カテゴリー「愚痴ってしまいました」の14件の記事

2009年8月14日 (金)

10年早いわ!と言うヤツはしばきたおせ

ただし、心の中でね。
ほんとにしばくと警察くるからね。

10年早いなんて、誰が決めた。
10年待ったら、時代が変わってしまうがな。
やればいい。やればええねん。

なんやその顔、自信がないんか。
まあ今はしゃあない。
でも今まで君がやってきたことは、
逃げたり消えたりしないから、心配すな。

おっさんはこう見えても、
いろんなヤツに10年早いと言われながら
しれっと何でもやってきたんよ。
それで嫌われたり干されたりもしたけど、
やってよかったと思ってるよ。
少々やせ我慢も入っとるけどな。

10年早いわ!

そんなこと言うヤツはしばきたおせ。
心の中で。

えっ、その台詞、
先輩もよく言うじゃないですか、って。
あのな、よく聞け、若者よ。
おっさんがいつも言ってる台詞は、こう。

100年早いわ!

やって死ぬのと、
やらずに死ぬのとどっちがいい?

な。やればいい。
おっさんの言うことなんか無視して
思ったことをやればええねん。

やりたかったらやればええねん。
やらずに死ぬのは嫌やろ。

ほんとにやりたいことなら
努力の仕方もわかるやろし、
がむしゃらにやる中で
時代の流れも見えてくるやろし、
あかんかったらやめたらええだけなんやし。

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2009年8月 2日 (日)

ケータイの請求書

 ケータイといっても私はウィルコムなんですが、クレジットカードの請求書にあるウィルコムの項目を見ると、いつもの半分くらいになっていて、あっ、そうか、CMプロデューサーのKさんがもういないからなんだな、と気づいた。

 昨年の秋頃にKさんの肺にがんが見つかって、抗がん剤治療が終わって、一度は復帰して仕事も一緒にしたし、再発したと聞いたとき、次も同じだろうな、とこちらは気軽に構えてて、でも、この前、Kさんと一緒に仕事をした人たちと集って話したとき、Kさんはその時点で死を覚悟していたということらしかった。らしかった、というのは、Kさんの上司である人が、今から思えばそう思えるな、と言っていたということだけど。

 まあ、ずっと入院されていたから、ずいぶん前から安い通話料金しか払っていなかった感じだったんだけど、Kさんがまだ生きているというだけで、なんか電話とかしょっちゅうしている気になっていたし、請求書だって、中身を見ずに捨てるだけだし、そんな感傷にひたる間もなく、時間は容赦なく進んでいく。

 このところの広告不況。Kさんの弟子みたいな若い子は、その会社には残れなくなったと聞いた。世知辛いね。Kさんに託していた私の全CM作品のマザーをその子に託した。別に託したからといって、これから彼に仕事を引き継いでもらうということでもないし、私にしても、いろいろ変化もあるし、それに仕事というのは、Kさんと私の関係だけでやっているものではなく、かかわったみんなの力があってのものだと思うし、その体制を支えているものは、その会社の信用だったり力量だったりするのだし、いくらKさんであっても、フリーという立場ではCMというものはつくれないだろうし。

 だから、仕事の上では、Kさんイコールその会社ということだし、それがプロというものだと思うし、その子にマザーを託すのは気持ちの問題に過ぎないのだけれど。

 と同時に、この機会にタバコをやめようかな、健康診断に行かなくちゃな、なんて思っている自分もいるわけで、それよりさしあたっては、大阪の病院にいる母のもろもろのことが頭にいつもあるし、母のことにしても、危機を脱したら脱したでいろいろあるわけで、そんなこんなにあたふたしながらも、笑ってやっていきたいよな、愉快に生きたいよな、なんて思うし、夕飯に食った安物のステーキが胸につかえる感覚が、きっと生きるということのリアルなんだろうとも思う。

 テレビのニュースを見ると、阪神がめずらしく巨人に勝っていた。でも、15ゲーム差もある今シーズンは駄目だろうし、もう来年のことを考えているのが、ああ、それって典型的な阪神ファンの心理だよなあ、と。さあて、明日から、いろいろあるなあ、どうするかなあ、うまく運ぶといいなあ。

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2009年2月28日 (土)

「制作のやつは馬鹿だから」みたいなことがあるのかもね。

 そういう自称コミュニケーション・デザイナーさんたちのインサイトは、統計学的には誤解じゃないかもしれないし、制作にもいろいろいるだろうと思うんですけどね。でもまあ、こういう、制作は表現の専門家ではあるけれど、基本的には「馬鹿」だから、俺たちが導かないといけない、みたいなムーブメントが定期的に出て来て、はっきり言えばちょっとうんざりです。そういうムーブメントを起こす人は、たいがい見たところでは、その心の奥で表現に対してルサンチマンを抱えていたりはするんですが、建前で言えば、正義というか使命みたいな前向きな気持ちに裏付けられていて、それがじゃまくさいといえばじゃまくさい。

 その人曰く、制作っていうのは表現の専門家でしょ、その表現に専念するためにも俺たちがフレームをつくらなきゃいけなくて、今までそれがなかったからうちの会社はいい広告が出せなかったわけでさ、みたいなの。で、その時点で、それを言っている本人の「いい広告」の観測範囲は恐ろしく狭くて、制作という職種の専門性というものに対する洞察も浅くて、その思考の浅さや視野の狭さゆえに自我は肥大化していて、これからはさあ、俺たちがいいと思う表現以外は、クライアントがほしいと言っても世の中に出さない、というシステムをつくろうと思うんだよね、やっぱうちの売りはクリエイティブだしさ、みたいな。

 よくその話を聞くと、そこにはまったく今までの自分の実績が担保されていなかったり、あえて言うと、その担保は本屋で売っている本を読んだことだったり(で、本人はこっちがその手の本を読んでいないと無邪気に信じてたり)、そのいい広告のジャッチに制作が含まれていない、みたいな感じで、限りなく軽薄だったりします。

 ほんと、どこまで人は傲慢になれるんでしょうね。ほんとはこういうの、馬鹿っていうんじゃないかな。でも、こういうムーブメントは、ほんと定期的にわいて出てくるみたいで、困ったもんです。

 一頃、アカウントプランナーという概念が流行りましたよね。外資系なんかで。「クリエイティブ=砂場で遊ぶ子供」論というのがあって、クリエイティブが砂場でクリエイティブに遊んでもらうためには、俺たちアカウントプランナーがいい砂場をつくってあげなくちゃいけない、みたいな考え方。結果、どうなったか。定着まで想像力が行き届かないガチガチのブリーフ(広告の設計書みたいなもの)をつくって、効かない広告がどんどん世の中に出て行った。で、そのアカウントプランナーは何を言ったか、というと、うちはクリエイティブが弱いんだよね、と。

 小さな外資系広告会社の場合、そのうち会社が傾いて、当のアカウントプランナーは、先進的な肩書きを履歴書に書いて、さっさと転職。こういう気分の悪い状況が、コミュニケーション・デザイナーという新しい職種とともに、このところまた盛り上がっていて、それはコミュニケーション・デザインというコミュニケーションの方法論とはまったく関係がないし、内心は馬鹿だと思っているクリエイティブを手足のように使おうという、甘い方法論を思いつく時点で、それは違うだろう、と。

 私がもし制作ではなくてそのようなことを思っていたら、今までの経験で自分が駄目だったと認定した制作は絶対に使わない。他をさがすか、やったことがなくても勉強して自分でやります。逆説的ですが、その覚悟さえあれば、広告表現は誰でもできます。制作でなくても。表現について責任をとる人を制作と呼ぶのだし、その覚悟が見える人なら、どんな職種であっても、優秀な制作を惹き付けていくはず。

 こういう責任の所在を自分に置かない方法論っていうのは、短いスパンでほっておいても挫折するだろうし、そんな妙なムーブメントはどこ吹く風で、優秀なマーケティング・プランナーやアカウントとの連携で、我々クリエイティブは淡々と仕事をして、淡々と結果を出していくわけなんですが、そういう自分の責任の所在が明快、かつ、横繫がり思考の優秀な他の分野の人たちにさえ影響が及ぶ、いまの自称コミュニケーション・プランナーっていうのは、ちょっと見過ごせないかもな、と思い出しています。

 というか、それを信じるのも、肥大化した自我で自分が万能になったような気分で毎日を過ごすのも、一向にかまわないから、早く結果出してください。但し、責任の所在がわからなくなるから、ごかましなしで、自分たちだけの力だけでね。結果が出せなければ、そのときは潔く立ち去ってください。見苦しいことはやらないほしいものです。

 結局、政治なんでしょうけどね、本人は目が澄んでいるんですよね。正義や使命感で。定期的にわいてくるムーブメントではあるけれど、それでも、やっぱり、冗談じゃねえ、と思います。それが善意だろうとなんだろうと、どう考えても道理があわないもの。よかれと思ったんだからで済むのは子供の時だけ。この不況の時期、もうそんな停滞は許されないから。みんなが不幸になるから。プロレス的につきあってばかりもいられないかな、そろそろセメントしかけるかな。そんな2009年2月末日の気分。

関連1:定着のイメージを持たないコミュニケーション・デザインの気持ち悪さ
関連2:制作側で「コミュニケーションデザイン」を設計する一人として(このエントリの続編です)

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2009年1月30日 (金)

こんな生活、いつまで続けるつもりやろか。

 なんて思うことがあるんですね。ときどき。謙遜してもしゃあないし、あけすけに言えば、まあ、私の場合は、この商売は向いているほうだと思う。というか、お金を稼ぐという意味では、この商売以外は、今のところ考えられないし。そこそこの結果を出す自信もあるし、なんとなくだけど自分の広告は世の中の悪にはなっていないような気もする。

 でも、この商売をやっている人の多くはそうだろうし、とくに、こいつ仕事ができるよな、なんてタイプは、時間とか、心の安定とか、そんなものを思いっきり犠牲にしてるよなあ、とも思う。仕事ができるって、あんた何言ってんの、みたいなことかもしれないけど、まあ、それを人は器用貧乏ともいうし、そう言う意味では、仕事ができるよな、とでも自分で言わないとやってられん感じでもあるしなあ。だって、責任を負わされる、というか、自ら進んで負ってしまう、というか、そんな状況に追い込まれやすい、ということでもあるし。仕事ができるというか器用貧乏ってことは。

 仕事をしているとよくあることだけど、批評家になりたがる、というか、批評する側に逃げるタイプっていうのもいて、それは、若いヤツでも年をとったヤツでも同じで、そういうヤツは仕事がどっちに転んだとしても、責任を取りはしない。批評家かつ声が大きい。これは、会社組織では最強。でも、そういうの面白いのかな、とも思うけどね。

 責任を持ってやってるヤツが、人を振り回すのはまだわかるんですよ。決死の覚悟だから。共感もするし、空回りだとわかっていても、気が済むまで付き合ってやろうとも思う。そいつが感情をあらわにしたときは、さすがに大人なんだから、人前で自分の不安とか焦りを顔に出して、根拠もなく人を振り回すのはどうよ、とは思うけどね。自分の不安や焦りを顔に出すのは、かっこわるいよね。

 ときどき、なんとなく最近仕事がやりにくいなあ、なんでだろ、なんて思うことがあって、こう見えてもわりと気を使うほうだし、チームとしてはモチベーションは大事だと思うから、というか感情がこじれて仕事が滞ると大変だから、なんとか気分よく仕事をしてもらおうと気を使って、下手にまわったり、すごく感情をためてしまって、深夜、家に帰ってぼんやりすると、なんか情けなくなって、泣きそうになってきて、あほらしな、もうやめようかななんて思うんですね。

 で、じっくり考えてみると、なんかやりにくいなあ、と感じるときは、いつも人事評価の前だったりするわけ。いつもそう。わかりやすいなあ。まあ、人間だからしゃあないかな。でも、これはタイプがあるようで、そういう会社のタームに情緒が連動しないタイプもいるし、連動するタイプもいる。連動しないタイプは、ちょっと不思議ちゃんな感じのヤツが多くて、相棒としては、私の場合はそういう人のほうがやりやすい。

 正月休みが明けてから、ずっと忙しいものなあ。時間がないし、心に余裕もなくて、新規ジョブ獲得おめでとう、乾杯って会社から言われても、なんか心ここにあらず。どうでもええわ、次行こ、次、という感じ。いつでも手をつけられていない課題を3つくらい抱えていて、いくらこの商売が向いているって言っても、限度があるよね。牛丼食ってるときも、仕事のことを考えてしまっている感じが、なんか豊かじゃない。

 そんなこんなで、仕事のこと以外は話すことができないヤツができあがり。飲んでいるときまで仕事の話をするヤツは最低だなと思っていたのに、その最低なヤツに、まさに私がなっているんだよな。って愚痴ってみたものの、なんとなく、本気で思っているわけでもなさそな自分がなんかやだなあ。こんな時代、仕事があるだけまし、とも言えるだろうし、明日もこんな生活を続けていくだろうし、たまにはこんな感じのことを書いてもええやんか、みたいなことかもしれんしなあ。甘えんじゃねえよ、ということなんでしょうな。でも、ときどき甘えたくなるやんか。人間なんだしさ。

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2008年11月29日 (土)

♪仕事は自己実現のためにあるんやないんやで〜

 お金を稼ぐためにあるんやで〜♪

 元ネタ、わかります?これです。ま、そんな「昭和の名曲」はさておき、自己実現についてぼんやり考えていることを、ぼちぼちと。やっぱり同じ仕事をするなら、自分が楽しくやれる方がいいし、その仕事が自己実現っぽい感覚でやれるにこしたことはないとは思うけど、仕事イコール自己実現ではないというのは、たぶん自明のことなんだろうと思います。

 広告制作の仕事をしていると、そんな自己実現の欲求と仕事として求められるものの間で悶々とすることが多いです。制作スタッフを抱えるCD稼業はとくに。こんなふわふわした職種(実際はそうでもないですけどね)に入ってくるくらいだから、それなりに仕事であるべき自分をみつける、みたいな夢を持って入って来ているんだろうし、広告制作というのは、人が持っている自己実現のための欲求をビジネスに転用することで成り立っている商売だろうとも思うので、こんな身も蓋もないことを言うのはなんだかなあ、とは思うんですけどね。

 それぞれのあるべき自分への欲求を甘めに見て、それで仕事を成り立たせていくと、そもそもの仕事としての質が犠牲になることも多く、私は、それぞれの自己実現欲求みたいなものをあえて切り捨てるという行動をとってしまいがちなので、いろいろ気苦労もあったりするんですね。

 たとえば、私は「これも提案したいんですよ。お願いします。」みたいなことを若いスタッフに言われても、仕事の課題に関係なければ持って行かないし、それぞれのスタッフの力量を見て、その力量以上の役割をそのスタッフに与えたりはしません。いわゆる、立場相応に下駄を履かせることもしません。要は責任の取れる範囲でしか権限は与えない、というようなやり方です。だから、こういう広告制作でありがちな「ねえ、君はどんな広告がつくりたい?」みたいなことは聞かないし、仕事の課題以外の目的を仕事に持ち込むことはしません。

 仕事はお金を稼ぐためにある、と定義しましたが、それは何もお金を稼ぐために何でもやるという意味ではなく、お金をいただくに値する価値を創造するにはどうしていけばいいのかを考えることが、本来は、自己実現みたいなものにつながっていけばしあわせであるというだけで、その主客逆転はない、というだけなんですね。

 現状、お金をいただくに値する価値を提供できないにもかかわらず、その立場から上方のベクトルに見える将来あるべき自分みたいなものを優先させてしまうことから、すべての間違いがはじまるような気がします。現状、お金をいただく価値を提供できていて、もっと大きな価値を提供できないだろうか、みたいな発想でがんばる人は、どんどん新しい権限を獲得していって、やればやるほどうまくいって、結果として仕事が自己実現につながっていくような気がしますが、この主客が逆になってしまうと、やればやるほど、少なくとも仕事においては、どんどん狡く小賢しくなっていくような気がするんですね。

 これは、日常生活でのその人の性格には関係がなくて、仕事場という状況がその人をそのようにさせていくのだろうし、こういう狡く小賢しくなっていく過程は、どんどんキャリアを向上させていく過程と同じように倍々ゲームなので、本人もつらいだろうな、と思います。でも、つらくても同情できないし、その自己実現欲求を仕事の場において優先させることもできません。

 これからはいろいろな事が厳しくなるだろうし、広告の市場は、これから確実に縮小しますから、それを見逃す余裕もなくなるでしょう。そういう状況の中では、その過程が破綻することが多くなってくると思います。そんな光景を、いままでのキャリアの中で何度も見て来きて、それは少し後味が悪いことではあるけれど、その光景はブーメランのように自分に跳ね返ってくることでもあるので、感傷ばかりしていられない現実もあるんですよね。よく言われる仕事の厳しさ、プロの厳しさというのは、こういう残酷さなのかもな、と思います。

 それに私は、その過程を破綻させてしまうより、自己実現の欲求を優先させてしまう人たちから、陰で「あのCD、むかつくよなあ。」とか言われるほうがいくぶんもましだと思っています。仕事にとっても。その人にとっても。みんなで仲良くというのは美しいし理想ではあるけれど、みんなで仲良くするために仕事があるわけでもないし、それにみんないい大人なんだし。(書いてて思いましたが、私、仕事ではちょっとマッチョなのかもしれないですね。ではでは。)

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2008年10月15日 (水)

定着のイメージを持たないコミュニケーション・デザインの気持ち悪さ

 私なんかは、完全に定着原理主義なんでしょうね。あっ、定着っていうのは、広告を例にすると、プランなりアイデアなりがあって、それが頭の中とか企画書とかにある状態だと、その時点では広告にはなっていないですよね。そのプランなりアイデアなりを、具体的な言葉や絵にして、テレビなり新聞なりに定着して、はじめて広告になりますよね。その具体的な表現のことを定着って言います。

 私の定着のベースは、言葉だったりしますが、言葉じゃなくても、絵でも映像でも、まあそれなりに定着のイメージは持てていたりします。クリエイティブという職種は、そういう職業ですから。実際は、そのイメージを伝えながら、アートディレクター、映像ディレクター、プロデューサー、デザイナー、フォトグラファーとともに制作をしていきますが、その過程においては、やはり根拠は、自分の中の定着イメージです。

 そういう意味では、私がやる限り、その広告の質は、私の定着イメージに規定されます。良くも悪くも、私という個人の能力を大きく超えることはありません。これは、共同作業を否定しているわけではなくて、私が一緒にやる人は、すべて、自分の分野に関しての強力な定着イメージを持っている人であり、例えば、映像ディレクターは、自分のつくる映像は、自分の中の定着イメージを自分の手で定着させる能力を持ち合わせている人が映像ディレクターと呼ばれるのであって、それを外部に依頼するなんてことは、ありえないわけです。

 他の表現分野においても、映画なら、映画監督はきちんと映像を自分の手でつくるし、小説家は、きちんとひと文字ひと文字、言葉を綴ります。ミュージシャンは、実際に曲をつくったり、歌ったり、ギターを弾いたりします。そういう人を表現者というのであって、そこに表現のコアの部分においては、プランニングやアイデアと定着の分離なんて、あり得ないわけです。

 コミュニケーション・デザインという言葉が一人歩きしてから、この定着のイメージを持たない自称コミュニケーション・デザイナーが増えてきて、まあ、ちょっとばかり愚痴っぽくなるけど、非常に気持ち悪いんですよね。そういうこと、あり得るのかな、いや、それはないだろう、なんて自問自答していますが、まあ、あり得ないでしょうね。

 彼らは、わりと、簡単に「外につくらせる」と言ってしまうんですよね。それと、派手なことしかやりたがらないし、地味で日当りの悪いコミュニケーションは逃げてしまいます。でもね、コミュニケーション・デザインというのを簡単に言えばさ、コミュニケーションの全領域をデザインするということだから、テレビが良くて、たとえばDMやテキストバナーがカスだったら、それで全部のコミュニケーションが駄目になるという考え方でしょ。だからね、私は、ある時期から、SPやウェブの定着作業を全部引き受けるようにしてきたんですね。めちゃくちゃ時間と手間がかかるし、めんどくさいけどね。全部を、自分の定着イメージに近いカタチで定着したいから。

 そうなってくると、なんか不愉快な状況が起きてきて、自称コミュニケーション・デザイナーさんたちが、こっちに「つくらせよう」なんてバカなことを考えるわけ。明らかに、クリエイティブはアイデアを定着だけする機能だと勘違いしているわけ。それは、まあ勉強不足なんだろうけどさ、そういう勉強不足の無邪気さっていうのはたちが悪くて、もう説得もめんどくさかったりするわけです。

 コミュニケーション・デザインの総本家の著書とかを読むと、あの人たち、コピーも映像もビジュアルも、タレントの手配も、メディアの分配も、自分の定着イメージでもって、自分の手で定着しているわけなんですよ。その中には、めちゃくちゃめんどくさいこともあるし、そういう仕事をすると、細かいことのクオリティを問われるので、いままで外部に委託して来た細かい作業も、ぜんぶ自分でしなきゃなくなります。あの人たちは、それをやっています。

 そういうめんどくさいことを中抜きしたコミュニケーション・デザインに何の意味があるんだろう。だから、信頼もつくれないし、実績が上げられないんだろうし、その実績をちょっと人がよさそうで怒らなそうなクリエイティブを使ってつくろうなんて、虫が良すぎるんじゃないかな。いいかげん、おじさんだって怒るよ。私は、自分がコミュニケーション・デザインをやっているだなんて自称しないけれども、それは単に羞恥心の問題であって、それ以上の意味はありません。

 漫画を書けない人は、漫画家を名乗っちゃいけない。それだけのことなんですけどね。じゃあ、編集者の役割はどうなのさ、となるけど、それは編集という専門領域の定着イメージというのがあるし、広告で言えば、営業とかマーケに当たるんだろうし、それは計り知れない専門性がきちんとあるんですよね。

 自称コミュニケーション・デザイナーさんたちに言いたいこと。人をあてにせずに、自分でやればいいじゃない。それでできなかったら、自分がそんだけのもんだったということですよ。要するに、自我が肥大化してただけ。酔ってる状態ってこと。それを、クリエイティブが駄目だから、とか言うんじゃない。

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2008年9月24日 (水)

書けないとき

 仕事ではなくて、ブログの話。

 書くことがなんにもない。そんなときがあります。ま、このブログは仕事ではないので原稿を飛ばしても人でなしにはならないので、いいと言えばいいのですが、それでも、書くことがなんにもなくて、書かないでいると、なんかもの足らない感じがします。これはブログを運営する人にもよるのでしょうが、わりと頻繁に更新するタイプである私の場合、少し大げさかもしれませんが、ここに書くことが、ごはんを食べたりすることと同じような気分でいますので、ちょっともの足りない気分になります。

 仕事が忙しいときや、最近ではほとんどないと言ってもいいくらいですが、ネット環境がない場所にいるときは、書きません。仕事が第一なので。でも、頭の中では書きたい気分がいっぱいなので、時間があれば書けてしまいます。でも、今日は書くことがないなあ、というときは、仕事が忙しい、というのとは別の状態のときが多いように思います。

 よく、ブログを頻繁に更新する人は、仕事が暇なんじゃないか、と思われがちですが、私の経験では、仕事がほどよく忙しく、バリバリ頭が働いているときは、たとえ飯を食っているときもいろいろ考えているので、ブログもバリバリ書いているような気がします。本当に書けないな、書きたいけどなにも書くことがないな、というときは、ある共通の特徴があるな、と思います。

 で、それが今なんです。とか言って、書けないことをネタにしちゃってますけど、まあそれはとりあえず棚に置いとくとして、今の状態はこんな感じになっています。

 ここ最近、撮影やらなにやらで、やらなくちゃいけないめんどうな業をたくさん先送りにしていて、それを片付けなくちゃいけないけど、時間がたてばたつほどやる気がなくなってくるんです。完全に義務になっちゃっています。気が重いんです。単純作業なので、5時間くらい集中すればできることなのに、どうしても始められません。たぶん、私の性格から言って、締め切り間近にならないとやらないんだろうな。この性格、治そうと思うんですが、なかなか治らないですね。

 それと、うちのトイレが水漏れしているんですよね。便器にちょろちょろと水が流れよるんです。それも修理しないといけないけれど、まあいいかと言っているうちに、どんどん時間がすぎていって、時間がたてばそのぶん水道代も無駄にかかるし、それもぼんやりとした負担になってきています。ああ、じゃまくさい。

 ブログというか、お金のからまないことというのは、仕事が忙しかったり、生活でたいへんなことが起きても、基本的には好きなことなので、あまり影響しないように思います。多忙な人は趣味も濃かったりしますし。でも、じゃまくさいことをかかえると、とたんに、この手のお金のからまないお楽しみごとには頭がまわらなくなってしまいますね。

 私のブログも、職業人ブログの一種でもありますので、ライフハック的に読まれることも多いみたいですが、ライフハック的には

「単純作業は早めに済ませろ。時間がたてば、その作業は、やがて義務になり、苦痛となる。」

 という感じでしょうか。なんか鬼十訓っぽいですが。でも、これがいちばん難しいんだよなあ。私、いままで守ったためしがありません。ああ、なんて駄目なやつ。

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2008年9月 8日 (月)

会社を辞めたいなあ、と思ったら、気休めに、このエントリを読んでみてくださいな。

 私は広告会社のクリエイティブ局に勤めています。いわゆる制作職ですね。テレビCMとか、ラジオCMとか、新聞広告とか、雑誌広告とか、ウェブ広告とか、ポスターとか、パンフとか、チラシとか、いろいろ作っています。広告コンテンツっていうやつです。

 クリエイティブとは言いますが、実際には、制作職というのは、地道な作業の連続だったりします。とはいいつつも、広告会社にとってクリエイティブは表向きのわかりやすい看板だったりするので、組織の中では、けっこうやり玉にあげられやすい職種だったりもするんですよね。

 「業績がふるわないのはクリエイティブが駄目だから。」

 そんな話になりがちです。でもって、全社あげてのクリエイティブ強化運動がはじまります。元気があるのは、クリエイティブ以外の人たち。自分のことを棚に置いて、どうクリエイティブを強化していくのか、様々な意見が出てきます。

 かの海外有名クリエイティブエージェンシーでは、広告制作に入る前に得意先の経営者と納得いくまで話す、とか、これからは当社としての水準に達していない広告は出さないでおこう、みたいな意見がたくさん。熱病ですね。みんなうれしそう。顔が上気しています。

 で、クリエイティブ以外の人たちがうれしそうに話す海外の事例。社長と納得するまで話す、とか、自社の水準を超えるものしか出さない、とか、みんな、そんなクリエイティブ以外の人たちのクリエイティブ床屋談義に嫌気がさして大きな広告会社から出て行ったクリエイティブの人たちの話。そんなクリエイティブ談義には、前提からして自己矛盾があるんですよ。

 なんだろ、このねじれ現象。この不愉快なクリエイティブ床屋談義。

 熱病だから、1ヶ月くらいで終わります。なかったことになります。そんな不真面目な論議だから、真面目に受け取ると不愉快になるだけ。そんなもんだから、そういうクリエイティブ談義をしている人の話を上の空で聞いていたら、そんな顔するなよぉ、なんて言われてしまいました。こんな顔しているだけましだと思ってくれないと。しまいにゃ怒るよ。

 何でも持続と継続なんですよ。10年でも20年でも、同じテーマで、1日も休まず考え続けることが、真剣に考えるということなんです。すぐに飽きてしまう熱病のような論議を、私は考えるとは思いたくありません。真剣に考えれば、状況の厳しさも正確に見えてくるし、甘ちょろい夢語っている暇があったら、やるべきことがたくさんあることも見えてくるはず。

 社内の政治抗争に巻き込まれ、ほされているときに、自分を大切に思ってくれているお得意先のちいさな仕事でとれるだけ広告賞をとった時期がありました。それはもう、小さな賞から大きな賞まで貪欲に。でも、社内の評価はほとんど何もなかったです。で、わかったことがありました。要するに、熱病のようなクリエイティブ床屋談義は、社内政治的な意図が隠されているんですよね。動機が不純なんですね。でも、話している本人は、そんな政治的意図は自覚しないから、これまたたちが悪いんですが。

 あと、こういう政治的なクリエイティブ談義に巻き込まれないようにするテクニックはあるにはあります。長髪にしたり、髪を染めたり、髭をはやしたり、服装を派手にしたり、そんなことをすればいいんです。私も、けっこう追いつめられて、髪をのばして、後ろでしばったり、そんなことをしました。それで雑音はかなり減ります。でも、あほらしいんです。それも、ねじれた保身だったりするので。政治抗争が終わったとき、ばっさりとやめてしまいました。

 世の中には、今の状況を、ぜったいに自分のせいだとは思わない人がいて、もし、これを読んでくれている若いあなたが、なんでも自分の中に原因を見いだしてしまう人ならば、先輩として、そんな、ぜったいに自分のせいだとは思わない人たちの言うことは聞かなくていいとだけ言っておきます。そのぶん、あなたと同じように、今の状況を自分のせいだと思って、知らず知らずに自分を追いつめてしまう他の分野の人の言うことを、耳をすまして聞くようにすればいい。腹を割って話すようにすればいい。

 そういう人たちがいる限り、まだまだ、あなたはその会社にいる意味があると思うし、その人たちの、自分に向けた、愚痴や嘆きの中にこそ、今の状況を突破するための答えがあるのだから。

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2008年8月31日 (日)

汚れ

 今日は母のお見舞い。ようやく言葉を話せるようになって、ほっとしているのですが、今日はちょっとぼんやりした感じでした。病気の性質から言って、そんなに急激に回復するわけではないのはわかっているので、こんな日もあるかな、という感じで少し散歩して、少ししゃべって、そそくさと帰ってきました。

 お見舞いには父と行くのですが、父はよくお見舞いに行っているので、父が行っても、最初はすごく喜ぶものの、買って来たメロンジュースを渡して、グイグイ飲んで、10分もするとそれほどの感動もなってきて、父は自嘲気味に「ワシは、あいつにとっては今やジュース持って来てくれるおじさんやな」と話しています。私もけっこうお見舞いに行ってはいますが、入院や、その入院先から医療タクシーに乗っての転院など、母にとってはストレスのかかる要所要所で登場しているので、自分の事情がまだ飲み込めていない様子の母にとっては、私を見ると、反射的に少し構えるところがあるように思います。

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 そんな男陣ですが、唯一、なんか母の表情がほがらかになるのが妹がお見舞いに行った時。やっぱり女同士は違うのかな。その「ネックレス似合ってるな」とか「手がきれいなあ」とか、「私、あの看護婦さん好きやねん」とか「あの看護婦さん、嫌いやねん」とか、そんな感じになることが多いです。たまたま、気分がいいときにあたっただけかもしれませんが。

 母が入院して、いろいろと気付くことが多いです。ジュースおじさんと自嘲する父ですが、父と母は、やはり夫婦なんだな、みたいなことを今さらながら思います。なんか言葉にはできない絆みたいなものがあるんですよね。母にとって、父への信頼みたいなものは絶大っぽいんですよね。なんでも解決してくれるスーパーマンだと思っている感じ。これまでは、父が飲んだくれだったので、それがもとに喧嘩になることもあり、そんな関係をよく見て来たのですが、いろいろ私が知らない心のつながりみたいなものがあるんだな、なんて思いました。

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 妹は、なんか友達みたいな関係にすぐなれるんですよね。これも不思議。気さくな関係というか。こっちはこっちで、母の状態が悪くなれば泣いたり、寝込んだり、そんなやつなんで大変なんですが、母のお見舞いに行ったら、私なんかとは比べものにならないくらい打ち解けている状況があって、へえ、大したもんだな、なんて眺めてます。まあ、あいつはあいつでいろいろ考えて行動しているんでしょうけど。

 そんなこんなで、私の役どころは、母本人が嫌がるあれこれの決断を下す、みたいなことになります。「お母さん、いややろうけど、歯医者いかなあかんで」みたいな。ちょっと汚れっぽいですが、これはしばらく続きそうです。いかにも長男っぽい感じで、それはそれでいいかな、とは思いますが。

 この前も、こんなことが。母が院内にある歯科に行くのを嫌がっていたそうです。看護師さんがいくら言っても「いや」と言うだけ。私も、「歯槽膿漏が進むからいかなあかんよ」と説得したのですが、なかなかうんと言ってくれません。で、父が「じゃあ、お父さんと一緒に行こか」。そしたら、あっさり「うれしいわあ、行こ」だって。看護師さんと顔を見合わせて苦笑。参りました。

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 病院にお見舞いにこられている他のご家族なんかでも、家族の役回りが、同じようなものになっている感じが多いように思いますね。長男らしき人に、お疲れさまと声をかけたくなりますが、そのご家族もそれどころではない状況もあるので、心の中でご挨拶という感じです。

 まあ、こういう汚れみたいな役回りはいないと困るし、普遍的に家族ではその役回りは長男的な人が担うってことなんでしょうね。会社なんかでも、長男的な役回りの人、長女的な役回り的な人、父親的な人、母親的な人、いろいろいますよね。それぞれいろいろあるでしょうが、それぞれ健康的に愚痴りながら、いろいろありながらも、それぞれが持ち場をうまくこなしていくのがいちばんなんでしょうね。ちょっとやな大人っぽい意見だけど。ま、私もいいかげん大人だしね。

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 明日は、新大阪から朝一の新幹線で品川。そのままスタジオで撮影です。元気があれば、車内で書いて、静岡あたりで更新するかもです。その折はよろしくです。ではでは。

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2008年8月23日 (土)

オリンピック雑感

 いろいろ安いよね。靴とかも売ってたりするし。私は高円寺店をよく利用しています。というのはオリンピック違い。北京オリンピックのことです。星野ジャパン、負けてしまいましたね。私は仕事の関係で、帰宅時間が不規則なこともあって、あまり熱心に見ていませんです。テレビのニュースで結果を知ることが多いです。

 正直言えば、オリンピックってちょっと苦手。勝負事だけど、勝った負けたの期待が大きすぎる気がして。そういう意味では、サッカーも苦手。私も仕事で、大規模な競合プレだとか、勝った負けたを日常的にやっていますが、今しがたの星野ジャパンの敗戦を見ていて、なんだか胸が苦しくなってきました。一度でも大きな勝負事で負けたことがある人は、星野ジャパンを見て、なんとも複雑な気分になってしまうんじゃないでしょうか。でも週刊誌とか読んでると、そうでもないのかな、とも。うーん。

 仕事の話で恐縮ですが、大規模なプレゼン前は、いろんな人がいろいろ意見してきます。それも、過大な皮算用をしながら。PRBという名のミーティングがプレ本番前に行われるんですね。ボードメンバーに向けての、プレゼンの予行演習ね。

 思い出すだけで、ああ、やだやだ。ここはこうしたほうがいい、とか、このコンテ、ここをこうしたほうがいい、とか。私はプレ本番より、これが苦手。本番前に、選手を萎縮させてどないすんねん。なんのトクがあるんでしょうか。

 絶対勝つ、なんてことは当事者だけが言えることであってね。こんな俺だけど、あたたかく見守ってほしいなあ、とリーゼント&革ジャンで歌いたくなりますね。イザヤ・ベンダサンじゃないけど、プールサイダーががたがたうるせえんだよ、って言いたくなりますが、怖いので言いません。嗚呼、会社員。

 でもって、オリンピック。勝った人も、負けた人も、お疲れ。たくさんの夢をありがとう。って言っても、そんなに熱心に見てないけど。勝った人は奢ることなく、負けた人はそれを糧にして、これからも頑張って。言われなくても頑張るでしょうけどね。私も頑張ります。

 それにしても、愚痴芸、私はあまり上手じゃないな。これが仕事だったら、愚痴の醍醐味がまったく出ていない、愚痴っていうのは、もっともっと豊かな世界なんだよ、そもそも愚痴の本質はうんぬんかんぬん、ね、わかった、没、やり直し、月曜朝にもう一度見せて、なんて言っているところです。

 てな感じで、今日は、東京地方は天候がすぐれないけど、ま、涼しくていいやね。今年は暑かったから。では、引き続き、楽しい休日をお過ごしくださいませませ。

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