大大阪と大阪都
即時性が求められるブログ記事としては出遅れた感もあるし、あまり政治に詳しいわけでもないのでたいしたことは書けないだろうと思っていたのでtwitterでつぶやくだけにしていたけれど、時間が経つにつれ、こういう切り口でならまとまった考察としてブログに書いてもいいかなと思ったし、まわりを見渡すと、こういう切り口で論じているものはあまりないような気もしたので、遅まきながら書くことにした。
率直に言うと、タイミングは逸したけれど、こういう考えがあるということをネットの片隅に記録しておくこともいいかもしれない、何かしらの意義があるのではないか、と思った。明快な意見では決してない。けれども、これまで大阪都構想について言及してきたことや考えてきたことの断片をつなげながら、順を追って、余談を含めて丁寧に記録することで、ひとつの考え方の輪郭を示せるのではないかと考えている。
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僕が大阪都構想を考えるときの切り口はこう。まずはじめに「大阪都」という言葉はレトリックではないか。そのレトリックは、政令指定都市である大阪市が持つ特殊性に大きく関係しているのではないか、ということ。大阪市の特殊性とは何か。それは、関東大震災後の「大大阪時代」を原点とし、その後、大阪市民の中に残り続ける大大阪幻想を要因とする関係の特殊性のこと。つまり、大阪市の特殊性は、他の政令指定都市にもあてはまるとは言えず、このことが大阪都構想と先の住民投票の結果について語ることの困難さの、ひとつ原因となっていると思う。
大大阪時代における大阪とは、実質的には大阪市のことだった。大大阪の礎を築いた偉人は二人挙げられる。池上四郎、そして、シティプランニングという英語を都市計画と翻訳し、日本ではじめてその語を使用したことで知られる關一。どちらも当時の大阪市長だ。府知事ではない。当時、大阪市は東京都東京市を上回る日本で最も人口の多い都市であり、世界でも6番目の大都市でもあった。当時の内務大臣から「都市計画の範を大阪に求める」と言わしめ、二人の大阪市長は、大阪城天守閣の再建。御堂筋、地下鉄御堂筋線の建設など、大大阪の発展に力を尽くした。その隆盛の名残りは、今も市内に多く残る美しい近代建築に見ることができる。
大大阪を主導したのは大阪府庁ではなく大阪市役所だった。つまり、大大阪とは実質的には大阪市のことであり、大阪府のことではなかったという事実、そして、その事実から生まれるメンタリティが、大阪市の特殊性の起点となった。
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僕は大阪市で生まれ育った。だから、大阪市以外の街、とりわけ大阪府下の他の市町村の人にとってみれば鼻持ちならない大大阪幻想、つまり、大阪とは大阪市のことであるという幻想が市民の体の中に染み付いてしまっていることが痛いほどわかる。余談として一例を示すと、大阪市民、とりわけ古くからの大阪市民にとって、大阪市立大学は他大学と比較できない特別な存在だった。国立の大阪大学に受かっても「あの子は京大には行かれへんかったんやね」と皮肉を言われてしまうけれど、大阪市立大学は素直に「あの子、偉いねえ」と言われる。そんな空気があった。
それは、古くからの名古屋市民が、東大より名大のほうが値打ちがあるというのと似ているが、大阪市の場合、どちらも大阪という名を冠する大学で単に国立か市立かの差だけである。古くからの大阪市民は、大阪府立大学には強いイメージは持っていない。もちろん、言うまでもないが、この特別意識は、大阪市民以外では通用しない。
それは、大阪市民の大阪市は特別という根深い意識を示すものだと思う。と同時に、大阪市大に対する特別な意識は、商業、都市開発、行政、法曹、医療などで、大阪市大卒業生たちが活躍しているという事実が担保していることも影響していると思う。例えば、町医者の先生には市大出身の方が多い。他の地方都市、例えば広島大学を出て広島県で活躍するというような構造が、大阪の場合は、市大を出て大阪市で活躍するという構造として、教育機関と社会人としての活躍の場の双方が市を単位にして成り立ってしまっている。
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数年前、大阪に久しぶりに帰ってきたとき、大阪市に住む仕事の先輩と会ったときのこと。
「東京はどうや。こっちはさっぱりやなあ。大阪はもうおまえが考えているような街とちゃうで。単なる地方都市や。」
つまり、とりあえず今までは、大阪は単なる地方都市ではなかったという認識があったということであり、 僕自身もこの奇妙な自負心を共有している。と同時に、こういう自負心を持つ世代は私の世代が最後のような気もしている。原風景としては、東京制作、大阪制作を各日交互に放送していた全国放送のナイトショー、11PM。大阪よみうりテレビ制作の司会を務めていた藤本義一は、大阪都構想とも関わりが深い堺屋太一と並ぶ、大大阪の象徴的存在だった。
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大阪市民には、大阪は単なる日本の地方都市でないという意識、つまり大大阪幻想がある。そして、大大阪における大阪とは大阪市のことである。これが、大阪市民が持つメンタリティの特殊性だ。名古屋市、神戸市、仙台市などの政令指定都市にも、先の住民投票における重要なテーマである二重行政の弊害はあるとは思うが、その強度においては、事実としても、その心情的な側面においても、大阪とは比較にならないだろうと思う。
その意味では、大阪都構想が投げかけてきたものは、今後の日本の地方行政について応用しにくいものだとも言えて、そのことが大阪都構想や住民投票について語ることの難しさをつくっていると僕は考えているし、大阪市の住民投票やその結果についての意味を日本の地方行政の話しとして一般化したときに、大大阪幻想という地域独特の特殊性を捨象してしまうことになるだろうと思う。程度の差はあれ、あらゆる地方の話は構造的に同じだと思うが、大阪の住民投票は、まず第一には、大阪という地域の問題であり、その特殊性を考慮に入れて考えたときに、はじめて日本の地方行政の問題としての普遍的な意味を持つ。
続いて、大阪におけるもうひとつの大きな自治体、大阪府についてはどうなのだろうかということを見ていきたいと思う。ここにも大阪独特の特殊性がある。経済、都市開発といった都市力に力を発揮してきた大阪市。その一方で、大阪府はどういう役割を果たしてきたのか。その視点で大阪で過ごしていた頃の記憶を交えながら考察してみたい。
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大阪市役所と大阪府庁は、昔から「府市合わせ」と揶揄されてきたような二重行政を続けてきたのか。その答えは、たぶん否だろう。その理由は、大阪府市ともに革新系が首長だった時代に求めることができると思う。大阪府知事が黒田了一、大阪市長が大島靖の時代だ。
大阪市長である大島靖は、なんば地下街や大阪駅前再開発、大阪市役所新庁舎を推し進めた。大阪市の伝統である都市開発路線。その時、大阪府知事である黒田了一は福祉と文化に力を入れた。つまり、大阪市は産業振興と都市開発、大阪府は福祉と文化という住み分けがあった。ここにも大阪の特殊性が見られる。地方行政を考えるとき、普通は逆だろうと思う。しかし、大阪はそこが逆転していた。大阪府の福祉、文化路線は、当時の記憶を辿っても、大阪市の都市開発同様に、かなり強度の高いものだったように思える。桂米朝、藤本義一、木津川計といった大阪を代表する文化人たちは、大阪市よりも大阪府に縁が深かった。
余談になるが、大阪府の文化路線で個人的に記憶に残っているのは、大阪府立情報文化センターという存在だ。今はもうないが、小さいながらも、当時としては生涯学習の拠点という役割を超えた存在だった。伝統文化からサブカルチャーまで見据えるやわらかい発想と、大阪を拠点とする文化人たちとのつながり。文化は府の役割、というイメージは、こうした活動からも醸成されていったと思う。その業績の一部は、大阪のブレーンセンターが発行する「新なにわ塾叢書」で見ることができる。
都市開発の大阪市、文化の大阪府。より広域の自治体が都市開発を担い、住民に寄り添った福祉、文化は小さな行政区が担うという普通の考え方からは逆転した大阪独特の地方行政の住み分けは、豊かな財源がある限りにおいては、独自の文化として上手く機能するし、事実として機能してきた。
しかし、革新系自治体固有の問題点として、その活発な地方自治体の活動によって、大阪府、大阪市ともに大きな負債を次の世代に残すことになった。それは美濃部亮吉という革新知事を擁した東京都も同じではあったが、大阪の場合は、財政が悪化していったとき、これまで上手く機能していた特殊性が、負の特殊性として表に現れるようになったということが東京都の大きな違いだ。
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大きな負債を抱え、少ない財源をやり繰りすることが行政の課題のひとつとして加わった。にもかかわらず、東京都のように、その負の遺産を払拭できなかったのか。大阪府と大阪市は、ひとつの大阪として効率的な自治体運営ができなかったのか。外的要因としては、東京一極集中と大阪の地位低下が原因だろうとは思う。でも、もうひとつの原因のとして確実に言えることは、やはり大阪の特殊性が生み出した二重行政であっただろうと思う。大阪共産党は、テレビの討論会で大阪に二重行政は存在しないと主張していたが、ひいき目に見てもやはり無理筋だろう。
契機は、象徴的にはたぶん大阪府の泉佐野市沖に建設されることになった関西国際空港だと僕は考える。革新政権が終わりを迎え、新しい大阪の行政が動き出したときに生まれた国家レベルの大型開発とそれを契機とした周辺開発の機運。あの頃、僕は大阪の広告会社でなんばシティという大規模商業施設の広告をつくっていた。「関空効果。」というバーゲンの広告をつくって、ニュースに取り上げられたりした。なんばは大阪市のミナミに位置し、大阪市と和歌山市を結び、大阪府の南を縦断する南海電鉄の始発駅だ。その熱気は、大阪府の堺市以南の広域な地域の発展に直結するものだった。それは、大阪府主導の都市計画の重要性を象徴する出来事だったとも言える。
財政悪化によって文化への支援を縮小せざるを得ない状況の一方で、将来の利益への投資として、大阪府と大阪市が大型開発を競い合うようになっていった。大阪の特殊性としての、府は文化、市は都市計画という住み分けは完全に壊れ、都市計画を担う大きな行政府が大阪に二つ存在することになった。記憶違いもあるかもしれないが、大阪府民、市民から「府市合わせ」と揶揄され始めたのはこの頃からだったと思う。
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大大阪幻想と、その幻想が生み出した「府市合わせ」という二重行政の弊害。本来であれば、大きな行政区が主に都市計画を担い、より小さな行政区が福祉や文化を担うという地方行政における通常の役割分担を、大阪府、大阪市が担うようになれば、財政の問題はともかくとして二重行政の財政的無駄は解消されるはずだ。話し合えばいいじゃないか。簡単なことじゃないか。それで解決するじゃないか。少なくとも理屈では正しい。
しかし、これだけの歴史的、文化的バックボーンを持ち、その強固な幻想に従って組織編成し、人材を育成してきた組織が、そう簡単に変われるものだろうか。普通に考えれば、なかなか難しいだろうというのが正直なところだと思う。こういう問題が、僕は大阪の根が深い特殊性だと考える。この特殊性を考えに入れない限り、なかなか先の住民投票の意味を捉えられないのではないかという気がする。シルバーデモクラシー、新自由主義という普遍的な文脈では語りきれないのが、大阪都構想であり、今回の大阪市民を対象に行われた法的拘束力を持つ住民投票だと思ってきた。素朴な理想論では語りきれない根の深さゆえに、歴代の大阪府知事や大阪市長が手をつけようとしなかった問題。それが、大阪の二つの大きな行政府の二重行政だと思う。
先の住民投票で賛否を問われたのは、大阪市の解体と大阪府下特別区への再編成だった。これは当然ながら大阪維新の会が主導してきた「大阪都構想」の一環でもあった。だから、報道でも「これまで大阪維新の会が推し進めてきた大阪都構想の賛否を問う住民投票」とアナウンスされてきた。大阪都構想とは何なのか。その政治的な意味は、これまで賛成派、反対派ともに多く語ってきたし、僕がこれ以上語ってもあまり意味がないだろう。意味があるとすれば、当時の大阪府知事、現大阪市長である橋下徹が、作家の堺屋太一との共著で発表した『体制維新ーー大阪都』の頃にまで遡った時点では、相当な違和感を持って響く言葉だった「大阪都」という言葉を中心にて見たときに現れる大阪都構想の意味だろうと思う。
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大阪都構想は、簡単に言ってしまえば、大阪府を東京都のような行政システムに変えるということだ。これまで僕が語ってきた文脈で言えば、意味合い的には大阪市と大阪府という二つの大規模自治体を統合し、大阪を再編成することだろう。それは先の住民投票で反対派から盛んに主張されていたように、この大阪都構想と「大阪都」は関係がない。今回の住民投票が象徴しているように、賛成多数で大阪市が解体され特別区に再編成されても、当面は大阪府下の特別区になるだけのことだ。少なくとも二重行政の弊害の解消という点で言えば「大阪都」はまったく関係しない。
では、一体、この「大阪都」という言葉は何なのだろうか。
大阪都構想において「大阪都」という言葉は、その構想の本質に関係しない、もしくは、法的な担保を持たないイメージの言葉だ。しかし、大阪の未来の姿を喚起させる。つまり「大阪都」という言葉は、まさしくレトリックだったのだと思う。そのレトリックは、大阪人が、とりわけ大阪市民が持ち続けてきた大大阪幻想と大きく関係している。一頃の熱狂は、そのレトリックがその機能として発生させてしまう高揚感だったのだろうとも思う。そこに、大大阪時代の復活を夢見る市民も多かったのだろうと思う。
大阪都構想は、大大阪幻想がもたらした二重行政を払拭するものであることと同時に、低迷に苦しんでいた大阪人に大大阪幻想の夢を与えるものでもあるという二重性を持ち合わせていた。
一方で、大阪都構想の本来的な意味である二重行政の解消と、健全な地方自治体の運営という点では後退を余儀なくされてきた。特別区運営には東京都の特別区に近い規模が本来必要なはずではあるが、当初の大阪市周辺の市を巻き込んだスケール感のある特別区再編は、堺市長選の敗北によって挫折した。ここで論じる文脈に沿って言えば、大大阪幻想を根深く持つ大阪市民にとって強く喚起させる「大阪都」というレトリックは、大阪市以外の堺市の人たちには、その訴求力は弱くなるのは当然で、結果的に、堺市民は大阪都構想に乗らないことを選択した。
また、言葉の力を中心に見たとき、レトリックはそれがレトリックである限りにおいて、宿命的に賞味期限を持つ。時間経過に従ってレトリックの力が弱まっていくのは当然の帰結で、それは、民意を問うとして市議会を解散し行われた2014年の大阪市長選の投票率にも現れていた(2011年は60.92%、2014年は23.59%)。
また、住民投票は、大阪市議会における大阪維新の会と公明党の政治的な駆け引きによって生まれた、言ってしまえば大阪維新の会にとっては、棚からぼた餅のように巡ってきた最後のチャンスでもあった。こうした住民投票へと至る経緯は、先の住民投票の結果についての意味を考えるときに重要な意味を持ってくるだろうと思う。
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大阪市の住民投票が告示された時期、僕は大阪市に滞在していた。かつて橋下市長からよく聞かれた「この大阪をひとつにして、東京に負けない、豊かで活気あふれる大阪をつくっていこうじゃありませんか」という力強い言葉は影を潜め、大阪都構想の本来の趣旨に忠実に「より広域な行政区を担う大阪都が都市計画を担い、これまでの大阪市みたいな大きな行政区ではなく、みなさんの意見を聞ける小さな行政区である特別区が、みなさんやみなさんの子どもたちのための福祉とか教育とかを担うんです。大阪都構想はこういうことなんです」という煽りのない言葉に変わっていた。反対派は逆に、どちらか言えば大大阪幻想に寄り添った「この歴史と伝統のある大阪市をなくしていいんですか」という煽り気味の主張が目立っていた。
特に印象的だったのは、大阪維新の会のCMが「大阪都構想で大阪の問題を解決して、子どもたちや孫たちにすばらしい大阪を引き渡していきたい」という、どちらかというと煽りが控えめで理に訴えるものだったのに対して、大阪自民のCMは「知ってましたか。みなさんの税金が、みなさんのためだけに使われなくなってしまうというひとつの事実」というCM考査のぎりぎりを狙った、徹底した庶民目線の表現だったということ。橋下徹大阪市長が直接登壇に上ったタウンミーティングでも、世間で言われるほどの橋下節は聞かれなかった。僕は、逆にそのことで好感を持ったけれど、かつてのような熱狂はなかった。ここには、もはや「大阪都」というレトリックがもたらす高揚感や、かつてあったあの熱気はどこにもなかった。
ただ、そこには、もうひとつの光景があった。炎天下の中、集まった人たちは、その主張をじっくりと聞きいっていた。その当時は、大阪市立の都島屋内プールをなくすなという署名運動が行われる時期だった。そのことについての質疑応答もあったが、そのやり取りも冷静だった。橋下徹大阪市長は、それがデマであると否定しつつも、絶対になくなりませんとも言わなかった。それは、新しい特別区である北区のみなさんが議会を通して決めることです、と答えていた。
大阪市で生まれ育ち、今は東京から前より客観的に大阪を見てきた者として、大阪都構想については比較的熱心に考えてきた。大阪の二重行政については、ここに書いているようにかなり根深い特殊性と、その特殊性から来る地方自治行政の弊害を大阪は持っていると考えている。しかし、周辺市を巻き込むことができなかったことで、現状、後退を余儀なくされた大阪都構想、そして、広告稼業を長くやっていた者として、あの「大阪都」というレトリックが賞味期限を迎えた今、たぶん大差で否決だろうと考えていた。大大阪幻想を抱きながら後退していく大阪は変わらない。そう思っていた。しかし、私のこの認識は、私が大阪市民を甘く考えていたことを証明するものとなった。
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投票率は66.83%。結果は否決、総得票率中で0.8%という僅差だった。
この意味は、これからの大阪を考える上で、とても大きい出来事だと思う。これは、他ならぬ大阪市民がこれまで持ち続けてきた大大阪幻想を喚起させる「大阪都」というレトリックがほぼ排除された状況で、これからの大阪という都市の行政をどうするかを大阪市民に問うた結果だからだ。大阪都構想は終焉した。けれど、少なくとも、ここからは、今までのままでいいはずはない、というくらいの市民の意志を読み取ることはできると思う。もっと言えば、大阪都構想は否定するにしても、これ以上ダメになるのはもう御免だ、という大阪市民の意志なのだろう。
YESかNO かの二者択一を迫ることについてのデメリットもあった。その集大成が、この住民投票でもあった。今回の大阪都構想の場合、行政の機構を抜本的に変革することを含んでいたから、最終的に住民投票という手段に頼らざるを得なかったけれども、やはりこういう二項対立の問題設定は分断を煽る。住民投票という手段は安易に使わないほうがいいと思った。それに、あらためて思ったのは、本質的言えば、多数決がそのままイコール民主主義ではないということ。多数決は、民主主義的な意思決定の最終的な手段だ。であるならば、やはりこの結果の意味は、出来る限り正しく把握して、次代に引き継ぐことが必要だろうと思う。
橋下大阪市長は、任期終了を持って政治家からの引退を示した。反対派の中には、いつもの虚言だと見る向きもある。しかし、橋下市長とほぼ同世代の者として、あの時点では本当の気持ちだったのだろうと僕は考えている。先の住民投票の結果は、大大阪幻想を持つ最後の世代かもしれない僕らの世代にとっては、世代交代を意味するだろうと思う。これからは、大大阪時代を知らない世代が大阪を動かしていくだろう。と同時に、僕の問題意識の中心領域で言えば、レトリックの時代の終焉を意味しているかもしれない。それは、僕自身、相当な痛みを伴う認識ではあるけれど、あの住民投票を経て、これから大阪は必ず変わるはずだと同じ意味合いにおいて、それは希望だろうと思っている。
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