カテゴリー「医療」の24件の記事

2010年5月 5日 (水)

ほんまは痛かってん

 母が入院している病院にお見舞いに行こうと準備をしていたら、病院から電話が。また足を骨折したとのこと。今度は左足。右足股関節の手術が終わって、リハビリを始めたばかりなのに、ああ、やっちゃったなあ、という感じで、すぐさま病院へ向かう。

 今回は、さすがにちょっとめげていた。連休中なので、すぐにとはいかず、連休明けの金曜日に手術になるとのこと。手術の承認もあり、先生から説明いろいろしていただく。2回目なので、少し余裕を持って聞くことができた。

 前回同様、足首にロープを引っ掛けて、重りで吊るしていて、見た目はちょっと痛々しかったけど、まあ、前と同じなので、こちらはあまり動揺せず。女性の場合は、お年寄りは骨が弱っているケースが多いらしく、しかも右足がまだ自由に動かないわけだから、無理をすると一方の足が折れやすくなる。

 左足の時は、まったく痛がっていなくて、今回はどうなだろうと思って、母に聞いてみた。

 「痛いか?」
 「うん、痛い。」

 休日なのでレントゲンはまだ撮れていないけれど、先生から、母と同じケースの他の症例を見せてもらうと、今回は太ものの骨が折れていて、それが神経を圧迫して痛みがかなりあるとのこと。

 看護士さんに聞いて、おやつを食べてもいいということだったので、アイスクリームやら何やらを近くのコンビニで買って来た。病院食は、真面目な食べものばかりなので、うれしそうだった。アイスクリームが不真面目というわけじゃないけど、まあ、いくつになってもアイスクリームはうれしいものだし。

 一時期、少しでもいいものをと思って、駅前のこ洒落たケーキ屋さんでちょっと高めのケーキを買っていったことがあるけれど、それよりも食べ慣れた普通のアイスクリームやロールケーキの方がいいみたい。まあ、そんなもんだろうな。

 前の骨折でレントゲンを見て、痛くないはずはないのにとすこし不思議に思っていて、ひそひそ声でちょっと聞いてみた。

 「前もほんまは痛かったのとちゃうの?」
 「うん、ほんまは痛かってん。」

 やっぱりなあ。やせ我慢してたんだなあ。まあ、それだけの元気があれば、リハビリもうまくいくでしょう。

 今日で連休は終わり。妹も行けるとのことで、久しぶりに全員集合。しかしまあ、やっぱりいろいろありますねえ。

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2010年4月 7日 (水)

痛くないはずはないんだけどなあ

 大阪にいる母が股関節を折りました。入院先の病院で転んで尻餅をついたらしいです。高齢者の場合、転んだりすることをきっかけに寝たきりになったりすることもあるので、入院先の病院では、これでもかというほど転倒に気を付けているようでしたが、それでもやっぱり転ぶんですよね。まあ、しゃあないです。

 夜中に父と一緒に病院に行き、母と会いました。骨折した足は紐で引っ張られていて、見た目、かなり痛々しかったのですが、母はまったく痛そうな素振りを見せずにケロッとしていて、転んだのは自分のせいじゃない、みたいなことをしきりに言っていました。骨折していない方の足をバタバタさせて、ほらこんなに動くし、とか言ったりして、こっちが拍子抜けする感じ。

 担当の先生に呼ばれて、ほな行ってくるわな、なんて言いながら、別室に。手術についての丁寧な説明を受けました。レントゲンを見せてもらうと、股関節にある大腿骨頭の根元が完全に折れていました。すぐに手術をして、金属製の人工骨頭を入れることに。全身麻酔、輸血で、太ももを開き、大腿骨の骨髄を掘り出し、ノミで穴をあけて、そこに人工骨頭を挿入するとのこと。

 最近は、インフォームドコンセントの普及からか、データを交えながらリスクを含めて説明してくれます。これは、聞いている方は、かなりきついです。細かい数字は忘れてしまいましたが、この方法は20年前から行われている信頼性のある方法ですが、これまでの20万人の症例の中で、1名の方がショックで亡くなっています、とか言われると、理屈でわかっていても、ああ、なんだか大変なことになっちゃったなあ、なんて思ってしまいます。でも、それでも、こういうことは言ってもらったほうがいいんでしょうけどね。

 先生から質問はありませんか、と言われて、なぜ母は痛がらないんでしょうね、と質問。ちょっとずれた質問だったらしく、先生は妙な表情をしていましたが、先生曰く、麻酔も打っていないし、少しは痛いはずですが、足を紐で引っ張っていて神経に触らないからじゃないですかね、と。でもまあ、我慢もあるんだろうな、なんて思いました。母は母なりに、心配をかけないように、みたいな。

 説明が終わって、もう一度母に会いにいくと、今度は、ほらこんなに元気やし、手術せんでもええな、みたいなことを言うので、手術せな歩かれへんからな、ちょっと我慢してな、と返すと、ちょっと神妙な顔になって、わかった我慢する、と。お茶飲むか、とコップを口もとにもっていくと、手術前は飲んだらあかんから、なんてことを言うんですよね。外科手術だからお茶は飲めるんだけどね。

 病院を後にしたのが、夜の10時を回っていて、地下鉄乗って帰ろうとしたら、父が、ちょっとコーヒーでも飲んでいこか、と珍しく言うので、駅前のファミレスに。父とファミレスに行くとは思わなんだ。で、メニューを広げると、いきなりビールを頼むから、やめとけ、と言うと、今日はええやろ、みたいなことを言うので、しょうがないなあ、今日だけやで、ということで、生中を二杯注文。東京から電話したときは、たいしたことがないので大阪には帰らんでええ、と言ってたくせに、夫婦揃って素直じゃないんだから、なんてことを思いました。

 後日、手術があり、なんの問題もなく成功。父に聞くと、手術直後もまったく痛そうな素振りを見せなかったらしいです。痛いはずなんだけどなあ。今は、足を伸ばしたり動かしたりするリハビリをはじめていて、もうすぐ加重をかけるリハビリがはじまるとのことです。

 まあ、個人的なことでもあるけれど、同じような状況になる方もたくさんいるでしょうから、何かの参考に、ということで、記録として書いてみました。この手の話は、いつもそうしているのですが、今回のエントリも同様に、コメント、トラックバックは閉じておきますね。ご心配なく。事実の間違い等があれば、ご面倒ですがメールにてお知らせくださいませ。メールは、プロフィールにあります。ではでは。

 参考:股関節の骨折(メルクマニュアル医学百科)

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2010年3月 7日 (日)

「やまない雨はない」というメッセージ

 テレビドラマ「やまない雨はない」を見ました。

 このドラマは、昭和60年頃に「お天気おじさん」として人気を博したお天気キャスター倉嶋厚さんと妻・泰子さんの夫婦愛、泰子さんが癌で他界することをきっかけに発症したうつ病の闘病を描いた同名の実話エッセイをドラマ化したものです。倉嶋さんは、現在86歳でホームページも運営していらっしゃいます。

 倉嶋厚さんを渡瀬恒彦さん、泰子さんを黒木瞳さんが演じていました。新聞のテレビ欄にもヒューマンドラマと題されているだけあって、全編、人間愛に貫かれていて、ドラマとしても見事だと思いましたが、私がとくに感心したというか、リアルだなあと思ったのは、ドラマ後半のうつ病を発症した倉嶋さんを描いた部分でした。

 うつで抑うつ状態になって歩く渡瀬さんの姿(すごく説明が難しいけれど、ただ落ち込んでいる状態の歩き方ではなく、うつ病や躁鬱病のうつ状態特有の歩き方の特徴がありました。あえて言えば、脳の指令がそこに介在している感じ)や、精神科の入院病棟の様子から、役者さんを含めたスタッフさんたちの、心の病を正しく理解しようとする姿勢が伝わってきました。相当、きめ細かく観察し、いろいろな意見を咀嚼し、考え尽くして演出されたものだろうなと思いました。もちろん、テレビドラマですから限界はあるでしょうし、人によってはこんなものではないという意見もあるかもしれませんが、それでも、なるだけ脚色をしないで伝えようとする意志が画面に表れていたと思いました。

 私はまだ原作のエッセイを読んでいませんが、それは倉嶋さんが伝えたいことのひとつであったと思いますし、その意図をテレビドラマのスタッフさんたちはきちんと受け止めていたように思います。

 渡瀬さん演じる倉嶋さんは、心の病を「心に雨が降る状態」であると言います。そして、精神科の入院病棟を「雨宿り」の場所であると言います。また、少し元気になった岩嶋さんのお見舞いに訪れたテレビプロデューサーが「傷ついた人たちとこれ以上一緒にいることは岩嶋さんにとっていいことではないと思うな」とも言っていて、それを岩嶋さんが「もう少しここにいます」と拒み、立ち去るテレビプロデューサーは「もうあの人は駄目かもしれないな」とつぶやきます。

 結果として、入院しているある女子高生の言葉をきっかけに、発症後、岩嶋さんがはじめて笑い、寛解へと向かうシーンは、いろいろな意味で考えさせられました。(実際は、寛解に向かった後、仕事に復帰し、忙しく日々を過ごしていくうちに、自分の判断で薬を少なくしたり飲まなくなって再発してしまったということです。参照

 ドラマでは、どちらが正しいのかは提示していませんでしたし、きっとどちらも正解なのだろうと思います。でもひとつだけ言えることは、うつ病にしても躁うつ病にしても統合失調症にしても、「心に雨が降る」のが見えるのは本人だけであり、その雨宿りの場所として精神科があるということ。それは心が晴れている状態の人が、晴れている状態を根拠にして、どうこう言えることではないのだろうな、ということです。これは励ましたい当人にとっては無力感があるのですが、でもその原則を無視することから、すべての無理解がはじまるのでしょう。それは、自戒を込めてそう思います。

 「心に雨が降る」という状態は、降る雨を傘をさしながら、もしくは窓から外を見ながら憂鬱になるという状態とは違います。躁うつ病だった中島らもさんは、自身の心の状態を「心が雨漏りする」と表現していました。心の病の多くは、そのきっかけがたとえストレスや悲しい出来事であったとしても、そのことをきっかけにして起る脳内の神経伝達物質の働きの異常によるもので、そこから先は医療の領域です。

 予防に関しても、風邪にならない生活という意味では有効だとは思うけれど、風邪になってしまったら、そこから先は気の持ちようとは言えないし、風邪になったらすぐに病院に行くように、単なる憂鬱ではないなと思ったときにすぐに精神科に行ける状況を作ることは大切だと思います。「心に雨が降る」という表現は、そこのことが感覚的に理解できる言葉ですし、抑うつ状態とうつ病、躁うつ病の違いを知る手がかりにもなります。この感覚は、心の病になっている人を支えるときも、心の病になる可能性を持つ私たち自身に向き合うときにも、大切な感覚だと思っています。

 風邪やインフルエンザと同じくらいには心の病についても知っておくべきなんでしょうね。もちろん、知ったその先には、薬のこととか、精神論や思想・哲学を含めたいろいろな考えが錯綜し、ややこしい党派性があって、それはそれで、学者ではない一般人としてはわけがわからなくはなってしまうんですが。それでも、教養として、知れるだけ知ったほうがいいとは思います。

 とことん知った上での偏見は、それはもう悪意でもあるからしょうがないけど、知らないがゆえの無邪気さは、いちいち指摘はしないけれども、無邪気な明るさがあるだけに、なおさら悲しいなあとも思うし。今回のドラマだって、エンディングがあるドラマだからこそ気付きにくいけれど、その時々でいろいろとあったのだろうなと思います。倉嶋さんもこんなふうにおっしゃっています。明るい感じの言葉ですが、そこには壮絶な葛藤があったのでしょう。

自分でも、とてもこれではどうしようもないなというところまで落ちてしまっていても、やはり精神科に入院するということは、精神的な病であると認めることになるわけで、仕事的にもなにか偏見をもたれたりして支障がでるのではと、その時はそんな不安が広がったのだと思うんです。
UTU-NET 「うつ」を克服した人々 倉嶋 厚さんの体験談

 このドラマが伝えたかったメッセージは、タイトルである「やまない雨はない」が、様々な人たちの支援と、この最後の精神科の入院というエピソードがあって、はじめて言える「やまない雨はない」であるということなのではないかな、と思います。

 

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2010年1月 5日 (火)

やっぱり、こういう問題の解決は「広告的」な手法が得意なんだろうな、と思いました。

 まあ、なんともなかったから書けることでもあるのですが、昨日の夜というか、今日の早朝、はじめて119番に電話をかけました。糖尿でインスリンを打っている父の血糖が下がって、痙攣を起こしたんですね。最初は寝言かと思ったのですが、ちょっと変だなと飛び起きてみると、目をむいてわけの分からないことを叫んで大変なことになっていました。

 医学的な理屈を知っている人は分かると思うのですが、血中の糖分が足らなくなると、大脳のエネルギー代謝が維持できなくなって、意識がおかしくなり、最終的には意識消失、時間が経てば脳に障害が残る可能性もあります。でも、これは、ブドウ糖の固まりやキャラメル、飴玉などを食べさせると、不思議なほどすぐに落ち着きます。ほんと、あっけにとられるくらいすぐに戻ります。

 今回は、寝ている間に本人が気付かないままに血糖が落ち、しかも、私の発見が遅れたこともありかなり意識がおかしくなっていたということが重なって、とてもブドウ糖を食べる感じではありませんでした。

 深夜4時30分くらいに救急隊が駆けつけくれましたが、暴れるので病院に搬送することもできず、結局、無理矢理、医療用のブドウ糖を食べさせました。暴れて吐き出したりしたので、大の大人4人がかりで1時間ほどかかってしまいました。

 落ち着きを取り戻した父は、バツの悪そうな顔をして「もう大丈夫です」と一言つぶやいて、そのまま寝てしまいました。こういう事態は、本人は初めてではないらしく、こちらの慌てぶりとは対照的に落ち着いた感じでした。今は、いつもと同じように元気で、人間にとって糖の役割は重要なんだなあと、あらためて思いました。

 このあたりの話は、糖尿でインスリンを打っている人が身近にいる方なら、ああ、パターンだなあと思うことなんだろうと思いますし、それほど珍しいことでもないでしょうし、私も理解してはいたのですが、でも、やっぱりその場に居合わせるとあたふたしてしまいますね。

 こうした事態を防ぐには、当人が意識することはもちろんなんですが、まわりの人も早めに発見してブドウ糖などを摂取させることが大切です。インスリンを打ちながら社会で活躍している人はたくさんいるので、まわりの人たちも知っていたほうがいい事柄だと思います。

 結局、病院に搬送せずに、このまま様子をみるということになって、救急隊の方はそのまま帰ってもらったのですが、その際に、救急隊の方は、こうおっしゃいました。

 「ちょっとでも異常が見られたら、遠慮せずに119で呼んでください。遠慮だけはしたらあかんからね。」

 この救急隊の方々の言葉は、すごくありがたかったです。そして、あらためてですが、119番があり、救急車があって、救急隊の方が助けにきてくれるという社会の体制は素晴らしいことだなと思いました。119番がない社会を考えると、ぞっとします。

 今、救急車をタクシー代わりに利用する人が多くなって問題になっているそうです。新聞やテレビでも報道されていますよね。そのことで、119を遠慮する人も多いそうです。特にお年寄りの方に多いようです。もちろん、そのことを解決することも必要なのですが、その解決が、本来の「命を救う」という本義を損なうことになる可能性もあります。それは、「コンビニ受診」と同じ問題をはらんでいます。

 正直、この問題は難しくて、どう考えればいいのかは、まだはっきりとはわかりません。

 でも、きっとありのままの問題を知らせるというインフォメーションだけでは解決できないのだろうなとは思いました。救急車のタクシー化の問題を知らせると、今度は、市民が救急車を呼ぶことを躊躇してしまう事態を生み出します。けれども、今のままでは問題は変わりません。

 前にも書いたことがありますが、やっぱり、こういう公共にかかわる意識の問題の周知には、広告の持つ受動性が有効なのだろうな、と思うんですね。つまり、広告的に、メッセージとともにテレビや新聞、インターネットを見ている人が等しく受動的にメッセージを受けとるということ。今の状況を解決するメッセージというのは、きっと見つけ出せると思うんですね。きっと難しい仕事になるとは思いますが、見つけられると思います。海外の公共広告なんかは、いいお手本だろうと思います。

 やはり、こうしたことについては、個々人の能動的な情報摂取により、個々人のリテラシーや倫理にゆだねるだけでは駄目なんだろうなと思います。各自それぞれ考えろ、ではいい解決はできないのだろうと思います。救急の主体、もしくは、国、公共団体がきちんとしたメッセージを打ち出し続けることが必要なんでしょうね。難しいとは思いますが。

 参考までに、ACの公共広告のリンクを上げておきます。ひとつは、モラルの問題、ひとつは脳卒中の問題をテーマにしています。


 関連エントリ:
 リテラシー考続・リテラシー考

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2009年10月30日 (金)

もしもし

 うちの親父はメールが使えない。というより使う気がない。親父は個人商店を経営していて、わりと早い段階からファックスを使っていたし、昔、遠くに住む絵描きさんと絵本をつくっていたときに親父の事務所のファックスを借りた覚えもあるし、機械音痴ってわけではないと思う。要は、そんなもんいらんがな、という意志なんだろう。

 たしかWindows Meの頃だったと思うけど、いらなくなったパソコンを送ったこともあったけど、大阪に帰ったときに見たら、ポリ袋に包まれて、部屋の隅に置いてあった。

 そんなやつであるので、連絡はいつも電話。

 母の具合が悪くなってから、まあ少なくとも1週間に1度は電話をしている。以前は、1ヶ月に1度すればいいほうだったのが、えらい変わりようである。人間、変われば変わるもんだ。

 お互い頑固だったりもするし、ひねくれもんだったりもするので、最初のほうは用件をつくろうとしてた。

 「そう言えば、阪神調子ええなあ。」

 とか、

 「こないだの台風どうやった?」

 とか。どうでもいいことを枕に話し始める。ほんと、ややこしいやつらだな、と思うけど、まあ、親子だし、そういうことだし、しゃあないなという感じ。でも、さすがにじゃまくさなってきて、そういう枕を省略したくもなってきて、

 「もしもし。」
 「なんや。」
 「なんややあれへんがな。べつに何にもないがな。」
 「そうか。」

 母の面会で大阪に帰るときも、

 「大阪に帰るからな。」
 「おまえが来たかて、なんにもならんがな。」
 「そんなん言うても、もうチケットとってもうたがな。」
 「そうか。で、いつ着く?」
 「夕方。」
 「新大阪でいつもの弁当買うてきてくれ。」

 2年ほど前、母の具合が急変したとき、

 「すまん。帰ってきてくれ。どうしていいかわからへんのや。」

 と夜中に泣きながら電話をかけてきて、それが、これまでできちんとした用件があった唯一の電話。親父が泣いてるのははじめてで、正直どうしていいのかわからなかった。

 その頃にくらべると、ひねくれ具合はあいかわらずではあるけれども、ずいぶん落ち着いてきた。どこの親子もそんな感じだと思うけれど、ぎくしゃくしつつもそんな習慣ができたのは、すごくありがたいし、ある意味では、母がくれた習慣でもあるんだろうな、なんて。

 あれから母は。

 元気です。元気すぎて困るくらい。気分的には絶好調の時期みたいで、みんなに「この子らなあ、私が育てたんやで」と自慢しよる。わしゃ、もう40過ぎのおっさんやで。恥ずかしやんか。病状的には、絶好調すぎて困ることもままあるみたいだけど、これからも気長に付き合っていかないとしゃあないなあ。

 そんな感じです。

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2009年9月18日 (金)

後期高齢者医療制度がなくなるんだよなあ

 昨年の春過ぎに母がおかしくなって、家族で慌てふためいて、緊急入院。入院すると歩くことも食べることも喋ることもできなくなって、もう駄目かもと思ったりして、たぶんそれは薬のせいだとは思うのだけれど、まあ医者ではないのでよくはわかりません。だけど、そうなって、2ヶ月ほどたって、長期の入院が見えてきたときに、病院からは転院の催促があったんですよね。

 母の場合は、とある疾病でそうなって、だけどその最中に認知症がわかって、その時点の最悪な状態が認知症によるものでもないにも関わらず(認知症というのは、それほど急激に状態が悪くなるものではありません)、認知症の専門病院に転院をすすめられたんですね。専門家ではないからよくわからないけれど、やはりこの一連の騒動は今も納得いきません。結果論としては、転院によって治療方針が変わって良くなってはくれたけれど。

 この私が体験した騒動は、後期高齢者医療制度のせいかと言うと、じつはそうではなくて、その前にできた「90日ルール」のせいで、後期高齢者医療制度とはまったく関係がないんですね。

 このあたりの話が整理された論議というのが、ついに起こらなかったのは、なんとなく残念ではありました。文藝春秋などでは触れられてはいましたが、やはり制度自体が複雑すぎて、ある程度の知識がなければよくわからない話になっていたように思います。

 後期高齢者医療制度も介護保険制度も、本質的には、長期療養が必要となる年齢層に対して、一律の保険制度でフォローするのではなく、それを分けて財政的な危機を回避できる新しい制度をつくるという目的でできたもので、そこから起こるいろいろな問題は、その運用にあったような気がします。

 財政的破綻を回避する新しい制度をつくるという目的は、当面の出費を減らすという目的にすり替わって、その運用が出費を減らすという一点に絞られました。その運用は、ある意味では巧みで、よくもまあこんなふうに考えられたな、というものでした。優秀ですよね。嫌みで言っているのですけどね。目的に忠実というのも、こういう場合は考えものですね。

 例えば、90日ルールで言えば、病院は90日以上入院しても罰則はないんですね。でも、90日を超えると儲けにならない。要するに、本来国が制度としてやるべきことを、現場のお医者さんにやらそうとしている。こういう運用ルールにすれば、「すみません、出て行っていただけますか」と医者は言うだろう、と。医者だって商売なんだから、言わざるを得ないだろう、みたいなことです。それで、認知症や脳梗塞の後遺症で苦しむ人たちが医療難民化したのは、体験した人ならご存知ですよね。今はこの制度はひっそりと凍結されているので、現場は少し沈静化しているようですね。

 介護保険に関して言えば、介護認定というものがあり、介護保険が十分に使える要介護5なんかだと、状態としては介護保険ではなく、後期高齢者医療制度または健康保険を使っての医療を受けなくちゃならないんです。現実としては。で、良くなって、もう一度認定を受けると、要介護1とか、もっと言えば、要支援になってしまいます。となると、今度は介護保険がうまく使えなくなるんです。

 こうした運用を生み出したもとは、気軽な社会的入院の増加による財政的な貧窮があったのだろうと思います。これをすごく根に持っているのだろうな、という運用に見えます。

 民主党政権になって、後期高齢者医療制度がなくなるそうです。後期高齢者というネーミングが高齢者を切り分けている、みたいな感情論から批判が広まって、問題の本質が置いてけぼりになりました。見直されるべきは、制度ではなく運用のほうだったのにもかかわらず、あまり本質に関係ない、というか、慢性疾病で長期化する年齢層の保険制度を別建てにしようと意図する、ある意味で建設的な回答であるとも言える後期高齢者医療制度がスケープゴードになった感じが私にはします。

 前にも『問題は「後期高齢者医療制度」ではなくて』というエントリで触れましたが、ネーミングとかイメージって怖いな、と思います。そういうイメージを操作する仕事をしているだけに、これは自戒を込めてそう思います。

 なんとなく、政権も変わったことでもあるし、この問題についてはもう一度書いておこうと思いました。なんか、日常に起こるあれこれとわわせて(ほんと、いろいろ起こるものですよね)、こういうエントリを書くと憂鬱な気分になるんですけどね。民主党にはがんばっていただきたいなあ、と切に思います。ほんと、お願いしますよ。ほんとにさ。

 追記:

 本文と関係ないですが、昔のエントリをリンクします。私はビートルズやローリングストーンズよりPPMの方が好きでした。マリーさん、いい歌をたくさん、ありがとうございました。

 Puff, the Magic Dragon

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2009年3月 9日 (月)

もっと専門分野の方がブログを書くようになればいいと思うんですが

 なんだかんだで、世の中には、専門分野の人たちにとっては当たり前のことでも、一般の人にはいまいちわからないことがたくさんあって、それを知りたい一般の人もたくさんいるわけです。例えば、入院中の母のこと。かれこれ、もうすぐ1年になります。入院した時点では「入院90日ルール(入院90日を超えると保険点数が極端に下がる制度)」があり、転院を迫られました。表向きは、対応しきれないので、より専門性のある病院への転院をすすめるというものでしたが。そのときに「転院後も、また3ヶ月経ったら考えないといけません」とケースワーカーさんに言われましたが、その後、新しい病院に移り、今のところ、そういうことを言われることもなく、入院生活を続けています。

 去年の8月に後期高齢者の90日ルールが見直しとなる公算が高いという新聞記事が出て(参照)、その後、たぶん見直されたはずで、その影響なのかもしれませんが、はっきりしたことはわかりません。この「90日ルール」は、苦労している方が多いにもかかわらず、あまりニュースにもなりませんでした。ネットで検索しても、私の過去記事が上位に出てくる始末で、マスメディア、ミドルメディア、個人メディアとメディアが多様化しても、世の中に取りこぼされる情報はたくさんあるものだな、と思います。

 ま、プライベートな領域の事柄だから、書かないことも多いけれど、高齢者の医療にはたくさんのアクシデントが待ち受けていて、母の場合も、投薬をやめて、やっと意識が戻ったとたんに、気道にものをつまらせたことが原因で肺炎になったり、いろいろありました。

 ただ、入院当初にくらべると気分的には相当余裕があって、仮にこの「90日ルール」の見直しによるものだとしたら、制度によってこんなにも違うものなのか、とは思います。お医者さんのブログを見ても、この「90日ルール」についての記事がめっきり減っているので、いま医療関係では、この問題については比較的に落ち着いているのかもしれません。

 Web2.0、集合知、ロングテールなど、いろいろとウェブの可能性が叫ばれていますが、本当は、こういう医療も含めて、世の中のいろいろな部分の情報が、ある程度の専門性のフィルターを通して、社会に可視化されることが大事なような気がします。そういう意味でも、もっともっと専門分野の方がブログを書くような世の中になればいいな、と思います。

 あと、私のブログでは、仕事柄もあり、既存のマスメディアについて書くことも多いのですが、ネットでの発言の中では、比較的、既存メディアについては肯定的で、その存続のためにどうしたらいいのか、みたいな保守的な論調になっているとは思います。

 新聞は終わってはいけないし、テレビも、雑誌も終わってはいけない。そのメディアが存立する構造が崩れるということは、今、マスメディアが「90日ルール」のようなニッチな情報を伝えきれていないとしても、このような情報を広く伝える手段を社会が失うことを意味していて、そういう未来は、明らかに後退ではないかと思うからです。情報を伝えるプロがいない。ほんとうのことがわからない。ほんとうのことが通らない。そういう社会は、私はごめんだから。

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2008年9月21日 (日)

この機会に、その発想を改めてみてはどうだろう。

 総選挙を控えて、医療制度関連で、このところ世間が騒がしくなっています。後期高齢者医療制度を中核とする医療制度改革では、様々な意見があるようです。若干ステレオタイプな感じでばっさり切っていますが、大きくわけると、この2つに分かれるでしょう。

1)老人いじめだ。医療費天引きとか、この不景気に医療費負担増はもうごめんだ。いままでがんばって国を支えて来たのに、年をとったら区別されて、負担させられて、なけなしの年金から天引きされるし、約束が違うじゃないか。いつもいつも、政府与党は。まるで姥捨て山だ。

2)今のままでは近い将来医療制度は破綻するよね。それに現役世代に負担させてばかりじゃ働く気なくなるでしょ。そういう意味では今必要だし、いつかはやらないといけない制度かも。現実、高齢者の負担も減るケースもあるわけだし。大衆っていつもヒステリックなんだよね。

 で、テレビとか新聞で報道されるのは、この2つを行ったり来たりの言説だったりします。一方で患者の経済的困窮をドキュメントで見せるかと思えば、コンビニ医療や社会的入院という品のない言葉で大衆をくさす。政治の世界では、野党の言い分は概ね1)で、政府・与党の本音は概ね2)で、選挙が近くなると、がぜん1)の言い分が大きくなって来て、政府与党の舛添さんがフライング気味にテレビでこんなことを言うようになってきました。

 後期高齢者医療制度は75歳以上の高齢者を若い世代から切り離し独自の保障をする制度。だが年金からの保険料天引きなどが感情的な批判を呼んでいる。同相は新たに検討する医療制度は(1)年齢のみで対象者を区分しない(2)年金からの保険料天引きを強制しない(3)世代間の反目を助長しない仕組みを財源などで工夫する——という三原則に基づいて設計することを強調した。
厚労相「麻生政権で新制度」 後期高齢者医療 — NIKKEI NET

 ああ、わかりやすいな、と思います。でも、わかりやすすぎて、いやになります。みんな感情論。そこ、本質なんでしょうか。私にはそう思えません。年齢で区分とか、保険料天引とか、世代間の反目とか、説得でなんとかなるじゃないですか。年齢で区分しないとするとどう区分するのかはわからないし、お金は天引ではなくても、どうにかしてとらないといけないし、世代間の反目なんて、しょうがないじゃないですか。最後は、きっと消費税を念頭に置いていますよね。(私は個人的にはそれも手ではないか、と思っていますが、その経済への影響とか、不勉強でいまいちわかりません。)

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 医療費の増大の原因になっている高齢者の社会的入院を招いたのは、そもそもかつての地方自治体の老人医療費無料制度です。政府は、この社会的入院という大衆の行動をすごく嫌悪していて、この後期高齢者医療制度が始まる前から、医療から介護へ、療養病床は削減、長期入院は病院が赤字になるような手法で抑制、というカタチで大衆に対抗したように私には思えます。私は、この捻れた暗い情熱に支えられた抑制の方法が、後期高齢者医療制度を含めたすべての医療行政の根幹にあって、それがこの制度の最大の欠陥だと思っています。

 それが分かりやすく表現されているのは、入院90日を超えると保険点数が極端に下がる制度や、終末医療をやめるアドバイスをすることに対して新たに保険点数を与える制度などです。私の経験したことで言えば、母が入院して、どんどん悪くなって、入院が長期化し、入院当初より医療の助けが必要な状態にも関わらず転院要請されたり、その間に、行政の指導もあると思うのですが、自治体からの介護認定があり、当然いちばん重度の「要介護5」だったのですが、でも、このタイミングの介護認定というのは、ほとんど意味をなさないんですね。「要介護5」の状態は、介護ではなく医療が必要なんです。

 母は、状況が良くなったり悪くなったりが続いて、まだ入院していますが、希望的な観測で言えば、もし母がある程度元気になって退院できるようになり、介護でなんとか生活できるようになったとき、もう一度介護認定があるわけです。そのときは、きっと「要介護5」ではありません。介護ではなく医療が必要なときには介護認定が高く、介護が必要なときには介護認定が低い。介護が低いと介護が利用しにくい。そんな現実があるのです。

 精神疾患や認知症、脳梗塞の後遺症の高齢者患者を中心に、医療を受けられない人が続出しそうな気配があったのですが、やはりこの制度は後期高齢者については10月より、重度の認知症と脳梗塞の後遺症については凍結されるそうです。とりあえず、そのこと自体は評価はするけれども、この大本の考え方が変わらない限り、こうした問題は出続けるだろうと思います。

 こうした問題は、大きな犠牲が出てから反省しても遅いんですよね。人の人生は一度しかないから。財源がない。破綻する。どこかからお金を持ってこなければいけない。それを言うのは反発があるから、一番負担になっている患者さんにがまんしていただく。しかも、その患者さんは、口うるさくない患者さんなんですよね。そこそこ健康なら、文句は言えるけど、認知症や脳梗塞の後遺症では話せないですから。それはないだろう、と思う訳です。

 私は小児医療はあまり詳しくはないですが、医師不足や医師の過労で、小児医療が崩壊しそうな今、選挙が目的だとしか思えないタイミングで、小児の医療費を無料にする地方自治体が相次いでいます。何を考えているのだろうと思います。これで、小児医療を存続させるための地域住民の取り組みが水の泡になります。

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 舛添厚生労働相は「どんなに論理的にいい制度でも国民に支持されなければ長期に維持できない。政権も代わる時期でもあり、じっくり問題点を洗い出す」と言っています。本音は、論理的にいい制度という思いがありそうです。ならば、その良さを説得するのが本当は先なのではないかと思います。そして、その問題点は、年齢での区切りや、年金からの天引きでは本来はないはずです。これでは、後先を考えない、この小児科無料と同じです。

 口当たりのいい先送り案はいいから、とりあえず、医師の職業的倫理から医療を行いたいけれど、それをすると病院が赤字になり、その結果として、医療を受けるべき人が受けられないで路頭に迷ってしまう制度をつくれば、国民に負担を迫らずに結果的に医療費が抑制できるじゃない、という陰気な発想だけは、この機会に改めてみてはどうだろう、と私は思います。敵ながらうまく考えたと思うし、これを思いついた人は頭がいいんだろうなと感心するけれど、そんなやつと付き合いたいとは思いませんもの。

 だって、こういうことがある限り、後期高齢者医療制度が、高齢者に安心して医療を受けていただくための制度だと言っても、信じられませんもの。こんなやつらのために、大切な医療費を使えねえんだよ、という本音が透けて見えるじゃないですか。信じられないものにお金は出したくない、というのが人情です。逆に言えば、信じられるだけの根拠をきちんと示せば、しぶしぶだけどお金は出すとは思うんですよね。医療制度が疲弊しているのは、変えられない事実なのだし、医療が大切だというのは、みんなわかっているわけだから。

追記:

 麻生氏は21日、NHKや民放のテレビ番組で、同制度について「抜本的に見直すことが必要だ。国民に納得してもらえないという話だったら、さっさと(見直す)」と語った。見直しの柱として、〈1〉加入者を年齢で区分しない〈2〉年金からの保険料の天引きを強制しない〈3〉世代間の 対立を助長しない——の3点を挙げた。麻生氏は、次期衆院選の政権公約(マニフェスト)にも、同制度の見直しを盛り込む意向だ。

 同制度を巡っては、4月の導入直後から、「75歳以上の高齢者を切り捨てるつもりか」などの批判が出ていた。

後期高齢者医療「見直し」…麻生氏、政権合意に盛り込みへ(2008年9月22日03時02分  読売新聞)

 目先のわかりやすいところだけ先送り的に改革、というふうにならないようにしてほしいと思います。本当は90日ルールを代表とするような、隠れた部分をなんとかしてほしい。で、本来この問題が隠れてしまうのもおかしな話ですけど。でも、この話、現場のお医者さんも混乱するくらい複雑なんですよね。うまいこと考えたもんです。(参考:90日ルールへの特例措置-新小児科医のつぶやき)

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2008年8月26日 (火)

私、あの娘好きやねん。

 久しぶりの医療カテゴリーです。いろいろ考えているけれど、私の場合、基礎知識がなさすぎるので、なかなか書けず。なので、近況など。

 母が入院して、かれこれ3ヶ月以上経って、その間に転院とかもあり(なぜ転院したかは、ここをご参照ください)、いろいろ大変でしたが、ここのところすごく回復してきています。いままでは、言葉を話せなくなっていたのですが、今は普通に話せるようになってきました。

 看護師さんと気が合うらしいです。ほんと、なにわ娘という感じの明るくおしゃべりな女性の看護師さん。ときどき一緒に散歩に行くらしい。

 「私、あの娘好きやねん。」

 お見舞いに行くと、母がそんなことをうれしそうに言っていました。医療って、こういうことでもあるんだなあ、と思いました。現場って大事だなあ、結局は人なんだな、そんなふうに思いました。こういう現場で働く人たちがきちんと仕事ができる医療であってほしいと思います。

 我々患者側は、うまくいったことはよく言うし、悪化すると悪く言うので、医療というのは大変だと思います。そんななか、今は、現場の医療従事者の方々のブログなんかも読める時代でもあるので、ちょっとそのへんは、使いようによっては、こちらも冷静になれたりします。うちの親父なんかは、そんなブログの話をすると、なんでもかんでもネット、ネットって、と言って不機嫌になりますが。

 まあ、何事もバランスではあるんでしょうけどね。ではでは。

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2008年8月 3日 (日)

問題は「後期高齢者医療制度」ではなくて

■イメージの戦いにしてはいけない

 自分の体験もあって、いろいろ医療制度について考えてきたけど、どうも釈然としないことがひとつ。後期高齢者医療制度のこと。この制度のあらましは、こう。

1)国民健康保険、被用者保険がこのままでは維持できない
2)主要因は高齢者の医療費増大(約33兆円のうち高齢者分が約11兆円)
3)だから高齢者の医療制度は独立させて別建ての制度にし、財政を健全化
4)医療費は5割公費、4割医療保険、1割後期高齢者(現役並み所得者は3割)
5)医療に頼っていた軽度の疾患・障害を介護保険制度に移行させる

 要するに、約3分の1の後期高齢者(75歳以上と65歳以上の高度障害者)を別建てにし財政を健全化させること自体に制度設計として問題はありません。ここでまたヒステリックな言葉狩りが出て来て、「後期高齢者」という言葉がバッシングを受けました。確かにデリカシーがない言葉ではありますが、高齢者を65歳以上とする認識のもとで75歳以上を後期と呼ぶことについては、さしたる問題があるようには思えません。

 話は少し逸れますが、障害者にしても、一部で「障がい者」と呼ぶ動きがありますが、害を、社会に害があるとの誤解を与えるからひらがなにするという発想が、よくわかりません。この場合、障害物競走の障害であって、視力障害、聴力障害など、本人にとって生活の障害になる疾患を持つ者という意味であることは自明であって、障害を障がいとすることは、障害者が生活で支障があるという厳しい現実を隠してしまいます。

 後期高齢者医療制度の通称を「長寿医療制度」としましたが、この手の固有のことやものを示す言葉について、後付けの思想を盛り込むべきではないと私は考えます。「長寿医療制度」や「コンビニ受診」、「姥捨て山制度」など、この医療制度の問題をイメージの戦いにしてはいけないと思います。

■診療報酬制度の問題

 いま問題になっている高齢者医療の問題は、後期高齢者医療制度とは別の制度からでてきています。診療報酬制度の改定です。後期高齢者が一般病棟に入院して90日を超えると、極端に医療報酬が減る(医療機関がつけられる保険点数が減る)というものです。これは、健康保険制度下の65歳以上の高齢者もほぼ同様の減点措置がとられています。

 これが私は高齢者医療の最大の問題だと思っています。要するに、「病院側が90日を超えて入院させても、患者側が90日以上入院しても、制度的にはまったく問題はありませんよ。でも、病院の経営は苦しくなるようにしましたから。赤字覚悟なら、別に入院をさせてもいいし、国は別に入院させるなって言いません。あとは病院がどうするかよく考えてね。」ということなんですね。医療費の抑制を、国は手を汚さずに、現場の医師にやらせようとしているんですね。

 すごいことを考えるものだな、と思います。かつての高齢者医療制度で、社会的入院(本来自宅ケアできる高齢者が気軽に入院すること。いやな言葉です。)でさんざん医療費を使われてきたことからくる大衆への悪意が、きっとその設計思想の根元にはあるんでしょうね。そうでなきゃ、こんな巧妙なやり方、思いつかないです。運用上不可能になるものは、堂々と国が禁止すればいいんです。

■どこに問題があるのか

 私の母は、現在も入院していますが、90日はあっという間でした。入院当初から3ヶ月が限度だと言われ、最後のほうの転院促進のプレッシャーは相当なものでした。でも、それもしかたがないな、とも思うんですね。病院側を責める気にはなりませんでした。

 問題なのは、後期高齢者医療制度にあるのではなく、90日ルールをはじめとする、後期高齢者医療費削減政策に付随する個別の運用制度にあります。

 例えば、90日ルールで言えば、転院すれば、また保険点数が戻るのならば、病院と患者にプレッシャーをかけるという目的以外には、その転院は本来必要がないはず。その次に待ち構える180日ルールにおいては、本来的意味では入院の長期化は、疾患の長期化であるはずで、それが社会的入院に悪用された過去はあったとしても、医療制度の設計思想としては、長期化によって、負担が劇的に増加したり、入院そのものが不可能になったりするその制度のありかたは、根本的な欠陥ではないか。

 私は、この問題が消費税導入時のような騒動に引き下げられて語られる感じが、どうも釈然としないのです。高齢者の負担増とか、負担減とか、確かにそこはわかりやすい部分ではありますし、反応もしやすいですが、問題の本質はそこではありません。仮に、後期高齢者医療制度を廃止しても、問題はまったく変わりません。

■大きな問題になる前に

 この問題を報道しているのが、私の知る限りNNNドキュメントと中日新聞(東京新聞)くらいで、多くは、低所得者ほど医療負担増の悪制度である、みたいなキャンペーンでした。なんだかなあ、いまだブルジョア対プロレタリアートみたいな構図で考えるんだなあ。その構図を批判する側も、旧来の構図を批判すればよしみたいな気楽さがあるし。騒いでいるけど、そんなに問題ないでしょ、みたいな。

 なんか愚痴っぽくなってしまいましたが、この問題は、ブログを通して、多くの医師のあいだでは切実な問題として理解されているのがわかったのが、なによりの救いです。ブログがなければ、なかなかこういう問題はわからなかった、ということを考えると、時代が複雑になってきたのでしょうね。とにかく、後期高齢者医療制度の騒動が終わっても、この問題は終わりません。大きな問題が続出する前に、なんとか解決できないものか、と思います。

■追記(8月4日):

 フジテレビの「サキヨミ」というニュースショーでも、後期高齢者医療制度の医療費年金天引きを問題にしていました。和歌山毒入りカレーの問題に隠れて、知らないあいだに成立したという文脈で語られていました。医療費天引きってわかりやすいし、問題ではないとは言わないけど、問題はそこじゃない気がします。

 天引きが駄目なら他の徴収方法を考えればいいだけだし、徴収自体が駄目だという話であれば、正解は高齢者の負担ゼロを選ぶしかなくなり、つまりは問題を見なかったことにしたいだけになってしまいます。財源は、どんな方法であろうと、どちらにしろ考えないといけないというのが私の立場です。

 ほんと、何度も言いたくなるけど、今、医療で問題になっているのは、そこじゃないです。例えば脳卒中の後遺症で長期入院が必要な高齢者が、90日を過ぎるとどこも受け入れなくなることや、受け入れるとしたら、病院側の良心、つまり無償のサービスに頼ることになります。当然、医療の訴訟も増えるでしょう。

 つまり、医療費削減の方法として、そういう医療機関と患者の代理戦争で解決する方法ををやめよ、ということです。

■追記2(8月4日):

 読売新聞より。後期高齢者の90日ルール(後期高齢者特定入院基本料)が見直しになる公算が高まってきました。後期高齢者医療制度とともに除外対象から外れた脳卒中、認知症について「退院に向けリハビリに努力している患者について、医師が退院の見込みがあるなどと判断した場合は、入院91日目以降もそれ以前と同額の診療報酬を医療機関に払うように運用を見直す」とのことです。とりあえず、朗報。一歩前進。

 後期高齢者、「入院90日超」の診療報酬見直し - YOMIURI ONLINE

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