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2012年1月の15件の記事

2012年1月31日 (火)

オフコース・カンパニー

 杉田二郎さんのオフィスであるサブミュージックから独立して、オフコースは個人事務所をつくります。名前は、オフコース・カンパニー。1976年8月1日、今から35年も前のことです。

 場所は、東京の神宮前。公団住宅の奥にある小さな公園の前にあるアパート。その頃は、まだオフコースはあまり売れてなくて、学園祭を回ったり、CMの歌を歌ったりしていたそうです。

 もうそこにはオフコースはいないけれど、あの公団住宅も、あの小さな公園も、あの建物もまだあります。

 

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2012年1月29日 (日)

おそばの話

 ひさしぶりにとある立ち食いそばのチェーン店に立ち寄ったら、ありゃまあ、おそばがうまなったなあ、と。テーブルに置いてある小さなPOPを見てみると、挽きぐるみの石臼挽きになったとのこと。なるほど、確かに香りが違うね、と言えるほどおそばに詳しくはないのですが、でも、あの値段でこの味はコスパ高いよなあ。はい。そうです。コスパって言いたかっただけです。

 私は大阪生まれで、高校まで大阪で過ごしましたので、あまりおそばには親しみがありませんでした。大阪では、立ち食いそばではなく立ち食いうどんと暖簾に書いてあります。もちろんおそばもありますが、あくまでうどん屋なんですよね。

 はじめて東京でそばを食べたのは、大学受験の時でした。新宿で、お腹がすいたし何か食べたいなあと思って、地下街をうろうろしてたら、立ち食いそばのお店がありました。食券機を見ると、天ぷら付きの盛りそばが500円。えっ、えらい高いなあ、と思ったけど、まあいいや、と食べてみると、うわっ、これは。そのお店、とある老舗そば屋さんの出店だったんですね。

 「なんだこれ、ラーメンみたい。」

 今思うと、かなりはずかしいですが、食べて最初に思ったのがこれ。角が立ってて、コシがあって、なんというか、大阪で食べてきたおそばとまったくちがうのです。大阪のおそばって、基本、うどんが飽きたときのものだから、って言い切るのはあれかもですが、まあ、当時はそうでしたから、って言い切るのもどうかと思うけど、まあ、あれです、今でもたいがいのお店では、おそばは色が濃くて細いうどんみたいな感じなのです。

 東京の人はおそばを大事にしますよね。私も、そば好きの人に連れられて、老舗の名店に何度か行ったことがあります。中には、ただの盛りなのに、この値段、サーロインステーキが食べられるじゃない、という値段のものもありました。まあ、おそばにはおそばの、サーロインステーキにはサーロインステーキの価値ってものがありますが、それでも、ねえ、いくらなんでも、ねえ。

 そんな老舗のおそば屋さんに行くときは、たいがいはお酒を呑みます。つまみに、卵焼きとか板わさとかを頼みます。あと、天抜きとかも。天抜きは、天ぷらそばからおそばを抜いた物で、おいしいです。

 そんなおそば屋さんには、メニューに海苔というのがありますよね。木でできた小さな火鉢に引き出しがついていて、その引き出しを引くと海苔が入っています。つまり、暖かい海苔。これがまた高いんですよね。確かに風情がありますが、でも、海苔でしょ、だたの海苔でしょ、どう見ても海苔じゃいですか、そんな言葉が頭の中でループする私は、江戸っ子には一生なれないんでしょうね。

 江戸前のおそばは好きだけど、なんかその文化にはなじめない。そんな私のいちばんのお気に入りが山形のおそば。

 その中でも、太めに切った田舎そば。冷やし地鶏そばという名物があって、薄口の冷たい出汁に田舎そがばどかんと盛られて、薄切りの地鶏と三つ葉が添えられています。これでもかというそばの香りともにガツガツいくんです。出汁をぜんぶ飲み干して、ああ、うまたっか、そば食ったなあ、満足、満足という感じがとってもいいんです。

 東京で生活するようになって、かれこれ20年ほどになります。結論は、うどんはともかく、おそばはこっちのほうが断然うまい。で、大阪に住む親父にこの味を、ということで、一度こちらで生そばを買って、ゆでて食べさせたことがあるんです。

 「うーん、これ、あんまり好きやないなあ。もっと柔らかいのがええわ。」

 そうかあ、そりゃしゃあないなあ。まあ、味覚は人それぞれ、ということなんでしょうね。では、みなさま、引き続きよい日曜日を。

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2012年1月28日 (土)

小島慶子さん「キラ☆キラ」降板のポッドキャストを聴きながらターゲティングの功罪について考えてみました

 TBSラジオのお昼の人気番組「キラ☆キラ」のパーソナリティ、小島慶子さんが降板されるそうです。いろいろ憶測でニュースが流れたりして、その誤解を解くために、小島さんが自身の言葉でオープニングで降板の理由を語っています。

 理由は、局側から「まだラジオを聴いていない、40代、50代の男性の自営業の人を意識したしゃべりをしてください」と言われて、「ラジオはリスナーとの会話。今聴いている人に話しかけながら、その肩越しに聴いていない人を呼び込むしゃべりをしろ、と言われたら、それは絶対できない」とのことで自分から降板を申し出たそうです。出典:J-CASTニュース

 生放送ですが、TBSラジオのサイトでポッドキャストで聞くことができます。こういうニュースは活字で読むとニュアンスが変わるし、これは結構重要なことですが、この話が語られたのは隣にピエール瀧さんがいて、彼女の話を聞いてくれているという状況ですので、その部分を押さえなければいろいろ間違えそうです。興味のある方はぜひ聞いてください。興味深いトークだと思いますし、おすすめします。

 2012年01月26日(木)オープニング ー TBSラジオ「小島慶子 キラ☆キラ」

 直球ど真ん中で熱く語る小島さんと、少し距離を置き小島さんの思いを受け止めながら、小島さんの放送を楽しみにしているリスナーのことも考えて話す、大人なピエール瀧さんもどちらも素敵です。この音源だけで「プロってなんだろう」みたいなテーマで徹夜で語りあえそう。

 で、このポッドキャストを聞いて、なるほどなあ、そうだよなあ、ターゲティングって一体何だろうなあと思ったんです。局側の「40代、50代の男性の自営業の人を意識」という言葉は、あまり気持ちのいい言葉ではないけれど、そんなに突飛な発言ではないですよね。これを突飛と言い出したらマーケティングなんて成り立たないです。また、この話がラジオパーソナリティの話ではなく奇跡のプレゼン術だったりしたら肯定的に受け止められる話かもしれません。

 でも、ラジオパーソナリティは局のマーケティング戦略のパーツではなく生身の人間ですので、それはできないという小島さんの気持ちは痛いほどわかります。先のポッドキャストでも、たぶん、ピエール瀧さんはその小島さんの気持ちは全面的に肯定していて、その上で、そんな内輪の話は今聴いてくれているリスナーさんにまったく関係がない話なんだから、大人として、プロとして受け流して、聴いてくれるリスナーさんのために全力を尽くせばいいじゃないか、ということなんでしょう。

 また、ピエール瀧さんはそこまで言っていませんが、たぶん、聴いてくれるリスナーさんに一生懸命に語ることで、まだ聴いていない人にも届くかもしれないし、まだ聴いていない人に届けるのはそれしかない、ということも思っている感じがしました。それは、ピエール瀧さんがミュージシャンでありアーチストだからだろうと思います。

 じつは、この話が象徴していることは、マーケティングにとってターゲティングがいかに繊細で難しいか、ということだと思います。このケースのように、番組がはじまって人気が出てしまったら、ターゲティングの変更はほぼ不可能。小島ちゃん、そこをなんとかよろしく、ではたぶん無理だと思います。番組を変えることしかやりようがありません。

 マーケティング、とりわけターゲティングは、広告の文脈で言えば、フレームワークのフェイズで考えるべきことで、あと出しジャンケン的に立ち上がってから変更するのは不可能だと考えたほうがよさそうです。それでもターゲティングは難しいのだから。

 ターゲティングは難しいという例をひとつ。

 白鶴に「鶴姫」という低アルコール・低カロリー吟醸酒があるんですね。少し少なめの300mlビンで、軽い味わいでなかなかおいしいです。この「鶴姫」、もう20年以上前になりますが、デビューの時は若者をターゲットにしていました。当時、缶入りでイルカのイラストがおしゃれな「飛沫(しぶき)」という発泡日本酒が若者を中心に受けていて、その流れで、ターゲットを若者に、ということだったと思います。

 で、テレビCMのキャンペーンを大々的に打って、「鶴姫」は売れたんですね。でも、若者に、ではありませんでした。この「鶴姫」を買ったのは主にお年寄りだったのですね。お年寄りはあまりお酒をたくさん飲めませんよね。また、アルコールも低いほうがからだにやさしいし、晩酌に少しだけというのも、お年寄りのニーズに合っていました。

 ターゲティング的には見当違いということですが、この「鶴姫」はお年寄りに今も愛されて、20年以上経った今も愛されるブランドになったんですね。皮肉なようですが、これもターゲティングの一面ではあるんです。でも、もちろん、ターゲティングは意味がないということではなく、むしろ、マーケティングとはターゲティングと定義してもいいくらい重要で、ターゲティングひとつで商品やブランドの運命が決まってしまうほどなんですけどね。この「鶴姫」だって、若者にこだわっていたら、たぶんもう存在していないと思います。つまり、今も「鶴姫」があるのは、事後的ですが、お年寄りにターゲティングしたからとも言えるんです。

 なんか、そう考えると、小島慶子さんが降板するのは惜しいなあと思います。なんか、双方にしあわせな話ではなさそうで、しかも、ボタンの掛け違いっぽいんですよね。感情のこじれというか。局側に「まだラジオを聴いていない、40代、50代の男性の自営業の人」を本気で取りにいくつもりだったら、番組ごと変えるのもありだと思いますが、どうも話を総合するとそんな感じでもなさそうだし。真相は知りませんので、もっと何か別のことがあるのかもしれませんが、とりあえずは神足さんが戻ってくるまでは続けてほしかったなあ。

 今からでも遅くはないと思いますし、なんとかならんもんなんですかねえ。

 ■関連エントリ:「広告表現とターゲティング感覚

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2012年1月26日 (木)

東京糸井重里事務所を退職しました

 思い起こせば、このブログを書き始めてから4年と3ヶ月になるんですね。その半分以上の時を、東京糸井重里事務所で働きながら過ごしたことになります。

 このブログには書きませんでしたが、2年と少し前のある日、このブログを読んでいただいていたという糸井さんからメールをいただきました。それが入社のきっかけです。私にとって糸井重里さんという広告人は、お手本でもあり目標でもありました。つまり、特別な存在なのです。これは、決してお世辞でもなんでもなく、正直な気持ちとしてどうしようもなくあるのです。

 もしかすると、リアルタイムで広告クリエイターとしての糸井重里さんがつくる広告を追って来た世代は、私の世代で最後かもしれません。それ以降の世代では、文化人としての糸井さん、ほぼ日の糸井さんという感じだろうと思います。このブログでも、糸井さんのことはたくさん書いてきました。代表的なエントリは、きっと「糸井重里さんの重さ」だろうと思いますが、そのエントリを今読み返してみて、あれから3年以上経った今でも、やはり重いです。

 東京糸井重里事務所、つまり「ほぼ日刊イトイ新聞」では、主にほぼ日手帳を担当してきました。自社メディアが中心で、かつ、ほぼすべてのコミュニケーションがネットを起点とし、逆のベクトルでマスメディアやリアルに広がっていくという、これまでに経験したことのない仕事に関われたことは、私にとって大きな財産であり誇りです。そこには、コミュニケーションデザインのすべてがありました。また、これからの新しい広告コミュニケーションの大半は、こうした自社メディアを起点とし逆ベクトルで広がるコミュニケーションになっていくはずです。

 また、東京糸井重里事務所では、糸井さんという私にとって、とてつもなく大きく「重い」人に誘っていただかなければ、たぶん私の人生では味わうことの出来ない楽しい経験をさせていただきました。普段は、あまりこういう姿をブログでさらしたりはしないのですが、今回は特別です。こんなこととか、あんなこととか。そうそう、期間限定ですが、横風太郎の壁紙もゲットできるんですよ。ワニが泳いできますので、そのワニをクリックです。

 自分のこれからの人生を考えたとき、やはり、広告人として、様々な会社が持つコミュニケーションの課題に対してソリューションを提供していく仕事をしていきたい。自分ができることは、やはりこれしかないと思う。

 そんな私のわがままを、社長の糸井さんやほぼ日の乗組員のみなさんは、大きな心で受け入れてくれました。また、最終出社日には、糸井さんからは「応援してる」との言葉をいただきました。泣きそうになるくらいうれしかったです。

 また、いろいろと思い悩むことろがあって前職の退職時にブログでのご挨拶が果たせませんでしたが、応援の言葉とともに東京糸井重里事務所へと送り出していただいた、姉帯社長、元クリエイティブ局長の鎮目さんをはじめとする電通ヤング・アンド・ルビカムのみなさん、送別会まで開いていただいた田中貴金属のみなさん、仕事でご一緒したみなさんにも、あらためて御礼を申し上げます。糸井重里事務所でこんなに楽しく有意義な日々を過ごすことができたのも、みなさんのおかげです。

 じつは、退社日は1月31日なので、まだ東京糸井重里事務所の社員なのですが、もう、たぶん最終日まで犯罪などを起こすことなくなんとか過ごせそうですので、正式な退職前ではありますがご報告をさせていただきました。しばらく充電して、また新たに頑張っていこうと思っています。せっかくのフリーエージェントでノマドな身分(これ、一度使ってみたかったんですよね)、これまでお話を聞きたいと思っていた方ともお会いしたいなあと思っています。突然お声がけするかもしれませんので、その折は、どうぞよろしくお願いします。また、お気軽にお声がけください。

 少し書けなくなった時期もありましたが、こうしてまた書き始めてみて、私にとってこのブログはかけがえのないものだとあらためて気付きました。お読みいただいているみなさんにも、あらためて御礼申し上げます。ありがとうございます。

 今後ともどうぞよろしくお願いします。

 twitter:http://twitter.com/mb101bold
 facebook:http://facebook.com/kouji.ikemoto

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2012年1月24日 (火)

システムを変えるということ

 私は大阪市民ではありませんが、生まれも育ちも大阪市ですし、大阪市がこれからどうなるのかは気になります。昨年の大阪府知事・大阪市長同時選挙は東京にいながら私なりに注視してきました。とはいってももっぱら、テレビや新聞、ネットでのニュースが情報源でした。

 このブログを読んでいただいている方はおわかりのことでしょうが、私は政治についてはあまり造詣が深くありません。ということもあり、メディアでの報道を追っても、橋下市長が主張していた「大阪都構想」は私にはよくわかりませんでした。というか、東京に住む私にとってはピンと来ないというのが正直なところでした。

 たぶん「都」にバイアスがかかっていたんですね。今はそれほどではないかもしれませんが、大阪人は東京への対抗意識があります。「都」という言葉が大阪人の誇りを刺激する部分があるのかな。そんなふうに考えていました。でも、なぜ大阪市を大阪府と統合させて、つまりは、大阪市を解消して大阪府を大阪都に変える必要があるのかはいまいちわからなかったのです。まず思ったことは、大阪市立大学はどうなるの?大阪市立総合医療センターってなくなのる?みたいなことで、政治に詳しい人からはレベルの低い話をしているなと思われるかもしれませんが、実際はそういう感じだったのですね。

 そんな私にとっては、橋下徹さんと堺屋太一さんの共著である『体制維新ー大阪都』(文春新書)はとてもわかりやすかったです。大雑把に言えば、大阪市は市としては大きすぎるということ。大きすぎるがゆえに、大阪府と似たような機能にならざるを得ない。また、大阪市は大阪府の経済の中心地であり、事実上、大阪府よりも大阪市の権限が強くなるということが起きてしまっている。逆に、大阪市内の区は東京都の特別区のような選挙で選ばれる区長がいるわけでもなく、区の人口が多い割には、区民のニーズにあわせたたきめ細かい行政がやりにくい。だから、大阪市を解体し、大阪市の区を特別区にして、きちんと「基礎自治体」として機能させなければならない。そういう趣旨がわかりやすく書かれていました。

 府庁と市役所を一つにする、と言うと、反対派の議員や学者が一斉に、「知事の独裁になるので危険だ」と批判しました。大阪府と大阪市を一つにして一人の指揮官にすればいい、と僕が言ったことが、市町村長などを全部なくすかのようにとられたようです。しかし、それは誤解です。
 大阪のすべての権限と財源を大阪都知事が把握するのではありません。そんなことは不可能です。住民とのフェイス・トゥ・フェイスの仕事は、市町村長や新設する特別自治区の区長に委ねられる。これが「やさしい基礎自治体」の役割。経済の成長戦略や雇用対策など大阪全体に関わる課題については、「強い広域自治体」の長として都知事が指揮する。効率的な役割分担をしようという話です。(P166)

 このところ話題になっている学者さんや評論家さんたちとの論戦ですが、正直に言えば、橋下市長を批判する側が的を外しているような気がしています。橋下さんがディベートが強いとか、そういう問題ではない気がするんですね。橋下さんがやろうとしていることは、「強い広域自治体」という意味では独裁という批判はかろうじて当たっている気はするけれど、むしろ、「やさしい基礎自治体」を増やすということなので、現在の行政システムは変える必要があるという立場に自らを置くならば、市町村が合併し一つになる時代に自治体を増やす方向性での改革には問題があるのではないか、という批判が本来はまっとうなのではないかと思います。

 もちろん、今の行政システムは変える必要がないという立場もあります。たぶん、橋下市長を批判するにあたっては、この立場を取るのが一番わかりやすいし説得力もあります。ただ、あまり支持を得られそうもなさそうですし、実際に誰もその立場を表明していないですよね。その立場を表明してくれれば、私にも理解できそうなのですが、そうじゃないですし、なんか、今は学者フルボッコと言われてますが、単純にかみ合っていないなあと思うんです。で、かみ合ってない中で、こういうわかりやすい本をきちんと出している時点で、橋下市長の言っていることの方が筋が通っていると思います。

 僕は、社会のシステムが根幹にあり、文明はそのシステムがアウトプットするものだと考えています。先ほどのパソコンの例で言えば、OSはシステムでソフトは文明です。
 使えるソフトはOSによって規定されてくるわけですよね。ですからソフトが大きく変わるためにはOSが変わらないといけないのですが、今の日本においてOSの変化は単なるバージョンアップでは駄目。DOSからウィンドウズになったような大転換が必要だと思うんです。
 DOSからウィンドウズに転換した途端に、素人でも扱えるようなソフトがどんどん出てきました。そしてコンピュータ社会、ネット社会といわれるようになりました。アウトプットされるものは常にシステムによって規定を受けます。だからアウトプットをいまの時代、いまの状況に合わせるためには、根幹のシステムを変えなければならないと思っているのです。(P40)

 このくだりは、私にはたいへん理解しやすかったです。OSのバージョンアップではなく、根本的に作り直そうとするわけですから、橋下市長がよく言う「権力闘争」もわからなくもないし、比較的マルクスに親しみのありそうな反橋下市長派の方々も、つまりは「上部構造は下部構造が規定する」ということなので、理解しやすいと思うんですけどね。でも、橋下市長(この本の時点では橋下知事でしたが)は、こうも言っています。

 僕はよくゲームにたとえるんです。子どもたちは、ゲームのいろんなソフトについて友達同士でしゃべります。 おもしろい隠れキャラクターがあるとか、攻略法などを朝から晩まで喋っている。
 だけど、そのゲームを動かすニンテンドーDSや、PSPなどのハードの仕組みについて、じつはこれがアメリカ軍の機密にもなるようなチップが入っているとか、集積回路はどういう配置になっているとか、日本のこんな最先端技術が使われているとかという話はしませんよね。おもしろくもなんともないですから。(P36)

 なので、専門家を除いては一般ユーザーには伝わりにくい、と。確かに、この話はあまりニュースではでてきません。だらかなのかどうかは知りませんが、あまりこのシステムの変え方についての批判や反論がでてきません。でも、私がいちばん聞きたいのは、そこなんですが。

 私は、仕事柄、Mac OSを使ってきたからMacの話をします。2001年に、OS 9からOS Xに変わりました。BSD UNIXをベースにまったく新しく作り直されています。互換性はありません。OS 9はそれなりに高性能なOSでしたので、かなり大胆な試みだったと思います。OS 9で動いていたイラストレーターやフォトショップ、MS Officeなんかもまったく動きません。これは、ユーザーにかなりの負担を強いることだったのだと思います。これによってMacユーザーを辞めた人もいるかもしれません。

 けれども、今考えると、OS Xがなければ、きっとiPhoneもiPadもなかったんだろうと思います。今の状況を考えれば、それはやらなければならないイノベーションだったのだろうと思うんですね。しかも、方向性も間違っていなかった。

 もうひとつ、思い出すことがあります。私は広告制作を生業としていますが、OS Xができても、デザイナーはもとより業界全体がOS 9を数年にわたって使い続けました。クオークエクスプレスをはじめとするソフトが対応していない、もしくは高価で変える余裕がない。現状でもクオリティはそれほど変わらない。印刷が対応していない。OS Xではソフトが不安定。そんな理由だったと思います。一頃、OS 9が入っている中古Macの需要がかなりあったと聞きます。

 システムを変えること。それは、かなりのリスクを伴うことです。方向性を間違えれば取り返しがつきません。Mac OSであれば、市場から淘汰されるだけですが、行政の場合はとんでもないことになります。慎重になりすぎても悪いことはひとつもないと思います。また、行政の場合、一度変わったら、かつての広告制作界隈のように、それでもOS 9を使い続けるという選択はもはやできないわけですし。

 今月の27日、テレビ朝日の朝まで生テレビは「激論!“独裁者”橋下市長が日本を救う?!(仮)」というテーマだそうです。大阪市民、大阪府民は、選挙で変える方を選んだわけだから、どうシステムを変えるべきなのか、その具体的な方法と是非についてきちんと話してもらえないかなと思います。私は、そのことが聞きたいです。学者さんの批判も代案も聞きたいし、おもしろくともなんともないにしても、システムが変わればどうなるのかを、メリットやリスクも含めて橋下市長もきちんと語ってほしいです。できれば、考えられるリスクを最小化する方策も。もちろん、システムを変えるべきではない、という意見も聞きたいです。あまり一般受けはしなさそうですが、そういう考え方もありだと思っています。

 こういうテーマなら、言葉の正しい意味で、ちゃんとしたディベートになると思うんですけどねえ。

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2012年1月20日 (金)

Wikipedia英語版ブラックアウト終了後のメッセージ・日本語訳

Thankyou

http://wikimediafoundation.org/wiki/SOPA/Blackoutpage

 

Thank you.

The Wikipedia blackout is over — and you have spoken.

More than 162 million people saw our message asking if you could imagine a world without free knowledge. You said no. You shut down Congress’s switchboards. You melted their servers. From all around the world your messages dominated social media and the news. Millions of people have spoken in defense of a free and open Internet.

For us, this is not about money. It’s about knowledge. As a community of authors, editors, photographers, and programmers, we invite everyone to share and build upon our work.

Our mission is to empower and engage people to document the sum of all human knowledge, and to make it available to all humanity, in perpetuity. We care passionately about the rights of authors, because we are authors.

SOPA and PIPA are not dead: they are waiting in the shadows. What’s happened in the last 24 hours, though, is extraordinary. The internet has enabled creativity, knowledge, and innovation to shine, and as Wikipedia went dark, you've directed your energy to protecting it.

We’re turning the lights back on. Help us keep them shining brightly.

 

意訳:

ありがとう。

ウィキペディアのブラックアウトはこれにて終了です。

あの日、私たちは、自由な知のない世界を想像してみてください、と問いかけました。そして、あなたは語ってくれました。自由な知のない世界にNOを示してくれました。私たちのメッセージは1億6200万以上もの人々に届き、そのNOを示す意思は掲示板に届けられサーバがダウンしたほどでした。ソーシャルメディアやニュースサイトには、世界中の人々の声で埋め尽くされました。そう。あの日、信じられないくらい多くの人が、自由でオープンなインターネットについて語り合ったのです。

私たちにとっては、お金についての問題ではないのです。知についての問題なのです。作家、編集者、写真家、プログラマのコミュニティーとして、私たちは、私たちの著作物が、すべての人に共有され、すべての人のさらなる創造のために使われることを望んできました。

私たちの使命は、人類のすべての知を文書化し、すべての人が永遠に使えるようにすること。そして、その文書化にかかわる人々をはげまし、元気づけ、つないでいくことです。私たちが誰よりも作者の権利について留意していることは言うまでもありません。なぜなら、私たちそれぞれがまさに作者だからです。

SOPAとPIPAは、まだなくなってはいません。いまだ陰のように私たちを待ち構えています。あの24時間に起きた出来事は素晴らしいことだったと思います。インターネットは、その創造性、知、そしてイノベーションによって、これからも輝き続けるでしょう。そして、ウィキペディアがブラックアウトしたように、あなたもまた、その輝きを守るこために力を注いでくれることでしょう。

私たちは、ふたたび光を取り戻しました。これからもインターネットが輝き続けるために、あなたの力を貸してください。

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 このSOPAとPIPAについて、ちょっと補足を。

 アメリカの国内問題だから、日本に住む私たちにはちょっとわかりにくいですが、SOPAは「Stop Online Piracy Act(オンライン海賊行為防止法)」の略で、下院で提出されています。PIPAは、Pro-IP Actの略で2008年に上院で起草された法案で、SOPAと同様の趣旨のものです。

 この法案は、簡単に言えば、米国国外でネットを通じて著作権の侵害があった場合、アメリカの法律を適用して違反者を取り締まることができるというもの。背景には、中国なんかで流通している映画コンテンツの海賊版だったり、あと、大きな問題になっているものでは医薬品があります。だから、この法案では知的所有権の侵害も対象にしています。

 実際、Googleは、検索上位のリンクが違法医薬品を扱うサイトになっているということで、医薬品メーカーから巨額の訴訟を抱えたりしているそうです。この法案では、海外の違反者を取り締まることができると同時に、国内で違法サイトのリンクを表示しているだけでも問題になります。

 ただ、これだけなら、まあいいじゃないか、という感じでもあるのですが、違法サイトのリンクかどうかを判断するためにDPIという検閲を行わないといけないらしく、そのことがネット上の言論の自由を脅かしたり、プライバシーを侵害したりする懸念がある、ということだそうです。

 それと、この法案が拡大解釈されると、いわゆるソーシャルメディアの運営がコスト的にかなり難しくなるとのこと。つまり、インターネットの自由そのものが失われる、と。だから、今回のブラックアウト行動は、GoogleやFacebook、Twitterなんかも同調しているんですね。私が、ちょっと興味を持ったUncyclopediaも、いつもは反Wikipediaなのに同調したんですね。とはいえ、やはり、そこは彼らなりの皮肉や嫌みを忘れずに、といういかにもUncyclopediaらしいやり方でしたけどね。

 この法案の背景にはロビー活動があるらしく、お金をバックボーンにした政治活動は意義はどうであれ、政治家はかなりがんばってしまうので、かなり根の深い問題らしいです。これは、TBSラジオのDigで知りました。

 Wikipediaのブラックアウトは、メッセージの出し方とかうまかったですよね。なので、そのメッセージングの興味もあって翻訳してみました。上の日本語訳は、直訳ではなく意訳です。ただし、英語のオリジナルの意味からは逸脱はしていないと思います。日本語にしたときに、英語の意味がいちばんわかるように、いろいろ足したり引いたりアレンジしています。この訳間違ってるよ、というときは、お気軽にご連絡ください。

 ブラックアウト当日のWikipedia、Uncyclopediaはこちらをどうぞ。Imagine a World、なかなかうまいですよね。

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2012年1月19日 (木)

Imagine a World

Wikipedia
http://en.wikipedia.org/wiki/Main_Page

Uncyclipedia
http://uncyclopedia.wikia.com/wiki/Main_Page

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2012年1月17日 (火)

思い出せるように

 けっして忘れない。あの時、あれだけ心に誓ったのに、いつのまにか忘れてしまう。悲しいけれど、それが人間だと思うんですね。オフコースに「いつも いつも」という歌があります。もう30年以上前の歌になります。アルバム「FAIRWAY」のいちばん最後に入っています。アルバムには曲名さえ書いていない短い歌です。

あなたのことは 忘れないよ
ふるさとの 山や海のように
ふるさとの 友たちのように
また会う日まで
いつも いつも いつも

 この歌が美しいのは、人は忘れるものだからなのだと思うのですね。だからこそ、美しいメロディにのせて歌われる「忘れないよ」という言葉がとてもいとおしく響くのでしょうね。

 忘れたくても忘れられないことで人は苦しんだりもします。そう考えると、忘れるということは、人間が生きていくために必要な能力なのかもしれません。

 忘れたいという思いがあっても忘れられない。

 忘れないという思いも、きっと同じです。心は確かに自分のものではあるけれど、自分の思い通りにならないのもまた心というものなのでしょう。

 神戸で、阪神大震災17年のつどいが行われるというニュースがありました。東日本大震災の被災者の方々も参加されるそうです。ある方は、街が復旧していった神戸の体験を聞いてみたい、とおっしゃっていました。

 私は1年ぶりに、17年前の震災の記録を読みました。何度も読んだはずなのに、はじめて読んだような気持ちになりました。やっぱり、人は、忘れてしまうものだのな、とそのとき思いました。だからこそ、人は記録し、つどい、語り、伝えるのでしょう。

 少しでも思い出せるように。

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2012年1月16日 (月)

ドラえもん、なんとかしてやってくれ。

 前回の書評エントリーでご紹介した『さいごの色街 飛田』の中で、著者であるフリーライターの井上理津子さんが飛田の菩提寺に取材をしたときのエピソードがありました。そのエピソード自体にそれほど重い意味もないし、本の主題とはまったく違うけれど、そのエピソードを新幹線の中で読んだときに、なぜか親鸞のことが前より少しだけわかった気になったんですね。自分としては、あっ、そうか、という感じ。新鮮でした。今回はそのことについて書きます。

 とは言っても、この本と親鸞はまったく関係ありませんし、このことを書こうと思ったのは、たまたま、twitterのタイムラインで親鸞関連のことが多かったというこだけなんですけどね。私は親鸞にも仏教にも詳しくはないので、間違っているところもあるかもしれませんが、そのあたりは、日々の考えることを書き記す、ライフログとしてのブログの気軽さで、ということでお読みいただければと思います。それと、タイトルは釣りじゃないけど本文にはあまり関係がありませんのであしからず。最後にわかるようになってます。お時間のある方は、最後までおつきあいくださいませ。

 エピソードはこんな感じです。

 飛田は江戸時代からある遊郭ではなく、大正時代に難波新地の焼失の代替地として誕生した、当時としては新興の遊郭で、そのためかどうかは書籍では触れられていませんでしたが、なぜか付近に飛田の人たちのための寺院や神社がありません。普通、遊郭にはあるんです。

 関心を持った井上さんは、飛田の料理組合の方々に取材をします。そこで、大阪から離れた場所に飛田で暮らす人たちの菩提寺があるという話を聞き、組合員がバスでお参りに出かけてお布施をしたという資料を見せてもらいます。そこで、そのお寺さんに取材すると、私たちは飛田とは何ら関係ありませんと答えるばかりだったそうです。

 私は、言おう言わまいか迷っていた、お坊さんの冷たい対応について話し、「お寺というのは本来オープンなところのはずなのに、招かれざる客だったとしても、あの対応はないと思う」とも言った。一緒に憤慨してくれるだろうと思っていたのだが、少し間をおいてから、
「気持ちは分かるけど、まあ、そういうこともあるやろ」
 と言った。表情をぴくりとも動かさず、淡々とした口調だった。最初、私は少し拍子抜けしたのだがやや切なくなってきた。

 たぶん、仏教というかお寺さんが必要とされるのは、それほど信仰の厚くない多くの人にとっては人が死んだときなのだと思います。もちろん、生きていくなかでの支えとして信仰するという役割もあるでしょうけれど、多くの人にとって生活でお寺さんが強く意識されてくるのは、死者をどう弔うか、生きていく人たちが死者とどう向き合うか、という中でのことだでしょう。

 親鸞が生きた鎌倉時代は、武家の世の中になったばかりの乱世でした。その中で、人を救済するためにある仏教が、人を選んでしまうことも多かったでしょう。今でさえこうなのですから。あいつの葬式はできない、お墓はつくれないなんてこともたくさんあったのだと思います。それに、今よりも、もっともっと生と死はひと続きだったとも思いますし、庶民としての「まあ、そういうこともあるだろう」という諦観もあるだろうけど、終末思想に染まる世の中、不安だったのだろうと思います。

 仏教は、その体系にどこかエリート主義的なものがあります。ブッダも出自は貴族でしたし。もともとは、いかに自分が悟りを開くか、つまり、自分の魂を救済するかのための体系で、だからこそ高度な教典と修行が仏教にはあるんですよね。仏教の場合、まずは自分を救済して、悟りを開き、そして、民衆を救済するという順序です。親鸞も、知の最高峰である比叡山で修行した仏教エリートのひとりです。

 そんなエリートの親鸞は、こう思ったのではないかなあ、と思ったんですんね。なんか、あっ、そうか、と思った時、頭の中で親鸞が現代語で話していたので、ちょっと失礼かなと思いつつそのまま書きますね。

 *    *

 多くのお寺さんから見放されてしまった人は、日々の信仰もそんなに厚くない。仮に、見放されなかったとしても、そんなに信仰の厚くない人には、多くのお寺さんは冷たかったりする。でも、それっておかしいことなんじゃないか。阿弥陀は救いたい人は、むしろそういう人だったりもすると思うし、日々信仰が厚く善行を積んでいる人は、むしろ阿弥陀の救いをあまり必要としないはずではないか。

 でも、いつのまにか、念仏の唱え方、修行の仕方、善行の積み方、お布施の多い少ないによって、阿弥陀救われ度ランキングみたいなものができてしまっている。それって、すごくおかしいことだよね。そんなのじゃ、救いの意味がないし、仏教の意味がないよね。阿弥陀って、そんなことを思っているわけないと思う。

 *    *

 現世、そして来世における自己の救済という仏教のメインストリームから親鸞の考え方を見た時、その論理はかなりアクロバティックな飛躍を含んだものになるし、今伝わる親鸞の考え方は、かなりの部分が弟子が体系化したもなので、なおさら難解です。しかし、身も蓋もないけれど、自分が死んだらどうなるんだろ、地獄に堕ちるのかな、ちゃんとお葬式があって、お墓が建つのかな、という生活の機能としての仏教の目線で考えると、親鸞がわかりやすくなるように思いました。

善人なおもて往生す、いわんや悪人をや

 つまり、「大丈夫ですよ。阿弥陀様は私もあなたも、そこのあなたも、みんな含めて救済してくださいます。安心してください。阿弥陀様にとっては、自力でも極楽に行ける善人なんかより、阿弥陀様の助けがなくては極楽に行けない悪人のほうが大仕事の救いなのだから、仮にあなたが悪人だとしても、阿弥陀様はなおさらすすんで救済してくださるはずです。念仏だって、お布施だって、大きな声では言えないけれど、本当は関係ないんです。阿弥陀様はそんなに小さい方じゃありません。当たり前じゃないですか。」ということなのでしょう。

 これもひとつの物語にすぎませんし、その親鸞理解はもしかすると浅い、間違っている、ということなのかもしれませんが、これまでの生活の機能としての仏教を根本的に否定し、かつ、その否定によって仏教の本質に迫ろうとした親鸞の考え方のベースには、こういうことがあったように思えたのです。そして、こういう流れであれば、私にもわかる気がします。親鸞がこう言ってくれるのは、きっと当時の民衆にとってはうれしかったことでしょう。

 ただ、この時代が要請した考え方は、当然、現世での善悪を他力によって否定することにもなります。その考え方は、単に救済における善悪の否定ではありますが、結果として、悪のほうが救われる契機は高いという結論を導き出せるし、また、他力を突き詰めると、論理的な帰結として絶対他力による悪を肯定することにもなり得ます。つまり、仏教の原初とは別のかたちで、危険な部分も含めた仏教という思想の本質的な部分に触れることにもなるんですね。そこに、親鸞の怖さというものがあるのだろうなあ、と思います。弟子たちが親鸞の思想を書き記した『歎異抄』が江戸中期まで秘密にされてきたのもなんとなくわかる気がします。

 でも、もともとの考え方のベースはこんな感じに日常に根ざしていたのではないかなあ、とも思ったりしています。考えてみると、この私の気づきは浄土真宗の信者の方の理解に近いのかもなあ。私の場合、信仰ではなく、書物から入っているから、こういうことになってしまうんでしょうねえ。どちらかというと、私にとって親鸞は思想家のイメージなんです。

 そういえば、昨日、宗教学者の島田裕巳さんのツイートにこんなのがありました。

親鸞に会いたい。ドラえもん、なんとかしてくれ。

 ああ、なんとなくわかります。弟子から見た親鸞だけではなく、あの時代、親鸞はどんな人だったのか、当時の人々からどんなふうに思われていたのか、私もすごく知りたいです。私は親鸞に会っても何も話せそうになさそうなので、このツイートでの願い通り島田さんに会ってもらって、島田さんから、親鸞はこんなこと言ってたよとか、こんなふうに思われていたよとかたっぷり聞いてみたいです。

 ドラえもん、なんとかしてやってくれ。

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2012年1月14日 (土)

[書評] 『さいごの色街 飛田』 井上理津子(筑摩書房)

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 昨年の11月頃、新大阪駅の書店でこの本を見つけて、その時は購入しませんでした。いくつかの書評で大変な力作だということも知っていましたし、ネットにさえ詳しい情報は出ていない飛田という街のことを知りたい気持ちもありました。でも、購入しなかった。それは、たぶん私が男性だからだろうと思います。複雑な思いがあるのです。

 井上理津子さんは、近年は東京に拠点を移されたそうですが、これまで大阪を拠点に活動をしてきたフリーライター。『大阪下町酒場列伝』という名著でご存知の方も多いのではないでしょうか。井上さんは、この本の冒頭で、取材をした数多くの一般男性たちについてこう書かれています。

 ちなみに、「僕は」の話は決まって、「飛田はすごいところ。最初に界隈を通った時、昔にタイムスリップしたような雰囲気にびっくり仰天した」という意味のことを言った上で、
 「風俗は嫌いだ。恋愛のプロセスなしにイタしたいとは思わない」
 「飛田は不潔そうな感じがして嫌だ。病気も怖そうだし……」
 のいずれかだった。そう、みな、自分は風俗は苦手だ、飛田には行かないと親告するのである。特段「あなた」の意見を訊いていないのに。制度そのものを問う、「女性差別そのものじゃないですか」という発言は、二十代後半から三十代前半の三人から聞いた。

 ああ、そうですよね。私も聞かれれば言いそうです。

 飛田は大阪にある地名で、大正時代に難波新地の大火事による焼失後、代替地として生まれました。「飛田新地」もしくは、「飛田遊郭」と言われることもあります。厳密には、飛田は公許の「遊郭」として存在したことはありませんが、今だに「飛田遊郭」と積極的に呼ばれるかというと、売春禁止法施行以来、多くの“赤線”がソープランド、つまり、特殊浴場に業態を変えて行く中(ちなみに、大阪府の条例ではソープランド不許可です)、飛田は昔ながらの遊郭に近い営業を今も続けているからです。

 なぜ、それが可能になったのか。自ら解釈を変えたから。つまり、売春禁止法をかいくぐる解釈を自ら編み出したんですね。

 まず、自らの業態を料亭と位置づけます。お客さんは客間で食事をします。そのお世話を中居さんがします。その客間で、お客さんと中居さんが恋愛をするのです。つまり、自由恋愛だから管理売春ではないということなんですね。監督官庁である警察側も、実際は何度か摘発をしているものの、結果としては、おおよそ見て見ぬふりをしてきたと言えるかもしれません。

 かつて、飛田にある「鯛よし 百番」という、国の登録有形文化財にもなっている、大正時代建築の遊郭をそのまま使った料理屋さんで上司の送別会を自ら幹事として開いたことがありました。その帰り、タクシーで通りを物見で巡りました。ここからタクシーを利用するとき、観光的に通りを巡ってから通りに出ることが慣例になっているのですね。

 新大阪の書店で感じたあの複雑な気分のひとつには、きっと、そのときに感じた気分もあったのだろうと思います。

 大正時代そのままの街並。長屋の料亭の玄関を照らす赤や黄色の妖しい照明。その光に照らされる女の子。美しいと思いました。けれども、その美しさは、現実感のない美しさでした。それは、タクシーのガラス窓をスクリーンにした映画のようで、あの風景は、この目で見たものではあったけれど、単なる映像でしかなかったのかもしれません。そのバーチャルな感覚が、妙な罪悪感として心に残り続けました。

 年が開けて、帰省から戻る人で賑わう新大阪の書店ではこの本は平棚に山積みされていました。さらに、そこには新聞の書評を切り抜いたPOPも飾られ、かなり売れている様子でした。そのことが背中を押してくれたのかもしれません。こういうとき、売れているという事実は、百の言葉よりも説得力がありますね。よし、せっかく、一度は読んでみたいと思ったわけだし、新幹線で東京まで2時間半もあるし、この機会に読んでみよう、とようやく購入したのでした。

 この本の帯には、こう書かれています。

遊郭の名残をとどめる、大阪・飛田。
社会のあらゆる矛盾をのみ込む多面的なこの街に、
人はなぜ引き寄せられるのか!

取材拒否の街に挑んだ12年
衝撃のノンフィクション!

 飛田は、料亭の経営者、呼び込みのおばちゃん(曳き子)、女の子の三者で成り立っています。その料亭の、それぞれの人たち。飛田の街で生きる、居酒屋さんや喫茶店のマスターやママさん。街の人々。組長。警察。そんな、飛田で生きる様々な人たちの、まさしく“生の声”が、丹念に調べられた飛田の歴史や成り立ちを交えながら、次々と描かれていきます。

 ノンフィクションではあるけれど、その読後感は小説のようでした。それは、インタビューをまとめた本にはめずらしく、インタビュアーである井上さんの共感、疑問、葛藤といった心の揺れが丹念に描かれているからかもしれません。自らは決して語らない飛田の人たちが、よくここまで語ってくれたなあ、と素直に感心しました。井上さんは、飛田の存在について肯定はしていないのだと思います。しかし、否定もしていない。寛容とも容認とも違うのでしょう。

 飛田という街があり、そこで暮らす人がいる。そのことに、寛容も容認もない。井上さんを含めた私たち第三者が愛情と呼ぶには、あまりにも身勝手すぎる。ただ、知りたい。分かりたい。きっと、そういうことなんでしょうね。

 複雑な気持ちだ。二人の言に、共感できかねる部分はたくさんあるが、私は二人を嫌いではない。タエコさんが「二階からお客さんと女の子がげらげら笑っているのが聞こえてきたらうれしい」と言った、それに近い感覚なのかもしれない。

 28歳の若さで曵き子をするタエコさんは、井上さんから「現状満足度は?」と聞かれ、「ゼロ%やな」と答えていました。そんなタエコさんは、「飛田から出るの、なんや怖いですから」とも語っていました。飛田は、ここにいなければ絶望しかない人にとって、安心して暮らしていくことができる唯一の街という一面もあるのです。

 社会のあらゆる矛盾を飲み込む多面的なこの街、と帯では語っています。私たちは、この本のタイトル「さいごの色街」という言葉が示すような、日本から失われてしまった情緒が今なお残る街というイメージだけで語りがちです。あるいは、その逆に、このような街はあってはならないと断罪することもあると思います。しかし、この本を読むと、この街は単純なのもではないことがわかります。いや、飛田だけでなく、社会のあらゆることが、本当は、賛成反対で割り切れるほど単純にはできていないのでしょう。

 この本の最後で、そんな、閉じられた、正しく言えば、この社会によって閉じざるを得なかった共同体が持つ負の部分を物語るエピソードが出てきます。飛田特有の料亭形式の風俗営業にまつわるものではありません。どのようなエピソードなのは、ぜひこの本を読んで確かめてほしいと思います。せつないです。それは、飛田だけの特殊な問題ではなく、私たちの社会そのものが持つ問題なのだろう、と私には思えました。

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2012年1月12日 (木)

ステマ

 ちょっと前にステマという言葉がネットの人気ワードになっていて、最初、何のことかいまいちわからなかった。で、ちょっとリンクを見てみると、ああ、なるほどね、ステルスマーケティングのことか。知らないあいだにステマって言うようになったんだ。

 スマートフォンのことをみんながスマホと呼び出したときの気持ちにちょっと似ている。軽い敗北感。ほんの数年前、スマートフォンって単語を使ってるのはウィルコムユーザーくらいしかいなかった。今やスマートフォンを通り越してスマホ。そんなスマホをあきらめたウィルコムは好調。時代は変わる。

 グルメ系の口コミサイトに投稿されていたコメントが業者のものだったというニュース。テレビでも報道されて警察も動いているとのこと。ネット関連株も下がったらしい。愉快な話ではないけれど、ひとつのきっかけとしてはいいのかもしれないとも思う。

 業者のコメントで順位が上がったお店は大人気だったらしい。妙な話だけど、逆にそのグルメ系メディア、つまり、消費者の評価の影響力の大きさを証明とも言えるし、昔、マス広告全盛時代に「広告より口コミを信じましょう。」という広告コピーがあったけど、頭いいでしょ的な広告の自己否定をはるか彼方に置き去りにして、時代はますます口コミへ。反動はない。たぶん。

 少し前に、世界最大手の検索サイトが日本市場限定でユーザーのブログを利用したキャンペーンを実施したことがあった。それを知ったアメリカ本社は、即刻、キャンペーンを中止し相当重い処分を下した。問題になったのは、ブログを使ったということではなく、ユーザーに報酬を払ってユーザーにブログを書いてもらったこと。さらに詳しく言えば、そのブログにnofollowという検索サイトのページランク対象外を示す属性をつけなかったことが問題になった。

 それは、その検索サイトにとって、ページランク、つまり、リンクの順位付けへの信頼がそのままサイトへの信頼につながっていたからだ。サイトへの信頼。それは、すべての収益の基礎。その信頼が壊れれば、やがてすべての収益を失う。実際、黎明期に信頼の喪失により消えた検索サイトもある。世界最大手の検索サイトはその歴史から学んだ。

 口コミサイトにとっての生命線は口コミ。その信頼を失えばすべてを失う。

 これからもステルスマーケティングは行われるだろう。ステルスマーケティングを利用する企業もなくならないだろう。広告やマーケティングの信頼性を阻害してまでも儲けたいやつは、いつの時代もいる。

 けれども、口コミを生命線にするサイトを運営する企業は、そのことに対して毅然とした排除の意思を示す必要があった。どのネット企業よりも厳しく示す必要があった。合法、違法、そんな第三者の基準に関係なく、運営の姿勢として。それが嘘偽りなく感じたことを書いてくれるユーザーを信じるだと思う。守ることだと思う。そのサイトを愛するユーザーの信頼を運営が守らなくて誰が守るというのだろう。

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2012年1月 9日 (月)

おぼっちゃまと横山くん

 昨日の深夜に何気なく見たNHK大阪の「西方笑土 横山たかし・ひろし」が面白かったです。漫才2本を前後にインタビューを挟む形式で、お笑いショーというよりは芸人の魅力を紐解くドキュメンタリーに近い番組でした。

 関西以外の方はあまりご存知ないかもしれませんが、横山たかし・ひろしは大阪松竹芸能所属のベテラン漫才師で、師匠がかの故・横山やすしさん。もともとは吉本興行所属で、横山やすしさんのことでいろいろとあって、松竹に移籍したとのこと。でも、お二人は横山やすしさんのことをとても尊敬されていて、その愛情はこの番組でも「殴られてばっかりで、ほんまつらかったですわ」と話す表情にも愛情が表れていました。横山たかしさんは、やすしさんの出棺のとき「師匠は、漫才の星から地球へ漫才しに来た、漫才星人です」と言って号泣されたそうです。

 横山たかし・ひろしの芸風は、いわゆるホラ吹き漫才。金ラメが敷き詰められたピカピカのスーツを着込んだおぼっちゃまがひたすら金持ち自慢を繰り返し、それを横山くんが激しく突っ込みを入れる。その激しい突っ込みに耐えきれず、おぼっちゃまがついに本当は貧乏であることを白状。赤いハンカチをくわえながら「嗚呼〜!」「辛いのー!」と嘆くのがお決まりのパターン。

 この番組では、前半後半と2つの演目が放送されていて、最初のものは金持ち自慢、後半はおぼっちゃまが総理大臣で、お客さん大臣に任命していくというものでした。特に後半は、横山たかし・ひろし漫才の独壇場でした。「財務大臣任命!あんたにまかせた!」と名指しで言われたお客さんのうれしそうな顔。みんなが求めるお決まりのパターンに落とし込みつつ、ネタそれぞれの展開による笑いの違いも楽しめました。

 横山たかし・ひろしは、若い頃に漫才ブームがあって人気者になるんですね。でも漫才ブームが終わって停滞してしまいます。営業でスナック回りもしていたそうです。おばちゃんだらけの劇場で漫才をしていて、ふと「藤圭子はワシの嫁じゃ〜!」と言ったら、ドッと笑いが起こったんだそうです。横山ひろしさんは、こんなふうに言ってました。

 「そしたらね、お客さんが客席から突っ込んでくれるんですわ。」

 それで、これはいけるとなって、次から次へとホラ話を重ねっていって、それを激しく突っ込む今の芸風ができたとのこと。で、漫才だし「落ち」がいるなあと思って、一転して貧乏になるという展開を思いついたり、服装をわかりやすく燕尾服や金ピカにしたり。

 「もう、昔のままではもうあかんやろと。だから、見せ方を変えたんですわ。やってることは今も昔も同じなんですよ。ただ、見せ方は変えた。」

 あらためて横山たかし・ひろしの漫才を見て発見がありました。ここまで読んで、金ラメスーツのおぼっちゃまがたかしさんかひろしさんかわかる方は関西の方でも案外多くはないのではないでしょうか。私も、じつはあまりよくわかりませんでした。

 というのは、漫才の中では横山たかしさんは「おぼっちゃま」と自ら名乗り、横山ひろしさんは横山たかしさんのことを「おまえ」と呼びます。一方の横山ひろしさんは、横山たかしさんからは、大金持ちのホラ話全開の前半は「横山」、ちょっと嘘がばれかけた中頃は「横山くん」、嘘がばれて貧乏になった最後は「横山さん」と呼ばれるんです。こんな感じです。

「大金持ちのおぼっちゃまじゃ、すまんのー。笑えよー。」
「何言うとるんじゃ、おまえ、それにせもんやないか!」
「それを言うなよ、横山くん!」

 つまり、漫才のコンビ名は横山たかし・ひろしだけど、漫才の中では「おぼっちゃま」と「横山くん」なんですね。たぶん、これは笑いのプロの本能がつくったものなんでしょうけど、漫才だから「落ち」がいると思ったこと、また、ホラ吹きを匿名的な「おぼっちゃま」にして、突っ込みを実名の「横山くん」にしたことは、このホラ吹き芸を10年を超えて今なお面白い生き生きとした芸にするための成立要件のような気がするんですね。

 横山くんは、こんな突っ込みをします。

 「いいかげんなことばかり言いやがって!おまえなあ、よう考えてしゃべれよ!」

 それに対して、おぼっちゃまはこう返します。

 「そないに言うなよ、横山くん。考えてしゃべったらおもろないがな。」

 横山くんは、熱く幸せを語ります。

 「坂を上るんや。坂を上ったら、そこに希望が見えるんや、幸せがあるんや。それが人生やないか。」

 おぼっちゃまは、こう返します。

 「きのうも江坂上ったけど、幸せなんかあれへんかったわ。嗚呼〜、ツライの〜、横山〜!」

 ちなみに、この江坂っていうのは、大阪のだたの地名なんですけど、そこで大爆笑なんですよね。で、お客さんはどちらに共感して笑うのか。たぶん、どちらにも、なんです。よく考えてしゃべらなきゃ、という部分と、よく考えてしゃべったらちっともおもろない、という部分をひとりの人間は持っている。坂を上ったら幸せがあることも、坂を上っても幸せなんかないことも、ひとりの人間はどちらも信じている。血管が浮き上がるくらい真っ赤になって怒る横山くんに、おぼっちゃまは言い、横山くんはこう返します。

 「そんなに気張ってしんどないか。命掛けるな、わずかな金に〜。早死にするぞ。」

 そこで、横山くん。

 「うるさいわっ!」

 なぜ「落ち」がいると思ったのか。なぜ「おぼっちゃま」と「横山くん」という設定にしようと思ったのか。それは、横山たかし・ひろしのご両人に一度じっくり聞いてみたいです。てな「落ち」のないエントリで今回はすみません。この「落ち」がなぜ必要なのかの問題と、この漫才芸に表れている「匿名」と「実名」の問題は、横山たかし・ひろしの芸を超えて、すごく興味深いものだと思うのでいずれあらためて考えてみたいと思っています。では最後に、私が大好きなおぼっちゃまの名台詞を。

 「笑えよ〜!笑うのはただじゃ!」

 ではでは。

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2012年1月 5日 (木)

「ええがな、ええがな、やれ!やれ!」

 NHKの連続テレビ小説『カーネーション』で印象的なシーンがありました。終戦直後の大阪・岸和田。戦争中に禁じられた「だんじり」ですが、戦争が終わってもまだ禁じられたままでした。

 岸和田の人たちは、大げさな話ではなく命の次に「だんじり」が大好き。私は、岸和田市に近い高石市にある高校に通っていたので、よくわかります。私立高校で規則が厳しい学校でしたが、その学校で生徒指導をしていた体育の先生が岸和田市出身でした。普段はどんなことがあっても学校を休まない人でした。けれども、毎年「だんじり祭」が近づくとそわそわしだして時々休みをとるようになります。それは、毎年のことで、その先生が休むようになると、生徒たちは、ああ、そうか、そろそろ「だんじり」の季節かあ、となるんですよね。

 戦争が終わって、警察からは「だんじり」はまだやるなとお達しが出ているものの、岸和田の人たちはいてもたってもいられず、納屋に眠る「だんじり」の前に集まります。その中に、ヒロインである糸子と、その娘の直子。まだ小さな直子は、男たちがひく「だんじり」をひきたくてたまりません。でも、岸和田の「だんじり」に使われているケヤキには女神がやどっているとされ、それまでは女性がひくことはできませんでした。

 「だんじりひきたいねん!」
 「女の子やろ。あかん。」
 「いやや、ひきたい!」
 「あかんて!がまんしなさい!」

 すると、久しぶりに「だんじり」をひくよろこびに満ちた男たちがから、こんな声がかかります。

 「ええがな、ええがな。ひけ!ひけ!」

 大人の男たちにまじって、つなを握る直子。あこがれの「だんじり」をひけて、とてもうれしそうな顔をします。それを見て「えっ、あっ、ほんまにええの?」といった戸惑う表情を見せる糸子。文字に起こしてみると、これだけのシーンですが、戦争が終わって、女性が社会にどんどん出ていく時代がはじまる瞬間を見事にとらえていました。

 このシーンを見て、私が新人の頃を思い出しました。今考えると、大学が出たばかりの駆け出しのプランナーに、よくあんなことをまかせてくれていたなあ、と思うことがあります。ビル開発や日本酒の新商品開発の仕事とか。はじまりは、いつもこんな感じでした。

 「それ、おもしろそうですねえ。」
 「そうか。おもしろそうか。やってみるか。」
 「え、いいんですか。」
 「ええがな、ええがな。やれ!やれ!」

 日本酒の企画では、調子に乗って企画を勝手に考えて企画書にしていました。その企画を当時のチーフデザイナーに見せると、じゃ、持って行こう、とお得意とつないでくれたりもしました。そのお得意の担当の方にプレゼンすると、いつもこてんぱんにやられてしまいしまたが、その方は、帰り際にこう言ってくれました。

 「また考えたら、持ってきて。おもろかったわ。」

 プランナーをやっていたとき、隣の部署のコピーライターの先輩に同じように言うと、

 「書いてみるか?」
 「いいんですか。でも‥‥」
 「ええがな、ええがな。書け!書け!」

 思えば、あの一言がなかったら、きっと私は、今、広告の仕事をやってなかったし、「ある広告人の告白」なんてブログも書いてなかったりするんでしょうね。

 人生が動いたり、時代が動いたり、そんな瞬間って、そんな大人たちの「ええがな、やれ!やれ!」があるんでしょうね。その「ええがな、やれ!やれ!」の言葉の裏には、なんかあったら責任とったるから、ということもあるでしょうし、この「ええがな。」という言葉はいいもんだなあ、と思いました。

 もちろん、20年前といえども今とは時代が違うし、社会も、経済も、業界も、今よりももっともっと信じられていたけれども、こういう大人であることのよい部分も忘れてはいけないなあ、と思います。昨日からか今日からかに仕事はじめの方も多いですし、最後にこの言葉を送ります。自分に向けてでもありますし、若い方へのエールの言葉としても、ね。

 「ええがな、ええがな。やれ!やれ!」

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2012年1月 3日 (火)

インターネットの2階

 はてな近藤さんのブログを読みました。はてなには、はてなで働く人、はてなを離れた人、大好きな知り合いがたくさんいるので感慨深かったです。

 僕がブログをはじめようと思ったとき、たまたまプロバイダが@niftyだったからココログではじめたけれど、このブログが人に読まれるきっかけをつくってくれたのが、はてなブックマークをはじめとするはてなのサービスでした。

 最近、アクセスが急激に増えたことは以前書きましたが、その中で、『人間のタイプをOSにたとえると‥‥』というエントリーにブックマークをしてくれた人が多くて、もうただただ「すごくうれしいです、ありがとうございます、ありがとうございます、ありがとうございます」みたいな感じでもあるんですが(すみません、まだ慣れてないんです)、そのブックマークを見ると、一言コメントをつけている人たちがいて、そのコメントが、当の元エントリーより面白かったり、センスがよかったりして。そこで、なるほどなあ、そういうことなんだ、と「はてな」のことが少しわかったような気がしたんです。

 なるほどなあ。そういうことね。なんとなくわかりました。「はてな」というサービスのコンセプトはきっと「親切」なんだなあ。「便利」っていうのは、ふつうにあるけど、すべて「親切」という軸でサービスをつくっていくと「はてな」になるんだなあ、なんて思いました。

「はてな」のこと少しわかってきた。(2007年9月16日 )

 当時はこんなこと書いていたんですね。あれから4年とちょっと、インターネットの風景は少し変わりました。もちろん、はてなブックマークは、まだちょっとプログラミング関連と2ちゃんねるまとめサイトに偏ったところはあるけれど、日本を代表するCGMサイトに育っています。はてなブックマークのトップページを毎日ながめていると、ある程度世相がわかります。特に震災が起こった2011年は、すごくわかりやすかったです。善し悪しはともあれ、ホットエントリーは今世間が何に興味を持っているかがよくわかります。

 近藤さんは、「2012年に向けて」の中でこう書いておられます。

インターネットは今、2階建て構造になってきていると思います。

巨大なプライベート空間であるfacebookが1階。ともだちとのおしゃべりをする場所です。
それに対して、オープンなインターネットが2階。検索エンジンが到達可能な領域です。ブログやtwitterなどのオープンなサービスがここに属します。

この1階と2階は今のところ別の世界として分離していますが、今後この中間領域の発展が進むと思います。

 確かに、そうですね。1階と2階というメタファは、自室、自宅、中間集団、社会というように、リアルな世界に照らし合わせたほうが、ひたすらリアル世界のテクノロジーでの拡張を目指してきたインターネットの実情にはわかりやすいかもしれませんが、1階、2階というのは、ネットサービスをつくる当事者としては実感に近いのだろうなと思います。

僕たちはこれまで、ブログやソーシャルブックマークサービスによって、オープンインターネット領域での自己表現やコミュニケーション、情報の流通を扱ってきました。この領域には、多くの出会いと情報が溢れています。

一方で多くのインターネットユーザーが、居心地の良いプライベート空間に活動の拠点を移しており、新たにインターネットに入る人もこちらが入り口になりつつあります。

しかしもちろん、オープンインターネット空間の良さが無くなったわけではありません。
facebookには、これまでに知り合った知り合いはいても、これから知り合うべき人との出会いはほとんどありません。皮肉なことに、本当にsocial networkingをしたい場合は、オープンな領域に出て行く必要がある、という状況が生まれています。

自分がたくさんの出会いに恵まれたのが、「外の活動」であったことと同じように、インターネットでも、自分の人生に新しい展開をもたらしてくれるような出会いは、オープンインターネットの領域に存在します。

1階と2階をうまくつなぐような中間領域を設計したり、居心地の良い2階を作ることで、1階と2階をつないでいきたい。これが大きなテーマです。

 私がはてなのみさなんと知り合うきっかけになったのも、この2階でした。それに、私の人生を少し変えることになった大きな出会いも2階でした。私は、この2階が大好きでした。私にとって、インターネットの2階こそがインターネットでした。

 この近藤さんから提示された着想からは、いろいろなことが導けそうな気がしますが、今は、ただ、はてながふたたび2階の価値に着目してくれたことをよろこびたいと思います。

 はてなの方々や元はてなの方々とは、いろいろとリアルでのおつきあいもあるので、余計に思うのかもしれませんが、近藤さんのエントリに書かれている率直な思いは、私はいいな、と思いました。かつて、やっぱり、ある意味ではてなはブームだったんですよね。はてなの持つ、理想をひたすら追い求めるコミューン的な部分が少し勝ちすぎていたような気がしていました。

 いろいろな方がはてなを離れ、そして、いろいろな方々がはてなに参加し、いくつかの成功と失敗を体験しててきた、その過程で近藤さんがいろいろな葛藤をされていたことは、すごくいいな、と思ったんです。表現はあれですが、泥臭くて、ちょっぴり弱くて、人間臭くて、でも地に足ついた感じで、とってもよかったです。期待しています。

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2012年1月 2日 (月)

普通の爪楊枝

 年末年始はずっと大阪。しばらくは、親父と男二人のむさ苦しい暮らしが続きます。飯は家で食うので、近くのショッピングセンターまで買い物に。食料品を買うついでに、そういえば爪楊枝がなくなってたなあ、なんてことで、紙にメモして出かけました。

 ショッピングセンターにあるスーパーマーケット。それにしても、たくさんのお客さんがいるもんだなあ。元旦なのに買い物かあ。世の中も変わったなあ。なんて思う私も時代の子。晩飯のおさしみとか野菜とか豆腐とかを買っているんだもの。人のことは言えんわなあ。

 半額になったお節の誘惑も振り切って、必要な分だけの食料品を買い込んで、さてと、爪楊枝はどこだ、と探すも見つからず。どうしたもんかと店員さんに聞くと、ああ、ここには置いてないんですよ、薬局か100円ショップなら置いてますよ、と。一瞬、薬局って、心の中で突っ込みを入れたものの、そういえば、最近の薬局は何でも売ってるものなあと、とりあえず笑顔で納得する素振りを。

 エスカレーターに乗って2階に。微妙な感覚だけど、生鮮食品を入れた袋を持って別の店に行くのは、ちょっとだけ抵抗感があるんですよね。衣料品や雑貨を先に買って、最後に食料品。そんな掟が私の中にはあるようです。

 薬局。最近の薬局はお菓子や飲み物もあるんだなあ、と関心しながら、店内をうろうろ。爪楊枝って、キッチン用品でもないし、糸ようじっていうのがあるけどデンタル関連商品でもないし、と少し迷ってしまいました。ようやく爪楊枝を発見。日用雑貨の棚に、割り箸と一緒に並んでいました。

 でも、残念ながら、その爪楊枝は買いたい爪楊枝ではありませんでした。1本1本がビニールの袋に包まれているやつなんですよね。お弁当とかに添えられているタイプの爪楊枝。そのビニールの袋、今はいらないんです。ほしいのは、筒状のパッケージに裸の爪楊枝がぎっしりつまってるやつ。実家には、どこかの土産物だったと思うんですが、きれいな石に筒状の穴が掘ってある、ちょっと上等な爪楊枝立てがあって、そこにきっちり入れるには、あの袋は、申し訳ないけど邪魔なんです。それに、家ではゴミになるだけだし。その清潔を考えたひと手間の気持ちはわかるんですけどね。

 というか、ビニール製の安もんの筒型パッケージと、そこにぎっしり詰め込まれた爪楊枝の隙間に、柳楊枝って墨文字で書いてあるペラペラの紙が入ってるのが、普通の爪楊枝だと思うんですけどねえ。どうして普通の爪楊枝を置いてくれないんだろう。

 でもまあ、しょうがない、これでいいや、と思ったりしましたが、すぐに、いやいや、年始早々、妥協はいかん、と考え直して何も買わずに薬局を出ました。で、エスカレーターで3階に。100円ショップには絶対あるでしょ。日用雑貨と言えば、今や100円ショップなんだし。しかしまあ、いろいろあるもんですね。えっ、これが100円なんてものもたくさん。必要がなくても、思わず買ってしまいそう。それに、デザインもかなりがんばってます。10年ほど前は、いかにも100円でござい、っていうものばかりでした。中の人、いろいろがんばっているんだなあ。負けないようにがんばらないとなあと、年始っぽいことを思ったり。

 こちらはさすが100円ショップ。爪楊枝は簡単に見つかりました。棚のかなりの面を使って商品が積まれていました。ここでは人気商品なんですね。でも、でもねえ、やっぱりないんですよ、あの爪楊枝。棚には2種類あったのですが、ひとつは薬局に置いてあったのと同じ、1本1本がビニール袋に入れられた200本入りのもの。もうひとつは、紙の袋に入れられた300本入りのもの。ここで心が折れて、結局、紙袋に入った300本入りをひとつ購入。消費税込みで105円。

 ぼんやりとした敗北感を抱えながら家路に。なぜ袋入りしかないのかなあ、なんてことをぼんやりと考えていました。

 もしかすると、最近の衛生指向で裸の爪楊枝は絶滅してるのかもなあ。まさかそんなことはないだろう。いやいや、でも案外そんなこともあり得るかも。なにせ、ここ数年、爪楊枝には見向きもしなかったしなあ。えっ、これってもうどこにもないのか、いつのまに、っていうものもたくさんあるしなあ。

 で、ブロガーの悪いくせですが、ネットでいろいろ見てみたんですね。すると、あの裸の爪楊枝はたくさんありました。あの見慣れた裸の爪楊枝は300本入りなんですね。価格は60円前後。少し大きめの容器に入った500本入りのものもありますが、こちらも60円から80円。お徳用と称したものは、同価格で2個セットとか、それ以上のセットもりました。

 さらに調べてみると、環境対応を謳った国産のものが、やっと100円。竹製やセルロース製、ミントやキシリトール付き、和菓子に使う工芸ものなど、高額の差別化商品はたくさんありますが、概ね、爪楊枝は通常価格60円前後の商品のようです。セールものでは、切りがないほど安いものもあります。

 家庭で使うことを考えれば2個セットとかはちょっと多いと感じるし、かといって、いくら小さな商品といえども、60円の商品を棚に置いておくのはもったいないし、その値段では安さも演出できない。そんなこんなで、悩んだ末の、ちょっと付加価値、袋入り、ということなんでしょうね。まあ、今回のケースはたまたまだと思うんですよね。街のお店ではしっかり定価で売ってると思うんですが、大型ショッピングセンターの大型店というシステムでは、今や普通の爪楊枝はどうしていいのかわからない商品になってしまっているのかもしれないですね。

 普通の爪楊枝を求める声がこれから高まるとも思えないですし、たぶん、普通の爪楊枝は、こうしたシステムの中では、ずっと、どうしていいのかわからない商品のままなんでしょうね。まあ、普通のスーパーとか、街のお店で買えばいいことなんですが。

 ネットというシステムは、そこらを軽くすくいとることができているんでしょうけど、その一方で、やっぱりどこまで行ってもネットはリアルの、思ったときにすぐ手に入れられるっていう部分は超えられないとも思うし。この普通の爪楊枝から、いろんなことが見えてきますね。お買い物に限らず、おおよそ、今の世の中はシステムで動いていると思うし、そんなシステムはいろんなことを便利にはするけど、システムであるが故に取りこぼしてしまうものもたくさんあるんだろうなと、2012年のはじめに考えました。

 ちょっとばかり年始の誓い的なことを書くと、こうした、新しい時代の新しいシステムの中で取りこぼしてしまった「どうしていいのかわからない問題」を、今年は考えていきたいと思っています。これから、きっといろんなシステムが変わります。また、ちょっと前に変わったシステムが動きだし、新しい問題が出てくるだろうとも思います。そんなとき、昔はよかった、昔に戻ればいいじゃん、っていう倫理を持ち出してくるんじゃなくて、今のシステムの中で「こうすればいいじゃん」という答えを出していければと思っています。

 小さな答えでも、積み重ねれば、世の中、少しはよくなるでしょ。そんな思いを込めて。2012年もどうぞよろしくお願いします。 

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