[書評] 『さいごの色街 飛田』 井上理津子(筑摩書房)
昨年の11月頃、新大阪駅の書店でこの本を見つけて、その時は購入しませんでした。いくつかの書評で大変な力作だということも知っていましたし、ネットにさえ詳しい情報は出ていない飛田という街のことを知りたい気持ちもありました。でも、購入しなかった。それは、たぶん私が男性だからだろうと思います。複雑な思いがあるのです。
井上理津子さんは、近年は東京に拠点を移されたそうですが、これまで大阪を拠点に活動をしてきたフリーライター。『大阪下町酒場列伝』という名著でご存知の方も多いのではないでしょうか。井上さんは、この本の冒頭で、取材をした数多くの一般男性たちについてこう書かれています。
ちなみに、「僕は」の話は決まって、「飛田はすごいところ。最初に界隈を通った時、昔にタイムスリップしたような雰囲気にびっくり仰天した」という意味のことを言った上で、
「風俗は嫌いだ。恋愛のプロセスなしにイタしたいとは思わない」
「飛田は不潔そうな感じがして嫌だ。病気も怖そうだし……」
のいずれかだった。そう、みな、自分は風俗は苦手だ、飛田には行かないと親告するのである。特段「あなた」の意見を訊いていないのに。制度そのものを問う、「女性差別そのものじゃないですか」という発言は、二十代後半から三十代前半の三人から聞いた。
ああ、そうですよね。私も聞かれれば言いそうです。
飛田は大阪にある地名で、大正時代に難波新地の大火事による焼失後、代替地として生まれました。「飛田新地」もしくは、「飛田遊郭」と言われることもあります。厳密には、飛田は公許の「遊郭」として存在したことはありませんが、今だに「飛田遊郭」と積極的に呼ばれるかというと、売春禁止法施行以来、多くの“赤線”がソープランド、つまり、特殊浴場に業態を変えて行く中(ちなみに、大阪府の条例ではソープランド不許可です)、飛田は昔ながらの遊郭に近い営業を今も続けているからです。
なぜ、それが可能になったのか。自ら解釈を変えたから。つまり、売春禁止法をかいくぐる解釈を自ら編み出したんですね。
まず、自らの業態を料亭と位置づけます。お客さんは客間で食事をします。そのお世話を中居さんがします。その客間で、お客さんと中居さんが恋愛をするのです。つまり、自由恋愛だから管理売春ではないということなんですね。監督官庁である警察側も、実際は何度か摘発をしているものの、結果としては、おおよそ見て見ぬふりをしてきたと言えるかもしれません。
かつて、飛田にある「鯛よし 百番」という、国の登録有形文化財にもなっている、大正時代建築の遊郭をそのまま使った料理屋さんで上司の送別会を自ら幹事として開いたことがありました。その帰り、タクシーで通りを物見で巡りました。ここからタクシーを利用するとき、観光的に通りを巡ってから通りに出ることが慣例になっているのですね。
新大阪の書店で感じたあの複雑な気分のひとつには、きっと、そのときに感じた気分もあったのだろうと思います。
大正時代そのままの街並。長屋の料亭の玄関を照らす赤や黄色の妖しい照明。その光に照らされる女の子。美しいと思いました。けれども、その美しさは、現実感のない美しさでした。それは、タクシーのガラス窓をスクリーンにした映画のようで、あの風景は、この目で見たものではあったけれど、単なる映像でしかなかったのかもしれません。そのバーチャルな感覚が、妙な罪悪感として心に残り続けました。
年が開けて、帰省から戻る人で賑わう新大阪の書店ではこの本は平棚に山積みされていました。さらに、そこには新聞の書評を切り抜いたPOPも飾られ、かなり売れている様子でした。そのことが背中を押してくれたのかもしれません。こういうとき、売れているという事実は、百の言葉よりも説得力がありますね。よし、せっかく、一度は読んでみたいと思ったわけだし、新幹線で東京まで2時間半もあるし、この機会に読んでみよう、とようやく購入したのでした。
この本の帯には、こう書かれています。
遊郭の名残をとどめる、大阪・飛田。
社会のあらゆる矛盾をのみ込む多面的なこの街に、
人はなぜ引き寄せられるのか!取材拒否の街に挑んだ12年
衝撃のノンフィクション!
飛田は、料亭の経営者、呼び込みのおばちゃん(曳き子)、女の子の三者で成り立っています。その料亭の、それぞれの人たち。飛田の街で生きる、居酒屋さんや喫茶店のマスターやママさん。街の人々。組長。警察。そんな、飛田で生きる様々な人たちの、まさしく“生の声”が、丹念に調べられた飛田の歴史や成り立ちを交えながら、次々と描かれていきます。
ノンフィクションではあるけれど、その読後感は小説のようでした。それは、インタビューをまとめた本にはめずらしく、インタビュアーである井上さんの共感、疑問、葛藤といった心の揺れが丹念に描かれているからかもしれません。自らは決して語らない飛田の人たちが、よくここまで語ってくれたなあ、と素直に感心しました。井上さんは、飛田の存在について肯定はしていないのだと思います。しかし、否定もしていない。寛容とも容認とも違うのでしょう。
飛田という街があり、そこで暮らす人がいる。そのことに、寛容も容認もない。井上さんを含めた私たち第三者が愛情と呼ぶには、あまりにも身勝手すぎる。ただ、知りたい。分かりたい。きっと、そういうことなんでしょうね。
複雑な気持ちだ。二人の言に、共感できかねる部分はたくさんあるが、私は二人を嫌いではない。タエコさんが「二階からお客さんと女の子がげらげら笑っているのが聞こえてきたらうれしい」と言った、それに近い感覚なのかもしれない。
28歳の若さで曵き子をするタエコさんは、井上さんから「現状満足度は?」と聞かれ、「ゼロ%やな」と答えていました。そんなタエコさんは、「飛田から出るの、なんや怖いですから」とも語っていました。飛田は、ここにいなければ絶望しかない人にとって、安心して暮らしていくことができる唯一の街という一面もあるのです。
社会のあらゆる矛盾を飲み込む多面的なこの街、と帯では語っています。私たちは、この本のタイトル「さいごの色街」という言葉が示すような、日本から失われてしまった情緒が今なお残る街というイメージだけで語りがちです。あるいは、その逆に、このような街はあってはならないと断罪することもあると思います。しかし、この本を読むと、この街は単純なのもではないことがわかります。いや、飛田だけでなく、社会のあらゆることが、本当は、賛成反対で割り切れるほど単純にはできていないのでしょう。
この本の最後で、そんな、閉じられた、正しく言えば、この社会によって閉じざるを得なかった共同体が持つ負の部分を物語るエピソードが出てきます。飛田特有の料亭形式の風俗営業にまつわるものではありません。どのようなエピソードなのは、ぜひこの本を読んで確かめてほしいと思います。せつないです。それは、飛田だけの特殊な問題ではなく、私たちの社会そのものが持つ問題なのだろう、と私には思えました。
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