり前の話で、だからマスコミは駄目、ということではない。その手薄な部分をtwitterは補完したと思う。また、電話、ネットが切断された現場では、twitterが連絡手段、発信手段になっていたケースも多々あったと思う。冒頭で書いた仙台の方は、ハッシュダグを使い、地域の方と切実な情報交換をされている。twitterはパーソナルなメディアで、本質はSNS。自分のアカウントのTLで判断しないほうがいいと思う。

 ただ、twitterというソーシャルメディアのシステムが持つ脆弱性もかなり露呈した。震災直後、愉快犯的なデマツイートが2、3あった。その後、ネットを含めたマスコミの情報が手薄な段階では、善意による、もしくは思い込みによるデマツイートが数多く現れた。中にはかなり巧妙で見抜きにくいものもあった。そのデマは、RTにより拡散された。また、サードパーティのtwitterクライアントによって一般化し、対話コミュニケーションの方法として用いられてきた非公式RT(言及元を引用し、その前にRTまたはQTを付ける返信方法)のデメリットもあった。

 twitterはインフラではないよ、単なるツール、なのに、右向け右で地震関連のツイートばかりで気持ち悪い、不謹慎という言葉に象徴される同調圧力が生まれている、という意見があった。でも、正確に言えば、一時的にインフラになってしまったんだと思う。それぞれの人の欲望の素直な発露の結果としての地震関連ツイートの氾濫だったのだと思う。それは、人間の欲望としては自然な姿で、この状況で、あえていつもどおりたのしく、というのは、ある自然に対しての反抗でもあるし、かなりの意志が必要な倫理的な態度なのだろうと思う。つまり、意識に対して無理を強いている。私はその倫理的態度を美しいとも思うし、そうありたいとも思うし、すべてに寛容でありたいと願ってるけれど、それでも、あの地震関連ツイートとの氾濫は、群としてみたときに、人間の自然な姿だったのだ、と解釈したい。愚かしくとも、それが群としての人間の姿。もちろん、同調圧力がなかったとは言えないし、同調圧力は肯定はしない。

 twitterは、大小さまざまな無数の公開SNSグループがつながったもので、たとえば、自分のアカウントのフォロアーであっても、そのフォロアーは、複数のSNSグループに所属している。よって、TLには、様々なクラスタの価値観が表現されてしまうし、それはコントロールできない。でも、その姿をシステムの特性として捉えれば、また違った見え方がするのではないかと思う。

 特に、twitterはシステム上、フォロアーのツイートがすべて可視化され流れる仕組みになっているし、何よりも他のアカウントに意見をするのが簡単。その結果、同調圧力も生まれやすく、特定の人に向かっての罵倒のハードルがかなり低い。後者の、mention機能は、ブロックによってでしか防ぎようがなく、また、たった一人の悪意が、ツイートする人に与える心理的影響が絶大。私は、ネットに対してはすれているところがあるので、そういうシステムなんだし、スルー、スルー、ということになるし、力と余裕があれば論駁すれば済む。万人に開かれているウェブで表現をするための前提だとも思っている。私に表現の自由があるように、あなたにも表現の自由があり、私の自由を権利として保証されたいと思うからこそ、あなたの自由を認める。拒絶する権利は原理的にはない。しかも、あなたが直接私にものを言うことは、システムとして担保されているし、そのシステムを私も使っている。そういうことなんだと思う。

 けれどもそうもいかないのが人間でもあって、実際に、私の友人が、正義を偽装したおせっかいツイートによって落ち込んでしまっているのを見て、本音で言えば、いてもたってもいられない。しかも、余震が続く中で家族を支え、不安のなかで毎日を過ごしている中での余計な一言。人を思いやる気持ちがないと心底思う。どうか、傷つかないで。そういう人はどこにでもいるし、気にしないでいてほしい。ネットずれしたおっさんの友人からの心からの願い。2日遅れのマシュマロみたいな言い方でごめん。

 震災直後、情報の提供メディアとして活躍したtwitterは、そろそろ次のモードに入るように思う。マスコミの情報価値がtwitterの速報性を上回る段階で、twitterは、情報の発信、発掘から、マスコミが提供する情報やニュースについての批評、批判、あるいは、状況への提言や啓蒙が中心になってくるはず。私のアカウントのTLにもその兆候は現れているようにも感じる。その手の話は、ブログのほうが健全にできるように思うので、しばらくtwitterを離れるかな、と思っている。

 もう少しすれば、そのモードも終わり、また、いつものやわらかいSNSとしてのtwitterに戻るはず。被災されている方は、これからも、そんな世間の空気に関係なく、これまでにない情報インフラとして使い続けられることだと思う。twitterの運営も、どうかこのインフラを支え続けていってほしいと思う。

 計画停電による影響で混乱気味の東京の日常だけど、でもまあ、それなりに働けて飯が食える日常でもあり、突然、ガス器具が故障し、10年ぶりに銭湯に行ったり、そんな私事のあれこれ以外はなんということもなく、被災されている方々のために、できることを少しでも多く、というのが、東京に住む私の、今の率直な気持ち。現状、個人がへんな動きをするよりも、お金での支援が最適解という状況ではあるのが悔しいけど。ちょうど今、茨城に緊急地震速報がでたり、いろいろ不安な毎日が続くけれども、世界中が応援してくれているし、きっと復興できるはず。できる。

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2011年3月14日 (月)

おっちゃんとの会話

 中野ブロードウェイのジャンクショップにて。

 フィルムのコンパクトカメラが300円くらいで山積みされてて、それを見ていたおっちゃんが話しかけてきました。

 「これ、安いねえ。ちゃんと映るんかなあ。」
 「どうなんでしょうねえ。」
 「映るんだったら買ってみようかなあ。」
 「でも、これフィルムカメラだから、あとで苦労しますよぉ。」
 「むずしいん?」
 「いや、そうじゃなくて、今、フィルム、あまり売ってないでしょぉ。」
 「???」
 「デジタルじゃないから、きっと、めんどうですよぉ。」
 「ああ、むずかしいのかぁ。」

 おっちゃんはピントをあわせる手振りをしていたので、こっちの話はまったく通じていなかったけど、妙に納得しているご様子でした。

 1時間ほど買い物にでかけていたんですが、このおっちゃんも含めて、3人のまったく知らない人とお話しをしました。普段は、こんなことはないんですけどね。やっぱり、みんな、心の底のほうに、ぼんやりとた不安があるんでしょうね。

 そして、柄にもなく、知らないおっちゃん、おばちゃんと、世間話に興じる私の心の底にも、やっぱりあるんだろうなあ。

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2011年3月 8日 (火)

オフコースファンの方、読むといいですよ。

 ひさしぶりのオフコースカテゴリー。Twitterにも書いたけど、こちらを読んでいただいているオフコースファンの方もいらっしゃると思いますので、こちらでもお知らせしておきますね。

小田和正から鈴木康博への手紙 - アクロス・ザ・ユニバース

 読まれました?

 なんか、いいでしょ。NHK名古屋の鈴木さん出演のラジオ番組で、小田さんからの手紙、というところがなんとも小田ヤスらしいです。ファンとしては、二人の歌と演奏を聴きたいところですが、騒がずあせらず、静かに見守るのが、きっと正解なんでしょうね。

 小田さんから鈴木さんへのお手紙は、こんな言葉で結ばれています。

身体に気をつけて。楽しく歌い続けていかれるよう心から祈ってます。

 そう、楽しく、そして、続けること。それがたいせつなんですよね。なによりも、まず自分がたのしい、と思えること。それが、たいせつ。私は歌は歌わないけれど、ほんとそう思います。なによりも、自分がたのしいと思えなきゃ、ね。そうなんです。なんでもそうですよね。

 あなたがたのしく歌えますように。歌い続けられますように。

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2011年3月 2日 (水)

パーセプション・チェンジはコンテキスト・チェンジである

 広告コミュニケーションの領域で「パーセプション・チェンジ」という言葉が使われていましたが、最近はあまり聞かなくなってきました。パーセプションというのは、日本語で言えば意識とか認識。つまり、パーセプション・チェンジとは、意識や認識を変える、ということ。

 こうして日本語にしてしまえば簡単なことで、要するに、「あっ、こんな商品がある」と人の意識に刻み込むこと。で、その手法はいろいろ。例えば、CMで商品名を連呼したり、とにかく露出を高めたり、人気タレントを起用したりしても、パーセプション・チェンジはできますし、ネットでいえば、バナーやリスティングの集中出稿でもできます。消極的な意味では、すべての広告はパーセプション・チェンジができます、ということなんですが、積極的な意味では、パーセプション・チェンジは、意識や認知の劇的な転換みたいなニュアンスを持った用語です。

 ではなぜ、最近、パーセプション・チェンジという言葉が使われなくなってきたか。それは、きっと、マス広告が以前ほどの力を持たなくなってきたからでもあるんでしょうね。その一方で、TwitterやFacebookなどのソーシャルメディアが力を持ってきて、広告コミュニケーションの領域でも注目を集め、ソーシャルメディアをどう活用するかに話題の重心が移ってきたからでもあるのでしょう。

 なぜソーシャルメディアに話題の重心が移ると、パーセプション・チェンジという言葉が語られなくなってくるのか。それはもうわかりきった話で、ソーシャルメディアは、パーセプションができた段階ではじめて活用されるべきコミュニケーションの場だからです。ブランドの認識がなければ、人がソーシャルメディア上で能動的に参加するはずもなく、つまりは、ブランド認知ありきの、その先にどうしていくか、というところでの話をしているわけだから、そりゃ、パーセプションの話はでてきませよね。

 でも、そもそもブランド認知がなければ、いくらソーシャルメディアを使ったところで、その先はどうにもならないのは当たり前です。だって、0になにかけても0なんですし。笑い話ではなく「フェイスブックのことを告知する広告」が必要になってしまうんですよね。ソーシャルメディアを活用する、ということは、つまり、パーセプションが前提になっているわけです。そのあたりの見きわめは、こんな時代だからこそ、ほんと大事だと思うんですよね。(このあたりについては「ソーシャルメディアとの距離の取り方」にも書きました。)

 これで話が終わってしまうと、ソーシャルメディアもいいけど、パーセプションをつくることも大事ですよ、それでは、それでは、というつまらない話になってしまいますが、本題はここから。こんな時代の「パーセプション・チェンジ」について書きます。というか、もともと書きたかったのは、こっちのほうです。

 パーセプション・チェンジというからには、チェンジ、つまり変化です。こんな時代、つまり、いろんな場所でいろいろ語られたりして、その多くがネットで可視化され、増幅される世の中だからこそ、変化のあり方が問われるのではないかな、と思うんですね。

 それはつまり、この先、どう語られたいか、が大事ということ。

 コンテキスト、文脈です。どういうコンテキストでそのブランドを認知されるのがよいかを考える、ということです。ただの認知では、もう駄目だと思うんです。これは、言い切っていいと思います。これまで、最初に書いたような、連呼やタレントによる、比較的単純な認知による認知の変化も、パーセプション・チェンジとして語られました。けれども、本当にパーセプションを獲得し、ブランドがきちんと世の中に存在し、この先も、きちんと成長していくためには、単純認知に加えて、適切なコンテキストというものが絶対に必要です。

 コンテキストがなければ、単純認知だけに、認知のドライバーになってる広告が終わればすぐに忘却されます。それは、認知がタレントやブランド名にしか結びついていないので自然な過程です。また、たとえコンテキストがあったとしても、それが適切でなければ、むしろ、そのパーセプション・チェンジは、負のパーセプションとして働いてしまいます。つまり、ブランドにとって不適切に語られ、ブランドの健全な成長を阻害してしまうんですね。

 コンテキストは、ブランドの成長過程によっても変わっていきます。ブランドが次のステップに行こうとするとき、その成長にあわせて新しいコンテキストが必要になってきます。思えば、その新しいコンテキストの獲得に失敗して、あるいは、かつてのコンテキストに縛られて、一過性のブームで終わってしまったり、かつての勢いを失ってしまったブランドを、これまでたくさん見てきました。これからの時代、ソーシャルメディアの興隆に象徴されるように、ブームとして消費されてしまう速度も速くなってきて、終わる速度も、そのぶん速くなっていくでしょうし。

 パーセプションを本当に変えるものは、コンテキストだと思います。英語だから、そのあたりあいまいになっていましたが、これまでにも、あえて、パーセプション・チェンジという言葉を使うとき、その頭の中には、本当はコンテキスト・チェンジがあったんだと思うんですね。Appleも、NIKEも、UNIQLOも、これまでのコンテキストを変えたから、強力なパーセプションができあがったのだろうと思います。そして、これらのブランドは、ソーシャルでも強い。

 また、このコンテキストは、広告だけでなく、広報をはじめとする、あらゆるブランドの活動の根幹をなすものだとも思います。コンテキストがひとつでもぶれると、全体がぶれる。これを逆に言えば、コンテキストさえぶれなければ、そのひとつひとつのコミュニケーションは、コミュニケーションの場によって、その場を支配するモードによって、適切に変わってもいいし、むしろ、変わることが求められる。そんなふうに思います。

 私はスタートがCIなので、ビジュアルやトーンの統一性をかなり意識しつつ仕事をすすめてきたつもりですが、でも、その原則が、じつは現実において最適解ではない、という感覚が私にはずっとありました。その理由が、こういう時代になり、そこにパーセプション、コンテキストという補助線を引くことで、はじめて、明快に理解できたような気がします。

 コミュニケーションは、私たちが頭で思っているよりも、本質的にはもっともっと柔軟で、だからこそ、その柔軟さに耐えられるだけのコンテキストが求められる。きっと、こういうことなんでしょうね。

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