大大阪時代について
大阪ダブル選の結果についての言及を眺めていて、「ああ、大大阪時代と呼ばれる時代が大阪にあったということがあまり知られていないんだなあ」と思った。大阪人にとってどうかというと、そこはそこで微妙ではあるのだけど、それでも大阪の本屋さんには、大大阪時代の名建築を歩く的な散歩本が平積みされていたりもするし、関連の専門書もたくさん置いてある。それに歴史的な事実を知らなくても、大阪、特に大阪市は大大阪時代がありきで様々な文化や制度がつくられてきたので、肌感覚としては、まあ体感的に理解はしているとは言えそうな気がしないでもない。
知識としての大大阪時代はウィキペディアに出ているし、それなりにしっかりした記述になっている。僕は僕で「大大阪と大阪都」という文章も書いたりもした。ただ、この文章は「大阪都」という名付けがかつての豊かな大大阪時代を喚起する「大阪よ甦れ」的なレトリックとして機能しているという着眼点で大阪市住民投票の結果について考察したもので、直接的には大大阪時代がテーマではない。
詳しいことはウィキペディアや関連書に譲るとして、ここでは簡単に言えば大大阪時代とは何か、ということに触れてみたい。
戦前の一時期、大阪市が東京市の人口を抜いて日本一の大都市となり、ニューヨーク、ロンドン、ベルリン、シカゴ、パリに次ぐ世界第6位の大都市だった頃があった。なぜそうなったのか。理由は二つ。
一つは、1923年(大正12年)に起こった関東南部を震源地とした関東大震災の影響である。人口が密集する当時の東京市も壊滅的な被害にあった。日本第二の大都市だった大阪市は、特に経済的な領域において東京市の代替を担うことになる。何ともやりきれない気分にもなるが、東京の不幸によって大阪が豊かになった。
もう一つは1925年(大正14年)の第二次市域拡張。関東大震災の影響で大阪市が勢いを増す絶好のタイミングで、当時の大阪市長だった関一は、周辺町村を取り込みその市勢を拡大していく。なぜ大阪府ではなく大阪市なのか。今の感覚ではわかりにくいが、国家ではなく都市を軸にしてみると市町村がその陣地を示す単位で、府県は廃藩置県で国が勝手に決めたものという意識があった。国の決めごとなにするもの、と勢いのある都市は市域を拡大していく機運も存在した。特に中央に対する反発意識が強い大阪はその傾向は強かったのだろうと思う。
『大大阪の時代を歩く』(橋爪紳也著)からの孫引きではあるが、大阪毎日新聞に掲載された関の言葉を引用したい。
「大阪市の町村編入も本物になって、今日からいよいよ輝かしい『大大阪』が実現されるわけである。思ってみると全く夢のような話だ。大阪市民は自彊自治の民で、これまでに出来た市の大事業は、皆いずれも根強い市民の力に成ったものばかりである。今回の町村編入も全く市民の持つ金の力と、その溢れ切った愛市精神の結晶に外ならない」
金の力と愛市精神。まさに、この大大阪時代を象徴する言葉だと思う。関は都市経営の専門家でもあった。御堂筋をはじめとする現在の大都市としての大阪市の都市基盤の多くは、この時期に整備された。今では「市民の血税をつぎ込んで箱物行政に邁進する大阪市役所」という感じだろうが、そうとも言い切れない部分も存在する。関が言う「自彊自治の民」の言葉通り、今も大大阪時代を偲ばせる近代建築として市民や来訪者から親しまれる名橋や公共施設は、住友などの在阪大財閥や有力者による寄付事業でもあった。
これが大大阪時代のあらましである。
主役は大阪市役所と在阪財界人であり、言うなれば大阪の都市基盤をつくる“広域事業”はこの両者によって行われてきた。在阪財界は東京一極集中によりその伝統を失いつつあるが、住民と企業から入る税金と国からの地方交付税によって財源を保ち続ける大阪市には、まだその伝統と名門意識は根強く息づいている。大阪の“広域事業”の担い手を自負する大阪市にとって、大きすぎる自負心を揺るがす契機になったものは大阪湾岸事業と関西国際空港だろう。それは、“広域事業”の新しい担い手としての大阪府の台頭と、大阪市の狭すぎる面積から起因する限界、そして、大阪市から周辺市への大阪都市機能の拡大を意味する。
この視点から見れば、大阪都構想とは、大阪という大都市の“広域行政”を担ってきた大阪市に、その歴史的な役割の終わりを宣告し、より広い行政区である大阪府に移行するということであり、反大阪都構想にとっては、これまで大阪を発展させてきた大阪市という大阪の“広域行政”の名門ブランドとその伝統を何としてでも守るべきだ、そして、これからも大阪にとって大阪市が大阪府と切磋琢磨し、その専門性が生かされるはずだとの主張であると言えるだろう。少なくとも大阪人でもある僕は、この課題を「大阪人はよくわからない」と言うことはできない。そして、大阪という一地方の地方政治から投げかけられた課題はこれからの地域社会運営のあるべき姿とは何かという大きな問いの一つだと考えている。