カテゴリー「音楽の話」の32件の記事

2009年11月24日 (火)

ルールとモード

 1950年代の音源を順を追って聴いていくと、ジャズの音楽理論が複雑化、高度化していく様が手に取るようにわかります。アドリブがより高度になり、スピードも上がっていきます。ハードバップの後期では、それこそ神業みたいな演奏を聴くことができます。

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 ジャズのアドリブは、感性におもむくままに自由に演奏しているように思えてしまいますが、そこにはきちんとしたルールがあります。そのルールの元になったのは、コード進行です。あるコードに対して、使える音はこれこれこうで、その音は、これこれこう展開できる、というような理論があり、その理論に基づいて、自分なりのアドリブをつくっていきます。

 ルールがあるから、ジャズは広がり発展していきました。ルールがあるということは、模倣できるということです。模倣できるからこそ、ジャズという音楽は広まり、より高度なルールの応用によって、ジャズは、これまで以上に多様で豊かな音楽になっていきました。

 ルール、つまり、音楽理論に基づいて演奏されるということは、基本的には、そのルールを深く詳しく知り、応用できることが重要になっていきます。高度で複雑なアドリブを演奏するためには、その元になっているコード進行を複雑にすることが必要になります。コード進行は分解され、より複雑で緻密なものになっていきます。

 ジャズを発展させたのはルールでした。

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 でも、高度化し複雑化するジャズという音楽は、未来永劫発展しつづけるのかというと、そうではありませんでした。これは、歴史を俯瞰する立場にいるから言えることなのかもしれませんが、何事にも限度というものがあるように思います。これ以上複雑にしても意味がないという領域があり、その領域にたどり着いたとき、アドリブはマンネリ化していきます。

 ルールをよく知り、そのルールを応用する技術を持つ者であれば、誰でもある程度のアドリブができてしまうという状況が生まれました。それでもアドリブにも個性はあるだろうし、その圧倒的な個性、つまり、属人的な感性を楽しむものとして古典芸能化していく道もあったのでしょうが、それでも、あるルールができて、それをみんながこぞって発展させていった、あの渦中の熱はもうそこにはなくなってしまいました。

 どれだけ新しい試みをしても、ルールに基づく限りは、すべてがクリシェになってしまう。その状況は、演奏家たちにとって地獄のような状況だっただろうと思います。

 ジャズの発展を止めたのもルールでした。

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 このどん詰まりの状況を打開したいと思う人たちがいました。マイルス・デイビスやビル・エバンス、ジョン・コルトレーンなどです。ギル・エバンス、ジョージ・ラッセルなどが先行して構築しつつあった音楽理論を手がかりに、新しいジャズをつくっていきます。モードジャズの誕生です。

 モードジャズを簡単に言うと、コード進行からの開放です。つまり、コード進行に基づいたルールに縛られて不自由になるのなら、コードをなくせばいいじゃないか、という考え方。コード進行をどうしようもなく想起させてしまうドレミファソラシという旋律(モード)ではなく、あえて不安定なレミファソラシドというモードを選び、そのモードの中でアドリブを展開するというものです。不安定であるがゆえに、コード進行に依存しないで済むんですね。

 ハードバップの後期、もうこれ以上はないと思えたアドリブは、モードジャズの誕生によって蘇りました。それどころか、ハードバップの流れにあるジャズマンたちのアドリブにも変化があったのです。所謂モード的解釈というやつです。ビル・エバンスは、モードジャズがもたらした自由に突き進んでいったコルトレーンとは違って、西洋音楽をベースとした和声理論のモード的解釈に生涯を費やしたと言ってもいいのではないかと思います。

 ルールによってジャズは発展しました。そして、そのルールの高度化により、ジャズは行き詰まりそうになりました。その行き詰まりを打開したのは、新しいルールではなく、モードという新しい発想でした。つまり、ルールが依拠しているモードから、まったく違うモードに軸足を移すというやり方だったのですね。

 ジャズの行き詰まりを打開したのは、新しいルールでもなく、ルールの書き換えでもなく、モードという考え方の転換でした。

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 私は、なんとなく、1960年代のモードジャズへの転換というのは、あらゆる分野において、結構重要なものを示唆しているのではないかな、と思うんですね。ルールがあるからこそ、ものごとは発展します。けれども、そのルールが、やがてそのものごとをがんじがらめにしてしまいます。

 そのとき、新しいルールをつくるのではなく、ルールを書き換えるのでもなく、そのルールが成り立っている場所そのものに考えを巡らせる。そんな、モードジャズのような発想が、今、いろんな行き詰まりに必要なことのように思います。

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 ちょっと蛇足ですが、私がビル・エバンスという音楽家が好きなのは、モードジャズの中心的な存在にもかかわらず、モードジャズという形式にさえこだわりがなかったところなんですね。コード進行主体のオーソドックスなジャズを、モード解釈によって新しくするというエバンスの仕事が私は好きです。

 エバンスは、あえて言えば、モードにさえこだわりがなく、複数のモードを生きていた音楽家のような気がします。彼は、マイルスやコルトレーンと違って、しなやかでもないし、不器用そのもののような人物ではありますが、その音楽は、新しいムーブメントをあえてつくらなかったという意味において、自由にあふれているような気がするのです。死ぬ間際に、酒とバラの日々をうれしそうに弾いていたエバンスが、私は好き。

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 ジャズをあまり聴いたことがない人には、わかりにくい文章になってしまったかもしれませんが、ルールの高度化がもたらしたハードバップの代表曲は、こんな感じです。これはこれでいいものですよね。昔は苦手でしたが、今聴くと、すごくいいです。

 モードジャズの代表曲は、あえてマイルスではなく、コルトレーンで。モードという発想がもたらした自由をこれほど表現しているミュージシャンは他にいないと思うから。

 最後に、ビル・エバンスの酒バラ。私は、後期のエバンスは、インタープレイという意味では、本当は後退していると思うところがあるのですが、そんな批評とは関係なしにいいです。題名どおり、この演奏は、エバンスの人生そのものだと思います。

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2009年11月19日 (木)

むちゃくちゃな音

 自分で楽器をやっている人なら、JOJOさんのこの言葉が痛いほどわかると思うんですよね。私も楽器をやっていたことがあるから、ほんといやになるくらいわかります。ああ、ぼくには無理です、みたいなわかり方なのが、しょんぼりなんですけどね。

もう一度言うが、チューニングしないと、むちゃくちゃな音は出ないのだ。
音楽から遠ざかろうとすると音楽的になってしまうので、むしろ音楽のコアに近づくことによって非音楽的になろうとするのである。
JOJO広重 BLOG:ノイズギターのこと

 ジャズなんかでも、形式から自由になりたいと頭で思っていても、それだけではなかなか自由にはなれなくて、自由に弾けなんて言われると、どうしようもなくある種の凡庸なパターンの繰り返しに陥ってしまって、メソッドにがんじがらめになって弾いているときよりもつまらない演奏になってしまうんですよね。フリージャズとかはまさに非音楽の運動だと思うし、その無意識のパターンとのたたかいだと思うし。

 この言葉、音楽という言葉を様々な言葉に置き換えるとさらによくわかると思います。広告とか、デザインとか。この続きを書こうと思ったけれど、なんとなく凡庸になりそうなので、とりあえずもう少しいろいろ考えてみることにします。

 では、今日も一日がんばりましょう。東京はちょっと曇りがちです。

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2009年10月28日 (水)

人間の感覚は逆説的に働くのかもしれない

 学生の頃、ほんの少しだけ音楽をかじっていただけなので、そのあたりの曖昧さは許していただきたいとは思うのだけれど、和音について、少し思うところを書いてみたいと思います。音楽にあまり詳しくない方でもわかるように書いていますので、しばしおつきあいを。

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 12の音階を持つ西洋音楽の考え方ですが、和音は、1度、3度、5度の組み合わせである三和音(3つの音が重なる和音)が基本ですよね。この三和音は、4つしかありません。長三和音、短三和音、減三和音、増三和音。この4つ。ギターをやっている人は、コードネームで書く方がわかりやすいですよね。Cをルート音として書くと、C、Cm、Cdim、Caug。メジャー、マイナー、ディミニッシュ、オーギュメント。この4つです。それ以外の組み合わせでは、和音にはなりません。

 そこにルート音から7度の音を合わせたのが四和音。C7とか、Cm7とか、Cmaj7とか。厳密には6度の音、また、7度の四和音にさらに9度の音を組み合わせたり、13度の音を組み合わせる、といったものがありますが、そのあたりは、もはやよくわからない領域なので、割愛します。

 で、例えば、C(ドミソ)とCmaj7(ドミソシ)の音を比べると、Cはただ単に明るい響きで、Cmaj7は明るい響きに加えて、透明感みたいなものが加わります。ぐっと響きに広がりが出るんですよね。ボサノバなんかでは、Cmaj7とか、それに9度の音を加えたCmaj9が基本ですよね。あのボサノバな感じが、Cmaj7の感じです。あの透明感。

 これ、不思議だと思いませんか。ドミソのきれいな三和音にシを加えると透明感が出るんですよね。おかしいと思いませんか。だって、ドとシの組み合わせなんですよ。ピアノの鍵盤を思い出してください。隣あわせの音なんです。ピアノでこの2つの音を同時に弾くと、ビーンという不快な音がするはずです。

 なぜ本来この不快なはずの音を組み合わせることで、本来は透明感があるはずのCという三和音にはない透明感が出せるのか、というのが不思議なんです。もしかすると、このあたりの話は、音楽を本格的に勉強した方だと、それはね、これこれでね、という感じで解決済みの話なのかもしれませんが、このあたりの人間の感覚っていうのは、ほんとなんだろうな、と思うんですよね。

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 エレキギターをやっている方だとわかるかと思いますが、ギターをアンプにつないだだけの音って、すごく生な感じがします。音がソリッド、というのでしょうか。わかりやすく言うと、非常に固い音がします。そこで、いわゆるエフェクターという、音の波を加工できる装置をあいだにかまします。

 例えば、コーラス。これは、同じ波形の音を時間的にわずかにずらす装置です。つまり、ギターの弦をはじくと、最初の音、わずかにずれた時間に最初の音と同じ波形の音を鳴らすという仕組み。そのかけ方にもよりますが、コーラスをかけると音に広がりが出て、これも語弊があるかもしれませんが、上記の透明感と同じような感覚の音をつくることができます。

 ディレイというエフェクター。詳しいことはよくわかりませんが、最初の音と少し遅れた音を鳴らす仕組みです。これは、深くかけると音につやがでます。パットメセニーのギターの音なんかが代表的ですよね。

 これも不思議だと思いませんか。だって、どちらも音を重ねているわけです。しかも時間的に差をつけて。理屈で言えば、重ねるわけだから、元の音より濁ったりしそうな感じなのですが、広がりや透明感、つやがあるように感じるんです。

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 松田聖子さん。デビューの頃は若々しく伸びやかな声でした。で人気が出て、スターになって、喉を酷使して、ハスキーになるんですよね。「赤いスイトピー」くらいからだったような気がします。そうなると、理屈では歪みであるわけだから、広がりや透明感が損なわれるはずなんです。

 でも、感覚で言えば逆なんです。より広がりや透明感が増したように感じるんです。少しハスキーになったことで、より魅力的な歌声になりました。これはどういうことなんでしょうね。歪みを手にしたことで、逆に広がりや透明感を表現することができるようになった。専門的には倍音ということになるのでしょうけど。

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 そもそも、サックスにしても、トランペットにしても、空気をリード、唇といった障害物で歪ませた空気によってできた音を金属管で増幅させることで音を出しています。それは、弦楽器にしても、打楽器にしても同じなのかもしれません。つまり、音自体がそもそもそういうものだから、とも言えるのかも。

 三味線ってあるじゃないですか。倍音を増やすために、わざと棹に弦が触れるようにしているそうです。「さわり」と呼ぶみたいですね。これによって、あの三味線独特の空間に響き渡る独特の音色と伸びのある音ができるんですね。

 インドにシタールという楽器がありますね。ミヤーンと粘っこく伸びる音が特徴的です。ロックやポピュラーにもよく使われます。あれも弦をわざとビビらせることであの音が出るんですね。エレクトリックシタールという楽器があって、ビートルズも使っていましたし、パットメセニーも使っていました。なので、学生の頃、その音を出したくて、工夫をしたヤツがいて、その方法は、ブリッジにわざと金属片をかましてビビらせるというやり方でした。今は、シターライザーという替えブリッジがあるそうです。

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 なんとなく思うのは、人間の感覚って現象に対して逆説的に働くのではないのかな、ということですね。Cmaj7のドとシなんかの例が象徴的なんですが、そうした矛盾みたいなものが中にあることによって、はじめて広がりとか透明感とかが感じられる、というか。

 社会とか街とかでも同じで、計画的につくられた建築物や都市空間の中にいると、それは人間が快適に過ごすためにつくられたものにもかかわらず、少し息苦しく感じてしまいます。路地があり、わけのわからない空き地があって、少しいかがわしい地区もあり、そんな雑多な街のほうが、私は居心地がよく感じます。よくわかっているわけではないですけれど、それは、人の心なんかでも、きっと同じなのかもしれないなあ、なんて思っています。

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2009年10月18日 (日)

ジャズは路上がよく似合う

 最近、駅のまわりでジャズの路上ライブをよく見かけます。これ、なかなかいいんですよね。若者も、大人も、お年寄りも、それなりに楽しめるので、人がたくさん集まっています。編成は、そのときどき。バスドラとスネア、ハイハットだけの簡単なドラムセット、ウッドベース、ギターのトリオの時もあるし、そこにサックス、フェンダーローズのエレピが加わることもあります。

 うちの近くの駅では、どうやら2つのグループがあるようで、ひとつは、ルパン三世のテーマソングや、ハービーハンコック、チックコリアなんかのエレクトリックバンドのナンバーを中心に演奏するグループ。どっちかというとクロスオーバーというか、フュージョンというか。ルパンなんかは、みんなが知っている曲なので、それなりに人が集まるようです。

 もうひとつのグループは、オーソドックスなバップ。ステラやアナザーユーなんかを演ります。こういうスタンダードの曲は、一度は耳にしたことのあるメロディなので、わりと年輩の方が、懐かしいなあ、という表情で聴き入っているようです。中には、少し酔った中年の男性が、「あの曲できる?」とリクエストしたりもしています。

 このあいだ見たのは、もしかすると、そのどちらかのグループのギタリストの人かもしれませんが、スタンダード曲のギターソロと女性のタップダンサーのコンビ。ジャジーなギターソロにあわせて、わりと激しいタップダンスをするんですよね。これはすごく目立ちます。間近で見ると、やっぱり迫力が違うんですよね。

 まずいいなあと思うのは、みんなが知っている曲をやるところ。

 ディスニー映画の名曲とか、今、あらためて聴くと、美しいなあと思うんですよね。そこから立ち去っても、しばらくはスタンダードの美しいメロディが頭に浮かんで、ちょっとだけ機嫌がよくなったりね。なんというか、幸せな気分になれるんです。

 ジャズっていう音楽は、私は解釈の音楽だと思っていて、だからこそ、みんなが知っているスタンダード曲が使われるんですね。もちろん、オリジナル曲にもたくさん名曲がありますが、それでもジャズの場合は、その曲がいつか誰かに演奏されることを目指している感じがします。つまり、言い方にもしかすると語弊があるかもしれませんが、オープンソースを指向し、シェアされることを前提としている、ということかな。

 道行くみんなに聴いてもらうような、街の一部としてあろうとする路上ライブは、そんなジャズという音楽と相性がいいような気がします。もちろん、私の心の叫びを聴いてください、というような個性を積極的に打ち出したフォークやロックもいいけれど、それより、みなさん楽しんでいってください、というようなジャズは、思いのほか路上ライブというフォーマットにはぴったりなのでしょうね。

 ジャズというと、どうしても難しい音楽のように思われがちです。実際、難しいしね。聴き込むと欲が出るから、演り手も聴き手も次第に高度化してしまって、こんどは新参者を寄せ付けないようになります。商業音楽としてのジャズ市場は、きっと、マニアとニューカマーのバランスを失ってしまったのかもしれません。

 ジャズも、その元になっているブルースも、もともと路上の音楽だったんですよね。そこらに置き去りになっていた調律の狂ったピアノや、穴のあいたギターを使って演奏していたんです。イギリスからアメリカに渡った西洋音階と、もともと黒人が持っていたアフリカ音階をうまい具合にあわせて、つまり現実にあわせて妥協してできたのがブルーノートスケールだし、案外、ジャズという音楽のルーツには、強烈な個性とか、自己表現とかは希薄だったのかもしれません。

 そういうジャズに、私はすごく魅かれます。そこには、なんというか、ちょっとビジネスブログっぽい言葉使いではありますが、ソリューションというものが息づいている気がするんです。それは、もしかすると社会性と言ってもいいのかもしれません。だから、路上とよく似合うのかもしれませんね。

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2009年10月 3日 (土)

2年以上前に書いたエントリなんですけどね

 このブログには、そこそこの数の人が毎日訪れてくれる、息の長いエントリがひとつだけあるんですよね。2年以上前のエントリなんですけど。大手ニュースサイトに取り上げられたわけでもなく、はてブのホットエントリになったわけでもなく、書いた時はあまり反響がなかったんですけどね。たぶん、私のブログの全エントリの中で、最もPVが多いエントリなのではないでしょうか。ココログは、過去4ヶ月の累計しかわからないんですけどね。(ちなみに、過去4ヶ月のエントリ別アクセス数ベスト10は、サイドバーの一番下にあります。)

 今でもときどきコメントをいただきますし、詳しい人からいろいろ教えていただいたりもしました。もともとは、ジブリの「耳をすませば」の主題歌である「カントリーロード」の歌詞が気になって、原曲の「TAKE ME HOME, COUNTRY ROADS」の英語の歌詞を調べたのがきっかけでした。

 ネットを調べれば、きちんとした日本語訳が出てくるかな、と思って調べてみても、その時点では、直訳っぽいものはなかったんですね。で、辞書を片手に自力で訳してみるか、という感じです。まだ、この歌詞には少しわからないところがあるのですが、いろいろ結論も出て来ていることだし、もう一度まとめ直してみようなか、なんて思っています。

 それにしても不思議なものですね。時間単位、日単位で見ると、当然、広告についてのエントリのPVが多いのです。まあ、それは当然と言えば当然なんです。曲がりなりにも専門家だから、オープンなネットの中では、様々な事象についてのタイムリーな専門家の見解を述べるという役割を担っているとのもあるだろうし、何より、私自身の考えのまとめにもなるから書いているのだけれど、でも、年単位で見ると、こういう広告や自分の大きな関心領域以外のエントリが多く読まれるというのは、なんだか、自分の想定の範囲を超えてて、とっても面白いなあ、と思います。

 そう言えば、このブログを始めたときに、本当に書きたかったビル・エバンスについて、このところ書いていないですね。でも、飽きたとか、興味がなくなったとか、そういう感じでもなく、私のエバンス論のテーマであるところの「永遠の三角形」というのは、思ったよりも難問だと思い出してきたから。自分の手に負えるかな、という気もしないでもなく、もう少しいろいろ考えて、またあらためて書いていけたらな、と思っています。

 こちらのほうは、テーマが生煮えだったりもして、今ではあまり読まれていないようです。マスという視点で見れば、今どき、ビル・エバンスではしんどいのもあるのでしょうね。でもね、だからこそ、商業ベースのもろもろを考えなくてもいいブログで書かれるべきテーマなんでしょうね。がんばらないとね。

 では、みなさま、引き続きよい休日を。

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2009年8月10日 (月)

Perfume、トライアングル、直角二等辺三角形

 トリオという形式が気になります。ちょっと執着を持っていたりもします。だから、キャンディーズも気になるし、今をときめくPerfumeも気になります。

 ジャズピアニストに、ビル・エバンスという人がいます。彼がジャズシーンにデビューした頃は、ハードバップ全盛。例えばピアノトリオでは、パド・パウエル・トリオ。超絶的な技能と音楽性を持つ天才ピアニストであるバドが頂点に君臨し、バックのリズム隊(ベース、ドラム)が支えるという構造。二等辺三角形ですね。

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 ビル・エバンスというピアニストは、この二等辺三角形を壊しました。

 インタープレイ。ピアノ、ベース、ドラムが対等。ドラムがリズムを刻み、ベースが和音のルート音をなぞらなくても、3者が対等であるならば、ポン、と音が出た瞬間に、和音やリズムなど、音楽を構成するものすべてが共有されているはずで、その音楽空間の中で必要な音はその瞬間に決定されている、という考え方です。

 だから、ドラムはズーチャカと共有されているリズムをなぞる必要もなく、ベースもルート音はじまりのランニングでその和音をなぞる必要はないじゃないか、ということ。この感覚は、バンドをやっている人はわかると思います。エバンスという人は、頂点のない正三角形を目指しました。

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 さて、Perfume。このグループにはリーダーがいないようです。私は、あ〜ちゃんがリーダーかな、と思ったりもしていますが、どうもそうでもないようです。なんとなく、私は、エバンスと同じ、頂点のない正三角形をイメージしていました。

 キャンディーズの場合は、ある時期からランちゃん(伊藤蘭さん)でした。グループをわかりやすくキャッチーなキャラクターにするために、意識的にそうしたのだと思います。つまり、二等辺三角形。強度は違えど、構造はバドと同じです。しかし、Perfumeは正三角形。そこが、このグループの新しさだと密かに思っていたのでした。

 Perfumeのニューアルバムは、「⊿」ですよね。

 正三角形を意識しているのかと思っていたら、ちょっと違う。読み方は「トライアングル」だそうです。なるほど。まあ、三角形モチーフなら、デザイン性優先か、と思っていたら、全国ツアーの名称が「直角二等辺三角形」と来ました。さあ、どうしましょ。

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 調べてないからわかりませんが、公式に意味は発表されていないんでしょうね。直角二等辺三角形というのは「白銀比」をもとに作ることができる、二辺が同じ長さの直角三角形ですね。

 リンク先のブログを書かれている方は、この「白銀比」に着目され「日本人にとって,なじみのある比率であり,今でも日本人は白銀比を美とする。」と考察されています。ほんとはどんな意味があるんだろう。教えてほしいような、教えてもらいたくないような、なんとも微妙な感じがPerfumeらしくていいですね。

 今回は、結論がなくって、すみません。ではでは。

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2009年7月18日 (土)

「だから無理」ではなくてさ ージャズという音楽の精神ー

 アフリカ系アメリカ人たちの音楽感覚とヨーロッパの伝統的な音楽理論が融合してジャズという音楽が生まれた、というのはジャズを語る時の現代に生きるぼくらの常套句だったりします。でも、そんな言葉からイメージできる、なんか偉い音楽家が、机の上でアフリカ的な音楽理論と西洋音楽理論をこねくり回して、「おっ、これは新しい、これをジャズと名付けよう」みたいなことでは当然ありません。

 アフリカから連れてこられたアフリカ人たちの体に染み込んだ音楽感覚は、もともとイギリス人だったりしたヨーロッパ系アメリカ人とは当然違っています。日本人だってそうですよね。日本の音階は「よな抜き(ハ長調だとファとシがない5音階)」だし。だから、鼻歌なんかも当然違うわけです。そんな鼻歌を歌う彼らのまわりにピアノとかギターのような西洋音楽をルーツとする楽器が転がっていて、で、転がっていて、それしかなければ、当然彼らは使うわけで、その西洋音楽を奏でるために作られた楽器でなんとか自分たちの音楽感覚を表現しようとしてできたのがジャズなんだろうと思います。

 最初は、ジャズなんて名前は付いていなくて、彼らはただ自分たちの音楽を、それを表現するにはちょっと不出来な楽器を使って楽しんでいにすぎないわけで、けれども、その不出来な楽器は、西洋音楽を表現するには完璧な楽器だったりして、自分たちの音楽感覚に西洋的なものをどんどん取り入れていったりしたんだろうな、と思うんですね。やってみると、どんどん新しい音楽が生まれてくるぜ、というような感じで。当然、彼らにとってみれば、自分たちの奏でる音楽は、彼らの音楽感覚にとっては邪道だったりもしたのでしょうが、それよりも、今、新しい音楽がどんどん生まれてくるということのほうが刺激的だったんだろうな、と想像します。

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 彼らのまわりに、彼らにとってはなんとも不完全な楽器がそこになければ、彼らの体に染み付いている音階は「ブルーノート」とは名付けられなかっただろうし、その音階の理論化から生まれた現代のジャズの音楽理論は生まれなかったはずで、そのジャズの音楽理論なしに現代音楽というものは事実上考えられないわけで、ジャズの歴史っていうのはたかだか100年そこそこに過ぎないのだけれど、彼らには感謝しても感謝しきれないものがあるなあ、と思います。

 ちなみに、彼らがネイティブで持っていた音階は、西洋音階では割り切れないものでした。その曖昧な部分を切り捨てて、西洋伝統の楽器が奏でる音階に翻訳されて、無理矢理あてはめていったのが「ブルーノート」であり、ジャズです。日本の今の演歌だって、日本古来の音階を西洋音楽にあてはめた結果。西洋のクラシック音楽にしても、ピアノという楽器の出現により、調律的には割り切りがあると言います。

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 不完全なものだけど、その不完全さを逆手にとって新しいものを生み出していくという方法論は、その後のジャズの進化を性格付けていきます。ニューオリンズで生まれたジャズは、弦楽器とピアノによるリズムと管楽器のメロディという編成のデキシーランドジャズという形式を生み出し、やがて、商業的に発展し、どんどん編成が大きくなり、ビッグバンドが主流になります。いわゆるスィングジャズです。練り込まれたアレンジで、音楽的に成熟していくのですが、そんななか、その成熟したスウィングジャズの音楽性に負けない音楽性を、小さな箱でも実現したいと願う若い音楽家によって、ビバップが生まれます。

 チャーリー・パーカーは、小さな編成でスウィングジャズに負けない音楽性を実現するために、二つの要素を新しく加えました。それは、速度と即興。大きな箱も使えない、大きな編成もできない。だから無理、じゃなくて、だったら速度と即興で勝負する。そんなスピリットが、とってもジャズだなあと思います。

 速度と即興で、お金のかかったビッグバンドによるスィングジャズに勝負を挑んだビバップでしたが、そこでもまた、パーカーに負けてたまるか、という若者がでてくるんですよね。天才的な演奏力を持つパーカーやバドがやったことは、スウィングジャズで生まれた正統的なジャズメソッドに則って、それを早く演奏する、もしくは、自在に演奏するというものでしたが、その彼らが作った、超人的技法で勝負するという道筋には俺は乗らねえよ、という感じで、マイルスは「クールの誕生」とか言って、テンションを低くして極端に音数を減らしたり、旋律自体を変えてしまうモードジャズや、アンサンブルの規則性を無効化したフリージャズなんかが出てくるんですよね。その後は、ボサノバやらエレクトリックやら、なんやらかんやら。

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 ジャズがいいなと思うところは、「だから無理」っていう発想がないところかな。アフリカ系アメリカ人が、自分たちの体に染み込んだ音楽を表現したいけど、そこにあるのは不完全な楽器。だから無理、じゃなくて、それでやってみる、できなかったら、違う手を考えてみる、を選択する人たちの文化。それが、ジャズって言うこともできるんじゃいかな、なんて思います。

 ■関連エントリ

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2009年6月30日 (火)

モダンジャズと落語

 少し似てますね。どちらも元のネタがあって、それを演者がどう演じるかを楽しむ芸術というか、そんなところ。私は、大学時代はジャズ研でしたが、ジャズ研の人は落語ファンが多かったようでした。

 モダンジャズで言えば「枯葉」とか「星影のステラ」のようなスタンダード曲が、落語では「寿限無」や「時そば」「時うどん」のような“はなし”に当たりますよね。私は、落語はあまり詳しくないですが、モダンジャズに関して言えば、たとえば、マイルス・デイビス、ビル・エバンス、キース・ジャレット、それぞれが演じる「枯葉」は、まったく別の曲のような感じです。同じ曲なのにここまで違うか、というくらい違います。

 モダンジャズでもオリジナル曲は当然ありますが、そのオリジナル曲も、ヒットすれば、当然、別のジャズマンが演奏したりして、モダンジャズという分野は、それが当然であるという文化を持っていたりします。

 ちょっと話が横道にそれますし、ジャズに詳しい人でないとわからない話かもしれませんが、ビル・エバンスと同時期に、同じような知的なスタイルを持つジャズピアニストがデビューしました。ドン・フリードマンという人です。サークル・ワルツという曲が少し有名ですが、フリードマンはエバンスほど有名にはなりませんでした。

 フリードマンは、より知的で繊細で(エバンスは、ああ見えて、けっこう粗野なところもあります)、まったく別の個性なのですが、ことあるごとにエバンスと比較されました。あれ、本人にとっては迷惑だっただろうな、と思うんですよね。エバンス派とか言われてましたし。同時期なのにね。

 エバンスのファンが多い日本では、フリードマンも人気で、今もちょくちょく来日されています。少し前置きが長かったですが、ここからが本題。少し前に、アルバムが出たんですね。フリードマンのリーダーアルバム。その中の演目に、「ワルツ・フォー・デビー」とあるわけです。エバンス作曲の名曲です。えっ、なんでこの曲をフリードマンが?そんなふうに思ったわけです。で、ジャケットを見ると、日本人プロデューサー。なんだかなあ、と思いました。

 ジャズの世界では、日本企画盤というのがある種の蔑称になっている部分もあって、要は、売らんかなの企画が多いわけです。モダンジャズカルテットじゃない方のMJQとかね。そりゃ、ファンは、エバンス派と言われるフリードマンが、あのエバンスの「ワルツ・フォー・デビー」を演奏するとどうなるんだろう、みたいな下衆な思いはありますけど、それは本人の必然がなければやっちゃいけないのじゃないなか、と思うんですけどね。フリードマンは、日本が好きな人ですから、日本のファンが望むなら、ということろなんでしょうが、なんとなく、そういうケタグリではなくて、もっと本人の本質の部分でフリードマンの良さを広告してあげればいいのに、と思いました。ほんと、なんだかなあ。

 まあ、あまり気持ちのいい例ではなかったですが、ジャズファンも、あの曲をこの人が演奏したらどうなるんだろう的な楽しみ方をしている部分があるんですね。モダンジャズは。それはロックとかにはあまりない感覚ですよね。最近はカバーもありますが、ロックは、どちらかというとオリジナル指向の分野ですね。

 モダンジャズにおけるオリジナル曲は、落語でいえば新作落語になりますが、こちらはまだまだ別の演者がというわけにはいかないようですが、桂三枝さんなんかの新作落語は、そろそろ古典化していて、別の若手落語家さんが演じても、それはそれでおもしろいかな、なんてことも思います。

 モダンジャズを聞くようになってよかったこと。それは、1950年代の珠玉のスタンダード曲をたくさん知ることができたことですね。この一点だけでも、モダンジャズを聴き始めることをおすすめします。きっと、人生が少し豊かになりますから。そういうところも、モダンジャズと落語はきっと似ていますね。

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 もし、スタンダード曲を知るという観点で1枚選ぶなら、きっとチェット・ベイカーのこのアルバムになるんでしょうね。なにより聴きやすいし、元曲をあまり崩していないから、ジャズにありがちな、何の曲かわからなかった、みたいなことがありません。マイファニーバレンタインとアナザーユー(There Will Never Be Another You)が素敵。トランペットのソロも、普通の人でも歌えるような美しい旋律です。ジャズは難しい、という人は、このアルバムから入るといいかもです。(追記:左はインポート盤で、右はEMIジャパン盤。内容は同じです。右のリンク先では試聴ができます。)

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2009年5月27日 (水)

歌を歌おう。

 ずいぶん前に書いた広告コピーをふと思い出しました。得意先は覚えていますが、まあ、なんとなく書かないでおきます。コピーとしては、今あらためて見ると、あまりものが売れるとも思わないし、今風でもないし、ブランディングというにはちょっとぼんやりしすぎていて、結局、このコピーは売れずにいて、私の心の中のアーカイブに入ったままになっていました。

 歌を歌おう。踊りを踊ろう。

 どうしてこんなコピーを書いたかというと、歌というのは、動詞では「歌う」で、名詞は「歌」で、踊りも動詞は「踊る」で名詞は「踊り」なんですよね。つまり、同じ。文章を書く。言葉を話す。そんなこととは、やはり「歌うこと」や「踊ること」は何か根本的に違うんでしょうね。もっともっと、人間のプリミティブな部分にかかわる行為というか。なんとなく、それが面白かったから。

 忌野清志郎さんの「デイドリームビリーバー」を歌うshinabonsさんにとって、きっと歌は生きることなんだろうな、と歌う姿をPCのモニターでぼんやり見ながら思いました。いい声ですよね。すごく体温が低い、涼しげな歌声なんですが、聴いていると、歌が好きで好きでたまらないという熱い思いが伝わってきます。

 YouTubeの画面をダブルクリックで、YouTubeのページに飛びます。清志郎さんが唯一しゃべったことがあるミュージシャンだそうです。上のリンクをクリックすると、他の歌もたくさん聴くことができます。どの歌も、とっても素敵でした。おすすめです。

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2009年5月10日 (日)

MIKIKOさんのダンス

 NHKの「パフォー!」という投稿ビデオを通していろいろチャレンジするといった趣向の若者向け番組を見ていたら、振り付け師のMIKIKOさんが出演されていました。Perfumeの振り付けをされている方です。女性4人組ダンスユニットとのコラボということで、MIKIKOさんがアドバイスをして最後に実演するという企画。それがすごくおもしろかったです。

 まずはユニットが踊るんですね。見ていると、それはそれで迫力があって見事なものでした。で、そのダンスを見ていたMIKIKOさんがアドバイス。何と言っていたかは覚えていないのですが、趣旨としては音取りが凡庸みたいなことですね。裏拍とかもっと意識して、というようなアドバイスがありました。ちなみに、裏拍とは、例えばひとつのビートを「ダン」というカタカナで表現すると、「ン」がビートの表拍(アップビート)で、「ダ」(体感的に分かりやすく書くと「ン」)が裏拍(ダウンビート)。

 普通、カラオケなんかでも手拍子は、こう取りますよね。

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 それを裏で取ると、こうなります。

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 ま、ブログではちょっとわかりにくいですが、今度、カラオケでやってみてください。わりと気持ちいいから。MIKIKOさんが言っている裏拍を意識というのは、ジャズやレゲエみたいに後乗りをしろ、みたいなことではなく、音楽のビートに身をまかせるのではなく、裏拍も含めて意識したその広いビート空間の中で、ダンスで独自のリズムを自由に構成しろ、ということですね。それを番組では「個性的な音取り」と言っていました。

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 という8つのビートがあったとして、

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 という取り方をしたらおもしろいじゃない、というようなことです。で、コーナーの最後にダンスユニットの新しいダンスが披露されたのですが、素人目にも、こうも斬新になるもんなんだといった感じで、なんかゾクゾクする感じというか、ほんと見事なもんだなと思いました。

 こういうアプローチは、Perfumeのダンスにも多用されていますよね。そういう視点で、Perfumeのダンスを見たら、もっともっとおもしろくなりますよ。何度も見てきたファンの方でも、うわっ、すごい、このかわいさってそういう秘密があったのか、ってなると思います。

 こういうのって、すごくおもしろいですよね。その道のプロの人の話はおもしろいです。私はダンスなんてまったく縁がなかったのですが、去年、CMでダンスものを作ろうと思って、自分なりに勉強をして、なるほどなあ、ダンス奥深いよなあ、となって、ダンスが好きになりました。といっても、見るのが、ですけどね。

 番組は40分で、その中のワンコーナーだったんですが、このあたりをもっと掘って掘って掘りまくってほしかったです。すごくおもしろくなると思うし、まだまだMIKIKOさんのダンスのヒミツがいっぱいあると思うんですけどね。でも、こういうのを掘ると、視聴率的にはどうなんでしょう。そのへんは、番組づくりのプロじゃないからわかりませんが。

 MIKIKOさんは、CMの世界でも活躍されています。市川準さん演出のセキスイハイムとか。そのあたりの思い出について日記に書かれています。すごく素敵な文章なのでご紹介。

背中と教訓 — Choreo-Director MIKIKO Official Website(2008年9月21日分・リンク先トップの日記です)

 私がCMでご一緒したのは、南流石さんでしたが、MIKIKOさんのダンスはまた違った個性がありますね。南さんも、リズムの取り方は自由自在ですが、もっとプリミティブ。生な感じがします。それに対して、MIKIKOさんはちょっと知的かも。ピアニストに例えるのは適切ではないかもしれませんが、南さんがキース・ジャレットだとすると、MIKIKOさんはチック・コリアみたいな感じ。ジャズファンの人だと、なんとなくわかってもらえるのではないでしょうか。

 関連エントリ:振り付け考(あるいは南流石論) ※2008年1月1日のエントリということもあり、前半は紅白歌合戦関連の長い枕話がありますので、お忙しい人は後半部分からお読みくださいませ。

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