カテゴリー「広告のしくみ」の75件の記事

2012年3月10日 (土)

今、広告業界に進みたいんですっていう学生さんに居酒屋でなにか話すとしたら

 何を言うんだろうなあ。

 いろいろ難しいなあ。社会も広告も、ここ10年くらいでずいぶん変わったからなあ。これ、ほんとに変わったなあと思うんですよ。たとえばね、この文章を読んでくれてますよね。どうも、ありがとうございます。文章は読まれてなんぼなので、すごくうれしいです。でもね、これはよくよく考えてみると、この文章を読んでもらってるというのは、そのぶんほかのものを見たり聞いたり読んだりできなくなっちゃってるってことなんですよね。時間は誰でも平等に1日に24時間しか与えられてないですから。

 これ、10年くらい前では考えられなかったことなんですよね。もちろん、その頃も同人誌とかはあったよ。でもね、同人誌って手に入れるのに、ちょっと努力がいるじゃないですか。でも、このブログを読むのに努力はあまりいらないですよね。RSSに登録してもらってたら、更新の度にリアルタイムでお知らせが来ますし、ときには、twitterやfacebook、mixiなんかで、なんか広告人の人がへんなこと書いているよ、どれどれ、って感じで読まれることもあるじゃないですか。

 つまり、情報発信が特権ではなくなってしまったということなんです。それはもう、なんの特権でもなくなってしまいました。ここ数年は特にそう。これは、私なんかの書きたい、読んでもらいたい人にとっては、革命みたいな出来事だったんですよね。それは、グーテンベルクの印刷革命以来の大快挙。でもね、このことは、これまでの広告にとっては都合が悪かったんです。だって、広告なんて、ほんと、見られてなんぼ、読まれてなんぼの最たるものですから。みんながテレビを見て、新聞を読んでくれると思ってるから、安心して広告できるわけでしょ。でも、そうでもないらしいぜ、他にも見るもん読むもんたくさんあるし、俺だってテレビあまり見てないし、新聞だってあまり読んでないんだもん、でもまだ大丈夫じゃないかな、でもちょっと心配、みたいなことがここ数年の広告業界の人たちの気持ちだったんです。

 もちろん、希望はないわけではなかったんですよ。だって、逆手にとれば、広告をする側がやる気になれば、高い媒体費を払わずに情報発信ができるようになったんですから。それに、いろんな情報発信の場ができたから、いろいろなことを試せるし。こりゃいいや、っていう会社もたくさんあったと思うんですよね。これ、広告にとってはよかったことだったけど、こうなっても広告業界にとっては、ちっともよくなかったことだったりもして、食い扶持をどこに求めりゃいいの、みたいなことになったり。

 GmailとかHotmailとか使っている人は多いんじゃないでしょうか。使ってなくても、みんな名前くらいは知っていますよね。この2つのサービス、ほとんど、これまで広告だと思われるようなかたちという意味では広告はまったくしてなくて、それでもここまでの知名度とユーザーを獲得しちゃったんです。これは、ほんと当時としてはすごいことだったんです。昔はMS Officeにしても、競合のLotus Notesや1-2-3にしても、広告をしていましたからね。Lotusなんか、タレントを使ってテレビCMまで打ってましたから。でも、この2つは、それなしでできちゃったんですね。こりゃ、まいったな、ってもんです。

 僕らの世代では、広告で時代を動かしたいんです、とか、世界を変えたいんです、という人がよくいました。今もいるのかな。コピーライター志望とかだったら、言葉で世界を、みたいなことになったりしますよね。でも、そういう人には、だったらブログを書けばいいじゃないですか、って答えます。これ、嫌みではなく、本気でそう思ってます。だって、GmailもHotmailもできるんですから、世界を変えるなら、ブログを書く方が広告業界に入るより近道だったりするんですよ。でも、まあ、広告業界に入って、時代を動かしたい、世界を変えたいってプレゼンしたら、明日から来なくていいと言われますけどね。

 言われますけど、動機としては、まあ、ありだったんです。ちょっと前までは。いまも、それでもかろうじてありかもしれません。だから、みんな環境広告とか公共広告とかをやりたがったんです。私にもまだ少しはあります。隠し持ってます。でも、でもね、思うんですけど、今までのやり方ではたぶんむずかしんだろうなと思っています。時代が違うし、メディア環境も、あまりに違いすぎます。何と違うのかっていうと、僕たちの先輩方がつくってきた、キラ星のような広告が成り立っていた状況と。

 お手本にはできると思うんです。そこからいろんなものを吸収できるとも思います。でも、アウトプットは別の何かであるはずです。それは、どちらかというと、その時代の変化のはざまに生きてきた僕自身の問題意識かもしれないですね。僕には、バブルの呪縛があります。消費マインドとか、消費についての態度だったり、そんなこんなに重い課題を抱えています。それは、もしかすると、若い人にはないかもしれませんね。

 という意味では、いつの時代でもそうだと思うんだけど、若いということは、それ自体希望だったりするんですよね。俺が、私が、新しい方法を見つけたる。そんな人は、はっきりと広告業界に来てほしいなあと思います。他の業界に行くより、広告業界に来てほしいです。時代を動かしてください。世界を変えてください。これはいい、時代を動かすはず、世界を変えるはず、という商品やサービスをちゃんと知ってもらって広めること。それが、広告が時代を動かす、世界を変えるということですから。

 新しい方法を見つけたる、ということが、たぶん、今の広告に必要な資質なんだろうなあ。そう。そう思います。これまでは、動機としては、自己表現が強かったんです。あの人みたいなコピーを書いてみたい。あんな素敵なデザインをしてみたい。はっきり言えば、それでよかったんですよね。課題を解決するよろこびとか、そんなプロフェッショナルっぽい挟持は、あとからついてくるものですから。でも、今は、それだけじゃきつい。そんな気がします。

 商品や広告をとりまく状況も複雑になりましたし、目標設定も多種多様になりました。また、これまでは生活者の心をつかめばよかったように思いますが、今はそれだけでは無理。専門用語で、インサイトって言うんですが、インサイト一発でモノやコトが動くことほど単純な社会ではなくなりました。というか、新しい商品を求める生活者のインサイト自体が見つけにくくなってきています。個人的には、インサイトをベースにしつつも、その先の段階、コンテキストに高める必要があると思っています。たとえば、PCの延長線であったタブレットPCをPCとは切り離し、見るため、楽しむためのビューワー的ツールというコンテキストに変えたからこそ、iPadは受け入れられた。そんなことです。

 新しい方法を見つけたいです、って。そうですか。それはよかった。では、最後に、いろいろ具体的な話を。

 一言で新しい方法って言うけれど、それは、今までも、いろんな人たちが試みてきたものでもあるんですよね。ソーシャルメディアなんかが急速に発達してきて、あれっ、これは駄目なんじゃないの、これやったら信頼なくしちゃうよ、ということが新しい方法として喧伝されることが多いんですね。でも、そういうのって、ブームの後、かならず問題になって消えていくから、そんなに問題にしなくてもいいのかもしれませんが。

 どれだけ世の中が変わっても広告は広告なんです。広告とは、メディアを使って不特定多数に商品やサービス、あるいは企業のメッセージを伝えるということ。それは変わりません。メディアという変数が変わるだけ。だから、あえて辛気くさい言葉を使いますが、健全な社会にとって広告はどうあるべきか、っていうことを自らが問うていかないといけないことは、今も昔も変わりません。

 最近、流行語になったステマっていうのがあるじゃないですか。読者を偽って、ある業者がソーシャルメディアに投稿をしていたっていう、あれです。あれ、どうして駄目なのか。情報の信頼性を損なうからなんですよね。広告は、情報の信頼性が担保されて、はじめて社会で成り立つものです。いくらものが売れるからといって、それは自らの首を絞めることになります。もうひとつ、広告の場であるメディアの信頼性も損なってしまうこと。広告の意図を隠して読者を装った投稿がたくさんあるメディア、楽しくないですよね。つまり、そんなメディアは淘汰されてしまうんです。

 だったら、悪いのはメディアの広告モデルなんじゃないですか、っていう考え方もありますよね。でも、私はそうは思わないです。というより、広告モデルであることは、メディアにある種の社会性を与えると思ったりもしています。広告があるからこそ、その社会とのバランスを絶えず問われるんですよね。問われることこそが、メディアにとっての社会性、あるいは公共性ではないかと思うんです。それは、Googleとかの動向を見ていても、そう思います。もし、Googleが課金モデルだったら、検索結果にGoogleの意向がもっと反映されるはず。その意向に共感する人だけが使えばいい、ということになりますよね。

 同時に、表現についても、他のどの表現よりも強い公共性が広告には求められます。現場に出れば、それが具体的な規制として迫ってきますし、できれば、表現する人自身にもある種の公共感覚は強く持ってほしいなあと思います。でも、それは萎縮することではないんです。例を出しますね。森林伐採に反対する広告。女の子の髪の毛の半分をバリカンで刈っていくんです。もうひとつ。拳銃所持に反対する意見広告。赤ちゃんが部屋で遊んでいて、部屋にあった拳銃を手にとり、口もとへ。その表現は残酷だ、という苦情もあったんですね。でも、その表現には強い公共性があります。そう考えるとき、それは社会に対して主張しなければならない。それは、広告の公共性を主張することでもあるのです。

 書き出したら、いろいろ話すことはあるなあとは思いますし、まだまだ話せそうですね。でも、居酒屋さんでこんな話ばかりされたら困っちゃうかもですね。私は、わりとそういうタイプだったりもします。もし、お話する機会がありましたら、そのありたは大目に見てやってください。これまで書いてきたことも、そんな、これから広告業界に入りたい人に向けている部分もありますので、もし興味があったら過去ログも探ってみてくださいませ。ひとつひとつのエントリが、悩みながら、迷いながら、とりあえず出した答えだったりもしますので、この人の言ってること間違ってるよねってのもありです。私も、まだまだ考えていきたいです。試行錯誤を続けます。

 お互い、がんばりましょう。

| | コメント (19) | トラックバック (0)

2012年3月 4日 (日)

コンテクストは同じでも、twitterというコミュニケーションの場がつくるモードの中では、表現は生っぽくなる

 というわけで実証。

 状況としては、土曜の深夜、はてなブックマークの新着エントリーで知ったYouTubeのビデオクリップを見て、あっ、これいいなと思ってツイートしたのがきっかけ。KNOTSさんは、なかなか人気のある作家さんみたいですが、私ははじめて聞きました。タイトルが「年越しセックス」というものなのですが、なんか2011年という年を考えると、ああ、確かになあ、そういう気分かもなあと思ったりしました。

 
 で、歌詞や音作りが私の世代になじみがある感じで(Yukiさんの曲なんかに通じるものがありますね。90年代のクロスオーバーな音というか)、こんなツイートをしました。

なかなかよい歌&よい映像。タイトルはあれですが、おすすめ。ちょっと懐かしい音ですね。 / “年越しセックス/KNOTS” http://htn.to/k8SNek

 ということがあり、また、同時に、広告コミュニケーションまわりでいろいろ考えているものの、なんとなくブログに書くにはもう少し寝かせたりしないとなあ、という思いもありながら、たまたまそれがつながって、いきおいでツイートしてみたわけですね。連続性のあるツイートですが、あらすじを頭の中で描いているわけでもなく、書いては展開みたいな感じで、推敲もあまりしていません。元ツイートはこちらでどうぞ。

これぞテレビCMというようなものは別だけど、テレビCMでもセンスよくがんばってみました、いいでしょ、これ、コマフォト載るかもかも、賞とれるかもかも的なものは、YouTubeで流れている個人制作のビデオクリップに負けちゃってるものなあ。まず、動機が違う気がするんです。

言葉だってそう。生活のなにげない気付きや心のつぶやき的な言葉は、80年代以降、広告コピーが得意としてきたし、いまだにコピーライターはそんな言葉にあこがれていろんな商品にあてはめたりしてるけど、この分野では、もうtwitterでときたま流れてくるツイートとかに完敗してると思う。

コピーライターの自負は、生活インサイトを言葉にする、言葉にできる、みたいなことだったんだけど、そんなものはコピーライターが独占してるものでもないわけであって、ネットはそんな表現の部分も、独占から解放したんですよね。

ここ最近の関心領域とあわせて言えば、それは、写植版下からDTPへ、銀塩からデジタルへ、という、あの時が転換点だったと思います。広告で言えば、本当に負けたのは、プロを自負する僕らの本気の表現であって、いいでしょ、これ、本来は広告ってこうあるべきなんだよな、という広告だと思うんです。

これはあまりみんな言わないことだけど、マス広告で言えば、唯一生き残ったというか、絶対領域なのはタレント広告ですよね。タレント広告だけはあいかわらず元気なんです。考えてみれば当たり前で、表現の市場開放のあとでも独占できるのは、こういうタレント広告的なものしかないですから。

で、ね、負けてばかりはいられへんやんか、というのと、でも、ほんとうは負けているよね、こういうYouTubeの映像っていいやん、すてきやん(紳助さんみたいですが)ということを前提にして、もう一度広告を考えていきたいっていうのが、僕のテーマだったりして。

これもなかなか言い切る人もいないけど、広告なんかなくなるわけないんですよ。自営で飲食とかお店とかやってる人ならわかると思うけど、どこかのタイミングでなんらかの形で広告をしなきゃいけないフェイズってあるわけで、その前提で広告の言葉って、表現ってなんだろみたいなことを考えるわけです。

ネット系以外の広告の制作者って、あまりこういうことをtwitterでつぶやかないじゃないですか。それは、私がネット好きというのもあるけど、なんていうかな、こういう夜中のツイートって生活インサイトの表現に近いものがあって、どこかでそれが独占物だと思っているからな気がするんですね。

でも、それはもうとっくに独占物じゃなくなっちゃったんです。twitterはリアルの属性が反映する部分があるから、いままでどおりでもなんとかやれる気もしてしまうんだけど、でも、もう表現は解放されちゃいましたよね。そこで、どうするか。解放されたところからはじめるしかないんです。

僕は最近、若い人に70年代以前のCMとか広告を見る方がいいよ、と言っています。それは、広告がサブカルチャーではなくて、きちんと広告だった時代の広告だから。そこから学ぶことはたくさんありますし、自分自身も新しい発見が多いです。

自分自身も、いろいろ回り道だったり、迷路だったり、ややこしい感じで右往左往しちゃってますが、もういちど、そこからはじめてみようと思ったりしています。なんか、書いてて思いましたが、こういうことを書くのは、ブログよりtwitterがいいみたいですね。

 単純誤植は修正してありますが、まあ、こんなことを書いているわけですね。ちなみに、このツイートに関しては、一連のツイートを書き上げてから、返信をしたりしたので、返信して考えが展開されるみたいな要素はあまり入っていません。

 こういう見せ方はTogetterで簡単にできますし、ブログでもツイートを掲載している方も多いと思いますが、あまりツイートを掲載したりしないこのブログでやってみると、いつもブログで書いている表現と、twitterという場での表現の差がはっきりわかるんじゃないかな、と思い、やってみた次第です。まあ、それと、せっかく書いたのだし、ブログでも載せてやれ、みたいなスケベ心もなきにしもあらずですが。

 個人的には、エントリのタイトルにあるように、ずいぶん生っぽいなあと思いました。でも、まあ、主張自体は、このブログで書いてきたこととそれほど違わないです。ということは、twitterでは“表現”が少し生っぽくなるということですね。それは、twitterが140字の制限があるということと、オープンな場ではあるけれど、少なからず、フォロー、フォロアーという、ある程度は自分が把握できる関係値の中で書いているということもあるのでしょうね。

 ちょっと真面目に言うと、このブログで「表現の問題」という表現で言ってきたことのひとつには、こういうことが少し関連しています。つまり、広告コミュニケーションに限定して言えば、メディアが多様化してきた今、コミュニケーションの場にはいろいろあって、その場は、それぞれモードが違います。そのモードが違う中では、そのモードに最適化した語り方というものがおのずからあるわけで、そのことを身を持って示すことができるかな、と。もちろん、ツイートをした時点でそんなことはまったく考えていないわけで、事後的にですが。

 それと、もうひとつあります。語り方はモードによって最適化する限り違ってくるけれど、語りたいこと、つまり、語りのコンテクストは違わないんですよね。ブログであろうと、twitterであろうと、それに、私の場合は、リアルでも、ほぼ同じコンテクストなわけです。実際に会ったら、まったく違うことを言ってたよ、ということは私の場合はまあ、ほとんどないです。これは、自分で言うことではなく、他人が評価することではあるんですが、まあ、自己評価としては、この分野については、そうかな、と。

 こういうこと、私が広告の仕事を始めた頃は、あまり意識はしていなかったんですよね。広告とカタログは違うよ、とか、店頭はもっとこんな感じで、みたいな話はありましたが。今はもっと細分化されていますよね。もちろん、今でも、メディアをクロスして使わなければ意識はしなくていいんですが、そういうわけにはいかないこともたくさんありますよね。それに、そういう多様化で、もうマスメディアという場のモードも変容してきているわけですし。

 今まで通りではしんどいよなあ。それが、私のベースというか、通奏低音なわけです。とまあ、元ベーシスト的なちょっと格好をつけた言い方をしてしまうところは、ブログという場がつくるモード故なんでしょうね。ちなみに、こういう通奏低音という言葉の使い方は、音楽的にはちょっと違うらしいですよ。調べてみたらちょっと面白いです。

 では、引き続き、よい日曜日を。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年2月29日 (水)

捨てる決断

 iPod Touchを紛失しました。ジャケットの胸ポケットに入れていて、ジャケットを脱いで椅子の背にかけたときに落としたのだと思います。その後、残念ながらiPod Touchは出てきませんでした。8Gなので、16,800円。ちょっと痛い。でも、思ったよりも落胆はなく、そのことに自分ごとながら少し驚いています。

 パスコードをかけているので、まあ第三者に使われることもないでしょうし、フラッシュメモリに記録されている写真データなんかもiCloudを通してMacBookに保存されているし、iPod Touchだけに保存されている情報も特になく、あえていえば、ちょっと退屈だなあ、とか、メールとかtwitterとか、いろんなものが外でもサクサク見られたのに、それができなくなっちゃったなあ、ということくらい。まあ、今までなかったものだし、それ以外は特に不自由もありません。

 逆に、主に自宅で使っているMacBookや、出先で使っているMacBook Airが盗難されたり紛失したりしたら大変なことになっていただろうな、と思います。クラウドサービスを使い出してから、紛失・盗難時の衝撃度は低くなったものの、それでも大切な情報をたくさん保存していますし、なによりも、毎日のいろいろな活動に支障がでてしまいます。ブログだって書けませんし、コピーも企画書もつくれなくなってしまいます。それでも私のベースは言葉だから、紙とペンがあればなんとかなりますが、アートベースや映像ベースの人は、もっと大変でしょうね。また、営業や経理の方なんかは、もう目も当てられない状況になるかもしれません。

 ●    ●

 個人にとってのコンピュータが、クリエイションツールとビューアに二極化しているということを、今回の紛失であらためて実感しました。ちょっと前までは、個人にとってのコンピュータはクリエイションツールとビューアが一緒になったものでした。あえて言えば、そのつくれる、見られるコンピュータを、少し性能を犠牲にして外に持ち出せるようにしたモバイルというジャンルがもうひとつあったというくらいのものでした。

 もちろん、iPhone、iPod Touch、iPadでもクリエイション用途に使えなくはありませんし、Mac Bookはビューアとしても、もちろん使えます。しかし、普通の人たちがクリエイションのためのコンピュータと、もっぱらコンテンツを楽しむためにつくられたビューアとしてのコンピュータを当たり前のように使い分けている今の状況は、少し前の個人向けコンピュータの常識からは考えられない状況なのではないでしょうか。

 この状況をつくったのは、まぎれもなくAppleだと私は思っています。それも、かなり意識的に。そして、相当大きなリスクをとって。たぶん、今、私たちが当たり前のようにiPhoneやAndroidなどのスマートフォンを使っている状況は、Appleがそのイメージを持ち、その実現のためにリスクをとっていなければなかったものだと思います。私は、iPhoneが登場するかなり前から、Windows CEのスマートフォンを使ってきましたが、残念ながら、Microsoftには、クリエイションツールとビューアの二極化という未来のイメージを持っていなかったように感じます。持っていたのは、クリエイションもビューアもできるコンピュータを外に持ち出せるというモバイルというイメージだけです。

 ●    ●

 1998年に、AppleはiMacを世に送り出しました。キャンディーカラーのディスプレイ一体型のコンシューマー向けパソコンです。そのカラフルな筐体は、「これからのパーソナルコンピュータは、生活の一部として、もっと日常に入ってくるよ」というメッセージを投げかけました(参照)。そして、そのメッセージは世界中で受け入れられました。

 その1年後、iMacのノートブックバージョンであるiBookが登場します。iMacと同様のキャンディカラー、貝殻をモチーフにしたポップな筐体をまとったiBookは大ヒットしました。

 しかし、たぶん、そのときのAppleには、まだクリエイションツールとビューアの二極化という未来のイメージはなかったのだろうと思います。そこにあるのは、まぎれもなくモバイルというイメージです。

 ●    ●

 その頃のAppleのノートブックは、デスクトップのiMacとPower Mac同様、低価格のiBookとハイスペックで価格も高いPowerBookの二本立てでした。その戦略には、特筆するものはありません。多くのPCメーカーも同様の戦略を取っていましたし、コンシューマー向け、プロ向けという区分は、Appleの意志というより、デザインや映像でのニーズが高かった市場の要請によるものだろうと思います。

 しかし、2006年、PowerBook、そして、iBookというブランド名をAppleはあっさり捨ててしまうのですね。動機としては、CPUがPowerPCからIntelに変わったことなんだろうと思います。そこにはいろいろあったはずで、Powerという名称をもう使いたくないという気分もあったのでしょうし、CPUが変わるタイミングでブランド名を変更することでブランドのリバイタル、リフレッシュを図る意図もあったのでしょう。

 PowerBookはMacBook Proに、その流れで、iBookはMacBookになりました。

 これは、Appleが公式に言っていることでもないし、単なる私の憶測に過ぎないことですが、この前後で、クリエイションツールとビューアの二極化という未来のイメージができたのではないかと思います。結果的になのか、それとも、かなり意識的にかはわかりませんが、iBookという資産価値の高いネーミングを捨て、ノートブックから、仕事ではなく、プライベートを含めた“私”を意味する「i」を切り離したことで、ノートブックに変わる、別の「i」をつくるという動機をAppleは得ることになったのでしょう。

 それは、iPodであり、iPhoneであり、iPadであり、これから登場するであろうiTVのことです。

 ●    ●

 現在のAppleの製品ラインナップは、そのどちらの系列もあわせもつ、コアの製品であるiMacを中心として「Mac」系と「i」系に分かれています。「Mac」系はクリエイションツール、「i」系はビューアとしての位置付けになっていることがはっきりとわかるラインナップです。ウェブサイトを見ても何の説明もされてはいませんが、こうして製品を整理して並べるだけで、あきらかに意識はしていることがわかると思います。

Apple_2 歴史にもしもはないと言いますが、もし、今もiBookというブランドが残っていたとすれば、iPod、iPhone、そして、何よりもiPadという製品があそこまで明快にビューアとしての機能に振り切れたかどうか疑問です。きっと、かつてのWindowsタブレットのように、クリエイションツールの機能への未練から、どっちつかずの単なるモバイルになってしまっていたような気がするんですね。上の図のMacBookをiBookに置き換えた図を想像してみてください。今、Appleの製品群から感じられるメッセージは、もうそこにはなくなっているはずです。

 コンシューマーという芳醇な市場を持ち、そのコンシューマーをイメージさせるiBookというブランドを捨てる決断があったからこその、Appleの今なんだろうと思うのです。ネーミングというものの重さを感じます。この、マーケティングの見本というか、最先端のマーケティングの教科書のように、高度な戦略に基づき美しく整理されたブランドラインナップは、いかに捨てる決断というものが重要かということを見せつけられる思いがします。

 そして、これは、本題とは少し離れたものですが、もうひとつ。

 なぜか、映像コンテンツのセットトップボックスが「i」でもなく「Mac」でもない、AppleTVなんですよね。これは、もともとiTVというコードネームで開発が進んでいたものだそうですが、発売されたときにはAppleTVに変更になりました。そして、これから登場するであろうビューア、つまりテレビは、iTVになる予定です。なるほどねえ。やっぱりなあ。少し前に流れたニュースを見ながら、そんな感想を持ちました。

 で、この小さなセットボックスに、Appleは、社名であるAppleの名を冠してきたんですよね。というからには、たぶん、このAppleTVは、このセットボックスがきっとそのブランドの実体ではないはずです。そうか。最終的には業界を含めたテレビそのものを制する気なのだな、すごいことを考えるなあ、でもそこは今までみたいにうまくいくかなあ、なんて思うのですが、いかがでしょうか。

 ●    ●

 捨てる決断は大事と書きましたが、私はiPod Touchを捨てることはできなさそうです。なんか、同じ物を二回も買うのは釈然とはしないけど、やっぱり一度使うと便利だしなあ。Appleにやられっぱなしというのは、ちょっとおもしろくない気もするけれど、また近々購入することになりそうです。

 16,800円×2。締めて、33,600円。ああ、もう、なんだかなあ、ですねえ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年2月19日 (日)

「つぶやき」と「いいね!」

 2年前の今頃、『「つぶやき」と訳したのがよかったのかもね。』というエントリを書きました。読み返してみて、あの頃は、私はまだtwitterユーザーではなかったんだなあ、と土曜の深夜にしみじみ。ちょっと前のエントリを引用してみます。ちょっと長いですが。あの頃、twitterの宣伝文句はこんな感じだったんですね。

 サービスがはじまった当初のキャッチフレーズは、こうでした。

What are you doing?

 日本語で言えば、「今、何してる?」という感じですね。Buzz(このBuzzって、蜂のブンブンという羽の音のこと)的な、気軽で前向きなコミュニケーションの指向性を感じますね。これも、相手に語りかけるという意味では「つぶやき」とは違います。

 で、今の英語版のキャッチフレーズは、こうなってます。

4_3

Share and discover what’s happening
right now, anywhere in the world.

See what people are saying about…

 うまく訳せませんが、直訳で言えば「世界中のいろんなところで、たった今何が起っているかを共有しよう、発見しよう。みんなが何を話しているか、見てみる…」という感じでしょうか。それが、日本語版ではこうなります。

2_3_2

あなたの今を共有して、
ツイッターで世界の出来事を知ろう

みなさんが何をつぶやいているか見てみよう

 英語では、tweetではなくsayが使われ、そのsayが日本語では「つぶやく」と訳され、みたいな関係です。まあ、tweetはsayの比喩表現でもあるから、地の文としてはsayになるでしょうね。それが、日本語では「話す、話しかける」とか「おしゃべりする」とかではなく「つぶやく」となっていて、これは既に「Twitter=つぶやく」という構図が出来上がっているということも多分にあるでしょうけど、この「つぶやき」というキーワードは、とても日本語圏のユーザーに受け入れられやすい言葉のような気がします。

 say、つまり「話す」という行為は、必ず相手が必要な概念です。一方の「つぶやき」は相手がいらない言葉で、そこがよかったんでしょうね。最終的には、「コミュニケーションを楽しむ」という同じベネフィットがあるにしても、その導入では、英語圏と日本語圏ではちょっと切り口が違うんですよね。日本では、まず自分。内省的。これは、日本語圏のユーザーが内省的というわけではなく、導入において「さあ、楽しいコミュニケーションを」といくと、まず入り口でつまずくということ。心理的な敷居が高すぎるんです。

 この「つぶやき」という訳語はほんと絶妙で、もちろん、この「つぶやき」という言葉だけが貢献したわけではありませんが、2年経った今、twitterは日本市場で受け入れられていきました。世界でも、日本はtwitter好きだそうですね。私も、かなり好きになりましたし、それは「つぶやき」という気軽さもあると思います。

 もうひとつ、引用。これは、Facebookが台頭してきた今、twitterというウェブサービスの基本構造を考えるうえではかなり重要な部分ではないかな、と思います。

 日本語版の訳は、英語の元の文とは少し意味が違っていますね。このあたりは、すごく興味深いです。英語の元の文が、shareとdiscoverが同列(Share and discover)なのに対して、日本語ではshareすればdiscoverできる(共有して知ろう)という関係になっています。少し啓蒙的です。shareしなけりゃ、discoverなんてできないんだよ、という感じ。

 これも文化の違いなんでしょうね。日本では、shareという概念は、どうしても身内の中でのshareという概念になりがち。でも、Googleなんかが代表的ですが、いわゆるWeb2.0的な文脈のshareは、コミュニティ内のシェアではなく、もっとソーシャルに広く、言ってしまえば、ウェブのすべてに広がるshareです。ここでは、前者のshareと後者のshareは、じつは対立概念になります。この少しばかり啓蒙的な日本語の言い回しには、もしかすると、そんな日本人スタッフの思いも少し入っているのかもしれませんね。

 twitterは基本的にはオープンなウェブサービスで、少数のフォロー、フォロアーで使用している人も、そのツイートはウェブの世界に開かれています。ブログにおける個別エントリのように、ツイートにはひとつひとつパーマリンクが発行されますし、時間はかかりますがGoogleにもインデックスされます。大通りや大広場であっても、路地裏や小さな公園のベンチであっても、上を見上げると同じ空、みたいな感じです。

 そんなオープンで外向的なウェブサービスであるtwitterは、日本市場では「tweet」を「つぶやき」と、あえて内向的に表現しました。これ、今になって思いますが、日本で受け入れられるために、かなり日本のインターネットユーザーのインサイトを考え抜いたんだろうと思うんですね。オープンなプラットフォームだからこその「つぶやき」。とりあえず、あなたが思ったことをつぶやくだけでいいんですよ、コミュニケーションはあとからついてきますから、というようなお誘いの仕方。公共空間では、あまりコミュニケーションや自己主張を避けがちな日本の人たちにぴったりなアプローチです。

 で、一方のFacebook。

 Facebookは、基本的にはそれぞれのユーザーの情報のやりとりは、Googleにインデックスされませんし、プロフィールはネットにオープンにはなっていますが、基本は、mixiのように、また、古くはメーリングリストのように限られた人たちのコミュニケーションを実現するプラットフォームです。

 このクローズドSNSの中核機能である「Like」をFacebookは日本市場のためにどう表現したのか。ご存知のとおり「いいね!」ですね。これ、twitterとまったく逆のアプローチです。つまり、内向的なウェブサービスに、より外向的にお誘いするというアプローチ。

 英語でいうLikeは、「いいね!」よりもあっさりした意味合いがありますよね。好きという概念に対して、英語はLoveとLikeの2つの語に分かれていて、Likeと!も付けずに放り投げる感覚は、日本語の「いいね!」とはずいぶん違います。これも、twitter同様、かなり日本のインターネットユーザーのインサイトを考え抜いたんだろうなあと思うんです。

 あまりいい言葉ではないですが、旅の恥は書き捨てという言葉もあるように、仲間内どうしだと、かなり濃密なコミュニケーションや行動をするところがあるように思います。安心感がある空間ではのびのびするのも日本の人の特徴。そういう人たちに向けて、クローズドなサービスが「いいね!」とアプローチする。twitter同様、これまたお見事です。

twitter:オープン(外向的) tweet=つぶやき(内向的)
Facebook:クローズド(内向的) Like=いいね!(外向的)

 この「つぶやき」と「いいね!」はもう当たり前の言葉になってしまいましたから、あまりこのアプローチの凄みがわかりにくくなってしまっていますので、参考として、twitterのtweet、FacebookのLikeを、その機能をそのままに、あえて、普通、何も考えずにフラットに訳したらこうなる、というのを示しておきます。これまでのウェブサービスの文脈もふまえるとこんな感じになるのではないでしょうか。

tweet=おしゃべり
Like=お気に入り

 こうなると、やっぱりそれぞれの魅力が半減どころか、ずいぶん普通に思えてきますね。なんだか、インサイトの踏み込みが一皮甘い感じ。特にtwitterには抵抗感がでてきそうです。FacebookのLikeも「いいね!」と表現したからこそ、今、広告業界でゴールドラッシュみたいになっているんでしょうね。もし「Likeをふやす」とか「お気に入り数アップ」と企画書に書かれていても、なんでもかんでもFacebookページという状況にはならなかったと思います。

 この「いいね!」という訳によって、広告欄やコメントなどにつく「いいね!」は、日本ではこんな感じで表現されるんですね。日米の比較です。

○○ like this.
○○さんが「いいね!」と言っています。

0,000 people like this.
0,000人が「いいね!」と言っています。

 これ、ほんと見事です。嫌みなくらい見事。日本では「いいね!」と「言っています」なんですよね。なんだかなあ、すごく読まれてる。憎らしいほど読まれすぎてます。ユーザー推奨はもともと効果がありますが、それを仕組みとしてドライに表現するのではなくて、より同調の負荷がかかるような「あの人も言ってますよ」的な表現にしたのは見事としか言いようがないなあ。情報商材のネット通販なんか、ぜんぶこれですものね。あの「いいね!」はフィクションに近いし、一方通行の「いいね!」ですが、こちらはリアル。強いです。

 個人的には、日本語表現の過剰なまでの見事さは、実態以上に企業の「いいね!」されたい熱を加速させた一方で、企業とユーザーの直接交流的なFacebookの良さはちょっと見えにくくしてしまっているので、やがてFacebookのネックになってくるんじゃないかな、とは思うんですが、でも、そうなればなったでまた対応はしてくるのでしょうし、まあ、Facebookとしてはいいところで落ち着くのではないでしょうか。

 企業側、業界側では、今、人気投票的な部分がクローズアップされて、人気を得ればマスに匹敵するメディアがつくれますよといったとらえられ方がされがちですが、twitterもFacebookもソーシャルメディアではあるので、基本は継続的な情報発信とその情報をもとにした継続的な直接対話。その性質上、原則的には所謂「ハードセリング」には向かないとは思うんですね。本来は、一時的な加熱を狙うのではなく、地味にコツコツやっていくタイプのものではあると思います。

 最後に、同じく2年前の『ソーシャルメディアとの距離の取り方』というエントリから引用します。

 せっかくのソーシャルメディアへの参加です。初期費用はゼロに近くても、継続のもろもろを考えればゼロではありません。短期の成果を急ぐあまり、ソーシャルメディアで嫌がられては本末転倒です。マイナスのブランディングだけは避けたいですよね。そのためにも、どうソーシャルメディアと距離を保ちながら付き合っていくのかを考えることは大切です。めんどくさいけど、そのことをきちんやるのとやらないのとでは、2年後、3年後、ずいぶん違ってくるのだろうな、と思います。

 あれからtwitterもFacebookもずいぶん広まったけれど、今も考えはほとんど変わりません。もっとも、ソーシャルメディアという位置づけが変わらない限り変わりようがないとも言えますが。ちょっと夢や希望を熱く語らない分、もしかするとつまらない印象はあるかもしれませんが、なるべくフラットに冷静にソーシャルメディアを考えていきたいとあらためて思っています。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2012年2月11日 (土)

すっぴんうどん

 近くのおいしいパン屋さんでクロワッサンを買って、うまいなあ、サンドイッチもいいけど、やっぱりパンのうまさはパンのうまさだよねえ、パスタも塩こしょうとバターのがうまいし、うどんそばも盛りがうまいよなあ、うん、海原雄山の言う通り、なんて朝から悦に入ってたら、なんか昔のことを思い出しました。

 その昔、コピーライター養成講座に通っていたことがあるんですね。CIプランナーの見習いをやっていた頃で、もちろん自分の希望でもあったんだけど、その頃、会社が人員削減とかで人手が足らなくなってきていたりして、コピーライターの見習いを兼務していたんですね。とりあえず見よう見まねでやってはいるけど、これじゃ駄目かなと思って通い出したんです。確か、宣伝会議が倒産して、まだ再建できていない間の頃で、一時的に久保田宣伝研究所コピーライター養成講座という名前だったと思います。

 で、その講座で、こんな課題が出たんです。

 「あるうどん屋さんがあります。そのうどん屋さんは、素うどんがあまり売れていません。素うどんがもっと売れるような広告案をつくりなさい。」

 聞いた直後に、素うどんが売れてなくても、天ぷらうどんや鍋焼きうどんが売れてるんだったらいいんじゃないかなあ、そのほうが利益率もきっと高いし、とは思ったんですね。今思えば、素直じゃない生徒だったなあと思いますが、それまでの授業は、RTB(Reason to believe)的なことについてだったから、出題の意図は、広告っていうのはイメージだけじゃ駄目なんだよ、ちゃんと消費者に信じられる理由を提示できなきゃいけないんだよってことだったんだろうとは思います。

 出題者が意図する正解は、職人さんの写真が出ていて「うどん作り一筋、五十年。職人が心を込めてつくっています。まずは素うどんでこそ味わってほしいうどんです。」的なこととか、小麦畑の写真で「国産小麦100%。この味、このコシ、この香り。私たちのうどんは、まず素うどんが違います。」的なことですね。

 でも、その頃の私は、今よりももっと空気が読めない奴だったので、あえて素うどんを売りたいのかあ、なんでだろ、でもまあ、きっとちゃんとした理由があるんだろう、でも、素うどんを売りたいと思ってるのに、自らが、具の乗っていないうどんを素うどんと呼んでいて売れるわけはないよなあ、素うどんって、お金ないときに食べるっていうイメージがついてるし、まずは、素うどんという言葉が持っているコンテキストを変えることが必要じゃないのかな、なんて考えたわけです。

 で、出した回答。

 素顔の女の子の写真に、正確なのは忘れちゃったけど「でも、やっぱり素顔の君がいちばん好き。」みたいなキャッチコピーで、下に素うどんの写真とともにでっかい文字で「すっぴんうどん 280円」ってつけたんですね。まあ、写真とキャッチはお客さんが男性だけじゃないってこととか、コピーが若気の至りっぽいこととか、ちょっとうどんの世界と距離があって伝わる速度が遅いこととか、そのデメリットも十分に検討しないといけないと思うのでご愛嬌なんですが、要は、素うどんを売りたいということなら、「素うどん」っていうコンテキストから「すっぴんうどん」っていうコンテキストに変えませんかっていう提案だったわけですね。

 その講義では生徒がつくった広告案が張り出されて、生徒がどれがいちばんよかったかを投票するわけです。で、人気が一番だったのは私の解答だったんですね。それは、信じられる理由をていねいに提示する比較的地味な広告案がずらっと並ぶ中で、私の広告案が目立つってこともあったんだろうと思いますが、とたんに、講師の方が困った顔になったんですね。その顔を見たとき、当時の私はようやく気付くんですね。

 あっ、この問題で言いたかったことはそういうことか。まずったなあ。

 その後、人気投票の結果は見事にスルーで「すっぴんうどん」はなかったように講義は進んでいきました。あの気まずい感じ。いまだに思い出すってことは、当時の私にとっては相当堪えた出来事だったんだろうなあ。

 でも、あれから20年以上経って、コンテキスト、コンテキスト言ってるわけだから、まあ、あのコピー講座は通ってよかったんだでしょうね。自腹で、そのうえ中退しちゃったけど。

 ちなみに、こういうコンテキストに変えてうまくいったのは、はなまるうどんとかの讃岐系チェーンだと思います。かけを基本に、好みで具を追加していく讃岐ならではのやり方は、なによりもまず、売りたいのはうどんそのもののうまさなんだっていうコンテキストをつくりましたよね。

 何よりもうどんがうまい。そのうえでの、天ぷらであり、コロッケなんだ、みたいな。はなまるうどんを見ていると、そのあたりうまくやってるなあと思います。讃岐うどんのシステムはもちろん、屋号は「はなまる」だけど、コミュニケーションでことあるごとに「はなまるうどん」にしているところとか、かけをお試し価格で提供しているところとか、そのぜんぶがあわさって、うちが売りたいのはうどんそのものなんです、っていうメッセージになっているんですよね。

 若かった当時の私にちょっと言いたいのは、素うどんを売りたいという課題だから「すっぴんうどん」はまあいいけど、ほんとにコンテキストを変えようと思うなら、その下の部分に、「あわせてどうぞ。かきあげ 100円 えびの天ぷら 150円 きすの天ぷら 150円」みたいなことを書いておくべきでしたね、残念でした、みたいなことですかね。

 では、みなさまよい休日を。今日のお昼はうどんにするかなあ。

関連エントリ:本質価値と付加価値についての覚え書き

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2012年1月28日 (土)

小島慶子さん「キラ☆キラ」降板のポッドキャストを聴きながらターゲティングの功罪について考えてみました

 TBSラジオのお昼の人気番組「キラ☆キラ」のパーソナリティ、小島慶子さんが降板されるそうです。いろいろ憶測でニュースが流れたりして、その誤解を解くために、小島さんが自身の言葉でオープニングで降板の理由を語っています。

 理由は、局側から「まだラジオを聴いていない、40代、50代の男性の自営業の人を意識したしゃべりをしてください」と言われて、「ラジオはリスナーとの会話。今聴いている人に話しかけながら、その肩越しに聴いていない人を呼び込むしゃべりをしろ、と言われたら、それは絶対できない」とのことで自分から降板を申し出たそうです。出典:J-CASTニュース

 生放送ですが、TBSラジオのサイトでポッドキャストで聞くことができます。こういうニュースは活字で読むとニュアンスが変わるし、これは結構重要なことですが、この話が語られたのは隣にピエール瀧さんがいて、彼女の話を聞いてくれているという状況ですので、その部分を押さえなければいろいろ間違えそうです。興味のある方はぜひ聞いてください。興味深いトークだと思いますし、おすすめします。

 2012年01月26日(木)オープニング ー TBSラジオ「小島慶子 キラ☆キラ」

 直球ど真ん中で熱く語る小島さんと、少し距離を置き小島さんの思いを受け止めながら、小島さんの放送を楽しみにしているリスナーのことも考えて話す、大人なピエール瀧さんもどちらも素敵です。この音源だけで「プロってなんだろう」みたいなテーマで徹夜で語りあえそう。

 で、このポッドキャストを聞いて、なるほどなあ、そうだよなあ、ターゲティングって一体何だろうなあと思ったんです。局側の「40代、50代の男性の自営業の人を意識」という言葉は、あまり気持ちのいい言葉ではないけれど、そんなに突飛な発言ではないですよね。これを突飛と言い出したらマーケティングなんて成り立たないです。また、この話がラジオパーソナリティの話ではなく奇跡のプレゼン術だったりしたら肯定的に受け止められる話かもしれません。

 でも、ラジオパーソナリティは局のマーケティング戦略のパーツではなく生身の人間ですので、それはできないという小島さんの気持ちは痛いほどわかります。先のポッドキャストでも、たぶん、ピエール瀧さんはその小島さんの気持ちは全面的に肯定していて、その上で、そんな内輪の話は今聴いてくれているリスナーさんにまったく関係がない話なんだから、大人として、プロとして受け流して、聴いてくれるリスナーさんのために全力を尽くせばいいじゃないか、ということなんでしょう。

 また、ピエール瀧さんはそこまで言っていませんが、たぶん、聴いてくれるリスナーさんに一生懸命に語ることで、まだ聴いていない人にも届くかもしれないし、まだ聴いていない人に届けるのはそれしかない、ということも思っている感じがしました。それは、ピエール瀧さんがミュージシャンでありアーチストだからだろうと思います。

 じつは、この話が象徴していることは、マーケティングにとってターゲティングがいかに繊細で難しいか、ということだと思います。このケースのように、番組がはじまって人気が出てしまったら、ターゲティングの変更はほぼ不可能。小島ちゃん、そこをなんとかよろしく、ではたぶん無理だと思います。番組を変えることしかやりようがありません。

 マーケティング、とりわけターゲティングは、広告の文脈で言えば、フレームワークのフェイズで考えるべきことで、あと出しジャンケン的に立ち上がってから変更するのは不可能だと考えたほうがよさそうです。それでもターゲティングは難しいのだから。

 ターゲティングは難しいという例をひとつ。

 白鶴に「鶴姫」という低アルコール・低カロリー吟醸酒があるんですね。少し少なめの300mlビンで、軽い味わいでなかなかおいしいです。この「鶴姫」、もう20年以上前になりますが、デビューの時は若者をターゲットにしていました。当時、缶入りでイルカのイラストがおしゃれな「飛沫(しぶき)」という発泡日本酒が若者を中心に受けていて、その流れで、ターゲットを若者に、ということだったと思います。

 で、テレビCMのキャンペーンを大々的に打って、「鶴姫」は売れたんですね。でも、若者に、ではありませんでした。この「鶴姫」を買ったのは主にお年寄りだったのですね。お年寄りはあまりお酒をたくさん飲めませんよね。また、アルコールも低いほうがからだにやさしいし、晩酌に少しだけというのも、お年寄りのニーズに合っていました。

 ターゲティング的には見当違いということですが、この「鶴姫」はお年寄りに今も愛されて、20年以上経った今も愛されるブランドになったんですね。皮肉なようですが、これもターゲティングの一面ではあるんです。でも、もちろん、ターゲティングは意味がないということではなく、むしろ、マーケティングとはターゲティングと定義してもいいくらい重要で、ターゲティングひとつで商品やブランドの運命が決まってしまうほどなんですけどね。この「鶴姫」だって、若者にこだわっていたら、たぶんもう存在していないと思います。つまり、今も「鶴姫」があるのは、事後的ですが、お年寄りにターゲティングしたからとも言えるんです。

 なんか、そう考えると、小島慶子さんが降板するのは惜しいなあと思います。なんか、双方にしあわせな話ではなさそうで、しかも、ボタンの掛け違いっぽいんですよね。感情のこじれというか。局側に「まだラジオを聴いていない、40代、50代の男性の自営業の人」を本気で取りにいくつもりだったら、番組ごと変えるのもありだと思いますが、どうも話を総合するとそんな感じでもなさそうだし。真相は知りませんので、もっと何か別のことがあるのかもしれませんが、とりあえずは神足さんが戻ってくるまでは続けてほしかったなあ。

 今からでも遅くはないと思いますし、なんとかならんもんなんですかねえ。

 ■関連エントリ:「広告表現とターゲティング感覚

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年1月12日 (木)

ステマ

 ちょっと前にステマという言葉がネットの人気ワードになっていて、最初、何のことかいまいちわからなかった。で、ちょっとリンクを見てみると、ああ、なるほどね、ステルスマーケティングのことか。知らないあいだにステマって言うようになったんだ。

 スマートフォンのことをみんながスマホと呼び出したときの気持ちにちょっと似ている。軽い敗北感。ほんの数年前、スマートフォンって単語を使ってるのはウィルコムユーザーくらいしかいなかった。今やスマートフォンを通り越してスマホ。そんなスマホをあきらめたウィルコムは好調。時代は変わる。

 グルメ系の口コミサイトに投稿されていたコメントが業者のものだったというニュース。テレビでも報道されて警察も動いているとのこと。ネット関連株も下がったらしい。愉快な話ではないけれど、ひとつのきっかけとしてはいいのかもしれないとも思う。

 業者のコメントで順位が上がったお店は大人気だったらしい。妙な話だけど、逆にそのグルメ系メディア、つまり、消費者の評価の影響力の大きさを証明とも言えるし、昔、マス広告全盛時代に「広告より口コミを信じましょう。」という広告コピーがあったけど、頭いいでしょ的な広告の自己否定をはるか彼方に置き去りにして、時代はますます口コミへ。反動はない。たぶん。

 少し前に、世界最大手の検索サイトが日本市場限定でユーザーのブログを利用したキャンペーンを実施したことがあった。それを知ったアメリカ本社は、即刻、キャンペーンを中止し相当重い処分を下した。問題になったのは、ブログを使ったということではなく、ユーザーに報酬を払ってユーザーにブログを書いてもらったこと。さらに詳しく言えば、そのブログにnofollowという検索サイトのページランク対象外を示す属性をつけなかったことが問題になった。

 それは、その検索サイトにとって、ページランク、つまり、リンクの順位付けへの信頼がそのままサイトへの信頼につながっていたからだ。サイトへの信頼。それは、すべての収益の基礎。その信頼が壊れれば、やがてすべての収益を失う。実際、黎明期に信頼の喪失により消えた検索サイトもある。世界最大手の検索サイトはその歴史から学んだ。

 口コミサイトにとっての生命線は口コミ。その信頼を失えばすべてを失う。

 これからもステルスマーケティングは行われるだろう。ステルスマーケティングを利用する企業もなくならないだろう。広告やマーケティングの信頼性を阻害してまでも儲けたいやつは、いつの時代もいる。

 けれども、口コミを生命線にするサイトを運営する企業は、そのことに対して毅然とした排除の意思を示す必要があった。どのネット企業よりも厳しく示す必要があった。合法、違法、そんな第三者の基準に関係なく、運営の姿勢として。それが嘘偽りなく感じたことを書いてくれるユーザーを信じるだと思う。守ることだと思う。そのサイトを愛するユーザーの信頼を運営が守らなくて誰が守るというのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年3月 2日 (水)

パーセプション・チェンジはコンテキスト・チェンジである

 広告コミュニケーションの領域で「パーセプション・チェンジ」という言葉が使われていましたが、最近はあまり聞かなくなってきました。パーセプションというのは、日本語で言えば意識とか認識。つまり、パーセプション・チェンジとは、意識や認識を変える、ということ。

 こうして日本語にしてしまえば簡単なことで、要するに、「あっ、こんな商品がある」と人の意識に刻み込むこと。で、その手法はいろいろ。例えば、CMで商品名を連呼したり、とにかく露出を高めたり、人気タレントを起用したりしても、パーセプション・チェンジはできますし、ネットでいえば、バナーやリスティングの集中出稿でもできます。消極的な意味では、すべての広告はパーセプション・チェンジができます、ということなんですが、積極的な意味では、パーセプション・チェンジは、意識や認知の劇的な転換みたいなニュアンスを持った用語です。

 ではなぜ、最近、パーセプション・チェンジという言葉が使われなくなってきたか。それは、きっと、マス広告が以前ほどの力を持たなくなってきたからでもあるんでしょうね。その一方で、TwitterやFacebookなどのソーシャルメディアが力を持ってきて、広告コミュニケーションの領域でも注目を集め、ソーシャルメディアをどう活用するかに話題の重心が移ってきたからでもあるのでしょう。

 なぜソーシャルメディアに話題の重心が移ると、パーセプション・チェンジという言葉が語られなくなってくるのか。それはもうわかりきった話で、ソーシャルメディアは、パーセプションができた段階ではじめて活用されるべきコミュニケーションの場だからです。ブランドの認識がなければ、人がソーシャルメディア上で能動的に参加するはずもなく、つまりは、ブランド認知ありきの、その先にどうしていくか、というところでの話をしているわけだから、そりゃ、パーセプションの話はでてきませよね。

 でも、そもそもブランド認知がなければ、いくらソーシャルメディアを使ったところで、その先はどうにもならないのは当たり前です。だって、0になにかけても0なんですし。笑い話ではなく「フェイスブックのことを告知する広告」が必要になってしまうんですよね。ソーシャルメディアを活用する、ということは、つまり、パーセプションが前提になっているわけです。そのあたりの見きわめは、こんな時代だからこそ、ほんと大事だと思うんですよね。(このあたりについては「ソーシャルメディアとの距離の取り方」にも書きました。)

 これで話が終わってしまうと、ソーシャルメディアもいいけど、パーセプションをつくることも大事ですよ、それでは、それでは、というつまらない話になってしまいますが、本題はここから。こんな時代の「パーセプション・チェンジ」について書きます。というか、もともと書きたかったのは、こっちのほうです。

 パーセプション・チェンジというからには、チェンジ、つまり変化です。こんな時代、つまり、いろんな場所でいろいろ語られたりして、その多くがネットで可視化され、増幅される世の中だからこそ、変化のあり方が問われるのではないかな、と思うんですね。

 それはつまり、この先、どう語られたいか、が大事ということ。

 コンテキスト、文脈です。どういうコンテキストでそのブランドを認知されるのがよいかを考える、ということです。ただの認知では、もう駄目だと思うんです。これは、言い切っていいと思います。これまで、最初に書いたような、連呼やタレントによる、比較的単純な認知による認知の変化も、パーセプション・チェンジとして語られました。けれども、本当にパーセプションを獲得し、ブランドがきちんと世の中に存在し、この先も、きちんと成長していくためには、単純認知に加えて、適切なコンテキストというものが絶対に必要です。

 コンテキストがなければ、単純認知だけに、認知のドライバーになってる広告が終わればすぐに忘却されます。それは、認知がタレントやブランド名にしか結びついていないので自然な過程です。また、たとえコンテキストがあったとしても、それが適切でなければ、むしろ、そのパーセプション・チェンジは、負のパーセプションとして働いてしまいます。つまり、ブランドにとって不適切に語られ、ブランドの健全な成長を阻害してしまうんですね。

 コンテキストは、ブランドの成長過程によっても変わっていきます。ブランドが次のステップに行こうとするとき、その成長にあわせて新しいコンテキストが必要になってきます。思えば、その新しいコンテキストの獲得に失敗して、あるいは、かつてのコンテキストに縛られて、一過性のブームで終わってしまったり、かつての勢いを失ってしまったブランドを、これまでたくさん見てきました。これからの時代、ソーシャルメディアの興隆に象徴されるように、ブームとして消費されてしまう速度も速くなってきて、終わる速度も、そのぶん速くなっていくでしょうし。

 パーセプションを本当に変えるものは、コンテキストだと思います。英語だから、そのあたりあいまいになっていましたが、これまでにも、あえて、パーセプション・チェンジという言葉を使うとき、その頭の中には、本当はコンテキスト・チェンジがあったんだと思うんですね。Appleも、NIKEも、UNIQLOも、これまでのコンテキストを変えたから、強力なパーセプションができあがったのだろうと思います。そして、これらのブランドは、ソーシャルでも強い。

 また、このコンテキストは、広告だけでなく、広報をはじめとする、あらゆるブランドの活動の根幹をなすものだとも思います。コンテキストがひとつでもぶれると、全体がぶれる。これを逆に言えば、コンテキストさえぶれなければ、そのひとつひとつのコミュニケーションは、コミュニケーションの場によって、その場を支配するモードによって、適切に変わってもいいし、むしろ、変わることが求められる。そんなふうに思います。

 私はスタートがCIなので、ビジュアルやトーンの統一性をかなり意識しつつ仕事をすすめてきたつもりですが、でも、その原則が、じつは現実において最適解ではない、という感覚が私にはずっとありました。その理由が、こういう時代になり、そこにパーセプション、コンテキストという補助線を引くことで、はじめて、明快に理解できたような気がします。

 コミュニケーションは、私たちが頭で思っているよりも、本質的にはもっともっと柔軟で、だからこそ、その柔軟さに耐えられるだけのコンテキストが求められる。きっと、こういうことなんでしょうね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010年12月31日 (金)

伝える、つながる、かさなる

 あまりたいしたことがない年だったような気もするし、いろいろとあった気もする、そんな1年でした。何か書こうと思って、いろいろと自分が過去に書いた言葉を読みなおしてみたりしましたが、意外なほど今の自分の考えがぶれていないことに、少しばかり驚きがあります。

 何も変わっちゃいない。

 それは、いいことか悪いことかはわかりませんが、どちらにしても、それを決めるのは、他の誰でもなく私自身なんだろうと思うし、その決定を誰かにゆだねるというわけにはいかないだろうし、大人であるということは、そういうことを言うんだろう。そんな感じです。

 いつもは広告コミュニケーションまわりの今年の総括的なことを書いていますが、今年は、それは書かないでおこうと思いました。そういう意味では、2010年というのは、個人的には特別な年であったように思います。

 昨年の大晦日に、こんなことを書いていました。すこし長いですが、引用します。2010年の大晦日に伝えたいことは、基本的に、昨年書いたこの部分から超えるものでもないと思いますし、その部分では成長がないのかもしれませんが、自分自身が再確認する意味でも、もう一度考え直してみたいことでもありますので。

本当は、「リアル VS バーチャル」という対立構造というのは、この今のコミュニケーションの状況を説明するための補助線としては有効ではないと思うのです。

 ネットは、今までもあったけれど、世の中的には見えにくく、その見えにくさゆえに考えなくてもよかった人の生活の場、あるいはモードというものを可視化したということなのだろうと思います。

 これまで、広告は社会というものを想定してメッセージを発信すればよかった。しかし、ネットが可視化したのは、その社会に無数にあるコミュニティの姿でした。社会においてのメッセージ発信は、その共通の薄い約束ごと、つまり、社会性と言われるものを、規制として、また、公共性への意識として考慮すればよく、だからこそ、マスへのメッセージ発信が、それなりの時代のメッセージとして機能してきました。

 その社会に向けてメッセージを発信するという広告が成り立つ場が、中間的な社会であるコミュニティによって縮小されて、そのメッセージ発信の活路をコミュニティに求め始めたというのが、企業コミュニケーションの今なのだと思います。

 しかし、ここであまり語られていないけれど、じつは、その場をコミュニティに移すということは、広告というコミュニケーションのあり方にとっては、非常に難しい問題をはらんでいるのだと思うんですね。

 先日、とある人と話していた中での話ですが、広告とは「伝える、つながる、かなさる」というコミュニケーションの深度における「伝える」がミッションであり、「つながる」への移行は、その「伝える」の結果として認識されていました。

 けれども、コミュニティに向けるということは、じつは本質的に「つながる」をミッションとする行為なのだろうと思います。「伝える」で大事なこと、幹になる軸は、言葉に語弊があるけれど「センス」であり、その前提としての「プロポジション」「コンセプト」でした。けれども、コミュニティにおいて大事なこと、幹になる軸は、これも言葉に語弊があるかもしれませんが「ルール」なのだろうと思うのです。で、コミュニティの数だけ「ルール」は存在します。そこでは、広告が前提とする諸軸がわりと無効化され、より「ルール」を内面まで共有化した仲間であるかどうか、ということが問われてきます。

 そういうことが、企業コミュニケーションにできるのか、うまくやれるのか、企業コミュニケーションがその領域に踏み込むべきなのかどうか、ということが今、私が考えている核の部分なのですが、今のところ、私には少しわかりかねるところがあります。

 じつは、この「伝える、つながる、かさなる」というのは、一方向ではなく円環的になっていて、たとえば「かさなる」の次には「伝える」のフェイズが必ずやってきます。また、「伝える」のフェイズのモードは「社会」で、「つながる」のフェイズのモードは「中間集団」、そして、「かさなる」のフェイズのモードは「小集団」となります。

 つまりは、円が一周してふたたび「伝える」というフェイズに来たとき、ここで、コミュニケーションにおける大きな飛躍があるのだろうと思います。ちょっと違うかもしれませんが、かつて柄谷さんが言っていた「命がけの飛躍」は、こういうことに近いんだろうと思ったりもします。

 たぶん、私が、次世代広告的なことに言及しつつも、これまでの広告を否定するのではなく、わりあい従来の広告に対して肯定的なのは、この円が一周する次のサイクルを見ているからなのだろうと思うし、これからは「つながる、つたえる」だよ、と言えば、次世代広告的ないわゆる括弧付きの「新しい広告」になるかとは思うけれど、それがわかりやすく、時代をとらえる言葉としてキャッチーだとしても、私個人で言えば、正直あまり乗っかる気にはならないのです。そういう意味では、私の書く広告論というのは、わりと結論自体は普通で、あまり刺激的ではないんだろうと思うんですね。

 けれども、このサイクルが一周したうえでの「伝える」のフェイズは、いままでのやり方では「伝える」が「伝わる」になりにくいのではないか、というのが、このブログで繰り返し書いてきた私の考えでした。

 今年はあまり書けなかったですが、読んでくださったみなさま、どうもありがとうございました。書けないとき、書きたくないとき、それでも、書く場所がなくならずにある、という個人メディアというもののありがたさを実感した1年でした。もう少々で年が変わりますが、どうぞみなさまの新しい年がよい年でありますように。2011年も、どうぞよろしくお願いします。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2010年10月22日 (金)

消費と自由意志、そして、広告

 いやまあ、予想通りでましたね。11インチのMacBook Air。今使っている、MacBookのブラックの充電池が膨張してしまって、モバイルではちょっと難しくなってきて、バッテリを変えるか、新しいのを買うか迷ってたところでした。ちょうどよかった。買います。

 CPUが一世代前だったりして、ちょっと迷いもあるけれど、今あるMacBookよりもコンパクトだし、重さも半分だし、MacBookを家専用にして、Airをモバイル専用にすることで、もったいない感もないし、モバイルだと、まあブラウザが使えて、テキストが打てればいいので、実際は問題ないんですよね。それに、一昔前のモバイルにくらべりゃ、格段に性能いいし。昔、リブレットL2を買った時のような残念感はもうないでしょう。やっぱり、Crusoeはきつかったです。

 とまあ、今回は、わりとあっさり「買い!」と決めてしまったわけですが、そのとき、ああ、これが消費のたのしさだったりするんだよなあ、とあらためて思いました。

 つまり、思いっきり、誰にもじゃまされずに「自由意志」を行使できる行為なんですよね、消費って。どれを買うかも自由だし、やっぱり買わないのも自由だし、今回はまだ見合わせるのも自由だし、別のものを買うのも自由。それは、お金払ってものを手に入れる瞬間まで自由。この自由は、Libertyじゃなくて、Freedom。犬井ヒロシさんが叫ぶ「自由だ!」ってやつ。でもって、こういうFreedomを満喫できることって、あまりないんですよね、こんなに便利な世の中になってもね。

 だから、Twitterでも、ブログでも、お買い物について語りたくなるんですよね。だって、そこにまぎれもない、私の意志があるんだもの。これが私だっていうことを、消費で表現できるんですよね。

 広告は、たぶん、この自由意志にひとつの選択の理由を提示するものだと思います。ここで言う広告は、狭義の広告で、SPやPRではない、いわゆるAdvertisingのことですが、Advertisingは、きっとこの自由意志を阻害しちゃいけないんでしょうね。

 他社を選ぶという選択肢を消去しようとする比較広告がいまいち効かない、少なくとも、長期視点において続かない理由がわかった気がします。比較広告に対しておおらかな欧米でも、ずっと比較広告を打ち続けるブランドは見たことがないし、それは、たぶん、このあたりに理由があるんでしょうね。

 なんか、「自由意志」という補助線を引くと、とたんに消費がわかりやすくなったなあ。まあ、気のせいかもしれませんが、とりあえず、今回はメモがてらに。ではでは。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧