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2012年3月の4件の記事

2012年3月11日 (日)

前を見る

 前途洋々、前向き。そのとき、前が意味するところは、未来。けれども、以前、1年前の出来事、というように、前という言葉を過去の意味で使われることもあります。

 前は未来か過去か。そんな疑問を持ったことって、ありませんか。

 「まえ」という言葉は、目を意味する「ま」と、方や辺を意味する「へ」が合わさってできたそうです。つまり、顔の目がついている方、目線が向いている方向が「まえ」というのが、前です。前という言葉は、本来は過去や未来を表す言葉ではなく、人の身体の前後左右を規定する言葉。主体はあくまでも人なんですよね。

 道を歩いている人をイメージすると、とてもわかりやすいです。道を歩いている時、その人の目に映っているものは、まだその人が歩いたことのない道や、訪れたことのない場所の風景です。立ち止まって道を振り返ると、目の前に広がっているものは、今まで自分が歩いて来た道や風景。道を時間に置き換えれば、前という言葉がなぜ未来と過去という、まったく逆の意味を持つ双方の意味に使われるのかがわかるような気がします。

 これは、ただのレトリックに過ぎないかもしれませんが、目がついている方、目線が向いている方向という、前という言葉が持つもともとの意味に忠実に考えるなら、頭の後ろに目がついていない限り、人は、前しか見ることしかできない生き物です。前向きであろうと、後ろ向きであろうと、人は、人である限り、前を見ている。そして、前を見るということは、未来ばかりでなく、過去を見つめるということもちゃんと意味してる。

 前という日本語って、しみじみいい言葉だよなあ、とあらためて思いました。

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2012年3月10日 (土)

今、広告業界に進みたいんですっていう学生さんに居酒屋でなにか話すとしたら

 何を言うんだろうなあ。

 いろいろ難しいなあ。社会も広告も、ここ10年くらいでずいぶん変わったからなあ。これ、ほんとに変わったなあと思うんですよ。たとえばね、この文章を読んでくれてますよね。どうも、ありがとうございます。文章は読まれてなんぼなので、すごくうれしいです。でもね、これはよくよく考えてみると、この文章を読んでもらってるというのは、そのぶんほかのものを見たり聞いたり読んだりできなくなっちゃってるってことなんですよね。時間は誰でも平等に1日に24時間しか与えられてないですから。

 これ、10年くらい前では考えられなかったことなんですよね。もちろん、その頃も同人誌とかはあったよ。でもね、同人誌って手に入れるのに、ちょっと努力がいるじゃないですか。でも、このブログを読むのに努力はあまりいらないですよね。RSSに登録してもらってたら、更新の度にリアルタイムでお知らせが来ますし、ときには、twitterやfacebook、mixiなんかで、なんか広告人の人がへんなこと書いているよ、どれどれ、って感じで読まれることもあるじゃないですか。

 つまり、情報発信が特権ではなくなってしまったということなんです。それはもう、なんの特権でもなくなってしまいました。ここ数年は特にそう。これは、私なんかの書きたい、読んでもらいたい人にとっては、革命みたいな出来事だったんですよね。それは、グーテンベルクの印刷革命以来の大快挙。でもね、このことは、これまでの広告にとっては都合が悪かったんです。だって、広告なんて、ほんと、見られてなんぼ、読まれてなんぼの最たるものですから。みんながテレビを見て、新聞を読んでくれると思ってるから、安心して広告できるわけでしょ。でも、そうでもないらしいぜ、他にも見るもん読むもんたくさんあるし、俺だってテレビあまり見てないし、新聞だってあまり読んでないんだもん、でもまだ大丈夫じゃないかな、でもちょっと心配、みたいなことがここ数年の広告業界の人たちの気持ちだったんです。

 もちろん、希望はないわけではなかったんですよ。だって、逆手にとれば、広告をする側がやる気になれば、高い媒体費を払わずに情報発信ができるようになったんですから。それに、いろんな情報発信の場ができたから、いろいろなことを試せるし。こりゃいいや、っていう会社もたくさんあったと思うんですよね。これ、広告にとってはよかったことだったけど、こうなっても広告業界にとっては、ちっともよくなかったことだったりもして、食い扶持をどこに求めりゃいいの、みたいなことになったり。

 GmailとかHotmailとか使っている人は多いんじゃないでしょうか。使ってなくても、みんな名前くらいは知っていますよね。この2つのサービス、ほとんど、これまで広告だと思われるようなかたちという意味では広告はまったくしてなくて、それでもここまでの知名度とユーザーを獲得しちゃったんです。これは、ほんと当時としてはすごいことだったんです。昔はMS Officeにしても、競合のLotus Notesや1-2-3にしても、広告をしていましたからね。Lotusなんか、タレントを使ってテレビCMまで打ってましたから。でも、この2つは、それなしでできちゃったんですね。こりゃ、まいったな、ってもんです。

 僕らの世代では、広告で時代を動かしたいんです、とか、世界を変えたいんです、という人がよくいました。今もいるのかな。コピーライター志望とかだったら、言葉で世界を、みたいなことになったりしますよね。でも、そういう人には、だったらブログを書けばいいじゃないですか、って答えます。これ、嫌みではなく、本気でそう思ってます。だって、GmailもHotmailもできるんですから、世界を変えるなら、ブログを書く方が広告業界に入るより近道だったりするんですよ。でも、まあ、広告業界に入って、時代を動かしたい、世界を変えたいってプレゼンしたら、明日から来なくていいと言われますけどね。

 言われますけど、動機としては、まあ、ありだったんです。ちょっと前までは。いまも、それでもかろうじてありかもしれません。だから、みんな環境広告とか公共広告とかをやりたがったんです。私にもまだ少しはあります。隠し持ってます。でも、でもね、思うんですけど、今までのやり方ではたぶんむずかしんだろうなと思っています。時代が違うし、メディア環境も、あまりに違いすぎます。何と違うのかっていうと、僕たちの先輩方がつくってきた、キラ星のような広告が成り立っていた状況と。

 お手本にはできると思うんです。そこからいろんなものを吸収できるとも思います。でも、アウトプットは別の何かであるはずです。それは、どちらかというと、その時代の変化のはざまに生きてきた僕自身の問題意識かもしれないですね。僕には、バブルの呪縛があります。消費マインドとか、消費についての態度だったり、そんなこんなに重い課題を抱えています。それは、もしかすると、若い人にはないかもしれませんね。

 という意味では、いつの時代でもそうだと思うんだけど、若いということは、それ自体希望だったりするんですよね。俺が、私が、新しい方法を見つけたる。そんな人は、はっきりと広告業界に来てほしいなあと思います。他の業界に行くより、広告業界に来てほしいです。時代を動かしてください。世界を変えてください。これはいい、時代を動かすはず、世界を変えるはず、という商品やサービスをちゃんと知ってもらって広めること。それが、広告が時代を動かす、世界を変えるということですから。

 新しい方法を見つけたる、ということが、たぶん、今の広告に必要な資質なんだろうなあ。そう。そう思います。これまでは、動機としては、自己表現が強かったんです。あの人みたいなコピーを書いてみたい。あんな素敵なデザインをしてみたい。はっきり言えば、それでよかったんですよね。課題を解決するよろこびとか、そんなプロフェッショナルっぽい挟持は、あとからついてくるものですから。でも、今は、それだけじゃきつい。そんな気がします。

 商品や広告をとりまく状況も複雑になりましたし、目標設定も多種多様になりました。また、これまでは生活者の心をつかめばよかったように思いますが、今はそれだけでは無理。専門用語で、インサイトって言うんですが、インサイト一発でモノやコトが動くことほど単純な社会ではなくなりました。というか、新しい商品を求める生活者のインサイト自体が見つけにくくなってきています。個人的には、インサイトをベースにしつつも、その先の段階、コンテキストに高める必要があると思っています。たとえば、PCの延長線であったタブレットPCをPCとは切り離し、見るため、楽しむためのビューワー的ツールというコンテキストに変えたからこそ、iPadは受け入れられた。そんなことです。

 新しい方法を見つけたいです、って。そうですか。それはよかった。では、最後に、いろいろ具体的な話を。

 一言で新しい方法って言うけれど、それは、今までも、いろんな人たちが試みてきたものでもあるんですよね。ソーシャルメディアなんかが急速に発達してきて、あれっ、これは駄目なんじゃないの、これやったら信頼なくしちゃうよ、ということが新しい方法として喧伝されることが多いんですね。でも、そういうのって、ブームの後、かならず問題になって消えていくから、そんなに問題にしなくてもいいのかもしれませんが。

 どれだけ世の中が変わっても広告は広告なんです。広告とは、メディアを使って不特定多数に商品やサービス、あるいは企業のメッセージを伝えるということ。それは変わりません。メディアという変数が変わるだけ。だから、あえて辛気くさい言葉を使いますが、健全な社会にとって広告はどうあるべきか、っていうことを自らが問うていかないといけないことは、今も昔も変わりません。

 最近、流行語になったステマっていうのがあるじゃないですか。読者を偽って、ある業者がソーシャルメディアに投稿をしていたっていう、あれです。あれ、どうして駄目なのか。情報の信頼性を損なうからなんですよね。広告は、情報の信頼性が担保されて、はじめて社会で成り立つものです。いくらものが売れるからといって、それは自らの首を絞めることになります。もうひとつ、広告の場であるメディアの信頼性も損なってしまうこと。広告の意図を隠して読者を装った投稿がたくさんあるメディア、楽しくないですよね。つまり、そんなメディアは淘汰されてしまうんです。

 だったら、悪いのはメディアの広告モデルなんじゃないですか、っていう考え方もありますよね。でも、私はそうは思わないです。というより、広告モデルであることは、メディアにある種の社会性を与えると思ったりもしています。広告があるからこそ、その社会とのバランスを絶えず問われるんですよね。問われることこそが、メディアにとっての社会性、あるいは公共性ではないかと思うんです。それは、Googleとかの動向を見ていても、そう思います。もし、Googleが課金モデルだったら、検索結果にGoogleの意向がもっと反映されるはず。その意向に共感する人だけが使えばいい、ということになりますよね。

 同時に、表現についても、他のどの表現よりも強い公共性が広告には求められます。現場に出れば、それが具体的な規制として迫ってきますし、できれば、表現する人自身にもある種の公共感覚は強く持ってほしいなあと思います。でも、それは萎縮することではないんです。例を出しますね。森林伐採に反対する広告。女の子の髪の毛の半分をバリカンで刈っていくんです。もうひとつ。拳銃所持に反対する意見広告。赤ちゃんが部屋で遊んでいて、部屋にあった拳銃を手にとり、口もとへ。その表現は残酷だ、という苦情もあったんですね。でも、その表現には強い公共性があります。そう考えるとき、それは社会に対して主張しなければならない。それは、広告の公共性を主張することでもあるのです。

 書き出したら、いろいろ話すことはあるなあとは思いますし、まだまだ話せそうですね。でも、居酒屋さんでこんな話ばかりされたら困っちゃうかもですね。私は、わりとそういうタイプだったりもします。もし、お話する機会がありましたら、そのありたは大目に見てやってください。これまで書いてきたことも、そんな、これから広告業界に入りたい人に向けている部分もありますので、もし興味があったら過去ログも探ってみてくださいませ。ひとつひとつのエントリが、悩みながら、迷いながら、とりあえず出した答えだったりもしますので、この人の言ってること間違ってるよねってのもありです。私も、まだまだ考えていきたいです。試行錯誤を続けます。

 お互い、がんばりましょう。

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2012年3月 8日 (木)

俳句は短歌の後にできた

 より短い形式である俳句のほうが短歌より後にできた。これ、ちょっと不思議な感じがしませんか。普通、シンプルな形式がより複雑化するのが道理な感じがしますよね。でも、日本の定型詩の歴史で言えば、俳句が後というのは、概ねこれは事実であるようです。あまり私は詳しくはありませんし、この分野はいろいろ説があるようにも思いますが、少なくとも、きちんとした定型詩の形式として成立という意味では、短歌が先で俳句はかなり後になってから、ということは言えると思います。

 でも、これはジャズの歴史でも同じなんですよね。これも大雑把な捉え方になってしまいますが、ジャズの発祥と言われるデキシーランドジャズなんかは複数のホーンと、ベース、ドラム、ギターかバンジョーというような中編成のバンドが多かったですし、その後、商業音楽として成功したジャズはビッグバンド形式でした。

 大きなホールや酒場でビッグバンドで演奏されていたジャズですが、小さな酒場でもジャズを取り入れたいというニーズができきたんですね。で、トリオやカルテットという小編成のジャズバンドが誕生するわけです。小編成でも、ビッグバンドのスィングやグルーブを再現するために、音の厚みをカバーするかのように、より複雑でダイナミックなソロが取り入れられました。これが、ビバップです。

 このビバップにより、ソリストは自由を獲得していきます。これまでのバンドマスターから、ソリストがスターになる時代がやってきます。ビバップの時代にチャーリーパーカーやバドパウエルのような天才ソリストがたくさん輩出されました。その天才がビバップをつくったということと同時に、より編成が小さくなったビバップという音楽形式が天才をつくった、とも言えると思います。

 短歌、俳句は、基本的にはひとりの人がつくる芸術ですが、もしかすると同じようなことが言えるのかもしれません。短歌は上の句と下の句に分かれ、基本、状況とその状況についての私の思い、という構成になりますよね。しかし、その上の句だけを切り取った俳句は、状況を描くことだけで思いまで伝えるということになります。それは、思いを言葉にするということを禁じてしまう分だけ、厳しく私の資質が問われることになります。つまり、俳句という最短の定型詩の成立には、これまでの短歌や連歌をはじめとする和歌という定型詩ジャンルの成熟があったと思うのです。

 俳句は短歌の後にできた。あるいは、ビバップはビッグバンドジャズの後にできた。

 これは、不思議でもなんでもなく、きっと必然なんだろうと思います。定型詩にしても、ジャズにしても、そのジャンルが成熟する段階で必ずsubtraction(引き算)が起ります。それは、つまり、subtractionが可能になると言い換えてもいいのかもしれません。subtractionには勇気がいります。subtractionによって残されたものは、そのものだけで世に問えるだけの価値のあるものなのか。ある。そう言える自信がなければsubtractionなんてできやしないのだから。

 また、そう言えてはじめてsubtractionが必然になります。なぜなら、そう言えてはじめて、他の価値とのaddition(足し算)が自らの価値の相殺として機能してしまうと思えるようになるのですから。他の価値とまざってしまうのは、もうごめんだ、かんべんしてよ、と。

 たぶん、この必然は、定型詩やジャズという芸術分野だけでなく、テレビやスマートフォンをはじめとする工業製品をはじめとするあらゆる消費材、居酒屋やファーストフードをはじめとするあらゆるサービスにも当てはまるような気がします。

 今の消費社会を、バブル期を基準として不景気による後退と見るか、それとも、ある種の成熟と見るか。そのことが、あらゆることを考えるうえで鍵になってくるように思います。それによって、結論も、今後の行動も、すべてが変わってきますから。で、私はどう考えているかって?もちろん。私は成熟である考えています。

 きついけど、自分も含めて、みんな成熟してしまったんだし、たぶん、もう戻れないんだから、やるしかないんだろう。そんなふうに考えています。

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2012年3月 4日 (日)

コンテクストは同じでも、twitterというコミュニケーションの場がつくるモードの中では、表現は生っぽくなる

 というわけで実証。

 状況としては、土曜の深夜、はてなブックマークの新着エントリーで知ったYouTubeのビデオクリップを見て、あっ、これいいなと思ってツイートしたのがきっかけ。KNOTSさんは、なかなか人気のある作家さんみたいですが、私ははじめて聞きました。タイトルが「年越しセックス」というものなのですが、なんか2011年という年を考えると、ああ、確かになあ、そういう気分かもなあと思ったりしました。

 
 で、歌詞や音作りが私の世代になじみがある感じで(Yukiさんの曲なんかに通じるものがありますね。90年代のクロスオーバーな音というか)、こんなツイートをしました。

なかなかよい歌&よい映像。タイトルはあれですが、おすすめ。ちょっと懐かしい音ですね。 / “年越しセックス/KNOTS” http://htn.to/k8SNek

 ということがあり、また、同時に、広告コミュニケーションまわりでいろいろ考えているものの、なんとなくブログに書くにはもう少し寝かせたりしないとなあ、という思いもありながら、たまたまそれがつながって、いきおいでツイートしてみたわけですね。連続性のあるツイートですが、あらすじを頭の中で描いているわけでもなく、書いては展開みたいな感じで、推敲もあまりしていません。元ツイートはこちらでどうぞ。

これぞテレビCMというようなものは別だけど、テレビCMでもセンスよくがんばってみました、いいでしょ、これ、コマフォト載るかもかも、賞とれるかもかも的なものは、YouTubeで流れている個人制作のビデオクリップに負けちゃってるものなあ。まず、動機が違う気がするんです。

言葉だってそう。生活のなにげない気付きや心のつぶやき的な言葉は、80年代以降、広告コピーが得意としてきたし、いまだにコピーライターはそんな言葉にあこがれていろんな商品にあてはめたりしてるけど、この分野では、もうtwitterでときたま流れてくるツイートとかに完敗してると思う。

コピーライターの自負は、生活インサイトを言葉にする、言葉にできる、みたいなことだったんだけど、そんなものはコピーライターが独占してるものでもないわけであって、ネットはそんな表現の部分も、独占から解放したんですよね。

ここ最近の関心領域とあわせて言えば、それは、写植版下からDTPへ、銀塩からデジタルへ、という、あの時が転換点だったと思います。広告で言えば、本当に負けたのは、プロを自負する僕らの本気の表現であって、いいでしょ、これ、本来は広告ってこうあるべきなんだよな、という広告だと思うんです。

これはあまりみんな言わないことだけど、マス広告で言えば、唯一生き残ったというか、絶対領域なのはタレント広告ですよね。タレント広告だけはあいかわらず元気なんです。考えてみれば当たり前で、表現の市場開放のあとでも独占できるのは、こういうタレント広告的なものしかないですから。

で、ね、負けてばかりはいられへんやんか、というのと、でも、ほんとうは負けているよね、こういうYouTubeの映像っていいやん、すてきやん(紳助さんみたいですが)ということを前提にして、もう一度広告を考えていきたいっていうのが、僕のテーマだったりして。

これもなかなか言い切る人もいないけど、広告なんかなくなるわけないんですよ。自営で飲食とかお店とかやってる人ならわかると思うけど、どこかのタイミングでなんらかの形で広告をしなきゃいけないフェイズってあるわけで、その前提で広告の言葉って、表現ってなんだろみたいなことを考えるわけです。

ネット系以外の広告の制作者って、あまりこういうことをtwitterでつぶやかないじゃないですか。それは、私がネット好きというのもあるけど、なんていうかな、こういう夜中のツイートって生活インサイトの表現に近いものがあって、どこかでそれが独占物だと思っているからな気がするんですね。

でも、それはもうとっくに独占物じゃなくなっちゃったんです。twitterはリアルの属性が反映する部分があるから、いままでどおりでもなんとかやれる気もしてしまうんだけど、でも、もう表現は解放されちゃいましたよね。そこで、どうするか。解放されたところからはじめるしかないんです。

僕は最近、若い人に70年代以前のCMとか広告を見る方がいいよ、と言っています。それは、広告がサブカルチャーではなくて、きちんと広告だった時代の広告だから。そこから学ぶことはたくさんありますし、自分自身も新しい発見が多いです。

自分自身も、いろいろ回り道だったり、迷路だったり、ややこしい感じで右往左往しちゃってますが、もういちど、そこからはじめてみようと思ったりしています。なんか、書いてて思いましたが、こういうことを書くのは、ブログよりtwitterがいいみたいですね。

 単純誤植は修正してありますが、まあ、こんなことを書いているわけですね。ちなみに、このツイートに関しては、一連のツイートを書き上げてから、返信をしたりしたので、返信して考えが展開されるみたいな要素はあまり入っていません。

 こういう見せ方はTogetterで簡単にできますし、ブログでもツイートを掲載している方も多いと思いますが、あまりツイートを掲載したりしないこのブログでやってみると、いつもブログで書いている表現と、twitterという場での表現の差がはっきりわかるんじゃないかな、と思い、やってみた次第です。まあ、それと、せっかく書いたのだし、ブログでも載せてやれ、みたいなスケベ心もなきにしもあらずですが。

 個人的には、エントリのタイトルにあるように、ずいぶん生っぽいなあと思いました。でも、まあ、主張自体は、このブログで書いてきたこととそれほど違わないです。ということは、twitterでは“表現”が少し生っぽくなるということですね。それは、twitterが140字の制限があるということと、オープンな場ではあるけれど、少なからず、フォロー、フォロアーという、ある程度は自分が把握できる関係値の中で書いているということもあるのでしょうね。

 ちょっと真面目に言うと、このブログで「表現の問題」という表現で言ってきたことのひとつには、こういうことが少し関連しています。つまり、広告コミュニケーションに限定して言えば、メディアが多様化してきた今、コミュニケーションの場にはいろいろあって、その場は、それぞれモードが違います。そのモードが違う中では、そのモードに最適化した語り方というものがおのずからあるわけで、そのことを身を持って示すことができるかな、と。もちろん、ツイートをした時点でそんなことはまったく考えていないわけで、事後的にですが。

 それと、もうひとつあります。語り方はモードによって最適化する限り違ってくるけれど、語りたいこと、つまり、語りのコンテクストは違わないんですよね。ブログであろうと、twitterであろうと、それに、私の場合は、リアルでも、ほぼ同じコンテクストなわけです。実際に会ったら、まったく違うことを言ってたよ、ということは私の場合はまあ、ほとんどないです。これは、自分で言うことではなく、他人が評価することではあるんですが、まあ、自己評価としては、この分野については、そうかな、と。

 こういうこと、私が広告の仕事を始めた頃は、あまり意識はしていなかったんですよね。広告とカタログは違うよ、とか、店頭はもっとこんな感じで、みたいな話はありましたが。今はもっと細分化されていますよね。もちろん、今でも、メディアをクロスして使わなければ意識はしなくていいんですが、そういうわけにはいかないこともたくさんありますよね。それに、そういう多様化で、もうマスメディアという場のモードも変容してきているわけですし。

 今まで通りではしんどいよなあ。それが、私のベースというか、通奏低音なわけです。とまあ、元ベーシスト的なちょっと格好をつけた言い方をしてしまうところは、ブログという場がつくるモード故なんでしょうね。ちなみに、こういう通奏低音という言葉の使い方は、音楽的にはちょっと違うらしいですよ。調べてみたらちょっと面白いです。

 では、引き続き、よい日曜日を。

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