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2019年9月の5件の記事

2019年9月14日 (土)

オムレツの謎

 ウェブで『「今残さないと、調理文化が消える」 食研究家たちが支持するレシピ本、危機感から制作』という記事を読み、その関連で、なんとなく食べ物のことを考えていて、ふと、昔、母がつくってくれたオムレツのことを思い出し、

僕の母は甘く煮た牛肉そぼろが中に入ったオムレツをよく作ってくれて、20歳くらいまではオムレツは中に肉そぼろが入ったものと思い込んでいたけど、それは国が進めていた栄養運動の中の推奨レシピだったということを最近知った。

 と、Twitterでつぶやいた。すると、珍しくいいねやリツイートが付き始めて、ああ、みんなもこの牛肉そぼろオムレツを食べていたんだよなあ、思い出でつながるTwitterっていいよなあ、なんて思っていたけど、徐々に、さて、どこで知ったんだろうと気になりだして、検索したりしてみるも手がかりが見つからず、まあええか、寝るか、と布団に入った瞬間に「あっ、朝の料理番組で土井善晴先生が言うてはったわ」と記憶のカケラが見つかって、さっそくググってみたら、あった。

 土井先生は「昭和オムレツ」と名付けておられた。テレビ朝日『おかずのクッキング』2018年3月第5週放送回で、土井先生が「昔ね、みんなに栄養のあるもんを食べさそうと、フライパン運動というのがあったんですわ。洋食とか中華とかイタリアンとか。そういうもんを子供のためにつくりなさいよというわけです。その中のレシピにこれがあってね、流行ったんでしょうね。僕らにとっては懐かしい味やね」的なことを語っておられたと思う。動画は見つからなかったけど、記憶ではそんな感じ。

 で、その運動はいかなるものなのか、とさらに調べてみると、

1956年に厚生省の指導のもと日本食生活協会は「栄養指導車」8台を導入。10月10日日比谷公園で盛大な出発式を挙げる。世の言うフライパン運動の始まりである

日本人の粉モン好きの陰に潜むフライパン運動とは?/パンケーキ総研』より引用 

 1954年7月にアメリカで成立したPL480法に関連した運動だったとのこと。この法律は正式名称は農業貿易促進援助法ではあるけれど、余剰農産物処理法とも呼ばれ、最も有望な市場と見られた日本がその標的にされた。つまり、半ば押し付けられた米国産の余剰農産物の解決と米国農産物輸出拡大のためのマーケティング戦略の一環でもあったということだった。

 ま、それだけでなく、当時の厚生省にも、このPL480法を契機にして、和食中心から洋食の普及により栄養に偏りのある食生活を変えたいということもあったのだろうし、そのおかげで今の多様で豊かな食生活もあるわけだから、マーケティング戦略は大成功と言えるだろうけど、でもまあ引用のブログにあるように「米主食では栄養不良になる」という根拠の薄いネガティブキャンペーンもあったらしく、関連書を見ると日本固有の食文化の破壊という観点からの批判が多いようだ。

 僕の母が、このフライパン運動のキッチンカーで学んだのか、それともこの運動によって普及したレシピを見てつくったのかは、もう知るすべはないけれど、土井先生が「昭和オムレツ」と名付けた牛そぼろ入オムレツは、僕らの世代の多くの人にとって懐かしい味になった。

 2014年に父が亡くなり、続いて2015年に入院していた母も亡くなった。そう言えばと、大阪滞在中に見様見真似で作ってみたら美味しかった。大阪に住む妹は「いっしょの味やん。おいしいわ。なんで作れるの?お母さんに教えてもうたん?」と言っていたけど、誰でも作ることができる簡単なレシピだから、まあ、誰が作ってもこんな味にはなるのではないかな。米主食の習慣を変えようというキャンペーンから生まれたメニューだけど、このオムレツはごはんによく合う。

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 本を書きました。『超広告批評 広告がこれからも生き延びるために』という本です。詳しい内容はこちらにあります。

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2019年9月12日 (木)

「多弁マーケ」の副作用

 9月12日の朝、ヤフーがZOZOを買収するというニュースがあった。この買収については、ヤフーのEコマース事業の強化という発表があったものの、憶測記事も含めてほとんどノーマークだったので驚きを持って迎えられた。前澤友作氏は社長を辞任することになった。現在(午後6時過ぎ)、会見が開かれている。Tシャツ姿で吹っ切れた表情が印象的だ。AbemaTVの生中継を観ているが、前澤氏からは沢田宏太朗新社長の紹介に終始し、当然ながら今後の経営に影響を与える重要な発言はなかった。二部で個人的な話をするとのことだが、ここでは前澤氏の個人的な事柄は直接関係しないので、このエントリーを投稿することにする。

 同社のカリスマ経営者が経営から離れることがZOZOにとってどう影響するのかは今後を見守るしかないが、ZOZOの広告・マーケティングを注意深く追ってきた者として、ここまでの流れは必然だったという思いがある。新刊『超広告批評 広告がこれからも生き延びるために』池本孝慈著(財界展望新社)に収録されているZOZOについての論考を一部引用してみたいと思う。

 この論考で〈前澤前社長には企業が持つべき倫理観と、広告戦略の再考が求められていることは間違いない〉と書いたが、ヤフーによるTOBでのZOZO買収と、前澤社長の辞任及び個人所有株式35%分の30%分(現在の時価換算で約2400億とのこと)を手放し、ほぼ完全に経営から離れることでそのことが果たされるとは思いもしなかった。

 個人的には、ベンチャー企業だったZOZOの成長に破天荒な前澤社長の経営手法が果たした役割は大きいと思うが、一部上場の代表的企業となり、巨大な組織になった今、その手法に限界が来たのではないかと思っている。そういう意味では、今回の決断はさらなる拡大と成長を目指すZOZOにとっても前澤氏個人の新たなチャレンジにとっても最適解なのではないかと考えている。なお、以下引用の文章の執筆は2019年3月であることを予めお断りしておく。

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 2018年10 月1日、日経新聞に〝妙〟な広告が掲載された。文化祭のような軽いノリのスナップ写真に映る若い社員たち。そのいくつかに笑顔で映る男性こそ、ZOZOの前澤友作社長である。

 広告のコピーは〈拝啓、前澤社長。〉ファッション系ECサイト「ZOZOTOWN」を運営するスタートトゥデイが現社名に変更する際に出稿したものだ。

 広告の長い文章を要約すると、〈社長が次々と巻き起こす話題や騒動〉に呆れ果てていたが、〈宇宙へ羽ばたこうと〉〈興奮しながら夢を語る〉前澤社長を見て、自分たち社員も頑張ろうと思った、という内容だ。前澤社長への崇拝が恥ずかしげもなく描かれた、徹底的なまでの内向き思考。当時は単に幼稚で気持ち悪い広告だという印象だったが、今となっては現在のZOZOが置かれた状況を予言しているように思える―。

 1月末、ZOZOは3月期経常利益を19 %減益に下方修正することを発表した。しかしそれよりも耳目をひいたのは、前澤社長が〈本業〉への集中を理由に、しばらくツイッター投稿の休止を宣言したことかも知れない。

 前澤社長と言えば、女優・剛力彩芽との交際を公言したり、ツイッターでプロ野球球団を経営したいと唐突に呟いたり、月旅行計画をぶち上げるなど〝やりたい放題〟の人物として、メディアで取り上げられるのが常だった。

 しかし広告視点で見れば、その奔放さは経営目的を達成するために綿密に設計された広告戦略、広く言えば、前澤社長によるコミュニケーション戦略に従って忠実に振る舞われてきたように見える。

 なぜか。ここ数年、ZOZOはファッション分野において一気に覇権を握る、その一点にあらゆる経営資源を注ぎ込み、拡大路線をひた走ってきた。その目的を達成するために設計された広告戦略、コミュニケーション戦略こそ、前澤自身の「メディア化」だった。

 当然ながら急速な拡大路線の前では、企業に求められる倫理や十全な準備は足枷となる。しかし、時代の挑戦者たる前澤社長ならば、多少の倫理的逸脱や不備があっても許され、応援されることになる。結果、企業が考慮すべき倫理や責任が特別に免罪されるという現象が起きる。それが、「前澤メディア化戦略」の果実である。

 象徴的なのが、17 年にテレビCM等で主に若者向けに大々的に広告を打った「ツケ払い」だ。商品購入の2カ月後に代金を支払えばいいというもので、つまりはローンサービスだが、当然、安易な利用が社会問題を引き起こし兼ねない性質のものだ。実際、多くのECサイトも同様のローンを採用、提供しているが、そんな懸念からか大々的な広告は行っていない。

 しかしZOZOは「ツケ払い」という品のない言葉で煽り、積極的な広告戦略に舵を切った。悪影響があろうが自分たちの知ったことではないということだろう。

 今年の正月、前澤社長は自身のツイッターで〈総額1億円のお年玉〉と題し、100名に100万円を現金でプレゼントするキャンペーンを行った。〈(ZOZOの)新春セールが史上最速で取引高100億円を先ほど突破〉したことの〈感謝を込めて〉としたが、あくまで前澤社長の個人資格という名目だった。

 しかし、これも「ツケ払い」を行った心理と構造は同じである。

 本来なら、企業がこうしたキャンペーンを行う場合、様々な広告規制を受けることになる。公正取引委員会の制約や株主や消費者の目もある。だから「個人で」なのだろうが、ツイッターで同様の例がないから止められる理由がなかっただけで、その行為は極めて〝グレー〟である。

 つまり〝脱法的〟なのだが、メディアでは称賛の声が目立った。つまり、脱法性への疑念を英断という評価に変えたのが、この場合のメディア化戦略だったのである。同キャンペーンはテレビで盛んに報道され、前澤社長はリツイート世界記録を樹立するに至った。

 これを企業のキャンペーン=広告と見た場合、その費用対効果は絶大である。現状、これほどコスパが高い広告は真っ当な手法では不可能だろう。こうしたコミュニケーション戦略は、急成長中のZOZOの最大の武器であった。社会的責任のために考慮すべき、あらゆることを免罪する禁断の〝打ち出の小槌〟だったと言える。

 しかし、そこには副作用がある。前澤社長が一度呟けば、社会に影響を与えられるが、当然、その即効性はマイナスの部分をも露呈させる。そして、その副作用の影響は社内においても現れる。社長と、それを崇拝する社員をベースとした甘い関係は熟慮の育成を阻み、前澤社長以外の外部社会への配慮を消し去ってしまうことだ。

 典型例が「ZOZOスーツ」の失敗と3月期経常利益の下方修正の主たる要因となった「ZOZO ARIGATO」と名付けられた有料会員制度だろう。

 ZOZOスーツは無料配布された白い水玉模様のついた全身タイツを着用し、スマホで撮影することで身体のサイズが読み取れ、各人にぴったり合う「オリジナルアイテム」が手に入るという触れ込みだったが、ビジネススーツの不具合とその修正に伴う出荷遅れが問題となり、前澤社長自身「将来的に廃止予定」とツイートするなど、散々な代物であった。失敗の理由は単純明快で、テクノロジーが未熟なため、まだ世に出せる代物ではなかったからだ。

 また、ZOZOARIGATOは全ブランドが割引になる会員セールがブランド価値の低下につながると、オンワードをはじめとする大手ブランドの離反を引き起こした。

 前澤社長がツイッター休止宣言をした直後、下がり続けていた株価は急騰したが、そこで示されたメッセージは〈チャレンジは続きます。必ず結果を出します〉という、相も変わらず何の具体性もない掛け声だった。これが何らかのアクションを期待していた株主の失望を呼び、再び株価は下げに転じた。当然だろう。反省と対策がそこには微塵もなかったからだ。

 前澤社長には企業が持つべき倫理観と、広告戦略の再考が求められていることは間違いない。

(初出『ZAITEN』2019年4月号)

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 月刊経済情報誌『ZAITEN』での過去の連載を収録し、新たな論考を大幅に加えた書籍『超広告批評 広告がこれからも生き延びるために』池本孝慈著(財界展望新社)が発売になりました(書籍の詳しい紹介はこちら)。
 褒める批評を封印し、あえて問題広告を対象とすることで、現代日本の広告や社会が持つ課題を根源的かつ鋭角的に提起することが出来たと自負しています。

※このエントリは財界展望新社の承諾を得て、発売中の新刊『超広告批評 広告がこれからも生き延びるために』池本孝慈著(財界展望新社)から転載しました。

(9月13日追記)

 その後の会見は前澤氏の独壇場だった。さすが風雲児と思った。社長の退任をこんなエンターテインメントにしてしまえるのは前澤氏だけだ。このエントリーは、スタートトゥデイ、ZOZOへと規模が大きくなるにつれて独自の広告・マーケティングがどのように機能し、その限界が見えてきたのかを考察するもので、見出しにもある〈多弁マーケ〉(ちなみにこの〈多弁マーケ〉という言葉はZAITEN編集部が作った)の副作用、今となってはその限界を示すものだった。会見を生放送で見た印象で、これ以上、このエントリーに関係する発言は見られないだろうという予感は当たっていた。しかし、個人的には非常に興味深いものだった。こう言っても信じてもらえないだろうけど、前澤氏は人間的で好きだ。人間的にどうであろうと、そのことをなるべく考慮せずに批評する。それが僕の広告批評についての矜持でもある。

 時代の記録として、ここにその後の会見を簡単に記しておきたい。huffingtonpostの記事から引用。

涙を浮かべて「21年間、本当に、至らぬ僕についてきてくれて、時には泣き、笑い……」と社員への思いを語る場面も

「ああやばい」と涙で言葉を詰まらせ、「あとで社員に伝えることにします」と苦笑。「21年間本当にありがとうございました」と挨拶を締めくくった

ZOZO社長を退任した理由について「宇宙にどうしても行きたい、ということで、準備や宇宙に行くためトレーニングに時間を割くことが多い関係で、今回、すっきり辞任させていただくことになりました」と明かした

もう一つの活動として、「自宅の6畳一間で事業をはじめ、自分の手で事業を作り上げた感動があって、あの感動をもう一度ということで、もう一度事業を作ってみたい」と新たな事業への意欲を述べた

  前澤氏は〈ヤフー側から続投を求められたが「成長するための経営体制は何かを考えた結果、僕が退く」と退任を決意〉とも語っている。そう自らが納得し決断させた孫正義氏の影響の大きさを再認識させられた。〈Let's Start Today〉という手書き文字にピースシンボルが添えられた孫氏は黒、前澤氏は白の揃いのTシャツを来て肩を組む姿が印象に強く残った。

 (9月13日追記2)

 前澤氏が孫氏、川邊氏に向けて〈孫さん、川邊さん。やんちゃでいたずら好きなZOZOを、実は素直で繊細なZOZOを、そして可愛い可愛いZOZOを、これからどうぞよろしくお願いします。〉とツイートしていた。それは経済界はZOZOを子供のままでいさせてくれなかったという意味でもあるのだろう。僕には大人が“子供のずるさ”を戦略的に使いこなしていたようにも見えた。冷たいようだけど。その限界が来た、ということ。それは日本経済の健全さを示すものでもあったのだろうと思う。限界を知りつつ見放さなかった孫氏の凄みを感じた。孫氏は前澤氏にかつての自分を重ね合わせているのかもしれない。と同時に、変わった自分と変われなかった前澤氏についての複雑な思いもあるのだろうと思った。

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2019年9月11日 (水)

2年前に流れていたテレビCMから「かんぽ生命不正販売」を考える

 かんぽ生命不正販売という不祥事が起こることは、2年前に流れていたあるCMが予言していた――

 そう言われたら、あなたはどう思うだろうか。CMに何かの暗号が仕組まれていたのか。はたまたタレントが話すセリフがアナグラムになっていたのか。それとも、特定の人にしか見えないメッセージが電波とともに送られていたのか。

 期待された方には申し訳ないが、そういうオカルトめいた陰謀論を書きたいわけではない。CMがどのような目的でどのように作られていくのか、そのプロセスを理解していれば誰でもある程度は分かることだからだ。もちろん、かんぽ生命不正販売という具体的な部分まで予言されていたわけではない。しかし、この手の顧客コミュニケーションに絡む問題が起こるかもしれないということくらいはCMを見ればすぐに分かるはずだ。

 ZAITEN2017年10月号の連載で、僕は日本郵政グループのあるCMを取り上げた。少し長くなるが、どのようなCMだったかを確認する意味で一部を引用したい。

 〈日本郵政グループの新しいキャンペーンが始まった。数作品放送されているが、どのバージョンも郵便マークのアップリケ付きの赤いオーバーオールを着た青年が〝僕は郵便局が大好きです〟と 言うシーンからスタートする。青年は郵便局の関係者ではなく郵便局好きの顧客であり、郵便局の女性局員に恋をしている。その女性局員は杏奈という名前で、青年が加入した保険の担当者だ。

 青年が骨折した際、ギブスに〝早く退院して下さいね♡杏奈〟と書き添える。青年が郵便局を訪れた際には〈今年ももうすぐ誕生日ですね〉と声を掛け、青年の誕生会に出席するという。その女性局員の傍らで働く男性局員もまた、彼女に好意を寄せている。青年にギブスの添え書きを自慢された際には対抗意識を燃やし、青年が彼女を誕生会に誘ったときも即座に〝僕も行きます〟と答える。青年は、そのたびに〝出たなライバル〟と決め台詞を吐くのが、このシリーズお決まりだ。

 複雑な演出とファニーなキャラクターで構造が分かりにくくなってはいるが、その世界観の設定はかなり異様だ。恋人のように顧客に接する郵便局の女性局員。そして、その接客に惑わされる顧客。同じく女性局員に好意を寄せていることを隠さない同僚の男性局員。その三者で日々繰り広げられる恋の駆け引き……。

 こんな郵便局、どこにあんねん。あったら逆に大問題やがな。そもそも、こんなことを顧客から 求められたら郵便局も局員も困るやろ。〉

 日本郵政グループは持株会社の日本郵政と5つの子会社で構成されている。その中でも中核となるのは日本郵便、ゆうちょ銀行、かんぽ生命の3社である。

 今回の騒動はかんぽ生命の販売不正ではあるが、かんぽ生命は保険商品の設計や運用のみを行い、実店舗などの販売機能は備えず、販売業務をほぼすべて日本郵便に委託している。ちなみに、ゆうちょ銀行も同様で窓口業務を日本郵便に委託。保険商品、金融商品ともに通販もなく他代理店にも出していない。

 つまり、顧客にとって、かんぽ生命との接点となるのは郵便局の窓口しかないということだ。同時に顧客はウェブサイトやパンフレットでしか商品内容を知り得ず、すべては窓口の局員が保険の勧誘のために顧客に話しかけることから始まる。このことは、今回の不祥事を考える上で重要なポイントである。

 かんぽ生命単独のCMもあるが、このCMには予言的要素は少ない。井ノ原快彦が演じる郵便局員が登場するこのCMは、主に契約後の対面でのアフターフォローを描いている。拡販戦略との関連も当然あるだろうし、〈お会いすることで、確かな安心を〉というコピーは、今思うと皮肉めいて聞こえるが、作品自体は何ということもない。つては井上陽水 や能年玲奈(現・のん)も出演した華やかな〈人生は、夢だらけ。〉キャンペーンも含めて、無難なブランド広告に過ぎない。

 では、なぜ日本郵政はかんぽ生命のCMでは夢や信頼をテーマにした、いたって普通のCMをつくり、日本郵政グループ名義ではあるが郵便局のCMでは、常軌を逸した顧客コミュニケーションを描いたのだろうか。あのCMは、ここ数年のCMと比較しても、特筆してアブノーマルな世界観だったと思う。

 この謎を解くには、出来上がったCMから時間を遡って考える必要がある。

 広告は伊達や酔狂でつくるわけではない。日本郵政ほどの大企業にとっても、何億円もの広告費を「ずばり、今の若い人はこんな感じなんですよね。自分で言うのもなんですけど、これ、刺さると思いますよ」「そうかね。今の人はこんな感じなのかね。我々の世代には理解できないけど、ここはクリエイターさんの感性を信じて。よしっ、これでいきましょう」という軽いノリで浪費するわけにはいかない。

 広告制作のプロセスは、一般的には発注企業からのオリエンテーション、受注広告会社から発注企業への広告案のプレゼンテーション(大型案件では通常は競合コンペとなる)、受注広告会社決定、広告案の修正、広告案の決定、決定案の修正と続き、撮影、制作へと進む。日本郵政の場合、この最初のオリエンテーションはどのようなものだったのだろうか。

 想像に過ぎないが、郵便局の好感度向上という大前提はあるとして、サブ項目として、かんぽ生命の保険商品拡販を見越した「営業力の強化」という課題は示されたのだろうと思う。かんぽ生命を含めた保険商品の拡販に貢献する広告が欲しいというニーズは日本郵政に確実にあったはずだ。

 前述の通り、かんぽ生命は販売店や保険営業部隊を持っていないし通販もない。拡販を考えた場合、かんぽ生命を表に立てたコミュニケーションは商品のブランド力向上や信頼性醸成の役には立つが、拡販には役立たない。窓口で局員がいかに勧誘するかがすべてなのだ。

 とにかく顧客に話しかけること。拡販を考えれば、そこに注力することが広告の使命になる。その広告で高額商品である生命保険を前面に立てることは局員、顧客双方にとって対話のハードルを上げることにつながり、逆効果として働く。

 そこで考えられた広告案が、郵便局を舞台にした局員と顧客のコミュニケーションを描いたファンタジーだった。保険商品の拡販で郵便局で重要な場所は、出入金や公共料金の支払で多くの人が訪れるゆうちょ銀行の窓口であり、この顧客との接点でいかに保険商品の勧誘に持ち込めるかが拡販の決め手となる。だからこそ、そのモデルとなるCMは、窓口周辺を舞台に過剰なまでにフレンドリーな姿を見せる必要があったのだ。

 当然、顧客に「郵便局は身近で気軽な存在である」と思わせたいという目的はあったのだろうが、一方で、郵便局で働く局員に対して「あなた方は、かんぽ生命拡販のために、もっとフレンドリーであるべきだ」と伝える目的もあったはずだ。むしろ、今回の不祥事を考慮に入れると、本音では、後者のインナー・コミュニケーションこそが、日本郵政の経営戦略にとってより重要であったことは容易に想像がつく。

 こうして遡って考えると、この日本郵政の広告戦略は非常に良く出来ている。問題は、CMで描かれた顧客コミュニケーションが著しく異様だったことだ。

 なぜ、あのような異様な表現が選ばれたのだろうか。答えは簡単だ。経営陣がかんぽ生命の拡販のために郵便局員に要求する顧客コミュニケーションの強度が異様なほど強かったからだ。「局員は、もっと気軽に、もっと積極的に顧客に話しかけろ」という経営陣の要求が、あの異様な世界を生んだと言ってもいいだろう。

 職場では過剰なノルマで駆り立て、プライベートでは「もっと顧客とコミュニケーションをしなさい。あなたはこのCMで描かれているフレンドリーなやり取りの何分の一もしていないのではないですか」と追い立てる。

 いかにソフトにコミカルに描かれようとも、職場で男性社員と男性客が女性社員を奪い合う、そんな異常な世界を普通の民間企業の経営者は受け入れることはない。しかし、日本郵政の経営陣はこの異様な世界を自ら選択した。

 それは、彼らが考えていた拡販の手法が常軌を逸していたことを意味する。自由市場での生き残りをかけた競争の厳しさにも晒されず、コンプライアンスの徹底という重圧からも逃れ、拡販の自由だけを手にした巨大な内向き世界である日本郵政の意識が社会と乖離するのは必然である。そして、社会と乖離した意識が支配する環境で働く局員が暴走するのは自明の理だ。

 広告は予言する。予言するものは、企業の将来である。企業の将来は社会の将来の一要素でもある。広告批評は、単なる作品批評ではない。

 作品批評を超え、社会的表現である広告に埋め込まれた予言を読み解き、予言された企業の将来、社会の将来を示し、考えていくことなのだろう。少なくとも僕はそう考えている。

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 月刊経済情報誌『ZAITEN』での過去の連載を収録し、新たな論考を大幅に加えた書籍『超広告批評 広告がこれからも生き延びるために』池本孝慈著(財界展望新社)が発売になりました(書籍の詳しい紹介はこちら)

 褒める批評を封印し、あえて問題広告を対象とすることで、現代日本の広告や社会が持つ課題を根源的かつ鋭角的に提起することが出来たと自負しています。

※このエントリは財界展望新社の承諾を得て、発売中のZAITEN 2019年10月号詳細はこちら)ZAITEN REPORTより転載しました。

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2019年9月 7日 (土)

久しぶりにコメント欄が荒れた

 と言っても転載先のBLOGOSで、だけど。

 昨日、このブログに投稿した「映画と広告と文在寅」という記事がBLOGOSに転載された。なぜかいつも僕はBLOGOSは相性が良いらしく、このエントリーもかなり読まれた。政治家さんや政治評論家さんなどの強めのオピニオン記事が多い中、僕のものはちょっと異質な感じなんでしょうね。

 知らない人もいるかもしれないから念のために書いておくと、BLOGOSは、登録されているブログに投稿された記事を編集部が見て転載するかどうかを決める仕組みになっている。随分前に編集部から登録していいかを尋ねるメールがあり、いいですよと答えた。掲載されるときも事前連絡はないし、例えば告知メインの「本を書きました。『超広告批評 広告がこれからも生き延びるために』池本孝慈(財界展望新社刊・9月1日発売)」みたいな記事は掲載はされない。掲載する記事を選ぶ権限は編集部が持っている。完全に。あと、やっぱり政治経済系の記事が掲載されがちかな。ちなみに、金銭は発生していない。ブログの書き手にとっては、載った、多くの人に読まれた、うれしい。そんな感じ。BLOGOSで完全原稿が購読できるので、こちらのブログへの流入は少ない。PVで言うと、先の記事で言えば100倍近くの差がある(ま、たまにしか書かなくなって、僕のブログの閲覧者が少なくなったということもあるけど)。

 「映画と広告と文在寅」という記事は、タイトル通り「政治と広告」をテーマに論じたものだ。僕は直近に起こった小学館の週刊ポストの「韓国なんて要らない」という見出しについての騒動を話しの枕に書き進めた。この騒動もまた広告の問題だよなあという思いもあって枕として選んだ。小学館の週刊ポスト編集部は韓国特集を組むにあたって、広告的にインパクトのある見出しを付けたのだろう。この騒動が広告的な問題でもあるというのは、僕にとっては自明で、そこは多くの人にとっても何ら新しい発見でもないだろうと思った。なので、詳しくは書かなかった。で、週刊ポストの件を批判するその言説の中にも広告的な誘導があるよね、という細かい部分をメインに論じた。そのほうが、後半の論につながるという自分なりの計算もあった。そこは、書き方が親切ではなかったかなとは思う。余談だけど。

 僕が書きたかったのは広告的な観点から見た韓国文在寅政権の成り立ちで、そこには自伝の出版や映画、ニュース映像、演説など、様々なイメージが複雑に絡み合って今の政権が形成されてきたということが見えてくるだろうということだった。それは、文大統領に限らず、トランプ大統領でも安倍首相でも同じで、普遍的な意味合いを持っているだろうと思った。その広告的なイメージ形成のプロセスが激しく表出され、国内及び国際社会と激しく摩擦を起こしているのが現在の文政権で、それは社会的関心の高い日韓問題を考える際の一助になるのではないかとも考えた。

 しかし、コメント欄が枕の部分で荒れた(とは言っても炎上未満の小さな荒れ方ではあるが)。要因としてはBLOGOS編集部が、この記事を多くの人に読んでもらうために、つまり、広告的につけた「韓国で日本批判する本の需要ない」という見出しが挙げられるだろう。枕の部分を紹介した見出しで、僕の記事の趣旨とは異なる。テクニカルなことを言えば、僕は〈批判はともかく「日本と関係を絶ちたい」というニーズはないはずだ〉と書いているので、同じ書くなら「韓国に日本批判本の需要なし」ではなく、「韓国に〈断日〉本の需要なし」だったのだろう。

  週刊ポストの件と同じことが自分にも起きてしまったなあと思った。炎上はしなかったし、謝罪に追い込まれたりはしなかったけど、コメント欄が荒れた。編集部的には活発になったと言えるだろうけど。でもまあ、これはよくあることで、大した話ではない。正確さは若干欠いていたとは思うが、こういう地味な記事を読んでもらうための導入としては見事で、実際にこうして多くの人に読まれたわけだ。それが編集の重要な仕事の一つだ。これは僕が連載している雑誌でも変わらない。編集とはそういうものだ。そういう意味では、この問題は、わりと根深い問題でもあるよなあ、と我が身を持って感じてしまった。

 BLOGOSのコメント欄は、表示するには1クリック必要な仕組みになっていて、そこで読者が感じたことを自由に投稿し合う場になっている。コメントするには登録がいる。そうした仕組みが、いい意味でも悪い意味でも自由な言論空間を成り立たせているのだろう。多くのコメントは編集部が誘導した「韓国で日本批判する本の需要ない」というテーマについてだった。その様々なコメントに目を通しながら思ったことは、多くの人に読まれたけれど、きちんと読んでもらえないものだよなあ、ということだった。まあ、これは今に始まったことでもなく、そういうことも含めて読まれるということで、無料で見られるネットは顕著だけど、雑誌でも書籍でも同じだろう。

 そんな中でも、ああ、きちんと読んでいただいているなあと思えるコメントもあった。

あれ?コメント欄が荒れてる?なんでだろう?
韓国側を中心に様々な言説をけっこう丁寧にわかりやすく意訳してる記事ではあるけど、本記事筆者自身が韓国側に立ってるとかそういうことではない、やや日本寄りながら極力中立指向の良いバランスな記事だと思ったけどな。

前半ではなくて、後半に論旨があるんだろうな、これ。
日本批判とかよりも国内の分断が激しくて内々の批判や否定に終始していると言う事なんだろう。
その広告合戦の末にあらわれたのが「革命」を標榜する文政権で、広告に彩られた「虚像」を演出していると言う感じかね。結構、厳しい評価だな。

この記事の筆者さんが李泳采教授の発言を支持しているように理解してコメントしている方が多いようですが、それは誤解かと思います(書き方自体が良くないのですが)。
当該発言に対する筆者さんの評価は、「この発言は、論理のすり替えによる広告的な誘導があると思った。社会の良識に訴える受け入れやすい論調であるが、そこに自身の党派への広告的誘導が潜んでいることは指摘しておきたい。」という個所にあると思われます。
つまり、仮に李氏の言うとおり<断日>の本が中国や韓国にないのだとしたら、それは<断日>が彼らにとって明確に不利益だからであって、韓国の出版界のほうが道義的に優れている証拠と解釈すべきものではない、というのがこの記事における評価でしょう。
韓国は広告国家である、というのがこの記事の主張で、後半では文在寅の自伝をその観点から批判的に取り上げています。

見出しや冒頭で批判している人もいるようだが、要点は、広告戦略として革命政権を気取る文政権の問題であり、面白い記事。よく読まないともったいない。

 他にもいろいろあったけど、丁寧に読んでくれてありがとうね。ちょっとBLOGOS批判っぽい書き方になってしまったけど、そういうつもりはあまりなく、このコメント欄が自由な空間だからこそ、こういうコメントもいただけるのでしょう。コメント欄を含めて、サイトの設計は上手だなあと思っています。左翼やら右翼やら、文章が下手やら、書き方が悪いやらいろいろなコメントもあったけど、きちんと読んでもらえるように書くって難しいね。ま、でも、あの記事はあれでよいとも思うけど。

 なお、この記事にはオピニオンはありません。ただのとりとめのない雑感でした。こんなことがあったよ、いろいろ思ったよ的な。ではでは。

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2019年9月 6日 (金)

映画と広告と文在寅政権

 日韓関係が揺れて続けている。

 考えたところで僕にはどうすることもできないけれど、それでもやはり考えてしまう。Twitterであれやこれやつぶやいてみるも、長文のブログで書くことはなかなか難しかった。僕の専門分野でもないし、僕の能力を超えてしまっているからだ。韓国のことを知りたいと思う。多くの日本の人たちも同じだろうと思う。だから、テレビやラジオでは韓国について特集されるし、雑誌や書籍は韓国関連本で溢れる。

 先頃、小学館の週刊ポストが〈韓国なんか要らない〉という見出しを付けて韓国特集を行った。全国紙にもその見出しが大きくレイアウトされた広告が掲載された。多くの人たちが反発し、拒絶反応を示した。多くの人が問題にし論議された問題だから、ここでは多くは語らない。検索すればいくらでも参照できるだろう。ただ、僕が唯一と言っていい専門分野である広告的な観点で言えば、需要があるから供給があり、それが複雑で解決が難しい問題であるが故に出てしまった過剰な感情的反応から生まれた出来事の一つだったのだろうと思う。つまり「韓国と関係を絶ってしまえれば、どれだけ楽だろうか」という逃避的な感情反応だ。もちろん、その感情を、特に小学館のような大手メディアが公共性の高い空間に放り出してしまえば責任は問われることは言うまでもない。

 興味深いやり取りがあった。リベラル、保守派から見たら左派の恵泉女学園大学の李泳采教授が「日韓関係が最悪だといっても、中国や韓国の出版社には、日本との関係を断絶するとか、日本を批判するような本は1冊もないし、そういう本は売れない。読む人もいない」と語っていた。日本の言論空間の保守化と人権の軽視についての指摘だろう。

 中国や韓国の書店を見たわけではないから真偽は分からないが、一つだけ言えることは、それは中国や韓国の出版社にとって、それは単純に需要がないと見做されているだけではないか、ということだ。韓国を例にとれば、批判はともかく「日本と関係を絶ちたい」というニーズはないはずだ。日本に対する韓国の主張は、我々の最高裁が日韓併合を違法であると認定し、日本企業に対し戦時労働者が求める慰安金の支払いを決定したのだから応じてほしい、であり、道義的責任の前で国家間の約束は取るに足らないものであることを認識すべきである、であり、その報復である韓国に対しての輸出管理強化を撤回してほしい、である。そのための対話の扉はいつも開かれていると言っている。そこに韓国のメディアで語られる言葉を用いれば〈嫌日〉〈反日〉〈侮日〉〈要日〉はあっても〈断日〉につながる契機はあるはずはない。むしろ〈断日〉は困る。この発言は、論理のすり替えによる広告的な誘導があると思った。社会の良識に訴える受け入れやすい論調であるが、そこに自身の党派への広告的誘導が潜んでいることは指摘しておきたい。精密さを書く論拠に基づく広告的誘導は重要な問題についての冷静で精密な論議を大きく阻害する。

 僕は韓国は広告国家だと思っている。韓国は国際的な広告・広報戦略に長けているとう意味だ。さらに言えば、軍事力と同じように広告・広報という手段を使いこなしているということだ。その成功体験も数多くある。直近ではWTOでの福島県産海産物の輸入規制についての日本からの訴えによる審議の勝訴だろう。その点では日本は遅れをとっている。それはやはり敗戦国としての自制が働いているのだろうとも思う。自著でも第三章「倫理なき広告とプロパガンダ」で論じたが(参照)、国家から見れば広告は軍事力の一部でもある。その行使に自制的になるのは仕方がなかったことなのかもしれないが、今後はそうも言ってはいられないだろう。

 軍事力としての広告という視点で見た場合、その特徴は、それが「弱者の武力」であるということだ。だから広告大国である韓国は、日本でも同様ではあるが、主に左派政権で有効に用いられてきたように思う。1980年に起きた光州事件のちなみに、これは前提ではあるが、あえてもう一度その前提を書いておくと、韓国の政治環境は右派、左派、無党派の各層がほぼ1対1対1であり、日本とは大きく異る。

 この韓国左派の広告戦略の根幹に流れるストーリー、あるいはシナリオはどのようなものなのか。その手がかりとなる書籍がある。文在寅自伝「運命」である。この本が韓国で出版されたのは2012年だ。当時の韓国最大野党であった民主統合党の文在寅の大統領選挙出馬にあわせて出版された。結果は与党であるセリヌ党の朴槿恵の勝利。文在寅は48.0%の得票率で敗北した。日本から見れば僅差と言えるが、常に左右が拮抗している韓国にとっては108万票差は完敗という評価もあり得ると思う。2017年、朴槿恵元大統領の弾劾により文在寅が大統領に第19代韓国大統領に就任したことにあわせて、日本で岩波書店から日本語翻訳版が出版された。

 つまり、この本の出版自体が大統領選に向けた広告の一環であると見ることもできるだろう。ここにある記述は、盧武鉉政権を支え、弁護士時代に合同事務所を営んだ韓国で著名な人権派弁護士が有権者に伝えたい物語であるとも言える。

 僕はこの本を発売直後に購入して読んだ。日韓関係が悪化し、書評をブログに掲載しようと考えることもあったが、なかなかうまく書けなかった。それは、この本があまり面白くなかったからだ。むしろ、僕はこの自伝を文在寅という人間像を知るためではなく、僕自身があまり知らなかった現代韓国史の教科書として読んだ。ただ、現代韓国史の教科書としても日本人にとってはあまり親切ではなく(もちろん韓国人向けに書かれているので望むべくもないのだが)、描かれているのは自身の大学受験の失敗や、その後の市民運動への傾倒と逮捕、そのことが原因となり検察官になりたいという夢の挫折、盧武鉉との出会い、合同事務所の設立、大統領になった彼とともにする青瓦台での日々が淡々と綴られる。韓国であれだけ加熱した米国産牛肉輸入阻止運動でも、なし崩し的に収まっていく運動に対して悔しかったと述懐するのみだ。

 そこには、清貧で誠実で正義感のあるが、温厚でやや押し出しの弱く口下手な一人の人権派弁護士がただいるだけだ。これから読まれる方には大変申し訳ないと思うが、最後の文章を引用したい。

 彼に会わなかったら、そこそこ安泰に、適当に人助けをしながら生きていたかもしれない。彼の苛烈さが私を目覚めさせた。
 彼は死ぬときでさえ苛烈だった。そして私を再び彼の道へと引きずり込んだ。盧武鉉は遺書に「運命だ」と書いた。心の中で思った。「私のほうこそ、運命だ」。
 あなたはすでに運命から解放されたが、私はあなたが残した宿題に縛られている。

 そんな文在寅がテレビのニュースでは度々、激情をむき出しにした姿を見せる。韓国でフッ化水素工場の大爆発事故が起きた時、当時、野党の議員だった文在寅は現場視察で作業服を着てヘルメットを被った姿で、テレビカメラに向かって「こんなことが許されていいのか!」と大声で叫ぶ。朴槿恵元大統領の弾劾につながったセウォル号沈没事故では、政府の対応の不味さに抗議しハンガーストライキを決行し生命の危険が迫った市民に代わって、自らがハンガーストライキを行う。白髪が長く伸び、ヒゲも伸び放題の、体力も衰え、痩せ細った文在寅の姿がテレビや新聞で何度も報道された。穏やかな笑顔を絶やさない温厚な人物が時折見せる激しい怒り。広告として見た場合、あの自伝はその落差として機能しているのだろう。

 テレビニュースで時折見せる、まるで映画のような怒りは、どのように受容されるのか。日本記者クラブ主催の「朝鮮半島の今を知る」(23)文在寅大統領をどう見るか-文在寅政権の歴史的課題と日韓関係」というクォン・ヨンソク(権容奭)一橋大学准教授の講演によれば、韓国では報道ニュース番組を楽しみにする国民が多いとのことだ。最終的に正義が勝つ物語として事件報道を楽しむ傾向が高いという。この動画は1時間40分あるが、興味のある方は視聴してみてほしい。韓国の3分の1を占める、韓国のリベラル派がどのように文在寅政権を考え、評価しているかが非常によく理解できる。共感、批判は別にして韓国問題を考える人は必聴の資料だろうと思う。

 映画と言えば、世界的に大ヒットした韓国映画「タクシー運転手 ~約束は海を越えて~」に言及しなければいけないだろう。この映画は、1980年に起きた光州事件で実際にあった実話を元にしている。悲惨極まりない光州事件も映像化されながらも、庶民的なソウルのタクシードライバーを演じるソン・ガンホの人間味溢れる演技や終盤の手に汗握るカーチェイスなど娯楽映画として楽しめる作品になっている。

 この映画は2017年に公開された。文在寅の大統領就任後だ。青瓦台は、実際の事件でドイツ人記者である故ユルゲン・ヒンツペーターの妻を韓国に招き、文在寅大統領夫婦とともに鑑賞している。文在寅大統領は〈光州事件の真相は完全には解明されていない。これは我々が解決すべき課題であり、私はこの映画がその助けになると信じている〉とコメントしている。

 2019年3月1日の三・一運動記念式文大統領演説を覚えているだろうか。この演説では、先に紹介したクォン・ヨンソク(権容奭)一橋大学准教授の講演でもテーマになっていた〈親日残滓清算〉という言葉が何度も登場するが、それ以上に驚かされたのは〈アカ〉という現代ではほぼ忘れられかけている言葉が何度も登場することだった。

日帝は独立軍を「匪賊」、独立運動家を「思想犯」と見なして弾圧しました。このときに「アカ」という言葉もできました。思想犯とアカは本当の共産主義者だけに使われたのではありません。民族主義者からアナーキストまで、全ての独立運動家にレッテルを張る言葉でした。左右の敵対、理念の烙印は日帝が民族を引き裂くために用いた手段でした。解放後も親日清算を阻む道具になりました。良民虐殺、スパイでっち上げ、学生たちの民主化運動にも、国民を敵と追い込む烙印として使用されました。解放された祖国で日帝警察の出身者が独立運動家をアカとして追及し、拷問することもありました。多くの人々が「アカ」と規定されて犠牲になり、家族と遺族は社会的烙印の中で不幸な人生を送らねばなりませんでした。今もわれわれの社会で政治的な競争勢力をそしり、攻撃する道具としてアカという言葉が使われており、変形した「イデオロギー論」が猛威をふるっています。われわれが一日も早く清算すべき代表的な親日残滓です。

 いくらリベラル派と言えども、「アカ」という言葉は韓国社会で今どき日常的には使われないだろう。これは、たぶん映画「タクシー運転手 ~約束は海を越えて~」のヒットと関連させた発言だろうと思う。映画の中で韓国軍が「このアカ野郎が!」と言って市民を殴り殺すシーンが幾度も出てくる。これは実際にもあったことではあるが、光州事件は1980年の出来事である。

 つまり、この演説は、約40年前の光州事件という悲惨な出来事を描いた現代の映画の中のショッキングなイメージを「アカ」という言葉を契機に現代と結びつけた、自身の党派的思想への誘導なのだろう。〈今もわれわれの社会で政治的な競争勢力をそしり、攻撃する道具としてアカという言葉が使われており、変形した「イデオロギー論」が猛威をふるっています〉と結ぶことで、光州事件を現在の対立的党派と接続してしまった。極めて広告的な戦略を持った演説だと思う。2017年5月20日の大統領就任時〈今日から私は国民みんなの大統領になります。私を支持しなかった国民一人ひとりも、私の国民であり、私たちの国民として仕えていきます〉という言葉は嘘だったのだろうか。

 この演説で、朴槿恵元大統領の弾劾を求める大規模デモを表す単なる修辞だった「キャンドル革命」が本当の革命へと転化する。国内でも革命政権さながらの粛清的人事で組織改革を行い、国際社会においても革命政権さながらの独善的な振る舞いを続けている。しかし、文在寅政権は民主的な選挙で選ばれた政権であり、たとえ弾劾によるものであっても、単なる政権交代に過ぎない。広告的につくられた独善的な理想世界は現実の世界とは違う。この広告的な革命を支持する、支持しないに関わらず、今起きている問題は、空想世界と現実世界との齟齬なのだろう。

 この広告的につくられた革命を、このまま韓国国民は支持し続けるのだろうか。軍、行政、司法と続く、まるで革命のような粛清的組織改革の残された最後の一つ、検察改革は、スキャンダルで揺れている。経済は、その広告的な革命を支えきれるだろうか。日韓GSOMIAが失効する11月23日午前0時を一つの区切りとして、今後も注視していくしかない。

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