カテゴリー「回想」の6件の記事

2008年6月29日 (日)

高円寺にあった大きな病院のこと 2

 ある日、いつもどおり夕方に当直に入ると、会議室で、医師や、看護士さん、医療スタッフ、医療事務のスタッフが集まって長い会議をやっていました。終わったのは、夜の9時頃。会議室から出て来た女性の看護士が目を真っ赤にして出てきました。若い男性スタッフは、憤っているようでした。

 「患者さんに、どう説明するんだよ。だいたい、勝手すぎるんだよ。」

 その出来事からしばらくして、年配の医療事務長さんが、この病院が閉鎖されることを教えてくれました。不動産投資の失敗が原因だったそうです。そして、入院患者さんや来院の方にはまだ言っては駄目だからね、と言われました。実際、近所の人たちが、入院患者さんが、噂を聞きつけて、いちばん口が軽そうな当直のバイトに尋ねてくるケースも多く、いいえ、そんな話は聞いてないですね、と話さなければならないことが辛かったことを覚えています。

 転院できる患者さんは、次から次へと転院していきました。看護士さんや、医療スタッフさんも、次の就職先ができた人から順番に辞めていきました。医療事務も、基本的には決まった人から次の病院に移りなさい、という医療事務長さんの方針があったので、極端な人手不足に陥りました。事務長さんは、九州出身の女性で、非常に強い正義感を持っている人でした。自分のことはほったらかしで、若い人から順番に再就職先を探しまわっておられるようでした。

 そんな中、ある若い女性事務員さんが涙を流しながら、事務長さんに言いました。

 「私、最後までこの病院で働きたいです。最後までついていきたいんです。」

 事務長さんは、「甘ったれたこと言ってるんじゃない、そんなのただの感傷でしょ。それともあなた、この状態をあなたが全部解決できるって言うの?」とその若い事務員さんをしかり飛ばしました。言い方がきつかったので、その人は下を向いたまま黙ってしまいました。不器用な人だったんですよね。自ら悪役を買っておられるようでした。

 あの事務長さん、偉かったなあと思います。若い人から順番に再就職をさせて、残った人たちは年配の人ばかりでした。責任の大きい順番に責任をとっていく、という考え方なんでしょうね。簡単なようで、なかなかできることではないと思います。社会に出て、いろいろ現実を見ると、逆なケースばかり目につきますものね。

 事務長さんと残った人たちは、連日連夜残業でした。外来患者さんにはまだ病院の閉鎖が告知されていなかったし、その後、入院施設のない医院として再出発することが決まっていたので、外来の患者さんは減らなかったんですね。近所の人たちには、病院を建て替えるらしいと伝わっていたようでした。


「高円寺にあった大きな病院のこと 3」に続きます。
※土曜日・日曜日を中心に更新していきます。
高円寺にあった大きな病院のこと 1

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2008年6月28日 (土)

高円寺にあった大きな病院のこと 1

 今はつぶれてありません。その病院がなくなったのは、かれこれ20年前かな。北口にあった大きな病院でした。私は、当時大学生。バイトで当直事務員をしていました。内科と整形外科があって、入院病床も50くらいあったんじゃなかったっけ。5階建てで、地域の基幹病院という感じでした。救急指定ではなかったけど、深夜に救急患者を受け入れることもありました。

 私の仕事は、高円寺に夕方の5時頃に行って、医療事務の人たちとその日の引き継ぎをして、当直のお医者さんや看護士さんと打ち合わせをし、鍵を閉めて、見回りをして、ひたすら電話番という感じで、それほどきつい仕事ではありませんでした。就寝までは、本を読んだりしていればよく、就寝も地下に当直用のベットがあって、ダニに苦しめられたけど、それなりに快適。早朝起きて、鍵を開けて、お医者さんと看護士さん、医療事務員さんを迎えて、お疲れさまでした、という1日の流れでした。

 大学の1年の後半からはじめて、病院がなくなる3年生の頃まで、ずっとお世話になりました。当直に来るお医者さんは、大学病院で勤務する若いお医者さんだったりして、年格好も、お兄さんという感じだったし、医療事務の方たちとも仲良くしていただいて、それなりに楽しかったです。わりとのんびりとしたいい感じの病院で、地域の人とも関係が良かったし、夏の阿波踊りの頃は、お手伝いをしたりして。

 こんなこともありました。私が耳の横にできものができて困っていたら、院長が来る前に手術してあげるよ、と病院の若い先生。院長は手術が下手だからね、と小さな声で。で、その若い先生、麻酔を打たずにやると治りが早いけど、どうする、と。治りが早いのは助かるから、その方向でお願いします、なんて言って、ベッドに横になると、看護士さんたちがみんなクスクス笑っていて、なんでだろうと思っていました。

 メスが入ると、痛いのなんのって。そりゃそうですよね。メスで切ってるわけだし、当然。しかも、耳の横は、その音がリアルに聞こえるわけですよ。ギリギリギリギリって。その切り口から綿棒を入れて、膿をかき出すときの音まで生々しく。目からは涙があふれてきて、それを見ていた看護士さんたちは、大笑い。確かに治りは早かったですけどね。


高円寺にあった大きな病院のこと 2」に続きます。
※土曜日・日曜日を中心に更新していきます。

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2007年12月14日 (金)

吉田という男の話。

 その男は、大学時代の同級生で、弁護士を目指していた。同じ関西出身ということもあり、すぐに気があう仲になった。
 吉田は弁護士になり、私は広告屋になった。
 私が再び仕事で東京に出るときに、東京での住まいが決まるまで、当時、司法修習生だった吉田のアパートに一週間ほど居候をさせてもらった。それが、吉田との最後になってしまった。
 あれから、お互い仕事が忙しくなって、連絡もとらなくなった。便りがないのは元気な証拠なんて気取っていた。吉田が亡くなったのを知ったのはネットだった。毎日新聞神戸版のニュースになっていた。
 あのニュースを見てから二年が経って、弁護士時代の吉田を知る弁護士さんのブログを見つけた。吉田を、人間として、弁護士として敬愛し、哀悼する言葉がそこに綴られていた。
 吉田の口癖は、いつも、「がんばっとるか」だった。大学時代、ふさぎこんで六畳一間アパートにしばらく引きこもってると、深夜、なんの連絡もなく、酒と食べ物を持ってアパートに来てくれた。第一声は「がんばっとるか」だった。そんなことを思い出した。
 おう、吉田、がんばっとるよ。そっちはどう。こっちは、いろいろあるけど、それなりに元気にやっとるから、心配すなよ。風の噂じゃ、あれから一生懸命がんばったみたいだから、しばらくゆっくり休めよな。じゃあ、またな。

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2007年10月 6日 (土)

ある写植屋さんのこと。

 今や完全に広告制作はコンピュータ化されています。新聞や雑誌などの平面媒体は、マッキントッシュにインストールされたイラストレーターやフォトショップで、写真もすべてデジタルデータで作業します。テレビCMは、専用のワークステーションで。映像素材はすべてデジタル処理されています。撮影のときはフィルムを使ったりしますが、編集段階ではすべてデジタル化するんですね。

 ほんのちょっと前は、それはすべて手作業だったんですよね。平面媒体だと、ロットリングという金属の管で出来た線が正確に引ける特別なペンや三角定規、コンパス、デバイダーを使って線を引いたりして、文字は写植屋さんに打ってもらって、それをペーパーセメントという糊で貼り付けたりしていました。色もペンで指定を入れるだけ。色チップをつけて。写真は、プリントをして、そのプリント(反射原稿と言います)を、色とか写真の位置とかの指定が書かれた版下と一緒に持っていて、印刷所であわせて、それでやっと広告ができあがるのです。

 そんな感じですから、広告の制作チームには、お世話になっている写植屋さんがいました。写植屋さんは版下屋さんも兼ねていることが多く、我々がラフに書いた版下の元になるスケッチ(指定原稿と言います)を正確な版下にしてくれるんですね。広告の現場は急な直しとかも多く、写植屋さんには深夜早朝かかわらずご迷惑をかけっぱなしでした。私がある百貨店の仕事をしているときにお付き合いしていた写植屋さんは「エニータイム」という名前でした。と言ってもお一人でやられている事務所でしたが。

 エニータイムという名前を名乗るだけあって、我々が困り果てていても、いつも笑顔で対応していただいて、現場にとってはすごく心強い人でした。経験で言えば、現場のスタッフよりずっと長く、いろいろと教わることも多かったのです。

 広告制作の現場が次第にマック化されていって、エニータイムさんに頼る場面も少なくなっていきました。どうしても使いたい写植を打ってもらうだけになったりしました。あるとき、エニータイムさんがお見えになり「廃業することになりました。写植機も売ろうと思うんですよね。でも売れなくてね」とおっしゃいました。その頃、写植屋さんは、どんどんマックに切り替えていったのですが、エニータイムさんは、その道を選ばれませんでした。

 それから半年ぐらいたってから、私の住んでいる街の商店街で、ばったりとエニータイムさんと出会いました。お久しぶりです、どうしてこんなとこに、と私が聞くと、「ええ、ここにいい鍼灸の人がいましてね。この機会に体の悪いとこをなおそうと思いまして」とおっしゃいました。そうですか、じゃあお元気で、みたいなことを言って、それっきりお会いすることもなくなりましたが、もしこの文章をエニータイムさんが読まれたらなあ、と思うのですが。エニータイムさん、お久しぶりです、お元気ですか。

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2007年9月28日 (金)

らも。

 本棚から中島らもさんの本を出して読んでみる。文章が案外若い。生らもさんは春一番コンサートで見た。炎天下、黒いコートを着て、ストラトキャスターにディストーションをかけて、ただただかき鳴らし唸ってた。フラフラしてて、今にも倒れそうだった。午前中なのに泥酔してた。今思えば、酒のせいではなかったのかもしれない。
 大阪の進学校で落ちこぼれた私にとって、らもさんは救いだった。関西の元神童たちは、登下校の電車の中で、三島由紀夫と中島らもを読みふける。京大や阪大の赤本を詰め込んだ学生鞄から、過剰な自意識がこぼれ落ちる。
 らも。らも。らも。なぜらもなのか。無意味な問いを繰り返し、何とかなるやろ、と呟いた。らもさんがエッセイ稼業をやめ自分の物語を書き出したとき、私は何とかなる人生を歩き出し、らもさん頼みを卒業した。

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2007年8月29日 (水)

中央大学モダンジャズ研究会のこと。あるいは、ジャズの愉しみ方。

 今も、白門祭で特設ライブハウス「サテンドール」をやってるのでしょうか。中央大学は、どちらかというとビッグバンドジャズの「スィングクリスタルオーケストラ」の方が有名なんですが、私のいたモダンジャズ研究会はコンボ中心で、他大学に比べると、ハードバップ一辺倒の人が多かった気がします。あと、ニューオリンズとかも。とにかく、モードやフリーさえ邪道だ、という感じがありました。今も、その伝統はあるのかしら。あれから20年経ってるんですよねえ。月日の経つのは早いですね。
 前にも書きましたが、私は新入生の頃、モダンジャズなんて聴いたことがなく、たまたま勧誘されて、なんとなくジャズもいいなかなんて軽い気持ちで入った口で、最初は結構辛かったなあ。カシオペアとかスクエアとかナニワエクスプレスとか、フュージョンと呼ばれるインストルメンタル音楽は聴いていたものの、ビル・エバンスはおろか、ソニー・ロリンズさえ知らなかったんですよね。
 最初はピアノをやろうと頑張ってたんですが、私には無理でした。で、あまりなり手のいなかったベースを始めたんですね。その辺は、ロックでも何でもバンドでよくあるパターンですね。正直、2年くらいは辛いだけでした。どうしてもジャズという音楽に馴染めなかったんです。古典落語を聴いてるようで。そんな私を救ってくれたのが、ビル・エバンスでした。なぜかエバンスは聴けたんです。
 ジャズ研に入るときに、好きなミュージシャンは、と聞かれてナニワエクスプレスと答え、それ以来、私はみんなから「なにわ」と呼ばれてました。いまだにジャズ研の連中からは、「なにわ」って呼ばれます。エバンスが好きになってから、ああいう音楽なら自分でやってみたいな、ということで「なにわバンド」というピアノトリオを結成して、そこから、ジャズという音楽が好きになっていきました。
 ベーシストとしてはまったくの我流で、変なことばかりやってました。音楽理論に疎かったので、なんとなく感覚で、実験っぽことばかりやってました。例えば、Fのブルースだったら、ベースをE♭でガーンとはじめると、ドキドキする感じがするとか、ランニングベースを弾くにしても、2章節分を3と5で分けて弾いて、ポリリズム的に処理するとか、そんなアイデア一発の演奏をしていました。これを意識的にやると、変拍子のわざとらしさや段取り臭さを排除しながら、変拍子の不安定感を表現できるので、いいんですね。2、3、7、5とでたらめな拍子を頭に描きながら、12小節の最後で無理矢理解決するとかね。いまジャズをやっててテクニックに自信がない人、こういうやり方、結構使えるかもよ。すぐに限界が来るけど、2、3回は客は沸きます。

 ジャズを聴きだして、よかったなあと思うことは、アメリカのいい時代の音楽を覚えられたことですね。『星影のステラ』とか『マイロマンス』とか『マイファニーバレンタイン』とか。いい曲ですよね、みんな。原曲は、ぜんぶ映画とかミュージカルの主題歌。そういうスタンダード曲を覚えると、人生が少しだけ豊かになりますよ。ジャズの愉しみは、そういう名曲の解釈を愉しむということでもあります。なるほど、エバンスはそう解釈しますか、みたいなね。
 JR東海の「そうだ、京都、いこう」で流れている曲は『マイフェイバレットシングス』という曲で、日本語で言えば「わたしのお気に入り」ですが、例えば、この曲は、ジョン・コルトレーンなんかは、それをむちゃくちゃに崩してハードに演奏しています。変拍子にしてるし。最後の方、なんか変な笑い声聞こえるし。ああいう演奏は、原曲を知っていると、より楽しく聴けると思います。というか、原曲を知らないと、はじめてジャズを聴く人は、「あ、これ難しすぎて、わからない」ってなるんじゃないでしょうか。そうなったら、もったいないなあ、って思います。
 はじめてジャズを聴いてみようかな、という人は、たとえば『枯葉』とか、自分が知っていて、好きだなあと思うスタンダード曲をやっている様々なアーチストの演奏を、手当たり次第にダウンロードして、iPodに入れて聴いてみるとかがいいんじゃないかな、なんて思います。本当に、いろんな解釈があるんだなあ、って感心しますよ。ジャズの愉しみ方は人それそれですが、私は、「解釈」が、ジャズの本質のひとつだという気がします。これを読んでるジャズを一度も聴いたことがないあなた、騙されたと思ってやってみてください。やっぱり、騙されたってなっても、当方は何の補償もしませんので、くれぐれも自己責任でね。まあ、理屈はともかく、ジャズは案外おもろいんよ、というお話でした。

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