カテゴリー「医療」の20件の記事

2009年10月30日 (金)

もしもし

 うちの親父はメールが使えない。というより使う気がない。親父は個人商店を経営していて、わりと早い段階からファックスを使っていたし、昔、遠くに住む絵描きさんと絵本をつくっていたときに親父の事務所のファックスを借りた覚えもあるし、機械音痴ってわけではないと思う。要は、そんなもんいらんがな、という意志なんだろう。

 たしかWindows Meの頃だったと思うけど、いらなくなったパソコンを送ったこともあったけど、大阪に帰ったときに見たら、ポリ袋に包まれて、部屋の隅に置いてあった。

 そんなやつであるので、連絡はいつも電話。

 母の具合が悪くなってから、まあ少なくとも1週間に1度は電話をしている。以前は、1ヶ月に1度すればいいほうだったのが、えらい変わりようである。人間、変われば変わるもんだ。

 お互い頑固だったりもするし、ひねくれもんだったりもするので、最初のほうは用件をつくろうとしてた。

 「そう言えば、阪神調子ええなあ。」

 とか、

 「こないだの台風どうやった?」

 とか。どうでもいいことを枕に話し始める。ほんと、ややこしいやつらだな、と思うけど、まあ、親子だし、そういうことだし、しゃあないなという感じ。でも、さすがにじゃまくさなってきて、そういう枕を省略したくもなってきて、

 「もしもし。」
 「なんや。」
 「なんややあれへんがな。べつに何にもないがな。」
 「そうか。」

 母の面会で大阪に帰るときも、

 「大阪に帰るからな。」
 「おまえが来たかて、なんにもならんがな。」
 「そんなん言うても、もうチケットとってもうたがな。」
 「そうか。で、いつ着く?」
 「夕方。」
 「新大阪でいつもの弁当買うてきてくれ。」

 2年ほど前、母の具合が急変したとき、

 「すまん。帰ってきてくれ。どうしていいかわからへんのや。」

 と夜中に泣きながら電話をかけてきて、それが、これまでできちんとした用件があった唯一の電話。親父が泣いてるのははじめてで、正直どうしていいのかわからなかった。

 その頃にくらべると、ひねくれ具合はあいかわらずではあるけれども、ずいぶん落ち着いてきた。どこの親子もそんな感じだと思うけれど、ぎくしゃくしつつもそんな習慣ができたのは、すごくありがたいし、ある意味では、母がくれた習慣でもあるんだろうな、なんて。

 あれから母は。

 元気です。元気すぎて困るくらい。気分的には絶好調の時期みたいで、みんなに「この子らなあ、私が育てたんやで」と自慢しよる。わしゃ、もう40過ぎのおっさんやで。恥ずかしやんか。病状的には、絶好調すぎて困ることもままあるみたいだけど、これからも気長に付き合っていかないとしゃあないなあ。

 そんな感じです。

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2009年9月18日 (金)

後期高齢者医療制度がなくなるんだよなあ

 昨年の春過ぎに母がおかしくなって、家族で慌てふためいて、緊急入院。入院すると歩くことも食べることも喋ることもできなくなって、もう駄目かもと思ったりして、たぶんそれは薬のせいだとは思うのだけれど、まあ医者ではないのでよくはわかりません。だけど、そうなって、2ヶ月ほどたって、長期の入院が見えてきたときに、病院からは転院の催促があったんですよね。

 母の場合は、とある疾病でそうなって、だけどその最中に認知症がわかって、その時点の最悪な状態が認知症によるものでもないにも関わらず(認知症というのは、それほど急激に状態が悪くなるものではありません)、認知症の専門病院に転院をすすめられたんですね。専門家ではないからよくわからないけれど、やはりこの一連の騒動は今も納得いきません。結果論としては、転院によって治療方針が変わって良くなってはくれたけれど。

 この私が体験した騒動は、後期高齢者医療制度のせいかと言うと、じつはそうではなくて、その前にできた「90日ルール」のせいで、後期高齢者医療制度とはまったく関係がないんですね。

 このあたりの話が整理された論議というのが、ついに起こらなかったのは、なんとなく残念ではありました。文藝春秋などでは触れられてはいましたが、やはり制度自体が複雑すぎて、ある程度の知識がなければよくわからない話になっていたように思います。

 後期高齢者医療制度も介護保険制度も、本質的には、長期療養が必要となる年齢層に対して、一律の保険制度でフォローするのではなく、それを分けて財政的な危機を回避できる新しい制度をつくるという目的でできたもので、そこから起こるいろいろな問題は、その運用にあったような気がします。

 財政的破綻を回避する新しい制度をつくるという目的は、当面の出費を減らすという目的にすり替わって、その運用が出費を減らすという一点に絞られました。その運用は、ある意味では巧みで、よくもまあこんなふうに考えられたな、というものでした。優秀ですよね。嫌みで言っているのですけどね。目的に忠実というのも、こういう場合は考えものですね。

 例えば、90日ルールで言えば、病院は90日以上入院しても罰則はないんですね。でも、90日を超えると儲けにならない。要するに、本来国が制度としてやるべきことを、現場のお医者さんにやらそうとしている。こういう運用ルールにすれば、「すみません、出て行っていただけますか」と医者は言うだろう、と。医者だって商売なんだから、言わざるを得ないだろう、みたいなことです。それで、認知症や脳梗塞の後遺症で苦しむ人たちが医療難民化したのは、体験した人ならご存知ですよね。今はこの制度はひっそりと凍結されているので、現場は少し沈静化しているようですね。

 介護保険に関して言えば、介護認定というものがあり、介護保険が十分に使える要介護5なんかだと、状態としては介護保険ではなく、後期高齢者医療制度または健康保険を使っての医療を受けなくちゃならないんです。現実としては。で、良くなって、もう一度認定を受けると、要介護1とか、もっと言えば、要支援になってしまいます。となると、今度は介護保険がうまく使えなくなるんです。

 こうした運用を生み出したもとは、気軽な社会的入院の増加による財政的な貧窮があったのだろうと思います。これをすごく根に持っているのだろうな、という運用に見えます。

 民主党政権になって、後期高齢者医療制度がなくなるそうです。後期高齢者というネーミングが高齢者を切り分けている、みたいな感情論から批判が広まって、問題の本質が置いてけぼりになりました。見直されるべきは、制度ではなく運用のほうだったのにもかかわらず、あまり本質に関係ない、というか、慢性疾病で長期化する年齢層の保険制度を別建てにしようと意図する、ある意味で建設的な回答であるとも言える後期高齢者医療制度がスケープゴードになった感じが私にはします。

 前にも『問題は「後期高齢者医療制度」ではなくて』というエントリで触れましたが、ネーミングとかイメージって怖いな、と思います。そういうイメージを操作する仕事をしているだけに、これは自戒を込めてそう思います。

 なんとなく、政権も変わったことでもあるし、この問題についてはもう一度書いておこうと思いました。なんか、日常に起こるあれこれとわわせて(ほんと、いろいろ起こるものですよね)、こういうエントリを書くと憂鬱な気分になるんですけどね。民主党にはがんばっていただきたいなあ、と切に思います。ほんと、お願いしますよ。ほんとにさ。

 追記:

 本文と関係ないですが、昔のエントリをリンクします。私はビートルズやローリングストーンズよりPPMの方が好きでした。マリーさん、いい歌をたくさん、ありがとうございました。

 Puff, the Magic Dragon

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2009年3月 9日 (月)

もっと専門分野の方がブログを書くようになればいいと思うんですが

 なんだかんだで、世の中には、専門分野の人たちにとっては当たり前のことでも、一般の人にはいまいちわからないことがたくさんあって、それを知りたい一般の人もたくさんいるわけです。例えば、入院中の母のこと。かれこれ、もうすぐ1年になります。入院した時点では「入院90日ルール(入院90日を超えると保険点数が極端に下がる制度)」があり、転院を迫られました。表向きは、対応しきれないので、より専門性のある病院への転院をすすめるというものでしたが。そのときに「転院後も、また3ヶ月経ったら考えないといけません」とケースワーカーさんに言われましたが、その後、新しい病院に移り、今のところ、そういうことを言われることもなく、入院生活を続けています。

 去年の8月に後期高齢者の90日ルールが見直しとなる公算が高いという新聞記事が出て(参照)、その後、たぶん見直されたはずで、その影響なのかもしれませんが、はっきりしたことはわかりません。この「90日ルール」は、苦労している方が多いにもかかわらず、あまりニュースにもなりませんでした。ネットで検索しても、私の過去記事が上位に出てくる始末で、マスメディア、ミドルメディア、個人メディアとメディアが多様化しても、世の中に取りこぼされる情報はたくさんあるものだな、と思います。

 ま、プライベートな領域の事柄だから、書かないことも多いけれど、高齢者の医療にはたくさんのアクシデントが待ち受けていて、母の場合も、投薬をやめて、やっと意識が戻ったとたんに、気道にものをつまらせたことが原因で肺炎になったり、いろいろありました。

 ただ、入院当初にくらべると気分的には相当余裕があって、仮にこの「90日ルール」の見直しによるものだとしたら、制度によってこんなにも違うものなのか、とは思います。お医者さんのブログを見ても、この「90日ルール」についての記事がめっきり減っているので、いま医療関係では、この問題については比較的に落ち着いているのかもしれません。

 Web2.0、集合知、ロングテールなど、いろいろとウェブの可能性が叫ばれていますが、本当は、こういう医療も含めて、世の中のいろいろな部分の情報が、ある程度の専門性のフィルターを通して、社会に可視化されることが大事なような気がします。そういう意味でも、もっともっと専門分野の方がブログを書くような世の中になればいいな、と思います。

 あと、私のブログでは、仕事柄もあり、既存のマスメディアについて書くことも多いのですが、ネットでの発言の中では、比較的、既存メディアについては肯定的で、その存続のためにどうしたらいいのか、みたいな保守的な論調になっているとは思います。

 新聞は終わってはいけないし、テレビも、雑誌も終わってはいけない。そのメディアが存立する構造が崩れるということは、今、マスメディアが「90日ルール」のようなニッチな情報を伝えきれていないとしても、このような情報を広く伝える手段を社会が失うことを意味していて、そういう未来は、明らかに後退ではないかと思うからです。情報を伝えるプロがいない。ほんとうのことがわからない。ほんとうのことが通らない。そういう社会は、私はごめんだから。

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2008年9月21日 (日)

この機会に、その発想を改めてみてはどうだろう。

 総選挙を控えて、医療制度関連で、このところ世間が騒がしくなっています。後期高齢者医療制度を中核とする医療制度改革では、様々な意見があるようです。若干ステレオタイプな感じでばっさり切っていますが、大きくわけると、この2つに分かれるでしょう。

1)老人いじめだ。医療費天引きとか、この不景気に医療費負担増はもうごめんだ。いままでがんばって国を支えて来たのに、年をとったら区別されて、負担させられて、なけなしの年金から天引きされるし、約束が違うじゃないか。いつもいつも、政府与党は。まるで姥捨て山だ。

2)今のままでは近い将来医療制度は破綻するよね。それに現役世代に負担させてばかりじゃ働く気なくなるでしょ。そういう意味では今必要だし、いつかはやらないといけない制度かも。現実、高齢者の負担も減るケースもあるわけだし。大衆っていつもヒステリックなんだよね。

 で、テレビとか新聞で報道されるのは、この2つを行ったり来たりの言説だったりします。一方で患者の経済的困窮をドキュメントで見せるかと思えば、コンビニ医療や社会的入院という品のない言葉で大衆をくさす。政治の世界では、野党の言い分は概ね1)で、政府・与党の本音は概ね2)で、選挙が近くなると、がぜん1)の言い分が大きくなって来て、政府与党の舛添さんがフライング気味にテレビでこんなことを言うようになってきました。

 後期高齢者医療制度は75歳以上の高齢者を若い世代から切り離し独自の保障をする制度。だが年金からの保険料天引きなどが感情的な批判を呼んでいる。同相は新たに検討する医療制度は(1)年齢のみで対象者を区分しない(2)年金からの保険料天引きを強制しない(3)世代間の反目を助長しない仕組みを財源などで工夫する——という三原則に基づいて設計することを強調した。
厚労相「麻生政権で新制度」 後期高齢者医療 — NIKKEI NET

 ああ、わかりやすいな、と思います。でも、わかりやすすぎて、いやになります。みんな感情論。そこ、本質なんでしょうか。私にはそう思えません。年齢で区分とか、保険料天引とか、世代間の反目とか、説得でなんとかなるじゃないですか。年齢で区分しないとするとどう区分するのかはわからないし、お金は天引ではなくても、どうにかしてとらないといけないし、世代間の反目なんて、しょうがないじゃないですか。最後は、きっと消費税を念頭に置いていますよね。(私は個人的にはそれも手ではないか、と思っていますが、その経済への影響とか、不勉強でいまいちわかりません。)

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 医療費の増大の原因になっている高齢者の社会的入院を招いたのは、そもそもかつての地方自治体の老人医療費無料制度です。政府は、この社会的入院という大衆の行動をすごく嫌悪していて、この後期高齢者医療制度が始まる前から、医療から介護へ、療養病床は削減、長期入院は病院が赤字になるような手法で抑制、というカタチで大衆に対抗したように私には思えます。私は、この捻れた暗い情熱に支えられた抑制の方法が、後期高齢者医療制度を含めたすべての医療行政の根幹にあって、それがこの制度の最大の欠陥だと思っています。

 それが分かりやすく表現されているのは、入院90日を超えると保険点数が極端に下がる制度や、終末医療をやめるアドバイスをすることに対して新たに保険点数を与える制度などです。私の経験したことで言えば、母が入院して、どんどん悪くなって、入院が長期化し、入院当初より医療の助けが必要な状態にも関わらず転院要請されたり、その間に、行政の指導もあると思うのですが、自治体からの介護認定があり、当然いちばん重度の「要介護5」だったのですが、でも、このタイミングの介護認定というのは、ほとんど意味をなさないんですね。「要介護5」の状態は、介護ではなく医療が必要なんです。

 母は、状況が良くなったり悪くなったりが続いて、まだ入院していますが、希望的な観測で言えば、もし母がある程度元気になって退院できるようになり、介護でなんとか生活できるようになったとき、もう一度介護認定があるわけです。そのときは、きっと「要介護5」ではありません。介護ではなく医療が必要なときには介護認定が高く、介護が必要なときには介護認定が低い。介護が低いと介護が利用しにくい。そんな現実があるのです。

 精神疾患や認知症、脳梗塞の後遺症の高齢者患者を中心に、医療を受けられない人が続出しそうな気配があったのですが、やはりこの制度は後期高齢者については10月より、重度の認知症と脳梗塞の後遺症については凍結されるそうです。とりあえず、そのこと自体は評価はするけれども、この大本の考え方が変わらない限り、こうした問題は出続けるだろうと思います。

 こうした問題は、大きな犠牲が出てから反省しても遅いんですよね。人の人生は一度しかないから。財源がない。破綻する。どこかからお金を持ってこなければいけない。それを言うのは反発があるから、一番負担になっている患者さんにがまんしていただく。しかも、その患者さんは、口うるさくない患者さんなんですよね。そこそこ健康なら、文句は言えるけど、認知症や脳梗塞の後遺症では話せないですから。それはないだろう、と思う訳です。

 私は小児医療はあまり詳しくはないですが、医師不足や医師の過労で、小児医療が崩壊しそうな今、選挙が目的だとしか思えないタイミングで、小児の医療費を無料にする地方自治体が相次いでいます。何を考えているのだろうと思います。これで、小児医療を存続させるための地域住民の取り組みが水の泡になります。

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 舛添厚生労働相は「どんなに論理的にいい制度でも国民に支持されなければ長期に維持できない。政権も代わる時期でもあり、じっくり問題点を洗い出す」と言っています。本音は、論理的にいい制度という思いがありそうです。ならば、その良さを説得するのが本当は先なのではないかと思います。そして、その問題点は、年齢での区切りや、年金からの天引きでは本来はないはずです。これでは、後先を考えない、この小児科無料と同じです。

 口当たりのいい先送り案はいいから、とりあえず、医師の職業的倫理から医療を行いたいけれど、それをすると病院が赤字になり、その結果として、医療を受けるべき人が受けられないで路頭に迷ってしまう制度をつくれば、国民に負担を迫らずに結果的に医療費が抑制できるじゃない、という陰気な発想だけは、この機会に改めてみてはどうだろう、と私は思います。敵ながらうまく考えたと思うし、これを思いついた人は頭がいいんだろうなと感心するけれど、そんなやつと付き合いたいとは思いませんもの。

 だって、こういうことがある限り、後期高齢者医療制度が、高齢者に安心して医療を受けていただくための制度だと言っても、信じられませんもの。こんなやつらのために、大切な医療費を使えねえんだよ、という本音が透けて見えるじゃないですか。信じられないものにお金は出したくない、というのが人情です。逆に言えば、信じられるだけの根拠をきちんと示せば、しぶしぶだけどお金は出すとは思うんですよね。医療制度が疲弊しているのは、変えられない事実なのだし、医療が大切だというのは、みんなわかっているわけだから。

追記:

 麻生氏は21日、NHKや民放のテレビ番組で、同制度について「抜本的に見直すことが必要だ。国民に納得してもらえないという話だったら、さっさと(見直す)」と語った。見直しの柱として、〈1〉加入者を年齢で区分しない〈2〉年金からの保険料の天引きを強制しない〈3〉世代間の 対立を助長しない——の3点を挙げた。麻生氏は、次期衆院選の政権公約(マニフェスト)にも、同制度の見直しを盛り込む意向だ。

 同制度を巡っては、4月の導入直後から、「75歳以上の高齢者を切り捨てるつもりか」などの批判が出ていた。

後期高齢者医療「見直し」…麻生氏、政権合意に盛り込みへ(2008年9月22日03時02分  読売新聞)

 目先のわかりやすいところだけ先送り的に改革、というふうにならないようにしてほしいと思います。本当は90日ルールを代表とするような、隠れた部分をなんとかしてほしい。で、本来この問題が隠れてしまうのもおかしな話ですけど。でも、この話、現場のお医者さんも混乱するくらい複雑なんですよね。うまいこと考えたもんです。(参考:90日ルールへの特例措置-新小児科医のつぶやき)

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2008年8月26日 (火)

私、あの娘好きやねん。

 久しぶりの医療カテゴリーです。いろいろ考えているけれど、私の場合、基礎知識がなさすぎるので、なかなか書けず。なので、近況など。

 母が入院して、かれこれ3ヶ月以上経って、その間に転院とかもあり(なぜ転院したかは、ここをご参照ください)、いろいろ大変でしたが、ここのところすごく回復してきています。いままでは、言葉を話せなくなっていたのですが、今は普通に話せるようになってきました。

 看護師さんと気が合うらしいです。ほんと、なにわ娘という感じの明るくおしゃべりな女性の看護師さん。ときどき一緒に散歩に行くらしい。

 「私、あの娘好きやねん。」

 お見舞いに行くと、母がそんなことをうれしそうに言っていました。医療って、こういうことでもあるんだなあ、と思いました。現場って大事だなあ、結局は人なんだな、そんなふうに思いました。こういう現場で働く人たちがきちんと仕事ができる医療であってほしいと思います。

 我々患者側は、うまくいったことはよく言うし、悪化すると悪く言うので、医療というのは大変だと思います。そんななか、今は、現場の医療従事者の方々のブログなんかも読める時代でもあるので、ちょっとそのへんは、使いようによっては、こちらも冷静になれたりします。うちの親父なんかは、そんなブログの話をすると、なんでもかんでもネット、ネットって、と言って不機嫌になりますが。

 まあ、何事もバランスではあるんでしょうけどね。ではでは。

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2008年8月 3日 (日)

問題は「後期高齢者医療制度」ではなくて

■イメージの戦いにしてはいけない

 自分の体験もあって、いろいろ医療制度について考えてきたけど、どうも釈然としないことがひとつ。後期高齢者医療制度のこと。この制度のあらましは、こう。

1)国民健康保険、被用者保険がこのままでは維持できない
2)主要因は高齢者の医療費増大(約33兆円のうち高齢者分が約11兆円)
3)だから高齢者の医療制度は独立させて別建ての制度にし、財政を健全化
4)医療費は5割公費、4割医療保険、1割後期高齢者(現役並み所得者は3割)
5)医療に頼っていた軽度の疾患・障害を介護保険制度に移行させる

 要するに、約3分の1の後期高齢者(75歳以上と65歳以上の高度障害者)を別建てにし財政を健全化させること自体に制度設計として問題はありません。ここでまたヒステリックな言葉狩りが出て来て、「後期高齢者」という言葉がバッシングを受けました。確かにデリカシーがない言葉ではありますが、高齢者を65歳以上とする認識のもとで75歳以上を後期と呼ぶことについては、さしたる問題があるようには思えません。

 話は少し逸れますが、障害者にしても、一部で「障がい者」と呼ぶ動きがありますが、害を、社会に害があるとの誤解を与えるからひらがなにするという発想が、よくわかりません。この場合、障害物競走の障害であって、視力障害、聴力障害など、本人にとって生活の障害になる疾患を持つ者という意味であることは自明であって、障害を障がいとすることは、障害者が生活で支障があるという厳しい現実を隠してしまいます。

 後期高齢者医療制度の通称を「長寿医療制度」としましたが、この手の固有のことやものを示す言葉について、後付けの思想を盛り込むべきではないと私は考えます。「長寿医療制度」や「コンビニ受診」、「姥捨て山制度」など、この医療制度の問題をイメージの戦いにしてはいけないと思います。

■診療報酬制度の問題

 いま問題になっている高齢者医療の問題は、後期高齢者医療制度とは別の制度からでてきています。診療報酬制度の改定です。後期高齢者が一般病棟に入院して90日を超えると、極端に医療報酬が減る(医療機関がつけられる保険点数が減る)というものです。これは、健康保険制度下の65歳以上の高齢者もほぼ同様の減点措置がとられています。

 これが私は高齢者医療の最大の問題だと思っています。要するに、「病院側が90日を超えて入院させても、患者側が90日以上入院しても、制度的にはまったく問題はありませんよ。でも、病院の経営は苦しくなるようにしましたから。赤字覚悟なら、別に入院をさせてもいいし、国は別に入院させるなって言いません。あとは病院がどうするかよく考えてね。」ということなんですね。医療費の抑制を、国は手を汚さずに、現場の医師にやらせようとしているんですね。

 すごいことを考えるものだな、と思います。かつての高齢者医療制度で、社会的入院(本来自宅ケアできる高齢者が気軽に入院すること。いやな言葉です。)でさんざん医療費を使われてきたことからくる大衆への悪意が、きっとその設計思想の根元にはあるんでしょうね。そうでなきゃ、こんな巧妙なやり方、思いつかないです。運用上不可能になるものは、堂々と国が禁止すればいいんです。

■どこに問題があるのか

 私の母は、現在も入院していますが、90日はあっという間でした。入院当初から3ヶ月が限度だと言われ、最後のほうの転院促進のプレッシャーは相当なものでした。でも、それもしかたがないな、とも思うんですね。病院側を責める気にはなりませんでした。

 問題なのは、後期高齢者医療制度にあるのではなく、90日ルールをはじめとする、後期高齢者医療費削減政策に付随する個別の運用制度にあります。

 例えば、90日ルールで言えば、転院すれば、また保険点数が戻るのならば、病院と患者にプレッシャーをかけるという目的以外には、その転院は本来必要がないはず。その次に待ち構える180日ルールにおいては、本来的意味では入院の長期化は、疾患の長期化であるはずで、それが社会的入院に悪用された過去はあったとしても、医療制度の設計思想としては、長期化によって、負担が劇的に増加したり、入院そのものが不可能になったりするその制度のありかたは、根本的な欠陥ではないか。

 私は、この問題が消費税導入時のような騒動に引き下げられて語られる感じが、どうも釈然としないのです。高齢者の負担増とか、負担減とか、確かにそこはわかりやすい部分ではありますし、反応もしやすいですが、問題の本質はそこではありません。仮に、後期高齢者医療制度を廃止しても、問題はまったく変わりません。

■大きな問題になる前に

 この問題を報道しているのが、私の知る限りNNNドキュメントと中日新聞(東京新聞)くらいで、多くは、低所得者ほど医療負担増の悪制度である、みたいなキャンペーンでした。なんだかなあ、いまだブルジョア対プロレタリアートみたいな構図で考えるんだなあ。その構図を批判する側も、旧来の構図を批判すればよしみたいな気楽さがあるし。騒いでいるけど、そんなに問題ないでしょ、みたいな。

 なんか愚痴っぽくなってしまいましたが、この問題は、ブログを通して、多くの医師のあいだでは切実な問題として理解されているのがわかったのが、なによりの救いです。ブログがなければ、なかなかこういう問題はわからなかった、ということを考えると、時代が複雑になってきたのでしょうね。とにかく、後期高齢者医療制度の騒動が終わっても、この問題は終わりません。大きな問題が続出する前に、なんとか解決できないものか、と思います。

■追記(8月4日):

 フジテレビの「サキヨミ」というニュースショーでも、後期高齢者医療制度の医療費年金天引きを問題にしていました。和歌山毒入りカレーの問題に隠れて、知らないあいだに成立したという文脈で語られていました。医療費天引きってわかりやすいし、問題ではないとは言わないけど、問題はそこじゃない気がします。

 天引きが駄目なら他の徴収方法を考えればいいだけだし、徴収自体が駄目だという話であれば、正解は高齢者の負担ゼロを選ぶしかなくなり、つまりは問題を見なかったことにしたいだけになってしまいます。財源は、どんな方法であろうと、どちらにしろ考えないといけないというのが私の立場です。

 ほんと、何度も言いたくなるけど、今、医療で問題になっているのは、そこじゃないです。例えば脳卒中の後遺症で長期入院が必要な高齢者が、90日を過ぎるとどこも受け入れなくなることや、受け入れるとしたら、病院側の良心、つまり無償のサービスに頼ることになります。当然、医療の訴訟も増えるでしょう。

 つまり、医療費削減の方法として、そういう医療機関と患者の代理戦争で解決する方法ををやめよ、ということです。

■追記2(8月4日):

 読売新聞より。後期高齢者の90日ルール(後期高齢者特定入院基本料)が見直しになる公算が高まってきました。後期高齢者医療制度とともに除外対象から外れた脳卒中、認知症について「退院に向けリハビリに努力している患者について、医師が退院の見込みがあるなどと判断した場合は、入院91日目以降もそれ以前と同額の診療報酬を医療機関に払うように運用を見直す」とのことです。とりあえず、朗報。一歩前進。

 後期高齢者、「入院90日超」の診療報酬見直し - YOMIURI ONLINE

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2008年7月24日 (木)

思いつきのクリエイティブ

 このところ、医療関連の話題を書くことが多いので、当然、看護を専門にする人のことを書くこともあるのですが、なんとなく看護婦っていう名称はなくなったということなので、看護士って書いていたんですが、これも間違いだったということに気付きました。

 正しくは、今まで女性を看護婦、男性を看護士と言っていたそうなのですが、これを男女ともに看護師というふうに統一したとのこと。知らなかった、というようり、ことえりではまだ変換されないようです。でも、ことえりのせいにしちゃいけないですね。いろいろなエントリで、看護士って書いているかもしれません。修正は折を見て。

 医療関係のニュースで、気になること。なんか各自治体で「小児医療無料化」が押し進められているようで、(参照:みんなの意見で社会が滅ぶ - レジデント初期研修用資料)、こういうこと書くと子どもを持つ親御さんからは反発はあるのだろうけど、何を考えているんだろうと思います。

 特に小児科が今疲弊していて問題になっているときに、なんでだろうと思います。何もこの時期に、と思います。最近、から明るい制度の深淵にグロテスクな発想を見ることが多いです。なんだろう、この感じ。私は、コンビニ医療という言葉と、そのリテラシーを市民にしいていく風潮を批判するエントリ(続・リテラシー考)を書きましたが、こんな制度を始められたら、コンビニ医療をやめようと問いかける人のがんばりだって、水の泡じゃないですか。これ一発で、ぜんぶ吹き飛びます。

 ほんとの意味でのマーケティングがないんです。マーケティングは、泥臭い過去を見て、今を見て、未来を見ること。その泥臭ささを引き受けて、見たくないものもぜんぶ見てクリエイティブをしなければ、絶対にうまくいくはずない。それがどんなに心地よくても、思いつきのクリエイティブほど、害を与えるものはないんですよ。これひとつで、何十年と築き上げたブランドが吹き飛ぶことだってあるんです。

 吹き飛んだあと、気付いても時すでに遅しです。医療行政も、少しは市場から消えていった幾多のブランドに学べばいいのに。失敗の事例は世の中に出ないから、学びようないかもしれないけど。

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2008年7月21日 (月)

日曜劇場「Tomorrow -陽はまたのぼる-」にちょっと釣られてみる

 まあ、テレビドラマでもあるし、あれでいいのかもしれないけど、それにしてもなあ、と正直思いました。TBSのドラマ「Tomorrow」。このドラマは、医療問題という、オンタイムで複雑なテーマを選んでいて、そのテーマの複雑さのわりには、わりと単純な人間ドラマに仕立て上げられているというか、細部の仕立てがファンタジーというか、なんかテーマの生っぽさに比べ、内容が嘘っぽいんですよね。

赤字30億円、潰れかけの病院の再建に立ち向かう外科医と看護師のヒューマンドラマ!

 年金未払い問題、後期高齢者医療制度といった様々な問題を抱えている昨今、我々は自分の受ける医療に対し大きな不安を抱えている。しかし、そんな医療の現場も大きな悲鳴をあげている。

 現代において「潰れていく病院」は、医療ミスと並んで医療が抱える問題のひとつ。今、国の医療費削減による過酷な労働条件、少ない報酬、行き過ぎの医療裁判などが原因で、本当は患者が一番必要としている総合病院から医師がどんどん逃げ出している。今は “町から病院がなくなっていく時代” なのだ。とくに、市などの自治体が経営する自治体病院は大きなピンチを迎えている。

 そして今回、そんな医療が抱えている問題をテーマに、一人の外科医が潰れかけた病院の再建に立ち上がるヒューマンドラマを放送する。主人公の外科医役に 竹野内 豊、ヒロインの看護師役は 菅野美穂 が演じる。

TBS 日曜劇場『Tomorrow』

 潰れかけの市民病院があって、そこに凄腕女性外科医が派遣されてきて、その外科医は「命はお金で買うもの」と思っていて、この市民病院を「セレブ専用病院」に変えようとする。そういう彼女の方針に対して、元外科医で市役所職員、後にこの市民病院で外科医として復帰する主人公と、看護師役のヒロインが、真の医療のために反旗を翻す、という感じです。

 ところどころに、コンビニ受診の問題や医療費踏み倒しといった市民側の問題点や、主人公の過去の医療ミスによる患者死亡のもみ消しなどのシリアスな事柄が挿入されていきます。単なる勧善懲悪な感じでもなく、冷酷な女性外科医が、じつは医療人としても非常に優秀で、そういう「命はお金で救う」という考えに至る個人的理由があるような印象なんですね。

 で、私は、どこが嘘っぽいと感じたのか。まあ、細部ではいろいろあります。腎臓移植を行うために患者の息子の腎臓が必要で、息子が拒んでいるときに、看護師と医師が直接医療現場から飛び出して、大立ち回りで息子の説得をするとかは、今の人手不足の医療現場では、まああり得ないよなあ、とか、わざわざ患者の職場に主治医が出向いて、治療の説得を試みるとか、患者が治療をこばんでいるのが経済的問題でも制度の問題でもなく、個人的な親子のわだかまりだったり。医療問題のコアはそれとは関係ないのに。

 でも、それはファンタジーだからいいかな、と。所詮はテレビドラマはエンターテイメントだし、という見方もできるしね。菅野さんも、竹野内さんもいい感じだし、緒川さんもはまり役だし、それなりに面白いドラマだけどね。

 私が、嘘っぽいなあ、といちばん思ったのは、すべてのことを、個人のキャラクターに負わせちゃっている部分です。ここが、すごく嘘っぽくて問題。私は、いまおこっている医療問題は制度の問題だと思っていて、モラルの問題だとは思ってないんです。モラルでなんとかなる問題でもないし、個々の生き方を超えた問題のような気がするけどなあ。根性だけではどないもならんと思うんですよね。一看護師である菅野さんのがんばりだけではどないもならんですよ。

 これからきっと、医療がらみでいろいろな問題がでてくると思います。現実は、もっと不条理なドラマですよ。なんだかやになっちゃうなあというのが実感です。私の場合なんかは、それがゆるく出ているだけだけど、それでも、その状況に対して右往左往です。それに、この制度をよく見てみると、制度設計の帰結として、もっと不条理きわまりない状況は世の中にいくらでも生まれていると思います。

 制度という正義に対して、医療従事者の正義とか、市民の正義みたいなものを合わせ鏡にしてもしょうがないのではないかなと思います。無限ループになるだけです。もちろん、意味ないとは思いませんが。たぶん、この医療問題というのは、地域とか、現場とかの様々な状況を妥協的に取り込んでいかないと駄目なんだろうと思います。その日常のグラデーションを取り込んでないから、すぐ問題続出なんです。ようするに机上の理想で、線が細いんでしょうね。

 しかしまあ、なんでこの制度の動き出したタイミングで、うちの母、とは思います。タイミングが悪かったよな、ごめんな、と思います。さてと、明日の転院の準備しなきゃ。

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2008年7月15日 (火)

ここに「現代」があるような気がしました。

 土曜日から、母の転院先を見つけるためにケースワーカーさんに会ったりしていました。土曜は、大阪郊外の転院を予定している病院所属のケースワーカーさん。いまは病床不足らしく、空きがあるときに入らないとなかなか入れないという事情があります。ケースワーカーさんには、現在の入院先の主治医と看護士長さんの所見が渡されています。

 病床を見学させてもらって、説明を受けました。その病床は、ある慢性疾患のための施設で、その慢性疾患のための施設としては、充実したものではありました。日中は、広場で多くの患者さんと一緒に楽しくすごすデイケアに近い感じです。しかし、母はその病状の可能性がきわめて高いものの、現在母が陥っているのは、その慢性症状ではなく、複合症状である、ある持病が原因だと思われる一時的な衰弱と摂食障害。たぶん薬の影響もあるのでしょうが、わかりやすく言えば、寝たきり、ものを食べない、しゃべらないというもの。

 現在、今日はジュースを飲んだ、ゼリーを食べてくれた、ということに一喜一憂するのが現状なわけで、正直言えば、この施設は、たとえ今の母の深刻な状況が、その慢性疾患によるものだとしても、今の母に耐えられないと思う、とケースワーカーさんに言いました。ケースワーカーさんが持っている情報は、母がある慢性疾患の可能性がきわめて高いという情報が主で、だからこそ、その専門病棟の紹介だったわけです。困惑されていました。寝たきりで食べられないのなら、ここでは受け入れられないという可能性もある、ということでした。

 そして、今日、現在入院している病院のケースワーカーさんと話しました。どうでしたか、と聞かれ、その話をしました。そのケースワーカーさんは、大丈夫です、早く転院しないと改善しませんし、の繰り返しでした。こちらの心配も話すのですが、そのことには明確には答えてもらえず、なんとなく平行線な感じ。こうなるのはわかっていることですが、なんだかこちらが無理難題を言っている感じになるんですね。

 それに、東京からわざわざ大阪に出向いている息子という立場ですから、どうにも過剰に警戒されているようなんですよね。それがすごくやりにくいです。こちらが言えば言うほど、先方の腰が引けてくるのが手に取るようにわかり、なるだけ情報は多い方がいいだろうと話せば話すほど、心を閉ざされるというか。こちらの意識しすぎかもしれませんけど。

 それに、両病院間での意思の疎通にも不備もあったようで、入院のときに、急性期病棟なので90日を超える場合、転院先を探さないといけません、と言われ、そのために、転院先を押さえておくという話が、転院先を予定している病院では、来週の水曜か木曜を転院日に予定していたようでした。こちらとしたら、えっ、そんな急な、という感じです。

 10年ほど前、母は今入院している病院に4ヶ月間入院していました。そのときには、90日という話は出てきませんでしたので、これは保険制度による90日ルール(参照)による影響が少なからずあるのでしょう。でも、誰もそれをはっきりと言いません。それに、情報のグラデーションを見ようとせず、いわゆる最終的なレッテルで話をしようとします。そうすれば、話が単純になって早いんですが、病気なんてものは、そのグラデーションの中にいろいろな悩みがあるものだと思うし、実際にそのグラデーションが今の悩みのすべただし。

 結論としては、母のことを最優先に、母のために精一杯頑張って、こちらの印象が悪くならないことに気をつけながら、いろいろと最低限のこちらの悩みは伝えきって、その転院先でお世話になろうと思います。初期段階では、このままでは少し混乱しそうですが、それをなるだけ減らして、いい転院ができるようにしたいし、そこから、転院先の先生やケースワーカーさんと新しい道を探したいと思います。でも、なんだか、これが現代という時代なんだな、と思いました。

 現場でお世話してくださる看護士さんは、今日はゼリーを食べてくれました、あのジュース好きみたいだから1週間分ほど買って来て預けてくれませんか、とか、そういう方針に関係なく一生懸命看護していただいています。今、コンビニ医療とか、そういうこと言われてますよね。コンビニ医療については、このブログでも書いたので(参照)、詳しくは書きませんが、そんな空気の中で、こうした要望ひとつでも、なんだか胸が苦しくなるんですよね。知らず知らずに医療に対して過剰な要求をしているんじゃないかって。正直、精神的にちょっとしんどいです。

 どちらにしても、転院して、新しい場所にリセットして、次の90日を始めようと思っています。たぶん、そうするしかなさそうです。その次は、医療ではなく介護保険を使うことになりそうですが、ここにも落とし穴があるんですよね。今、母は要介護5ですが、半年更新ですから、介護を必要とする段階では、たぶん下がることになりそうです。介護認定が高いときは介護保険ではなく医療で、医療でなく介護で十分という時には、介護認定は低くなる。そういうジレンマが、現実的な運用上あるんですよね。確かに、医療費抑制という意味ではうまくできているなあ、と感心しますが。

 実際に、母が入院することで、本当にいろいろなことが見えてきますね。母はまだ後期高齢者になるには数年ありますが、これに後期高齢者制度がからむともっとしんどい状況が生まれそうな気がします。そういう患者さんと患者さんのご家族が、現状を知りながら、最良の手を打てることを願っています。この問題について考えるのに参考になるブログをご紹介します。医師に向けて書かれていますので、少し難しいですが、参考になさってください。

後期高齢者医療制度の破綻と後期高齢者特定入院料という時限爆弾リハ医の独白

※同じ状況にいる人の参考にと書いていますが、日々の実感を通して書いていますので、検索などでたどり着かれた方は、少々の誤解や思い込み、個人的事情もあることをご承知おきください。それと、告発風味だし(過去ログ読んでいただければわかるかと思いますが、告発の意図はありません)、日記っぽいので、このエントリはコメント欄とトラックバックを閉じておきます。私は元気ですよ、ご心配なく。ではでは。

追記(2008年7月16日):連休明け早々に転院になりました。翌日、すぐに電話連絡があり、父が面談。病院って、こういうときの対応は早いなあ。まあ、気持ちを切り替えていかなしゃあないですね。

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2008年6月30日 (月)

いつまでも良心や善意に頼りっきりでいいのだろうか

 NNNドキュメント’08「笑って死ねる病院」(テレビ金沢制作)を見ました。石川県金沢市の城北病院の話。82歳になる肺がん末期のご老人を中心に、地域と医療現場のやりとりが紹介されていました。このご老人は、入院90日を超えて、病院から転院を迫られました。その理由は、このブログでも書いた高齢者の入院90日規定(参照)です。入院に対する保険点数が90日を超えると極端に下がるのですね。

 転院先を探すも、どこも引き受け手がなかったそうです。このご老人の奥さんが、かかりつけ医であった城北病院の先生に相談し、城北病院に転院することになったとのことです。番組によると、今、末期がんの患者は、どこの病院も引き受けたがらないそうです。赤字をつくるからです。

 城北病院は、地域の人たちと協力しながら経営をしている病院だそうです。引き受けた城北病院の主治医がインタビューに答えていました。実際には、そのご老人の医療サービスについては、病院は赤字だそうです。つまり、良心でやっているということです。これまで私は医療はこうあるべきでやってきたけれど、医療制度がこうなってしまった今、これからも同じことができるかどうか自信がない、といった趣旨のことをおっしゃっていました。

 やっぱり、制度の問題なんですよね。身も蓋もない言い方で言えば、お金の問題です。

 例えば、卑近な例で申し訳ないけれど、私のやっている広告の仕事。私たち広告会社は、今、多くの仕事で、媒体コミッションによってその大部分の対価を頂いています。媒体コミッションというのは、テレビとか新聞とかの広告媒体を買うときに発生する手数料のこと。

 大雑把に言えば、仮に手数料が10%として、6億の媒体で投下する広告の場合、6000万の利益が出ると言う訳です。600万なら60万の利益。そういうコミッション制でやっていると、媒体を大量に投下しない会社の仕事は、儲からない仕事になってしまうんですね。企画という軸で言えば、6億の仕事も600万の仕事も等価なはずです。

 実際、多くの広告マンは、そのプライドにかけて、どちらも手を抜かずにやっていますが、いつまでもそのプライドを維持していけるかどうかは私も自信がないです。経営的な問題が出ると思いますし。つまり、コミッション制というのは、緻密で良質な企画を受けるためには、媒体をたくさん使ってくださいよ、という制度なんですね。そして、この制度は、マス広告一辺倒時代の終焉とともに綻びが出てきています。

 人の命にかかわる医療と、そうでない広告を同列に語ることはできませんし、広告会社の淘汰と医療機関の淘汰は、その意味はまったく違うとは思うけれど、構造は同じような気がします。

 良心とか善意とか、そういったものは儚いものです。たったひとつの制度によっていとも容易く崩れ去るものです。上部構造は下部構造に規定されるとマルクスは言いましたが、ほんとその通りだな、と思います。下部構造に規定されない強靭な意識を要求するのは、ただの人間に聖人になれと言っているようなものだと思います。

 私が、この医療制度のことがグロテスクだと思うのは、意識の変革には言及せずに(グロテスクすぎて言及できないでしょう)、制度によって、間接的に人の意識の変革を迫っているところです。医師にはそれ以上診るな、患者にはあきらめろ、そう言わずに、制度によって、そう仕向けようとしている、ということなんですよね。

 たぶん、この制度はあまりにグロテスクすぎるので近い将来、矛盾や問題がたくさん出て破綻すると思うし、しばらくは良心に頼ることと、制度をよく知り、自衛することが大切だと思うけど、その間にも、今の制度の犠牲になる人が出てくるわけで、なんかいたたまれないです。医療難民と言われる人たちに何もできないわけだから、私のこうした言葉は、身勝手なセンチメンタリズムに過ぎないけれど。

 

 追記:

 終末期の問題は、本来医療ではなく、「ケア」として考えるべきもので、政府の考え方としては、もともとは、というか大義は、これからは、なるだけ慣れ親しんだ自宅において介護保険制度によるケアで行うようにしていきたいとの趣旨だとは思います。この医療制度と介護保険制度はセットで考えられていました。

 しかしながら、医療に替わるほど介護は発達していない現状と、現在、終末期ケアは医療機関に頼らざる得ない状況を考えると、やはり、患者にあきらめろと言っているに等しいのではないかと考えます。また、この医療と介護の境界にある患者はたくさんいます。つまり、例外が多すぎると思うのです。

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2008年6月15日 (日)

では後期高齢者医療制度のもとで我々は何をすればいいでしょうか。

 前回のエントリ「後期高齢者医療制度がどんな制度なのかを知っていますか。」の続きです。あのエントリで、いま新聞やテレビでよく言われる後期高齢者医療制度がどんなものかはだいたいわかっていただいたかと思います。私も書くことで整理されて、いろいろなことが明確になりました。

 まず最初に、タイトルにある、何をすればいいのか、という意味からです。ブログというものは多分に雰囲気で読まれるものでもあると思うので、あらかじめ言っておきますが、ある種の政治運動を意図するものではありません。私は、これだけブログがネットに漂っているにもかかわらず、医療を受ける側の経験についての文章がまだまだ少ないということを残念に思っていますし、検索してたどり着いた数少ない経験談や情報サイトのおかげでずいぶん救われたこともあり、そのお返しに、とこのエントリを書いています。

 私は、こういうエントリに対しては、今現在この問題で困っている人が検索でたどり着くシチュエーションを想定していますので、そういう人が今現在、どういう心構えでいることがいいのかを書きたいと思っています。但し、私は専門家ではなく、政治活動を行っているプロ市民でもなく、ただの市民というか生活者にすぎませんし、私自身、ちょっと切実に試行錯誤しているので、その備忘録であるという前提でお読みいただければ幸いです。

 私自身の考えは、これだけ世代構成が変わり、目の前に国民皆保険の危機がある以上、どこかの層が負担増になってしまうのはしかたがないと思っています。それに事実を見てみると、今のところそれほど大きな差ではないし、お金にからむことなので、今後の社会のバランスで是正もされてくるでしょう。そういう意味では、現在の後期高齢者医療制度の負担配分についてはさしたる関心はありません。

 私がこだわるのは、やはり、後期高齢者医療制度も含めた一連の医療費削減政策に見え隠れする思想です。今、どうしたらいいのかと思っている方は、そんな思想はどうでもいいと思われるかもしれませんが、そこを見落とすと駄目だと思います。

 今、その政策に見え隠れする思想とは、今まで好き勝手に医療費を浪費してきた高齢者とその家族に、なるだけ医療費を使わせないようにする、といった思想です。その思想が前提としていることは、ある意味で事実でもありました。社会的入院(さしたる医学的根拠がなく患者家族側の都合で行われる入院)は、その患者負担の少なさから、頻繁に行われてきました。患者家族に都合がいいだけでなく、医療機関にも安定的な収入が得られるという意味で、都合が良かったからです。

 そして、そういう悪しき状況を是正するために、高齢者入院90日規定の一般病棟への拡大(「高齢者が3ヶ月以上入院できにくくなるって知っていましたか。」をご参照ください)や、今回の後期高齢者医療制度が生まれてきたということです。この政府側の本当の意図、つまり思想は、あらゆる制度に盛り込まれています。90日規定については、患者ではなく医療機関への保険点数の大幅な削減という部分や、適用疾患の拡大、後期高齢者医療制度について言えば、医療費負担の様々な施策よりむしろ、責任主体のわかりにくい広域連合による制度の運営です。

 そうした思想が根幹にあり、後期高齢者医療制度が運営されていくとき、どうしようもなく医療サービスに対して過剰に抑制的になります。高齢者に対する手厚い医療は、現状の制度下では、医療機関側に経営的なメリットがなく、むしろ、経営を困難になるデメリットばかりで、しかも、国ならずも新聞などの報道機関までもが、患者とその家族に、過剰な医療サービスを受けているのではないかとの疑いの目を向けている時代ですから。

 私が問題視しているのは、社会的入院でも、安易な医療サービスの利用でもない、今までは普通に受けられた医療サービスが受けにくくなってしまうという状況です。それは、すでに発生しつつあります。緊急性があるにも関わらず、緊急性がないと判断されてしまったり、長期入院が必要にもかかわらず入院が打ち切られたりする、そんな状況です。

 性善説に過ぎるかもしれませんが、医療従事者は、基本的には患者を救うために最善を尽くすというミッションを持ちながら働いておられると思います。しかし、制度が、そのミッションを否定してきている以上、そうした善意が曇るのは当たり前の話です。私は会社員だから、その感じがよくわかります。どれだけ素晴らしい人でも曇ってきます。

 そういう状況で大切なのは、状況を知ること、早い段階からセカンドプランを考えていくこと、そして、出来る限りの情報を医療機関に提供することです。私は、自分を一般の市民だと考えています。市民の定義は、国や社会の状況に依存せざるを得ない人であると思っています。そして、そうした状況で試行錯誤するしかないのであれば、その中で、最善の選択をすることが我々ができる唯一のことです。

 自分に言い聞かせるように書いているのですが、特にセカンドプランを早い段階で考えることは大切だと思います。入院されているのであれば、90日というのは長いようで、あっと言う間です。次の入院先は、入院当初から確認しておいたほうがいいと思います。ケースワーカーさんとの相談も早期に行うべきだと思います。そのときには、出来る限り最悪の状況を頭に描いて相談することだと思います。

 それは、精神的にはけっこうきついけれど、そうしなければ、そうなったときに最善の選択ができません。これからは、どこの病院も長期入院が必要な高齢者の患者を受け入れたくないという状況になると思います。最悪のことを考えてください。最悪のことを考えて策を練ってください。よくなったら利用しなければいい。リスクはそれだけですから。この最悪のことを考えて策を練る、よくなったら利用しなければいいというのは、私の父が、ケースワーカーさんに言われた言葉です。

 なんとなく急ごしらえで情報を整理してみてわかったこと。それは、後期高齢者医療制度については、費用負担についての混乱はあるものの、政府の言う通り、今までと同じ医療が受けられるだろうし、世間で言われるほどの悪い制度ではない気がします。

 しかし、この制度の背後にある思想による状況の変化と、長期入院の90日規制の拡大は心配です。こちらは、様々な症状の例外規定に入らない重症患者の問題が、これから数多く出てくるのではないかと思っています。認知症と一般疾病の複合や、複数の一般疾病の複合など、判断しにくいグレーな状況も出てくると思います。この制度が改善されるまでは、しばらくは患者家族の自衛です。

 そして、これは甘いんじゃないか、と言われるかもしれませんし、反論もあるでしょうが、きっと医療機関も自衛の時だと思います。きっと、現行の制度化で懸命に最善の策を模索していると信じたい。医療とはそうした思想に貫かれた職業であると思いたい。今、医療機関と、患者とその家族は反目すべきではない。互いの状況を理解しながら、一緒になって、最善の策を探していく時。私は、そう思っています。

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2008年6月14日 (土)

後期高齢者医療制度がどんな制度なのか知っていますか。

 いま新幹線の車中にいます。東京から大阪に向かっています。MacBookとemobileの組み合わせにしてから、新幹線の中が快適になりました。ネット環境がオフィスや自宅とほぼ同等。もちろん、静岡あたりのトンネルの多いところではつながりませんが、他はほぼ大丈夫。出張の多い方は、おすすめです。

 大阪に何をしに行くかというと、入院している母の件です。このところ、週末はなるだけ大阪に帰ることにしています。そんなわけで、後期高齢者医療制度(政府は通称を長寿医療制度にしたようですが)は自分の問題でもあります。

 この制度、わかりにくいですね。後期高齢者ってどういうことか知っていますか。なんとなく知ってるという人も多いのではないでしょうか。

後期高齢者=75歳以上の全員および65歳から74歳までの障害者認定1級から3級(等級は7級まであって1級が最高度)

 ちなみに、この制度とは直接関係がないですが、65歳から74歳までを前期高齢者と定義しているようですね。この前期、後期という定義が評判が悪く、政府は長寿医療制度と自ら呼び出しました(参照)。

 で、何が変わったか。後期高齢者になると、今までの健康保険(国保、社保)から脱退し、この制度にもれなく全員加入となります。つまり、健康保険という制度ではなく、この後期高齢者医療制度のもとで医療を受けることになるんですね。

 保険料は、後期高齢者自身が、原則月々の年金から天引きのかたちで支払っていきます。窓口では1割負担です。今、論議されているのは、この支払いの負担についてが多いですね。後期高齢者医療制度は、国ではなく、地方自治体でもなく、地域の「広域連合」と呼ばれる組織が管理・運営をしますので、地域によって今までの負担より重くなったり軽くなったり、いろいろあるようです。

 この制度の政府側の目的は、2025年までに医療給付金を8兆円削減するという目標と大きく関係しています。8兆円削減の内、5兆円が、後期高齢者の医療費の削減で実現しようという目論みです。ちなみに、例のメタボ検診も、この医療費削減の一施策で、これは「生活習慣病の予防策で有病者・予備軍を25%減少」によって2兆円の削減を見込んでいます。

 運営母体を国ではなく「広域連合」にしたのは、今後考えられる問題や財政難や制度破綻の責を広域連合にゆだね、かつ、実施にあたっては、広域連合同士の競争と相互監視(まあ、国や地方自治体による評価とか圧力はあるでしょうから)によって、より効果的に削減を実現しようという政府側の思惑があるようです。

 淡々と情報を整理してきましたが、ここから見えることがあります。政府の視点で言えば、医療費がかなりの財政的な負担になっていて、介護保険や障害者自立支援法の諸問題を考慮すると、その大半が後期高齢者と障害者によるもので、これをどうにかして減らしていかないととんでもないことになるよ、という思いです。

 福田首相は、衆院山口二区補欠選挙の応援演説でこう話しています。政府の意図がわかりやすく表現されています。わかりやすく表現する必要があったのかどうかは分かりませんが、わかりやすいですねえ。しかし、どうしてこんな発言をするんでしょうね。

 お年寄りの医療はお金がかかる。若い人もせっせと支えようと言っているんだから、少しくらい負担してくれてもいいじゃないの、というのが今度の医療制度なんだけどもね。

 また、この発言はいろいろなところで話題になっていますが、厚労省の国民健康保険課課長補佐は、次のように述べました。

 医療費が際限なく上がっていく痛みを、後期高齢者が自ら自分の感覚で感じ取っていただくことにした。

 こうした発言から見える本音みたいなものが、一連の医療制度についての施策に貫かれている感じがします。一切の負担増を許さない、と言うつもりもありませんし、福田首相の言うように、後期高齢者の方も、一部を負担するのは、個々のケースでいろいろあるでしょうけど、なんとか総意としては理解をしてくださるのではないかとも思います(でもあの言い方では納得はしないでしょうけど)。財政難は問題であるとも思います。その財政難をどうにかするときに、なぜこうもグロテスクな思想によって行おうとするのか。ご老人や障害のある方に対しての、とてつもない悪意を感じます。

 以前書きましたが、後期高齢者の90日規制(「高齢者が3ヶ月以上入院できにくくなるって知っていましたか。」をご参照ください)もそうです。事実上、長期入院の必要がある高齢者を社会は受け入れないと言っているようなものです。財政難はわかった。でも、それをこんなふうに解決するのは、ちょっとあんまりなんじゃないか。生活者として、そんなふうに思います。

(「では後期高齢者医療制度のもとで我々はどうすればいいのか。」に続きます。)

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2008年6月 2日 (月)

高齢者が3ヶ月以上入院できにくくなっているって知っていましたか。

 たぶん、高齢者の入院患者を持つ人なら常識かもしれませんが、私自身が得た知識を整理する意味でも、同じ状況にある人の参考のためにも、書いてみたいと思います。(ちなみに、このエントリは2008年6月2日時点のものです。)

 高齢者が3ヶ月以上入院できにくくなっている理由は、3ヶ月を過ぎると病院に支払われる入院医療報酬が減る制度にあります。3ヶ月を境にして、入院の保険点数が極端に下がる制度になっているのです。これは、高齢者の長期入院をさせている医療機関へのペナルティを意図しています。で、転院を薦められるというわけです。もちろん例外(後ほど触れます)は定められていますが、ほとんどの一般病棟の高齢入院患者は3ヶ月を過ぎると病院側の医療報酬が減ります。病院側の経営が成り立たなくなります。

 建前としては、病院側の経営の問題を理由として退院もしくは転院させることはできませんが、病院の存続という社会性を持った課題がありますから、退院もしくは転院を薦めるということが実際は多いようです。そしてまた、病院側も、転院による問題を防ぐために、他の病院と提携していて、3ヶ月を超える長期入院が必要な患者のために、現状で出来る限りの体制をつくっているようです。

 また、患者側も通算で3ヶ月を超える入院がある場合、患者側の医療負担が若干増えます。これを補足しておくと、患者側の自費負担が増えるだけで、病院側の収入増にはなりません。これをまとめると、現行の制度は、3ヶ月以上の入院では、病院が儲からない仕組みをつくると同時に、患者の負担を増やすことで一般病棟での高齢者の長期入院を抑制していく、という制度なんですね。

 療養型医療の場合、こうした制度はこれまでずっと行われていたそうで、それを一般病棟・急性期病院に適応したとのことですが、この一般病棟・急性期病院というのは、高齢者の場合、高度医療を行う病棟・病院を指すことが多いのが見逃せない点です。そのため、3ヶ月規定における例外が以下のように示されています。

・別に定める重症の障害者、神経難病等の患者
・入院基本料の重症者等療養環境特別加算を算定している患者
・悪性腫瘍に対する重篤な副作用のある治療を受けている患者
・観血的動脈庄測定を受けている患者
・複雑なリハビリテーションを受けている患者
・ドレーン法若しくは胸腔又は腹腔の洗浄を受けている患者
・頻回の喀痰吸引を受けている患者
・人工呼吸器を使用している患者
・人工透析を受けている患者
・全身麻酔等を用いる手術を受けた患者

 しかし、高齢者の場合、こういうこと以外にも長期入院が必要なことがあるのは容易に想像できます。現実に上記以外の高度医療はたくさんあります。そうしたケースに当てはまる高齢者の患者を持つ家族は、3ヶ月後のことを考えて、早期に転院先を考えておく必要がありますし、3ヶ月後に、環境の変化によって患者がとまどうことや、医師や医療スタッフとの信頼関係を一度ゼロにして新たにはじめなければいけないことを、あらかじめ覚悟しておく必要があります。

 まだ、この件に関しては、知識があやふやなので、安易に自分の意見を書いていくことは、今のところ控えようとは思っていますが、どうもこの制度は、今後、例外規定以外の例外を多く生み出して、様々な問題を起こしてしまうような気がします。長い目で見れば、こんな、医療機関にも患者にも自衛を迫るような制度がうまくいくはずはないとは思いますがが、今のところ、現行の制度を知った上で行動せざるを得ません。参考になさってください。

 ○2008年6月10日追記:今年の10月より「後期高齢者(長寿)医療制度に伴い診療報酬が改定され、十月から一部の重度障害者が特例対象から外され減額される。」とのことです。これは、事実上、高齢の重度障害者を引き受ける医療機関をなくすことに他ならず、医療費抑制のためとはいえ、本当に発想がグロテスクだと思います。自体はますます悪い方向へ進んでいるようです。

 中日新聞:混乱する後期高齢者医療制度 長期入院の報酬減額拡大(2008年5月9日の記事)

 ○2008年7月14日追記:後期高齢者医療制度(75歳以上の方が健保を離脱して新たにこの医療制度のもとで医療を受けるしくみ)とのからみで分かりにくかったので、追記します。ここで言う一般病棟への入院90日規定は70歳以上の方が対象で、90日を一日でも超えると、保険点数が包括払い方式になり、どれだけ高度な医療を使っても請求できなくなります。本来は、その受け皿が介護保険なのですが、医療を必要している方(介護認定が高い人は、比例して医療が必要になりがち)は、介護保険では不十分で、介護で十分という方は、介護認定が低く設定されてしまい十分な介護を受けられないというジレンマが生じます。(今、私が直面している問題は、この問題です。このことは、またあらためて書きます。)

 参考:医療制度改革の残したもの——「重症高齢者」への地域福祉実践は可能か●天田城介 (2004年10月に書かれたものです)

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2008年5月31日 (土)

すべてはコミュニケーションの問題なんだ、と言い切ってももいいかもしれないなあ。

 語弊はあるけど。コミュニケーションの問題と見えるものでも、本当は別の問題がある、という論議も分かるけど。私がコミュニケーションを領域とする広告屋なんて仕事をしているから言うわけじゃなくてね、ここ最近の個人的な出来事から、ああコミュニケーションが悪かったんだな、なんて思わせられる感じがあって、これ書いています。

 例えば、医師とのコミュニケーション。私の母親の具合が悪くなって、医師と話したわけですよね。かなり状態が悪かったんです。こっちとしては必死だから、今の状況を一生懸命話すわけですよね。で、その今の状況は、とりあえず解決。しばらく経つと、また次の問題が発生して、こちらとしては不安になるわけですよね。あれだけ話したのに、という思いも当然あります。

 で、どうしようもなくなって、大阪にいる私の妹が医師に電話で話したんですね。それこそ、専門家たる医師にまかせなきゃ、という考えも当然あるし、こっちは素人だし、でもそんなこと言ってられないという決死の思いです。不信感もあったと思います。でも、それを話すと、医師は、えっ、それは聞いてなかったなあ、教えてくださ、みたいな感じだったんですね。それに、積極的に聞いてほしいとも言われたそうです。

 妹は、なんかあの先生見直したわ、なんて言っていたけど、母親のケースは、患者本人が症状を説明できない状況でもあるし、まわりのものが言わない限りは先生もわからないわけですよね。積極的に聞いてほしいと医師は言っていたらしいですが、医師にしても、まわりのものが普通のコミュニケーションを行っている現状で、医療行為として、それ以上を家族に聞き出すことはしないし、たぶんできないとも思うんですね。

 要するに、言わなければ、絶対にわからないということ。その後の処方だって、緊密かつ詳細なコミュニケーションがあるのとないのでは、ずいぶん変わるだろうし。医療がどこまで進歩しても、コミュニケーションの大切さは変わらない気がするんですよね。それと、気持ちの問題もあるんですよね。インフォームド・コンセントと言われますが、それよりも前に、私たち患者と、患者家族自身が、医師にどう伝えていくかが問題になるような気がするんです。

 これは、患者側の医療リテラシーとも言えるけど、医療の側も、そういうコミュニケーションをしやすい環境をつくらないといけないと思うし、むしろ、うっとうしいくらいに医師がコミュニケーションを迫るくらいの状況ができてもいいように思います。

 広告の仕事で言えば、いい仕事ができるかどうかなんて、案外、いいオリエンがあったかどうかなんだし、制作側の思いとしては、オリエンがちゃんとしてないと、いい仕事なんてできないですよ。いい広告をつくる自信はあるけど、いい仕事ではなければ意味ないですよね。

 でも、私が言いたいのは、そんないいオリエンを私たちがするように努力するんじゃなくて、もちろん、できる努力はするけれど、私たち患者側がいいオリエンができるように環境を整える必要があるんじゃないか、それも医療の進歩なんじゃないの、と言うこと。

 どうして、医療リテラシーという言い方に抵抗があるかというと、ブログにこんなことうだうだ書く私でさえ、うまく伝えられなかったわけで、親父なんかは、先生と話してくると言うと、こんな状況でもなお先生のことを悪く言うなよ、とか、専門家なんだから先生に従うしかないんやから、素人が出しゃばったこと言うななんてこと話すわけですよ。そんな私たちに医療リテラシーを求められないでしょ。そういうことなんです。こういう問題は、普通の人を基準に置くべきです。

 確かに、こういうことの一方では、医療側の訴訟リスクなんてこともあるでしょうし、それと、コンビニ受診をはじめとする医療の疲弊もあるのは理解しています。そういう問題は、そういう問題として、個別に考えていかないといけないです。でも、同時に、これ以上、コミュニケーションの問題を劣化させる環境や空気をつくっちゃいけない、とも思うんです。ありきたりな言い方になりますが、患者側と医療側の相互理解が大切なんでしょうね。

 もっとなんかこう、ITとか利用できないもんなんでしょうかね。SNSなんかは使えるとは思うんですが、どうなんでしょう。プライバシーの問題があれば、専用端末でもいいし、ネット環境がなければ、emobileのモデムを貸し出せばいいと思うし、ファックスなんかでも、電話のもっと積極的な活用でもいいと思うし。もちろん、会って話すのがいちばんですけどね。

 ほんと実感するけど、会って話すということの情報量と言うのは馬鹿にできないです。これだけコミュニケーションツールやインフラが発達しても、会って話す、ということの優位性は変わらないです。感情の起伏や表情や話すリズムを含めて情報なんです。逆説的な言い方ですが、これだけコミュツールが発達して、コストが下がっても、対面の詐欺師は減らないじゃないですか。それだけ会って話すことの情報量はすごいってことですよね。

 広告なんてものは、所詮は紙切れ一枚であって、優秀な営業マンの代用に過ぎなくて、我々のがんばりどころというのは、その優秀な営業マンにどこまで技術で迫れるか、ということに過ぎないとも思うんですよね。会って話す。それが最強。当然、そんな非力なコミュニケーションだからこそ、誇りを持ってなんとかしようと頑張っているんですけどね。

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2008年5月29日 (木)

精神医療と私たちはどう付き合っていけばいいのか

 私の世代は、教養として、フーコーやレインの反精神医学の流れに少なからぬ影響を受けてきました。今でも多くの若者が、ある時期、自分の問題として精神医学や心理学をかじったりするものだと思いますし、私の学生時代では岸田秀の唯幻論(フロイドの精神分析の社会論への援用)にはまったり、わからないまでもラカンやテレンバッハ、日本では木村敏なんかの書物を紐解いたりしました。

 そこに描かれる精神疾患は、ある意味で、ロマンティックな精神の深淵を覗かせてくれるものとして描かれています。患者さんにとっては迷惑な話ですが、そうした症状を実存の問題として読んできました。それはアカデミズムだけでなく、文学なんかでも同じだったと思います。私の読書体験で言えば、統合失調症(精神分裂病)は、とりわけ実存分析学派において、ある時期まで関係性の病として哲学的に論じられてきましたが、向精神薬の開発にあわせるように、そうした記述が急速に少なくなって来たような実感を持っています。

 精神分裂病が統合失調症という名前に変更された背景には、そうした背景による患者とその家族への偏見があったといいます。また、社会的なインフラとしてウェブが整備されるに従って、患者本人の言葉や、患者家族の手記なども読む機会が増えてきて、実体とかけ離れた偏見も少なくなってきているように思います。というか、そうなってきていると思いたい部分があります。

 うつ病も、現代を代表する精神疾患としてメディアで度々登場しますし、それに関して言えば、例のアナウンサーの件でも、もっともっと精神医療が気楽になっていて、あのアナウンサー本人がもっと知識があれば、あの哀しい出来事は防ぐことができたのに、と思ったりしました。ただ、あの報道の情報だけでは何とも言えませんが。

 けれども、例えば、通常のうつ状態とうつ病の症状の決定的な違いや、うつ病と躁うつ病(双極性障害)との違いは、ほとんどの人が理解していないと思います。もちろん、日常でその違いを積極的に理解する必要があるのかどうかはわかりませんが、少なくとも、うつ状態とうつ病と躁うつ病は違うことがわかっているだけでも、すいぶん社会的な状況は変わってくるだろうな、という思いはあります。

 そんなことを考える私でも、実際にわからないことが多く、老齢になるとそこに認知症の疑いがからんできて、実際にとまどい混乱してしまう現実をあたふたと生きています。双極性障害の場合、脳内神経伝達物質を介した神経伝達機構の障害であると考えられていますから、基本的には、生涯にわたる継続的な薬物治療が主になります。その重要性でさえ、私はあまり自覚していませんでした。そのことをもっと知っていれば良かったと思います。

 しかしながら、ここで私がわからなくなってしまうのは、その症状が、正確に言えばその症状の発現なり悪化なりが、本当に脳内神経物質に起因するだけのものであるのかどうかということです(生活での出来事が大きなきっかけになることは理解していますが)。これに関しては、私の知識では不明な部分でもあり、もっと知識を得ればクリアになる部分かもしれません。でも、その疑問は、人生をふりかえると容易に実存の物語として完結させることも可能なような気がしますし、まわりの家族を苦しめる原因になる一方で、その心の歴史なんかが原因であるとすれば、救われる部分でもあるのも事実です。

 そして、実際には症状の悪化によって、薬物治療自体にも疑問をもってしまうこともあり、安易な反精神医学的な流れには、実際問題として、個人的には憤りに近いものを感じてしまうものの、そうした気分がもたげてくるときもあるにはあります。

 症状が悪化して、その症状は認知症に起因するものである可能性が大きいという医師からの告知によって、私を含めた家族は大きく動揺しました。今後の対応なんかも本気で考えなければいけない状況になり、どうしていいのかわからない不安が襲いました。しかし、その不安は我々側の誤解があったことも事実です。大規模な総合病院でも、専門的な医療体制は専門医療機関には劣る部分があり(それは目的の違いから来るものです)、そういう意味で今後の対応を早めに考えなければならず、担当医は、そういう意図での助言でした。現在の症状の悪化は、認知症の急激な進行ではない可能性が大きいということでした。

 また、専門の医療機関に対しての偏見もありました。ウェブとこれだけ親しんでいるにもかかわらず、私は一度として、専門の医療機関についての情報を摂取しようとしませんでした。また、私たち家族は、今から思えば、家族のあいだでは大きな感情のうねりがあったものの、そのことを医師に伝えようとしていなかったんですね。医師を信頼すると言っても、信頼される医師にしても、神ではないので、言わなければ不安な部分がわからないもの。それを伝えたとき、はじめてものごとが一歩前進する実感が持てました。

 そんなここ最近の出来事を通じて、私たちがどう精神医療と付き合っていけばいいのかを問われたような気がします。過剰な期待と、遠慮。そして偏見、無知。それを実感しています。まだ渦中にあるので、結論は書くことができませんが、問題意識のひとつのあり方として、このブログに書き起こしておこうと思いました。きわめて個人的なことでもありますので、このまま個人的なこととして書かない選択もできましたが、こういう問題意識は社会に開くほうがいいという考えに至りました。書くことと書かないことをその都度判断しながら、出来る限り開いていきたいと考えています。

 多くの同じ問題で悩む人のために、社会的な記録として残す意図がありますので、このエントリに限り、コメント欄とトラッバック機能は停止しています。ご了承ください。また、事実誤認の指摘などは、メールにてお知らせいただけるとうれしいです。

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2008年5月24日 (土)

人生は物語なのか

 極東ブログ「[書評]もういちど二人で走りたい(浅井えり子)」を読みました。マラソンランナーの浅井えり子さんも監督の佐々木功さんも存じ上げませんでしたし、二人の関係や、その関係にまつわる話題も知りませんでした。でも、こうした書評を読むだけでも、人生というものは、なるほど物語のようでもあるな、と十分に感じさせられます。

 厚労省は単なる慢性病、しかも遺伝的影響の強い慢性病を「生活習慣病」と言い換えて健康を自己責任化に見せつつ、国民の身体管理を始める時代になった。が、病というのは、人生の物語に仕組まれているものではない。
極東ブログ「[書評]もういちど二人で走りたい(浅井えり子)

 私は、いま、人生は物語なのかもしれないという呪縛の渦中にいて、人生は、決して、あらかじめ物語として仕組まれるものではないとわかってはいても、その物語であるかもしれないこと、いろいろな断片を組み合わせると哀しすぎる物語になることに、ちょっと耐えられなくなってきています。まあ、いろいろな人の人生を俯瞰して見れば、私の置かれている状況は、よくある話です。

 私は、哀しすぎる物語を軽々と破壊する、内なる生命力に期待をしていて、でも、それはつまるところ、本人の生命力みたいなものに期待するしかなく、家族であろうと根本的には何のコミットもできないことに、ちょっと自分勝手な言い方ですが、少し苛立を感じています。病と闘っているのは本人である、ということは理屈ではわかっていても、しょうがなくそう思います。いざと言うとき、人間なんて弱いもんだな、と思います。

 理性的に考えれば、佐々木の52歳というにはなんら物語的な理由はない。ただ、時代から残されてしまえば物語のように見えるし、物語であることで、「愛」という言葉に再定義を迫る、人の経験というものを残す。
極東ブログ「[書評]もういちど二人で走りたい(浅井えり子)

 それは要するに、今ある苛立は、物語を先取りして、必然の物語から遡行して、得体の知れない何者かに「愛」を問われてしまう苛立かもしれないな、と思いました。人生は物語なのか、という問い自体が、物語としての人生から自分を疎外してしまうように機能し、それがいけないのかもしれないですね。こうした言葉を書き綴ることで心が落ち着いてくる、という自分の特性みたいなものは、あまりよいものではないと思うのですが、まあしゃあないですね。

 今は、みんな元気でお正月が迎えられればいいな、なんてことをひたすら考えていて、そうできたとき、なんか物語の呪縛から勝利できるような気がしていて、物語に負けてたまるかと意気込むものの、やはり何もできず、その向こう側に医療というものが厳然とあって、そうした医療は、人生という物語に、そのメタな価値性として君臨して、個々の人生を断罪すべきではないと思います。そこが、生活習慣病や健康増進法なんかの違和感です。単純に、なんかやな感じって思ってしまいます。

 でも、健康増進法自体はいいことという前提性が強く、こうした違和感は説明が難しいので、こうした息苦しさはしばらく、社会の流れとして続くのでしょうね。今の社会って、この手のことが多いような気がします。

 なんか書いているうちに、よくわからなくなってきましたし、人生が物語かどうかなんて、どうでもよくなってきました。こういう文章って、慰みっていうんでしょうね。まあ、こんな文章を書くということ自体が目的みたいな文章を公開するのも気が引けますが、こんな感じもブログというものでしょうから。

 今回、オチはありません。読んでいただいた方、なんかすみませんね。恐縮です。(追記:なんか読み返すと、よくわかんない妙な感じが行間のそこかしこにただよっていますね。結論で言うと、人生は人生で、物語ではなく、その人生を解釈することで物語になる、ということなので、その人の解釈次第ということなんでしょうね。それとともに、人生とは解釈の積み重ねとも言えるのではないか、なんて考えています。では、よい日曜日を。)

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2008年5月11日 (日)

続・リテラシー考

 リテラシーについて考えるとき、ひとつの出来事を思い出します。職場にて。私の席の隣に座っている、年配のクリエイティブ・ディレクター。彼は仕事で調べものがあったらしく、私に、ちょっとこの言葉の意味、ネットで調べてくれないかな、と言いました。私はちょっとめんどうだなと思うものの、Googleを使ってその言葉の意味を調べ、彼に教えました。すると、彼は、私に次から次へと依頼をするようになってしまいました。

 何回か、そうしたやりとりが続いたとき、少し先輩のアートディレクターが、かなり思い詰めた口調で、その年配のクリエイティブ・ディレクターに言いました。

 「それくらい自分で調べたらどうですか。迷惑なんですよ。」

 私はそのとき、確か、いえいえ、こんなの簡単だから別にかまわないです、とか言って、その場を繕ったりした覚えがありますが、今も脳裏に焼き付いているのは、その年配クリエイティブ・ディレクターの寂しそうな顔です。穿った見方をすれば、確かに彼の一連の行動は、先輩風を吹かすといった感じの部分も見受けられたし、そういう心の底にある動機を見透かされたとこによる図星の感情が、寂しそうな表情の原因であったとは思います。でも、なぜかそれだけではない何かをその表情から感じたのです。

 それは、かつての写植屋さんが廃業するときに私に見せた顔に似ているなと思いました。多くの写植屋さんは、デジタルデザインやウェブの技術を覚えていきましたが、どうしてもその流れに乗れなかった人もたくさんいらっしゃいました。そうした流れに乗れなかった人は、きっとそれぞれの人生で新しい道を見つけていることだと思います。私の知っている方は、いままで酷使した体を治して、田舎で仕事を見つけると言っていました。

 その年配のクリエイティブ・ディレクターは、早期退職制度を使って退職されました。こういう出来事をセンチメンタルに語ることもできますし、Googleの検索の仕方さえ覚えない人は駄目だよね、と切り捨てることもできます。それに、この手の話は、いつの時代にも起こってきたことだとも思います。それに、このことをああだこうだ言ったところで、所詮は人の人生、自分は自分で、この仕事に対する向上心がある限り、新しいリテラシーをどんどん身につけていくと思うし、その余剰の時間やスキルを彼のような人に与えようとは、本音を言えばまったく思わないですしね。

 ここのところ、「コンビニ受診」を原因とする救急医療のことをぼんやりと考えていました。ウェブを通して、緊急医療を崩壊させないために、市民として正しい医療の受け方を啓蒙する活動をしている方からコメントをいただきました。「コンビニ受診」というのは、軽症者の夜間受診のことで、その負担が医師の疲弊を招き、夜間診療の医師不足を引き起こしています。

 その方は、自身のウェブサイトのバナーをいろいろなブログに貼ってもらうことで運動の広がり、つまり市民の医療リテラシーの啓蒙によって救急医療崩壊を防ぎたいと考えていらっしゃいました。しかし、なかなかうまく行かないとおっしゃっていました。私は、その方にアドバイスをしましたが、私はそのバナーをブログには貼りませんでした。

 私は、基礎になる能力を超えるリテラシーを要求する言説は、自身の向上心や利便性、つまりより豊かになるといった利己的な領域に限定的に使われるべきものなのではないかと思っています。その領域を超えて、ある種の公共性に類するものにリテラシーが適応されるとき、それは抑圧につながるのではないかという思いが私にはあります。

 話を先の年配クリエイティブ・ディレクターの話に戻します。彼の行動には、そうしたリテラシーを問うまわりの言説に対する苛立ちがあったのだと思います。もし、Googleで調べものができないということが、業務に対して重大な障害になるのであれば、それをリテラシーという言葉で問うより先に、なすべきことがあったはずです。会社側が研修などをさせて身につけさせるか、それでも身につかなかった場合は退職させるか、異動させるか、です。

 つまりは、教育の領域なのだろうなと思うんですね。そして、教育の問題であるならば、教育を誰がするのかという主体が問われてくるのだと思うのです。「コンビニ受診」を原因とした救急医療の崩壊は、確かに差し迫った問題になっているようです。しかしながら、市民の意識を高めて、市民自らが「コンビニ受診」をしないように啓蒙するウェブサイトがあることの意義は認めるけれども、私が自らのブログで主張をしようとは思わないのです。それは、私がこの問題を他人事であると思っているからではありません。

 この「コンビニ受診」の問題が社会問題であるならば、もはや教育の問題なのだろうと思います。教育は、その根拠のひとつに権威と処罰があるように思います。その場合、保険制度の厳格適応等の方策しかないだろうと思うのですね。緊急性のない軽症者の夜間診療10割負担といった。あとあるとすれば、その保険制度の厳格適応を根拠とした、国や行政、医療機関といった主体による教育です。

 後者は、モラルに訴えるという手法とも言えますが、そのモラルを問う主体は、やはり患者ではなく、前述のとおり国や行政、医療機関であるべきだと思うんですね。教育は、先生と生徒の非対称性によってはじめて成り立ちますから。患者のモラルを問う、患者側、つまり市民側からの取り組みは、やはり患者側への抑圧につながるのではないかと思います。しかも、その言説は、当の「コンビニ受診」常習者には届かない。あえて届くシチュエーションを想像してみると、それは、普通の患者、つまり市民がそうしたコンセンサスを得て、そうした「コンビニ受診」常習者を社会的不適合者として排除する空気によって届けられることだろうと思います。

 それは、パノプティコンの相互監視に似ています。その根本が絶対的な善意によってなされているという部分も。そして、その監視されない中央の塔には、我々には見えないけれど、絶対に誰かがいます。私は、そういう状況を何よりも恐れます。具体的に言えば、このゴールデンウィーク中の平日に、夜間診療ではないけれど、緊急性があるという自分の判断で、街の診療所ではなく、地域の高度医療の役割を担う医療センターに急患として母を見てもらった。その医療センターには連休明けに再診の予約がありましたが、こうした突発的な行為が、「コンビニ受診」と疑われる状況を自らつくりたくない。それもまたひとつの自分の問題です。ちょっと大げさかもしれないけれど。

 この文章を書いていて、少し補足しておきたいこと。コメントをいただいたある方を批判しているわけではないのです。その方は、「コンビニ受診」という言葉が抑圧につながることに気づき、自身のウェブサイトではその言葉を使っていませんし、そうした抑圧に自覚的です。そして、私自身はそのウェブサイトがあること、ブロガーが自発的にそのバナーを貼ることについては素晴らしいことだと思っています。でも、貼らない人がいても、それは他人事だからではないのです。

 私は、その方から、どうすればいいのか意見をくださいと言われました。あれからぼんやりと考え続けて、現時点での答えがこれです。私はその方の行動が素晴らしいと思うし、その方が今持っているジレンマにできる限り応えたいと思うから、出来る限りためらいとか、気兼ねとかを排除して書きました。

 では、私はこれからどうしていくのか。それがきっと問われてくるだろうと思います。それは、このブログで折を見て書いていきたいと思っています。この問題を深く考えるきっかけをいただいたその方に感謝しています。それはその方の意図したこととは違うかもしれませんが、こうした広がりこそ、大切だと思うのです。あのウェブサイトをご紹介いただけなければ、私はこの問題をこんなにも考えなかったかもしれません。それは、誇っていい、大きな成果ではないでしょうか。

 あと、いろいろな情報を見てみたけれど、この問題、行政や医療制度、今の国家財政の問題などが複雑にからむので、難しいです。それと、全国規模で言えば、個人的には制度が「コンビニ受診」を抑制できていないことが問題だと思っています。それと地域に目を向けると、「県立柏原病院の小児科を守る会」のような「柏原病院」であり「小児科」であるという具体性のある取り組みは重要だと思います。この限定的な文脈だと、「コンビニ受診」という言葉は抑圧にはならない気がします。

 ただ、こうした市民の善意にいつまでも負っている段階ではないような気もします。守る会のウェブサイトにある言葉を引用します。

『医師は戦わない。ただ、黙って立ち去るのみ!』 

一般的にはそう言われています。
しかし、柏原病院小児科は違いました。

「もうすぐ無くなるかも知れない」というサインを出されました。

私たち「守る会」は新聞を通じてこのサインを知り、
そして活動を始めることが出来ました。

 柏原病院小児科はサインを出した。それに市民がリテラシー、つまり、市民意識の向上によって応えた。その市民の取り組みは、つまり、この国の医療に対するサインではないのかと思います。今度はこの国や、この国の医療行政が応える段階だろうなと思います。医療を大切だと思う市民にこれ以上のリテラシーを求めることで、国単位の問題の解決をはかるのは、やっぱり違うと思います。医療リテラシーは、自身が今以上の医療サービスを受けるためにあるのであって、医療を救うためには本来ないのだから。

関連エントリー:
「コンビニ受診」という言葉を知って、あれこれ考えてしまいました。
リテラシー考

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2008年5月 5日 (月)

リテラシー考

 メディアリテラシーとかネットリテラシーとか言われますが、今回は医療リテラシーについて。このゴールデンウィーク中に私が体験した話を書いてみたいと思います。母の具合が悪くなって、私が帰阪したときには、かなり状態が悪化していました。突発的なことだったので、日常生活のルーティンが少し乱れ気味で、お医者さんから処方された薬の服用もアバウトになっていました。それに、これまで通院していた近くの診療所が処方した薬と、総合病院に駆け込んで処方してもらった薬が混在している状態でした。

 前に、今回はネットに助けられたということを書きましたが、まず私がしたことは、まず薬の内容をネットで調べることでした。今、ネットで検索すると、ほとんどすべてのお薬の内容が分かります。そこで、効能が重複した薬があることが分かったりしました。とりあえずは、効能が重複する薬の一方の服用をやめさせるなどの緊急の対処ができました。

 総合病院で処方された薬の正しい服用ができない状態だったので、連休明けの再診の予定だったところを変更し、すぐに再診してもらいに行くことにしました。そのときに私がしたことは、飲んでいる薬とその量、症状や状況、家族の心情など、思いつくことすべてをメモしたことです。早朝に総合病院に予約なしに駆け込み、担当医にそのメモを見せながら話しました。

 診療という行為は、対話ですから、面と向かったときの雰囲気や状況で、伝えなければならないことも伝えられないことはよくあります。そのとき、箇条書きにしたメモが役に立つのです。お医者さんに伝えるのもコミュニケーションですから、伝える方にもスキルがいります。実際に私も、しどろもどろになってしまいましたし。そのときに、メモは役に立つのです。

 診療という行為は、きっとオリエンテーションと同じだと思います。この場合、プレゼンをする方は患者とその家族側なのです。オリエンテーションで大切なのは、必要なすべての情報を開示することです。そのために、メモは必要です。その場のノリに左右されるおしゃべりでは、情報量がノリに左右されてしまうんです。ちょっと傲慢な言い方かもしれませんが、お医者さんにいい仕事をしてもらうために、いいオリエンをする必要があるのです。

 私は、たまたま帰阪するまでに冷静に考えられる時間がありましたので、ネットで入手したこういう医療リテラシーを吸収することができました。今回、それが非常に役に立ったような気がします。急病などで気が動転することもあると思います。そのとき、ネットで検索して偶然このブログにたどり着いた方、どうか、一度冷静になってメモをとってみてください。

 しかしながら、リテラシーというのは自分の身を守るために身につけるものであるものの、リテラシー、リテラシーと言う風潮はどうなんだろうと思うところもあるのです。なんとなく、よい医療を受けるためには、医療リテラシーを身につけることが必要なのです、ぜひ、あなたも医療リテラシーを身につけましょう、という感じの言い方には抵抗があるのです。

 なんとなく感じるのは、こうした言い方には、弱者を切り捨てるような指向性を持っているような気がするのです。自己責任と声高に叫ぶ風潮とシンクロしているような、そんな感じがします。リテラシーを身につけることは、どこから見ても、決定的に正しいけれど、その正しさの中に、そんな落とし穴があるような気がします。

 こういうことは、広告的に、つまり、受動的に知らされるということが必要なのではないかな、みたいな感じがしています。リテラシーを身につける、というような自発的に情報を摂取するということでなく、みんなが当たり前のように知っている状況をつくる、ということ。これは、ウェブ2.0以前の考え方かもしれませんが、なんとなくそうあるべきなんじゃないかなと思います。このへんは、少し考えを深めてまた書くかもしれません。

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2008年5月 2日 (金)

「コンビニ受診」という言葉を知って、あれこれ考え込んでしまいました。

 5月1日の朝日新聞大阪版社会面に『泉佐野病院救急を停止 内科・外科来月から』という記事がありました。医師不足のため、6月から内科・外科の「救急告示」を取り下げ、夜間・休日診療を当面休止にするとのことです。大阪府南部は、以前から救急医療機関が手薄とのことで、その観点では非常に深刻な事態であると言えるようです。病院としては、病院自体が崩壊しかねない状況であるとの判断で、やむを得ずそういう措置を取ったとコメントしていました。

 この記事の横にはコラムがあって、見出しに『「コンビニ受診」医師疲弊』とあります。コンビニ受診とは、軽症者の救急外来受診とのことで、それが医師の疲弊の原因となっているとのこと。消防庁調べでは、06年に救急車で搬送された約489万人に占める軽症者の割合は52%。記事は、こうした気軽な受診が救急医療を崩壊させているという論調(そうはっきりとは書いていないですけどね。最近の新聞はそういう感じが多いです。)でした。

 私は、この「コンビニ受診」という言葉を今まで知りませんでした。なんとなく下品なネーミングではあるな、とは思うものの、それはある部分では事実を示す言葉でもあるのかもしれません。私は、病院に行くのを躊躇してしまいがちなタイプですから、へえ、そんな人もいるんだなあ、でも、そういう人はいるだろうな、という感想を持ちましたが、しかし、それが社会問題として、キャッチーなネーミングとともに社会面で語られる感じには少し違和感を持ちました。

 なんとなく危惧するのは、こういうキャッチーな言葉が流行ると、医療周りの空気が息苦しくなるだろうなということです。正直、まいったなあと思いました。相当重篤な事態でしか医療に頼れない空気がつくられてしまうのが怖いです。この言葉が流行らないことを祈るばかりです。私には90歳を超える祖母がいるのですが、要介護から要支援に変わりました。医療ではなく介護の分野ですが、すでにそういう方向に社会が進みつつあります。90歳を超えているんですよね。それで、今まで要介護だったのです。それが、本人は年をとる一方なのに、要支援。

 こういう状況は、私が語るまでもなく、もっと深刻な状況に陥っている方がいらっしゃると思いますし、この社会問題については私自身あまりよくわかっていないので、これ以上の言及は差し控えますが、私は、広告屋さんのひとりとして、こうした言葉が流行って、本当に救急医療が必要な人たちが躊躇するような空気にならなければいいな、と思っています。

 この「コンビニ受診」もそうですが、「自己責任」とか「モンスターペアレント」とか、そうしたキャッチーな言葉が流行るとき、世の中は多分にウルトラ化する傾向がある気がします。そうして起こったウルトラ化によってできた空気は、本当の問題を隠してしまうような気がします。これは、広告の力に似ているところもありますが、その広告の力のコインの裏側には、こうしたことがあるのですね。キャッチコピーひとつで、売れてはいけないものもバカ売れするようなことも起きてしまいます。これは、広告屋として自戒を込めて思うことです。

 「コンビニ受診」が示すような人は、どんな社会でもどうしようもなくいると思うんですよね。それを「コンビニ受診」と名付けることで、そういう人を社会から完全に排除しようという方向に物事が動くような気がします。そうなると、どういうことが起こるか。それ、コンビニ受診じゃないの?という相互監視と、コンビニ受診という価値観の肯定の両極しかない状態になるような気がするんですね。本当の解決は、その間にあるような気が、私はしています。

 それはまあ、バランスとか妥協とかあきらめとか言われるような、かっこわるいものでしょうが、こういう問題は、ある意味、社会システムを崩壊させる閾値を超えないようにするにはどうしたらいいかが課題な気がするんです。朝日新聞の記事もそういうことを目指しているんでしょうが、現象としては、きっとそうならない。それは、言葉の悪魔的な力なんだろうなと思うんですね。なんか危ないなあ。あんまり安易にたとえたり、言い換えたり、ネーミングをしたりするのはよくないのになあ。そんなことを、考えてしまいました。

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2008年5月 1日 (木)

母の具合が悪くなって少しわかったこと

 いま大阪の実家にいます。母の具合が悪くなり、今回はそのための帰阪です。ゴールデンウィーク中ということもあって、仕事関係の諸々を最小限に抑えられたのは、ちょっと助かったなあという感じです。ゴールデンウィークは恒例の春一番コンサートを見に行くことにしているのですが、今回は見合わせることにしました。私としては、私の広告の師匠でもあるBRUCE06さんのレポートを楽しみに待とうという感じです。BRUCE06さん、コンサートのレポートよろしくお願いしますね。

 母のことをブログに書いていいのかどうかはよくわからないところがあって、いろいろ考えて、今のところは、やはり書かないほうがいいのかな、なんて思っていますので、すこしわかりにくい文章になってしまうかもしれません。ごめんなさい。

 母の具合が悪くなって、私自身、思うところがあったので、それを書きたいと思います。私は、ここのところ、ずっと家事やら母の対応やらをしていて、そういう目で社会を見てみると、いろいろと気づくことがありました。当たり前ですけど、病院も休日は休むんだなあ、とか、薬を出してもらって、それで2週間様子を見てください、って2週間もかよ、とか。まあ、これは愚痴かもしれませんが、でも、やはり医療は、相当な緊急時というものを想定してつくられているんだなあ、なんて思いました。父の愚痴は、ずっとそれ。でも、今の日本社会を考えれば、しゃあない部分はあるなあとは思いますが、いろんな日常のグラデーションの中に、けっこうきついことはたくさんありますね。

 予防医学なんてことが最近は言われていますが、それはどちらかというと、私のような元気な人を対象としていて、要は、それは健康増進という目的もあるけれど、市場原理みたいなこともあるんでしょうね。けっこう、私も父もへとへとなので、予防医学はいいから、そういう一大事の手前のグラデーションの部分のことを医療がフォローしてくれたら助かるんだけど、みたいなことを不謹慎にも感じてしまうんですが、その部分はあまり期待できない仕組みになっているな、と感じます。

 逆に、ありがたかったこと。それは、近所の人たちのやさしさとか気づかいです。私の実家はマンションですので、管理組合とか町会などもしっかり機能していて、案外コミュニティっていうのがきちんとあるんですよね。結構、長年入居している人もいらっしゃいますし。あれこれ、それこそいい感じで気づかっていただいています。それなりに情報化社会になって、いろいろなことをみんなご存知だったりします。そういう意味では、同じコミュニティでも都会的な良さもある。それは、なんだかんだ今の社会って、みたいなことは言われるけれど、私が子供の頃と比べると格段に良くなったような気がします。

 それと私事だけど、このブログのこと。母が急に具合が悪くなって、あ、ちょっといままでみたいに書けないな、なんて思ったんですよね。なんとなく。まあ、物理的な時間というのはありますけど、たぶんに気分的に。まあね、ブログなんて趣味だから、書けないと思ったら書かなくていいのですが、いつも偉そうに論をこねていることが、日常の出来事で揺らいでしまうのは、なんとなく、暇ネタとかも含めて、その書くという行為に強さがないからですよね。

 あ、この強さというのは、いわゆるマッチョとか言われるような強さってことじゃなくて、逆に、マッチョ的なものの唯一の弱さっていうのは、こういう日常の出来事のリアリズムにぜったいに勝てないってことだと思うんですね。仕事的な部分(言論的な部分と言ってもいいかも知れません)と日常的な部分を明確に分けていればいいのですが、そうでない指向性を持っている場合は、この日常のリアリズムと乖離してしまうのは駄目だと思うんです。吉本隆明さんなら、そういう知とか言論とかは、ぜんぶ駄目なんだよ、と言うところでしょうね。今回の出来事は、まあ、人生のよくある風景であるけれど、私の中のマッチョな部分になんか突き刺さりました。

 実際、私自身も、仕事に関しては、ほとんど影響なしですが、このブログに書くことは影響が出てしまう。それは、たぶん違うんだろうと思うんです。ほんとは、そのことが仕事にも影響をしないといけないし、ブログなんかでも、日常の出来事に影響されながら、これまでどおり書けなきゃいけない。そんなふうに、とりあえず私はやっていきたいと思っています。

 あと、思うのは、今のところ、詳しくは書かないことにしているけど、私がいま取り組んでいることや、そこでうまくいったことや失敗していることなんかは、けっこう、同じような状況の人たちには役立つのだろうな、と思ったりします。本当は、ブログに書くようなことではないな、と思うようなことが、ブログに書かれるべきことなんだろうな、なんてことも思いました。一生活者どうしがつながるウェブの姿は、明示的にははてブやTwitterでもあるけれど、黙示的にはこうした生活者の書いたものを読んで、単に助けられるだけの、一見コミュニケーションがないように見える、そんな沈黙のコミュニケーションなのだろうなとも思います。

 はてなの匿名ダイアリーというのは、そういう可能性を持っているのかもしれないなあ、と思ったりしました。でも、あそこはわさわさしてるコミュニケーションの場だけどね。でも、そのわさわさの時間が過ぎて、まだそのアーカイブが残されているならば、その沈黙のコミュニケーションのひとつの核になる可能性を秘めているのかもしれないです。とまあそんな感じで、まだまだ物理的な時間がない状態だけれど、ぼちぼちとね。ではでは。

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