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2019年10月の3件の記事

2019年10月17日 (木)

Riskという概念

 加入している生命保険の担当者に新人さん(とは言っても入社したての人ではなく、3年の経験を経て顧客の担当ができるという制度とのこと)が補佐で付いて、ご挨拶ということでいろいろ話を聞く機会があった。僕の場合、この年で独身で子供もいなくて、そのうえ親も亡くなってしまっているので生命保険の必要性が希薄になっているので時間を取らせるのも申し訳ないなあと思いつつつ、話を聞いていた。

 新人さんなので、いろいろと保険という商品の知識を基礎から丁寧に教えてくれる。ただ、僕は広告の仕事で金融関係は数社担当していたし、それなりの知識があり、「これはどちらが保険会社が儲かると思います?」というような質問があるプレゼンだったので、途中からその正解率を競うゲームを楽しむみたいな感じで話を聞いていた。あらためて基礎から教えてくれるので、学びという意味でもそれなりの面白さはあったけれど。

 その話の中で「Riskってどういう意味だと思います?」という質問が来た。ふと考えると、うーん、と考え込んでしまった。適切な訳語がない。自分の肌感覚では分かる。それは、英語のRiskという概念で考えてしまっているからだけど、日本語では適切な表現がなかなかできない。

 パチンコ、パチスロをやらない人には分からないかもしれないが、その筋の世界には「期待値」という言葉がある。期待値は、その台での勝利期待度みたいなものを表す言葉だ。例えば、パチンコなら1000円でデジタルが回る回数が20回を超えれば(この回数は台にとって違うけど)期待値が100を超えるので当たらなくても打ち続けてもいい、打ち続けるべき、という考え方だ。パチスロには設定があって、小役を数えて出現率を割り出せば、ある程度は設定を推測できるという、客側に設定を推測する楽しみをあらかじめ台に組み込んである。

 熟練者は、その期待値を推測して勝利を目指すのだが、パチンコ、パチスロは基本的には完全確率抽選なので期待値を100を超えていても負けることはある。運の問題が左右するわけだから。逆に期待値が100を大幅に下回っていても、運が良ければ勝つこともある。それでも長期的には期待値が100を超える台を打ち続ければ勝率は上がる。

 Riskはどういう意味かという問いで、まず考えたのはそういうことだった。でも、Riskって期待値でしょ、という答えはしっくりこない。で、答えを聞いた。答えは「Riskって危険って考えるじゃないですか。でも、危険はDangerですよね。Riskは危険ではないんですよね」というものだった。物理的な危険はDangerだし、心理的な危険、つまり恐怖は「俺たち、ノーフィアー!」のFearだ。でも、それは僕が知りたかった答えではなかった。

 辞書を引くと「(危険・不利などを受けるかもしれない)危険、恐れ、危険、被保険者」とある。ま、つまり、日本語には適切な訳語がない、ということ。ニュースでよく使われる「という恐れがあります」や「という懸念があります」の「恐れ」や「懸念」が感覚的にはRiskに近いかも、と思ったが。それでも、被保険者をRiskと言い切る英語が持つシビアな感覚は日本語圏ではあまり表現はできていないなあと思った。

 Riskyという言葉がある。こちらは一般的には「危ない」「際どい」という意味で日本語でもよく使われる。「あぶない刑事」はRiskyな刑事という意味だろうし、パチスロライターで元アルゼ取締役のリスキー長谷川さんは際どいという意味で使っているのだろう。

 Riskという言葉を調べてみると、マーケティング関係のページがたくさん見つかる。対義語はBenefit(便益、利益)で、RiskとBenefitは相関関係にあると解説されている。マーケティング界隈にありがちだが、わりと簡単なことが小難しい理論で語られているが、要するに「得られるかもしれないことはこれだけあるけど、理論的には失敗したときに被る損はこういうのが考えられるよ。行動を起こすときは、ベネフィットとリスクを頭に入れて考えようね」ということだ。

 ここ最近、SNSなんかで話題になっているダムやスーパー堤防、タワマンなんかの台風関連の話を見るに、Riskという言葉が日本語でこれ、というものが見つからないということが影響しているのかなあ、と思ったりもする。つまり、Riskという概念は外来の概念なのだろう。Riskという概念が完全に定着するには、もう少し時間がかかりそうな気がした。

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2019年10月15日 (火)

ある小さな違和感

 大きな災害が起こると現在の放送メディアのあり方についていろいろと考える。

 放送は許認可事業で、誰もが参入できるわけではない。だから災害時には許可された放送エリアにあわせて様々な役割を担うことが求められている。国が考えている役割は、NHKは全国を対象とし、災害時においてはその公共放送という性格から、何においても災害時に必要な情報を提供することが求められる。民放については、現在では全国の放送局を結んで全国ネットで放送される番組が数多いが、正確には東京を例にとれば、日テレ、テレ朝、TBS、フジテレビ、テレ東などは関東広域が対象で、東京MXは東京都域、TVKは神奈川県域となる。

 民放はその放送エリアで収益を目的とする放送事業を自由に営むことを許可する代わりに、災害時にはそのエリアに必要な情報の提供に務める責務がある、ということになっている。これはラジオも同様で、ラジオの場合はさらに狭域の市域や町域を担うコミュニティーFMが加わる。

 こうした役割の分担によって、すべての地域に対して十分な情報提供を行える体制を作ろうとしてきたのが日本の放送行政だったと言えるだろう。そこには広告モデル(広告による収益モデル)による無料放送市場の成長への信頼があった。

 名古屋で始まった民間放送は、東京、大阪などの大都市に広がり、各都市の新聞社や財界、先行する放送局等の出資によって全国で放送局の開局が相次いだ。独立した企業である各放送局はやがて互いに手を結びネットワーク化した。

 ここから先の話には、関東広域局と関西広域局の所謂「腸捻転」とか、興味深い話が多いので誘惑に駆られるが、エントリのテーマではないので割愛する。

 本題に戻る。このエントリで言いたいことは、要するに、ネットワークして全国放送の役割が高まったけれども、社会にとっての情報インフラの役割を根本から考えるならば「民間放送とはそもそも地域放送である」ということだ。

 台風19号では、様々な放送メディアがリアルタイムで情報を伝えていた。NHKは通常番組を中断して被害を受けた各地域をきめ細かく取材し伝えた。神奈川県域局であるTVKは神奈川県の情報を中心に必要な情報を随時配信し、ケーブルテレビ局であるJ:COMテレビは、サービスエリアの狭域情報を文字情報と読み上げソフトを使って伝えていた。

 広告モデルに対するオプティミズムは、バブル崩壊後はもうないだろう。やれることはそれぞれの市場規模に収益は比例する。小さな市場を生業とする放送局は財政も厳しい。その中で、各局ができることをやっていたと思う。NHKは全国を担う責任を超えて、災害当時地域の方々のためにも情報を伝えようとしていたし、県域、市域、区域などの小さなエリアを生業とする小さな放送局も、今、できることを工夫しながら伝えようとしていた。

 しかし、違和感もあった。

 キー局と言われる放送局の災害報道についてだ。多くのキー局は、全国ネットで番組を放送していた。L字に配置された枠では文字情報で災害情報を伝えていた。番組が終わると、台風18号についての報道特別番組が始まった。全国の視聴者に向けての報道だった。

 それはNHKがすでにやっていることではないか、と思った。CMが流れると、L字に配置された情報枠は取り払われ情報が流れなくなる。長いCM枠が終わり番組に戻ると、またL字枠が復活し、スタジオのアナウンサーが深刻な表情で現地にいる報道スタッフの報告を聞いている。この報道特別番組は誰に向けてやっているのだろうか。正直言えば、これは報道特別番組という名前が付けられたエンタテインメントなのではないかと思った。こういう報道をすることに労力を使うなら、NHKに誘導すればいいのでは、とさえ感じた。NHKはずっと前の時間から、すべての番組を中止してやっているのだから。もう「民放だってこれくらいのことはできる」とNHKに対抗心を燃やす次代も終わってるとも思うし、その思いが社会の役に立つのは、多様な報道が求められるもっと後のことだろうとも思うし。

 キー局は災害放送をもっと頑張れと言っているわけではない。逆だ。現在の放送環境の中で果たすべき役割を考えて行うべきではないかということだ。様々な状況の人々がいる中で、せめて緊急時だけは関東広域局としての役割はなにかを考えてほしいと思う。極論を言えば、その中で、今、何もない、多くのテレビ視聴者が今はNHKを見るべきだ、我々の役割はそのあとの報道だ、と思えば、リアルタイムの災害報道はNHKに任せて、自身は通常番組を放送し続けるという判断もあると思う。不安な中で気晴らしとしていつもの番組を求めている被災者の方もいるだろう。その意義を見いだせれば、そういう選択もできるはずだ。

 少しでもその意識があれば、リアルタイムで起こっている災害についての報道特別番組を放送しているにも関わらずCMが流れる時にL字の情報枠を消すというようなことはできなかったはずだ。それに、広告主も報道特別番組の間でCMが流れる時に、リアルタイムに変わる災害情報が止まることを望んではいないだろうとも思うし。

 すぐに忘れてしまうような小さな違和感ではあったけれど、緊急時における放送の役割を再考し、広告主や視聴者を含めた共有が必要なのではないかと思った。

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2019年10月 7日 (月)

「同和」という言葉をめぐって

 本当は専門家が語るべきだろうと思うが、今回の騒動で問題となった同和という言葉を中心に少しだけ。僕らの世代では当たり前でも、今の若い人たちはあまり知らないことなのかもと思うし、極めて党派的対立が強い分野なので、専門家ではない一般人がアウトラインを語る意味は少しはあるだろうと思う。

 もともとこの言葉は被差別部落の環境改善と差別解消を目的とした事業を、差別によって立ち遅れていた生活インフラや都市環境を他の地域と同じような水準にすることで差別を解消しようという意味で同和事業と呼んだことから来ている(追記あり)。地方で個別に行われていたものが、69年、同和対策事業特別措置法として正式に立法化され国策事業になった。10年の時限立法だった。

 多額な予算を投入する国策事業なので、どうしても利権ができる。で、その利権を巡るいくつかの騒動が事件となり同和利権という言葉ができた。一方で、部落解放運動の中で、大きく3つある団体の中でも最大の組織である部落解放同盟は、同和事業利権への傾斜を深めるとともに、過激な糾弾闘争を繰り広げていた。それは、差別的発言をした人を糾弾会に呼び出して一人に対して集団で徹底的に反省と自己批判を迫るというものだった。精神を破壊される者も多かった。この闘争で部落差別にまつわる様々な言葉がタブー化することになる。集落を示す部落という言葉さえ、公では使えない状況になる。やがて、同和という言葉が代替語となる。そして、同和という言葉さえもタブー化するようになっていく。

 映画評論家の町山智浩さんがジャーナリストの佐々木俊尚さんの「高浜町と関西電力の話は同和がらみなのですか…。本当ならこれはまたマスメディアで報じにくい案件に。」という発言に対して「差別的な風評拡散で通報しました。佐々木俊尚はもうジャーナリストを名乗ってはいけないと思います。」というツイートを行った背景には、同和という言葉が、被差別部落の言い換え、もしくは差別的なニュアンスを含む隠語であり、差別性が感じられるようになったという事情がある。一方で、佐々木さんが用いた「同和がらみ」という言葉は、単に同和事業に関わる利権がらみという意味でしかない。(現段階としては、故・森山元助役は後述する部落解放同盟朝田派の方法論を個人で引き継ぎ、部落解放運動を利用して自身の権力を保持してきたのだろうと思う。現在、朝田派は失脚している。その意味では、森山氏が原発立地である高浜町と関わった当初はともかく、今回は同和事業との関わりも薄く、ここ数年においては部落解放同盟と関係がない可能性が高いと思う。)

 10年の時限立法であった同和対策事業特別措置法はその後、3年延長され終了したが、まだ被差別部落の環境改善と差別解消が達成されたわけではなく、地域によっては事業を進める必要があった。そこで、82年、地域改善対策特別措置法(地対法)が施行される。同和という言葉がここで公式には消えることになる。これは同和利権に関係する不祥事や事件、また、前述の同和が部落差別を意味する隠語として機能してしまっている現状なども反映しているのだろうと思う。また、この法律が検討される協議会では、部落解放同盟の糾弾会や同和事業を巡る騒動が議題にあげられ協議会に対して批判を強めていた部落解放同盟にとっても、この時点で同和という言葉がネガティブなイメージを持つようになってきて、同和という名前を冠することを望まなくなっていたのかもしれない。そのあたりの空気感は、当時、活動家として内部から部落解放同盟の運動方針を批判をしていた藤田敬一さんの著書「同和こわい考―地対協を批判する (あうん双書)」に詳しい。本は絶版で入手は古本の出品を待つか図書館で読むしかないが、このサイトに当時の様々な方の論考の貴重な記録が残されている。興味のある方は一読を薦める。)

 ここで、部落解放運動の団体について整理しておきたい。

 今では部落解放運動の団体としては部落解放同盟しか報道されなくなってしまったが、部落解放同盟がその過激な活動によって社会問題を起こしていく中で、その強力な批判者だったのが日本共産党だった。糾弾闘争や積極的な行政への介入による利権獲得は、部落解放同盟の当時の指導者である朝田善之助が提唱した朝田理論によるものだった。団体内の権力闘争で朝田派は主流派から失脚し、以前より穏健にはなったが、部落解放同盟は現在でも糾弾闘争を肯定的に位置づけ、糾弾を否定する言論こそが差別と偏見のあらわれと主張している。この朝田の指導体制に反旗を翻す者たちを日本共産党が吸収する形で、全国部落解放運動連合会が誕生する。一方で、保守系では全日本同和会が存在したが、部落解放同盟同様に暴力による同和利権獲得運動に批判が集まり、同和利権に関わる事件に関与した者を除名、排除する形で新たに自由同和会が誕生。ほぼ自民党系と言っていいだろうと思う。自由同和会は、部落解放運動から階級闘争と天皇制否定を排除する運動方針をとっている。

 全国部落解放運動連合会が共産党系、自由同和会が自民党系という流れで、部落解放同盟が社会党系と見る向きもあるが、厳密に言えば、前者2団体と違い、主体は部落解放同盟であり、社会党は団体が支持している政党に過ぎない。ちなみに、現在、部落解放同盟中央本部が支持を表明している国政政党は立憲民主党である。また、地域によっては自民党を支持するなど、まちまちである。

 共産党系の全国部落解放運動連合会は、日本共産党との結びつきが強く、ほぼ日本共産党であると言っていい。部落解放同盟が引き起こした事件としては、代表的なものはオールロマンス事件八高事件などいくつもあるが、佐々木さんが「マスメディアで報じにくい案件」と触れられているように、マスコミが差別問題として報道に及び腰になる中、事件の真相に迫る批判的な報道をしてきのは「赤旗」を始めとする日本共産党の機関紙だった。週刊誌でさえ、大きな刑事事件になるまでは報道できない状況だった。今回の関電の騒動で、森山元助役の関電や部落解放同盟とのつながりとを報じていたのが日本共産党の理論政治誌「前衛」だったのはそういう背景がある。

 部落差別問題についての日本共産党の見解はどういうものだったのか。

 それは文字通り「同和」である。10年の時限立法としての同和対策事業特別措置法に対して、最も国策の考え方に近かったのは、じつは日本共産党なのではないかと思う。被差別地区と他の地区が同和されたとき部落差別問題は解決されるという考え方で、糾弾闘争、同和利権について徹底した批判を展開した。日本社会でも批判的な空気はあったが、直接言論で批判していたのは日本共産党しかなかったと言ってもいいかもしれない。同時に、その主張は国や世論に近く、そこがまた、急進的な解放運動側からは批判される点でもある。これは、今となってはあまり知られていないことだろうと思う。04年、全国部落解放運動連合会は「部落問題は基本的に解決した」と終結宣言をし解散。発展的に全国地域人権運動総連合と名を変えた。

 82年に施行された地域改善対策特別措置法(地対法)は、02年に期限が切れ、国策としての同和対策事業は終焉。今は地域の状況により、地方公共団体が主体の事業となっている。部落解放同盟は地対法に代わるものとして人権救済法の成立を主張した。自由同和会も同様の主張をした一方で、日本共産党はかつての糾弾闘争に法的根拠を与え、新たな利権になる懸念が大きく、国家による言論統制につながるとして一貫して反対の立場をとっていた。

 今回の騒動で気になったのは、同和利権との関連は大阪ではすぐに想像がつくが、同和問題に馴染みのない東京ではいまいち想像がつきにくいという意見が多かったことだ。それには理由がある。それは東京には歴史的に差別がなかったからではない。多くの都市が差別解消のために同和事業を進めてきた中で、東京都は一貫して「東京には部落差別問題は存在しない」という立場だったからだ。革新系の美濃部都政になって差別問題に取り組むようになるが、その頃には急速な都市化によって流動化し、ある程度の同和がなされてきたという事情がある。また、各団体が他地域ほどの影響力が持てなかったことも影響はしているだろう。

 同和という言葉を巡る騒動で思うことは、同和という、本来はニュートラルなはずの言葉に無限の含みを持たせて差別認定することで、その領域をアンタッチャブルにしてはいけないということだ。一般の人々が語ることが禁忌となれば、その禁忌を破り語る権利が自分たちには特権的に与えられていると主張する党派による一方的かつ啓蒙的な歴史しか知ることができなくなる。それは誰もが望まないだろう。

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 追記:

 同和という言葉の起源をさらに辿ると、2つの言葉に行きつく。和衷協同(人々が心を同じくして共に力を合わせ、仕事や作業に当たること)の略と同胞一和もしくは同胞融和(昭和天皇即位の勅語「人心惟レ同シク民風惟レ和シ」の意をとって熟語化したもので、民心の和合の願いが込められている)の略としての同和だ。企業名によくある同和の多くは前者で、同和事業の同和は後者である。

 同和事業の文脈における同和はもともと融和と呼ばれていたが、社会事業団体である中央融和事業協会が昭和16年6月に 同和奉公会と名称を改めてから広く同和と呼ばれるようになった。ちなみに、中央融和事業協会は勢力を拡大していた水平社運動の弾圧のために「同胞相愛の趣旨に則り旧来の陋習を改め国民親和の実を挙」げるという目的で内務省社会局によって設立。融和から、より人々を団結されるという意味合い、つまり、今風な言葉で表現すれば同調圧力の強い同和を使用した同和奉公会への名称変更は、戦時下で"一億総進軍の急需"にこたえる必要性が出てきたことによる。名称変更により、水平社運動の弾圧とその対抗運動から、より多くの国民を戦争遂行に動員するため団体の色合いを強めていく。終戦後、同和奉公会は解散した。

 戦後、同和対策特別措置法ができたことで水平社運動を起源とする部落解放運動は同和という言葉を同和事業とともに、他の地域と同水準の社会インフラと都市機能の実現を示す言葉としてニュートラルかつ運動の根幹として肯定的に受容していく。しかし、同和という言葉には歴史的経緯から戦争の影が見えるし、その根源において融和もしくは同和という言葉が、とりわけ弾圧の対象となった水平社運動を受け継ぐ部落解放同盟にとって初めから否定的な意味合いを帯びていたことは指摘しておきたい。

 幸いこの原稿は多くの方に読まれ、読まれた方の中には同和は同胞融和の略であることの説明がないことに疑問を持たれた方もいた。確かにその説明はあっていいと思った。ただ、説明するとなるとある程度の詳しさも必要になる。同和奉公会の解散から同和対策特別措置法の施行には時間的な切断があり、もともとの同和という言葉の由来と経緯にまで踏み込んだ考察は、水平社の流れを持つ部落解放同盟の歴史的なインサイトに触れることになる。それは、日本の部落解放運動を語る上で重要にはなるが、本稿はある党派性を持った啓蒙的歴史ではなく(それはそれぞれの党派が語るべきこと)、戦後の部落解放運動全体を視野に入れてアウトラインをドライな視点で語ることで、同和という言葉を知らない人に向けて、主に戦後における意味合いと文脈の理解の手助けとするという目的があり、その目的から逸脱するので、あくまで補足として追記した。

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