久しぶりにコメント欄が荒れた
と言っても転載先のBLOGOSで、だけど。
昨日、このブログに投稿した「映画と広告と文在寅」という記事がBLOGOSに転載された。なぜかいつも僕はBLOGOSは相性が良いらしく、このエントリーもかなり読まれた。政治家さんや政治評論家さんなどの強めのオピニオン記事が多い中、僕のものはちょっと異質な感じなんでしょうね。
知らない人もいるかもしれないから念のために書いておくと、BLOGOSは、登録されているブログに投稿された記事を編集部が見て転載するかどうかを決める仕組みになっている。随分前に編集部から登録していいかを尋ねるメールがあり、いいですよと答えた。掲載されるときも事前連絡はないし、例えば告知メインの「本を書きました。『超広告批評 広告がこれからも生き延びるために』池本孝慈(財界展望新社刊・9月1日発売)」みたいな記事は掲載はされない。掲載する記事を選ぶ権限は編集部が持っている。完全に。あと、やっぱり政治経済系の記事が掲載されがちかな。ちなみに、金銭は発生していない。ブログの書き手にとっては、載った、多くの人に読まれた、うれしい。そんな感じ。BLOGOSで完全原稿が購読できるので、こちらのブログへの流入は少ない。PVで言うと、先の記事で言えば100倍近くの差がある(ま、たまにしか書かなくなって、僕のブログの閲覧者が少なくなったということもあるけど)。
「映画と広告と文在寅」という記事は、タイトル通り「政治と広告」をテーマに論じたものだ。僕は直近に起こった小学館の週刊ポストの「韓国なんて要らない」という見出しについての騒動を話しの枕に書き進めた。この騒動もまた広告の問題だよなあという思いもあって枕として選んだ。小学館の週刊ポスト編集部は韓国特集を組むにあたって、広告的にインパクトのある見出しを付けたのだろう。この騒動が広告的な問題でもあるというのは、僕にとっては自明で、そこは多くの人にとっても何ら新しい発見でもないだろうと思った。なので、詳しくは書かなかった。で、週刊ポストの件を批判するその言説の中にも広告的な誘導があるよね、という細かい部分をメインに論じた。そのほうが、後半の論につながるという自分なりの計算もあった。そこは、書き方が親切ではなかったかなとは思う。余談だけど。
僕が書きたかったのは広告的な観点から見た韓国文在寅政権の成り立ちで、そこには自伝の出版や映画、ニュース映像、演説など、様々なイメージが複雑に絡み合って今の政権が形成されてきたということが見えてくるだろうということだった。それは、文大統領に限らず、トランプ大統領でも安倍首相でも同じで、普遍的な意味合いを持っているだろうと思った。その広告的なイメージ形成のプロセスが激しく表出され、国内及び国際社会と激しく摩擦を起こしているのが現在の文政権で、それは社会的関心の高い日韓問題を考える際の一助になるのではないかとも考えた。
しかし、コメント欄が枕の部分で荒れた(とは言っても炎上未満の小さな荒れ方ではあるが)。要因としてはBLOGOS編集部が、この記事を多くの人に読んでもらうために、つまり、広告的につけた「韓国で日本批判する本の需要ない」という見出しが挙げられるだろう。枕の部分を紹介した見出しで、僕の記事の趣旨とは異なる。テクニカルなことを言えば、僕は〈批判はともかく「日本と関係を絶ちたい」というニーズはないはずだ〉と書いているので、同じ書くなら「韓国に日本批判本の需要なし」ではなく、「韓国に〈断日〉本の需要なし」だったのだろう。
週刊ポストの件と同じことが自分にも起きてしまったなあと思った。炎上はしなかったし、謝罪に追い込まれたりはしなかったけど、コメント欄が荒れた。編集部的には活発になったと言えるだろうけど。でもまあ、これはよくあることで、大した話ではない。正確さは若干欠いていたとは思うが、こういう地味な記事を読んでもらうための導入としては見事で、実際にこうして多くの人に読まれたわけだ。それが編集の重要な仕事の一つだ。これは僕が連載している雑誌でも変わらない。編集とはそういうものだ。そういう意味では、この問題は、わりと根深い問題でもあるよなあ、と我が身を持って感じてしまった。
BLOGOSのコメント欄は、表示するには1クリック必要な仕組みになっていて、そこで読者が感じたことを自由に投稿し合う場になっている。コメントするには登録がいる。そうした仕組みが、いい意味でも悪い意味でも自由な言論空間を成り立たせているのだろう。多くのコメントは編集部が誘導した「韓国で日本批判する本の需要ない」というテーマについてだった。その様々なコメントに目を通しながら思ったことは、多くの人に読まれたけれど、きちんと読んでもらえないものだよなあ、ということだった。まあ、これは今に始まったことでもなく、そういうことも含めて読まれるということで、無料で見られるネットは顕著だけど、雑誌でも書籍でも同じだろう。
そんな中でも、ああ、きちんと読んでいただいているなあと思えるコメントもあった。
あれ?コメント欄が荒れてる?なんでだろう?
韓国側を中心に様々な言説をけっこう丁寧にわかりやすく意訳してる記事ではあるけど、本記事筆者自身が韓国側に立ってるとかそういうことではない、やや日本寄りながら極力中立指向の良いバランスな記事だと思ったけどな。前半ではなくて、後半に論旨があるんだろうな、これ。
日本批判とかよりも国内の分断が激しくて内々の批判や否定に終始していると言う事なんだろう。
その広告合戦の末にあらわれたのが「革命」を標榜する文政権で、広告に彩られた「虚像」を演出していると言う感じかね。結構、厳しい評価だな。この記事の筆者さんが李泳采教授の発言を支持しているように理解してコメントしている方が多いようですが、それは誤解かと思います(書き方自体が良くないのですが)。
当該発言に対する筆者さんの評価は、「この発言は、論理のすり替えによる広告的な誘導があると思った。社会の良識に訴える受け入れやすい論調であるが、そこに自身の党派への広告的誘導が潜んでいることは指摘しておきたい。」という個所にあると思われます。
つまり、仮に李氏の言うとおり<断日>の本が中国や韓国にないのだとしたら、それは<断日>が彼らにとって明確に不利益だからであって、韓国の出版界のほうが道義的に優れている証拠と解釈すべきものではない、というのがこの記事における評価でしょう。
韓国は広告国家である、というのがこの記事の主張で、後半では文在寅の自伝をその観点から批判的に取り上げています。見出しや冒頭で批判している人もいるようだが、要点は、広告戦略として革命政権を気取る文政権の問題であり、面白い記事。よく読まないともったいない。
他にもいろいろあったけど、丁寧に読んでくれてありがとうね。ちょっとBLOGOS批判っぽい書き方になってしまったけど、そういうつもりはあまりなく、このコメント欄が自由な空間だからこそ、こういうコメントもいただけるのでしょう。コメント欄を含めて、サイトの設計は上手だなあと思っています。左翼やら右翼やら、文章が下手やら、書き方が悪いやらいろいろなコメントもあったけど、きちんと読んでもらえるように書くって難しいね。ま、でも、あの記事はあれでよいとも思うけど。
なお、この記事にはオピニオンはありません。ただのとりとめのない雑感でした。こんなことがあったよ、いろいろ思ったよ的な。ではでは。
| 固定リンク
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- Riskという概念(2019.10.17)
- 「同和」という言葉をめぐって(2019.10.07)
- 久しぶりにコメント欄が荒れた(2019.09.07)
- 父の死(2014.09.02)
- ラジオのこと(2014.08.29)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント