カテゴリー「広告のしくみ」の54件の記事

2009年12月 8日 (火)

Yahoo!とGoogleはよく比較されるけど

 ほんとは、Yahoo!Googleは目指すところが違う気がするんですよね。だから、シェアの比較という意味では、前提が違うのであまり正確な比較とは言えないというか、もっと違う指標で判断したいというか。

 たぶん、ウェブの最前線でビジネスをやっている人は、そんなことを思ってるんじゃないかなと想像するのですが、どうなんでしょう。

 で、Microsoftで言えば、MSNがYahoo!型でbingがGoogle型。MSNの検索エンジンもbingになっていますが、MSNのポータルを捨てずにそのどちらの可能性も追求しているのは、さすがMicrosoftというか、なんというか。

 Yahoo!は、トップページで言えば、今や完全にマス媒体ですよね。その圧倒的なメディア力を前提にリスティングアドも成り立っている感じで、Googleはそもそもメディアであることをまったく前提にぜずにリスティングアドを成立させている感じ。Googleはメディアであることより、まずインフラであることを目指し、インフラ化によって、リスティングアドをインターネットの端々に行き渡らせたいということなんでしょう。

 だから、やり方次第でYahoo!のトップページのようにできるiGoogleにさえもバナー広告は表示されないんでしょうね。こういうビジネスの筋の通し方は、すごいもんだよなあと思います。徹底していますよねえ。

 このところ、GoogleがテレビCMを流していますよね。

 Googleというブランドは、案外テレビとか新聞とかの、いわゆるマス媒体とは親和性が高いように思います。なぜなら、Googleはマス媒体をお手本にはしていないし、まったく別の方法論で広告ビジネスをやろうとしているから。テレビ側は、オレたちがしんどいのはお前のせいだと思っても、Googleの側には負い目はまったくないでしょうね。たぶん、自分の持っている広告媒体にはできないことがあるから使う、それだけです、という感じでしょうね。

 その点ではYahoo!はテレビや新聞などを大いにお手本にしていますよね。まあネットビジネスとしてはGoogleよりもお兄さんだから、そのお兄さんであるテレビや新聞をお手本にしますよね。オークションやら知恵袋やら、そんなバラエティに富んだサービス、つまり番組は、テレビそっくりだし、ほんとはテレビになりたかったインターネットの巨大メディアという感じがします。

 Googleのお兄さんは、じつはMicrosoftなんでしょうね。Wintelのやり方をお手本にしたということなんでしょう。基本を押さえれば、ハードはいいですっていうやり方。きっとMicrosoftもハードをつくる気質はあると思うんですよね。今だにマウスをつくっていますし。そう見ると、Microsoftもある意味で潔い筋の通し方をしているんですよね。

 その流れで見れば、なぜGoogleがOSをつくったり、IMEを配布したりするのかが理解できますよね。まあ、ここに書いてあるようなことは、ネットの最前線の人には当たり前の話だとは思うけど、あらためて、なるほどなあ、すごいもんだよなあ、と感心した次第でございます。

 しかしまあ、たいへんなことを考えるものですよね。世の中にはすごい人たちがいるものだなあ。

 関連エントリ:

 Googleの素っ気なさ
 ソフトのアップグレードを重ねるたびに、Googleにしたくなる
 NHKオンデマンドの苦戦に思う

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2009年12月 4日 (金)

伝えたいことがある人が伝えることができるということ

 私は、なんだかんだ言っても、やっぱりウェブに恩恵を受けている人間だと思います。私が生きている時代にウェブがあってよかったという思いがあります。こうしてブログを書けること。それは、本当にありがたいことだと思っています。

 今日も、どこかの某市長がとんでもないことをブログに書き散らしていたというニュースがあったし(まあ、そこに書いてあることは論外だと思うし、気分が悪いのでリンクも貼りません)、ブロガーというなんだかわからない新しい人種に対しては、自己顕示欲だよね、誹謗中傷メディアになっているよね、衆愚化だよね、と、いろいろと皮肉を言えると思うけれど、それでも、何かを伝えたいと思う人が、経済的な負担があまりなく、少なくとも理論上はネットを使うすべての人に伝えられるという可能性を手にしたことは、何度も言われ尽くして陳腐化した言い方になってしまうけれど、グーテンベルクの活版印刷発明以来の革命だったんだと思います。

 それでも、例えば、私がプロバイダー料を払えなくなって、生活のために時間の余裕も失ってしまったら、このブログを維持することは難しいと思います。つまり、ものを伝えるという行為は、決してただではないということです。私の場合は、伝える手段がテキストだし、基本的に生活の中での考えをもとにしているし、取材もないし、だからこそ成り立っているだけの話で、伝えるたいと思うことが、ある程度の経済的犠牲が伴うものである場合、その伝えたいことと、伝えることを天秤にかけなければならなくなります。

 アマチュア領域の表現の敷居は下がりました。けれども、そのことで、表現で飯を食っているという意味におけるプロフェッショナル領域での表現の敷居はむしろ上がったような気もします。雑誌の廃刊が続いています。テレビ局も新聞社も経営が苦しいです。まあ、商売でやっているわけだから知ったこっちゃないと言えばそうかもしれません。けれども、その傾向は、例えば、商売を全面に押し出さずとも、何かを伝えたいと思う人が、経済的な理由で、伝えようとすることに躊躇してしまう環境があるといういうことでもあります。

 これは、いつの時代でもあることだとは思うけれど、ここ最近起きたメディアの分散化と、経済の停滞によって、急速に進んでしまった環境であるとは言えるのではないかな、とも思います。

 広告をひとつとっても、今の世の中では、そう簡単には出稿してもらえない状況がありますし、それはそのまま、伝えたいことがあるけれど伝えられないということを意味します。ネットがあるじゃないか、と言っても、もはや、ネットだって同じですよね。ネットメディアだって、構造は同じ。メディアですから、持続できなければ成り立ちません。

 メディアを成り立たせる最大の発明だった広告モデルが、今、弱体化しています。広告、もう駄目だよね、と簡単に切り捨てることもできます。

 けれども、切り捨てられるのかな、とも思うんです。じゃあ、何があるの、という気もしないではないです。収益の多様化も必要だとは思います。そのひとつとして、NHKオンデマンドがこれからどうなっていくのかも気になりますし(参照)。余談ですが、とりあえずは「料金値下げを検討」とのことらしいですね。

 いろいろ答えはありそうな気もするし、もう出ている答えもあります。私は、もうひとつの答えが知りたいと思うのです。それは、広告側が変わることで、今ある広告モデルを再生する方法論です。つまり、表現の問題として考える方法論です。

 ま、実例をここに示すわけではないので、勝手に言っているだけとも言えるけど、自分なりの成功例もあります。大きなテーマを提示し、常にキープしながら、キャンペーンのはじめと終わりを意識してメッセージ展開を設計し、時系列で適切なメッセージをコントロールして出していって、より大きなひとつの像を形づくる方法です。これは、かなり意識的に緻密にやりました。簡単に言えば、物語。だけど、ひとつひとつでも楽しくて伝わるし、物語性(私的にはing感)が感じられるのが、物語とは異なるのだけれど。

 メディアニュートラルに様々なメディアを相乗効果を生むように意識して使用することで、例えば、今、効果が落ちていると言われる新聞広告でもかなり高い効果が出せましたし、直接的な効果が見えにくい交通広告においても、最終的なDMなどの川下メディアの効果が上がるように計算しながら出稿しましたので、費用対効果も良かったような気もするし、次にも、その次にもつながるものを残せた気もします。

 もしかすると、それはコミュニケーション・デザインの一種かもしれませんが、少し違う気もします。そして、そのやり方は、広告の基本から言えば、わりとオーソドックスな手法だったような気もしています。ただ、オーソドックスであるがゆえに、今どき新しいという自負はありますけどね。まあ、自分がやったことなんで、定義の必要もありませんが。

 もうひとつ、いや、あとふたつくらい。それが知りたい。思いつきたい。しかも、大規模じゃなく普段着感覚のやつで。その方法さえ思いつくことができれば、少なくとも私自身の視界の前にある霧が、一気に晴れるような気がするんですけどね。

 伝えたいことがある人が、ある程度の覚悟さえあれば伝えられるということは、これからの世の中でも大事なことだと思うし、今、私の専門性の中で悪戦苦闘していることが、そうした社会性みたいなものを帯びた問題意識であるとも思うし。それぞれの人が、それぞれの分野で知恵を出し合えば、きっと世の中がよく変わる。私は、ブロガーとして、それに1票を投じたいと思っているんですけどね。私は、設計を含めた大きな意味合いでの広告表現の分野でコツコツやっていこうと思っています。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2009年11月 9日 (月)

バランス。あるいは、動きつづけるということ。

 なぜ、いつもバランス論に行き着いてしまうのかな、ということを考えていて、もしかするとものごとを三つの項で考えるからなのかな、なんてことを思いました。三つの項で考える限り、そこには強烈な対立みたいなものは生まれにくく、最終的には、その三つの項のバランスを考えることになります。

 例えば、こういう感じです。はじめに、二項の例。

 プライベート
 ソーシャル

 この2の項は、対立関係にあるので、究極的にはそのどちらかを支持し、残る一方と敵対するということになります。それをバランスということもできるけど、加藤典洋さんの著書に「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」というのがありましたが、つまり、そのバランスには、そんな捻れ感があります。

 けれども、ものごとを二項ではなく三項で整理すると、こうなります。用語としては、もしかすると同列にはならないかもしれませんが、ま、そのへんはご愛嬌で。

 プライベート
 コミュニティ
 ソーシャル

 人の生活を考えたとき、プライベートとソーシャルの対立関係で考えるよりも、プライベート、コミュニティ、ソーシャルの三つのモードを行き来すると考えたほうが、私はよりすっきり世界が認識できるように思います。ネットなんかでも、このバランスの問題がいつも問われますよね。

 ●    ●

 話は少し飛びますが、私がなぜビル・エバンスというジャズピアニストに興味があるかというと、音楽というものを、三つの関係というか、三項の運動としてとらえたアーチストだからだと思います。

 ピアニスト
 ベーシスト
 ドラマー

 私はその三項が対等にインプロビゼーションを交換する円環運動を「永遠の三角形」と勝手に呼んでいるのですが、その円環運動を成立させるには、どこかが頂点になって二等辺三角形を形づくると、すぐさま二項対立関係になってしまうので、ある緊張感を持って、運動しつづけるしかないのですね。私は、ビル・エバンスという人を、その「永遠の三角形」というものを、一生かけて追い続けた芸術家であると考えています。

 この緊張感ある持続運動は、少し言葉のニュアンスが違うけれども、バランスとも言えなくもなく、その意味合いでバランスという言葉をとらえると、バランスというものは、とてつもなく困難な行為であるとも言えるかもしれません。

 で、ビル・エバンスが追い求めた「永遠の三角形」が完成したのかというと、これは私は少し疑問があって、もしかすると「永遠の三角形」というものは理念上のもので、本当は成り立たないのかもしれないな、というのが「永遠の三角形」のモチーフだったりもするのです。人は、第三項排除的なものから自由になれるのか、みたいな。

 だから、絶えず動きつづけることを求められるのですよね。ライブ、ライブ、またライブ。ビル・エバンスという人は、言ってしまえば、そんな人生だったような気がします。

 ●    ●

 ブランドメソッドにも、ブランドトライアングルという手法が多くみられるし、そこでのパワーブランドは、そのトライアングルが強度の高い正三角形であることを求めます。

 ミッション
 ビジョン
 ビリーフ

 ここにも、ある種の完璧さを定着させることへの嫌悪感みたいなものがどうしようもなく起るんですよね。現実に動いているブランドって、そんなに割り切れたものではないよ、というような。つまりは、そこで止まったら、すぐに第三項排除の魔の手がやってくる、みたいな感じがするんですね。

 きっと、それがCIというブランド手法の弱点の部分でもあるのだと思います。なんとなく、そこから離れて、もっと泥臭い広告という分野を選んだのは、今思えば、そんな理由だったのかもな、とも思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月 4日 (水)

定着という言葉が意味すること

 今どきの若いクリエイターたちは、定着っていう言葉を使うのかなあ。

 定着という言葉。クリエイティブの文脈では、普段使う定着という言葉の意味とは少し違って、その意味するところは、独特です。私も、この言葉をはじめて聞いたときは、意味がつかめませんでしたし、しばらくはなじめませんでした。

 クリエイティブにおける定着は、世の中に出せる表現に落とし込む、みたいな意味ですね。手書きのラフスケッチがあって、それをいろいろなありもの素材で組み合わせて少し精度の高いカンプにして、みたいな過程がありますよね。その段階では、まだ定着とは言えません。定着とは、そのラフスケッチなりカンプなりをもとに、写真を撮ったり、イラストを描いたり、そこにCG加工したり、それをトリミングしたり、レイアウトしたりして、完成形にすることを言います。

 コピーで言えば、なんとなく言いたいメッセージが頭の中にあって、それをもとにいくつかコピーを書いてみて、その中から最適なコピーを選んで、そこからまたてにをはを直したりしながら、最終的なコピーに落とし込むこと。それが定着です。

 定着っていうのは、いろんな可能性がある中で、その選択肢をどんどん落としていって、たったひとつ、これしかないという表現に追い込むことなんですね。

 この定着っていう言葉、いろいろなことを示唆している言葉のような気がします。ある情報から、クリエイティブにするまでには、必ず定着という過程があります。それがどれだけ短くとも、やはり、そこにはある時間が必要なわけです。

 要するに、定着を含むあらゆるものは、この時間を経ているもの、つまり、過去なわけです。必然的に過去の定着にならざるを得ないわけです。たとえそれが「新発売」という情報を伝えていたとしても、その伝える広告という器は、必然的に過去になるわけですね。

 ここに、広告という表現の最大の矛盾があるように思います。「新発売」という情報を、ただならぬ今として伝えるためには表現がいります。表現のためには定着がいります。定着がいるということは、過去であることと同義です。広告は、必然的に、今を過去の定着によって伝えるという矛盾をはらむわけです。

 表現の密度が高いものは、すなわち過去の密度も高いことと同じで、表現が優れれば優れるほど、それが過去であるという印象がどうしても高くなってしまいます。ウェブの誕生により、少なくともタイムラグのほとんどない情報が行き交う世の中になって、そうした広告の必然みたいなものがよりはっきりと見えてきたのだと思います。

 今を定着しようとすると、形式的必然で必ず過去になる。

 これが、全体的に広告が効かなくなってきたという現象の、表現という側面から見た理由だと思います。

 今、テレビCMを見て、最も広告的だなと思うものは、私の場合は、じつはお詫びCMだったりします。製品を回収しています、と伝えたりしている素っ気ないCM。あの生々しさに広告的な力を感じます。それは、きっと、今の時代において、過去であるという宿命を持つ広告という形式の中で、いちばん今に近いものだからだと思うのです。

 これは、広告に対する情報の勝利を必ずしも意味しなくて、情報であっても、それを多数に伝えるためには、どんなかたちであれ、システムとしての広告という器にのせるわけです。つまり、ここで課題にすべきは、きっと表現の問題。

 このブログをはじめてからずっと、広告の終焉論っていうのは、つまるところ表現の問題に行き着くのではないか、と思い続けてきましたが、その意味がほんの少しだけわかってきた気がします。書き出してみると、なんだそんなことか、という感じがなきにしもあらずですが、要するに、未来の定着を指向する、未来の定着に密度を求める、ということ。これは、過去の自分のつくった広告の、当たった当たらなかったを考えたときに、この軸でわりと説明できるように思います。

 よくよく考えれば、平賀源内の頃から、広告っていうのは、もともと未来を指向していたんじゃないか。土用丑の日に鰻なんて、誰も食べてなかったんだし。きっと、広告が広告に戻ること、広告のプリミティブな力を取り戻すことっていうのは、きっとそういうことなのではないかな。

 で、たぶん、それはきっと、表現、定着だけでなく、マーケ的なプランニングにも同様に言えることなんでしょうけど。でも、まあ、これだけ今この瞬間に追い立てられると、今についていくので精一杯で、未来を指向するのは難しいんですけどねえ。でも、これは踏ん張ってやるしかないんでしょうね。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年10月21日 (水)

機能と普遍

 広告の仕事をはじめたときから、すごく悩んでいたこと。今だに悩むことがあって、そのときどきで判断が違ったりもしています。この悩みは、広告やマーケティングにかかわる人なら、それこそ20年30年のキャリアを持つベテランの人でもあるのではないでしょうか。

 機能寄りのメッセージにするか。それとも、普遍性のあるメッセージにするか。

 今は不況でもあるし、機能対普遍の争いも少なくなりましたが、一頃は、機能を端的に言ってほしい人と、個別の機能ではなく、その機能が提供する価値、つまり、普遍性を持つうれしさ、たのしさなどのエモーショナルな部分を言いたい人の対立がよくありました。

 もちろん、そういったことは理論的にも整理されてはいます。まあ、当たり前の話ではありますが、基本に立ち返って自分の頭の中をもう一度整理するために、大画面テレビを例にちょっと説明。

  • Function=機能(画面のサイズが大きい)
  • Functinal Benefit=機能的受益(迫力のある映像を表現)
  • Emotional Benefit=心理的受益(映画館の感動)

 ラダリングと言いますが、ベネフィットの流れを「はしご」がけするとこういう流れになります。最近は、こんなにわかりやすい商品はあまりないとは思いますが、状況によってはこういうわかりやすいケースもあるでしょうね。

 かれこれ四半世紀前の広告になりますが、よくできた例でもあるので、ソニーの大画面テレビの広告を挙げてみます。眞木準さんのコピーです。

  • ヘッドライン「子供ができたら、映画にも行けないわ。」
  • エンドライン「お茶の間で迫力の大画面。22・20・18型コンパクトに新発売。」

 これは、「はしご」の下から上へきれいに表現されています。こういうふうにいければ、まあ対立もなく、みんなが納得という感じもしますが、状況によっては、ヘッドラインを「22型」にしたい人、「お茶の間で迫力の大画面」にしたい人、「子供ができたら、映画にも行けないわ。」にしたい人というのはでてきそうです。

 ここで、広告というものについての考え方がでてきます。要するに価値観の問題になってきますから、こんがらがるんですよね。例が見事だから、このやり方しかないように思えてしまいますが、じつはどのやり方もそれなりに正解だったりもします。たとえば、かつてユニクロが出したフリースの広告「ユニクロのフリース ¥1980」もありました。

 私はケースバイケースだと思っていますが、でもこのあたりのきちんとした理由はわかっていたいと思っていました。機能で勝負すれば、商品の差別性が際立ちます。ライバルが競っている状況では、差別性を際立たせることが有効なときもあります。普遍で勝負すれば、共感が得られます。人の感情を表現するわけですから。で、その感情は、じつは、凡庸にさえならなければ、普遍的であればあるほど共感されます。

 要するに、広告は差別性を際立たせるものであるか、共感を得るためのものであるか、という価値観の問題になってしまうわけですね。状況による、というものの、そのどちらについても、感覚ではわかってはいるけれども、もっとはっきりと理解したい、言葉で言い切りたいと思ってきたのですね。

 で、2009年10月27日号の「SPA!」の工業デザイナー水戸岡鋭治さんのインタビュー記事を読んでいたら、なるほどなあ、そういうことだよなあ、という言葉があったんですよね。ああ、こういうふうに言えばよかったんだな、という感じで、個人的にはすごく感心してしまいました。電車の中で、おぉ、と声を出してしまったくらいです。

 JR九州の一連の車両デザインについて、そのデザインには水戸岡さんの強い美意識を感じるのです、という問いに対しての答えです。

 いや、それが機能美と普遍性なんです。機能美は体を満足させる。機能を追求すれば肉体的にも楽なものが造れるけれど、それだけじゃ心は満たすことができない。それを満たすのが普遍性、心地よさなんです。

 少し、広告の表現とは文脈は違うけれど、なるほどと思えました。広告は、長く使われる列車のデザインとは違い、時系列の中でのピンポイントのコミュニケーションなのでケースバイケースではあるけれども、機能と普遍の違いを、これ以上ないというくらい明快な言葉で表現されていますよね。

 なるほど、これはダノンの「♪カラダだけでもアタマだけでもだめよね」ということだなあ、と。ちょっと違うか。違うかもですね。すみません。ところで、このコピー、もはや知っている人はあまりいないかもですね。市川準さん監督のCMです。

 これ、その頃に流行った知能テストっぽいシチュエーションで、白衣の先生が子供に思いついた言葉をホワイトボードに書いてみて、と質問して、子供が「ニラ」って書くんですよね。で、このコピーがメロディ付きで流れるというCM。今だと苦情が来るんでしょうねえ。私は大好きですけど。

 ま、ちょっと脱線してしまった感じはありますが、本日はこんなところで。ではでは。

 追記:

 はてブのコメントでご指摘。プチダノンのCMは、「ニラ」じゃなくて「にら」だそうです。そう言えばそうだ。「にら」。ひらがな。市川さんらしいですよね。一緒に仕事したかったなあ。

 関連エントリ:市川準さん(2008年9月19日)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年9月20日 (日)

毒饅頭とマニュアル

 大手納豆メーカーが民事再生法の適用を申請したとのこと。日経ビジネスに記事がでていました。

 「最後に“毒饅頭”を食べてしまったからね」。くめと取引のある食品メーカーの社長は、くめが追い込まれた経緯と理由を解説する。

 大豆など原材料の調達コストが年々上昇する一方で、販売価格には転嫁できない。追い込まれたくめは、数年前から、大手小売りチェーンの要請を受け、PB(プライベートブランド)商品の下請け製造を始める。

 下請け製造は、自社ブランドを持つ食品メーカーとしては苦渋の選択だが、大量注文を受ける「数」はくめにとって魅力だった。工場稼働率を上げるためにはやむを得ないと判断した。ところがこれが、くめにとっては、先の社長いわく“毒饅頭”となる。

 スーパーマーケットを見ていると、例えば、カップヌードルの横にPBのカップヌードルもどきが置いてあるものなあ。価格は40円くらい安くて、中身が少し貧弱だけど、まあ同じ。コンビニでは100円均一のお菓子なんかもあって、その中身は有名メーカーのかつてのヒット作なんかが多いです。昔は定価で売られていて、みんながこぞって買ったけれど、いろいろな競争に負けて、そのままの価格とパッケージでは戦えなくなって、価格を下げてPBで再デビュー。そんな感じなんでしょうね。きっとこれも、既存の工場ラインをそのまま使えて、衰退して、そのままではお金にならない商品が、投資とかもなくお金になって、ある意味でスーパーとメーカーの利害が一致、みたいなことなんでしょうね。これは毒饅頭なのかどうかは、情報に疎いので私にはわかりませんが。

 これは他人事とは思えないんですよね。こういうことにまつわる判断をちょっと間違えると、それこそ日経ビジネスの記事にあるようなことになってしまいます。また、この手のことは、その瞬間では、単純にいい話だなあと思ってしまうことも多いし、あとから見て、「ああ、あのときの判断が原因だったのか」。で、覆水盆に返らず。

 ●    ●

 広告コミュニケーションの話で言えば、今、WOMやらBuzzやら言いますよね。流行していますから、その手の新手法のお誘いも多くなっていると思いますし。でも慎重になったほうがいい、慎重になりすぎるくらいがちょうどいいと私は思っています。私の場合は、少し慎重すぎるくらいかもしれません。でもねえ、こういう事例もあるわけだし。

 もちろん私もWOMやBuzzを意識したキャンペーンをやりましたが、そのやり方は、自らが発信するコンテンツにいろいろ楽しめるようなくふうを仕込む、というもので、主体は必ずこちらに置きましたし、猛烈に計算して、先を読んで行いました。そのやり方は、きっと最先端の人から見れば古いと言われそうですが、でも、私は古くて結構と思うんですね。どこに毒饅頭があるかわからないし、一度食べたら、もう終わりだし。

 広告というかブランドについての基本になるものって、昔も今もそんなに変わらないと思います。結局はその基本の部分に照らして判断しなくちゃいけないんですが、広告、SP、PRと部署が分かれていると、その判断基準にばらつきが出てきます。コミュニケーションデザインという新しい概念は、コミュニケーションを機能で分けてはいけないよ、軸としてひとつとして見なくちゃいけないよ、ということなんだろうと思います。

 ●    ●

 良品計画の業績が振るわなくなったとき、現会長の松井忠三さんが行ったことは、徹底的なマニュアル作りだったそうです。1000ページを超え、現在も時代の流れに会わせて修正が重ねられる「ムジグラム」というマニュアルによって、良品計画はV字回復しました。日経ビジネスの記事にはこうあります。

 1990年、松井は西友の人事部にいた。西友もやはり「マニュアルは創造性を奪うから不要だ」というセゾン文化の残滓からの脱却を図っていた。部下だった小林珠江は、アシスタントの女性と2人で業務マニュアルを一から作成して、その素案を松井に見せた。

 小林はしばらくして松井に呼び出された。「これ」と、手渡されたマニュアル案は、びっしりと手書きの赤文字で埋め尽くされていた。そして一言。

 「ダメだ。このマニュアルには、魂が入っていないよ」

 きっとこういうものが、本当のマニュアルというのでしょうね。で、見ていないのでなんとも言えませんが、この記事に出てくる素案がいわゆる世間で言われているマニュアルで、松井さんはきっと、そういうマニュアルはマニュアルではないと言いたかったのではないでしょうか。

 素案のようなマニュアルは、人の創造性を奪うのはたぶん事実でしょう。そこには、きっと理由が書かれていないだろうし、理由がわからない規則は、人を疎外していきます。だから、人は本能的にマニュアルを嫌うのだろうと思います。けれども、現場で起こる問題点をすくいきり、魂の入ったマニュアルは、つまり、そこには人が宿っていて、そこには話言葉はないけれど、それは確かに物語であり、その物語は、人の創造性を発揮させるはずです。そこにある規則には、きっと誰にでも理解でき、納得できる明快な理由が書かれているはずです。理由がわかると人は動きます。松井さんはこう言います。

 「スポーツと同じです。基本がなくて最初から自己流だと、進歩はいずれ止まる」

 ●    ●

 今、良品計画は少し業績が良くないようです。でも、たぶん、この「ムジグラム」があることで、良品計画は、以前のように毒饅頭を食べてしまうことはないのではないかと思います。失敗を許さないマニュアルではなく、失敗に動じないマニュアルこそ、求められるのでしょう。たぶん、このマニュアルは、マニュアルのカタチをしたブランドブックなのでしょうね。というか、これは私にとっては新しい考え方ですが、ブランドブックというものは、じつはマニュアルのことなのではないか。

 だからこそ、そこには魂が込められるべきで、その魂は、抽象的なイメージの言葉ではなく、具体的な事柄の集積なのでしょう。魂は細部に宿ると言いますし。なんとなくそれは、今の広告コミュニケーションが向かう道筋と同期しているように私には思えます。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年9月11日 (金)

戦争メタファ

 10年ほど前に、元電通のCMプランナーである佐藤雅彦さんが、「経済ってそういうことだったのか会議」という竹中平蔵さんとの対談集で、売り上げが倍もあるのに電通マン自らが「電博」なんて呼び方をするのは良くない、みたいなことを言っていました。

 これを博報堂の立場に立って考えると、うまいレトリックだったりします。売り上げ規模で倍の差がつけられているのに、2強のイメージを植え付けられるし、企業は、じゃあ電博で競合させてみるか、ということになり、博報堂にとってみれば売り上げ半分なのに同等に扱ってもらってラッキー、電通にとってみれば2倍の差があるのにたまったもんじゃない、ということになります。

 売り上げだけが広告会社の価値ではないけれど、「電博」というレトリックには、そんな戦略が含まれています。こういう手法は、いろんなところで昔から使われています。上記の対談では「他人の土俵で相撲を取れ」と表現されています。資生堂に対するカネボウ、佐藤さんのかつての仕事で言えば、カルビーに対する湖池屋。

 ただ、あの頃、すごく新鮮に見えた「他人の土俵で相撲を取れ」戦略に限らず、様々な戦略的手法が今通用するのかな、という気分があるんですね。念のため書いておきますが、これは佐藤さんを批判しているわけではないですよ。時代っていうのがあるわけだから。当時、もっとも刺激的だった言説を例に、それから10年経った時代の気分を語っているわけだから。それに、本を読んでもらったらわかると思うんですが、当の本人が相手の戦略にはまっているんじゃないよ、という話で、それは今も通用する話。

 本題に戻ります。

 もちろん、ものを伝えるときには考えてやらないといけないですよ。アイデアとか芯とかがなくちゃ駄目。それは、今も昔も変わらない。けれども、それはなんとなく私は戦略と呼びたくはないんですね。だから、私は人から「戦略プランナー」とか間違っても呼ばれたくもないし、その肩書きからイメージされる戦略は、もう通じないと私自身が思っているんですね。

 そんな私の気分は、時代の流れとも呼応してて、例えば、マーケティングの専門家の呼称を見ていけばわかるかもしれません。マーケティングプランナーと呼ばれた時代から、少し経つとストラテジックプランナーと呼ばれ、広告会社にはストラテジックプランニング局が誕生し、やがて、そのブームが過ぎたら、コミュニケーションデザイナー。今やコミュニケーションデザイン局が花盛り。

 ここから見えてくるものは、「戦略から戦術の時代へ」ということなんでしょう。メディアが多様化して、言いたいことを届けるためには戦術を緻密に組んでいかなくちゃいけないですよね。それがコミュニケーションデザインということなんでしょう。密教化している感じもするので、いや、それがコミュニケーションデザインじゃないよ、と言われそうですが、まあ、大まかにはそういうことだと思います。

 でもなあ、それはそれでわからなくもないけれど、どちらもちょっと戦争メタファな気がするんですよね。本当に終わったのは、戦争メタファなんじゃないかな、という気がするんですね。私は。というか、そう思いたい。

 戦略から戦術へ、みたいな文脈は、戦争メタファ的には、きっと空爆から地上戦みたいなものでしょ。こういうのはたまらなく嫌いというのもあるけれど、そういう気分とは別に、なんかそういうのが通用しなくなっていっているんじゃないか、それが広告が効かなくなってきたという言説と同期しているんじゃないか、と思うんですね。どっちにしても、戦場では、広告をつくる人も見る人も誰も楽くないだろうしさ。結局、世の中は戦争ではなかったけれど、比喩的に言えば、戦時中の熱狂が終わった、ということかも。

 だったらどうするよおまえ、というのは突きつけられるんですけどね。答えがあるとしたら、もっと根っこの部分かもな、という予感はあります。それを何と呼べばいいのかはわかりませんし、素直にアイデアと呼べばいいのかもしれないですが、外資育ちの私としては、アイデアという言葉は手あかが付きすぎているんですよね。それに、今、私がぼんやり考えていることは、時代とかに関係なく、もっと普遍的なことのような感じもあるし、ぼちぼちやって、ぼちぼち理論化みたいなことをやるしかないんだろな、なんてことも思っています。

 こういう、まだ整理されていない思考を書くというか、伝えられる場所があるっていうのはありがたいな、と思います。そんなね、こういう普通の人のなんでもない思考を書き残せるメディアを、小さいながらも個人が持てる時代っていうのが、戦争メタファっていうのを無効化させている一因だったりもするのかな、とも思っています。レトリックはすぐバレるさ、真面目に正直にやらなくちゃね、みたいな。そんな感じです。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年9月 3日 (木)

アイデンティティって、何?

 アイデンティティという言葉を初めて知ったのは、確か中学校の頃。倫理の教科書で、心理学の項目で出て来たような気がします。エリクソンですよね。モラトリアムなんて言葉も紹介されていました。

 なんとなく、「人間の成長にはアイデンティティ(自我の同一性)の確立が不可欠で、その確立までのモラトリアム(猶予期間)が、あなた方が今いる学生時代なんだから、偉人たちが残した知識をしっかりと学んでアイデンティティを身につけて、立派な大人になりましょう。」みたいな感じが嫌でした。その文脈で語られるアイデンティティという言葉が、とっても軽く感じられたんですね。

 でも後に、エリクソンという人の人生がとってもややこしかったことや、その感受性も何か愁いのようなものがあることを知り、この言葉の印象が少し違ってきました。エリクソンの発達心理学はアメリカの心理学と紹介されるけれど、彼自身はドイツ生まれのユダヤ系デンマーク人なんですよね。

 アイデンティティという言葉は、あくまで境界例の患者さんの臨床から生まれた概念ではあるけれど、エリクソンという人は、自分の問題としてアイデンティティという概念をひねり出した、というか、ある種の必然から出て来た切実な言葉なんだろうと思います。

 ずいぶん昔に読んだから記憶があいまいではありますが、エリクソンはアイデンティティという概念を相当複雑なものとして扱っていましたし、アイデンティティという概念が社会科学やマーケティングなどに応用され多用されることに戸惑いがあったと聞きます。

 ●    ●

 彼のつくったアイデンティティという概念をマーケティングに応用したものが、CI(コーポレイト・アイデンティティ)で、このCIの分野で私のキャリアが始まりました。私は、昔はCIプランナーだったんですね。日本のCIの世界では、中西元男さんが率いるPAOSという会社が君臨していて、そのPAOSが自社の提案事例を紹介したDECOMASという百科事典のような本があって、それを熟読したりしていました。小岩井農場やMATSUYAなんかの事例は、それはそれは見事でした。ちょっと鳥肌が立ちます。

 でも実務ではどんな感じなのかというと、社名変更ありきで、なんでもかんでも規定していって明文化し、それを詳細なマニュアルにしていく作業だったりします。作業の本丸はロゴデザインとその後についてくるシステムデザインで、ブームの頃、多くのCI会社はその業務を根拠にして、高額のフィーを勝ち得ていて、そういうバブルな構造だったので、ブームが去ると、ロゴデザインだけ売ってくれないかな、みたいなことが増えて、CIと言えばVI(ビジュアル・アイデンティティ)のような風潮がこのとろこずっと続いています。

 CIブームの頃は、きっと企業は、自分の宿命とか使命みたいなもの、つまり、どうしようもなく形作られた企業人格なんかを軽く見て、自分がなりたい自分になれると安易に考えて、どんどんなりたい自分になっていったという感じでした。

 そこで語られるアイデンティティという言葉は、とても軽く、とても薄く、教科書で紹介されていたアイデンティティという言葉によく似ていました。

 ●    ●

 コミュニケーション戦略の構築だけでなく、コーポレイト・アイデンティティやブランド・アイデンティティの構築にも、よくSWOT分析の手法が使われて、SWOTのW、つまり弱みをどう克服するか、というふうにアイデンティティがつくられていくことが多いです。弱点を克服して、強い自分になる、みたいなことですね。

 この弱みの克服というのが、どうにも軽く思えてしまうのです。だから、Wは無視する、ということではなく、逆にWこそが重要なのではないか、と私は考えています。人もそうだけど、企業だって、ひとつの企業が世界のあらゆる価値を提供できる、なんてことは絶対にないわけです。ということは、世界のあらゆる価値という軸で見れば、その企業が提供できないことというのは絶対にあります。

 提供できない、という言葉を、提供しない、という言葉に変えてもいいのかもしれません。けれども、その提供しない、ということ、つまり、全能の神の視点から見て弱点に映るものにこそ、その企業のアイデンティティがあるように私には思えるのです。また、同時に弱点の裏返しは、そのままS、つまり強みです。

 提供します、という文脈だけで考えると、その「提供します」が美しければ美しいほど、今後の新しく生まれた「提供します」との矛盾が起きてきます。そのとき、せっかくのアイデンティティが無力化してしまうんですね。逆に、規定された「提供します」に忠実になればなるほど、アイデンティティが成長を阻害してしまいます。柔軟性がなくなるんです。

 アイデンティティの構築って、ほんとは「提供しない」モノやコトは何か、ということを追いつめて考えるプロセスなのではないかな、と思うんですね。「他の人はうまくそれをやるけれど、それだけは、私には絶対にできない。」という弱点にこそ、アイデンティティがあるのではないか、と思うのですがどうでしょう。むしろ、弱点を認める痛みの伴う作業がCI。だから、多くのCI作業は、今だにトップレベルの経営案件だし、必然として外部的視点を必要とするんですよね。精神分析と同じように。

 ●    ●

 エリクソンという人は、その概念の中でしきりに成功ということを言ってきた人ですが、その明るいアイデンティティという概念の裏側にある暗さみたいなものが気になるし、アイデンティティという概念に意味があるとすると、その暗さに中にしかないのかもな、という気もします。

 関係の絶対性という吉本隆明さんの概念は、相対主義として語られがちだけど、その相対にまみれて、あれもできない、これもできない、というときに生まれる反逆の倫理みたいなものは、もしかすると、アイデンティティのことなんじゃないかな、と思いました。これは確信ではないけど。

 余談ですが、文章っていうか、書き言葉って面白いなと思うのは、頭の中の思考は、この文章を逆から読む流れなんですよね。つまり、なんとなく、関係の絶対性ってアイデンティティのことなんじゃないか、と思って、そこからCIについて考えたのです。そんなところも、ちょっと気になるところです。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年8月25日 (火)

フィー制というのはもともと

 1960年にオグルビー社が、それまでの15%のコミッションというアメリカ広告業界の報酬に関する商慣習をやぶって固定フィーにしたことがはじまりなんですね。会計が明朗なこと、そして、コスト削減にもなることから、この固定フィーは好意的に受け止められて、オグルビー社躍進のトリガーになりました。

 一般的に、「コミッションからフィーへ」というとき、逆の見られ方をする場合が多いですが、それは歴史的に言えば違います。広告業界の場合、まずは、広告主側に割安感がある固定フィーからはじまって、そのあと、広告会社側のコスト的な限界から、弁護士やコンサルタントの報酬制度に近い時間フィーへと移行していきます。そして、その反作用の意味合いで、大規模マスプロダクト企業を中心に、広告主側の要請で成功報酬への移行が定期的に検討される、というのがここ10年くらいの流れ。

 この流れで言えば、そこには景気動向が作用していて、いつも原資の最適配分に関する駆け引きがあり、日本の場合は、フィー制への移行があまり進まず、コミッション率を中心にその駆け引きが行われてきた、という感じかも。その歴史的な流れには、その国、その国の文化的な事情が作用してて、一概にこれが正しいとは言えない、というのがいろいろ考えてきた上での感想です。

 フィーについては、このブログで断片的にいろいろ書いて来ていますが、興味のある方はこちらからどうぞ。では。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年8月18日 (火)

タイムラグと閾値

 景気でも、業界の動向でも、道路の渋滞でも、何にでもタイムラグがあります。

 今、「餃子の王将」に行列ができています。少し前に、メディアで「餃子の王将」ブームと盛んに言われていた頃は、今ほどの行列ではありませんでした。たしか、雨上がり決死隊がラジオで話し出して、生中継したりして、決定打は「アメトーーク!」で王将芸人という企画をやったことでブームが生まれたんですよね。

 このブームと行列のタイムラグは、おもしろいな、と思いました。私は、このタイムラグは閾値で説明できるのではないかと思っています。

 「餃子の王将」がメディアでブームだと言われた時点では、じつは閾値を超えてなくて、そのブームをメディアで知り、巷で話題にされ、熟成されて、やっと閾値を超えて、今、「餃子の王将」に長蛇の列ができる、というプロセスかな。このブームの場合は、タイムラグが約1ヶ月でしょうか。

 このタイムラグ感覚をいつも意識していたいと思っています。効果はすぐには出ません。必ずタイムラグがあります。だから、販促活動やブランディングにあせりは禁物。あせりをなくすには、実務経験からつかんだタイムラグ感覚を根拠にして、「大丈夫です。もうすぐです。」と言えるかどうかが肝のような気がします。

 そのとき閾値という考えがなければ、その人はただの楽天家になってしまいます。何でもそうですが、閾値を超えなければ、待っても何も起こりません。見事に起こりません。お金をドブに捨てるようなものです。いかに閾値を超えるか。また、どのくらいの時期に閾値超えをするか。その2つの基軸が、コミュニケーション設計では重要な気がします。

 クリエイティブは、この閾値に対してどういう働きをするか。それは、閾値を超える時期を設定する主要因として働きます。一気に閾値を超えて、瞬間的に暴風を吹かせるのか。それとも、じわじわ閾値に迫り、閾値を超えた後も、その緩やかな風を長くキープするのか。その鍵を握るのは、じつはメディア量ではなくクリエイティブのような気が私はしています。

 もちろん、この話は、クリエイティブがメディア投下量に対して「×1」のときでも閾値を超えるということが前提の話です。それ以下の場合は、クリエイティブは、本来なら閾値を超えないであろうメディア投下量であるときに、閾値を超えるための主要因として機能してしまい、本来の目的である風のコントロールとして機能しなくなってしまいます。

 わかりやすく言えば、奇跡を起こすためにクリエイティブが使われる、ということです。その昔、「ケタグリ」と言われていたクリエイティブ手法です。作る立場から言えば、「ケタグリ」は博打です。博打は面白いけれども、ビジネスでやるからには、毎回博打ではきついのだろうと思います。だから、なるだけ博打ではない勝負をしたい。そんなこんなで、ここらへんまでは大丈夫です、保証します、と言いたい。

 タイムラグと閾値。

 低予算で即効性、みたいな世知辛い世の中ではついつい忘れがちですが、けっこう重要なことではないかな、と思っています。時代に関係なく基本的なことですしね。ではでは。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧