「読者のみなさま」と内向化するメディア
テレビ朝日の報道ステーションで朝日新聞の謝罪会見を見ていたとき、あるフレーズに違和感を持ちました。それは、吉田調書スクープ報道についての謝罪の後、従軍慰安婦問題での吉田証言についての謝罪の言葉の中の結びの部分です。
「訂正が遅きに失したことについて読者のみなさまにおわび申し上げます」
語られた言葉の一部分を切り取ってあれこれ語るのはあまりよくないとは思いますので、該当部分を正確に書き起こすと以下のようになります。
「記事を取り消しながら謝罪の言葉がなかったことでご批判をいただきました。裏付け取材が不十分だった点は反省しますとしましたが、事実に基づく報道を旨とするジャーナリズムとしてより謙虚であるべきであったと痛感しております。そして吉田氏に関する誤った記事を掲載したこと、そしてその訂正が遅きに失したことについて読者のみなさまにおわび申し上げます」
私が違和感を持ったのは、「訂正が遅きに失したこと」を「読者のみなさま」に謝罪、という部分だったのですが、全体を読むと謝った記事を掲載したこと、つまり、誤報を謝罪するとも読めるので、とりあえず「訂正が遅きに失したこと」という部分についての違和感は私自身のうがった見方も多少は影響しているのかな、とも思いました。で、朝日新聞DIGITALの当該記事を見てみると、
一方、朝日新聞社が過去の慰安婦報道で、韓国・済州島で慰安婦を強制連行したとする吉田清治氏(故人)の証言を虚偽と判断し、関連の記事を取り消したことについて、木村社長は「訂正が遅きに失したことについて読者のみなさまにおわびいたします」と語りました。
吉田調書「命令違反で撤退」記事取り消します 朝日新聞DIGITAL(2014年9月12日03時02分配信)
となっていて、やはり「訂正が遅きに失したことについて読者のみなさまにおわびいたします」となっていて、あえてこのフレーズが印象に残るような工夫はされているようです。朝日新聞としては、あくまで「訂正が遅きに失したこと」を「読者のみなさま」に謝罪したという印象が残るようにしたいと多少は思っているとは言えそうです。
この記事がウェブで配信された5分後に配信された朝日新聞社長名義の記事の見出しには「みなさまに深くおわびします」とあります。この記事は、本紙の1面にも掲載されたものなので、本紙を読んでいる時点で読者ということは自明なので省略したのではないかと思いますが、その一方で、大きなサイズのフォントで組まれる見出しに謝罪を限定する「読者」という言葉を使うことへのためらいも感じられます。同記事の英語版には「I apologize to our readers and other people concerned By TADAKAZU KIMURA/ President of The Asahi Shimbun」とあります。「to our readers and other people concerned」つまり「私たちの読者のみなさまと関係するみなさま」となっています。日英双方の記事を通して言えることは、少なくとも日本国内においては、大きな見出し多少のためらいは持ちつつも、朝日新聞にとって「読者のみなさま」という言葉は、かなり重みのあるものだったのだと言えそうです。
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なぜ朝日新聞は、テレビをはじめ様々なメディアで報道される謝罪会見の場で、あえて「読者のみなさま」という言葉にこだわったのか。その謎解きは、ある程度はできます。
「訂正が遅きに失したことについて読者のみなさまにおわび申し上げます」
この文章から「読者のみなさまに」という部分を削除するとこうなります。
「訂正が遅きに失したことについておわび申し上げます」
となると、公の謝罪会見における謝罪の言葉としてはより自然になりますが、不特定多数への謝罪と比較して、今度は「訂正が遅きに失したことについて」が軽く見えてしまいます。つまり、文章に自然さがなくなるのです。これでは、この部分だけではフレーズとして独立させることはできません。「読者のみなさまに」という言葉を抜いて引っかかることのない、より日本語として自然な文章にするためには、
「記事を取り消しながら謝罪の言葉がなかったことでご批判をいただきました。裏付け取材が不十分だった点は反省しますとしましたが、事実に基づく報道を旨とするジャーナリズムとしてより謙虚であるべきであったと痛感しております。そして吉田氏に関する誤った記事を掲載したこと、そしてその訂正が遅きに失したことについておわび申し上げます」
と、ここまでしっかりと引用しなければ文章として自然にはなりません。すると、「吉田氏に関する誤った記事を掲載したこと」つまり誤報を謝罪という印象が強くなります。朝日新聞としては、一度、公式に本紙で記事を取り消している以上、あらためて誤報を謝罪するという、誤報の強調は避けたかったのではないか。少し考え過ぎではないかと思われるかもしれませんが、まあ自社の存亡にかかわる事態です。たぶん考えているでしょう。
それは、ある程度は成功しているようにも思えます。この観点で言及し批判しているのは、私の見た範囲では、自民党の石破地方創世相がBS日テレの「深層NEWS」だけでした。読売新聞の記事を引用すると、
いわゆる従軍慰安婦問題の一部記事についての謝罪には、「国際社会に与えた影響を考えると、読者の皆様におわびするという表現は、私はどうも引っかかる」と述べた。報道が外交に悪影響を与えたことを批判したものだ。
なぜ間違い起こるのか…石破氏、厳正な検証要求 YOMIURI ONLINE(2014年09月11日 23時53分)
と、問題の大きさに比して謝罪の範囲が「読者」に限定されていることについての批判となっています。朝日新聞が英語版の記事をウェブで配信しているくらいですから影響が世界に及んでいると自らが自覚しているわけですし、吉田調書の問題も吉田証言の問題も朝日新聞が主張する誤読という文脈は、総合的に考えれば無理筋な主張だと思うので、この石破氏の批判は十分に理解できます。
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ただ、もうひとつ思うのは、朝日新聞は、危機管理の観点から「読者のみなさま」への謝罪というかたちをとったという以上に、かなり本気の部分で、謝罪の対象、つまりこの問題の当事者は、「読者のみなさま」であると思っているのではないか、ということです。吉田調書の問題では、謝罪会見で朝日新聞社長はこう話しています。
東電および読者のみなさまに深くおわび申し上げます
この吉田調書の問題では、記事の内容から当然のこととして第一の当事者が東電、およびという言葉で結ばれているのでほぼ同列ではありますが第二が読者のみなさまということが読み取れます。この部分は先に挙げた朝日新聞の記事で「読者及び東電福島第一原発で働いていた所員の方々をはじめ、みなさまに深くおわびいたします。」と修正されています。ここでは新聞紙面であることから第一と第二は逆転していますが、最終的には「みなさま」で結ばれています。ここでも朝日新聞のためらいが感じられます。そこから見えてくるのは、ライブで出てしまった謝罪会見の言葉が、じつは朝日新聞の本音である可能性が高いということでないかということです。
この問題が表面化するきっかけの一つとなった週刊文春の記事でも、この「読者」という言葉は何度も出てきます。私は、週刊文春を購読しているので、もしかすると、その記事の中で幾度となく目にした「読者」という言葉とのつながりのなかで違和感を持ったのかもしれません。
長年にわたる朝日新聞ファンの読者や企業、官僚、メディア各社のトップ、ASA幹部の皆さんなど多くの方から「今回の記事は朝日新聞への信頼をさらに高めた」「理不尽な圧力に絶対に負けるな。とことん応援します」といった激励をいただいています
スクープ報道 朝日新聞 木村伊量社長のメール公開 週刊文春WEB(2014.09.03 18:00)
ジャーナリズムの精神に則った良心的な記事を送り続ける記者もたくさんいますし、すべてがそうだと言うことはできませんが、朝日新聞にとっての世界は、朝日新聞を信頼し、朝日新聞こそが日本を良き方向へ導くと考える、所謂朝日シンパだけで構成された世界だったのではないでしょうか。とりわけ、全国紙で言えば、朝日、毎日と読売、産経というように二分化され、各紙のロイヤルユーザーにとって新聞選択の重要な論点になり得る従軍慰安婦問題および原発問題においては。そこには、サイレントマジョリティー、沈黙する大多数の人たちさえ存在しなかったのかもしれません。
現社長が広告局出身であるということも多少は影響しているのでしょう。全国各地に隈無く販売店網を持つ日本の新聞は、そのリーチの広さと高さから広告媒体という意味合いが強く、広告媒体としての力が低下している現状で、ロイヤルユーザーを過剰に重視する空気が形成してしまったのかもしれません。であれば、その流れの中で、ロイヤルユーザーが最も重視する従軍慰安婦問題および原発問題の分野において、インパクトの追求、事実性の軽視が起こってもおかしくないだろうと思います。
それは、つまり、報道記事の広告化です。ジャーナリズムの精神に基づき事実を最重要視すべき報道記事が、「広告媒体としての朝日新聞」を広告する広告コンテンツに転化するという意味では、対象や目的は違えど、構造としては戦時中のプロパガンダと同じです。広く社会に向かうはずの報道が、内に閉じてしまっています。
たぶん、このメディアの内向化こそが、私の違和感の正体だったのだと思います。朝日新聞は、謝罪記事の結びにこう書いています。
読者のみなさまの信頼回復のために何が必要かを検討し、将来の紙面づくりにいかしていきます。
吉田調書「命令違反で撤退」記事取り消します 朝日新聞DIGITAL(2014年9月12日03時02分配信)
これはこれである程度評価はできるのでしょうが、やはり違和感は残ります。きっと「読者のみなさまの信頼回復のため」ではなく、実も蓋もないけれど、本来、社会に必要な報道機関のひとつである新聞社であるために何が必要かを検討し、将来の紙面づくりにいかせることができて、はじめて結果として読者がついて、読者に信頼されるわけではないですか。やはり、そこに倒錯がある気がします。と同時に、この内向化は、見えにくいけれども、かなり根が深いとも思っています。
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ここからは余談です。
これを読んでいる方は、きっと日頃からウェブに親しんでいる人でしょうから、影響の大きさや個別の事象を捨象してしまえば、同種のことはよく見かけるありふれた光景なのではないでしょうか。吉田調書や吉田証言の話ではなく朝日新聞でなければ、twitterで「またかよ」と書けばすむ話かもしれません。また、今回は朝日新聞の認識で言うところの「誤報」の影響が大きかったから見えにくかったけれど、「読者のみなさまへ」というフレーズだけとれば「ファンサイトかよ」と揶揄すればいいだけ話です。今、ウェブを眺めれば、商業メディアから個人メディアまで、「内向化するメディア」の姿はいくらでも見つけられます。
なぜ、メディアが内向化してしまったのか。理由はいくつもあるでしょう。また、その理由はこれまでに言い尽くされてしまっています。ファンの言及が可視化されたこと。ウェブにおけるコミュニケーションインフラによって、ファンとのつながりがより簡単にできるようになったこと。ずっと広告を生業としてきましたが、口コミがこれだけ可視化されるなんて、ちょっと夢のような出来事なのですね。観測範囲に自身にシンパシーを持つ人だけを集めることさえ可能になりました。ファンの囲い込みもこんなに簡単にできるとは、あの頃のマーケターは思いもしなかったでしょう。
それでいいこともたくさんありましたが、その一方で、ちょっと困ったこともたくさん起きました。今のウェブは、もっと正確に言えばコミュニケーションインフラ環境は、ウェブを使わない人にも影響を与えてしまうくらいの力は持っています。時代の空気をつくるくらいはできてしまいます。
その流れの中で、鋭角的に時代の空気を象徴してしまったのが、今回の朝日新聞の問題だと考えています。ここ最近、マスコミをにぎわせる大きな事案が立て続けに起きました。交響曲第1番〈HIROSHIMA〉、STAP細胞、号泣会見。それぞれ事案は異なりますが、構造的には同じだと思います。また、ウェブを日々にぎわせる「内向化したメディア」による炎上事案もその構造は同じです。
共通するのは、徹底的な自己肯定です。朝日新聞で言えば、この二つの「誤報」は、陰謀論的な文脈ではきっと説明できません。リスクがあまりにも大きすぎます。
それはきっと、外部を排除した自己と自己にシンパシーを持つ者、構造的には自己の分身との二者関係が無限円環する中で自己目的の遂行が肥大化し、多少の不正は取るに足らないものとして意識されないからこそ起こったことなのでしょう。もしくは、事実確認が軽視されるほどに、自己目的が肥大化してしまっていたか、どちらか。無我夢中という言葉がありますが、自己目的が肥大化するあまり、社会的な存在である私がなくなるような、まるで夢の中で行なってしまった、というのが、記事を書き、その記事を承認していった人たちの実感なのではないでしょうか。きっと、今後の朝日新聞の第三者による検証でも、世間が期待しているような明快な悪意は出ないだろうと思います。
時代の空気。それは、ある新しい状況がつくられたときにできたブームです。そして、ここ最近起きた大きな事案は、そのブームがピークに達し、ようやく終焉を迎えつつあることを示しているとも言えます。
それは、この件に関して言えば、社会のこれからにとって、唯一といっていいくらいの希望です。
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