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2012年2月の7件の記事

2012年2月29日 (水)

捨てる決断

 iPod Touchを紛失しました。ジャケットの胸ポケットに入れていて、ジャケットを脱いで椅子の背にかけたときに落としたのだと思います。その後、残念ながらiPod Touchは出てきませんでした。8Gなので、16,800円。ちょっと痛い。でも、思ったよりも落胆はなく、そのことに自分ごとながら少し驚いています。

 パスコードをかけているので、まあ第三者に使われることもないでしょうし、フラッシュメモリに記録されている写真データなんかもiCloudを通してMacBookに保存されているし、iPod Touchだけに保存されている情報も特になく、あえていえば、ちょっと退屈だなあ、とか、メールとかtwitterとか、いろんなものが外でもサクサク見られたのに、それができなくなっちゃったなあ、ということくらい。まあ、今までなかったものだし、それ以外は特に不自由もありません。

 逆に、主に自宅で使っているMacBookや、出先で使っているMacBook Airが盗難されたり紛失したりしたら大変なことになっていただろうな、と思います。クラウドサービスを使い出してから、紛失・盗難時の衝撃度は低くなったものの、それでも大切な情報をたくさん保存していますし、なによりも、毎日のいろいろな活動に支障がでてしまいます。ブログだって書けませんし、コピーも企画書もつくれなくなってしまいます。それでも私のベースは言葉だから、紙とペンがあればなんとかなりますが、アートベースや映像ベースの人は、もっと大変でしょうね。また、営業や経理の方なんかは、もう目も当てられない状況になるかもしれません。

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 個人にとってのコンピュータが、クリエイションツールとビューアに二極化しているということを、今回の紛失であらためて実感しました。ちょっと前までは、個人にとってのコンピュータはクリエイションツールとビューアが一緒になったものでした。あえて言えば、そのつくれる、見られるコンピュータを、少し性能を犠牲にして外に持ち出せるようにしたモバイルというジャンルがもうひとつあったというくらいのものでした。

 もちろん、iPhone、iPod Touch、iPadでもクリエイション用途に使えなくはありませんし、Mac Bookはビューアとしても、もちろん使えます。しかし、普通の人たちがクリエイションのためのコンピュータと、もっぱらコンテンツを楽しむためにつくられたビューアとしてのコンピュータを当たり前のように使い分けている今の状況は、少し前の個人向けコンピュータの常識からは考えられない状況なのではないでしょうか。

 この状況をつくったのは、まぎれもなくAppleだと私は思っています。それも、かなり意識的に。そして、相当大きなリスクをとって。たぶん、今、私たちが当たり前のようにiPhoneやAndroidなどのスマートフォンを使っている状況は、Appleがそのイメージを持ち、その実現のためにリスクをとっていなければなかったものだと思います。私は、iPhoneが登場するかなり前から、Windows CEのスマートフォンを使ってきましたが、残念ながら、Microsoftには、クリエイションツールとビューアの二極化という未来のイメージを持っていなかったように感じます。持っていたのは、クリエイションもビューアもできるコンピュータを外に持ち出せるというモバイルというイメージだけです。

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 1998年に、AppleはiMacを世に送り出しました。キャンディーカラーのディスプレイ一体型のコンシューマー向けパソコンです。そのカラフルな筐体は、「これからのパーソナルコンピュータは、生活の一部として、もっと日常に入ってくるよ」というメッセージを投げかけました(参照)。そして、そのメッセージは世界中で受け入れられました。

 その1年後、iMacのノートブックバージョンであるiBookが登場します。iMacと同様のキャンディカラー、貝殻をモチーフにしたポップな筐体をまとったiBookは大ヒットしました。

 しかし、たぶん、そのときのAppleには、まだクリエイションツールとビューアの二極化という未来のイメージはなかったのだろうと思います。そこにあるのは、まぎれもなくモバイルというイメージです。

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 その頃のAppleのノートブックは、デスクトップのiMacとPower Mac同様、低価格のiBookとハイスペックで価格も高いPowerBookの二本立てでした。その戦略には、特筆するものはありません。多くのPCメーカーも同様の戦略を取っていましたし、コンシューマー向け、プロ向けという区分は、Appleの意志というより、デザインや映像でのニーズが高かった市場の要請によるものだろうと思います。

 しかし、2006年、PowerBook、そして、iBookというブランド名をAppleはあっさり捨ててしまうのですね。動機としては、CPUがPowerPCからIntelに変わったことなんだろうと思います。そこにはいろいろあったはずで、Powerという名称をもう使いたくないという気分もあったのでしょうし、CPUが変わるタイミングでブランド名を変更することでブランドのリバイタル、リフレッシュを図る意図もあったのでしょう。

 PowerBookはMacBook Proに、その流れで、iBookはMacBookになりました。

 これは、Appleが公式に言っていることでもないし、単なる私の憶測に過ぎないことですが、この前後で、クリエイションツールとビューアの二極化という未来のイメージができたのではないかと思います。結果的になのか、それとも、かなり意識的にかはわかりませんが、iBookという資産価値の高いネーミングを捨て、ノートブックから、仕事ではなく、プライベートを含めた“私”を意味する「i」を切り離したことで、ノートブックに変わる、別の「i」をつくるという動機をAppleは得ることになったのでしょう。

 それは、iPodであり、iPhoneであり、iPadであり、これから登場するであろうiTVのことです。

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 現在のAppleの製品ラインナップは、そのどちらの系列もあわせもつ、コアの製品であるiMacを中心として「Mac」系と「i」系に分かれています。「Mac」系はクリエイションツール、「i」系はビューアとしての位置付けになっていることがはっきりとわかるラインナップです。ウェブサイトを見ても何の説明もされてはいませんが、こうして製品を整理して並べるだけで、あきらかに意識はしていることがわかると思います。

Apple_2 歴史にもしもはないと言いますが、もし、今もiBookというブランドが残っていたとすれば、iPod、iPhone、そして、何よりもiPadという製品があそこまで明快にビューアとしての機能に振り切れたかどうか疑問です。きっと、かつてのWindowsタブレットのように、クリエイションツールの機能への未練から、どっちつかずの単なるモバイルになってしまっていたような気がするんですね。上の図のMacBookをiBookに置き換えた図を想像してみてください。今、Appleの製品群から感じられるメッセージは、もうそこにはなくなっているはずです。

 コンシューマーという芳醇な市場を持ち、そのコンシューマーをイメージさせるiBookというブランドを捨てる決断があったからこその、Appleの今なんだろうと思うのです。ネーミングというものの重さを感じます。この、マーケティングの見本というか、最先端のマーケティングの教科書のように、高度な戦略に基づき美しく整理されたブランドラインナップは、いかに捨てる決断というものが重要かということを見せつけられる思いがします。

 そして、これは、本題とは少し離れたものですが、もうひとつ。

 なぜか、映像コンテンツのセットトップボックスが「i」でもなく「Mac」でもない、AppleTVなんですよね。これは、もともとiTVというコードネームで開発が進んでいたものだそうですが、発売されたときにはAppleTVに変更になりました。そして、これから登場するであろうビューア、つまりテレビは、iTVになる予定です。なるほどねえ。やっぱりなあ。少し前に流れたニュースを見ながら、そんな感想を持ちました。

 で、この小さなセットボックスに、Appleは、社名であるAppleの名を冠してきたんですよね。というからには、たぶん、このAppleTVは、このセットボックスがきっとそのブランドの実体ではないはずです。そうか。最終的には業界を含めたテレビそのものを制する気なのだな、すごいことを考えるなあ、でもそこは今までみたいにうまくいくかなあ、なんて思うのですが、いかがでしょうか。

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 捨てる決断は大事と書きましたが、私はiPod Touchを捨てることはできなさそうです。なんか、同じ物を二回も買うのは釈然とはしないけど、やっぱり一度使うと便利だしなあ。Appleにやられっぱなしというのは、ちょっとおもしろくない気もするけれど、また近々購入することになりそうです。

 16,800円×2。締めて、33,600円。ああ、もう、なんだかなあ、ですねえ。

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2012年2月19日 (日)

「つぶやき」と「いいね!」

 2年前の今頃、『「つぶやき」と訳したのがよかったのかもね。』というエントリを書きました。読み返してみて、あの頃は、私はまだtwitterユーザーではなかったんだなあ、と土曜の深夜にしみじみ。ちょっと前のエントリを引用してみます。ちょっと長いですが。あの頃、twitterの宣伝文句はこんな感じだったんですね。

 サービスがはじまった当初のキャッチフレーズは、こうでした。

What are you doing?

 日本語で言えば、「今、何してる?」という感じですね。Buzz(このBuzzって、蜂のブンブンという羽の音のこと)的な、気軽で前向きなコミュニケーションの指向性を感じますね。これも、相手に語りかけるという意味では「つぶやき」とは違います。

 で、今の英語版のキャッチフレーズは、こうなってます。

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Share and discover what’s happening
right now, anywhere in the world.

See what people are saying about…

 うまく訳せませんが、直訳で言えば「世界中のいろんなところで、たった今何が起っているかを共有しよう、発見しよう。みんなが何を話しているか、見てみる…」という感じでしょうか。それが、日本語版ではこうなります。

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あなたの今を共有して、
ツイッターで世界の出来事を知ろう

みなさんが何をつぶやいているか見てみよう

 英語では、tweetではなくsayが使われ、そのsayが日本語では「つぶやく」と訳され、みたいな関係です。まあ、tweetはsayの比喩表現でもあるから、地の文としてはsayになるでしょうね。それが、日本語では「話す、話しかける」とか「おしゃべりする」とかではなく「つぶやく」となっていて、これは既に「Twitter=つぶやく」という構図が出来上がっているということも多分にあるでしょうけど、この「つぶやき」というキーワードは、とても日本語圏のユーザーに受け入れられやすい言葉のような気がします。

 say、つまり「話す」という行為は、必ず相手が必要な概念です。一方の「つぶやき」は相手がいらない言葉で、そこがよかったんでしょうね。最終的には、「コミュニケーションを楽しむ」という同じベネフィットがあるにしても、その導入では、英語圏と日本語圏ではちょっと切り口が違うんですよね。日本では、まず自分。内省的。これは、日本語圏のユーザーが内省的というわけではなく、導入において「さあ、楽しいコミュニケーションを」といくと、まず入り口でつまずくということ。心理的な敷居が高すぎるんです。

 この「つぶやき」という訳語はほんと絶妙で、もちろん、この「つぶやき」という言葉だけが貢献したわけではありませんが、2年経った今、twitterは日本市場で受け入れられていきました。世界でも、日本はtwitter好きだそうですね。私も、かなり好きになりましたし、それは「つぶやき」という気軽さもあると思います。

 もうひとつ、引用。これは、Facebookが台頭してきた今、twitterというウェブサービスの基本構造を考えるうえではかなり重要な部分ではないかな、と思います。

 日本語版の訳は、英語の元の文とは少し意味が違っていますね。このあたりは、すごく興味深いです。英語の元の文が、shareとdiscoverが同列(Share and discover)なのに対して、日本語ではshareすればdiscoverできる(共有して知ろう)という関係になっています。少し啓蒙的です。shareしなけりゃ、discoverなんてできないんだよ、という感じ。

 これも文化の違いなんでしょうね。日本では、shareという概念は、どうしても身内の中でのshareという概念になりがち。でも、Googleなんかが代表的ですが、いわゆるWeb2.0的な文脈のshareは、コミュニティ内のシェアではなく、もっとソーシャルに広く、言ってしまえば、ウェブのすべてに広がるshareです。ここでは、前者のshareと後者のshareは、じつは対立概念になります。この少しばかり啓蒙的な日本語の言い回しには、もしかすると、そんな日本人スタッフの思いも少し入っているのかもしれませんね。

 twitterは基本的にはオープンなウェブサービスで、少数のフォロー、フォロアーで使用している人も、そのツイートはウェブの世界に開かれています。ブログにおける個別エントリのように、ツイートにはひとつひとつパーマリンクが発行されますし、時間はかかりますがGoogleにもインデックスされます。大通りや大広場であっても、路地裏や小さな公園のベンチであっても、上を見上げると同じ空、みたいな感じです。

 そんなオープンで外向的なウェブサービスであるtwitterは、日本市場では「tweet」を「つぶやき」と、あえて内向的に表現しました。これ、今になって思いますが、日本で受け入れられるために、かなり日本のインターネットユーザーのインサイトを考え抜いたんだろうと思うんですね。オープンなプラットフォームだからこその「つぶやき」。とりあえず、あなたが思ったことをつぶやくだけでいいんですよ、コミュニケーションはあとからついてきますから、というようなお誘いの仕方。公共空間では、あまりコミュニケーションや自己主張を避けがちな日本の人たちにぴったりなアプローチです。

 で、一方のFacebook。

 Facebookは、基本的にはそれぞれのユーザーの情報のやりとりは、Googleにインデックスされませんし、プロフィールはネットにオープンにはなっていますが、基本は、mixiのように、また、古くはメーリングリストのように限られた人たちのコミュニケーションを実現するプラットフォームです。

 このクローズドSNSの中核機能である「Like」をFacebookは日本市場のためにどう表現したのか。ご存知のとおり「いいね!」ですね。これ、twitterとまったく逆のアプローチです。つまり、内向的なウェブサービスに、より外向的にお誘いするというアプローチ。

 英語でいうLikeは、「いいね!」よりもあっさりした意味合いがありますよね。好きという概念に対して、英語はLoveとLikeの2つの語に分かれていて、Likeと!も付けずに放り投げる感覚は、日本語の「いいね!」とはずいぶん違います。これも、twitter同様、かなり日本のインターネットユーザーのインサイトを考え抜いたんだろうなあと思うんです。

 あまりいい言葉ではないですが、旅の恥は書き捨てという言葉もあるように、仲間内どうしだと、かなり濃密なコミュニケーションや行動をするところがあるように思います。安心感がある空間ではのびのびするのも日本の人の特徴。そういう人たちに向けて、クローズドなサービスが「いいね!」とアプローチする。twitter同様、これまたお見事です。

twitter:オープン(外向的) tweet=つぶやき(内向的)
Facebook:クローズド(内向的) Like=いいね!(外向的)

 この「つぶやき」と「いいね!」はもう当たり前の言葉になってしまいましたから、あまりこのアプローチの凄みがわかりにくくなってしまっていますので、参考として、twitterのtweet、FacebookのLikeを、その機能をそのままに、あえて、普通、何も考えずにフラットに訳したらこうなる、というのを示しておきます。これまでのウェブサービスの文脈もふまえるとこんな感じになるのではないでしょうか。

tweet=おしゃべり
Like=お気に入り

 こうなると、やっぱりそれぞれの魅力が半減どころか、ずいぶん普通に思えてきますね。なんだか、インサイトの踏み込みが一皮甘い感じ。特にtwitterには抵抗感がでてきそうです。FacebookのLikeも「いいね!」と表現したからこそ、今、広告業界でゴールドラッシュみたいになっているんでしょうね。もし「Likeをふやす」とか「お気に入り数アップ」と企画書に書かれていても、なんでもかんでもFacebookページという状況にはならなかったと思います。

 この「いいね!」という訳によって、広告欄やコメントなどにつく「いいね!」は、日本ではこんな感じで表現されるんですね。日米の比較です。

○○ like this.
○○さんが「いいね!」と言っています。

0,000 people like this.
0,000人が「いいね!」と言っています。

 これ、ほんと見事です。嫌みなくらい見事。日本では「いいね!」と「言っています」なんですよね。なんだかなあ、すごく読まれてる。憎らしいほど読まれすぎてます。ユーザー推奨はもともと効果がありますが、それを仕組みとしてドライに表現するのではなくて、より同調の負荷がかかるような「あの人も言ってますよ」的な表現にしたのは見事としか言いようがないなあ。情報商材のネット通販なんか、ぜんぶこれですものね。あの「いいね!」はフィクションに近いし、一方通行の「いいね!」ですが、こちらはリアル。強いです。

 個人的には、日本語表現の過剰なまでの見事さは、実態以上に企業の「いいね!」されたい熱を加速させた一方で、企業とユーザーの直接交流的なFacebookの良さはちょっと見えにくくしてしまっているので、やがてFacebookのネックになってくるんじゃないかな、とは思うんですが、でも、そうなればなったでまた対応はしてくるのでしょうし、まあ、Facebookとしてはいいところで落ち着くのではないでしょうか。

 企業側、業界側では、今、人気投票的な部分がクローズアップされて、人気を得ればマスに匹敵するメディアがつくれますよといったとらえられ方がされがちですが、twitterもFacebookもソーシャルメディアではあるので、基本は継続的な情報発信とその情報をもとにした継続的な直接対話。その性質上、原則的には所謂「ハードセリング」には向かないとは思うんですね。本来は、一時的な加熱を狙うのではなく、地味にコツコツやっていくタイプのものではあると思います。

 最後に、同じく2年前の『ソーシャルメディアとの距離の取り方』というエントリから引用します。

 せっかくのソーシャルメディアへの参加です。初期費用はゼロに近くても、継続のもろもろを考えればゼロではありません。短期の成果を急ぐあまり、ソーシャルメディアで嫌がられては本末転倒です。マイナスのブランディングだけは避けたいですよね。そのためにも、どうソーシャルメディアと距離を保ちながら付き合っていくのかを考えることは大切です。めんどくさいけど、そのことをきちんやるのとやらないのとでは、2年後、3年後、ずいぶん違ってくるのだろうな、と思います。

 あれからtwitterもFacebookもずいぶん広まったけれど、今も考えはほとんど変わりません。もっとも、ソーシャルメディアという位置づけが変わらない限り変わりようがないとも言えますが。ちょっと夢や希望を熱く語らない分、もしかするとつまらない印象はあるかもしれませんが、なるべくフラットに冷静にソーシャルメディアを考えていきたいとあらためて思っています。

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2012年2月16日 (木)

そうなんですよね。僕らだって意味もわからず英語の歌を聴いてきたんですよね。

 いやはや、すごいもんです。ここ最近のインターネット界隈で、いちばんいいニュースだったのではないでしょうか。PINK MARTINI & SAORI YUKI / 1969の大ヒット。この素敵な出来事は、いろいろな記事になっています。

由紀さおりが米国iTunesジャズチャートで1位獲得のワケ - 日経トレンディネット

由紀さおり、1969年作品を歌う『1969』が世界20ヵ国以上でリリース - BARKS ニュース

由紀さおり、ニューヨークでスタンディングオベーション - BARKS ニュース

由紀さおり「夜明けのスキャット」、なんとギリシャremixが世界50ヵ国以上で配信決定 - BARKS ニュース

 なによりも素敵だなと思うのは、この日本語の歌がアメリカで売れて、そこから世界に広がったこと。聴いてみてわかるのは、PINK MARTINIの演奏が、驚くほど「歌謡曲」なんですよね。アメリカでヒットして世界で売れた、というニュースを期待して聴くと、あっけにとられるくらい「歌謡曲」そのもののアレンジ。歌謡曲を聞き慣れた僕らからしたら、もうちょっとひねってもよかったんじゃない、って思うくらい。

 でも、そう思うのは、僕らが心のどこかで歌謡曲を本家の洋楽に対して引け目を感じているからでしょうね。日本の歌謡曲は、PINK MARTINIのリーダーであるトーマス・M・ローダーデールさんにとっては、まったく別の音楽だったんでしょう。どちらが優れているか、とかではなく。それは日本語に対してもそう。えっ、日本語で歌うの、と僕らは思うけれど、でも、僕らだって意味もわからず英語やフランス語、ブラジル語の歌を聴いてきたわけですから。そして、その歌謡曲を再発見して、スムースジャズというかイージリスニングのコンテキストに乗せたトーマスさんの才能は素晴らしいと思います。

 YouTubeで、2011年12月20日にポートランドで行われたコンサートの映像が公開されています。由紀さおりさんは、PPMのPuff, the magic dragonを日本語で歌っています。この映像は、いろいろなことを教えてくれます。

 
 この歌が、他ならぬPPMのPuff, the magic dragonだから、余計に分かりやすいですね。この曲は、アメリカ人なら、子供から大人まで誰でも口ずさめる国民的な歌なんですね。これまで、この曲はいろんなアレンジで演奏されてきましたが、この演奏のアレンジはやっぱり日本の歌謡曲のそれです。由紀さおりさんの歌も、そこがアメリカのポートランドであることをまったく意識していないかのような歌い方。たぶん、在米日本人を対象にしたコンサートではないと思いますし、ほとんどの人は日本語はわからないでしょう。NHKでもこの映像は流れていましたが、お客さんへのインタビューでも「日本語はわからないけど、とっても素敵だった」みたいなことをおっしゃってましたし、僕らが英語の歌を聴くように聴いているんでしょうね。

 なんとなくこの映像を見ていると、日本の音楽界が、ある憧れと敬意をもって洋楽を吸収してきた生真面目さを感じるんですね。リスペクトの心というか、この演奏を聴いたアメリカの人は、僕たちが愛している曲を日本人はこんな感じに解釈して、こんなふうに歌ってくれているんだ、と感じているような気がするんですね。

Puff, the magic dragon lived by the sea
And frolicked in the autumn mist in a land called honah lee,

 曲の最後で、由紀さおりさんが英語で歌います。そこで拍手が起るんですよね。この部分にすべてがあると思います。

 そして、洋楽を懸命に吸収してつくりあげた「夜明けのスキャット」や「ブルー・ライト・ヨコハマ」なんかの日本の歌謡曲が、まったく新しい音楽として、世界で聴かれている。それは、とても素敵なことだなあ、と思います。ほんと、素敵。

SAORI YUKI OFFICIAL WEB

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2012年2月11日 (土)

すっぴんうどん

 近くのおいしいパン屋さんでクロワッサンを買って、うまいなあ、サンドイッチもいいけど、やっぱりパンのうまさはパンのうまさだよねえ、パスタも塩こしょうとバターのがうまいし、うどんそばも盛りがうまいよなあ、うん、海原雄山の言う通り、なんて朝から悦に入ってたら、なんか昔のことを思い出しました。

 その昔、コピーライター養成講座に通っていたことがあるんですね。CIプランナーの見習いをやっていた頃で、もちろん自分の希望でもあったんだけど、その頃、会社が人員削減とかで人手が足らなくなってきていたりして、コピーライターの見習いを兼務していたんですね。とりあえず見よう見まねでやってはいるけど、これじゃ駄目かなと思って通い出したんです。確か、宣伝会議が倒産して、まだ再建できていない間の頃で、一時的に久保田宣伝研究所コピーライター養成講座という名前だったと思います。

 で、その講座で、こんな課題が出たんです。

 「あるうどん屋さんがあります。そのうどん屋さんは、素うどんがあまり売れていません。素うどんがもっと売れるような広告案をつくりなさい。」

 聞いた直後に、素うどんが売れてなくても、天ぷらうどんや鍋焼きうどんが売れてるんだったらいいんじゃないかなあ、そのほうが利益率もきっと高いし、とは思ったんですね。今思えば、素直じゃない生徒だったなあと思いますが、それまでの授業は、RTB(Reason to believe)的なことについてだったから、出題の意図は、広告っていうのはイメージだけじゃ駄目なんだよ、ちゃんと消費者に信じられる理由を提示できなきゃいけないんだよってことだったんだろうとは思います。

 出題者が意図する正解は、職人さんの写真が出ていて「うどん作り一筋、五十年。職人が心を込めてつくっています。まずは素うどんでこそ味わってほしいうどんです。」的なこととか、小麦畑の写真で「国産小麦100%。この味、このコシ、この香り。私たちのうどんは、まず素うどんが違います。」的なことですね。

 でも、その頃の私は、今よりももっと空気が読めない奴だったので、あえて素うどんを売りたいのかあ、なんでだろ、でもまあ、きっとちゃんとした理由があるんだろう、でも、素うどんを売りたいと思ってるのに、自らが、具の乗っていないうどんを素うどんと呼んでいて売れるわけはないよなあ、素うどんって、お金ないときに食べるっていうイメージがついてるし、まずは、素うどんという言葉が持っているコンテキストを変えることが必要じゃないのかな、なんて考えたわけです。

 で、出した回答。

 素顔の女の子の写真に、正確なのは忘れちゃったけど「でも、やっぱり素顔の君がいちばん好き。」みたいなキャッチコピーで、下に素うどんの写真とともにでっかい文字で「すっぴんうどん 280円」ってつけたんですね。まあ、写真とキャッチはお客さんが男性だけじゃないってこととか、コピーが若気の至りっぽいこととか、ちょっとうどんの世界と距離があって伝わる速度が遅いこととか、そのデメリットも十分に検討しないといけないと思うのでご愛嬌なんですが、要は、素うどんを売りたいということなら、「素うどん」っていうコンテキストから「すっぴんうどん」っていうコンテキストに変えませんかっていう提案だったわけですね。

 その講義では生徒がつくった広告案が張り出されて、生徒がどれがいちばんよかったかを投票するわけです。で、人気が一番だったのは私の解答だったんですね。それは、信じられる理由をていねいに提示する比較的地味な広告案がずらっと並ぶ中で、私の広告案が目立つってこともあったんだろうと思いますが、とたんに、講師の方が困った顔になったんですね。その顔を見たとき、当時の私はようやく気付くんですね。

 あっ、この問題で言いたかったことはそういうことか。まずったなあ。

 その後、人気投票の結果は見事にスルーで「すっぴんうどん」はなかったように講義は進んでいきました。あの気まずい感じ。いまだに思い出すってことは、当時の私にとっては相当堪えた出来事だったんだろうなあ。

 でも、あれから20年以上経って、コンテキスト、コンテキスト言ってるわけだから、まあ、あのコピー講座は通ってよかったんだでしょうね。自腹で、そのうえ中退しちゃったけど。

 ちなみに、こういうコンテキストに変えてうまくいったのは、はなまるうどんとかの讃岐系チェーンだと思います。かけを基本に、好みで具を追加していく讃岐ならではのやり方は、なによりもまず、売りたいのはうどんそのもののうまさなんだっていうコンテキストをつくりましたよね。

 何よりもうどんがうまい。そのうえでの、天ぷらであり、コロッケなんだ、みたいな。はなまるうどんを見ていると、そのあたりうまくやってるなあと思います。讃岐うどんのシステムはもちろん、屋号は「はなまる」だけど、コミュニケーションでことあるごとに「はなまるうどん」にしているところとか、かけをお試し価格で提供しているところとか、そのぜんぶがあわさって、うちが売りたいのはうどんそのものなんです、っていうメッセージになっているんですよね。

 若かった当時の私にちょっと言いたいのは、素うどんを売りたいという課題だから「すっぴんうどん」はまあいいけど、ほんとにコンテキストを変えようと思うなら、その下の部分に、「あわせてどうぞ。かきあげ 100円 えびの天ぷら 150円 きすの天ぷら 150円」みたいなことを書いておくべきでしたね、残念でした、みたいなことですかね。

 では、みなさまよい休日を。今日のお昼はうどんにするかなあ。

関連エントリ:本質価値と付加価値についての覚え書き

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2012年2月 6日 (月)

インターネットをもっと怖がろう

 ブログをはじめたての頃、投稿ボタンを押すのがすごく怖かったんです。

 誰でも閲覧できる場所に自分が書いたものを投げ出すわけですから。はじめて投稿ボタンを押した時はすごく緊張しました。でもまあ、投稿ボタンを押してすぐに、名もなきブログのエントリをひとつ公開したくらいでは誰も見てはくれない、なんてこともわかるんですけどね。

 あの頃はまだユーザーの多くに、インターネットはオープンな空間であるという共通認識はあったと思います。無断リンク禁止みたいなことで、特定のブログコミュニティとの揉めごとはあったけれど、オープンであるがゆえの怖さみたいな感覚は、ほとんどの人が持ち合わせていたような気がするんですね。

 批判したら反論される。オープンな空間なんだから当たり前の話で、このブログでも過去に何かや誰かを批判する内容のものもありますが、それなりに覚悟を持って、怖い気持ちを乗り越えながら投稿ボタンを押したりしていたわけです。でも、それが表現するってことですよね。

 たくさんの投稿を重ねた今も、その怖さはやっぱりあります。ご批判を受けて、自ら反論をしたこともありますし、論が甘くて、浅くて、そのうえ間違ったことを書いて、専門家の方からご指摘を受けて、どう屁理屈こねても駄目だなと思って白旗を上げたことだってあります。

 2ちゃんねるなどでの誹謗中傷が問題になることがありますよね。それは、ほんと問題だとは思いますが、それでも、名無しを保持するシステムや名無しであることを維持するコメント主の意志は、やっぱり、インターネットはオープンな空間であるという認識に根ざしていると思うんです。つまり、そこにはオープンな空間に対しての自己防衛の意図があります。

 最近、ちょっと気になること。

 TwitterやFacebookといったソーシャルメディアが登場して、インターネットがオープンな空間であるという認識が少し薄くなって来ているんじゃないかな、と思うことがあります。過剰に意識する必要はないけれど、それにしてもなあ、という気がします。最近、Twitterとかで起きているいつくかの誹謗中傷問題を見て、ちょっと今までとは質的に違うものを感じています。

 システム的に言えば、自ら設定をしない限り、TwitterもFacebookもオープンなインターネットの中に何の囲いもなくあるんですよね。フォローしなくても、友達にならなくても、設定をしない限りは、誰でも全部閲覧できます。なんとなく知った仲間とのプライベート空間のように思えるのは、インターフェイスがそう見せているだけです。インターネットに公開されるブログエントリと何ら変わりはありません。

 mixiでさえ、その気になればオープンになってしまうこともあるんだし、それこそTwitterは、少し前、まだ競合サービスがひしめいていた頃はミニブログと呼ばれていたんですから。

 確かに、あのタイムラインのインターフェイスをずっと眺めていると、ある種の無敵感覚というか、自分が今置かれている環境をまったく考えに入れないゆるい意識になるのはわからないでもないけれど、それは、基本的に間違っているし、これからインターネットがどのように発展したとしても、そういう感覚が許容されることはないと思うんですね。システム的ににありえないたぐいのものですから。

 とは言え、私もそうしたインターフェイスの罠にはまってしまっていて、TwitterやFacebookで無敵に振る舞う人をタイムラインなんかでは見たことがなかったんですよね。だから、そういう人はいないことになってしまっていて、あまりこの問題について考えてはこなかったのは不覚でした。でも、今のソーシャルメディアの環境を考えると、それは必然ですね。

 インターネットがオープンな空間であるという認識が薄くなってきているのは、よくないなあと思います。現実は、どう思おうが、どこまでいってもオープンな空間なわけですし、そういう環境なんだしわからないでもない、で済まされない気がするんですよね。分かってやっていて、それなりの武装もしているのならともかく、そういう人って、タイムラインを見ると普通の社会人だったりして、余計に根が深そうだし、結果は悲惨になりそう。

 私なんか、これだけ書いて来たのに、投稿するときにはいまだにいろいろ考えますもの。インターネットをもっと怖がろう。いろんな事例を見るにつけ、あえてそれくらい言ってもいいのではと思い出してきました。

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2012年2月 4日 (土)

Twitterが重すぎる

 前回、「今、あらためて、インターネットの自由と匿名性について思うこと」なんて、少し重いことを書いたあとなので、タイトルが意味深すぎるかなあと思ったけど、まあ、実際に重すぎるので、そのままでいきます。土曜日だし。

 なんのことはない、E-MOBILE GP02ファームウェアをアップデート同リリース)してからTwitterのサイトが重くて不安定という話です。「すごいなあ、この人、ここまでTwitterをdisるか」なんてエントリを期待した方、ごめんなさいね。しかし、妙なタイミングでトラブルが起るもんです。

 アップデートしてから、他のサイトはかなり快適に閲覧できるのに、Twitterだけが重くて不安定。でも、ほんの時たま安定しているときもあって、それが余計に気になるんですよね。で、これは元に戻そうとリセットしたら、今度はフリーズして、電池を出したり入れたり、何度か荒っぽいことをしたら、ファームウェアがアップデートされた状態には戻せたので、念のためもう一度ファームウェアをアップデートしてそのまま使っています。ちょっと工場出荷状態に戻すのは、私の知識ではハードルが高そうに思いました。

 もしかするとGP02が原因ではないかもなあと思ったけれど、Yahoo!のリアルタイム検索で調べたら同様の症状の方もいらっしゃるようです。その方のツイートを2、3リツイートしていますので、確認したい方は、私のTwitterアカウントでご参照ください。ちなみに、2月4日2時現在、私はまったくアクセスできない状況なんですけどね。(4日朝に見ると1つしかリツイートが成功していませんでした。)

 私のPC環境と現状の症状はこんな感じです。

・使用機種:MacBook(OS X 10.5.8)
・ブラウザ:Firefox 10.0
・インターネット接続:E-MOBILE GP02でWiFi接続

・PCから接続したときだけTwitterのサイトが不安定
・サードパーティーのクライアント(SAEZURI)でも同様
・FIrefox以外(Chrome、Safari、Opera)でも同様
・サブ機(MacBook Air OS X 10.6.8)でも同様
・iPhone Touchでは安定

 これを総合すると、アップデートしたGP02で接続するとPC版Twitterのサーバーに相当な負荷かかるということみたいですね。アクセスすると、運良く表示されても、すぐにおなじみのあの文言がでてきます。

読み込みに時間がかかっているようです。

Twitter は許容範囲をオーバーしているか、一時的な不具合が発生しています。再度、お試しになるか、Twitter ステータスブログをご確認ください。

 で、ステータスブログを見ると、現在はなんの問題もない、と。100%とは言えませんが、これは、もうほとんどGP02のファームウェアアップデートが原因でしょうね。今回のアップデートは、あまり大々的には告知されていませんでしたし、私もITmediaの記事で知ったくらいだから、まだアップデートをしている人もそんなに多くなさそう。ドコモとかだと使っている人も多いからすぐに知れ渡るのでしょうけど、ユーザー数も比較すればかなり少ないE-MOBILEですしねえ。何らかの対応がでてくるまでもう少し時間がかかりそうです。とりあえずは、これからアップデートしようと思っている方は、セキュリティ関連の脆弱性を解消ということもありますが、緊急性はなさそうですので、しばらくは保留したほがよさそうですよ。一応、攻撃の条件について引用しておきます。各自、ご判断ください。

攻撃が成功するためには、「GP02 設定ツール」にログインしている必要があります。「GP02 設定ツール」の操作が 5 分間ないと自動的にログアウトするため(*2)、攻撃が成功する場合は「『GP02 設定ツール』を操作しているときに攻撃者の Web サイトに誘導されてしまう」などに限定されます。

LAC Advisory No.109 - Pocket WiFi(GP02)におけるクロスサイトリクエストフォージェリの脆弱性

 せっかくなんで、前回のエントリとの関連で感じたことを書きます。

 今回のトラブルで私は同様の症状のある方をなかなか見つけられなかったんですよね。Googleで検索してもまったくなくて、だから原因が特定しにくくてえらく手間取ってしまいました。それもそのはずです。ファームウェアの公開から2日くらいしか経っていなくて、しかもTwitterが不安定という症状なんですから。つまり、現状、この手の話題の周知が最もしやすくて早いTwitterが使いにくいということは、そもそも、この症状をすぐ知らせる手段が閉じられてしまっているんですよね。

 私のようにブログに書くということもできるのでしょうけど、それはこの程度の症状だと敷居が高いし。Facebookで書いても、やはりセミクローズドなSNSですし、実名性であるがゆえに個人の実生活の興味に紐づいていますから、E-MOBILEユーザーで同じ機種を使っている人でもない限り、なかなか「いいね!」を押す気にはならないでしょう。つまり、この手の情報はある枠で閉じられてしまって、他の人にはなかなか知れ渡らないんですよね。

 その点、Twitterは基本はミニブログでオープンですし、たとえリツイートされなくてもYahoo!のリアルタイム検索にも拾われるので、相当に地味なことでもとりあえずはリアルタイムな情報としてネット上に示すことができます。また、ハッシュタグを使えば、友達や知人、フォロー、フォロアー関係を超えて、趣味や興味でつながることが可能です。今回は、そのTwitterが使いにくくなっているのが相当痛かったです。結局、同じ症状の方を見つけたのは、他ならぬTwitterでしたし。

 前のエントリで書いた、

長文を必要としない敷居の低さもあるし、拡散力は段違いですし。このTwitterの持つ、いろんな意味で手軽であるという性格は、為政者にとっては相当な脅威なのでしょう。もしかすると、現実に自国にある政治団体やFacebookやブログで行われる主張よりも、Twitterというソーシャルメディア自体に対する潜在的な恐怖は、ずっと上なのかもしれません。

 ということに関連して言うなら、なるほどなあ、やっぱり、私が全体主義国家の為政者なら、何よりもまずTwitterを封じるなあ、と実感する出来事でした。そういう意味では、為政者にとって「Twitterが重すぎる」ということで、おあとがよろしい感じになりました。

 ともあれ、早く改善されないもんですかねえ。では、よい休日を。

追記1(2月5日):原因はわかりませんが、私の環境では安定しました。

追記2(2月5日):Twitterでの報告がまとまっています。ご参考に。
Pocket WiFi GP02 バージョンアップで twitter が重い・遅い  - Togetter

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2012年2月 1日 (水)

今、あらためて、インターネットの自由と匿名性について思うこと

 海の向こうではSOPAやPIPAへの抗議のためにWikipediaがブラックアウトをしたり、Twitterが各国の法律に従って検閲を行うこともあり得るという方針を発表し、その方針に抗議するために「#TwitterBlackout」というハッシュタグを使って、逆にユーザーがブラックアウトするという行動に出たり、インターネットの自由は今すこし曲がり角に来ているように思います。

 今回のTwitter社の発表については、今、全世界でサービスを提供しようとするならば仕方がないと思う部分もあって、メリット、デメリットを最悪のケースまで考えてどちらをとるかという問題なのだろうと思います。アメリカの有識者の論議で言えば、どちらかと言えば、「Twitter社は現在の残念な実態を教えてくれているのだと思う」と述べ、Twitter社の発表に一定の理解を示した電子フロンティア財団のシンディー・コーン氏の意見に近いです。(参照:Twitter「検閲」は批判されるべきか - WIRED.jp

 これにはアラブの春で果たした役割も関係しているのでしょう。また、スマートフォンや低価格のネットブックなどの登場で低価格なインターネットデバイスが多くの人々に行き渡った、あるいは、今後行き渡るだろうということも関係あるのだろうと思います。そうして見た場合、とりわけTwitterは、統治する側から見ると、民衆を支援する非常に力強いツールとして見えることも関係しているのだろうと思います。

 為政者にとっては、もしかすると実名性のFacebookよりも、ある一定レベルで匿名性を担保するTwitterにより脅威を感じているのかもしれないな。そんなことを、昨晩、Twitterでつぶやきながら考えたりしました。

 大雑把な言い方になりますが、欧米や日本などの民主主義社会の成熟期に入っている国にいると、とかく匿名であることのデメリットが喧伝されがちですが、でも、民主主義はある意味で匿名性の獲得が命題だったりするんじゃないかと思います。選挙制度がまさにそうです。

 また、身近な例では、たとえばラジオ番組のお便り紹介。多くのお便りはペンネームですよね。あのラジオ番組の自由さは、よほどのことがない限り公には実名が公表されることがないということが担保しています。もし、ラジオ番組で「お便りをお待ちしています。その場合は本名でお願いします」とアナウンスしたら、匿名性を利用して悪いことをしようだなんて思っていなくても、ほとんどの人がお便りを送らないのではないでしょうか。

 いやいや、インターネットにおいては、本質的には匿名性はないんだ、という意見もあるでしょう。でも、それはラジオ番組でも同じことです。単に、リスナーがラジオ局を信頼しているだけのことです。また、完全匿名だけが匿名性ではなく、匿名性にもグラデーションがあると思うんですね。IPを調べれば特定できると言っても、特定するという一手間があります。じゃまくさいというのは、それだけで力です。それに、普通につぶやいていれば、少なくとも実名はわからないという状態をずっと続けることができますし。

 実名性のFacebookは自由を求める運動家にとっては力強いツールになりますが、これは一般の人にとっては、じつは足枷になるでしょう。その運動を支持し、拡散させていくためには、むしろある一定限度で匿名性が維持できるTwitterのほうが都合がよいのではないでしょうか。それに、長文を必要としない敷居の低さもあるし、拡散力は段違いですし。このTwitterの持つ、いろんな意味で手軽であるという性格は、為政者にとっては相当な脅威なのでしょう。もしかすると、現実に自国にある政治団体やFacebookやブログで行われる主張よりも、Twitterというソーシャルメディア自体に対する潜在的な恐怖は、ずっと上なのかもしれません。

 また、これは余談ではありますが、このことを逆に考えると、民主主義の成立要件のひとつである匿名性の獲得がある程度のレベルで実現されている成熟社会では、セミクローズドのFacebookの中だけでなく、オープンな公空間としてのインターネットにおいて、実名でいかにものが言えるかが自由のひとつの指標になるという段階に入っているのかもしれません。もちろん、それだけではないとは思うし、欧米的な市民とか個人とか、その考え方がはたして普遍であるかということも検証もしなければならないでしょうけど。

 そんな視点で、日本という国でインターネットを利用し、そこで発信する、一インターネットユーザーとして、海の向こうの動向を眺めています。

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