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2019年11月25日 (月)

「ごくごく私的な平成広告31年史」年表

●1989年(平成元年)

 1月7日、昭和天皇が崩御。翌8日より元号が変わり、昭和64年から平成元年となる。前年9月の昭和天皇の吐血報道以降、テレビはバラエティー番組を中心に自粛ムードが広がる。危篤報道から崩御、その翌日まで、テレビは報道特別番組一色となり民放はCMの放映を自粛した。日本の広告費は初めて5兆円を突破する。バブル景気の中、国内消費は極めて堅調だった。リクルート事件の影響等で国内の政局は不安定で、竹下登、宇野祐介、海部俊樹と総理大臣が三度も変わっている。

 この頃の世相を象徴する広告は、三共の滋養強壮剤「リゲイン」のCM、『24時間タタカエマスカ?』だろう。俳優の時任三郎が歌うコマーシャルソングが大流行した。歌詞は〈黄色と黒は勇気の印。24時間タタカエマスカ? リゲイン、リゲイン、僕らのリゲイン。アタッシュケースに勇気の印。遥か世界でタタカエマスカ? ビジネスマン、ビジネスマン、ジャパニーズ・ビジネスマン〉だった。ライバル商品である中外製薬の「グロンサン」はコメディアンの高田純次を起用し〈5時から男のグロンサン〉とアピールしていた。今だとアフター5を楽しむ趣味人と連想されがちだが、〈5時から〉が意味するところは得意先との接待だろう。仕事は山程あるし、やればやるほど儲かる時代だった。

 富士通のパーソナル・コンピュータ「FM TOWNS」発売されたのもこの年だった。まだWindowsは発売されておらず、OSは富士通独自のTownsOSである。世界規格としてはマイクロソフトとIBMが開発していたDOS-Vが存在したが、この時点では互換性はなく、国内の富士通もNECも独自OSを開発していた時代だった。使用目的はゲームなどのホビー用途とパソコン通信だった。企業のオフコン(オフィス・コンピュータ)も多くはDOS—Vでコマンドを入力して操作していた。インターネットは企業を含めて一般には普及していない。メールも携帯電話もまだない。

 僕はまだ大学生で、東京の高円寺にあった病院で当直のバイトをしていた。受付脇の医療事務室にあるテレビでは昭和天皇の病状を速報テロップで逐次報道していた。街も自粛気味で暗く、人通りが少なかったことを覚えているが、当時は貧乏学生でお金もなかったし、あまり派手目な大学生でもなかったので、バブル期の世相はあまり良く覚えていない。

 

●1990年(平成2年)

 この年、3年7カ月ぶりに日経平均株価が2万円を割るなど、景気の減退が見え始める。上がり続けると神話のように信じられた土地価格が急落。いわゆる「土地バブル」が弾ける。世界では湾岸危機が起こった。フジテレビでアニメ番組『ちびまる子ちゃん』が始まる。この年、流行語大賞の銀賞に〈バブル景気〉が選ばれている。つまり、これまで続いてきた好景気がバブルだったと認識され始めたのがこの年だったということだ。

 広告的には、これまでの情緒に訴えるエモーショナルで文芸的なコピー中心の広告から、単純かつストレートに、理性や感情ではなく直感に訴える記号的な広告が出始める。アイドル歌手の小泉今日子が出演するJR東日本〈もっと!〉や湖池屋「ポリンキー」の〈ポリンキー、ポリンキー、三角形の秘密はね、教えてあげないよ、ジャン!〉など人の脳に直感的に訴える手法が注目を集めた。これらの広告は、どちらも当時電通に在籍していた佐藤雅彦氏の作品である。佐藤氏は電通では長年SP局でイベント等の業務に携わり、社内のクリエイティブ転局試験に合格し、CMプランナーになった異色の経歴を持つ。その後、NHK『ピタゴラスイッチ』を制作し『だんご3兄弟』を大ヒットさせる。フリーに転じた後、慶応義塾大学教授を経て、現在は東京芸術大学教授である。

 バブル景気の陰りは広告にも反映されている。ボルボの新聞広告〈私たちの製品は、公害と、騒音と、廃棄物を生み出しています。〉やJR東海〈日本を休もう〉のように、これまでのイケイケの風潮へのアンチテーゼも示されはじめる。この頃からニューメディアとして、CD—ROMが注目され始める。文字情報、音声、画像、映像を組み合わせたコンテンツがいくつも制作された。今では信じられないだろうが、CD-ROMコンテンツ制作会社は今でいうVR制作会社のような最先端イメージがあった。

 

●1991年(平成3年)

 広告費は26年ぶりのマイナス成長に転じる。銀行のテレビCMが15秒スポットのみ解禁となった。完全にバブルが崩壊したと言っていいだろう。世界では湾岸戦争が始まる。SMAPがCDデビューしたのもこの年であるが、まだSMAPはそれほど人気があったわけではない。この頃、一世を風靡したのが「大阪おもしろCM」と言われる電通関西の堀井チームによるCMだ。本文でも詳解した「大阪迷惑駐車」やピップフジモト「ダダン」の〈ダッダーン、ボヨヨン、ボヨヨン〉など、この年の記憶に残る広告はこのチームによるものが多い。同チームの制作ではないが、この年の流行語大賞は吉本新喜劇の喜劇役者であるチャーリー浜の〈じゃ、あーりませんか〉だった。チャーリー浜が長年使っている持ちギャグではあるが、これもCMで使われた台詞である。

 エーザイの「チョコラBB」で女優の桃井かおりが〈世の中、バカが多くて疲れません?〉と呟くCMが放送された。話題を呼んだが、視聴者の中には「テレビでお茶の間に向かってバカとは何だ」と苦情を入れる者もいた。このことがメディアで知られ、騒動に発展したことで、エーザイはCMの放送を中止し、すぐに新しいバージョンを制作し放送した。そのバージョンは〈世の中、お利口が多くて疲れません?〉と変わっていた。上手い切り返しである。現在の炎上の対策として参考にできるやり方だとは思うが、今、こういうことはなかなかできないだろう。

 当時18歳だった女優、宮沢りえのヌード写真集『Santa Fe』の新聞広告が世間を賑わせたのもこの年だ。80年代から『写真時代』などのアングラ写真雑誌では局部のヘアは修正されていなかったが、この写真集によって実質的にヘア解禁が公然のものとなった。アップルのマッキントッシュ〈小学生になろう。〉も同年。デザイン業界はまだ版下、写植の時代だったが一部でマックが導入されはじめた。けれども、インターネットはまだ普及していない。新聞広告は文字通り、名実ともにマス広告だった。

 この年に、僕は大阪のベーシック・デザイン会社に就職した。はじめて貰った名刺にはプランナーという肩書が印刷されていた。

 

● 1992年(平成4年)

 あくまで僕個人の感覚ではあるが、いかに詭弁を弄しようとも、あるいはいかに自分が所属する会社の業績が良く、世間の空気に鈍感であったとしても、誰もが景気が減退していることを認めざるを得なくなってきたのはこの年からだと思う。新卒で入った会社がリストラを始めた。銀行から役員が派遣され、業務改善のために様々なプロジェクトが開始された。僕は入社したばかりで若かったから対象にはならなかったが、多くの先輩達が会社を辞めていった。かつて、「きつい、きたない、危険」を3Kと呼んでいたが、この頃には「交際費、交通費、広告費」に取って変わり、広告費が企業の経費削減対象となり広告業界を直撃した。

 この年の始めに、ロックバンドのX JAPANが日本人アーチストとして初の東京ドーム3日間のコンサートを行う。そのツアータイトルは「破滅に向かって」だった。

 この年の代表する広告は詳述した日清食品カップヌードル〈hungry?〉だろう。また、時代の気分を反映していた広告としてはロック歌手の矢沢永吉がサラリーマンを演じるサントリー「BOSS」がある。CMを覚えておられる方も多いだろうが、ここでは商品ネーミングに注目したい。サントリーの缶コーヒーブランドは「WEST」だった。これはコカコーラの「ジョージア」同様、アメリカ西部をイメージしていた。これはあまり売れていなかった。そこで、サントリーは市場調査から始めて、ブランドの全面見直しを行った。調査結果では、缶コーヒーはその甘い味から工事現場や建築現場等で働く肉体労働者に好まれていたことがわかった。彼らは、缶コーヒーを仕事が終わるまでいつも傍らに置き、少しずつ飲む。飲み終えた後も空き缶はタバコの吸殻入れとして活用される。そういう彼らの行動様式から学び、ネーミングは彼らに親しみのある「BOSS」(=親方)としデザインも一新した。

 浮足立った時代から脱して、広告の基本に戻る傾向があった時代の事例として記録しておきたい。

 

● 1993年(平成5年)

 この年にWindows 3・1日本語版が発売される。だが、それほど注目されたわけではなく、この時点ではインターネットは普及していない。また、短命政権ではあったが、自民党の宮沢喜一内閣から政権を奪取し、日本新党などによる連立政権である細川護煕内閣が誕生する。昨年10月に東京八王子にドコモショップ1号店をオープンさせたNTTドコモは、2月に早くも契約数100万件を突破。

 今も続くJR東海〈そうだ京都、いこう〉キャンペーンはこの年に始まる。また、銀行の広告が完全に自由化し、番組提供を行うことも可能になった。しかし、もしこの時代に生きている人々に「今、最も目立っているものを上げるとしたら何か」と聞けば、きっとJリーグと答えるのではないだろうか。

 この手の大型プロジェクトでは珍しく電通ではなく博報堂が手がけている。当時、僕は博報堂の仕事を請け負う広告制作会社に在籍していて、当時は神田にあった博報堂のオフィスによく出入りしていたので、その熱気を肌で感じていた。Jリーグは正式名を日本プロサッカーリーグと言う。電通は日本プロサッカーリーグ構想には乗り気ではなかったという。正式名を知ると、なんとなくその気持ちが分かる気がする。Jリーグという愛称とロゴは博報堂が制作した。もしJリーグと名付けられていなければ、これほどの盛り上がりはなかっただろう。

 当時、僕は日本橋三越本店の新聞広告を担当していた。当時、日経新聞の夕刊枠を持っていた博報堂の仕事ではあったが営業直案件でクリエイティブは任されていた。幸運だったと思う。当時の宣伝部長と撮影の合間に話していて「これから広告は代理店の時代になるよ。あなたは若いし、代理店を目指したほうがいい」とアドバイスされたことをよく覚えている。そんな時代だった。

 

● 1994年(平成6年)

 細川護煕首相の退陣から羽田孜内閣を経て、自民党は社会党と新党さきがけと連立し、政権を奪取。自社さ連立政権が誕生する。日本社会党党首だった村山富市を首相とする村山内閣が始まる。

 この時代のキーワードはマルチメディアだろう。当時の郵政省は「マルチメディア振興室」を設置し、当時の文部省も「マルチメディア制作企画室」を設置。NTTも「マルチメディアに向けた基本構想」を発表する。民放連、新聞協会など著作権利者20団体は「マルチメディア問題に関する著作権連絡協議会」を立ち上げた。また、首相官邸のウェブサイトができたのもこの年である。

 CMは、通話料の値下げにより普及期に入った携帯電話各社が目立つようになる。

 今の若い人は、マルチメディアと言われてもピンと来ないのではないだろうか。今でも使われるのはヨドバシカメラのマルチメディア館くらいだろう。当時はインターネットと呼ぶには実態が乏しく、この言葉を使うより他なかったのだ。キーワードのマルチメディアという言葉の、現在から見た時の捉えどころのなさと同様、この年の広告は、広告史として特筆すべきものがない。翌年、Windows 95が発売され、マルチメディアという時代を象徴する言葉はインターネットに取って代わられるように、広告を取り巻く世の中の空気も一変することになる。

 

● 1995年(平成7年)

 1月17日午前5時4652秒、兵庫県淡路島北部の明石海峡を震源とする阪神・淡路大震災が起こる。人口が密集する大都市で起こった大規模地震で、犠牲者は6434人に達した。

 震災の直後、多くのCMは流されなくなった。時が経ち、落ち着いても流せないCMもある。その穴はAC(旧・公共広告機構)の公共広告が埋める。多くのCM素材は平時向けのマナー広告などである。それでも危機的な空気にそぐわない状況が生まれた。広告メディアの信頼低下を危惧した当時の電通関西支社長の命によりスタッフが集められ、急遽CMがつくられた。

 阪神淡路大震災被災地の水道に貼られている〈水自由に使って下さい そのままは飲めません〉とマジックペンで書かれた張り紙が映し出され、そこに〈水、出てるよ、水。持ってって。そやけど、生で飲まんといてな。ポンポンこわすよってに〉という男性の声がかぶさる。最後に〈人を救うのは、人しかいない。〉というテロップが出る。 

「この状況の中でCMが役立つのか。その時間を、被災した人々に役立つ有益な情報をもっと流すべきではないか」とスタッフたちが懐疑的になる中、この広告の指揮を執った、当時電通関西のクリエイティブ・ディレクターであった堀井博次氏は〈広告かて人を励ましたり、勇気づけたりできるかもしれんやんか。この場のみんなで考えてあかんかったら、俺もあきらめる。とにかくみんな考えてみようや〉と話したという。

 堀井氏のこの言葉は「こんな危機的な状況で広告にできることはないかもしれない」という諦念に基づいている。むしろ、広告がしてはいけないことがあるという認識と言い換えることもできるだろう。人間としてできることはないかと熱い思いを内に秘めつつも、一方で、広告を生業とする職業人として、醒めた、冷徹とも言える広告についての理解を持ち合わせていたという事実は、平成の広告史を考察する時、重要なものとして浮かび上がってくるだろう。今、広告人はこういう考え方を持っているだろうか。

 3月20日、東京でオウム真理教による地下鉄サリン事件が起こる。世界を震撼させた毒ガスサリンを使った都市型テロ事件に対して広告ができることは何もなかったと言えるだろう。むしろ、宗教はアンタッチャブルな聖域であるという既成概念と、ニューエイジ的な神秘主義的傾向を持ったヨガ愛好家集団をルーツに持つ、オウム真理教による巧みなブランド戦略のために社会は、この凶悪なテロ事件を未然に防ぐことができなかったとも言えるのだから。地下鉄サリン事件を始めとするオウム真理教が引き起こした様々な犯罪の発端となった坂本堤弁護士一家殺害事件は1989年、つまり平成元年に引き起こされたものだった。防ぐための契機と時間は十分にあったのだ。

 平成が始まった頃、サブカルチャーと同調する日本のニュー・アカデミズムは、オウム真理教を新しい時代の宗教として、自身のユートピア思想と重ね合わせて、その原理的な危険性についての考察を行わず、無邪気に礼賛していた。オウム真理教への疑念が出始めた頃、教祖である麻原彰晃は雑誌で有名な思想家と対談し、テレビ朝日『朝まで生テレビ』を始めとするテレビ番組の出演を重ねた。地下鉄サリン事件後、その〝広告的露出〟にかかわった文化人たちは節操もなく総括を始める。その総括は、特定の人物をスケープゴードに仕立てて徹底的に糾弾することだった。

 当時、日本女子大の教授だった宗教学者の島田裕巳氏は深夜のテレビ討論番組に呼ばれ、大勢の文化人に囲まれ、過去の発言の責任を問われていた。島田氏は泣いていた。公共のテレビで大人が子供のように泣く姿を僕は初めて観た。島田氏は大学教授の職を追われた。後に『オウム―なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』という長大かつ緻密な批判的論考を書くことで自身の総括を行っている。沈黙し逃げ切った思想家もいた。東日本大震災後、ほとぼりが冷めた頃を見計らって、彼らは「魂の革命」や「コミューンの再評価」と称して自身の思想の喧伝を何の反省もなく繰り返している。島田氏への糾弾に加わった文化人はテレビのオウム真理教の一連の犯行を振り返る番組で、さも自分も当時は疑念を持っていたかのような発言をしている。

 僕にとって、1995年は、そんな時代のメインストリーマーたちへの不信感の起点だ。

 この年の11月、Windows 95日本語版が発売される。いよいよ、インターネットの時代が始まる。

 

● 1996年(平成8年)

 TBSの「オウム真理教ビデオ問題」の責任をとって社長が辞任するなど、メディアの責任を問われた年だった。前年に発売されたWindows 95が爆発的にヒットし、いよいよインターネット時代が本格的に始まる。この年の1月にYahoo! JAPANが開設され、エンドカットにウェブサイトのURLを表示するCMが増えてきたのもこの年だ。

 この年を代表する広告は、日本ペプシコーラの「ペプシマン」だろう。クリエイティブ・ディレクター兼アートディレクターはフリーの大貫卓也氏だ。大貫氏は元博報堂でカップヌードル「hungry?」の制作者でもある。コピーライターは、今も最前線で活躍する一倉宏氏。このキャンペーンが開始された時のポスターのコピーは〈NOW!〉だった。このキャンペーンには仕組みがある。CMで流れるキャラクター「ペプシマン」のフィギュアがペットボトルのキャップに付属するのだ。そのフィギュアはCM同様、精度が高く種類も豊富だ。ユーザーはコレクション欲に駆られる。つまり、広告表現を起点に、コンビニやスーパーで商品が並べられる陳列棚を広告メディアとして捉え直すという試みだった。大貫氏はそのことを自嘲気味に〈オマケの時代〉と語っている。広告が既存のタレントを起用して、その人気に依存するのではなく、広告自らがキャラクターを生み出しキャンペーンを、店頭を含めたあらゆるメディアを駆使してドライブしていく。これは、M&M‘sチョコレート等でも見られる古典的な手法ではあったが、そのクオリティや精緻な組み立てはまさに「新しい広告」と呼ぶに相応しかった。

 NTTドコモ〈広末涼子、ポケベルはじめる。〉がスタートしたのもこの年である。

 

● 1997年(平成9年)

 経済界にとっては激動の年。4月の日産生命破綻を皮切りに、11月、三洋証券、北海道拓殖銀行、山一證券が相次いで破綻に追い込まれる。企業の危機対応においてエピソードとして引き合いに出される、山一證券最後の社長・野澤正平氏の〈これだけは言いたいのは、私らが悪いんであって、社員は悪くありませんから。どうか社員のみなさんに応援をしてやってください。お願いします。私らが悪いんです。社員は悪くございません。善良で、能力のある、本当に私と一緒になってやろうとして誓った社員の皆に申し訳なく思っています。ですから、1人でも2人でも、皆さんが力を貸していただいて、再就職できるように、この場を借りまして、私からもお願い致します〉という号泣会見もこの年だった。

 この頃を代表する広告は、ナイキの〈Just do it.〉だろう。エアマックスというスポーツシューズがブームだった。巷では外貨預金が流行り、広告はグローバルキャンペーンが日本向けにアレンジ、もしくは日本市場向けのローカルキャンペーンが制作されるのではなく、ほぼそのまま日本市場で展開されるようになった。

 この頃、僕は英国のサーチ&サーチ、米国のベイツ、日本の読売広告社の合弁企業であるサーチ&サーチ・ベイツ・読広に移籍している。欧米の広告代理店が日本支社を作る、もしくは過去に参入し撤退した代理店が再参入を果たすといった外資攻勢が強まるもこの頃からだった。これからは日本の広告業界もグローバルの文脈に取り込まれるかに思われたが、結果として、それは難しかったと結論付けてよいだろうと思う。結局は、日本市場においては、グレイやオグルビーのP&Gやネスレのマッキャンエリクソンのように、大型クライアントを獲得できるかどうかが外資系広告代理店にとって日本市場生き残りの鍵である、ということは変わらなかった。

 

● 1998年(平成10年)

ここで、この年における広告費を確認しておこう。この年、総広告費は5年ぶりに前年を下回る。テレビ、新聞、雑誌、ラジオのマスコミ4媒体は減少。ニューメディアとインターネットが2桁の伸びを示している。しかし、テレビの約1兆9千万円に対してニューメディアが216億、インターネットはこの時点ではわずか114億円に留まる。

 国内政治では橋本内閣が退陣し〝平成おじさん〟として親しまれた小渕恵三内閣が始動。冬季オリンピック長野大会もこの年の開催である。

 僕が在籍していたサーチ&サーチ・ベイツ・読広が制作したアメリカン・ホーム・ダイレクト自動車保険のCMが人気になっていた。親指と小指を立てて〈チンチロリン〉というSEとともに電話の仕草をするシーンを覚えておられる方も多いだろう。これは日本市場参入のためだけに考えられた正真正銘のローカルキャンペーンである。

 この年、携帯電話の普及率が当時は移動電話と分類されていたものも含めて35%を超えた。

 

● 1999年(平成11年)

 この年、インターネット広告費が約2倍に拡大。それでもまだラジオの8分の1程度の規模ではあるが、その凄まじい成長率はいよいよインターネットの時代を予感させるに十分だろう。世間ではミレニアムグッズで溢れ、テレビでは鮮やかなキャンディーカラーのiMacが踊っていた。これもグローバルキャンペーンがそのままの形で、日本市場で流れていたものである。

 ちなみにアップルコンピュータは、iMac以前のPowerPC時代は日本市場独自のキャンペーンが制作されていた。代表的なものでは前述の〈小学生になろう。〉や〈あなたと、関係したい。〉等。エモーショナルで知的な雰囲気を持つ日本的な広告だった。広告代理店は電通。このiMacの広告は日本市場向けのアダプテーション(翻訳的な修正作業の意)を米国のTBWAと日産のハウスエージェン―日放との合弁会社、TBWA日放(現・TBWA\HAKUHODO)が担当している。

 広告業界にとっては再編の季節だった。業界4位の旭通信社と5位の第一企画が合併し、業界第3位のアサツーディー・ケー(現・ADK)が誕生。

 この頃、一般家庭をも巻き込んで騒ぎになっていたのが、いわゆる「2000年問題」だった。これは西暦2000年になるとコンピュータが誤作動するというものだ。結果的には、企業のシステム担当者の努力の甲斐もあり、当時喧伝されていたほどの混乱はなく終わった。

 

● 2000年(平成12年)

 この時代を象徴する出来事は、日本企業で初めてヤフー株式会社が株価1億円を突破し、時価総額1兆円の大台に乗ったことだろう。この年にはポータルサイト、Yahoo! Japanの1日あたりのページビューが1億を超えるようになる。米国の広告業界では「ドットコム企業」ブームが起きる。これからはインターネットが経済を覇権するとの観測のもと、広告代理店はこぞってドットコム企業(インターネット関連企業を米国籍を示す.comにちなんでそう呼んでいた)の獲得していった。僕はその頃、米ヤング・アンド・ルビカムと電通の合弁、電通ヤング・アンド・ルビカム(現在はヤング・アンド・ルビカムとの提携を解消し電通イースリーになっている)に在籍していた。

 ヤング・アンド・ルビカムもドットコム企業の獲得に躍起になった。その中で企業のマネジメント・ソフトウェア最大手のコンピュータ・アソシエイツ(現・CA)があった。そして、日本法人である日本コンピュータ・アソシエイツを僕が担当することになった。担当してみてわかったことは、米国の広告代理店がドットコム企業のビジネスの現実をまったく分かっていなかったことだ。彼らが作りたがるのが長尺のストーリー性がある映画のような、カンヌ狙いのテレビCMばかりだった。これが実際のビジネスでは役に立たない。

 なぜなら、彼らはB to B企業である。彼らの顧客もコンピュータやIT(インフォメーション・テクノロジー)の知識が豊富である。テレビの前にいる生活者にセキュリティーの大切さを考えさせるために、日常の些細なエピソードをドラマタイズしたCMを観せたところで、「そんなことは分かっている」と思うだけだ。そして、何よりも広告の素材が少ない。これは限られた予算を豪華なCMにつぎ込むからだ。

 そんな状況で、僕は次第に、米本社の広告戦略とは関係なく一から広告戦略を策定し、日本法人のための国内向けのオリジナル広告をつくるようになっていった。これは、ヤング・アンド・ルビカムからはしてはいけないと暗に言われていたことだった。インターネット関連企業の市場インサイトを分かっていないのは日本の国内市場で広告をつくる国内広告代理店も同じだった。いくつもの広告を日本市場向けに制作した。競争は激しかったが、競合相手が作る広告は戦略の部分で稚拙だった。僕が作った広告の、そのいくつかは国内の広告賞を受賞したりした。

 コンピュータ・アソシエイツ本社での不祥事があり、社長交代によってヤング・アンド・ルビカムはアカウントを失った。そのタイミングで広告賞の授賞式があった。米国からヤング・アンド・ルビカムの幹部社員が日本法人にこれまでの感謝とお別れの挨拶するために来日した。担当営業は「あれほど勝手なことをやるなと言ったじゃないか」とヤング・アンド・ルビカムの幹部から小言を言われた。僕も同席していたのだが、営業とともに一礼して詫び、場を離れる時、ヤング・アンド・ルビカムのクリエイティブ・ディレクターは振り向いて僕に向かって右手でグッドサインをつくり微笑んだ。

 僕にとっての2000年からの数年は、今振り返れば、あの米国人クリエイティブ・ディレクターの、日本のクリエイティブチームを労う笑顔が象徴しているような気がする。

 

● 2001年(平成13年)

 森喜朗首相主導のもと、昨年末から始まったインターネット博覧会、通称「インパク」は日を追うごとに評判が悪くなっていた。サイトデザインは現実のパビリオンを物理的に模したものだった。この頃は、インターネットという新しい潮流を、広告業界人たちは捉えそこねていた。住友銀行とさくら銀行が合併し、三井住友銀行が誕生し、大阪出身の僕は「三井と住友が合併するのだから、これからは何でもありなのかもしれないな」と思っていた。三井と住友が一緒になることは、野球で言えばジャイアンツとタイガースが一緒になるようなものだった。

 21世紀に入ったからなのか、巷を賑わす広告はどれも明るかった。日本コカコーラの缶コーヒー「ジョージア」の〈明日があるさ〉、キリンラガービールの〈カンパイ、ラガー〉、大塚製薬「カロリーメイト」の〈がんばれワカゾー〉など、今思えば応援が時代のテーマだったような気がする。

 会社で夜遅くまで残業をしていると、休憩室から叫び声が聞こえてきた。9月11日のアメリカ同時多発テロだった。ニューヨークの貿易センタービルに航空機が突撃していた。黒い煙が立ち込め、やがてツインの高層ビルは倒壊した。国内政治は森内閣が退陣し、小泉純一郎を首相とする小泉内閣が始まっていた。合言葉は〈聖域なき構造改革〉である。

 

● 2002年(平成14年)

 総広告費及びインターネットを除く全分野の広告費が前年度減となった。つまり、あらゆる広告費が総崩れの中、インターネットだけが気を吐いていて、全体を前年比プラスに押し上げたということだ。理由は、これまでロングテール市場を狙うニッチな分野の企業が出稿することが多かったインターネット広告にナショナルスポンサーが本格的に出稿し始めたことである。この時期になると、インターネット広告が他の媒体を食い始めるという傾向が顕著になる。

 流行語大賞は「タマちゃん」。これは多摩川の丸子橋付近を始め、近郊各地で発見されたアゴヒゲアザラシについた愛称である。俗に「タマちゃんフィーバー」と呼ばれる社会現象だった。癒し系の小動物やそれを模したキャラクターは広告でも人気を集めた。

 アイフルのチワワCMも同年に流されたものだ。また、日本コカコーラ「Qoo」など、可愛らしいという価値に注目が集まった。また、古き良き昭和の日本を懐かしむレトロブームが起き、誰もが知っている「大きな古時計」が歌手の平井堅によってカバーされ、60万枚を超える大ヒットを記録した。この頃のCMを振り返ると、もちろん記憶に残っていないCMにはたくさんの芸能人が起用されているだろうが、他の年と比較してタレント広告が少ない印象がある。当時はインターネット広告にも展開する場合には別途、世界中でつながるインターネットメディアにも関わらず、閲覧可能な視聴者数で単純計算された膨大な契約料が必要か、もしくは初めからインターネットNGとする芸能人も多かった。自分で開発したキャラクターであれば自由に使える。経済が振るわないコストカットの時代に、この非タレント広告の使い勝手の良さも影響しているのかもしれない。

 

● 2003年(平成15年)

 4月28日に日経平均株価が一時、7603円を記録するなど、長引く不況と生活不安が続く中、テレビでは消費者金融のCMが目立つようになってきたとともに、違法な取り立てや借り手の破産などトラブルも多発した。消費者金融が重要なスポンサーだった民放各社もようやく重い腰を上げることになる。7月、日本民間放送連盟はゴールデンタイムの消費者金融CMの放送自粛を決定。以降、放送時間の規制が続くこととなる。

 これまでエンタテインメント性を追求した消費者金融のCMは次第に鳴りを潜め、一時的にほとんどの消費者金融のCMが制服を着た女性店員がサービスの案内と注意事項を述べる地味な内容になった。消費者金融各社は経営基盤の弱体化とともに、資本構成の再考を求められた。低金利時代に新たな収益を求めた銀行と資本関係を結び社会的信用を高めようとした。現在、カードローンという名称に変わって、再びエンタテインメント性のあるCMが復活している経緯のルーツは、この年の民放連の自粛に求められるだろう。

 日本テレビが民間放送で初の開局50年を迎える中、同局プロデューサーによる視聴率買収工作が発覚。犯行の手法は、探偵業者にテレビの視聴率調査を行うビデオリサーチの営業車のナンバーを知らせ、尾行させ、モニター世帯を割り出した上でモニターと接触し金銭を渡し便宜を図ってもらう、という古典的なものだった。

 民間テレビ放送50年を迎え、民間放送がビジネスモデルとしてきた「広告モデル」の制度疲労による綻びが出始めたのもこの年だった。

 

● 2004年(平成16年)

 この年、初めてインターネット広告費がラジオ広告費を抜いた。

 広告業界では、これまでのCM表現の手法に疑問が投げかける論調が多くなってきた。「マス広告が効かなくなってきた」という言葉をよく聞くようになってきたのもこの頃である。コンピュータの性能向上と一般への普及により、誰もが簡単かつ安価に映像を制作できるようになり、これまでなら高額な予算をかけられる映画やテレビ、広告の特権だったCGも大幅に値崩れする中、頭の中で考えたような奇想天外なストーリー展開の映像化も何の驚きもない時代になった。まさに陳腐化、「だけどこれ、どうせCGだろ」ということだ。

 セゾンカードの「ザ・大車輪編」という名のCMがある。白い体操着を着た、やせ細った老人が薄暗い体育館に立っている。老人が前にゆっくりと進むと、後ろから黒い服を着た男が老人を脇から抱え、持ち上げる。老人は鉄棒につかまり、悠々と大車輪を何度も決める。そこに〈一年に一歳、人間はみな平等に歳を取ります。長生きしてよかったというふうにしたいですね〉とナレーションが入り〈一生、貯めたっていい。〉というコピーが入る。ナレーションは〈セゾンカードは永久不滅ポイント〉と締めくくる。

 クリエイティブ・ディレクターはコピーライターとして著名な仲畑貴志氏。彼は広告業界誌で「これが今の時代の広告の、ひとつの答え」と語っていた。この老人の大車輪はCGではない。本当にこの老人が行っている。コンピュータがあれば何でもできる時代にたどり着いた答えは、リアリティだった。

 この年、電通は、従来から使われている消費者の購買までの心理プロセス「AIDMA(アイドマ)」に変わって、新たに「AISAS(アイサス)」を提唱している。これは、Attention(注意)→Interest(関心)→Desire(欲求)→Memory(記憶)→Action(行動)の順で意思決定が行われていると考えられてきたが、インターネットの出現により後半の3段階がSerch(検索)→Action(行動)→Share(共有)の順に変化しているという指摘である。

 

● 2005年(平成17年)

 小泉内閣による郵政解散と、ライブドアによるニッポン放送買収騒動に端を発するライブドア問題、さらにはマンションの構造計算書偽装問題、いわゆる「姉歯問題」に揺れた1年だった。面白い広告もつまらない広告もたくさんあったのだろうが、この年を象徴する広告がこの年はあまり思いつかない。これまで確かだったものが確かではないかもしれないと感じることが多かったのだろう。僕が当時、所属していた電通ヤング・アンド・ルビカムは、当時、姉歯問題でクローズアップされ、その後、その騒動をきっかけに倒産するヒューザーが入居する八重洲のオフィスビルに入っていて、得意先の打ち合わせから戻るとダンボールをたくさん抱えた特捜部がエントランスホールに並んでいる姿が強烈に記憶に残っている。

 多くの広告人も同じ気分だったのかもしれない。盤石だと思っていた足元が、じつはぬかるみで、足の踏み場を間違えれば、ズブズブと泥の中に沈んでしまうのではないかという、どんよりとした不安があった。この年、民放連が新しいキャンペーンを始めている。8月28日を「テレビCMの日」と定め、この日に向けてCMのCMを制作しオンエアするというものだ。キャッチコピーは〈Enjoy CM〉だった。

 ブルース歌手の上田正樹のヒット曲『悲しい色やね』の中に〈おれのこと好きか? あんた聞くけど、そんなことさえわからんようになったんか〉という歌詞があるが、CM自らが自身の魅力をCMでアピールしなければならないほど疑心暗鬼にかられているということでもある。

 広告は人々に見放されつつあると誰もが口にした。黎明期のネット広告業界の明るさとは対象的に、従来メディアの広告人は暗かった印象が僕にはある。

 CMのCMはどんなCMか。おサルの「コマーさる」君というキャラクターがいて、人気CMのパロディをやったり、撮影の舞台裏を見せるようなストーリーだったり、若い女優さんの卵がふざけた演出のCMやらされて落ち込んでいるけど子供が真似している様子を見て少し元気になったり、そんなCMだった。まさに自己言及の身内褒めである。僕も日本新聞協会主催の「新聞広告を広告する広告コンテスト」で賞をもらったことがあるから人のことは言えないが。ちなみに受賞作は、熟れた桃の実の写真がビジュアルで〈サンタフェと聞くと、今もドキドキする。〉というヘッドライン。エンドラインは〈新聞広告は記憶に残る。〉だった。

 人々から広告が以前ほど好感を持って迎えられていないのではないかという疑念は、新たな手法を生み出した。所謂「続きはウェブで」である。これを意識的に初めて用いたのはライフカードの「ライフの切り方が人生だ」シリーズだろう。これは、俳優のオダギリジョーが演じる若いサラリーマンが様々な窮地に追い詰められ、そこでトランプのカードを広げる。そのカードには「我慢」や「罵倒」などの様々な次の手が書いてある。ここでテレビCMは終わり、オダギリは〈続く!〉と叫ぶ。彼がどんな手を使って乗り切ったのかはウェブにある動画で分かるようになっている。広告業界では話題になったが、個人的にはこの手法は少し早すぎたのではないかと感じている。多くの人々のネット環境では動画をスムーズに観るには重すぎて閲覧に耐えなかったからだ。

 

● 2006年(平成18年)

 みんな元気がなかった広告業界に、80年代の資生堂vsカネボウの化粧品広告合戦や日本のタレント広告文化を煮詰めて丸めて固めたような豪華なCMがこの年の春に登場する。資生堂がブランドの数を削減してメガブランド構想第4弾として勝負をかけてきたヘアケアブランド「TSUBAKI」だ。キャッチコピーは〈日本の女性は、美しい。〉で、CMソングはSMAPが歌っている。〈ウエルカム。ようこそ、日本へ。君がいまここにいること……〉という歌詞が印象的だ。ロンチ時のCMに限っても出演タレントは、田中麗奈、上原多香子、広末涼子、観月ありさ、竹内結子と、これでもかと主役級の人気女優を揃えている。

 SMAPが歌う歌の歌詞は作詞家ではなくコピーライターが書いている。広告のために作られた言葉だ。ここにもSMAPという平成を代表するアイドルと広告の蜜月関係が見られる。僕は、このTSUBAKIの広告が、広告がかつての広告らしくあろうとして、広告が広告でない何かと手を結び、広告ではない何かになろうと企てて、広告としては大成功したが、広告ではない何かになろうとする試みには失敗した出来事と考えている。

 2010年、この広告の制作者は『FLOWERS』という劇場版映画を作った。TSUBAKIのCM出演の女優が勢揃いした6つのストーリーからなるオムニバス映画だ。監督・総指揮は大貫卓也。制作幹事会社は、広告代理店のアサツーディー・ケイ(現・ADK)だった。資生堂の名前はどこにもないが、これは企画の段階から「TUBAKI」というブランド世界を映画に練り込んだブランデッド・エンタテインメントだったのだろう。批評家の意見が絶対だとは思わないが、多くの映画批評家は酷評した。興行的にも大失敗だったという。つまり、日本の大衆は、CMは支持したがこの映画は支持しなかった。

 政局では、長く続いた小泉内閣が終わり、第一次安倍内閣が始まる。大阪で育った僕個人としては、阪急ホールディングスと阪神電鉄が経営統合し、阪急阪神ホールディングスが誕生というニュースが強く記憶に残っている。でももう、何があっても驚かない。

 

● 2007年(平成19年)

 食品の信頼が揺らぐ年だった。1月に不二家の消費期限切れ牛乳使用問題、8月に白い恋人の賞味期限偽装、10月にミートホープ食肉偽装問題、赤福の賞味期限改ざん、船場吉兆の賞味期限ラベル張替え販売騒動が起こる。船場吉兆の「ささやき女将会見」が今も記憶に残っている方も多いだろう。船場吉兆は当初はバイトのせいにした。これを聞いたバイト従業員が反論の記者会見を起こす。このひとつの小さな嘘が積み重なり、船場吉兆がその長い歴史にピリオドを打つ事態にまで発展する。危機対応について、学ぶことは多いだろう。

 この時点では、まだTwitterやFacebookは日本では普及していないが、SNSは広く使われるようになってきた。2004年にサービスを開始した会員制ソーシャル・ネットワーキング・サービス「mixi(ミクシィ)」は、前年末にマスコミを巻き込む大騒動を起こす。表現が下品で書き記すことがためらわれるが、俗に言う「ケツ毛バーガー騒動」である。一般人のアカウントからプライベートセックス画像がmixi内で流出、その画像の様子から名付けられた。皮肉なもので、この真相を知りたいがために、多くの人がこぞってmixiに加入した。当時のmixiは、会員の紹介状がなければ入会できず、完全にクローズドなコミュニティーだったため、ウェブからは観られなかったのだ。「ねえ、もしかしてmixiやってたりしない? オレ、ちょっと興味あってさ、入りたいんだけどさ、招待状、送ってもらえないかな」というような微妙な会話が巷で飛び交っていた。

 思えば、ビデオデッキも爆発的な普及のトリガーはエロだった。パーソナル・コンピュータもインターネットも、そして、SNSも同じこと。人間はどんな時代でも根本では似たようなものだ。広告業界では「ケツ毛バーガー」がきっかけに盛り上がったお下劣なmixiブームには目もくれず、次世代の広告メディアとして、街を模した仮想空間によるコミュニケーション・サービス「セカンドライフ」が注目されていた。広告代理店には高速回線を装備したセカンドライフ専用の高性能パソコンが用意され、大手企業も仮想都市にショップを開設したりしていた。しかし、これは一般の人には敷居が高すぎた。まず、アクセスしても重すぎて動かない。操作方法が難しいなど、メディア報道の過熱ぶりとは対象的にユーザーはそれほど多くはなかったようだ。

 実際のところ、セカンドライフブームは一部の先進ネット・ユーザーの中での盛り上がりに過ぎなかった。彼らは、その先進性に飛びついたが、やがて過疎の街でバーチャルセックスを楽しむようないかにもネットらしいアングラな使われ方が増えてくる。この頃のネット広告業界を除く広告業界はネットに対しては一段下であるという蔑視があった。一方で、現実とはかけ離れたインターネット関連の先進事例は積極的に取り入れ、ほとんどの消費者が自分のネット環境では快適に観ることができないようなスペシャルサイトを莫大な予算を使って制作していた。そして、これからの新しい社会コミュニケーションの先行例として、多くの社会学や広告についての論文が書かれた。それは、80年代のニュー・アカデミズムと広告の蜜月関係に似ている。

 ちなみに、セカンドライフが示した仮想現実世界の技術的なチャレンジは、広告メディアとしてではなくスマホゲームにおいて結実している。その代表例が、2016年に世界的な大ブームを巻き起こした「ポケモンGO」だ。

 

● 2008年(平成20年)

 この年の最大のトピックは、何と言ってもサブプライム住宅ローン危機に端を発した所謂「リーマンショック」だろう。リーマン・ブラザーズはニューヨークに本社を置く大手投資銀行グループだった。その巨大企業が跡形もなく消えた。負債総額にして約64兆円という世界的にも史上最大の企業倒産となった。アメリカ発の金融危機は世界経済な多大な影響を与え、アメリカドルの価値は低下し、輸出依存度の高い日本経済も未曾有の経済危機に見舞われた。

 日本の広告費は、インターネットと衛生メディアを除く全領域で前年比減。広告にとっては好機であるはずの北京オリンピックがあったにも関わらず、である。

 松下電器産業がパナソニックに社名変更し、公共広告機構は団体名から公共の名を外し、ACジャパンとすることを決定。ACジャパンはアメリカの広告協議会(Advertising Council)を見本に大学教授や広告業界人有志のもとに設立された関西公共広告機構を前身とし、その活動を引き継ぐ形で全国組織の社団法人となる。2011年に公益法人化された。

 広告業界では、「コミュニケーション・デザイン」という新しい概念が大流行した。コミュニケーション・デザイナーという新しい肩書の元、電通の若手クリエイターだった岸勇希氏が著した『コミュニケーションをデザインするための本』が電通選書として出版され、広告本としては異例のヒットとなる。このコミュニケーション・デザインという言葉は様々な分野で使われることとなるが、いまだに明確な定義はない。簡単に説明すると、これまでのようにテレビCM、新聞広告、イベントなどメディアごとのプロジェクトで広告を捉えるのではなく、コミュニケーション全体の交通として俯瞰的に広告を考えるといったこと。ただ、こういう説明をするとコミュニケーション・デザインの伝道者から「それはメディアミックスであって、こういうことを言うということは、あなたがコミュニケーション・デザインの本質を理解していない証拠だ。そもそもコミュニケーション・デザインというのは……」と延々と禅問答を聞かされるはめになる。最終的にはやっぱりよく分からないという結論に至ることが多い。こうして時代とともに振り返ると、マスメディアで食えなくなった広告代理店がイベントやネットを組み合わせて、グロスで稼ごうという企みであるという穿った結論が案外正しかったのかもしれない。

 多くの広告代理店にはコミュニケーション・デザイン局が新設され、誰も彼もがコミュニケーション・デザイナーを名乗るようになった。岸勇希氏は、その後、フリーとなり会社を立ち上げたが、〈#metoo〉運動の流れの中、17年、元部下の人気女性ブロガーから過去のセクハラ、パワハラを告発され、自身が設立した会社の代表取締役を退任。この炎上騒動で、広告業界以外の人々にも広く名前を知られるようになる。皮肉なことに、提唱者の彼自身がコミュニケーション・デザインの犠牲者となってしまった。

 

● 2009年(平成21年)

 9月に行われた衆議院選挙で民主党が圧勝。麻生太郎内閣が退陣し、鳩山由紀夫民主党党首が内閣総理大臣に指名され、自民党が下野。民主党政権が誕生した。この年の流行語大賞は「政権交代」だった。

 前年末、サンフランシスコで公式イベント「YouTube Live」が行われ、翌日に東京で行われた同様のイベントも大盛況だった。スマートフォンの普及と相まって、動画はSNSでのソーシャル・コミュニケーションにとって欠かせないものとなる。そんな時代を象徴するCMとして挙げられるのはロッテのガム「Fits」だろう。今ではよく見るフォーマットではあるが、女優の佐々木希が街で〈ノーゾ、ノーゾ、ノゾミー。噛むんとフニャン、ニャン、ニャンニャ、ニャンニャフニャン。噛むんとフニャン、ニャン、フニャンニャニャン。噛むんとやわらか、ロッテのFits、Fits!〉というキッチュな歌にあわせてダンスを踊る。これは明らかに、このCMを観た人が真似て踊り、その様子を自ら動画で撮影し、SNSに投稿することを意図した広告だ。

 このCMの表現上の工夫は、歌詞の最初に〈ノーゾ、ノーゾ、ノゾミー〉のように踊る人の名前を入れていることだ。後に、佐々木希だけでなく様々なタレントや有名人がこのCMに出演し、踊りを披露している。それを模倣するように、様々な人が最初に自分や友達の名前を入れて踊りを披露する動画を投稿した。社会現象とまではいかなかったが時代の変わり目についての記録としては、十分すぎる広告だったのではないだろうか。

 またこの年の瀬にはSNS周りで時代の変わり目を象徴する面白い出来事があった。少なくとも僕の中では強烈な記憶として残っている出来事だった。Twitterに突然、「とある居酒屋さんで鳩山首相と飲んでいます」という内容のメッセージが投稿されたのだ。続いて投稿されていくツイートに多くのユーザーは注視した。投稿主は元電通のクリエイターでネットでは古くからグルメ評論ブログを運営していて「さとなおさん」として親しまれている佐藤尚之氏である。ベストセラーになった新書『明日の広告』でご存知の方も多いだろう。衝撃的だった。今思えば、ある程度、居酒屋という場所選びや人選など、政府の戦略PR的な意味合いもあったのだろうとは思うが、日本のトップが人気ブロガーと居酒屋で飲み、その模様をネットでテキスト中継する時代になったのかという思いは確かにあった。今を生きる人たちに「そんなことで驚くなんてウブだね」と言われようが、当時の僕には確かにあったのだ。幸い、今も当時の記録やその事情や経緯がほぼ完全な形でネットにアーカイブされている。

 この年、「バズる」という言葉が誕生する。バズとはBuzz、ハチの飛ぶブンブンという音のことである。話題がSNSで盛り上がるという意味だ。同時に「バズワード」という言葉もできた。実体はよくわからないが何か時代を感じさせる新語の意味である。前年、流行したコミュニケーション・デザインはまさにバズワードだったのだろう。

 

● 2010年(平成22年)

 〈最低でも県外〉発言など、沖縄普天間基地問題の混乱を追求され、鳩山由紀夫首相は辞任。後任の首相には民主党の新代表になった菅直人が指名された。

 外資系SNSであるTwitterやFacebookが普及するにつれ、mixiやGREEといった国産SNSは経営的に苦境に立たされた。それを救ったのがスマホで作動するソーシャル・ゲームだった。今もそれほど変わらないとは思うが、この年のテレビは、ソーシャル・ゲームのCMが目立っていた。若年層が観る時間帯だけでなく、昼夜問わずゲームのCMが流れていた。連載でも言及したが、あれほど従来メディアを敵視してネットの優位を叫んできたネットベンチャー達が、いざ生き残りを賭けて、一生一代の勝負がごとく、練りに練った広告戦略に打って出るときに選んだメディアが地上波テレビだったことが僕の脳裏に強烈に刻まれている。

 作詞家の秋元康プロデュースで秋葉原の劇場を拠点とする〈会いに行けるアイドル〉AKB48がブレイクしたものこの年である。広告業界が生み出したと言っても過言ではない広末涼子や、広告業界と積極的にかかわることで国民的スターになったSMAPなどとは違う、新しいアイドルだった。メディアの多様化でメディア自体が飽和状態になった中で、劇場というリアルの場で歌い踊り、握手会で実際に手が触れられるアイドル像は、その身も蓋もないアイドル商法への批判は別にして、メディアの中でイメージを肥大化させていった平成アイドルに対するアンチテーゼだったと言えるかもしれない。

 

● 2011年(平成23年)

 3月11日14時4618秒、宮城県牝鹿半島の東南東沖130㎞を震源とする東日本大震災が発生した。民放では多くのCMが自粛され、代わりにAC制作のCMが繰り返し流れることになった。いくつものストックがあるはずだが、この危機にさしさわりのないものはこれしかなかったのだろう。それが「あいさつの魔法」と名付けられたCMだった。

 男児と動物が登場するアニメで〈こんにちは(こんにちワン)ありがとう(ありがとウサギ)まほうのことばで ポポポポーン〉という歌詞の歌が流れ、〈あいさつするたびともだちふえるね〉とナレーションが入る。壊滅的な被災地や刻々と変わる福島第一原発事故の映像に挟まれて何度も流れる〈ポポポポーン〉が話題になった。

 個人的な感想になるが、この年の広告については思い出せるものが少ない。多くのCMが自粛されたこともあるが、日々、追われるように更新が重なるウェブマガジンと、売上がリアルタイムで分かるネット通販が主な仕事になって、慣れない業務と危機的な社会の影響を受けて神経をすり減らしていたという個人的な事情もあるからかもしれない。11年の広告賞受賞作のリストを見ると、『上を向いて歩こう』などの名曲を、松田聖子を始めとするアーチストたちがリレー形式で歌い継いでいくサントリーの「歌のリレー」やJR九州の九州新幹線開通をテーマにした「祝!縦断ウェーブ」が受賞している。いい広告だと思う。異論はない。殺伐としたニュース映像の中にこういうCMが流れると、緊張した気持ちが緩むのは確かだろう。ただ、違和感は残る。震災に直接関係はない後者はともかく、震災と密接に関係する前者は、まるで、自分とは関係がない世界から、自分とは関係がない誰かへのメッセージのように感じる。

「歌のリレー」のクリエイティブ・ディレクターである佐々木宏氏は〈震災後、メディアは精力的な報道を続けていたし、一般でもSNSを通じてさまざまな動きが広がっていた。一方、広告関係者は自宅待機。ニュースをはじめとする番組とテレビCM、同じテレビに流れるもので、そんなに違いがあるのか、広告は何もできないのか。テレビを見ながら、歯がゆかった。同じような思いの人は多かったと思う〉と宣伝会議のウェブマガジン『アドバタイムス』のインタビューに答えていた。

〈広告は何もできないのか。テレビを見ながら、歯がゆかった〉という言葉は、こんな危機的な状況でもきっと広告にできることは絶対にあるはずだという確信に基づいている。阪神・淡路大震災の時に公共広告機構の〈人を救うのは、人しかいない。〉を制作した堀井博次氏は広告には何もできないかもしれないという諦念があり、だからこそ苦悶するスタッフに〈みんなで考えてあかんかったら、俺もあきらめる〉と言った。

 どちらが正しいのか、という問題ではないとは思う。どのようなフェイズでどのように広告を捉えているかという問題だろう。あるフェイズまでは「広告にできることはある」は真実ではあるが、それを超えてしまえば「広告にはできることはもはやないかもしれない」という領域が現れてしまう。

「歌のリレー」は趣旨としては、1985年、世界的なアーチストが集結してアフリカの飢餓と貧困を救うために歌った『We Are The World』のようなものだったのだろう。そこには、欧米の世界的なアーチストたちがアフリカの子どもたちのために歌い、その収益を寄付するという、与えるもの、与えられるものという関係がある。簡単に言えば世界の選ばれた者たちが集うエンタテインメント業界が行う慈善である。このCMにはチャリティーは組み込まれていないが構造としては同じだ。つまり、広告は、少なくともこのCMの文脈の中では、エンタテインメント業界のような何かなのだろう。それが、僕が感じる違和感の正体だ。

 もちろん、「広告にできることはある」というのが真実であるフェイズで、広告にできることを、広告ができる範囲を超えることのない形で、抑制を持ち合わせたプロフェッショナルならではの優れたスキルでエンタテイメントとして世の中に示したことは、広告人としての良識の表れだったと思う。しかし、同時に「広告にはできることはもはやないかもしれない」というフェイズで広告を考えることが、これから広告を作っていく若い人たちの思考から疎外されてしまうことについての強い危機感はある。

 最後に、10年に始まったサイマルラジオ配信サービス「radiko」が東日本大震災にあたって、11年3月13日という早い段階で一時的にエリア制限の解禁を決定したことを記録しておきたい。民間放送であるラジオは、聴取エリアを広告市場とし、その広告収入でその地域ごとの地域メディアとしての使命を果たしている。つまり、インターネットに進出してもエリア制限こそが生命線で、サイマルラジオの開発もそのエリア制限技術が実現化の鍵だった。その生命線を公共性の名の下、自ら解除したことは英断だったと言える。

 

● 2012年(平成24年)

 総広告費は5年ぶりの前年比増に転じる。

 この年、人々が何を求めていたのかは流行語大賞を見ればわかるだろう。芸人のスギちゃんの持ちネタ〈ワイルドだろぉ〉だった。みんな気休めがほしかったのだと思う。

 この頃に高感度が高かったCMの代表は、ソフトバンクの「白戸家シリーズ」だろう。このキャンペーンの肝は、白い犬が父親であることを始めとする現実離れした家族構成の一家が繰り広げる日常という設定にある。それは、現実を反映しているようで反映していない夢物語、つまりパラレルワールドである。この頃から、例えば『ドラえもん』であったり『ちびまる子ちゃん』だったり、過去の漫画の世界を実写化したり、桃太郎のような昔話を現代化した、大きな設定を最初に持ってきて、独自の世界観をつくり広告キャンペーンを長く回していくような大型キャンペーンが増えていったような印象がある。

 復興庁が始動し、経済も広告も少しずつ元気を取り戻しつつあった。年末、衆議院議員選挙で自民党が圧勝し、野田佳彦内閣が退陣。第二次安倍内閣が始まる。

 

● 2013年(平成25年)

 日本の広告費は、2年連続の前年比増となった。震災や不景気による影響を受けないようになった2013年だからこそ見えてきたことがある。地上波テレビはもう終わりだ、とさんざん煽られてきた割には広告メディアとしてはしぶとかったこと、インターネット広告の成長率の凄みだった。総広告費は前年比、101・4%に対して、テレビが101・3%、インターネットは108・1%もの伸びを示している。一方で、新聞が98・8%、雑誌は98・0%、ラジオが99・8%となっている。

 金額ベースで大まかに言えば、インターネット広告費は新聞、雑誌、ラジオを合わせた広告費とほぼ同額に迫るまで伸びてきていて、衛星メディアを含めたテレビの総広告費の約半分の規模に成長している。媒体数が少ない新聞と純粋な比較はできないことを考慮しても、これまで第2位のポジションをかろうじてキープしてきた新聞が名実ともにインターネットに抜かれてしまったことが確定したのが2013年だと言えるだろう。

 6年前とごく最近のことでもあるので、実感として分かることだが、この年、生活者のインターネット環境がほぼ整ったと理解していいだろう。この頃のスマホやパソコンと今のスマホやパソコンは性能的にはほぼ変わらない。回線の通信速度もそれほど変わっていない。

 多くの問題を抱えながらも新しいアドテクノロジーがそれを乗り越え、進化しながら普及していくインターネット広告と、量的な減少が質的な部分にも作用し、健康食品や旅行、高齢化向けファッションアイテムの通販広告で埋まる新聞、番組を聴けば司法書士の過払い金訴訟についての案内ばかりが流れるラジオ。数字では見えない部分も広告メディアの考察では重要である。

 

● 2014年(平成26年)

 この年の広告で最も記憶に残り、僕自身も好感を持ち消費意欲を掻き立てられた広告はJR東日本〈行くぜ、東北。〉だった。インサイトの設定もコピーもデザインも、CMのストーリーや演出も全てが素晴らしい。震災以降の東北地方のディスティネーション広告は簡単でもあり難しくもある。この広告の制作者たちは簡単な道は選ばず、あえて難しい領域にチャレンジした。

 簡単なやり方はすべてを東北目線で描くことだ。健気に頑張る東北人を登場させて、東北の隠れた魅力を発見する。難しいやり方は、旅行者のインサイトを発見して旅行者の目線で東北旅行の楽しさや魅力を伝える。旅行者のインサイトは、様々あると思う。震災の復興で頑張る東北を応援したい。復興に協力したい。そこには、同じ行くなら東北に行こうという消極的かつ社会的なインサイトも含まれる。しかし、そういう表面的な心理洞察の深層にある「今、東北に行きたいのだ」というプリミティブな感情に訴える方法を選んだ。

 考えれば理屈はあるけれど、その奥にある「行きたい」という感情、あるいは衝動や情動には理屈はない。そういう根源的なインサイトを〈いくぜ、東北。〉という短く勢いのあるコピーで表現した。そして、「今、大阪に行きたいのだ」というインサイトが成立しないことでわかるように、この時代の東北でしか成り立たない時代の感情だった。

 描かれるのは若い女性が一人旅を楽しむ、古い表現になってしまうが「うれし恥ずかし」という微妙な心の動きだ。そこに東北の地元の方が、少しからかうようにつっけんどんに、かつ暖かく迎え入れる。このからかうような態度と暖かさが同居するのが東北人の特長だろう。この演出家は、そういう肌感覚の東北人を知っている。シリーズに共通して出てくる女性が歌う鼻歌もいい。明確なメロディがありコマーシャルソングとして認識できるがただの鼻歌でもあるという、微妙なラインで成立させている。シリーズが重ねられるにつれて、ストーリーや演出にファンタジーの要素が増えてきてしまったように思えるが、立ち上がりの初期作品は特に素晴らしかった。

 平成も終わりに近づき、広告業界では名作と言われる広告でも、どこかに違和感があるものが多く、記述するのが苦痛ではあったが、このCMは素晴らしいと素直に思う。〈いくぜ、東北。〉というキャッチコピーのデザインもクオリティが高く、グラフィック広告も旅情を誘うディスティネーション広告から一歩も二歩も抜きん出ている。

 僕が書く「ごくごく私的な平成広告30年史」としては、この広告が、その地味でありながらも平熱でフラットな表現感覚と、その奥にある制作者の熟考と過去作品を乗り越えるという意識から生まれた、平成という時代の最大の成果だったと結論づけたいと思う。これは人によっては当然違うだろうと思うが、僕は一広告人として、この広告に平成的な新しさと独創を感じた。

 

● 2015年(平成27年)

 auの「三太郎シリーズ」が始まる。平成の後期に流行したパラレルワールド広告の集大成だろう。このCMの物語設定の面白さは、昔話の主人公たちが現代の感性で、昔話の世界で生きるという現実の社会とパラレルな別世界を構成している点だ。この夢物語の中で、ユートピア的な人間関係が繰り広げられる。SMAPが歌った『世界で一つだけの花』のように、上下はなく個性だけがあり、喧嘩はするが絶対に対立することはなく最終的には仲直りをするという予定調和の世界である。現実とパラレルに切り離されたユートピアの中で、3人は悩み、考え、日々を生きていく。

 それは、まさに人気絶頂期のSMAPのようだ。ただただ個性だけがある平等で理想的な世界。でもそれは、広告的意図を持って作り出されたユートピアだったことが、次の年に示されることになる。SMAPもただの人間だった。対立もするし、袂を分かつこともある。

 広告費はテレビが前年比98・8%と鈍化する中、インターネットが110・2%と好調な成長を続けた。インターネット広告推進協議会(現・日本インタラクティブ広告協会=JIAA)がネイティブ・アドに関するガイドラインの策定を発表した。

 

● 2016年(平成28年)

 2014年から世間を騒がせていた2020年に開催されるオリンピック・パラリンピック東京大会のエンブレムを巡って騒動に決着がついた。この問題は、パクリなのかどうかが世間では問われる一方で、その根底にある広告業界のサロン的な体質が問われた問題だと言えるだろう。熊本地方を震源とする地震が発生した。死者50人。関連死や二次災害死を含め計165人が死亡。またしても震災により大きな犠牲が出てしまった。そして、この年、平成の広告にも大きく貢献した国民的アイドルグループ、SMAPが解散する。

 AmazonプライムのCMシリーズが始まった。初回は「ライオン篇」だ。飼い犬のゴールデンリトリバーが生まれた赤ちゃんと仲良くなろうとするが、赤ちゃんは怖がって泣く。ある日、テレビに映るライオンに興味を示す赤ちゃん。犬が見つめる。そのことに気づいた父がいいことを思いつく。Amazonプライムで注文した商品が届く。それは、犬に付けるライオンの立髪だった。立髪を付けて赤ちゃんに恐る恐る近づく犬。赤ちゃんは犬に手で触れようとする。

 オーソドックスではあるが理想的な広告である。こんな時代でも、こういう古典的な広告が通用することが実証された。それがインターネット企業から出て来たことを記録しておきたい。

 

● 2017年(平成29年)

 広告業界を中心に働き方の改革が問われた一年だった。Instagramが流行する。

 一時期、パラレルワールドを描き、現実から逃げてきた広告が再び現実との接点を探し始めたような印象があった。典型的な広告はコカコーラの缶コーヒー「ジョージア」のCMだろうと思う。このCMに登場する人々は、タクシーの運転手だったり、工事現場の作業員だったり、ガードマンだったり、日々得意先に頭を下げ続ける営業マンだったり、社会を黙々と支え続ける人々だ。この広告は「チャレンジし続けよ」とも「人の揚げ足を取るな。そんな暇があるなら前を向け。明るい方だけを見て、前向きに生きろ」とか「失敗を恐れるな。失敗を笑うな。イノベーションは失敗から生まれるのだ」とか、自己啓発的で浅はかで大袈裟なきれいごとは言わない。

 もちろん、このCMに登場する人々は、失敗をすればしょんぼりした後に「やっぱりがんばろう」と思うし、日々、心新たに「明日もがんばろう」と思っている。しかし、それは日常を思う僕らの等身大の思いとして描かれている。

 この広告は「広告にも何かができるかもしれない」という誇大な自負はないだろう。ただ「ジョージア」という缶コーヒーを買ってくれた人たち、そしてこれからもきっと買ってくれる人たちに寄り添っているだけだ。

 この広告には〝平成臭さ〟がない。そのかわりに平成の終わりに生きる人の日常がある。人間臭さと泥臭さがある。そこに新しい時代を感じる。その新しい時代に感じるものは、新しさではなく、新しさを求めた果にある普遍のような気がしている。そして、そのことはこれからの広告にとっては希望だろうと僕は思っている。

 

● 2018年(平成30年)

 広告批評の連載を続けていると、単に広告作品の質の善し悪しだけでなく、広告という得体の知れない巨大なシステムについて考えさせられることが多い。平成という時代が広告にとってどういう時代だったのか。昭和という時代は、日本の近代化によって形作られた広告というシステムが戦争によって一度破壊された後、民主主義的かつ自由主義経済の原理のもと、もう一度整備され、拡大を続けていく時代だった。

 公共放送しかなかった日本のラジオ放送は、戦後、広告収入を主たる収益源とする無料の民間放送が加わることになった。日本で最初の民間放送は名古屋の中部日本放送(CBC)だった。1951年9月1日午前6時30分、アナウンサーが〈こちらは名古屋・中部日本放送であります。我が国初の民間放送・中部日本放送はただいまから放送開始いたします〉と読み上げた。1953年、日本で最初の民間テレビ局、東京の日本テレビが放送を開始。全国の主要都市に放送局が次に誕生。地方都市でも「わが街にも放送局を」と地元財界人が協力して放送局を設立していくようになった。

 この頃、収益モデルとしての「広告モデル」は万能に思われた。全国各地に遍く放送局ができ、大都市だけではなく広く国民のすべてが多様な情報を無料で取得できるようになると多くの人が信じていた。しかし、やがてその「広告モデル」にも限界が見えるようになった。

 平成は、国内では戦争のない時代ではあったが、大震災やテロ、世界的経済危機に見舞われた。かつてのようには新しい放送局は設立されないようになった。見えてきたのは「広告モデル」の逆進性である。例えば、病院などの場合、地域格差を縮小するために考える基準は1人あたりの医療機関の数である。この差を埋めようと政策が組まれる。しかし「広告モデル」に依存する民間放送の場合、収益の根拠となるのは放送エリアにおける広告市場となり、首都圏のような豊かな市場がある場合、1人あたりの放送局の数は増えていくが、地方の小都市のような小さな市場しかない場合、その市場に成立する放送局は1局ないしは数局しかない。つまり、「広告モデル」を推進していけばいくほど都市と地方の情報格差は拡大を続けるのである。

 この情報格差を拡大していく「広告モデル」という下部構造に支えられる広告は、必然的に東京という中心の価値観に強く影響を受けたものになっていく。平成に起きたいくつかの震災で見えてきたのは、広告的な言論や広告に支えられるメディア・コミュニケーションの、その中央集権的で傲慢とも言える性格と脆弱性だった。ここ数年に起きた、その構造的に起因する広告の問題点については連載でもいくつか取り上げた。それを、仕方がないじゃないか、とするのか、それともこれから生まれる新しい叡智によって克服していくのか。

 18年の広告費は前年比102・2%。インターネット広告費は全体の4分の1を超える規模に成長。第一位のテレビメディアに手が届くまでに拡大した。世界的な傾向から言っても、インターネットが日本で第一位の広告メディアに躍り出るのは時間の問題だろう。

 民間ラジオ放送はウェブに活路を求めた。在阪ラジオ局と電通関西支社の有志によって2007年に設立された「IPラジオ研究協議会」で論議、研究、開発され、10年に運用を開始したサイマル配信アプリ「radiko」は、14年に月額150円でエリアフリー聴取サービスを始めた。全国どこに住んでいても、全国のラジオ局のほぼすべてが聴取可能になった。これは放送エリアの広告市場に支えられる民間放送の「広告モデル」という原理とは逆走する試みである。この社会実験が、ラジオメディアに、そして、広く中央集権的なメディア・コミュニケーションにどう作用していくのかはまだわからない。

 ラジオのようにドラスティックに変わることはできないものの、テレビも同様の試みが徐々に始まりつつある。平成はインターネットの躍進の時代だった。理想を語れば、5Kが始まりどこかでインターネットメディアの成長が安定したときに、社会のあるべき姿に近づくために各メディアの長所と短所を補い合う相互補完の時代が来るのではないかと期待している。その時、広告はどう変わるのだろうか。そして、社会に対してどのような役割を果たしていくのだろうか。あるいは、広告が時代の推進していく中心的な役割を静かに終えていくのだろうか。

 

● 2019年(平成31年)

 平成31年。平成、最後の年である。昭和天皇が崩御した時には社会が自粛ムードに包まれた。平成の終わりは、特例法が制定され平成天皇の生前退位が決まり、新しい令和時代に向けてお祝いムードが広がることとなった。平成時代最後の4月30日の夜、カウントダウンと称して大都市の繁華街には若者たちが集まっていた。

 テレビでは、CMキャンペーンに出演する白戸家の家族たちが1975年(昭和50年)に発表された中島みゆきのヒット曲『時代』を歌い継ぐソフトバンクの60秒CMが流れていた。制作者たちが付けたそのCMのタイトルは「歌のリレー(命和)」だった。

 

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 この原稿はもともと書籍『超広告批評 広告がこれからも生き延びるために』財界展望新社刊の一部として書かれた。当初は付録的に収録しようと考えていたが、本書の「これまで常態化していた〝褒める批評〟を封印し、あえて問題広告を対象とすることで、現代日本の広告や社会が持つ課題を根源的かつ鋭角的に提起する」というコンセプトから若干外れてしまうことから割愛したもの。一個人が感じた時代の記録としての若干の資料もあるだろうし、広告に興味のある方にも少しは役立つかもしれないと思い公開することにした。加えて書籍を読んでいただいた方には補足として、これから読んでみようという方には書籍の目指したことを示す一助として役立てば幸いである。

池本孝慈

 

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