「欠落」とラジオ
第17回目の「ギャラクシー賞入賞作品を聴いて、語り合う会」が無事終了しました。大賞受賞作「これからを見つめて〜LOVE & HOPE 3年目の春だより〜」(FM東京)と優秀賞受賞作「ラジオドラマ 想像ラジオ」(ニッポン放送)を聴く会でした。ゲストの延江さんや宗岡さんの話も興味深く、とてもよい会だったなあと思いました。個人的には、テレビでもなくインターネットでもなくラジオで、その上、あの震災から3年目の今、震災関連2番組を聴くということで、あまり多くの人は集まらないかもなあと思っておりましたが、会場で用意した席もほぼ満席で、あやうく立ち見の人が出てしまうくらいでした。ライブならまだしも、立ちながらラジオを聴くのはやっぱり辛いですものね。ほっとしました。
印象では、今回は他の会と比較して、学生さんやラジオ業界以外の方がたくさんお見えになっているようで、少し希望が見えてきたなあという感じもしました。ごくごく小さなイベントですから、これをもって全体の傾向とすることはできませんが、まず、そもそも私自身がラジオ業界人ではありませんし、ラジオメディアを取り巻く環境が日に日に厳しくなっていく中、業界の中で閉じている場合ではないと強く思いますし、広告業界もそうですが、こういう業界内での名誉になるような賞が関係するコミュニティは余計に閉じがちになるとも思いますので、こういう外の空気が気持よく入ってくるような流れが今後も続くといいなあと思っています。これは前回書いたこととも関連しますが、閉じることは本当に良くない。せっかくの賞です。賞きっかけで、開く、広がる。今後も、そういう会にしたいなあと思っています。
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「これからを見つめて〜LOVE & HOPE 3年目の春だより〜」は日頃FM東京を聴取している方はご存知かと思いますが、毎日早朝に放送されている震災支援番組「LOVE & HOPE」の年に1度の集大成的な特別番組で、東北各県の復興地に生きる人々のインタビューで構成されています。当日、生放送で放送されました。震災から3年目、テレビ、新聞、雑誌、ウェブメディア、様々なメディアが特集をしていました。その中で、音声メディアであるラジオが表現したのは、まぎれもなく東北に生きる人たちの「声」でした。映像メディアでも声は届けられるし、文字メディアでも声は記録され編集された文字として届けられますが、ラジオが届けた「声」は、より自然で生き生きとした声だったように思います。これは、あなたがラジオびいきだからじゃないの、と思われそうですが、そこにはきちんとしたメディア特性から来る理由があると思うんですね。
ラジオの現代的特性と言えるものでしょうが、現代を生きるメディアとして、あえて、当日の懇親会でお話しさせていただいたFM東京プロデューサーの延江さんの言葉をお借りすると、そこにメディアとしての根本的な「欠落」があるからです。それは、ウェブ時代に個人メディアでさえ簡単に手に入れられる映像の欠落です。あらかじめ映像が禁じられたメディア、それがラジオです。映像が禁じられた、という言葉は、加えて言えば、文字も禁じられたということを意味します。しかし、その欠落こそが現代的な意味において、ラジオというメディアの表現上の利点となり、未来に向けて、メディアとしての可能性へとなり得るのだと思います。
先の番組で言えば、インタビューされている方々の前にテレビカメラはありません。当然、照明もレフ板もなく、生放送の場合は送信機が必要ではありますが、多くの場合はアシスタントもなく小さなレコーダーとマイクを構えたラジオマンだけです。それは、メディアの進化という観点で言えば、あきらかに後退ですが、あえて後退を選ぶことで、メディアが本質的に持つ暴力性、言い換えればメディアが手に持つ武器をより少なくすることに成功しているとも言えます。
カメラは、どれだけ時代が変わっても、普通の人間にとってはある種の暴力性を持ってしまいます。私は、比較的カメラや映像に自分が記録されることの多い職場にいたことがあるのですが、私も最初カメラを向けられたときに構えてしまいました。簡単に言えば、笑顔をつくり、ピースサインみたいなことをしてしまったんですね。ほとんど無意識の反応でした。カメラを向けた人を見ると、少し嫌な表情だったんですよね。あっ、それ、欲しい絵じゃない、というような。二、三秒の出来事でしたが、そのときのことを今も覚えています。
カメラの前で自然でいること。それが私に求められていたことで、その求められたことにきちんと応えることができなかった。それが、その出来事のすべてです。そのくらいのことは、少し慣れればできてしまうことでもありますが、そこでもう一度、その最初の体験に立ち返って考えてみると、カメラの前で自然でいることと、カメラの前で構えてしまうことは、どちらが自然なのだろうとも思うのですね。カメラを向けられると構えてしまう。それが、むしろ自然なことなのではないか、とも思います。長年付き合ってきた親しい人でもなく、親でも子でもない、そんな人にカメラを向けられて構えず自然にいることを求められる状況自体、本当は、少し異常なことなのかもしれません。
昔は、テレビが一般人にカメラを向ける行為には、はっきりとした暴力性が見えました。しかし、今は、それほどでもなく、むしろ、構えることが初々しいと思えるような時代です。でも、これは、カメラを向けられても自然でいることが求められる空気の中、写される側も自然でいようとする意志とスキルがあることも多くなってきている分、カメラを向けるという暴力性の内実をより複雑なものにしてしまっていると解釈することもできます。その複雑な様相は、よりカジュアルになったウェブ動画の映像表現の中に多く見られるもののように思えます。現実に限りなく近いが故に、現実から最も遠いもの。それが、現在の映像なのかもしれません。
ラジオというメディアは、その複雑な暴力性を持つ武器を捨てることで成り立つメディアと言うこともできるかと思います。もちろん、メディアである以上、その暴力性からは逃れることができませんが、より武器を少なく、素手に近い感覚で人に接する。それが、ラジオという気がします。
番組の中で、岩手県大槌町で観光ガイドを務める少女がインタビューに応えていました。会で聴かれた方もいらっしゃるでしょうが、その少女が読み上げる手紙は感動的でした。私は、彼女のインタビューの中で心に残ったのは、大槌町が復興政策として進める、高い防波堤をつくり、街を高台にする大規模な街づくりに反対し声を上げてきて、その中で町長や町会議員、県や国の責任者と対話する中で、彼女自身が、大槌町にとって本当にいいことは何なんだろう、以前みたいに、ただただ反対だとはっきりと言えなくなってきている、と心のなかに芽生えた迷いを率直に語っているシーンでした。
あのシーンは、あの声の表情も含めて、ラジオというメディアにしか伝えられなかったものなのではないか、と思ったんですね。つまり、他のどのメディアでも伝えることができない復興地の今があると思いました。もちろん、ラジオもメディアですから、100%自然な姿とはいえませんが、それは素手に近い取材者との信頼関係がつくる、最低限の「構え」しか彼女の中にはなかった、と言えるのではないでしょうか。
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個人的なことなのですが、会の後、FM東京の延江さんが当日会場に掲載していたポスターを気にいってくださって、もし廃棄するならもらえないか、とおっしゃってくださいました。トークショーでも話されていましたが、番組の大きなテーマとして震災の風化を防ぎたいというものがあったそうです。
このポスターに書かれれいる言葉「ラジオは、忘れない。」は、まさにあの震災のことを風化させまいというメディアの気持ちを表現したものです。当然、テレビもウェブも忘れないと思いますが、高い公共性が求められる放送メディアでありながら身軽で、かつ、その「欠落」故に丁寧に人のありのままの思いを表現できて、十分な時間をかけて表現、表出できるラジオだからこそ、「忘れない」と言い切れるだろうと思って書いたものでした。
写真は、今年の7月に撮影した大槌町です。たまたま仙台に立ち寄った時、このラジオ番組を聴いて、そういえば大槌町にちょっと足を伸ばしてみようかと思って行った時に私が撮影したものです。同じ東北だからすぐだろうと思ったら、かなり時間がかかってびっくりしましたが、おかげで遠野を横断する釜石線にも乗れたり、細麺の(新日鉄の工員さんがさくっと食べられるように細麺になったとのことです。最近は珍しくなったあっさり醤油味です。)釜石ラーメンも食べられたり、実りのある小旅行になりました。
バスを乗り継いで辿り着いた大槌町は小雨で、復興工事の真っ最中でした。かつて街があった場所は盛り土があり、工事車両が行き交っていました。そこにニュータウンのような街の完成図が描かれた看板がありました。写真は、大槌町役場仮庁舎の奥にある小高い公園から撮影したものです。本当は、有名なひょうたん島を撮影したかったのですが、残念ながらズーム機能のない私のGR DIGITAL IIでは撮影できず、沿岸の工事で近くまで行くこともできませんでした。
夕方でしたので暗い写真になってしまいましたが、延江さんはその写真も気に入っていただいたとのことでした。その際にも、「この写真に大槌町の今が感じられるのは、ラジオと同じように、グラフィックにも欠落があるからなんでしょうね。ムービーではこうはいきませんよね。」とおっしゃっていました。写真の撮影は素人ですので、少しこそばゆかったですが、うれしかったです。
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「ラジオドラマ 想像ラジオ」は、聴き応えのある濃密なラジオドラマでした。当日聴かれた方は、ラジオなかなかやるなあ、と思われたのではないでしょうか。原作を読まれた方だとなおさら興味深く聴かれたことでしょう。地上波放送とインターネット放送を組み合わせる手法も新しかったし、西田敏行さん、小泉今日子さんの演技力も抜群でした。
これも、映像の欠落というメディア特性によって獲得された世界だったと思います。例えば、原作の小説の世界を忠実にラジオに移し替えたものに過ぎなかったでしょうか。例えば、このラジオドラマをテレビドラマ化することを想像したとき、このラジオドラマが持っている世界が映像によってより良くなると思えるでしょうか。それは、たぶん否、だと思います。それは、まさしく音声メディアであるラジオだからできた固有の世界だったのだと思います。
テレビドラマの楽しさをラジオでも、というものでも私はいいとは思っています。アーチストのライブ番組は、これだけ高画質、高音質化したテレビにおいて、ラジオはテレビの楽しさをラジオでも、という域にとどまるだろうと思います。でも、それでも、ラジオには今もこの楽しさは欲しいですし、最近は少なくなってきているけれども、昔のようにたくさんやってほしいなあとラジオリスナーとしては思います。NHK-FMの「The SESSION 2014」のような番組は、ラジオの最高の楽しさのひとつだと思います。ここでラジオならでは、というものは、テレビではあまり取り上げないアーチストをじっくりたっぷり取り上げるという機動性、身動きの軽さなのだと思います。
ただ、表現作品としてひとつハードルを上げた時、やはりラジオだからできたというものがあってほしいとは思います。このラジオドラマは、その点では、たっぷり、というか、言い方はあまりよくないですが、こってりとありました。
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第18回「ギャラクシー賞入賞作品を聴いて、語り合う会」は、11月8日(土)午前1時〜午後5時、赤坂TBSのセミナー室で行うことになりました。17回と同じく、第51回目ギャラクシー賞受賞作品の中から、「赤江珠緒 たまむすび」TBSラジオ&コミュニケーションズ(優秀賞)と、「途切れた119番~祐映さんと救急の6分20秒~」山形放送(優秀賞)を取り上げます。
詳しくはこちら(PDF)を御覧くださいませ。
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