リテラシーについて考えるとき、ひとつの出来事を思い出します。職場にて。私の席の隣に座っている、年配のクリエイティブ・ディレクター。彼は仕事で調べものがあったらしく、私に、ちょっとこの言葉の意味、ネットで調べてくれないかな、と言いました。私はちょっとめんどうだなと思うものの、Googleを使ってその言葉の意味を調べ、彼に教えました。すると、彼は、私に次から次へと依頼をするようになってしまいました。
何回か、そうしたやりとりが続いたとき、少し先輩のアートディレクターが、かなり思い詰めた口調で、その年配のクリエイティブ・ディレクターに言いました。
「それくらい自分で調べたらどうですか。迷惑なんですよ。」
私はそのとき、確か、いえいえ、こんなの簡単だから別にかまわないです、とか言って、その場を繕ったりした覚えがありますが、今も脳裏に焼き付いているのは、その年配クリエイティブ・ディレクターの寂しそうな顔です。穿った見方をすれば、確かに彼の一連の行動は、先輩風を吹かすといった感じの部分も見受けられたし、そういう心の底にある動機を見透かされたとこによる図星の感情が、寂しそうな表情の原因であったとは思います。でも、なぜかそれだけではない何かをその表情から感じたのです。
それは、かつての写植屋さんが廃業するときに私に見せた顔に似ているなと思いました。多くの写植屋さんは、デジタルデザインやウェブの技術を覚えていきましたが、どうしてもその流れに乗れなかった人もたくさんいらっしゃいました。そうした流れに乗れなかった人は、きっとそれぞれの人生で新しい道を見つけていることだと思います。私の知っている方は、いままで酷使した体を治して、田舎で仕事を見つけると言っていました。
その年配のクリエイティブ・ディレクターは、早期退職制度を使って退職されました。こういう出来事をセンチメンタルに語ることもできますし、Googleの検索の仕方さえ覚えない人は駄目だよね、と切り捨てることもできます。それに、この手の話は、いつの時代にも起こってきたことだとも思います。それに、このことをああだこうだ言ったところで、所詮は人の人生、自分は自分で、この仕事に対する向上心がある限り、新しいリテラシーをどんどん身につけていくと思うし、その余剰の時間やスキルを彼のような人に与えようとは、本音を言えばまったく思わないですしね。
ここのところ、「コンビニ受診」を原因とする救急医療のことをぼんやりと考えていました。ウェブを通して、緊急医療を崩壊させないために、市民として正しい医療の受け方を啓蒙する活動をしている方からコメントをいただきました。「コンビニ受診」というのは、軽症者の夜間受診のことで、その負担が医師の疲弊を招き、夜間診療の医師不足を引き起こしています。
その方は、自身のウェブサイトのバナーをいろいろなブログに貼ってもらうことで運動の広がり、つまり市民の医療リテラシーの啓蒙によって救急医療崩壊を防ぎたいと考えていらっしゃいました。しかし、なかなかうまく行かないとおっしゃっていました。私は、その方にアドバイスをしましたが、私はそのバナーをブログには貼りませんでした。
私は、基礎になる能力を超えるリテラシーを要求する言説は、自身の向上心や利便性、つまりより豊かになるといった利己的な領域に限定的に使われるべきものなのではないかと思っています。その領域を超えて、ある種の公共性に類するものにリテラシーが適応されるとき、それは抑圧につながるのではないかという思いが私にはあります。
話を先の年配クリエイティブ・ディレクターの話に戻します。彼の行動には、そうしたリテラシーを問うまわりの言説に対する苛立ちがあったのだと思います。もし、Googleで調べものができないということが、業務に対して重大な障害になるのであれば、それをリテラシーという言葉で問うより先に、なすべきことがあったはずです。会社側が研修などをさせて身につけさせるか、それでも身につかなかった場合は退職させるか、異動させるか、です。
つまりは、教育の領域なのだろうなと思うんですね。そして、教育の問題であるならば、教育を誰がするのかという主体が問われてくるのだと思うのです。「コンビニ受診」を原因とした救急医療の崩壊は、確かに差し迫った問題になっているようです。しかしながら、市民の意識を高めて、市民自らが「コンビニ受診」をしないように啓蒙するウェブサイトがあることの意義は認めるけれども、私が自らのブログで主張をしようとは思わないのです。それは、私がこの問題を他人事であると思っているからではありません。
この「コンビニ受診」の問題が社会問題であるならば、もはや教育の問題なのだろうと思います。教育は、その根拠のひとつに権威と処罰があるように思います。その場合、保険制度の厳格適応等の方策しかないだろうと思うのですね。緊急性のない軽症者の夜間診療10割負担といった。あとあるとすれば、その保険制度の厳格適応を根拠とした、国や行政、医療機関といった主体による教育です。
後者は、モラルに訴えるという手法とも言えますが、そのモラルを問う主体は、やはり患者ではなく、前述のとおり国や行政、医療機関であるべきだと思うんですね。教育は、先生と生徒の非対称性によってはじめて成り立ちますから。患者のモラルを問う、患者側、つまり市民側からの取り組みは、やはり患者側への抑圧につながるのではないかと思います。しかも、その言説は、当の「コンビニ受診」常習者には届かない。あえて届くシチュエーションを想像してみると、それは、普通の患者、つまり市民がそうしたコンセンサスを得て、そうした「コンビニ受診」常習者を社会的不適合者として排除する空気によって届けられることだろうと思います。
それは、パノプティコンの相互監視に似ています。その根本が絶対的な善意によってなされているという部分も。そして、その監視されない中央の塔には、我々には見えないけれど、絶対に誰かがいます。私は、そういう状況を何よりも恐れます。具体的に言えば、このゴールデンウィーク中の平日に、夜間診療ではないけれど、緊急性があるという自分の判断で、街の診療所ではなく、地域の高度医療の役割を担う医療センターに急患として母を見てもらった。その医療センターには連休明けに再診の予約がありましたが、こうした突発的な行為が、「コンビニ受診」と疑われる状況を自らつくりたくない。それもまたひとつの自分の問題です。ちょっと大げさかもしれないけれど。
この文章を書いていて、少し補足しておきたいこと。コメントをいただいたある方を批判しているわけではないのです。その方は、「コンビニ受診」という言葉が抑圧につながることに気づき、自身のウェブサイトではその言葉を使っていませんし、そうした抑圧に自覚的です。そして、私自身はそのウェブサイトがあること、ブロガーが自発的にそのバナーを貼ることについては素晴らしいことだと思っています。でも、貼らない人がいても、それは他人事だからではないのです。
私は、その方から、どうすればいいのか意見をくださいと言われました。あれからぼんやりと考え続けて、現時点での答えがこれです。私はその方の行動が素晴らしいと思うし、その方が今持っているジレンマにできる限り応えたいと思うから、出来る限りためらいとか、気兼ねとかを排除して書きました。
では、私はこれからどうしていくのか。それがきっと問われてくるだろうと思います。それは、このブログで折を見て書いていきたいと思っています。この問題を深く考えるきっかけをいただいたその方に感謝しています。それはその方の意図したこととは違うかもしれませんが、こうした広がりこそ、大切だと思うのです。あのウェブサイトをご紹介いただけなければ、私はこの問題をこんなにも考えなかったかもしれません。それは、誇っていい、大きな成果ではないでしょうか。
あと、いろいろな情報を見てみたけれど、この問題、行政や医療制度、今の国家財政の問題などが複雑にからむので、難しいです。それと、全国規模で言えば、個人的には制度が「コンビニ受診」を抑制できていないことが問題だと思っています。それと地域に目を向けると、「県立柏原病院の小児科を守る会」のような「柏原病院」であり「小児科」であるという具体性のある取り組みは重要だと思います。この限定的な文脈だと、「コンビニ受診」という言葉は抑圧にはならない気がします。
ただ、こうした市民の善意にいつまでも負っている段階ではないような気もします。守る会のウェブサイトにある言葉を引用します。
『医師は戦わない。ただ、黙って立ち去るのみ!』
一般的にはそう言われています。
しかし、柏原病院小児科は違いました。
「もうすぐ無くなるかも知れない」というサインを出されました。
私たち「守る会」は新聞を通じてこのサインを知り、
そして活動を始めることが出来ました。
柏原病院小児科はサインを出した。それに市民がリテラシー、つまり、市民意識の向上によって応えた。その市民の取り組みは、つまり、この国の医療に対するサインではないのかと思います。今度はこの国や、この国の医療行政が応える段階だろうなと思います。医療を大切だと思う市民にこれ以上のリテラシーを求めることで、国単位の問題の解決をはかるのは、やっぱり違うと思います。医療リテラシーは、自身が今以上の医療サービスを受けるためにあるのであって、医療を救うためには本来ないのだから。
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リテラシー考