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2012年3月 4日 (日)

コンテクストは同じでも、twitterというコミュニケーションの場がつくるモードの中では、表現は生っぽくなる

 というわけで実証。

 状況としては、土曜の深夜、はてなブックマークの新着エントリーで知ったYouTubeのビデオクリップを見て、あっ、これいいなと思ってツイートしたのがきっかけ。KNOTSさんは、なかなか人気のある作家さんみたいですが、私ははじめて聞きました。タイトルが「年越しセックス」というものなのですが、なんか2011年という年を考えると、ああ、確かになあ、そういう気分かもなあと思ったりしました。

 
 で、歌詞や音作りが私の世代になじみがある感じで(Yukiさんの曲なんかに通じるものがありますね。90年代のクロスオーバーな音というか)、こんなツイートをしました。

なかなかよい歌&よい映像。タイトルはあれですが、おすすめ。ちょっと懐かしい音ですね。 / “年越しセックス/KNOTS” http://htn.to/k8SNek

 ということがあり、また、同時に、広告コミュニケーションまわりでいろいろ考えているものの、なんとなくブログに書くにはもう少し寝かせたりしないとなあ、という思いもありながら、たまたまそれがつながって、いきおいでツイートしてみたわけですね。連続性のあるツイートですが、あらすじを頭の中で描いているわけでもなく、書いては展開みたいな感じで、推敲もあまりしていません。元ツイートはこちらでどうぞ。

これぞテレビCMというようなものは別だけど、テレビCMでもセンスよくがんばってみました、いいでしょ、これ、コマフォト載るかもかも、賞とれるかもかも的なものは、YouTubeで流れている個人制作のビデオクリップに負けちゃってるものなあ。まず、動機が違う気がするんです。

言葉だってそう。生活のなにげない気付きや心のつぶやき的な言葉は、80年代以降、広告コピーが得意としてきたし、いまだにコピーライターはそんな言葉にあこがれていろんな商品にあてはめたりしてるけど、この分野では、もうtwitterでときたま流れてくるツイートとかに完敗してると思う。

コピーライターの自負は、生活インサイトを言葉にする、言葉にできる、みたいなことだったんだけど、そんなものはコピーライターが独占してるものでもないわけであって、ネットはそんな表現の部分も、独占から解放したんですよね。

ここ最近の関心領域とあわせて言えば、それは、写植版下からDTPへ、銀塩からデジタルへ、という、あの時が転換点だったと思います。広告で言えば、本当に負けたのは、プロを自負する僕らの本気の表現であって、いいでしょ、これ、本来は広告ってこうあるべきなんだよな、という広告だと思うんです。

これはあまりみんな言わないことだけど、マス広告で言えば、唯一生き残ったというか、絶対領域なのはタレント広告ですよね。タレント広告だけはあいかわらず元気なんです。考えてみれば当たり前で、表現の市場開放のあとでも独占できるのは、こういうタレント広告的なものしかないですから。

で、ね、負けてばかりはいられへんやんか、というのと、でも、ほんとうは負けているよね、こういうYouTubeの映像っていいやん、すてきやん(紳助さんみたいですが)ということを前提にして、もう一度広告を考えていきたいっていうのが、僕のテーマだったりして。

これもなかなか言い切る人もいないけど、広告なんかなくなるわけないんですよ。自営で飲食とかお店とかやってる人ならわかると思うけど、どこかのタイミングでなんらかの形で広告をしなきゃいけないフェイズってあるわけで、その前提で広告の言葉って、表現ってなんだろみたいなことを考えるわけです。

ネット系以外の広告の制作者って、あまりこういうことをtwitterでつぶやかないじゃないですか。それは、私がネット好きというのもあるけど、なんていうかな、こういう夜中のツイートって生活インサイトの表現に近いものがあって、どこかでそれが独占物だと思っているからな気がするんですね。

でも、それはもうとっくに独占物じゃなくなっちゃったんです。twitterはリアルの属性が反映する部分があるから、いままでどおりでもなんとかやれる気もしてしまうんだけど、でも、もう表現は解放されちゃいましたよね。そこで、どうするか。解放されたところからはじめるしかないんです。

僕は最近、若い人に70年代以前のCMとか広告を見る方がいいよ、と言っています。それは、広告がサブカルチャーではなくて、きちんと広告だった時代の広告だから。そこから学ぶことはたくさんありますし、自分自身も新しい発見が多いです。

自分自身も、いろいろ回り道だったり、迷路だったり、ややこしい感じで右往左往しちゃってますが、もういちど、そこからはじめてみようと思ったりしています。なんか、書いてて思いましたが、こういうことを書くのは、ブログよりtwitterがいいみたいですね。

 単純誤植は修正してありますが、まあ、こんなことを書いているわけですね。ちなみに、このツイートに関しては、一連のツイートを書き上げてから、返信をしたりしたので、返信して考えが展開されるみたいな要素はあまり入っていません。

 こういう見せ方はTogetterで簡単にできますし、ブログでもツイートを掲載している方も多いと思いますが、あまりツイートを掲載したりしないこのブログでやってみると、いつもブログで書いている表現と、twitterという場での表現の差がはっきりわかるんじゃないかな、と思い、やってみた次第です。まあ、それと、せっかく書いたのだし、ブログでも載せてやれ、みたいなスケベ心もなきにしもあらずですが。

 個人的には、エントリのタイトルにあるように、ずいぶん生っぽいなあと思いました。でも、まあ、主張自体は、このブログで書いてきたこととそれほど違わないです。ということは、twitterでは“表現”が少し生っぽくなるということですね。それは、twitterが140字の制限があるということと、オープンな場ではあるけれど、少なからず、フォロー、フォロアーという、ある程度は自分が把握できる関係値の中で書いているということもあるのでしょうね。

 ちょっと真面目に言うと、このブログで「表現の問題」という表現で言ってきたことのひとつには、こういうことが少し関連しています。つまり、広告コミュニケーションに限定して言えば、メディアが多様化してきた今、コミュニケーションの場にはいろいろあって、その場は、それぞれモードが違います。そのモードが違う中では、そのモードに最適化した語り方というものがおのずからあるわけで、そのことを身を持って示すことができるかな、と。もちろん、ツイートをした時点でそんなことはまったく考えていないわけで、事後的にですが。

 それと、もうひとつあります。語り方はモードによって最適化する限り違ってくるけれど、語りたいこと、つまり、語りのコンテクストは違わないんですよね。ブログであろうと、twitterであろうと、それに、私の場合は、リアルでも、ほぼ同じコンテクストなわけです。実際に会ったら、まったく違うことを言ってたよ、ということは私の場合はまあ、ほとんどないです。これは、自分で言うことではなく、他人が評価することではあるんですが、まあ、自己評価としては、この分野については、そうかな、と。

 こういうこと、私が広告の仕事を始めた頃は、あまり意識はしていなかったんですよね。広告とカタログは違うよ、とか、店頭はもっとこんな感じで、みたいな話はありましたが。今はもっと細分化されていますよね。もちろん、今でも、メディアをクロスして使わなければ意識はしなくていいんですが、そういうわけにはいかないこともたくさんありますよね。それに、そういう多様化で、もうマスメディアという場のモードも変容してきているわけですし。

 今まで通りではしんどいよなあ。それが、私のベースというか、通奏低音なわけです。とまあ、元ベーシスト的なちょっと格好をつけた言い方をしてしまうところは、ブログという場がつくるモード故なんでしょうね。ちなみに、こういう通奏低音という言葉の使い方は、音楽的にはちょっと違うらしいですよ。調べてみたらちょっと面白いです。

 では、引き続き、よい日曜日を。

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