カテゴリー「広告のしくみ」の52件の記事

2009年11月 9日 (月)

バランス。あるいは、動きつづけるということ。

 なぜ、いつもバランス論に行き着いてしまうのかな、ということを考えていて、もしかするとものごとを三つの項で考えるからなのかな、なんてことを思いました。三つの項で考える限り、そこには強烈な対立みたいなものは生まれにくく、最終的には、その三つの項のバランスを考えることになります。

 例えば、こういう感じです。はじめに、二項の例。

 プライベート
 ソーシャル

 この2の項は、対立関係にあるので、究極的にはそのどちらかを支持し、残る一方と敵対するということになります。それをバランスということもできるけど、加藤典洋さんの著書に「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」というのがありましたが、つまり、そのバランスには、そんな捻れ感があります。

 けれども、ものごとを二項ではなく三項で整理すると、こうなります。用語としては、もしかすると同列にはならないかもしれませんが、ま、そのへんはご愛嬌で。

 プライベート
 コミュニティ
 ソーシャル

 人の生活を考えたとき、プライベートとソーシャルの対立関係で考えるよりも、プライベート、コミュニティ、ソーシャルの三つのモードを行き来すると考えたほうが、私はよりすっきり世界が認識できるように思います。ネットなんかでも、このバランスの問題がいつも問われますよね。

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 話は少し飛びますが、私がなぜビル・エバンスというジャズピアニストに興味があるかというと、音楽というものを、三つの関係というか、三項の運動としてとらえたアーチストだからだと思います。

 ピアニスト
 ベーシスト
 ドラマー

 私はその三項が対等にインプロビゼーションを交換する円環運動を「永遠の三角形」と勝手に呼んでいるのですが、その円環運動を成立させるには、どこかが頂点になって二等辺三角形を形づくると、すぐさま二項対立関係になってしまうので、ある緊張感を持って、運動しつづけるしかないのですね。私は、ビル・エバンスという人を、その「永遠の三角形」というものを、一生かけて追い続けた芸術家であると考えています。

 この緊張感ある持続運動は、少し言葉のニュアンスが違うけれども、バランスとも言えなくもなく、その意味合いでバランスという言葉をとらえると、バランスというものは、とてつもなく困難な行為であるとも言えるかもしれません。

 で、ビル・エバンスが追い求めた「永遠の三角形」が完成したのかというと、これは私は少し疑問があって、もしかすると「永遠の三角形」というものは理念上のもので、本当は成り立たないのかもしれないな、というのが「永遠の三角形」のモチーフだったりもするのです。人は、第三項排除的なものから自由になれるのか、みたいな。

 だから、絶えず動きつづけることを求められるのですよね。ライブ、ライブ、またライブ。ビル・エバンスという人は、言ってしまえば、そんな人生だったような気がします。

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 ブランドメソッドにも、ブランドトライアングルという手法が多くみられるし、そこでのパワーブランドは、そのトライアングルが強度の高い正三角形であることを求めます。

 ミッション
 ビジョン
 ビリーフ

 ここにも、ある種の完璧さを定着させることへの嫌悪感みたいなものがどうしようもなく起るんですよね。現実に動いているブランドって、そんなに割り切れたものではないよ、というような。つまりは、そこで止まったら、すぐに第三項排除の魔の手がやってくる、みたいな感じがするんですね。

 きっと、それがCIというブランド手法の弱点の部分でもあるのだと思います。なんとなく、そこから離れて、もっと泥臭い広告という分野を選んだのは、今思えば、そんな理由だったのかもな、とも思います。

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2009年11月 4日 (水)

定着という言葉が意味すること

 今どきの若いクリエイターたちは、定着っていう言葉を使うのかなあ。

 定着という言葉。クリエイティブの文脈では、普段使う定着という言葉の意味とは少し違って、その意味するところは、独特です。私も、この言葉をはじめて聞いたときは、意味がつかめませんでしたし、しばらくはなじめませんでした。

 クリエイティブにおける定着は、世の中に出せる表現に落とし込む、みたいな意味ですね。手書きのラフスケッチがあって、それをいろいろなありもの素材で組み合わせて少し精度の高いカンプにして、みたいな過程がありますよね。その段階では、まだ定着とは言えません。定着とは、そのラフスケッチなりカンプなりをもとに、写真を撮ったり、イラストを描いたり、そこにCG加工したり、それをトリミングしたり、レイアウトしたりして、完成形にすることを言います。

 コピーで言えば、なんとなく言いたいメッセージが頭の中にあって、それをもとにいくつかコピーを書いてみて、その中から最適なコピーを選んで、そこからまたてにをはを直したりしながら、最終的なコピーに落とし込むこと。それが定着です。

 定着っていうのは、いろんな可能性がある中で、その選択肢をどんどん落としていって、たったひとつ、これしかないという表現に追い込むことなんですね。

 この定着っていう言葉、いろいろなことを示唆している言葉のような気がします。ある情報から、クリエイティブにするまでには、必ず定着という過程があります。それがどれだけ短くとも、やはり、そこにはある時間が必要なわけです。

 要するに、定着を含むあらゆるものは、この時間を経ているもの、つまり、過去なわけです。必然的に過去の定着にならざるを得ないわけです。たとえそれが「新発売」という情報を伝えていたとしても、その伝える広告という器は、必然的に過去になるわけですね。

 ここに、広告という表現の最大の矛盾があるように思います。「新発売」という情報を、ただならぬ今として伝えるためには表現がいります。表現のためには定着がいります。定着がいるということは、過去であることと同義です。広告は、必然的に、今を過去の定着によって伝えるという矛盾をはらむわけです。

 表現の密度が高いものは、すなわち過去の密度も高いことと同じで、表現が優れれば優れるほど、それが過去であるという印象がどうしても高くなってしまいます。ウェブの誕生により、少なくともタイムラグのほとんどない情報が行き交う世の中になって、そうした広告の必然みたいなものがよりはっきりと見えてきたのだと思います。

 今を定着しようとすると、形式的必然で必ず過去になる。

 これが、全体的に広告が効かなくなってきたという現象の、表現という側面から見た理由だと思います。

 今、テレビCMを見て、最も広告的だなと思うものは、私の場合は、じつはお詫びCMだったりします。製品を回収しています、と伝えたりしている素っ気ないCM。あの生々しさに広告的な力を感じます。それは、きっと、今の時代において、過去であるという宿命を持つ広告という形式の中で、いちばん今に近いものだからだと思うのです。

 これは、広告に対する情報の勝利を必ずしも意味しなくて、情報であっても、それを多数に伝えるためには、どんなかたちであれ、システムとしての広告という器にのせるわけです。つまり、ここで課題にすべきは、きっと表現の問題。

 このブログをはじめてからずっと、広告の終焉論っていうのは、つまるところ表現の問題に行き着くのではないか、と思い続けてきましたが、その意味がほんの少しだけわかってきた気がします。書き出してみると、なんだそんなことか、という感じがなきにしもあらずですが、要するに、未来の定着を指向する、未来の定着に密度を求める、ということ。これは、過去の自分のつくった広告の、当たった当たらなかったを考えたときに、この軸でわりと説明できるように思います。

 よくよく考えれば、平賀源内の頃から、広告っていうのは、もともと未来を指向していたんじゃないか。土用丑の日に鰻なんて、誰も食べてなかったんだし。きっと、広告が広告に戻ること、広告のプリミティブな力を取り戻すことっていうのは、きっとそういうことなのではないかな。

 で、たぶん、それはきっと、表現、定着だけでなく、マーケ的なプランニングにも同様に言えることなんでしょうけど。でも、まあ、これだけ今この瞬間に追い立てられると、今についていくので精一杯で、未来を指向するのは難しいんですけどねえ。でも、これは踏ん張ってやるしかないんでしょうね。

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2009年10月21日 (水)

機能と普遍

 広告の仕事をはじめたときから、すごく悩んでいたこと。今だに悩むことがあって、そのときどきで判断が違ったりもしています。この悩みは、広告やマーケティングにかかわる人なら、それこそ20年30年のキャリアを持つベテランの人でもあるのではないでしょうか。

 機能寄りのメッセージにするか。それとも、普遍性のあるメッセージにするか。

 今は不況でもあるし、機能対普遍の争いも少なくなりましたが、一頃は、機能を端的に言ってほしい人と、個別の機能ではなく、その機能が提供する価値、つまり、普遍性を持つうれしさ、たのしさなどのエモーショナルな部分を言いたい人の対立がよくありました。

 もちろん、そういったことは理論的にも整理されてはいます。まあ、当たり前の話ではありますが、基本に立ち返って自分の頭の中をもう一度整理するために、大画面テレビを例にちょっと説明。

  • Function=機能(画面のサイズが大きい)
  • Functinal Benefit=機能的受益(迫力のある映像を表現)
  • Emotional Benefit=心理的受益(映画館の感動)

 ラダリングと言いますが、ベネフィットの流れを「はしご」がけするとこういう流れになります。最近は、こんなにわかりやすい商品はあまりないとは思いますが、状況によってはこういうわかりやすいケースもあるでしょうね。

 かれこれ四半世紀前の広告になりますが、よくできた例でもあるので、ソニーの大画面テレビの広告を挙げてみます。眞木準さんのコピーです。

  • ヘッドライン「子供ができたら、映画にも行けないわ。」
  • エンドライン「お茶の間で迫力の大画面。22・20・18型コンパクトに新発売。」

 これは、「はしご」の下から上へきれいに表現されています。こういうふうにいければ、まあ対立もなく、みんなが納得という感じもしますが、状況によっては、ヘッドラインを「22型」にしたい人、「お茶の間で迫力の大画面」にしたい人、「子供ができたら、映画にも行けないわ。」にしたい人というのはでてきそうです。

 ここで、広告というものについての考え方がでてきます。要するに価値観の問題になってきますから、こんがらがるんですよね。例が見事だから、このやり方しかないように思えてしまいますが、じつはどのやり方もそれなりに正解だったりもします。たとえば、かつてユニクロが出したフリースの広告「ユニクロのフリース ¥1980」もありました。

 私はケースバイケースだと思っていますが、でもこのあたりのきちんとした理由はわかっていたいと思っていました。機能で勝負すれば、商品の差別性が際立ちます。ライバルが競っている状況では、差別性を際立たせることが有効なときもあります。普遍で勝負すれば、共感が得られます。人の感情を表現するわけですから。で、その感情は、じつは、凡庸にさえならなければ、普遍的であればあるほど共感されます。

 要するに、広告は差別性を際立たせるものであるか、共感を得るためのものであるか、という価値観の問題になってしまうわけですね。状況による、というものの、そのどちらについても、感覚ではわかってはいるけれども、もっとはっきりと理解したい、言葉で言い切りたいと思ってきたのですね。

 で、2009年10月27日号の「SPA!」の工業デザイナー水戸岡鋭治さんのインタビュー記事を読んでいたら、なるほどなあ、そういうことだよなあ、という言葉があったんですよね。ああ、こういうふうに言えばよかったんだな、という感じで、個人的にはすごく感心してしまいました。電車の中で、おぉ、と声を出してしまったくらいです。

 JR九州の一連の車両デザインについて、そのデザインには水戸岡さんの強い美意識を感じるのです、という問いに対しての答えです。

 いや、それが機能美と普遍性なんです。機能美は体を満足させる。機能を追求すれば肉体的にも楽なものが造れるけれど、それだけじゃ心は満たすことができない。それを満たすのが普遍性、心地よさなんです。

 少し、広告の表現とは文脈は違うけれど、なるほどと思えました。広告は、長く使われる列車のデザインとは違い、時系列の中でのピンポイントのコミュニケーションなのでケースバイケースではあるけれども、機能と普遍の違いを、これ以上ないというくらい明快な言葉で表現されていますよね。

 なるほど、これはダノンの「♪カラダだけでもアタマだけでもだめよね」ということだなあ、と。ちょっと違うか。違うかもですね。すみません。ところで、このコピー、もはや知っている人はあまりいないかもですね。市川準さん監督のCMです。

 これ、その頃に流行った知能テストっぽいシチュエーションで、白衣の先生が子供に思いついた言葉をホワイトボードに書いてみて、と質問して、子供が「ニラ」って書くんですよね。で、このコピーがメロディ付きで流れるというCM。今だと苦情が来るんでしょうねえ。私は大好きですけど。

 ま、ちょっと脱線してしまった感じはありますが、本日はこんなところで。ではでは。

 追記:

 はてブのコメントでご指摘。プチダノンのCMは、「ニラ」じゃなくて「にら」だそうです。そう言えばそうだ。「にら」。ひらがな。市川さんらしいですよね。一緒に仕事したかったなあ。

 関連エントリ:市川準さん(2008年9月19日)

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2009年9月20日 (日)

毒饅頭とマニュアル

 大手納豆メーカーが民事再生法の適用を申請したとのこと。日経ビジネスに記事がでていました。

 「最後に“毒饅頭”を食べてしまったからね」。くめと取引のある食品メーカーの社長は、くめが追い込まれた経緯と理由を解説する。

 大豆など原材料の調達コストが年々上昇する一方で、販売価格には転嫁できない。追い込まれたくめは、数年前から、大手小売りチェーンの要請を受け、PB(プライベートブランド)商品の下請け製造を始める。

 下請け製造は、自社ブランドを持つ食品メーカーとしては苦渋の選択だが、大量注文を受ける「数」はくめにとって魅力だった。工場稼働率を上げるためにはやむを得ないと判断した。ところがこれが、くめにとっては、先の社長いわく“毒饅頭”となる。

 スーパーマーケットを見ていると、例えば、カップヌードルの横にPBのカップヌードルもどきが置いてあるものなあ。価格は40円くらい安くて、中身が少し貧弱だけど、まあ同じ。コンビニでは100円均一のお菓子なんかもあって、その中身は有名メーカーのかつてのヒット作なんかが多いです。昔は定価で売られていて、みんながこぞって買ったけれど、いろいろな競争に負けて、そのままの価格とパッケージでは戦えなくなって、価格を下げてPBで再デビュー。そんな感じなんでしょうね。きっとこれも、既存の工場ラインをそのまま使えて、衰退して、そのままではお金にならない商品が、投資とかもなくお金になって、ある意味でスーパーとメーカーの利害が一致、みたいなことなんでしょうね。これは毒饅頭なのかどうかは、情報に疎いので私にはわかりませんが。

 これは他人事とは思えないんですよね。こういうことにまつわる判断をちょっと間違えると、それこそ日経ビジネスの記事にあるようなことになってしまいます。また、この手のことは、その瞬間では、単純にいい話だなあと思ってしまうことも多いし、あとから見て、「ああ、あのときの判断が原因だったのか」。で、覆水盆に返らず。

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 広告コミュニケーションの話で言えば、今、WOMやらBuzzやら言いますよね。流行していますから、その手の新手法のお誘いも多くなっていると思いますし。でも慎重になったほうがいい、慎重になりすぎるくらいがちょうどいいと私は思っています。私の場合は、少し慎重すぎるくらいかもしれません。でもねえ、こういう事例もあるわけだし。

 もちろん私もWOMやBuzzを意識したキャンペーンをやりましたが、そのやり方は、自らが発信するコンテンツにいろいろ楽しめるようなくふうを仕込む、というもので、主体は必ずこちらに置きましたし、猛烈に計算して、先を読んで行いました。そのやり方は、きっと最先端の人から見れば古いと言われそうですが、でも、私は古くて結構と思うんですね。どこに毒饅頭があるかわからないし、一度食べたら、もう終わりだし。

 広告というかブランドについての基本になるものって、昔も今もそんなに変わらないと思います。結局はその基本の部分に照らして判断しなくちゃいけないんですが、広告、SP、PRと部署が分かれていると、その判断基準にばらつきが出てきます。コミュニケーションデザインという新しい概念は、コミュニケーションを機能で分けてはいけないよ、軸としてひとつとして見なくちゃいけないよ、ということなんだろうと思います。

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 良品計画の業績が振るわなくなったとき、現会長の松井忠三さんが行ったことは、徹底的なマニュアル作りだったそうです。1000ページを超え、現在も時代の流れに会わせて修正が重ねられる「ムジグラム」というマニュアルによって、良品計画はV字回復しました。日経ビジネスの記事にはこうあります。

 1990年、松井は西友の人事部にいた。西友もやはり「マニュアルは創造性を奪うから不要だ」というセゾン文化の残滓からの脱却を図っていた。部下だった小林珠江は、アシスタントの女性と2人で業務マニュアルを一から作成して、その素案を松井に見せた。

 小林はしばらくして松井に呼び出された。「これ」と、手渡されたマニュアル案は、びっしりと手書きの赤文字で埋め尽くされていた。そして一言。

 「ダメだ。このマニュアルには、魂が入っていないよ」

 きっとこういうものが、本当のマニュアルというのでしょうね。で、見ていないのでなんとも言えませんが、この記事に出てくる素案がいわゆる世間で言われているマニュアルで、松井さんはきっと、そういうマニュアルはマニュアルではないと言いたかったのではないでしょうか。

 素案のようなマニュアルは、人の創造性を奪うのはたぶん事実でしょう。そこには、きっと理由が書かれていないだろうし、理由がわからない規則は、人を疎外していきます。だから、人は本能的にマニュアルを嫌うのだろうと思います。けれども、現場で起こる問題点をすくいきり、魂の入ったマニュアルは、つまり、そこには人が宿っていて、そこには話言葉はないけれど、それは確かに物語であり、その物語は、人の創造性を発揮させるはずです。そこにある規則には、きっと誰にでも理解でき、納得できる明快な理由が書かれているはずです。理由がわかると人は動きます。松井さんはこう言います。

 「スポーツと同じです。基本がなくて最初から自己流だと、進歩はいずれ止まる」

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 今、良品計画は少し業績が良くないようです。でも、たぶん、この「ムジグラム」があることで、良品計画は、以前のように毒饅頭を食べてしまうことはないのではないかと思います。失敗を許さないマニュアルではなく、失敗に動じないマニュアルこそ、求められるのでしょう。たぶん、このマニュアルは、マニュアルのカタチをしたブランドブックなのでしょうね。というか、これは私にとっては新しい考え方ですが、ブランドブックというものは、じつはマニュアルのことなのではないか。

 だからこそ、そこには魂が込められるべきで、その魂は、抽象的なイメージの言葉ではなく、具体的な事柄の集積なのでしょう。魂は細部に宿ると言いますし。なんとなくそれは、今の広告コミュニケーションが向かう道筋と同期しているように私には思えます。

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2009年9月11日 (金)

戦争メタファ

 10年ほど前に、元電通のCMプランナーである佐藤雅彦さんが、「経済ってそういうことだったのか会議」という竹中平蔵さんとの対談集で、売り上げが倍もあるのに電通マン自らが「電博」なんて呼び方をするのは良くない、みたいなことを言っていました。

 これを博報堂の立場に立って考えると、うまいレトリックだったりします。売り上げ規模で倍の差がつけられているのに、2強のイメージを植え付けられるし、企業は、じゃあ電博で競合させてみるか、ということになり、博報堂にとってみれば売り上げ半分なのに同等に扱ってもらってラッキー、電通にとってみれば2倍の差があるのにたまったもんじゃない、ということになります。

 売り上げだけが広告会社の価値ではないけれど、「電博」というレトリックには、そんな戦略が含まれています。こういう手法は、いろんなところで昔から使われています。上記の対談では「他人の土俵で相撲を取れ」と表現されています。資生堂に対するカネボウ、佐藤さんのかつての仕事で言えば、カルビーに対する湖池屋。

 ただ、あの頃、すごく新鮮に見えた「他人の土俵で相撲を取れ」戦略に限らず、様々な戦略的手法が今通用するのかな、という気分があるんですね。念のため書いておきますが、これは佐藤さんを批判しているわけではないですよ。時代っていうのがあるわけだから。当時、もっとも刺激的だった言説を例に、それから10年経った時代の気分を語っているわけだから。それに、本を読んでもらったらわかると思うんですが、当の本人が相手の戦略にはまっているんじゃないよ、という話で、それは今も通用する話。

 本題に戻ります。

 もちろん、ものを伝えるときには考えてやらないといけないですよ。アイデアとか芯とかがなくちゃ駄目。それは、今も昔も変わらない。けれども、それはなんとなく私は戦略と呼びたくはないんですね。だから、私は人から「戦略プランナー」とか間違っても呼ばれたくもないし、その肩書きからイメージされる戦略は、もう通じないと私自身が思っているんですね。

 そんな私の気分は、時代の流れとも呼応してて、例えば、マーケティングの専門家の呼称を見ていけばわかるかもしれません。マーケティングプランナーと呼ばれた時代から、少し経つとストラテジックプランナーと呼ばれ、広告会社にはストラテジックプランニング局が誕生し、やがて、そのブームが過ぎたら、コミュニケーションデザイナー。今やコミュニケーションデザイン局が花盛り。

 ここから見えてくるものは、「戦略から戦術の時代へ」ということなんでしょう。メディアが多様化して、言いたいことを届けるためには戦術を緻密に組んでいかなくちゃいけないですよね。それがコミュニケーションデザインということなんでしょう。密教化している感じもするので、いや、それがコミュニケーションデザインじゃないよ、と言われそうですが、まあ、大まかにはそういうことだと思います。

 でもなあ、それはそれでわからなくもないけれど、どちらもちょっと戦争メタファな気がするんですよね。本当に終わったのは、戦争メタファなんじゃないかな、という気がするんですね。私は。というか、そう思いたい。

 戦略から戦術へ、みたいな文脈は、戦争メタファ的には、きっと空爆から地上戦みたいなものでしょ。こういうのはたまらなく嫌いというのもあるけれど、そういう気分とは別に、なんかそういうのが通用しなくなっていっているんじゃないか、それが広告が効かなくなってきたという言説と同期しているんじゃないか、と思うんですね。どっちにしても、戦場では、広告をつくる人も見る人も誰も楽くないだろうしさ。結局、世の中は戦争ではなかったけれど、比喩的に言えば、戦時中の熱狂が終わった、ということかも。

 だったらどうするよおまえ、というのは突きつけられるんですけどね。答えがあるとしたら、もっと根っこの部分かもな、という予感はあります。それを何と呼べばいいのかはわかりませんし、素直にアイデアと呼べばいいのかもしれないですが、外資育ちの私としては、アイデアという言葉は手あかが付きすぎているんですよね。それに、今、私がぼんやり考えていることは、時代とかに関係なく、もっと普遍的なことのような感じもあるし、ぼちぼちやって、ぼちぼち理論化みたいなことをやるしかないんだろな、なんてことも思っています。

 こういう、まだ整理されていない思考を書くというか、伝えられる場所があるっていうのはありがたいな、と思います。そんなね、こういう普通の人のなんでもない思考を書き残せるメディアを、小さいながらも個人が持てる時代っていうのが、戦争メタファっていうのを無効化させている一因だったりもするのかな、とも思っています。レトリックはすぐバレるさ、真面目に正直にやらなくちゃね、みたいな。そんな感じです。

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2009年9月 3日 (木)

アイデンティティって、何?

 アイデンティティという言葉を初めて知ったのは、確か中学校の頃。倫理の教科書で、心理学の項目で出て来たような気がします。エリクソンですよね。モラトリアムなんて言葉も紹介されていました。

 なんとなく、「人間の成長にはアイデンティティ(自我の同一性)の確立が不可欠で、その確立までのモラトリアム(猶予期間)が、あなた方が今いる学生時代なんだから、偉人たちが残した知識をしっかりと学んでアイデンティティを身につけて、立派な大人になりましょう。」みたいな感じが嫌でした。その文脈で語られるアイデンティティという言葉が、とっても軽く感じられたんですね。

 でも後に、エリクソンという人の人生がとってもややこしかったことや、その感受性も何か愁いのようなものがあることを知り、この言葉の印象が少し違ってきました。エリクソンの発達心理学はアメリカの心理学と紹介されるけれど、彼自身はドイツ生まれのユダヤ系デンマーク人なんですよね。

 アイデンティティという言葉は、あくまで境界例の患者さんの臨床から生まれた概念ではあるけれど、エリクソンという人は、自分の問題としてアイデンティティという概念をひねり出した、というか、ある種の必然から出て来た切実な言葉なんだろうと思います。

 ずいぶん昔に読んだから記憶があいまいではありますが、エリクソンはアイデンティティという概念を相当複雑なものとして扱っていましたし、アイデンティティという概念が社会科学やマーケティングなどに応用され多用されることに戸惑いがあったと聞きます。

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 彼のつくったアイデンティティという概念をマーケティングに応用したものが、CI(コーポレイト・アイデンティティ)で、このCIの分野で私のキャリアが始まりました。私は、昔はCIプランナーだったんですね。日本のCIの世界では、中西元男さんが率いるPAOSという会社が君臨していて、そのPAOSが自社の提案事例を紹介したDECOMASという百科事典のような本があって、それを熟読したりしていました。小岩井農場やMATSUYAなんかの事例は、それはそれは見事でした。ちょっと鳥肌が立ちます。

 でも実務ではどんな感じなのかというと、社名変更ありきで、なんでもかんでも規定していって明文化し、それを詳細なマニュアルにしていく作業だったりします。作業の本丸はロゴデザインとその後についてくるシステムデザインで、ブームの頃、多くのCI会社はその業務を根拠にして、高額のフィーを勝ち得ていて、そういうバブルな構造だったので、ブームが去ると、ロゴデザインだけ売ってくれないかな、みたいなことが増えて、CIと言えばVI(ビジュアル・アイデンティティ)のような風潮がこのとろこずっと続いています。

 CIブームの頃は、きっと企業は、自分の宿命とか使命みたいなもの、つまり、どうしようもなく形作られた企業人格なんかを軽く見て、自分がなりたい自分になれると安易に考えて、どんどんなりたい自分になっていったという感じでした。

 そこで語られるアイデンティティという言葉は、とても軽く、とても薄く、教科書で紹介されていたアイデンティティという言葉によく似ていました。

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 コミュニケーション戦略の構築だけでなく、コーポレイト・アイデンティティやブランド・アイデンティティの構築にも、よくSWOT分析の手法が使われて、SWOTのW、つまり弱みをどう克服するか、というふうにアイデンティティがつくられていくことが多いです。弱点を克服して、強い自分になる、みたいなことですね。

 この弱みの克服というのが、どうにも軽く思えてしまうのです。だから、Wは無視する、ということではなく、逆にWこそが重要なのではないか、と私は考えています。人もそうだけど、企業だって、ひとつの企業が世界のあらゆる価値を提供できる、なんてことは絶対にないわけです。ということは、世界のあらゆる価値という軸で見れば、その企業が提供できないことというのは絶対にあります。

 提供できない、という言葉を、提供しない、という言葉に変えてもいいのかもしれません。けれども、その提供しない、ということ、つまり、全能の神の視点から見て弱点に映るものにこそ、その企業のアイデンティティがあるように私には思えるのです。また、同時に弱点の裏返しは、そのままS、つまり強みです。

 提供します、という文脈だけで考えると、その「提供します」が美しければ美しいほど、今後の新しく生まれた「提供します」との矛盾が起きてきます。そのとき、せっかくのアイデンティティが無力化してしまうんですね。逆に、規定された「提供します」に忠実になればなるほど、アイデンティティが成長を阻害してしまいます。柔軟性がなくなるんです。

 アイデンティティの構築って、ほんとは「提供しない」モノやコトは何か、ということを追いつめて考えるプロセスなのではないかな、と思うんですね。「他の人はうまくそれをやるけれど、それだけは、私には絶対にできない。」という弱点にこそ、アイデンティティがあるのではないか、と思うのですがどうでしょう。むしろ、弱点を認める痛みの伴う作業がCI。だから、多くのCI作業は、今だにトップレベルの経営案件だし、必然として外部的視点を必要とするんですよね。精神分析と同じように。

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 エリクソンという人は、その概念の中でしきりに成功ということを言ってきた人ですが、その明るいアイデンティティという概念の裏側にある暗さみたいなものが気になるし、アイデンティティという概念に意味があるとすると、その暗さに中にしかないのかもな、という気もします。

 関係の絶対性という吉本隆明さんの概念は、相対主義として語られがちだけど、その相対にまみれて、あれもできない、これもできない、というときに生まれる反逆の倫理みたいなものは、もしかすると、アイデンティティのことなんじゃないかな、と思いました。これは確信ではないけど。

 余談ですが、文章っていうか、書き言葉って面白いなと思うのは、頭の中の思考は、この文章を逆から読む流れなんですよね。つまり、なんとなく、関係の絶対性ってアイデンティティのことなんじゃないか、と思って、そこからCIについて考えたのです。そんなところも、ちょっと気になるところです。

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2009年8月25日 (火)

フィー制というのはもともと

 1960年にオグルビー社が、それまでの15%のコミッションというアメリカ広告業界の報酬に関する商慣習をやぶって固定フィーにしたことがはじまりなんですね。会計が明朗なこと、そして、コスト削減にもなることから、この固定フィーは好意的に受け止められて、オグルビー社躍進のトリガーになりました。

 一般的に、「コミッションからフィーへ」というとき、逆の見られ方をする場合が多いですが、それは歴史的に言えば違います。広告業界の場合、まずは、広告主側に割安感がある固定フィーからはじまって、そのあと、広告会社側のコスト的な限界から、弁護士やコンサルタントの報酬制度に近い時間フィーへと移行していきます。そして、その反作用の意味合いで、大規模マスプロダクト企業を中心に、広告主側の要請で成功報酬への移行が定期的に検討される、というのがここ10年くらいの流れ。

 この流れで言えば、そこには景気動向が作用していて、いつも原資の最適配分に関する駆け引きがあり、日本の場合は、フィー制への移行があまり進まず、コミッション率を中心にその駆け引きが行われてきた、という感じかも。その歴史的な流れには、その国、その国の文化的な事情が作用してて、一概にこれが正しいとは言えない、というのがいろいろ考えてきた上での感想です。

 フィーについては、このブログで断片的にいろいろ書いて来ていますが、興味のある方はこちらからどうぞ。では。

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2009年8月18日 (火)

タイムラグと閾値

 景気でも、業界の動向でも、道路の渋滞でも、何にでもタイムラグがあります。

 今、「餃子の王将」に行列ができています。少し前に、メディアで「餃子の王将」ブームと盛んに言われていた頃は、今ほどの行列ではありませんでした。たしか、雨上がり決死隊がラジオで話し出して、生中継したりして、決定打は「アメトーーク!」で王将芸人という企画をやったことでブームが生まれたんですよね。

 このブームと行列のタイムラグは、おもしろいな、と思いました。私は、このタイムラグは閾値で説明できるのではないかと思っています。

 「餃子の王将」がメディアでブームだと言われた時点では、じつは閾値を超えてなくて、そのブームをメディアで知り、巷で話題にされ、熟成されて、やっと閾値を超えて、今、「餃子の王将」に長蛇の列ができる、というプロセスかな。このブームの場合は、タイムラグが約1ヶ月でしょうか。

 このタイムラグ感覚をいつも意識していたいと思っています。効果はすぐには出ません。必ずタイムラグがあります。だから、販促活動やブランディングにあせりは禁物。あせりをなくすには、実務経験からつかんだタイムラグ感覚を根拠にして、「大丈夫です。もうすぐです。」と言えるかどうかが肝のような気がします。

 そのとき閾値という考えがなければ、その人はただの楽天家になってしまいます。何でもそうですが、閾値を超えなければ、待っても何も起こりません。見事に起こりません。お金をドブに捨てるようなものです。いかに閾値を超えるか。また、どのくらいの時期に閾値超えをするか。その2つの基軸が、コミュニケーション設計では重要な気がします。

 クリエイティブは、この閾値に対してどういう働きをするか。それは、閾値を超える時期を設定する主要因として働きます。一気に閾値を超えて、瞬間的に暴風を吹かせるのか。それとも、じわじわ閾値に迫り、閾値を超えた後も、その緩やかな風を長くキープするのか。その鍵を握るのは、じつはメディア量ではなくクリエイティブのような気が私はしています。

 もちろん、この話は、クリエイティブがメディア投下量に対して「×1」のときでも閾値を超えるということが前提の話です。それ以下の場合は、クリエイティブは、本来なら閾値を超えないであろうメディア投下量であるときに、閾値を超えるための主要因として機能してしまい、本来の目的である風のコントロールとして機能しなくなってしまいます。

 わかりやすく言えば、奇跡を起こすためにクリエイティブが使われる、ということです。その昔、「ケタグリ」と言われていたクリエイティブ手法です。作る立場から言えば、「ケタグリ」は博打です。博打は面白いけれども、ビジネスでやるからには、毎回博打ではきついのだろうと思います。だから、なるだけ博打ではない勝負をしたい。そんなこんなで、ここらへんまでは大丈夫です、保証します、と言いたい。

 タイムラグと閾値。

 低予算で即効性、みたいな世知辛い世の中ではついつい忘れがちですが、けっこう重要なことではないかな、と思っています。時代に関係なく基本的なことですしね。ではでは。

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2009年8月15日 (土)

新しい広告は新しいテクノロジーから生まれるんじゃない。新しい表現から生まれるんだ。

 ここ最近、自分のブログの広告関係の過去ログを読み直しています。あんたどんだけ自分が好きやねん、みたいな感じもしないではないですが、時間の経過によって、過去の自分を客観的に見られるメリットもあり、いろいろな思考の整理にもなるんですね。

 で、客観的になって自分の書いたことを読んでみての感想。結局、このブログの人はこういうことを言いたかったんじゃないかな、みたいなこと。それが本日のエントリのタイトルにあるようなこと。なんだか「踊る大走査線」みたな台詞ですが、繰り返しますね。

新しい広告は新しいテクノロジーから生まれるんじゃない。新しい表現から生まれるんだ。

 このブログの人は、ことあるごとに表現の問題、表現の問題、と言っています。このブログの人は、所謂インターネットの人ではなくて、従来のマスメディアの広告を生業にしている人なので、ときどき、ちょっとイライラしながら書いているな、と思うエントリもあります。その行間に感じられることを代弁すると、こういう感じでしょうか。

 インターネットの人は新しいテクノロジーが新しい広告をつくるというけれど、それは違うんじゃないか。例えば、ラジオができて、テレビができたとき、広告の本質みたいなものがガラッと変わったか。変わってないと思う。まあ、変わるという言葉をどんな意味合いで使うかにもよるだろうけど、それでも変わってないと言い切れると思う。それは、DDBのフォルクスワーゲンでも、平賀源内でも何でもいい、過去にさかのぼって広告の歴史を見てみればいい。広告という行為の本質は何も変わっていない。

 けれども、表現はどんどん変わっている。はっきり言えば、80年代の広告は今、通用しない。その延長線上にある今の広告も通用しにくい。当たり前。その時代において最大限の効果を生むことが広告に与えられたミッション。後世にもなお通用するということは、広告のミッションではない。時代が変われば表現が変わる。それだけのこと。

 そのことをインターネットの人は鬼の首を取ったように、広告は終わった、広告はシステムになる、と叫ぶ。それが、この今の情況。でもね、広告はシステムにはならないよ。あの時代の豊かな広告からは学ぶことはたくさんある。学ぶものがないという人は、学び方を知らないだけだと思う。

 多様なメディア。個人発信。ネットによってできた新しい環境とこれまでの環境の違いは、大きく言えば、この2つ。この新しい環境から出て来たものは、情報の拡散・消費の速度が上がったこと。そして、フラット化。この条件の中でどう広告するか。伝えたいことをきちんと伝えきるか。それはまさに表現の問題でしかないではないか。

 みたいなことかな。こう書くと、ずいぶん反抗的なもの言いだよなあ、と思います。あと、こういう言い方をすると、テクノロジー否定のような感じに受け取られるけど、そうではないですからね。むしろ、日々進化するテクノロジーに必死についていってる私がいるもの。それはそれで、餅は餅屋、お互いがんばりましょう的な別の問題。でも、こういう補足を書かないといけないのが、情報発信における「今」ってことなのかも。そんな環境で、いかに広告が広告が本質的に持っている力を発揮できるか、というのが、このブログの広告関係エントリの主題だったのだろう、と思います。

 表現の問題というのは、表現の設計の問題でもあります。大胆な言い方になりますが、成功するかどうかの8割は、その設計で決まってしまいます。その設計のいい解を見つけられたら、その仕事の成功はなかば見えます。で、いい設計をしておけば、後からついてくる様々メディアでの様々な表現は、生き生きと活かされてくるものです。設計という言葉からのこじつけではなく、このニュアンスは都市や建物の設計に似ていると思います。

 私がこのブログを書き始めた頃からの仕事でも、それは実感することです。だから、もう、広告は個別のクリエイターの問題ではないのだと思います。もちろん、個別のクリエイターが優秀であることは必要。けれども、建築家のリアルな実務がそうであるように、それは建築主との幾度ものコミュニケーションによって生まれるもの。そう考えると、これはある人の受け売りではあるけれど、プレゼンの時代が終わり、ミーティングの時代が始まる、ということは確実に言えることだろうと思います。

 あとは、産業としての広告業界が、その流れに対応できるか、ということ。そして、この流れが見えてきたことが、私が実感する「時代の変わり目」というものの正体のような気がしています。

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2009年8月13日 (木)

PV幻想の崩壊という意味合いもあるのでしょうね

 ちょっと旬を逃した感がありますが、8月6日のニュース。

マードック氏は決算発表後の電話会見で「質の高いジャーナリズムは高くつく。内容を無料で提供することは、資産を切り売りしているのと同じことだ」と語り、世界の主流となっている新聞社系Webサイトでの記事の無料提供を見直すと明言した。

 また「有料化の先陣を切ることで読者の減少に見舞われようともかまわない。もしわれわれが成功すれば、世界中の新聞が追随するだろう」とも述べ、傘下にもつ英国の高級紙タイムズや大衆紙サンなど、すべての新聞を来年夏までに有料化するとした。

新聞のWebサイトをすべて有料化に——メディア王のマードック氏(2009.08.06 ITmedia)

 紙媒体の発行部数は、欧米の新聞はかなり少なく、ひとつひとつの新聞のターゲットがかなりセグメントされているので(参照)、この出来事を日本の新聞にそのままあてはめることはできませんが、この試みがうまくいくと、やがては日本の新聞社系Webサイトも同じような流れになるのかもしれません。

 ほんの少し前までは、わりと牧歌的に、紙の新聞は消え、すべての新聞はPCで読まれるようになると言われてきたような気がします。そして、PCで読まれるという言葉が想定するイメージは、無料で、ということでした。そこに、有料というイメージはほとんどなかったし、また、多くのネットユーザーからは望まれていない雰囲気がありました。

 新聞社をはじめとする多くのニュース系Webサイトはコメント、トラックバックなどの双方向機能を強化し、PVの拡大に躍起になりました。なぜPVを上げようとするのか。それは、収益性という視点で見れば広告のクリック数を上げるためです。サイトの広告媒体の価値は、概ねPVとの相関で語られます。多くの人に見られている媒体は、それだけ価値が高く、よってその媒体にある広告枠も価値が高い。つまり、それは「広告モデル」を基準にした考え方です。

 この「広告モデル」は、マスメディアと同じように、ネットメディアでも同じように成功すると思われてきました。だからこそのPV獲得施策だったわけで、上記の牧歌的な未来イメージも、じつは、意識するしないにかかわらず、この「広告モデル」を前提に話されてきたのだと思います。Web2.0的言説を支えてきたもの。それは、案外、この従来型、しかも、PV至上主義的な「広告モデル」だったのかもしれません。

 そのPV至上主義的「広告モデル」の雄として、Google、Amazonが語られてきたし、ネットサービス各社がPV拡大のために取り組んできた動機は、構造的にはテレビ局各社が視聴率に躍起になっていることと同じで、このニュースの意味は、こうした「広告モデル」が、少なくともインフラ化していない、もしくは検索エンジン、あるいは物流センターを核とした配送システムといったインフラを持たない各Webサービス単体においては成り立ちにくくなってきた、という意味合いで捉えるべきなのかもしれません。

 なんとなく思うのは、このまま紙媒体の苦戦が続くと、ネットでのニュース配信はいつか有料に移行するかもな、ということですね。ネットの新聞サイトの広告は、他のポータルへの配信も含めて、PVでも広告媒体の量でも価格でも、わりと飽和点に来ているのではないかという印象を持っています。となると、今のようなネットの新聞サイトは今のままで持ちこたえられるのかな、と思ったりします。

都道府県別シェアから見た広告メディアとしての新聞(2008.12.07)

 半年前のエントリでも書きましたが、このままではいかないだろう、という感覚を私は持っています。もちろん、「広告モデル」が崩壊するわけでもありませんし、「課金モデル」が主流になるわけでもないだろうな、とも思います。例えば、報道であれば報道というコンテンツが必要とする収益をどこで最適化するのか。その部分で言えば、今の状況で言えば、PVが増大すれば、ロングテール理論のもと、広告収入も安定していき、従来通りコンテンツが成り立っていく、みたいな、これまでのWeb2.0的な流れ一本では最適化できないのだろうな、ということがわりあいはっきりと見えてきたのが、今、という情況なのかもしれません。

 私は、従来型のマスメディアにおける広告という分野で長年飯を喰ってきました。私たちと言っていいのかどうかはわかりませんが、少なくともこの広告業界は、ひとつの見当違いをしてしまった過去があります。それは、インターネットというものをメディアであると思ってしまったことです。だから、広告業界はインターネットにメディアをつくることから逃げてしまった、もしくは、出遅れてしまった。戦後、あれだけマスメディアの成長に寄与してきた経験があるにもかかわらず。

 そんな従来型広告業界の目線からは、ひとつだけ見えることがあります。それは、非常につまらない言い方になってしまうけれど、「バランス」ということで、ひとつひとつのメディアに求められる「バランス」のために日々の仕事の継続の意義があり、その均衡がメディアをつくってきているということで、その均衡は、コンテンツ制作者、視聴者、社会の3者の力関係の均衡です。また、もうひとつのレイヤーでは、質と量の均衡があり、その2つの均衡の余剰価値としての広告であるということ。また、その戦後からの歴史は、今の言葉になぞらえると、PV至上主義の成功と失敗の歴史でもあります。また、日本のメディア史というのは、きっとその繰り返しの歴史でもあるのだろうとも思います。

 私は広告コンテンツを作る制作者ではありますが、あえて言うと、だからこそ、このブログでは意識的に、広告の下部構造としてのメディアを自分なりに考えてきました。その考察から、なんとなく見えてきたのは、日本の広告業界の良質的な価値は、そういう余剰価値としての広告というスタンスで、メディアにかかわってきた、という部分であろうということでした。余剰価値としての広告の価値をつくるために、回り道をしてでもメディアを育てようとしてきた。「損して得とれ」ではないけれど、そんな戦後の広告業界というのは、世界的に見てもたいしたものだな、という思いが私にはあります。

 けれども出遅れてしまったからこそ公では発言しないことでもあるのでしょうし、発言すれば既得権益層だと言われそうでもあるし、また、今の情況で、ほんとうに答えが見えないということもあるのでしょうし、あまりよくわかっていないということもあるにはあるのでしょうが、まあ、わりあい身軽な私のような者がこうしたニュースに反応してブログで何か書くということも、なにかしらの必然があったりもしたのかな、とも思っています。

 では、引き続き、よいお盆休みを。本日は、私ものんびりお休み中です。

 

■関連エントリ
 ・広告代理店って、何を代理しているのだろう。(1)
 ・広告代理店って、何を代理しているのだろう。(2)
 ・広告代理店って、何を代理しているのだろう。(3)

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2009年8月 7日 (金)

Perfumeのインタビューが読みたくて買った「ROCKIN'ON JAPAN」だけど、Perfumeのインタビュー以外はあまり興味がないんだよなあ、もったいないよなあ、というありがちな気持ちを起点にして、メディアについてあれこれ考えてみました。

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 少し前に、Perfumeのインタビューがネットで話題になったことがありましたよね。あ〜ちゃんが苦悩しているとかなんとかかんとか。ブログで引用されていたPerfumeのインタビュー記事が興味深くて「ROCKIN'ON JAPAN」7月号を本屋さんで買いました。その号はRIP SLYMEの特集号で、特にPerfumeの特集号というわけでもなく、そもそも私は日本のロックシーンはあまり詳しくなく、わずか10ページほどのPerfumeの記事以外は、私はどうにもこうにも興味を持てなかったわけです。

 そもそも「ROCKIN'ON JAPAN」という雑誌は、日本のロックに興味がある人を対象としている雑誌で、その雑誌が持っている購読層の関心領域にPerfumeがあって、だからこそ、このインタビューが掲載されたわけだから、「ROCKIN'ON JAPAN」が想定する読者層から外れる私がそのような気持ちを抱くのは当たり前なわけです。

 また、こうした特集を組むことで、雑誌はこれまでの読者層を拡大していって、新しい読者を獲得していきます。私はPerfumeのインタビューを読みたくて買った「ROCKIN'ON JAPAN」ではありますが、その後、この雑誌を通して日本のロックに興味が出たということもなく日々を過ごしていますが、Perfumeファンの若い人は、この雑誌を読むことで日本のロックに興味を持ちはじめるかもしれませんし、そうなれば、その人は「ROCKIN'ON JAPAN」の新しい読者になってくれるかもしれません。

 ●    ●

 ここで、このあたりの話を「メディア」を軸に整理してみます。

 まずはじめに、日本のロックを広く追いかけていて、日本のロックファンの多くに支持されている「ROCKIN'ON JAPAN」という雑誌があります。その雑誌が、アイドルだけれどコアなファンにも支持される音楽性を打ち出したPerfumeというグループを、コアなロック雑誌の視点でインタビュー記事にしました。だからこそ、その記事は広く知られ、かつ、その記事の視点の独自性からブログで取り上げられ、話題になりました。そして、コアなロックファンでもない私が興味を持ち、その記事を読みたいがために「ROCKIN'ON JAPAN」を購入しました。

 このプロセスを、今度は興味を持った「私」を起点に考えてみます。

 もとの記事がただのインタビューではなく独特な視点を持ってるインタビューだったから、ブログに取り上げられて話題になりました。話題になって、コアなロックファンではないけれどPerfumeに興味を持っている私が目にすることになりました。数多く世の中にある普通のPerfumeのインタビューであれば、私は本屋さんでなじみのない「ROCKIN'ON JAPAN」を購入するまでの興味を持たなかったわけです。つまり、私の興味は、じつは私の気持ちとは関係なく、構造的にはじめから音楽専門雑誌「ROCKIN'ON JAPAN」というメディアに紐づいているわけです。

 私は「ROCKIN'ON JAPAN」を購入してインタビューを読んで、面白いなあという感想を持った後、「でも、この雑誌、私にとっては、他に読むところがないなあ、なんかもったいないよなあ、でも興味ないしなあ。この記事だけ買えればリーズナブルでいいのになあ」なんてことを思いました。まあ、たかだか数百円なのでいいと言えばいいのですが、今、インターネットを支えているメンタリティは、こうしたメンタリティだとも言えます。

 そうしたメンタリティに応えるかのように、音楽CDは曲ごとにダウンロード購入することが可能になり、多くのネットメディアでは、パーマネントリンクとSBMサービスを含めたニュースサイトにより、興味のある記事をピンポイントで無駄なく読むことができます。ロングテール理論を軸にして、コンテンツを際限なく微分化していくこのシステムは、読み手、つまり消費者の要求に忠実なシステムではあります。しかしながら、そのシステムは、コンテンツの成立要件、またはコンテンツの下部構造を構成する「メディア」というものの言い分をまったく組み込んでいないシステムでもあります。

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 あのちょっとだけスキャンダルをつくってやろうという意図が隠れする、だからこそ、他にはない独自の視点があり面白いPerfumeのインタビュー記事は、メディアとコンテンツの関係で言えば、やはり「ROCKIN'ON JAPAN」という日本の多くのロックファンに支えられたメディアと不可分だと言えます。言うなれば、私が「他に読むところがないよなあ」とぼやいた部分こそが、あの記事の「質」を成り立たせている肉体であるとも言えるし、簡単に言えば、私視点の言い方ですが「無用の用」として、なくてはならないものであるとも言えるでしょう。

 きっと、「ROCKIN'ON JAPAN」というメディアなくして、あのインタビュー記事の「質」は実現できないのだろと思います。同じように、今、かろうじて残るアルバムというメディアなくして、アルバムの構成曲のひとつである曲が持つ、シングルカット曲にはない独特の「質」というのも実現できなくなります。

 そんなもの、雑誌とかアルバムとかなくてもつくればいいじゃないですか、という意見もあるかもしれませんが、それはきっとつくれないです。マクルーハンは「メディアはメッセージである」と言いました。それは、メディアはコンテンツをのせる器であるとともに、メディアこそがコンテンツを生み出す肉体そのものなんだ、ということなのだろうと思います。これは、ここでは論じていないけれど、マネタイズ関連の話も含みます。

 メディアはコンテンツを生み出す肉体です。それは絶対にそう。なぜ私が長い文章を書くのか。それは、私が長い文章を書くのが好きだから。それは、半分正解だけど、まだ半分別の答えがあります。それは、このブログが長いのを書けと言っているからです。メディア視点で考える。いま、コンテンツを考える上で一番大事なことなのではないか、と思います。

 

■関連エントリ(かつて、日本の広告代理店がやってきたのはこういうことだと思うんですよね。)
 ・広告代理店って、何を代理しているのだろう。(1)
 ・広告代理店って、何を代理しているのだろう。(2)
 ・広告代理店って、何を代理しているのだろう。(3)

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2009年8月 3日 (月)

コンセプト、プロポジション、テーマ

 「コンセプトって、どういう意味なんですか。説明してください。」

 私は今まで納得できる明快な答えや説明を聞いたことがありません。ネットを見てみると、ウィキペディアでは「概念」という項目に飛ばされて、かなり難解な説明になっていますし、広告業界をはじめとするいろんな業界で当たり前のように使われる言葉のわりには分かりにくい言葉だなあ、と思います。

 そんな中、わりとまとまっている説明があるサイトが、三省堂の「三省堂ワード・ワイズ・ウェブ」の10分でわかる「コンセプト」の意味と使い方というページ。よく出来ているページなので、そちらをお読みいただくとして、こちらは別の話を。

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 上記リンク先では、こんな用例と解説が出ています。引用します。

例えば「今度開店するレストランのコンセプトは“近未来”でいこう」と言った場合、レストランの店名・内外装・メニュー・広告などに、近未来的な演出を施そうという意味になります。

 これが、我々が通常使っているコンセプトの意味に近いでしょうね。「なんかこう、オシャレで最先端な感じでさあ」というのもコンセプトなんだろうな、と思います。もともと産業としての広告のはじまりは、ロートレックの例を見るまでもなくポスター屋さんだったりするだろうし、そのポスターは画家が内職的に描いていたのだろうから、このコンセプトという考え方は広告になじんだんでしょうね。

 絵画に近いものとしては、例えば建築とか。上の例も建築だし、プランナー時代に大手設計会社の建築コンペにかかわったことがありましたが、そのときも、どこで勝負するかというと、やっぱりコンセプトでした。いかに勝てるコンセプトをつくるかに躍起になっていました。

 私は、このコンセプトという考え方が広告に適用されたのは、建築の影響なのではないかと思っています。都会派のAに対して、庶民派のB。そんなふうに競っていた時代。このコンセプトという考え方は、長い間、広告の主流の考え方でした。で、そのコンセプトのアンチテーゼとして出て来たのが、プロポジションという考え方です。

 その総本山である会社に私はかつていましたが、そこではコンセプト的思考が古いものとして扱われていました。時代はプロポジションだよ、と。プロポジションというのは、日本語にあえて訳すと「主張」です。つまり、メッセージ。このあたりから、広告は、絵から言葉に変わってきた、とも言えるかもしれません。

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 タレント広告で、タレントさんの起用を考えるとき、どうしてもコンセプトで考えるようになります。都会的な誰それ、王道の誰それ、というように。一方、プロポジションでは、タレント起用については考えにくかったように思います。主張ですから、そこまでストレートに商品やブランドの主張を代弁するには、タレントというのは絶対的に役不足になります。

 私はわりと広告を下部構造から考えるのが好きな人間なので、広告をつくるときは、こうした「考え方」から入ります。プロポジション派の広告会社にいたからというわけではないですが、意識的にプロポジションで考えて広告をつくっていたときは、言葉だけの広告をつくっていたことが多かったように思います。絵があったとしても、例えばコロナビールだと、3つの広告をつくりましたが、じつはどの広告も、プロポジションは「ライムがないときはコロナは飲んではいけない」というもの。つまり、どの広告も同じ主張。

 で、コンセプトとプロポジション。

 どちらも得手不得手があるんじゃないかな、と思います。それと、どちらも大切。やってみて思うのは、なんだかんだやってみても、結局はどちらが際立っているかの程度問題で、コンセプトでつくっていても陰にかくれてプロポジションがあるし、逆も同様。あまりひとつの方法論に固執すると硬直化するのはなんでも同じ。でも、こういう考え方は知っとくほうが得ですけどね。

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 それと、最近思うのは、キラーメディアというのがなくなってきて、メディアとか生活シーンが多様化され、複雑になり、もっともっと立体的なコミュニケーション設計が必要になってきた今、もっと上位に位置するしっかりしたものが必要になってきているのかな、なんて思います。それを、私は「テーマ」という言葉で勝手に呼んでいます。

 大胆なことを言えば、「テーマ」がぶれなければ、コンセプト、プロポジションは場に合わせて最適化してもいいんじゃないか。もっと柔軟になっていいんじゃないか。でも「テーマ」だけはぶれてはいけない。もちろん、これは極論ですが、案外、そういう考え方は広告とかプロモーションでは現実に近い考え方なのではないか、と。ま、今のところ仮説ですけど。

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2009年7月31日 (金)

おすそわけ

 毎日、暑いですね。暑中お見舞いの、おすそわけです。

 前に書いた「広告の定義」というエントリに関連して、tom-kuriさんからメールをいただきました(メール、ありがとうございました)。そこに添付されていた論文が興味深かったので、ひとりじめするのはもったいない、ということでご紹介します。ではでは。

  • 広告はadvertisementで、広告業がadvertisingですが、もともとはラテン語のadvertere(ad-へ+vertere向ける)、原義は「振り向かせる」「注意を促す」である、というのは有名な話。要は「目立たせる」ということですね。「違いを際立たせる」とも。「○○は、同じジャンルの製品の中でココが違います」「当社の◎◎は調査の結果、満足度が最も高いサービスです」とか、そういうセールスポイントを強調して、originality(独自性)を明らかにすることが広告に求められているわけです。
  • 一方、communicationの(com)というのは、ラテン語の前置詞 cum (with)の異形で、「共に(with,together);全く(completely)」という意味です。comedy, commerce,common(ly),commercial…といった言葉にも使われていますね。共に、共同して、一か所に、相互に、同時に、一斉に、調和して、続けて……。そういう行為、活動の総称です。つまり「あなたと私は一緒ですよ」「あなたのことはよく分かっています」「いつまでもよろしく」「同じ人間じゃないですか」というような。
  • 相手への理解、共感がなければ人は(指示命令以外で)自発的に動いてくれません。相手の心を動かして初めて、覚えてもらい、信頼されて、深い関係を築いていくことができるのです。
  • 芸術であれスポーツであれ、それが人を感動させるのは「自分と同じ人間が、こんなことができるんだ(もしかしたら自分もできるかもしれない)」と訴えかけてくるからです。一言でいえば、それは「普遍」ということです。
  • 広告コミュニケーションとは、この相反する行為「違いを明らかにして、独自性を出す」ことと「共感を得て、普遍性に訴える」ことを生活者(つまり人間)に対して同時に行う活動なのです。

 もうひとつ、おすそわけ。掲載許可をいただくためのメールのお返事に、このようなお言葉。また、お書きになった関連エントリはこちらです。

広告人は、基本的に「褒める人」だと思っています。
どんなヒトであれモノであれ、この世に産まれたからには、
何かしらいい所が、誰かの役に立つところがあるはずだ、
と信じて、それを見つけて褒める。伸ばす。

 これは忘れがちだし、自分に余裕がないとなかなかできないことでもあるだろうし、それを完璧に実行することはできないだろうとも思いますが、基本的に「広告」的な態度というのは、こういう態度のことを言うのだろうな、と思います。私は、これからも「広告人」であり続けたいと思っています。

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2009年7月21日 (火)

「広告」の定義

 自分なりの「広告」の定義をきちんとしとかなきゃな、というのがこのブログにおける広告系エントリーの主題でもあります。「広告」という言葉は、一般化された普通の言葉ですから、いろんな人がいろんな意味合いで使用します。

 それはそれでいいと思いますが、少なくとも私が「広告」について考えるときに、自分なりの「広告」についての定義をしっかり持っておかなければ考えがぶれますし、自分の都合で意味を変幻させてしまいがちになるので、その整理は私にとっては結構重要だったりもします。

 「広告」って、時代によって意味も変化するんじゃないですか?

 という意見もわかります。でも、私としては、そういう時代によって変化していく表層の部分ではなく、もっと深層の、より本質に近い部分で「広告」という言葉を定義したいのです。そうじゃないと、いろいろ見誤ってしまうと思いますし、社会やメディアの変化で変わる「広告」に“共通する何か”をつかまえておきたいのです。

 ●    ●

 簡単に「広告」という言葉の辞書的な定義を見ていきます。まずは国語辞典から。

こう‐こく【広告】

〔名〕スル
1 広く世間一般に告げ知らせること。
2 商業上の目的で、商品やサービス、事業などの情報を積極的に世間に広く宣伝すること。また、そのための文書や放送など。
「—を載せる」「新製品を—する」「募集—」
「大辞泉」より引用

 でも日本語の「広告」という言葉は、日本語としては比較的新しい言葉ですから、あまり意味のないことかもしれません。よれよりも、英語のadevertisingの元である、adevertiseの辞書的な意味を紐解く方がいいでしょうね。

advertise

動詞 他動詞
1[III 名詞]〈製品イベントなどを〉(新聞ラジオなどで)広告する, 宣伝する;[V名詞as名詞]…が(…であると)広告する;[III that節]〈…であると〉宣伝する
advertise their products widely|製品を広く宣伝する
advertise a child as lost|迷子の広告を出す
deodorants he had seen advertised on television [in a newspaper]|テレビ[新聞]の宣伝で見て知っていた脱臭剤.
2 〈性格本性などを〉如実に表す, 物語る.
3 …を公にする, 公表する, わざと目につくようにする, 宣伝する
There is no need to advertise the fact that ...|…ということを世間に喧伝(けんでん)するには及ばない.
4 [IV 名詞 that節]〈人に〉…と知らせる, 通知する.
━━自動詞
1[I 副詞](求人求職などの)広告をする, 募集広告を出す for ...;(テレビ新聞などで)宣伝する on, in ...
advertise for a secretary|秘書の求人広告を出す.
2 自己宣伝をする
He advertises so much.|彼は大いに自己宣伝をしている.
[中フランス語←ラテン語advertere(ad-へ+vertere向ける). 原義は「警告する」で「広告する」はこの意味が強化されたもの.  ADVERSE, AVERT, INTROVERT, INVERT, DEVERT, CONTROVERSY]
「プログレッシブ英和辞典」から引用

 意味は国語辞典と同じく、現代で使われる意味が書いてありますが、ここで重要なのは、いちばん下の部分。再度引用します。

[中フランス語←ラテン語advertere(ad-へ+vertere向ける). 原義は「警告する」で「広告する」はこの意味が強化されたもの.  ADVERSE, AVERT, INTROVERT, INVERT, DEVERT, CONTROVERSY]

 つまり、「警告する」の意味が強化され「広告する」という意味に転じたものがadvertiseであるということです。また、その成り立ちは「ラテン語advertere(ad-へ+vertere向ける)」ということです。「人をこちらに向ける=人を振り向かせる」というのが、もともとのラテン語のadvertereの持つ意味であるようです。

 ●    ●

 ここから言えることは、「広告」とは「人を振り向かせる」行為であるということです。逆に言えば、「広告」が対象とする人は、まだ「振り向いていない人」であることです。つまり、「まだ知らない人に気づかせてこちらに振り向かせ、話を聞いてもらう行為」が「広告」と言えそうです。

 これは、私が今まで使ってきた「広告」という言葉の感覚にも合致します。それと、やはり「広告=advertising」という言葉の根っこはやはりそこだったのか、というちょっとした驚きもありました。

 この部分を追いつめると、つまり「広告」という行為が対象とする人は「そのことについて、未だ知らないし、知りたいとも思っていない」人であるということが言えるのではないかと思います。極論を言えば(あくまで極論なので、一般的な「広告」の定義を妨げる意図はありませんが)、カタログや企業(商品)ウェブサイトなどの「知りたいと思っている」人に向けての訴求手段における表現の方法論は、「広告」のそれとは少し違う部分での方法論であることが言えるのではないかと思います。

 広告の現場で「広告」というとき、新聞広告やテレビCMなどのマス広告を指して言う場合が多かったように思います。そこに一分の真実があるとすすれば、この部分でしょう。そして、メディアの変化とともに激変している今でも、この「まだ知らない人に気づかせてこちらに振り向かせ、話を聞いてもらう行為」が「広告」であるという一点だけは変わらないだろうと思います。

 私がこのブログでよく使ってきた定義では「広告の本質は受動性にある」ということでもあるかと思います。受動的な態度で見る情報、それが「広告」というもの。その定義に合致するあらゆる情報発信は、つまり「広告」です。そして、旧来の「広告」の形式に似ていようとも、そうでない情報発信については「広告」ではない。極論で言えば、そういうことになります。

広告=advertising
まだ知らない人に気づかせてこちらに振り向かせ、話を聞いてもらう行為
受動的な態度で見る情報

 ●    ●

 インターネットは、「知りたいと思っている人」が検索して知ることに特化して発展してきたように思います。それは、インフラとしてのインターネットのテクノロジーの性格上、当然です。そのために、あらゆるテクノロジーが用意されてきました。

 しかしながら、そのテクノロジーは「広告」についてのテクノロジーではありません。膨大な「情報」に「知りたい人」が容易く辿りつけるようにするためのテクノロジーです。そして、これまでの旧来メディアの発展もまた、その発展そのものは、「広告」を支える環境の発展であり、そのこと自体が「広告」の進化とは、本質的な意味合いにおいては無関係なものである、という言い方もできるだろうと思います。

 そう考えたとき、やはり「広告」の問題というのは、最終的には「表現」の問題であると言えるかもしれません。その「表現」のテクノロジーは、絶えず、環境にあわせて考えられるべきものです。なぜなら、「表現」とは、ある任意の状況下で誰かに何かを伝えることであり、本来、どの媒体で、どの状況で、というものは「広告」の成立要件ではなく、その条件に過ぎないのですから。

 

          ■関連エントリ

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2009年7月 4日 (土)

あらかじめ「ゆるさ」をつくっておく

 「ゆるさ」の考察についての素材として、身近なブログを取り上げてみたいと思います。私自身は、ブログをやるのもやらないのも自由だし、やるならやるで、その人が好きなようにやればいいんじゃないかな、せっかくの個人が持てるメディアなんだしさ、という感じなので、この文章は、ブログ論ではなく「ゆるさ」を考えるうえでのひとつのきっかけくらいな感じでお読みいただければ幸いです。

 *    *    *    *

 たとえばだけど、とあるブログがあって、ひとつは練りに練られた完璧なエントリが月に1回更新されるブログ、もうひとつは、そこそこのクオリティをキープしながら毎日更新されるブログ。どちらのブログが人気が出るか。たぶん、後者でしょう。きっとそれは、いろいろなブログのPVを時系列で調べれば、実証可能だと思います。

 もちろん、人気というものをPVで計るというのは、あるひとつの尺度にすぎないし、練りに練られた完璧なエントリを待ちたい人もいるでしょう。けれども、冒頭にあげた例に少しばかりの真実があるとすれば、後者のブログが「ゆるさ」を持ち合わせているからだと思います。

 「ゆるさ」というのは何か。それは、きっとにじみ出る人柄の主要な構成要素のことだと思います。はじめはなんか堅苦しい人だなと思っていても、何度か話して、ああ、この人は犬好きなんだ、とか、お腹をよくこわすとか、朝弱いとか、そんな小さなエピソードがつみ重なることで、人柄みたいなものが形作られていきます。つまり、その人が計算して表出するもの以外の様々な事柄、つまり「ゆるさ」が、その人の人柄をつくるとも言えます。

 毎日更新されるブログでは、ときには、なんかよくわからないな、とか、今日は疲れてるんだろうな、とか、そんな不完全燃焼なエントリも書かれます。更新頻度を高めるということは、そういうことでもあります。でも、そうしたエントリの「ゆるさ」が、その人の人柄みたいなものを作り上げて、それがブログの人気につながるように思います。

 簡単に言えば、「顔」が見える、ということですね。

 その「ゆるさ」は、いわゆる「のりしろ」でもあって、その「のりしろ」の部分が相手が入り込める隙をつくってくれます。テレビにひんぱんに出るようになったタレントさんに親しみを覚えるのは、そういうことだと思います。

 *    *    *    *

 完璧に練られた広告が広告としての機能を果たしにくくなってきたのは、きっと、メディアの多様化と情報表出の敷居が下がって、情報発信がしやすくなったことと関係していると思います。それは、消費者の声が可視化されやすいという部分以上に、企業がその思いを発信しやすくなったということが関係しているように思います。

 情報発信がしにくい状況では、その発信チャンスにすべてをかける、といった心情が生まれます。私がいる広告業界では、少し前までは、新聞広告全15段(全面広告)は、中堅企業にとっては「清水の舞台から飛び降りる」という気持ちでつくるものでした。今でも、そういう部分はなくなっていはいないけれど、今では単純に情報発信だけをとると、ウェブサイトでこと足ります。

 つまり、発信する情報の「質」だけをとってみると、とりあえず情報を広めていくという手段としてのマスメディアという意味合いだけでは情報にある種の「質」を強いることはできにくくなってきて、情報を広める手段としてのマスメディアに掲載する情報であっても、簡単に情報を表出できるという現状に影響されるだろうから、当然のように、練りに練られた、めったに表出できない情報としての「完璧さ」は、まわりの状況から乖離したものとして、社会から疎外されていくのだろうな、とこの状況の中で息をしているひとりの広告人としては肌感覚で感じたりしています。

 もちろん、完璧な情報を表出することが無効になったわけではありませんし、そうした情報も求められる土壌も残りつづけるでしょうが、完璧な情報は、さまざまな情報発信によって矛盾を呼び起こしやすいわけで、完璧な情報を起点にした神話作用を期待するならば、自らが方法発信を禁じるということでしか果たせなくなっていくわけで、それは、かつてならコスト面から出したいけど出せないということで禁じさせられてきたけれども、そのコスト要因がなくなった今、情報発信をしたがる主体としての企業は、なかなか自ら禁じるという禁欲的なふるまいはできにくくいのだろうと思います。

*    *    *    *

 逆説的に言えば、あらかじめ「ゆるさ」をつくっておくことは、メディアが多様化した状況化において、情報を発信主体が主体性を持って情報を投げかけ、あるいはあえて投げかけずに、伝えたいことをきちんとしたかたちで伝えるきるための前提条件であるとも言えるのではないかな、と思います。まあ、これは、そのほうが楽だ、ということもあるけれど。

 情報には、次があって、その次の情報発信をしなやかにできる「ゆるさ」をあらかじめつくっておくことは、時間軸で情報発信を考えていくことと同義なんだろうなと思います。簡単に言えば、自分のいいところも、あまり格好悪いところも含めて、顔を知ってもらったほうが、あとあと思ったことを話しやすくなるし、聞く耳ももってくれるだろう、みたいなことかもしれません。ま、こう書くと、そんなん当たり前やんか、と言われそうだけど。

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2009年7月 3日 (金)

「ゆるさ」をつくる。「のりしろ」をつくる。

 てなことを、ここ数年、広告づくりで意識的にやってきたんですが、そのことは思いのほか人に説明しづらいものだな、と思っています。「ゆるさ」とか「のりしろ」を設計するというのは、ちょっと形容矛盾を含んでいるし、どうしても厳密さや精密さに比べると説得力に欠けますから。

 でも、人が惹き付けられるものは、広告で言えば、じつは、その首尾一貫したわかりやすいメッセージ(これは前提)のところどころに見える「ゆるさ」の部分だと思うし、その「ゆるさ」が「のりしろ」になります。なんでもそうだと思いますが、「のりしろ」の部分がない表現は、見事だという賞賛は得られても、そこで終わってしまうから、広がらないんですね。

 この「ゆるさ」というのは、よく言われるクリエーターの、メッセージやコンセプトから離れた「遊び」や「こだわり」というものとは違って、あらかじめ設計するたぐいのもののように思います。どこにも綻びのないコンセプトの首尾一貫した厳密性の世界は、そこでどうしても世界が閉じてしまいがちだから、どこかに「ゆるさ」をつくる。「のりしろ」の部分をつくる。その「ゆるさ」や「のりしろ」が出口になって、外の世界とつながっていきます。つまり、外への出口をあらかじめつくっておく、ということかな。

 「のりしろ」という部分で言えば、その小さな余白は、見た人の自由な想像力が入り込める余白になるから、この無用の用みたいな部分があることで、広告は、みんなのものになります。みんなのものになった広告は、強いです。これは広告に限らず、どんなコンテンツにも言えることかもしれません。

 広告のどの部分に「ゆるさ」とか「のりしろ」をつくるか、というのは結構難しくて、でも、感覚的には確実に、この部分は駄目、この部分はあり、みたいな感じに言えるのだけれど、それを普遍化する言葉はまだないですね。つまり、直感。それが言葉にできたら完璧なんでしょうけど。しばらくは、ちょっとこの「ゆるさ」や「のりしろ」をじっくりと考えてみたいな、と思っています。ちょっと説明しづらいけど、そのことは、いろんなことにつながっているような気もするし。

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2009年7月 2日 (木)

詰まれてうれしい人はいない

 というのを忘れてしまうんだよなあ。コンペにしてもなんにしても、理屈で相手を兵糧攻めにして出口をなくしてしまうことは、純粋に戦略的に見ても得策ではないんだけど、会議をしていると、みんなそのことを忘れてしまうんだよなあ。この出口を閉じて、あの出口を閉じて、その反論も封じて、よしっ、これだけやれば受け入れるしかないでしょ、って、そこまでされたら受け入れられるものも受け入れられなくなっちゃいますってば。

 将棋ってあるじゃないですか。あれは、こういうルールの中でお互い競い合いましょ、っていう合意があるから成り立つわけで、だから、あっ、詰まれた、もうあかん、ってなったとき、参りました、と爽やかに言えるんですよね。

 でも、コンペにしても、広告の企画にしても、マーケティングにしても、その提案なり商品なりをお買い上げいただきたい人との間にルールなんてないわけです。しかも、会議室で広告マンたちが勝手に決めて、これしか真実はないよねっていう、そんな身勝手なルール、相手からしたら、そんなん知らんがな、てなもんですよ。

 仮に、うまいこと社会にそのルールを広めることができたとしても、そのルールに従うことで、まるで将棋のように、どうすることもできない状況に追い込まれたら、詰まれたなあ、参りました、その商品を購入いたしますとはならないわけですよ。将棋盤をひっくり返しますよ。ルールごと、なかったことにしますよ。人間って、そういうものです。当たり前じゃないですか。詰まれて、負けて、受け入れる。そんなの、けたくそ悪いもの。

 そういうやり方がすべてうまくいかないとは言わないですよ。うまくいくことも、たまにはあるでしょう。それは、ある意味、マーケティングの定石かもしれんよ。でもね、そういうのは、長く続くことはまずないんじゃないかな。短期的にでもうまくいけばいいじゃないかって。目先のことも大事だって。

 じゃあ言いますよ。素敵じゃないんですよ。そういうやり方は、まったくもって美しくないんです。でもそれは、あなたがそう思っているだけでしょ、って。じゃあ、言いましょう。私は、そういうやり方、嫌いなんですよ。大嫌いなんです。もういいでしょ。じゃ、そういうことで。夜も遅いしさ。

※これは創作ですからね。念のため。


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2009年6月10日 (水)

たまには広告の仕事のうれしさについて語ってみてもいいですか

 なんか巷では100年に一度の不況とか呼ばれてて、そんなとき真っ先にカットされるのが、交通費、交際費、広告費だなんて言われてて、それよりもなによりも、「いまどきテレビCMとか新聞広告ってさあ、時代の変化についていけてないよね。終わってるよね、広告」とかブログで語られたりしたときには、そのひとつである広告を仕事にしている私なんかは、「そないに言うなや、あんまり言うなや、そなこと前から知ってるわ(by Rikuoさん)」という気分になります。

 とは言いつつも、時代が変わっているのは事実だし、その事実から目を背けることはできないわけで、そんなこんなであれこれ広告について、このブログに書きつづってきたわけです。そんなわけなんで、いつもの広告論的なエントリは、この時代にどうしていったらいいでしょ的な憂いがにじんでいて、ま、それも魅力のひとつではあるのでしょうが、今夜は、広告の仕事をするよろこびについて大いに語ってみたい、そんな気分です。って、どんな気分やねん。

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 枕はこんな感じにして、本題。

 広告の仕事のよろこびって、人によっていろいろあるでしょうが、私にとっては、これにつきます。

 やれば出来る子が、それなりにのびのびと世の中を泳げるようになっていくことにかかわるよろこび。自分が担当した商品やブランドが、はじめはパッとしなかったのが、次第に、「あいつ、最近、なんかいいよね。元気あるよね。」みたいになっていくことにかかわれるよろこび。

 本来はもっと売れるんじゃないかと思うけど、現状、あまりパッとしない。期待を担ってデビューしたのに、期待に応えてくれない。そんな商品やブランドは、けっこうあります。広告費もそれなりにかけているのに、あまり売れない。そんな商品やブランドは、その会社では、ちょっとかわいそうなポジションにあります。あいつ、期待はずれだよね、駄目駄目だよね。あいつさえいなければいいのに。そんな目線に、しょんぼりしながら耐えている、みたいなね。

 そういうかわいそうな商品やブランドと出会ったとき、広告屋魂がメラメラ燃えます。「よし、人肌脱いだるか。待っとけよ。」てなことを思います。いろいろ調べて、その子が「やればできる子」の部分を必死でさがします。見つかれば、なぜその子のよさがみんなに伝わらないかを考えます。伝わらない理由が見つかったら、もう勝ったも同然。

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 ずいぶん前の仕事だけど、とある百貨店のゴルフバーゲン。品揃えもそこそこいけているのに、なぜだかいまいち。それまでの広告を見ていると、目玉商品の1万円均一のお買い得クラブとかをドーンと出していました。要するに、「目玉商品で釣る」というやつですね。こういうやり方は、初日は釣れますが、中日は閑古鳥ということが多いんですよね。そこが悩みどころでした。もうゴルフバーゲンは時代にあわないんじゃないか、みたいなことを言う人もいました。

 で、もう一度、そのゴルフバーゲンの商品構成を見てみました。すると、さすが老舗の百貨店。有名メーカーのクラブが、わりとお買い得なバーゲン価格で出ているのです。バーゲンなので、最新クラブとはいきませんが、少し前までは超人気クラブだったものがたくさんありました。

 それともうひとつ。百貨店の新聞広告って何だろう、みたいなことを考えました。そもそも、百貨店が新聞広告を打つ意味って、商品広告にあるんだろうか、と。通販なら商品広告はありなんです。それと、メーカもあり。だけど、百貨店なんです。百貨店のバーゲンの広告なんです。

 そうなんですよね。商品広告じゃなくてバーゲン広告が必要なんです。「バーゲンにでるこの商品がお買い得ですよ」じゃなくて、「バーゲンやりますよ。ぜひ来てね。」というメッセージが、その新聞広告には必要なんです。語弊はあるけど、百貨店の命は、商品ではありません。百貨店がそのプライドにかけて集めた商品が集う「場」が命なんです。

 一流メーカーのゴルフクラブ10本を、出来る限り美しく撮影しました。職人肌のカメラマンが、「こんなイメージは写真じゃ無理なんだよ」と言い訳するのをなだめながら、朝までねばって。ビジュアルは、ただそれだけ。値段は、1万円というキリのいい数字ではなく、54000円とか68000円とかバラバラ。だけど、それでいいんです。理由をみつけた我々には、迷うことは何もありません。

 コピーは「あす10時スタート。」これ1本勝負。A1という美しい明朝体を思いっきり太らせて、新聞枠の上部にドーン。完全版下をつくって、ていねいに製版して、その新聞広告は、日経新聞の夕刊にイメージ通りの姿で掲載されました。

 翌朝。背広姿のサラリーマンの行列がありました。会社がある平日にもかかわらず。そして、その行列が噂を呼んで、バーゲン期間中ずっと盛況でした。それは、いままで駄目だった子が、元気になった瞬間でした。以来、そのゴルフバーゲンは息を吹き返し、名物催事に成長しました。

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 メディアの状況が変わった今でも、そういう広告の仕事のうれしさはいくらでもあります。ただ、あの頃と、少しやり方は変わったけど、基本は同じだと思います。それは、詳しく事例を挙げられないのが悔しいけれど、私の今やっている仕事が物語っています。近くに広告マンがいれば、お酒に誘って聞いてみたらいいです。きっと、うれしそうに成功事例を語ってくれるはずです。

 今、広告に元気がないです。時代が変わって、これまでのやり方が通用しなくなりつつあります。それは、やっぱり事実でしょう。でも、でもね、否定されたのは、やり方であって、広告ではありません。聖書も歎異抄も、ある見方をすれば、広告です。時代の変化ごときで、広告が終わるわけないんです。時代が変化したからといって、変化球しか通用しないだなんてことはないんです。

 やり方は変わったし、これからもどんどん変わる。でも、広告の基本は変わらない。広告の基本が変わらなければ、広告の仕事のうれしさだって変わらない。私は、そう思います。

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2009年5月31日 (日)

広告を生み出す場

 土曜日の深夜にワードプロセッサに向かって、つらつらこの文章を書いています。まあ、こんな時間になんだかんだ書いたりしたものを気軽に世の中に出せるのは、個人メディアであるブログの良さであるだろうし、そんなブログの良さを思う存分活かせるのは、お気楽なひとりもんの良さでもあるんだろうな、なんてことを、少し涙目で思いながら、キーボードをポチポチやってます。

 ここ最近、なんだかんだ小さな案件をいくつもかかえていて、その中には妙に揉める案件もあり、なんだかなあ、みたいな気分もなきにしもあらず。基本的には、広告という仕事は依頼主に依存する仕事であるので、自分のペースとかスタイルみたいなものは二次的になりがち。つまり、どうしようもなく相手の仕事のやり方に従わないとしょうがない部分があるわけです。

 それって、あなたに個としての実力がないからなんじゃないですか。そんなふうに思われるかもですが、まあ、それは半分正解で、半分間違い。個としての実力がありまくりに見える人たちでも、その人の話を実際に聞いてみると、私と同じような悩みとかがあるようだし、組織力のある大手代理店に勤める人なんかでも、大きければ大きいなりに、悩みはあるみたい。

 じゃあ、もっともっと個の実力なり、組織力なりをつけて、自分のペースとかスタイルで広告をつくれたら幸せなのかというと、それはそうでもないように思います。そうなると、なんとなく、それはもはや広告じゃないような気がするんですね。

 こんな私でも、すごくいい関係が持てている仕事があります。自分で言うのもなんだけど、結果についてもわりといい感じになっていると思うし、広告制作者としても、私の得意なところが発揮できているように思うんですが(証拠を見せろと言われると、このブログの運営方針的にはちょっと限界なので、信じてください、としか言えませんが)、でも、その仕事が自分のペースでねじ伏せているわけではなく、わりと相手のペースに乗っかるかたちで気分よく仕事をしている感じです。

 とある得意先さんは、最初の企画プレゼンで、よしこれでいこう、となったら、あとはまかせると言ってくださるんですね。となると、不思議なもので、こちらは途中段階でもなんでも見せにいきたくなるんですよね。私は、プレゼンは1案が理想だと思っているのですが、1案自信のあるものを見せてくれ、と言ってくれる得意先さんには、究極の2案を持っていって、どちらで勝負するかを延々と論議するみたいなことをあえてやりたくなって、実際にそんなことをやるし、そんな論議をしている時は、これがほんとの会議なんだよなあ、なんて思ったり。

 いちばん辛いのは、広告案の評価とか関係なく、いろんな可能性を示すことを強いられるケース。これは、相手側の組織の問題もあるのだろうな、と思うんですね。この広告案はまったく違う、ならいいんですが、そうではなく、これもいいけど、ここの部分は突っ込まれる可能性があるから、こちらの部分も押さえておこう、という感じ。突っ込むであろう人は、その場にはいなくて、それは社長だったり、専務だったり、部長だったり。広告は、絵や写真、言葉、それらのレイアウトというふうに微分すると、いくつかの要素に分けられるので、その要素ごとに薄いとこまで広げて可能性をさぐっていくと、平気で100案とかつくることになります。

 こういうケースをいかにうまくこなせるかは、広告会社のクリエイティブディレクターの重要なスキルのひとつではあるので、そろそろ20年選手の私はそれなりにそつなくこなしはするけれど、でも、それはちょっと疲れる仕事でもあるんですよね。仕事は疲れるもんだろ、と言われれば、そうですね、としか言えませんが、でも、疲れる仕事より、楽しめる仕事のほうが結果もよくなるし、やっぱり楽しめる仕事のほうがいいと思うんですね。それに、そんなスキルを重ねていって、高度化していく自分はなんだかなあ。

 この手の話は、基本的には酒飲み話だとは思うんですよね。あの会社のあの担当は嫌だなあ、とか。でも、酒飲み話は居酒屋でするのがいちばん楽しいので、このブログで考えているのは、その部分じゃなくて、「広告」というプロダクトもしくはコンテンツを生み出す「場」についてのこと。

 もちろん、どんないい場でも、一人のパーソナリティによってぐちゃぐちゃになる場合もありますが、でも、それは、そういうことはあるよね、で済ませられる話。幸せな仕事と、辛い仕事の差は、表面的には、企業の担当者を信じる広告会社の制作者と、広告会社の制作者を信じる企業の担当者という「個」の問題に見えがちだけど、じつは「場」の問題なのではないか、というように思います。

 要するに、幸せな仕事と辛い仕事の差は、「個」を活かす「場」か、「個」を殺す「場」かの差のような気がします。素晴らしいパーソナリティを持った人でも、「個」を殺す「場」では、どうにもならないだろうし、基本的に、私は、「個」というものに「場」を凌駕するだけの力を期待する考え方をとらないので、もし、広告がこれからも「個」の力を活かしたいと指向するならば、まずは「場」の構想こそが語られないといけないのではないかと思います。

 それは、広告を出す側の企業だけでなく、広告を依頼される広告会社にも鋭く問われてくるものです。で、こういう問題意識から、大規模広告会社からクリエイティブエージェンシーやブティックの流れがあったけれど、なんとなく、そういうクリエイティブエージェンシー的なものも、その解答にはどうもならないのではないかな、というのが、ここ10年ほどでなんとなく見えてきたような感覚が私にはあります。言い方は語弊があるかもですが、結局、単に大規模な組織から、過剰な「個」の力によって疎外され、純化された小さな組織をつくったに過ぎなかった気が。

 そのことを、広告が「個」の力を指向せずに、ある種のシステムを指向するようになってきたからだ、という理由付けはできるかもしれませんが、それはある意味で当たってはいるけれども、それは根本部分で言えばどうも違うと思います。というか、広告のシステム指向みたいな傾向は、私にとってはあまり関心領域にないし、ぶっちゃけ言えば、どうでもいいです。

 それよりも、広告が人への対話である限り残りつづける「個」の力を指向する部分にとって、どのような「場」が最適であるのかを考えないといけないな、と思っています。ひとつの着想としては、前段の部分につながってくるのですが、相手、つまり依頼主である得意先の「個」を「場」に折り込むことなんだろうな、ということです。今までの広告とは違う、新しい広告が生み出されるとすれば、それは、これまでの「場」にあるすぐれた「個」によるのではなく、新しい「場」にある、新しい「個」によってだろうな、と。ぼんやりとした予感として、ここに記しておきます。

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2009年5月16日 (土)

広告を残すか、商品を残すか。あるいは、「広告的」という考え方。

 若手だ、若手だ、と思いながらやってきて、いつのまにか「若手って、あんたいつまで。甘えんじゃねえ。」なんて言われるお年頃になってきました。この業界は、純粋に経験年数でキャリアを計りにくいとは思うんですが、なんだかんだで私も20年弱(弱って書くところが、甘えてるんだな、きっと)くらい広告で飯を喰ってきているわけでして、ベテランとは言わないまでも、まあ中堅くらいにはなるのかも。

 私は、わりと若い頃から独り立ちして広告をつくってきたところがあって、ちょっと嫌な若手的な言い方になるけれど、CD(クリエイティブ・ディレクター)について制作スタッフとしてやってきた時でも、実質的には、私がCDをやっているみたいな感じが多かったです。なぜそうなったかというと、私の場合、会社をいっぱい移ってきたから。たいがい、中途採用として新しい会社に入る場合、問題のある制作チームの案件での人材募集が多いわけで、そんなチームに配属されると、「ああ、これは自分でやらないといかんな」と直感的に思うんですね。そういう生意気なやり方は、やはり自分にとっても心理的な負荷はかなりあるし、もともと私は、少なくとも見た目的には「俺は、俺は」のタイプではないから、いろいろ最初はつらいものなんですが、中途で入社、しかも試用期間あり、みたいな条件では、その仕事をよい仕事にしないと自分の食い扶持につながるわけで、こっちも必死なんですね。

 わかりやすく言えば、荒れた制作チームというか、荒れた仕事なわけです。過去作品を見ても、ぐちゃぐちゃだし、ひとつひとつの表現についてこちらが尋ねても、言い訳しか出てこない状態。「これはね、クライアントさんが、ああして、こうなって」とか、そんなことばかり。で、最後に出るのは決まって「このクライアントはね、いい広告つくらせてくれないから」。

 でも、「いい広告」をつくらせてくれるのが「いい商品」とは限らないのが現実で、その商品がいいかどうかは見てみないとわからないし、そういう目線でもって得意先で話を聞くと、たいがいは「いい商品」だったりもするんですよね。で、たいがいは過去作品は、その商品の「いい部分」をまったく語っていなかったことが多かったです。違う文脈で話そうとしているんですね。その文脈は、たいがいその業種の最も優れた広告の文脈をなぞろうとしている。だから、まず表現よりも、文脈をその商品が持っている「いい部分」を語れる文脈に変えてあげる必要があるんです。

 このやり方は、企業から市場へと向かうベクトルで言えば、「パーセプション・チェンジ」ということでしょうし、その「パーセプション・チェンジ」をやるためには、まずはこちら側の語り方のパーセプションを変えないといけないんですね。お笑い芸人が、ハリウッド俳優のやり方で自分を語ってもしょうがないでしょ、ということ。お笑い芸人のすばらしさがきわだつ語り方、つくりましょうよ、ということですね。

 そんな感じでやってきたから、意識しているわけでもなく、そういう「パーセプション・チェンジ」を核とする考え方に親しみを持つようになってきたんだろうなと思います。もちろん、この手法は、ある特定の作風を生むわけで、いち広告表現としては地味目なものもあったりします。具体的に言えば、華のある、おもしろいコンテみたいなことにはなりにくいし、有名スターとストーリーの奇抜さで話題を呼ぶ広告にはなりにくいです。それよりも、どちらかというと、あの商品が気になって気になってしょうがない、みたいな残り方をする広告。

 広告を残すか、商品を残すか。

 そういう視点に立てば、私は「商品を残す」やり方が得意。でも、私は、広告というのは、そういうものでなければならない、とは思いません。楽しくて、おもしろくて、あのスターが出ていて、広告がめいっぱい話題になって、みたいな広告もありだと思うし、それでも、その圧倒的なパワーで商品が売れれば、それでいいとも思います。作り手としても、もっともっと人間のベーシックなところ(つまり、普遍性のあるところ。つまり、それは差別性のない部分でもある)で、人間を描く広告をつくりたいとも思う部分もあります。

 でも、ここ最近ぼんやり思うのは、「私よりうまくやる人がいるものを、わざわざ私がやらなくてもいいんじゃないかな」みたいなこと。このブログは、同じ領域や関連領域で働く人のために、ある「気付き」を共有するためにあるものでもあるけれど、ある一面としては、私自身の思考の整理のためのものでもあって、そういう思考の整理の中で出て来たひとつの結論としては、そういうことかな、なんて。ま、必然があれば、「広告を残す」やり方もやることはあるかもですけどね。節操はないから。それと、この話、視聴者に残らない広告を肯定するものではないですからね。念のため。それは、基本条件としての個別の話ね。

 私が得意とする「商品を残す」という方法論は、究極のところ、いまある、テレビCMとかの広告文化みたいなものとはあまり関係のない思考なのかもしれません。商品が広告の上位概念であるという考え方ですから。というか、正しく言えば、商品という概念は、それ自体が広告を含むということかな。

 前にコメント欄で「mb101boldさんは、いろんなことを広告という思考を通して考えるのが好きなんですよ」みたいな言葉をいただきました。そのときは、照れくさい気持ちとともに「俺って、仕事中毒?」みたいなことを思いましたが、この方が言われている「広告」っていうのが、きっと私にとっての「広告」なんだな、とぼんやり理解しはじめています。それは、テレビCMとか新聞広告のような広告コンテンツというよりも、何か「広告的」としか言いようがない思考のことなんだろうな、と。あまりまとまりがないけれど、この「広告的」というものを、もうすこししっかり考えていきたいな、というふうに思っています。

関連:
広告的、ウェブ的
リテラシー考

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2009年5月 3日 (日)

トレインチャンネルが少し変わりましたね

 JR東日本の山手線、京浜東北線、中央線などの車内で放映されているデジタルサイネージ放送に、「トレインチャンネル」というものがあります。東京でJRを使って通勤・通学している人は見たことがあるのではないでしょうか。デジタルサイネージと言えば、スーパーや薬局なんかで小さな液晶モニターで情報やテレビCMを流したり、大小含めて様々な取り組みがありますが、この「トレインチャンネル」は、代表的な成功例のひとつではないでしょうか。

 現在は、車内の扉上に左右2つの液晶画面があって、一方は放送コンテンツが映し出され、もう一方は、行き先情報や運休情報が流されています。新型車両が導入される前は、今より小さな画面ひとつだけで、放送コンテンツと情報が交互に流される仕組みでした。この「トレインチャンネル」の人気が出たのは、2画面になってからだそうです(参照)。以前、1画面の頃に、この媒体で流す映像広告を作ったことがありますが、その当時は、今ほどの人気はなかったような感じでした。それが今や、数ヶ月先までほぼ満稿。あそこで継続的に広告を出稿したい企業も多いようです。とりわけ、B to B企業やビジネス関連企業に人気があります。新幹線車内広告と傾向はよく似ています。

 この2画面体制後に人気が出たという現象は、広告というものの本質をよく表しているような気がします。つまり、広告は本質的にサブコンテンツであるということ。電車の乗客目線で言えば、車内の液晶画面のメインコンテンツは、基本的に、電車に乗っている人に、電車に関する情報をよりよく提供することであって、広告を流すことではないということです。広告を流すために液晶があるというのは、あくまで媒体側の理屈であって、その理屈を押し出しても、乗客にとってはノイズが増えるだけで、そのノイズは、無視という行為によって無化されてしまいます。

 そのことは「トレインチャンネル」の放送コンテンツにも言えることであって、その放送コンテンツが広告だらけだったとしたら、やはり、乗客は広告そのものを無視するようになってしまいます。あの「トレインチャンネル」には、人気マンガ「ダーリンは外国人」やニュースをはじめ、さまざまなコンテンツがあり、そのコンテンツと広告の配分が絶妙だったような気がします。

 広告は、もちろんテレビCMに字幕をつけたものもありますが、中には広告自体がミニ番組になっているものもありました。昨年のサッポロビールイメージキャラクターである江頭ひなたさんが料理のつくり方を案内する料理番組は、私のまわりでは人気がありましたし、私は「ダーリンは外国人」を毎週楽しみにしていました。その中で流れる広告は、テレビCMよりも記憶に残るような気がして、「いやはや、この媒体すごいもんだよなあ」なんて思ったりもしました。

 今月あたりから「ダーリンは外国人」が流れなくなりました。きっと、どこかの週で最終回だったんでしょうね。サッポロビールのコンテンツも、料理のつくり方を教える番組から、都内の居酒屋さんや料理屋さんの一押しメニューを紹介する番組に変わってしまいました。まあ、番組コンテンツをグルメ紹介にして、提携居酒屋さん、料理屋さん支援をしようというのはわからなくもないし、私のような業界関係者はちょっと斜めに見るところがあるから何とも言えませんが、なんとなく気づいたときには、以前ほどあの液晶画面を見なくなってしまっていたんですよね。

 そうなると、もう現金なもので、あの中で流れている広告にもあまり注目しなくなっていて、元コンテンツに興味がなくなると、なんとなく広告が多いなあ、ちょっとうっとうしいなあと思えてきたり、ほんと、人間の心理は勝手なもんだなあとあらためて思いました。これは、どんなメディアでも改編期に起こりがちな心理ですから、またキラーコンテンツを生み出して、やっぱりトレインチャンネルってすごいよなあ、となるかもしれませんけどね。

 テレビでも新聞でも雑誌でもウェブサイトでも同じですが、コンテンツと広告のバランス関係というのは、難しいものだなあと。じつは、このへんの話、私は広告の基本だったりすると思うんですが、今はちょっとそれがないがしろにされている感じもなきにしもあらずで、そのバランスを崩す一方の勢力が、広告を出す側の広告会社や広告主だったりもして、コンテンツの広告収益はどこかで均衡するはずなんですが、今はあくなき上昇信仰がありますし、でも、どれだけ優良なコンテンツでも、それが際限なく広告収入を生み出しつづけるわけないですから、そのへんのセーブの仕方がこれからは問われてくるような気もします。

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2009年4月26日 (日)

タレント広告のリスク

 日本の多くのテレビCMはタレント広告です。その中には、タレントがタレントとして商品なりブランドなりをお薦めするものもあれば、タレントがストーリーの中の登場人物として演じる場合もあります。前者の積極的なタレント起用の場合はもちろん、後者の場合でも、タレントさんが不祥事を起こしてしまうと、広告が取りやめになることが多いのが、残念ながら現在の風潮です。

 今回の草彅さん泥酔の件でも、ほぼすべての広告が取りやめになりましたし、彼の出演する番組が差し替えられたりしました。私の個人的な感想ですが、今回は草彅さんにとっては不運だったように思います。出来事としては、まあ酒にまつわる失敗でもあるし、日常でもよくあることだと思うのですが、なにせ内容が、ネタとしてキャッチーでした。芝生で全裸ですもの。しかも、あの草彅さんが、という感じで、これはもう、逮捕うんぬんでなくても、今の時代では同じことが起こっていたと思います。

 まあ、そうした風潮はちょっと世知辛いなと思うし、私は今回の件で、草彅さんも一人の人間なんだよなあ、みたいなことを思いましたし、草彅さんの真面目なイメージ通りのお酒の失敗だったような気もします。純な人なんだろうな、という感じです。あえて突っ込むとしたら、「人間として最低」ではなくて「学生じゃねえんだから」ですよね。ただ、企業にとっては、彼のイメージ資産を使って広告しているわけだから、わざわざイメージが一時的に下がっているときに、その人を使って広告する意味もないので、今回のようになるのは仕方がないですね。

 タレント広告には属人的なリスクがあります。みんなそれを承知でタレントを起用しています。だから、鳩山邦夫総務相を除いて、広告主側は誰一人として苛立ちを表明しなかったでしょ。内心は、「こんな、なにかと大変な時期に不用意なことしてくれるなよ、ほんとにもう」なんて思うのでしょうけど、起きてしまったことだし淡々とことを進めるしかありません。それだけでも何かと大混乱ではあるのですが。

 現場はみんなリスクを織り込み済み。もちろん、こういうことはないに越したことはないけれど、それがタレントを広告に起用するということですから。たぶん、今回のことくらいなら、お金の話を含めたビジネスライクなやり取りがドライに行われ、ある時期を過ぎれば、きっと多くの企業はまた草彅さんを起用するのではないでしょうか。冷静に見て、今回の件は、傷害事件のような致命的なものでもなんでもないですし。まあ、このへんのことは大手広告会社の所属ではないので、はっきりとしたことは言えませんが。

 私もタレント広告を制作することがときどきあります。いろいろ大変です。たとえば、まだ芽が出ていないタレントさんを起用して、そのCMで人気が出ると、次のクールの契約が予算的に難しくなったりすることもあります。要するに、契約料が上がるんですね。こうなると、広告主とタレント事務所の間に挟まれる広告会社としては、いろいろ調整が難しいです。

 逆に、企画段階では旬だった人が、オンエア時では落ち目になっていることもあります。流行のギャグを使ったCMなんかは、ほとんど賭けです。寒いCMになるリスクが大きくて、私はそういうのは怖くてやりません。

 それと、誰を起用するかを決めるときが一番しんどいです。試しに思考実験。ある銀行のCM。誰を起用したいか3人くらい挙げてみてください。第一希望、Aさん。第二希望、Bさん。第三希望、Cさん。その中で、金融系のCMに出ている人は除外です。競合に出ている人は、出演できません。Cさんが残りました。第三希望なので、少しインパクトに欠けますが、とりあえずはよしとして、交渉してみます。すると、Cさんは金融系NG。で、全滅。振り出しに戻る。タレント起用の実務はそんな感じの繰り返しです。もちろん、起用が決まって、企画も決まって、制作に入ってしまえば、エンターテイメントのプロであるタレントさんとのお仕事はとても楽しいんですけどね。

 ちなみに、タレント広告は日本と韓国に多い手法です。欧米にもタレント広告はありますが、多くは、「セレブリティに語らせる」というアイデアとしての起用です。欧米の広告会社のクリエイティブ・ディレクターは、各国の支社を歴任して出世していくことが多いのですが、その赴任先で日本と韓国は人気がないそうです。オーストラリアやタイではうまく行く有能なクリエイティブ・ディレクターが、日本と韓国だけでは結果が出せないようです。なにせ、街に貼っている、確定申告やら火の用心などの政府公報系の小さなポスターなんかも、ほとんどがタレント広告の国ですものね。

 それがいいことかどうかはわかりませんし、私は正直言うとあまり好きではありませんが、まあ、それもひとつの文化ではあるのでしょうね。と外資系の広告マン的な皮肉っぽい締め方ですが、本日はこのへんで。ではでは。

関連エントリ:
タレント広告はなぜなくならないのか(1)
タレント広告はなぜなくならないのか(2)
スタンドインさん
「好感度」考
キャラクターはいいやつだ

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2009年4月22日 (水)

「新聞折り込みチラシ」の行方

 新聞を取らない人は増えてきましたが、新聞折り込みチラシは人気です。広告の話題というと、どうしても派手なマスメディアや新しいネットメディアでの広告になりますが、この新聞折り込みチラシという広告メディアは、この不況下でも効果が衰えてきたという話をあまり聞かない希有なメディアです。

 広告メディアとして新聞折り込みチラシを分析してみると、その有用性がよくわかるかと思います。

 ターゲットセグメントについては、新聞広告の場合、エリア広告の切り替え版を利用して地域セグメントはできることはできますが、その地域はどうしても広域になりますし、切り替えが細かくできる地域も、東京や大阪などの大都市に限られています。しかし、新聞折り込みチラシは、新聞販売店が広告配信の拠点になるので、かなり細かい地域の設定が可能です。だからこそ、スーパーマーケットが特売に利用するんですよね。

 広告の信頼性については、新聞広告にはかなわないけれど(最近は落ちてきているように思いますが)、新聞に折り込まれるということで、新聞の信頼性に準じています。これは、日中にポスティングされる投げ込みチラシと比較するとよくわかるかもしれません。郵便受けにたまるチラシは捨てられがちですが、新聞折り込みは読むという人はよくいますよね。それは、文字通り新聞に折り込まれているという信頼性が影響しているのでしょう。

 つまり、新聞折り込みチラシという広告メディアは、新聞宅配という制度がつくった、きわめて優良な地域広告メディアだと言えるのです。しかし、新聞をとらない人が増えてきて、新聞宅配は急速な勢いで減ってきています。つまり、それは新聞折り込みチラシという広告メディアを支える前提がなくなってきていることを意味していて、じつは、新聞で言えば、メディアの多様化で最近効果が落ちてきている本紙の広告よりも、まったく効果が落ちる気配のない新聞折り込みチラシの方が深刻度は上。

 そんな中、ネットでチラシを検索して見られる「Town Market」というリクルートが運営するPCサイトができたり、様々な取り組みが行われています。ただ、これは新聞折り込みチラシの代替にはならないな、というのが私の印象。理由は、新聞折り込みチラシの本質は、テレビCMや新聞広告と同じ「受動性」にあると思っているから。

 ネットで検索という方法では、どうしても見る人の能動性が問われてきます。私は、広告の本質は「受動性」だと思っています。その意味で言えば、ウェブでいえば、AdWordsなどのテキストバナーは、それが単にテキストだけの質素な広告であったとしても、きっちり「受動性」を満たしていますが、「続きはウェブで」の先にある、フラッシュ満載のリッチな特設サイトは、じつは広告の本質からは少し遠いものと言えます。余談ですが、ネットメディアが台頭してきたとき、広告代理店は、広告の本質により近いテキストバナーではなく、リッチな特設サイトに注力してしまったのは、今から思えば失敗だったと私には思えます。

Townmarket  話がそれました。「Town Market」の話です。東京中野の自宅のポストに、その「Town Market」のチラシが入っていたんですね。なんだろうと思ってチラシをみると、そこにはこんなコピーが。

 週刊TV情報紙と地域の広告・チラシを
 毎週(金)あなたのポストへ無料でお届け!

 なるほどなあ。さすがリクルートと思いました。やっぱり考える人は考えるんですよね。そのキャッチコピーの下には、赤色の囲いの中に想定ターゲットが示されたこんなコピーもあります。

週末にお得な情報が欲しい方、
ご自宅で新聞を購読していない方にオススメ!

 この宅配版「Town Market」の企画、かなり考え抜かれていますよね。新聞にあまり興味のない人、ニュースはネットで見るという人にとって、新聞本紙であえて必要だと思うのはテレビ欄。そのテレビ欄と芸能情報をコンテンツにして、まとめてチラシを届けてしまうという方法。しかも、信頼性はリクルートという企業名で担保。一応、これで、新聞折り込みチラシのメディア特性の要件は、完全にではありませんが、すべて満たしています。ただ、盲点はあります。テレビ欄でさえ、今はネットで代替できるんですよね。無料でも、このセットを申し込む人がどれだけいるのか、という部分。これは、ある意味本質的な部分でもありますが。でも、このサービス、化けるとかなり地域広告メディアの中核になりそうな予感がします。

 チラシには、「目黒区・世田谷区・中野区・杉並区・大田区・品川区の皆さんへ」と書かれていて、すでに始まっている横浜市、川崎市、町田市(きっとテストマーケティングでしょう)での実績で、勝算ありと読んで、いよいよ本丸へという段階なんでしょう。ちなみに、我が街中野区は全国ではじめて新聞購読率が5割を切った街。それと、人口密度が日本一の街でもあります。リクルートにとっては、まさに中野決戦といった感じなんでしょうね。

 追記(4月22日午前2時頃):

 はてなブックマーク経由で、こんな記事を見つけました。週刊ダイヤモンドが好みそうなネタではありますが、それを取っ払って考えても、やはり、業界的にはかなりのインパクトがあるようです。

リクルートがエリア拡大する番組無料宅配に新聞業界激震 - DAIAMOND ONLINE

 記事にある「ある広告代理店幹部によると」という部分をどこまで信じるかによりますが、どちらにせよ、このサービスは、新聞の収益構造そのものに絡んでいるから、いろいろ微妙な大人の事情を含んでいそう。まあ、新聞はデイリーで、こちらはウィークリー(コンテンツ的にはウィークリーが限界でしょう)。その面できめ細かさでは新聞が勝ちだし、受動性の度合いも新聞のサブとしての新聞折り込みに利があります。

 そもそも、ロジカルに考えれば、昨今の新聞離れはこの件とは別問題だし、主に新聞を読まない層を狙っているわけだから、本格的な競合もなさそうな気もしますが。でも、広告予算削減傾向の今、今後は宅配版「Town Market」だけでいいやという広告主もいると思うし、広告メディアが広がっても顧客は広がらないわけで、記事にあるように客を奪われるというのはやっぱりあるでしょうね。「メディアの雄」を自負する新聞社の気分としては、あまり気分のいいものではないのかもしれません。

 追記2(4月22日午後2時頃):

 ダイヤモンドオンラインの記事が、はてなブックマークのトップに。そうか、やっぱりいろんな意味で刺激的なサービスなんだなあ、といまさらながら実感。あと、余談ですが、同じサービスを語るにしても、このエントリのような個人メディアが発信する記事の書き方と、ダイヤモンドのようなジャーナリズムが発信する記事の書き方は、ずいぶん違うもんですね。タイトルのつけ方とか、論の進め方とか。ま、私の場合は、ポストの中のチラシを見て「ほえぇ、リクルート、いろいろ考えるよなあ」という感想のがベースになっているからではあるんですけどね。

 このへんの話法の違いみたいなことって、いろいろ面白いなあ、なんて思いました。

 追記3(4月23日0時頃):

 このエントリを書いた時点ではダイヤモンドの記事が出ていなかったので、この時点の私の認識では「Town Market」はPC版のことでした。しかしながら、急速に宅配版「Town Market」がホットな話題になってきて、「Town Market」が宅配版を指すような状況が生まれ、今読むと、少しわかりにくくなってしまっているようなので、若干文章を手直ししました。文意は変えていません。また、そのへんの時間的な事情を加味して読んでいただけると幸いです。しかし、たった1日でずいぶん状況が変わるもんですね。びっくりです。

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2009年3月 8日 (日)

「雑誌廃刊」についての覚え書き

 大きなところでは「読売ウィークリー」「月刊現代」「論座」「ロードショー」「週刊ヤングサンデー」「Cawaii!」「月刊PLAYBOY」「SEVEN SEAS」「Esquire」など、雑誌休刊・廃刊が相次いでいます。休刊を謳ったものでも、それは雑誌コード保持のためでしょうから、実質廃刊に近いのだろうと思います。

 部数減少と広告収入の鈍化が理由として挙げられています。部数減少と広告収入の鈍化は、関連もあるし、その一方では別々の問題であり、それぞれの廃刊が同じ原因であるとはいいにくいのだろうとは思います。それに、雑誌の廃刊数と創刊数は、今だに創刊数が若干上回る状況にあり(今年は下回りそうな気もしますが)、流行や世相に左右されがちな雑誌媒体の新陳代謝、つまりいつもの風景とも言えそうな気もします。

 なんとなく思うのは、広告収益が大部分を占める「SEVEN SEAS」型、主な流通経路である街の書店の現象とコンビニの台頭を原因にする「月刊現代」型は、今を映すものでしょうね。「ダイアモンド」や「日経ビジネス」などの週刊ビジネス誌の広告はそれなりに好調なようですし、早くからコンビニで売られていた「文藝春秋」も好調。つまり、金融バブル期に創刊された広告モデル系雑誌と、旧来型の購入経路を前提にしていた書店売り系雑誌が淘汰されているような気がします。

 私はわりと雑誌が好きな人間ですし、仕事柄、広告の掲載誌を手にすることも多く、たくさんの雑誌を読むほうですが、そういう広告収入前提、既存流通前提の雑誌は、ここ最近は内容が劣化していたような気がします。執筆陣も貧弱だったし、内容も浅かったです。どこかで慢心が見えていたというか。ここ最近の経済悪化で、有料雑誌としての存立条件の限界を超えて、突然クラッシュというのが本当のところかなと思います。つまり淘汰ですね。もちろん、流通を含めた構造の変化というのは、それはそれで大問題ではありますが。

 つまりは、既存のビジネスモデルの破綻っぽい事態ではありますが、このジビネスモデルの本格的な破綻を示すものではなさそうな感じもしています。あくまで雑誌分野で見ると、という感じですが。これが問われるのは、今、わりと好調で執筆陣、内容ともに濃い雑誌が成り立たなくなるときでしょう。「週刊文春」とか「SPA!」とか「AERA」とか「日経ビジネス」のようなビジネス誌とか、月刊で言えば「文藝春秋」とか。そのあたりの危機感は、新聞のそれとは、少し違うのかもしれません。

 基本的な認識としては、雑誌にしても広告一般にしても、私は、わりと景気悪化による市場の縮小と根本的なビジネスモデルの破綻を別のものとして考えています。なんとなく、そうした区別がないと、中長期的には道を誤りそうな気がしていて、「極論はネタというかエンターテイメントとしては面白いけれど、それは違うんじゃないか」ということがこのところの問題意識です。もちろん、市場自体が縮小すれば、仕事が少なくなったり、退場させられるかもしれない一個人や一企業としては、どちらも同じことなのかもしれませんが、情を優先させたところで理は変わらないとも思うし、個人メディアの書き手としても、そのあたりを意識し続けながら書いていきたいと思います。

 そういう意味では、このブログのタイトルにある「愚痴」は「愚痴」として書くようにしなきゃな、なんて思います。でも、人間は個人の思いを一般化したがるものだろうし、実際はなかなか難しいのでしょうけど。では、残り少ないですが、みなさまよい日曜日を。

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2009年2月24日 (火)

「2008年広告費」雑感

総広告費 6兆6926億円(前年比4.7%減)

テレビ  1兆9092億円(同4.4%減)
新聞   8276億円  (同12.5%減)
ネット   6983億円  (同16.3%増)
折込   6156億円  (同6.0%減)
DM    4427億円  (同2.4%減)
雑誌   4078億円  (同11.1%減)
屋外   3709億円  (同8.2%減)
交通   2495億円  (同3.7%減)
ラジオ  1549億円  (同7.3%減)

ネット広告費6983億円の内訳
 検索連動広告費 1575億円 (同22.9%増)
 モバイル広告費   913億円 (同47.0%増)

マス4媒体広告制作費    3254億円 (同5.2%減)
 ※内テレビ広告制作費 1959億円 (同3.3%減)
ネット広告制作費     1610億円 (同14.0%増)

参考記事:2008年の国内ネット広告費は6983億円、前年比16.3%増-INTERNET Watch
ソース:2009年2月23日付け電通ニュースリリース(PDF

 主要メディアの2008年度広告費を多い順に並べてみました。詳しくは、分析含めて、情報元のニュースリリースをご覧いただきたいのですが、その内訳が広告制作費を含むものだったり、そうでなかったりはしています。また、このところのメディアミックスでは、広告制作費の主たる部分はメイン媒体における広告制作費に含まれてしまうことも多く、広告制作費は参考程度に見るべきかな、と思います。

 こうして並べてみると、実務における広告媒体の重要度とほぼ順位が連動しているように感じます。テレビ、新聞、ネット、折込、DMという流れは、今、その順番も含めて、わりと定石になっているのではないでしょうか。もっともこれは業種によって違いがあります。例えば、化粧品なら雑誌が重要になりますし、世の中の大半の商品やサービスは、テレビや新聞が必要ではありません。一般化するのは無理があるかとは思います。これは、増減についても同じことが言えます。

 2008年度は後半から景気の大幅な後退があり、その後退の影響を早く受けるのは、広告費が高額なテレビや新聞になります。つまり、検索連動やモバイルは景気の後退の影響を受けにくく、しかも業種的には、検索連動を止めることは一切の販促活動を止めることにつながる業種が多いでしょうから、このネット広告の増を単純によろこんでばかりはいられないのは、当のネット系広告会社の方はいちばんおわかりであると思います。

 新聞の広告パワーは、新聞本紙の広告と折込とあわせて見るべきで、そうして見ると、今なお新聞はテレビに匹敵するパワーを持っていることがわかります。このところの景気後退で直撃を受けるのは、テレビ、新聞などのリッチメディアです。

 構造的に、新聞はリッチメディアである本紙広告の後ろにチープメディアである折込がくっついていて、リッチメディアの衰退が、不況に強いはずの折込にも影響を与えるところがあり、他のメディアにはない特徴になっています。新聞はネットで代替しやすい媒体ですし、衰退しつつある宅配システムがこの折込という優良媒体を支えていることもあり、このマス4媒体の中では、新聞はもっとも深刻度は高いだろうと思います。

 ネット広告に関しては、まだ検索連動とモバイルが全体の半分に満たないですが、モバイルの伸びが大きいですね。これは、実務の感覚とまったく連動しています。昨年度に比べると、同じキャンペーンでもモバイルの伸び率が急激に上がっています。これは完全にケータイの高性能化でしょうね。ようやく本格的にモバイルが使えるようになってきた印象があります。

 検索連動に関しては、やはり広告というマーケティング手法の裾野を広げた、そして、広がったということなんでしょうね。ネット広告花盛りといっても、単体企業が検索連動を極端に増やすというわけにもいかず、ひとつひとつの企業にとっては、上限が低い広告なのかもしれません。

 またネット広告におけるもうひとつの「純広」であるポータルサイトの広告枠については、かつてのリッチ化の模索はなくなってきたのは、個人的にはいいことであると思っていますが(リッチ化は、広告効果という側面で言えば逆効果であるとずっと思ってきました)、検索連動の収益でなんとかなってしまうことで、逆に自社広告枠の進化が止まり気味なのではないかな、という印象を持っています。それは表現の分野でも同じです。

 その意味では、マス広告がいい意味でも悪い意味でもお手本です。私は、今後はマスで駄目なことはネットでも駄目になっていく可能性が高いと見ています。ネットは若い媒体だからこそ、今のマス広告のようにならないためにどうすればいいのかが考えられますし。

 そのとき、勝負になるのは自社広告枠(および検索連動広告をからめていくシステム)の質になるでしょう。凡庸すぎていやになりそうですが、結局、広告は、良質なコンテンツありきというのは時代が変わっても変わらないでしょうし。

 そういう意味では、私としても、そのネットの「純広」における表現の質をどう高めていくかが勝負になるだろうと思っています。ネットだからできる、という考え方は、逆にネットをなめているような気がしてなりません。時間はかかるかもしれませんが、ネットの大部分は、いずれリアルな社会とほぼ同じような感覚になるはずです。

 雑感でもあるので、さしたる示唆はありませんが、私は、この凡庸さやつまらなさも、ひとつの未来を指し示す指標でもあるのかなと思っています。なんとなく、私は極論が苦手。極論は気持ちがいいんですけどね。でも、その気持ちよさは、未来が見えるみたいな気持ちよさではなく、別のものなのだろうな、という感じがします。それは、このネタからおもろいことが書けないという言い訳でもあるんだろうけど。ではでは。

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2009年2月18日 (水)

広告というシステムの功罪

 本日はとくに何も書くこともなく、しばらくネットでも眺めてそそくさ寝ることにしましょか、なんて思っていると、ネットが突然つながらなくなりました。2月18日深夜1時頃から30分くらい、ずっとそんな感じでした。あれ、おかしいなと思って、WILLCOM 03でもネットに接続してみたけど、同じ症状が。現在、1時45分ですが、いまは普通につながっているみたいですね。何だったんでしょうね。ブログ検索で調べてみると、そういう記事も今回はなく、「Geekなぺーじ」のあきみちさんがお書きになっていた「今朝、インターネットが壊れました」とは別の原因なのかな。

 そんなわけで、結局、書いているわけなんですが、これで終わるのもなんだし、今、ぼんやりと考えていることなど、つらつらと。

 私は広告業に携わる人間ですから、広告というシステムには愛着を持っています。今、民放のテレビやラジオなんかが無料で見られるのは、きっと広告というシステムの導入があったからなんだろうな、と思うんですね。そうじゃなきゃ、電波塔を立てて、でっかい放送局をつくって、みたいなテレビ番組やラジオ番組が無料で見られるなんていう状況は生まれなかったはず。広告というシステムがなければ、今だに税金でつくる国営放送や、日本で言えばNHKみたいな放送しかなかったはずで、そういう意味では、まあなんだかんだ言われるにしても、広告の果たしてきた役割というのは、案外大きかったはず。

 でも、無料のコンテンツを成り立たせる広告というシステムは、やがてテレビやラジオを支配するようになるんですよね。つまり、視聴率や聴取率という基準にコンテンツが縛られるようになります。今度は、広告というシステムがつくりだした視聴率至上主義というシステムが、テレビを滅ぼしていくんです。ラジオの場合は、スペシャルウィークでがんばるみたいな甘さがありますが、それでも広告に依存するということは、つねに広告がつくかどうかということがコンテンツの基準になったりして、斜陽メディアであるラジオなんかは、今、深夜はアニメの声優さんが出演する番組ばかりですよね。特に地方は。それで、年輩のリスナーが、深夜はNHKのラジオ深夜便に逃げるという状況が、ここんところずっと続いています。

 ネットで言えば、広告収入を生み出すものはPVになるんでしょうが、PVを生み出すためには、もちろんサービスの魅力を高めていくというテレビやラジオと同じ道が当然あるのでしょうが、その先は、かなりの挟持を持っていない限り、いろんな敷居をどんどん低くしていくという道につながっていて、mixiなんかでは「魂」であった招待制を登録制にしたり、年齢を下げてみたり、一方、最近好調な他のSNSは、要するに無料ゲームがコンテンツだったりしていますし、そうなると、今度は、普通の人には敷居の高いサービスになるという、テレビやラジオと同じような逆転が起きます。

 テレビにおける視聴率はPVに置き換えて考えると、非常にわかりやすくなるな、なんて思います。ネットは新しい分野だと言われますが、その新しさのベールを取り去ると、案外、既存メディアと同じジレンマに陥っているような感じがします。

 村上春樹の受賞スピーチではないですが、人が便利になるために、人がシステムをつくり、そのシステムが人をがんじがらめにしてしまう、というね。なんというか、それは戦争とかの話ではなく、たかが広告とメディアの話ではありますが、構造は同じような気がしていて、人がシステムに食われてしまわないためには、システムの上位に、かならず人を君臨させることなんでしょうね。間違っても、テレビやネットコンテンツは広告のためにあるんだ、なんて開き直ることはしないことなんだろうね。難しいことだけど。

 私は、ブログ名からしても広告人なんですが、私がなんか偉そうなことを言ったら「黙れ、広告屋」くらい言われる立ち位置がちょうどいいような気がします。人がいちばん醜く残酷になれるのは、自分の立ち位置を絶対だと思って、それを真理や正義を持って語り始めるときだと思うし、その底抜けの明るさや、それを逆転させた魅惑的な暗さみたいなものは、直感的に信用しないというか嫌悪するような感覚が私にはあって、その感覚を失って、明るく、あるいは、暗く、広告の未来を語り始めるとき、今の私にとって、その時の私は最悪の広告人なんだろうな、と未来の私に今言っておこうかな、なんて思います。

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2009年2月13日 (金)

今回のGoogle騒動を雑誌媒体になぞらえると

 世の中のありとあらゆるコンテンツを集めるという「Google」という名の雑誌があって、読者の投票と編集委員の厳正なる投票でランクが高いものが前の方のカラーページに掲載されていて、読者は読者でカラーページを楽しみにしていて、人気が高い。その雑誌の主な収入源は広告収入で、当然、大人気のトップのカラーページの広告媒体費は高くて、ページを追うごとに安く設定をされている。

 この雑誌、なぜかこの分野ではナンバーワンになっていて、今、世の中のコンテンツで何が人気があるのかがすぐ分かるみたいな感じに思われていて、なぜそんなに信頼があるのかというと、それは不正な読者の投票を防ぐ仕組みがしっかりしていて、編集委員もすごく厳正だ、と思われているから。それが本当かどうかは分からないけれど、世間的にはそう信じられている、と。

 で、この「Google」という雑誌、欧米なんかでは名実ともに圧倒的なナンバーワン雑誌なんですが、日本では「Yahoo!」という、明るくて、楽しそうで、垢抜けていて、総花的で便利情報なんかも取り揃えたランキング雑誌が人気で、どうしてもトップシェアがとれない。で、どうしたもんか、と日本の「Google」編集部は考えた。そうだ、キャンペーンやりましょ。

 世の中のありとあらゆるコンテンツ制作者が注目しているキーワードがすぐにわかって自動で更新される早見表をおまけに付けましょう。で、読者にこの早見表の便利さを記事にしてもらいましょう。記事にしてもらうために、読者ライターをとりまとめる会社に依頼して、たくさん記事を書いてもらいましょう、と。で、この日本の編集部の考えたキャンペーンを知った「Google」本部。

 「我々は世の中のありとあらゆるコンテンツを厳正なシステムでランキングすることで人気がある雑誌だ。広告の意図を隠した読者の記事を排除するシステムもがんばって作ってきた。だから、我々の雑誌は読者から信頼を集めているし、トップのカラーページの広告枠はクライアントから高い評価をいただいている。その中に、自らが仕掛けた広告記事をコンテンツに紛れ込ませるとは、どういうことだ。即刻中止せよ。」

 と激怒。日本の編集部はキャンペーンを即刻中止。まあ、これは自分の雑誌の信頼を守るという内向きな理由での中止だから、謝罪文は、あいまいでちょっとわかりにくくなってしまったけれど、とりあえずすぐに謝罪。

*    *    *    *

 とまあ、こんなところなのでしょうか。間違っていたら、ごめんなさい。あと、補足しておくと、雑誌でいう「純広」の媒体費の大小というのは、Google的にはクリック単価×クリック数の大小になります。

 Googleさんとしたら、検索精度を高めることは、収入源としての「純広」であるAdWordsの信頼を守ることにもつながっていて、そこから派生するAdSenseは、AdWordsの信頼に支えられている構造ができていて、Googleさん的には、多くの良質な手弁当コンテンツ制作者に対して、コンテンツの独立性(これがGoogleの信頼を支える担保になるもの)を保持しながら、金銭的な支援しているという気概があるに違いないし、手弁当コンテンツ制作者にとっては、今は妙な広告が表示される技術的な問題はあるけれど、コンテンツの独立性をこれまでの新聞とか雑誌程度には保つことができる「純広」収益システムが手に出来るということだし、コンテンツの独立性を阻害するあらゆるものは排除しなければ、という強い動機があったんでしょうね。まあ、事実としては、単なる日本Googleの内規違反に過ぎないのでしょうが。

 GoogleだってブログをAdSenseとかで利用して来たじゃないか、ブログなんてほとんどスパムじゃないか、日本の新聞だってテレビだって提灯記事や提灯番組がいっぱいじゃないか、という論があるでしょうが、そういう意味では、それなりにスパムを排除するシステムをつくっているし、Googleは、「記事広」という広告システムを持つ既存の新聞や雑誌よりも厳しいし、徹底して「純広」一本でいく気概があるのでしょう。この種の批判については、Googleは痛くも痒くもないはず。わしゃ、既存の新聞や雑誌、テレビのようにはならんぞ的なこと思っているはず。

 ペイパーポストの是非については、WOMの専門家ではないから正直よくわからないところはあるけれど、個人的には、自然発生的に記事が生まれるのが理想だな、とは思います。だから、広告屋としても、ブロガーとしても、あれは利用しないだろうな。でも、ブロガーミーティングについては肯定派です。どう書かれるかはわかりませんし、書かれないこともあるし、それに、一度企画して実施したけれど、ああいうふうに実際に生の声を聞く機会はなかなかないし、手法としてはイベントに近い感じを持っています(追記:でも運用次第かも)。それよりも何よりも、噂をしたくなるような仕掛けや企画は常に考えなくちゃな、と思っています。自発的な噂のほうがWOMとしては強力だし。

 でも、今回は日本支社が本社の内規に引っかかったというのが、ちょっと分かりにくくしているところもありますね。自身については、商売の根幹にかかわるので厳しくなりがち。なので、WOMマーケティングについてのGoogle的な基準がわかりにくくなっていますね。そういう「記事広」的なコンテンツに対してどう許容してどう拒絶するのか。その基準は何なのか。それが不明瞭。

 それと、日本ではYahoo!がトップシェアだけど、やはりGoogleの独占みたいなものがあって、Googleの基準がウェブの基準みたいなことろがあるから、ややこしいんでしょうね。ほんとは、この問題は、Googleという一民間企業の判断の問題にすぎないのだろうし。でも、現実はそうじゃないからこその騒動でもありますね。

CNETJAPANのブログ「渡辺隆広のサーチエンジン情報館」の記事「Google、ペイパーポストのブログマーケティングで謝罪で騒動の概要が分かりやすく解説されています。また、この中に出てくる「純広」という広告用語については私のエントリ「「純広」という言葉が持つ意味」をお読みいただければと思います。

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2009年2月11日 (水)

「純広」という言葉が持つ意味

 興味深い出来事がありました。日本のGoogleがペイパーポスト(広告主または広告会社がブロガーに報酬を与えて記事を書いてもらうこと)を利用したプロモーションを行い、それがGoogleのサーチガイドラインに抵触して中止したとのことです。CNETJAPANのブログ「渡辺隆広のサーチエンジン情報館」の記事「Google、ペイパーポストのブログマーケティングで謝罪」で詳しく解説されています。興味のある方は、ご一読ください。

 これはインターネットでの出来事ですが、従来の広告でも同じようなことはよく起こっていて、そのため、広告主が広告媒体を購入して、自社もしくは広告会社で制作した広告のことを「純広」または「純広告」と呼び、新聞社や雑誌の中に記事として広告を溶け込ませる広告手法のことを「記事広」または「記事体広告」と呼ぶことで、明確に区別をするようになっています。自社もしくは広告会社で制作した広告でも、文章が多めの記事風に作るものをたまに「記事広」と呼ぶこともありますが、厳密に言うと、それは「記事広」ではなく「純広」です。但し、記事と著しく混同するデザインの「純広」は、新聞社や雑誌から、[広告]と明示するように求められることがあります。

 「純広」は、インターネットが始まる前から「できれば見ずに済ませたいもの」としてあります。民放だって、新聞だって、ほんとうは広告枠なんかじつはなければないほうがいい。そんな存在です。広告がエンターテイメントだ、貴重な情報だ、なんて後付けの理屈というか、良質の広告群がもたらした結果に過ぎないのですから。

 だからこそ、記事のように見せる「記事広」や、情報を配信して、新聞や雑誌、テレビなどに自発的に報道してもらおうとする「PR」、広告主がテレビ番組を買ってまるごと広告番組にしてしまう「通販番組」なんかの、あの手この手の広告手法が生み出されたわけですね。今どきでは、ドラマや番組コンテンツの中に広告要素を紛れ込ませる「ブランデッド・エンターテイメント」なんかもあります。

 けれども、その手法は、決して主流になるようなものではなく、存在自体がある節度と限度を持って存在しなければいけないような手法であると私は思っています。これらの広告手法は、突き詰めていくと、広告主の広告や媒体社が存立する基盤であるコンテンツの力を削いでしまい、自らの首を絞める結果になるからです。このことは、いくら時代が変わったとしても、変わることはないだろうと思います。

 分かりやすいのでブログに話を限定しますが、例えばブログの記事がペイパーポストだらけになったとして、本人が楽しければそれでいいとは思うけれど、それでも、そのブログのコンテンツは確実に魅力を失っていくでしょうし、コンテンツとしての力を失っていきます。今、わりと無邪気に「純広」以外の手法が礼賛されている傾向がネットマーケティングではあるように思いますが、「そうは問屋が卸さない」ということだと思います。長い目で見ると、やっぱり、ある限度があるとは思うんですよね。ビジネスとしての飽和点というか閾値もかなり低い。

 そういう意味でも、今回のGoogleの中止と謝罪は賢明だったと思います。Googleは「純広」で食っている会社ですから。今、わりと広告の現場レベルでも、軽いノリで「BUZZとかWOMとかあるじゃない。ブロガーに記事書かせてさあ」なんて言う人が多かったりして困るんですが(真剣にBUZZやWOMを考えている人には迷惑な話でしょうが)、そういうのは絶対に主流になりませんし、なっちゃいけないです。どんな時代でも、広告屋の基本は、真っ当な広告として噂にされるようなコンテンツ(まあ、それは「純広」に限らず「情報=ネタ」だって何だっていいんですけどね)を地道につくっていくことなんですよね。それが、しんどくても。

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2009年1月25日 (日)

発泡酒のジレンマと呪縛

 ビールの味はよくわかりませんが、ビールの味を基準にすれば、発泡酒はあまり美味しいものではないと言えるでしょうね。明らかに味が薄いし。でも、価格が安い。うちの親父なんかは、昔はキリンビール(生じゃないやつ)一筋だったのですが、今では発泡酒ばっかり飲んでいて、それは価格が安いこともあるけれど、味が好き、とも言うんですよね。ワシの歳じゃ、ビールはくどい、みたいなことを言っています。サラッと飲みやすくていい、とも言います。

 たまにヱビスなんかの高級ビールを買って帰るけれど、一口飲んで、もうええは、あとはオマエが飲めや、みたいなことを言います。親父が発泡酒好きなのは、もはや安いからではないようです。

 漫画の「美味しんぼ」なんかでは、そんな状況を堕落っぽく描きますが、確かに、ビールというお酒の本質を追究しつづける人にとっては、いかにも嘆かわしい状況ではあるんでしょうね。とは言え、親父のような人が、発泡酒を味で支持するというのは事実でもあり、そのこと自体に、ある信条を持ってあれこれ言うのは、きっと違うんだろうなと思います。

 これをビール会社の視点で見ると、けっこう悩みが大きい部分でもあるのでしょう。日本の会社は節操がないというか、マーケット至上主義的な傾向が高いから、あらゆるターゲットに同じブランドで様々な商品を提供します。麦芽100%ビール、普通のビール、個性派ビール、発泡酒、そして、第3のビール。

 マーケティング的には、価格が下がれば下がるほど、大量生産・大量消費が必要になり、広告の必要性が高まる傾向にあって、必然的に発泡酒・第3のビールの広告をつくらなきゃならないことになります。で、ビール会社としては、ビールを基準とする限り、それは廉価版のビールという位置づけになるし、その限界の中で、味をどこまで高められるかが勝負になります。

 消費者のインサイトを「本当はビールが飲みたいけれど、お財布のこともあるから、安い発泡酒にしておこう」みたいに認識すると、メッセージは当然、「ビールに近いおいしさです。もしかするとビールと同じかもしれない。」となります。廉価商品ほど味や品質を訴求するのは、広告の常套手段でもありますし。

 で、「まるでビール」とか「ビールよりいい感じ」みたいなコミュニケーションをやるようになるわけですが、本業での本質的な部分に触れるようになると、短期的に消費者に支持されるとしても、それは確実に本業をゆっくりと蝕んでいくような気がします。自らの本質を自らが欺く、みたいな。ブランドを考えないといけないというのは、つまり、そういうことを考えないといけない、ということなのだろうな、と思います。

 POSが出来てから、ちょっとそういう長期的な視点でものを考えにくい売りの現場になってきて、流通を含めて、1日単位で結果が突きつけられる状況で、のんびり長期的視点で、みたいな悠長なことが言ってられなくなってきます。私は中堅広告会社なので、巨大マスプロダクトの経験は、そう多くはないけれど、それでもいくつかのマスプロダクトでは、そんないわゆる「棚落ち」の恐怖と毎日戦っていました。

 コミュニケーションのジレンマがまずあって、その一線を越えてしまったら、次に、そのコミュニケーションが呪縛になります。いくら否定しても、なかなか記憶から消えないのも広告の特徴のひとつなので、その呪縛は、5年ごとか、そのくらいのスパンで蝕んでしまうし、その立て直しはかなりの力技に頼ることになってしまいがち。

 そのあれこれには税制の問題もあるし、中身はすごく複雑なんでしょうが、コミュニケーションに限定すると、こういうことは、ちょっとした想像力で簡単に言えるとは思うんですね。でも、そうした厳しい状況の中で、そのことを明快に指摘するというのは、ブログで語るということとはまた別の話で、それはそれは勇気のいることであって、そういうことをきちんと出来る人が本当のプロだとも言えるわけで、プチそういうことは、私も現場でたまにやることがありますが、なんか大事なところが縮み上がる感覚というか、そんな感じです。怖いよお。ひとつ間違うと、出入り禁止だしねえ。

 最後に、多くの発泡酒の広告は、どこも「発泡酒には発泡酒のよいところがあるし」みたいな感じですね。サントリーの「金麦」の広告はいい感じで、うまくやっているなあ、とは思っています。ちなみに、うちの親父のお気に入りは「マグナムドライ」と「円熟」です。第3のビールは、ちょっと淡白すぎるとのこと。同じ発泡酒でも他の銘柄はまったく駄目で、そんな親父を見ていると、ほんと、人それぞれだなあと思います。

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2009年1月24日 (土)

久しぶりに思い出した戦略十訓。

 戦略十訓。これ、ひと昔前に使われていた広告会社の訓示集。当然、会社の内部で使われていたもので、外向けの言葉ではありません。今は使われていません。この訓示は、当時は広告業界ではすごく有名でしたし、マーケティングの講座なんかでも紹介されることも多かったようです。

   1. もっと使わせろ
   2. 捨てさせろ
   3. 無駄使いさせろ
   4. 季節を忘れさせろ
   5. 贈り物をさせろ
   6. 組み合わせで買わせろ
   7. きっかけを投じろ
   8. 流行遅れにさせろ
   9. 気安く買わせろ
  10. 混乱をつくり出せ

 当時は、広告に携わるものが常に持っていなければいけない戦略性として、肯定的に捉えられていました。もちろん、この戦略十訓は消費者に見透かされるようじゃ駄目だろうけど、ある種の職能の本音としては、身も蓋もないなあとは思いますが、なるほどなあという見事な出来で、まあ、巷にあふれるライフハックなんかもこんな感じだし、あっけらかんとしていて爽やかでさえあります。

 で、この戦略十訓。今、これでマーケティング活動がうまくいくのか、みたいなことを思うんですね。ここ20年で、社会はもっともっと複雑になってしまったような気がします。この戦略十訓が使われなくなったのは、社会的な存在としての企業意識の高まりということもありますが、この戦略十訓自体の有効期限が切れてしまったというのもあるんじゃないかな、とも思います。

 流行遅れにさせたくないのに、たった1ヶ月で流行が変わったり、混乱を起こしたくないのに、混乱が起きたり、せっかくきっかけをつくったのに、別のきっかけがどんどん生まれたり、どちらかというと、いかに混乱を起こさずに、流行をつくらないことに奔走するマーケティングが大切になってきているような。

 例えば、その商品の存在意義の根拠になる価値観があって、その価値観を伝えるときに、今は、その価値観を流行として伝えては駄目で、この先も有効な普遍として伝えることが大事なような気がするし、そのために広告は一気に消費されないようなある種の「のりしろ」も必要になっているような感じもします。

 だからといって、それが目立たなければ駄目で、このへんの案配が昔よりも難しくなっているような気がします。このあたりのコントロールで一日悩む、みたいなことが多くなりました。

 この戦略十訓。今、最もこれに忠実な感じがするのが、リスティングとか行動ターゲティングの分野かも。それと、大きく言うと、ネット広告全般。きっかけを投じろ、という部分では、しくみ自体がこれを体現している部分もあって、アマゾンなんかで出ている「あの人はこんな商品も買っています」なんかは、組み合わせで買わせろ、ですよね。

 低成長になってきたら、この戦略十訓の逆ベクトルが重要になってくるような気もしますが、その状況は、その逆ベクトルの訓示が持つ美しさほどには美しい状況ではないんでしょうね。小さい市場の中での、生き残りをかけたパイの奪い合いというか。こんなあからさまな訓示が有効だった時代は、逆におおらかな時代だったんだなあ、とも思えてきて、いろいろと新しいことを考えて、次の手を打っていかないといけないなあ、と。ではでは。

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2009年1月18日 (日)

「広告屋はチンドン屋」考

 80年代の終わりか90年代の始めくらいに「広告代理店はチンドン屋の衰退の道をなぞってはならない」という趣旨の論文を読んだことがあります。業界専門誌か、業界団体の機関誌に掲載された論文だったと思います。書き手は広告代理店のクリエイティブかマーケティングの方。その論文が見つからなかったので、私の私見についての枕程度に思ってください。

 確かその論文の主旨は、「昭和とともに発展したチンドン屋は、そのスタイルを頑に守り続け、変えようとしなかったために、高度成長期以降、次第に消費者に飽きられ衰退していった。我々広告業界も、これまでの広告のスタイルを固持し、こだわり続けると、チンドン屋のように衰退するだろう」というものだったように記憶しています。

 広告代理店各社が「情報商社」を標榜していた時代。ライバルはリクルート。そんな時代。我々は「チンドン屋=広告屋」じゃない。情報を動かし、時代をつくるのだ。そんな、自負心というか、肥大した自意識というか、今振り返ると、かなり気恥ずかしい時代でもありました。

 私は、チンドン屋の衰退に同情はしないしけれど、広告屋がチンドン屋を叩くのは少し筋が違うのではないかなと、その頃思っていました。チンドン屋という形式は、広告屋が手持ちの形式の中の一形式に過ぎません。事実としては、チンドン屋の衰退は、広告屋の発展と同期していたはずで、社会が必要とする大きな意味での広告のシェアを、広告屋が徹底的に奪っていった結果ということだろうし、チンドン屋の形式へのこだわりは、その業種の規模や市場縮小にも連動して起きていることだとも思うのですね。

 要するに「この商売は俺の代で終わりだ」という事業主が多かったと思うのです。終わりが見えている者が自分の大切にしてきたものを守るのは、人の情でしょう。それを古いとか変われなかったと叩くのは、あまりに想像力がなさすぎ。

 そんなふうに頑に形式にこだわったからこそ、チンドン屋は、多くの若い音楽家たちに再評価され、文化として蘇ったわけだし、多くの人を楽しませ、そのほんの少しを情報の伝達に使わせていただくというチンドン屋のコアの精神は、カタチを変えて現代の広告に引き継がれているのだとも思います。

 どこまでいっても、広告という行為は「あざとい」ものだと思います。それは、今最先端の純広手法と言われ続けている、検索連動広告や行動ターゲティング広告のあからさまであっけらかんとした「あざとさ」が証明しています。ときに、自らをも食い尽くしていく「あざとさ」を、より消費者にとって自然で心地よい、少なくとも社会に受け止めてもらえる「あざとさ」にしていくことができるのは、自らが持つ「あざとさ」を自覚する者だけだと私は思っています。

 あれから10年以上経って、時代も変わり、街でたまにチンドン屋さんを見かけるようになりました。人だかりの中、楽しそうに演奏するチンドン屋さんとそれを追いかける子供たちを眺めながら、あの論文とは逆に、我々はチンドン屋さんに戻った方がいいのではないかなと、ふと思うんですね。もちろん、今からチンドン屋をやろうというわけではなく、そのコアの精神に、ですけどね。

 広告屋はチンドン屋ではない、ではなく、広告屋はチンドン屋でもある、というところから始まって、広告屋だからこその内なる挟持を持ってこの仕事を続けていけたら、と思います。戦略を練り、企画書を書くとき、どこかで自身をチンドン屋ではないと規定し、その自意識を肥大化させてはいないか。きっとこういう肥大化した自意識で仕事をしても、策士策に溺れる、というやつで、きっと社会から無視されるという結果を生むだけだから、いいといえばいいのですが、まあ自分のつくる広告はこういう結果を生まないように、それを自戒としながら仕事をしていきたいと思っています。

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追記:

 もしかすると、その論文は「これまでのようにテレビ、新聞などのマス広告にこだわっていたら、楽隊演奏という形式にこだわったチンドン屋さんのように衰退してしまうよ」というような趣旨だったのかもしれません。クロスメディア論の先駆けみたいな。でもね、街での楽隊演奏自体はカタチを変えて、今もクロスメディアのひとつとして広告屋がやっていますよね。

 どちらにしても、業界が個別の事業を叩く、もしくは、総合が専門を叩く、みたいな気持ち悪さはありますね。だって、チンドン屋さんも広告業界の仲間なんだし、広告業界のすべての機能を一社で持つと自認する総合広告代理店である限り、その中の機能にチンドン屋さんも含む、というのが総合ということじゃない。まあ、10年以上前のことだし、その論文ももはや見つからないし、探すつもりもないのでいいんですが、なんかふと思い出してしまったので。

 あと、チンドン屋については、ウィキペディアの記述がすごく充実していて力作です。どなたが書いたかは知りませんが、すごく詳しくて、これを読むだけでも楽しいです。

チンドン屋:ウィキペディア(Wikipedia)

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2008年12月15日 (月)

本質価値と付加価値についての覚え書き

 私の住む街にハンバーグ屋さんがあります。値段も手頃で、そこそこの人気。カウンターオンリーで、U字に曲がったカウンターの中にキッチンがあり、その中で店主がハンバーグを焼いてくれます。ひとりでも気楽に入れるので私はよく行くのですが、味の方はというと、まあ普通。人によってはまずいと言うかもしれません。目玉焼きの付いたスタンダードバーグが580円だから、あんなもんだろうなという感じで、通い詰めています。

 でも、私、そのハンバーグ屋さんでひとつだけ好きなところがあります。それは、味噌汁。油揚だけのシンプルな味噌汁なのですが、お出汁が煮干しで旨いんですよね。昼はサービスで、夜は100円。私は夜でも味噌汁を必ず頼みます。

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 もし、このハンバーグ屋さんが広告をつくってほしいと頼んで来たら、私はどうするかな、と考えてみました。価格は、ファーストフードには負けているし、正直言って味はよくはない。店の雰囲気は悪くはないけど、長居する感じでもない。でも、味噌汁は旨い。それは、きっとどこにも負けていないし、もしかすると100円近辺の戦いだと、圧倒するかもしれない。で、こういうメッセージを打ち出したらどうか。

 味噌汁のおいしいハンバーグ屋さんです。

 駄目ですね。一目瞭然ですよね。もしかすると、その裏のメッセージである「ハンバーグのまずいハンバーグ屋さん」というメッセージを面白がられてブレイクするかもしれない?でも、ここの店主、真面目でそういうのを楽しむ余裕がない感じ。それだけの度胸はなさそうです。要は、ケタグリメッセージで博打を打つことはできないという感じ。たぶんこのメッセージを打ち出したら、高い確率でこのお店は潰れてしまうと思うんですよね。

 これは分かりやすい例ですが、ハンバーグ屋さんにとっての本質価値は「ハンバーグが美味しいこと」です。「味噌汁が美味しいこと」は付加価値です。(この付加価値という言葉は、経済学上の付加価値でもなく、本質価値を圧倒することで形成される付加価値でもなく、広告屋がよく使う「オマケ的な価値」と考えていただければと思います。しかし、この付加価値は分野によって意味が違いすぎる言葉ですね。)もし、どうしても「味噌汁がおいしい」とこを伝えたいのなら、こんなコピーはどうでしょうか。

味噌汁もおいしいハンバーグ屋さんです。

 ちょっといけるかな、とは思うものの、でもやっぱり「味噌汁にそんなにがんばるんだったら、味噌汁屋になれよ。それより、ハンバーグの味をもっとがんばったらどうですか?」と言われてしまいそうですね。つまり、ハンバーグ屋さんにとっての広告の王道は、やっぱり「ハンバーグ」なんです。そこからのバリエーションは、単純に美味しさの訴求だったり、味の特徴の訴求だったり、価格に対する味とか量の訴求だったりいろいろありますが、どちらにしても「ハンバーグ」から始まります。

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 この本質価値と付加価値の錯誤、広告の現場には多いです。その錯誤がどうして起こるかと言えば、組織の問題や市場の問題など様々な要因がありますが、なんとなくその過程を振り返ると、みんなが催眠にかかったようになる、みたいなところがあります。それが商品開発からだと、もうお手上げです。マーケティングが強い会社ほど、この催眠にかかりやすい傾向があるように思います。

 付加価値でニッチ市場を狙い、そのニッチ市場を大きくして、本質価値にしてしまって、そのトップシェアになるという手もあるにはあります。でも、この方法は、投資がかなり大きくなります。その覚悟がないと失敗するやり方です。相当の自覚がないとできない方法です。多くは、付加価値を本質価値とみなして、成り行きのまま行ってしまうケースでしょう。

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Imac  また、この本質価値と付加価値の問題は、けっこう複雑で一筋縄ではいきません。初代iMacのケース(参照)。徹底的なデザイン、カラーバリエーションの訴求でした。これは、ハンバーグ屋さんで言うところの「味噌汁」訴求=付加価値訴求なのか。

 そうではありません。これは、本質価値訴求です。

 つまり、Appleは(というかジョブスは)、「これからのパーソナルコンピュータはもっと生活に入ってくるよ」と言いたくて「だからこそ、生活を豊かにするフォルムやカラーこそがこれからのパーソナルコンピュータの本質価値なんだよ」と言いたかったのだと思います。もちろん、MacOSの設計思想と技術的達成が担保になっているのは言うまでもありません。

Thnkdifferent_2  たとえそれが、当時の世の中が考える常識から見ると「Different thinking」であるとしても、「これからの世の中は絶対にそうなるよ」と言いたかったのだと思います。だから、このCM(あるいはキャンペーン)のエンドラインは「Think different.」なんですね。

 同じようなデザインで勝負した他社の製品はすべてiMacに負けていきました。もちろん、そのカタチと色はあまりにもパクリすぎじゃないですか、という製品もあったようですが、その会社にとって、そのカタチと色は、その場しのぎの単なる付加価値だったのだろうと思います。Appleというかジョブスは、こういう製品の本質価値のチェンジ(パーセプション・チェンジ)がうまいですよね。ほんと、コミュニケーションと経営が一体となった会社は強いです。

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Roomba  ちょっと世界的な事例すぎましたので、こういう話、そないにうまいこと行くかいなと思われてもなんですから、規模的にも身近な私の仕事の例で。

 ロボット掃除機の仕事(参照)。これまで、このロボット掃除機は、ロボット訴求でした。よく言われた愛称は「お掃除ロボット」です。でも、このロボット掃除機にとって本質価値は「ロボット」ではなく「掃除機」なんですね。「お掃除」の理想や利便を追求する手段としてのロボットテクノロジーであるはずで、逆ではないんです。メッセージを変えました。売れました。

 このロボット掃除機に関して言えば、グローバルでワークしたメッセージであっても、日本というローカル市場ではワークしないこともあることのいい例と言えるかもしれません。日本では掃除機ロボットの本質価値は、あくまでロボットではなく掃除機なんですね。一方、先行市場である欧米では家が広いこともあって、掃除を自動化してくれるロボットが本質価値になり得る土壌があったのです。

 この商品は、パブでは「お掃除ロボット」として大活躍していましたが、それはネタとして消費されるだけで、実際の商品の購買には結びつきませんでした。だから、コミュニケーション戦略として「お掃除ロボット」としてのメディアへのネタ提供を一切辞めたんですね。まあ、iMacと比べると、規模としてはごく小さな仕事ではありますし、私には「何を偉そうに」と言われてしまうような失敗もたくさんありますけどね。

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 最近、なんか気になるのは、この本質価値と付加価値の錯誤が、ブランディング話まわりでよく見かけるなあ、ということですね。私は、ブランドとは本質価値の積み重ねの総体だと思っていて、昨今の、まるで昨日までなかった理想の自分をブランディングという魔法で簡単につくれてしまうかのような言い方には、少し違和感があります。そないにうまい方法あるかいな、なんて。本質価値を磨いていくか、いままでの価値を捨てるリスクをとって、あえて本質価値を変えてみるか、方法は2つにひとつのような気がします。まあ、あまり言い過ぎるとおっさん臭くなるので、このへんで。
 

 追記:
 冒頭の広告依頼の答えですが、たぶん私は「目の前で焼いて、熱々をお出ししています。」というメッセージをこのハンバーグ屋さんにおすすめするでしょうね。価格をきちんと淡々と記載して。その前に、もう少しハンバーグ美味しくならないですかね、とか言うかもしれません。それと、もうひとつの考えとしては、広告とかコミュニケーションの話とは別に、飯屋の本質的価値として、何よりもまず「ごはん」と「味噌汁」が美味しいことというのもあって、だからこそ、長年このお店はそこそこの人気を保っているんだろうな、とも思います。

 追記2:
 まあ、トラバをもらうなりの強烈なご批判でもなく、私の書いているブランドの定義についての違和感を、つぶやきっぽくおっしゃっていただけだから(参照)、こちらも気にする必要はないんですけどね。参照のリンク先から来られた人のために、一応、元エントリにならってつぶやきっぽく反論。
 私は、『双方向に「利益」を生む状態になって初めて「ブランド」』という考え方は取りません。利益を生まなくても「ブランド」は「ブランド」。私は、「ブランド」という言葉の起源に忠実に、固有名を持つものすべてが「ブランド」だと考え、「ブランド」という言葉を使っています。固有名が、何かの閾値を超えると「ブランドになる」という考え方をしません。私の定義では負の「ブランド」も「ブランド」に含みます。だから「ブランド」は管理と軌道修正が必要なんです。
 これは言葉の定義や解釈の問題だから、「価値」とか「ブランド」という言葉を「価値あるもの」と「利益を生むブランド」と考えるのは自由だし、そこから理論を展開することも、個別のブランド論としての意味もあるとは思いますし(ブランドを標榜する企業や個人はそこの差で勝負するのだろうし)、そこから先は個別の論の説得性と魅力の問題だろうと思います。ですから、あんたの論はおもろないというのなら何もこちらから言うことはありません。
 関連:ブランドって何だろう(3回シリーズになっています)
 「名を名乗ってから」うんぬんについては、まあ考え方はいろいろあるでしょうから、そのへんについては読まれた方のそれぞれのご判断にまかせます。

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2008年12月 7日 (日)

都道府県別シェアから見た広告メディアとしての新聞

 広告媒体として見たときの全国紙というのは、じつは首都圏および関西圏の広告メディアであって、案外、新聞というのは全国を包括するメディアではないということは言えるかもしれません。引用のデータ(参照)は昨年3月のデータらしいですが、このシェアに関しては大きな変動はないと思います。新聞名は、その都道府県のトップシェア紙、%はシェア(その新聞の世帯普及率)、続いて発行部数です。

北海道   北海道新聞   49.3% 123万部
青森県   東奥日報    47.8   26万
岩手県   岩手日報         47.6   23万
宮城県   河北新報         57.05   50万
秋田県   秋田魁新聞   64.68   26万
山形県   山形新聞    55.72   23万
福島県   福島民報    42.48   31万
茨城県   読売新聞    42.08   43万
栃木県   下野新聞    45.16   31万
群馬県   上毛新聞    42.75   30万
埼玉県   読売新聞    40.36     105万
千葉県   読売新聞    37.4       86万
東京都   読売新聞    26.16    149万
神奈川県  読売新聞    30.2      107万
新潟県     新潟日報    62.21      50万
富山県   北日本新聞   64.34      23万
石川県   北國富山新聞 70.89    29万
福井県   福井新聞    79.64      21万
山梨県   山梨日日新聞 66.33      21万
長野県   信濃毎日新聞 62.12      48万
岐阜県   中日新聞    59.84      42万
静岡県   静岡新聞    55.42      74万
愛知県   中日新聞    67.02     174万
三重県   中日新聞    51.0       34万
滋賀県   読売新聞    29.16      13万
京都府   京都新聞    41.23      43万
大阪府   読売新聞    25.72      93万
兵庫県   神戸新聞    25.86      56万
奈良県   朝日新聞    30.85      16万
和歌山県  読売新聞    30.49      12万
鳥取県   日本海新聞   76.43      16万
島根県   山陰中央新報 62.25      17万
岡山県   山陽新聞    61.73      45万
広島県   中国新聞    56.13      65万
山口県   読売新聞    30.00      18万
徳島県   徳島新聞    85.27      26万
香川県   四国新聞    53.00      20万
愛媛県   愛媛新聞    53.52      32万
高知県   高知新聞    68.6       23万
福岡県   西日本新聞   31.76      63万
佐賀県   佐賀新聞    46.94      14万
長崎県   長崎新聞    33.22      20万
熊本県   熊本日日新聞 55.63      38万
大分県   大分合同新聞 52.28      25万
宮崎県   宮崎日日新聞 49.38      25万
鹿児島県  南日本新聞   53.67      40万
沖縄県   琉球新報    41.03      20万

 以上のことから言えるのは、基本的には読売新聞朝日新聞毎日新聞産経新聞と言えども、全国カバー率は案外少ないということなんですね。また、首都圏や関西に住んでいると想像しがたいことですが、中堅都市だけでなく、代表的な例で言えば、大都市でも名古屋は中日新聞というふうに、いわゆる「全国紙」があまり読まれていない都市はいくらでもあります。いまの時代、地方と言えども複数紙を購読する人は少なくなってきて、しかも、現状では、それぞれの地方紙は、通信社および提携全国紙から記事の配信を受けているので、全国ニュースはカバーできていることを考えると、ますます地方において、全国紙は苦戦していくのかもしれません。

 finalventさんが、「新聞社が潰れてもそれほどどってことはないよ – finalventの日記」の中で、「新聞っていうのは元来そういうローカルな存在。」と書かれていました。これにピンと来ない人も多いかと思いますが、広告実務をやっていると、それは痛感します。テレビはそこそこ全国をカバーできてしまいますが、新聞では地方紙を組み合わせないと無理。新聞社のマーケットというのは、そういう感じなんですね。このあたりを押さえておかないと、朝日新聞の赤字転落のようなニュースは過剰に意味付けをしてしまうのかもしれません。ただ、広告媒体として見た場合、首都圏と関西圏の大型広告媒体の大苦戦という見方はできます。これはこれで、広告業界で飯を食う我々にとってはきつい話なんですが。

 唯一、全国をカバーできてしまうメジャー新聞は、日経新聞ですが、これはそれぞれの都道府県でもまんべんなくシェアは低く、ある意味で専門紙とも言えるので、唯一の全国紙と言い切ってしまうのは微妙です。しかしながら、この専門という切り口は、今の時代にはマッチしていて、テレ東を除く関連の出版・放送関係も含めて元気な印象を受けますね。

 なんとなく思うのは、このまま紙媒体の苦戦が続くと、ネットでのニュース配信はいつか有料に移行するかもな、ということですね。ネットの新聞サイトの広告は、他のポータルへの配信も含めて、PVでも広告媒体の量でも価格でも、わりと飽和点に来ているのではないかという印象を持っています。となると、今のようなネットの新聞サイトは今のままで持ちこたえられるのかな、と思ったりします。ブログを書く一個人としては、リンク切れをよく起こす新聞サイトは、もっともっとネットにパーマリンク付きのアーカイブとして保存する方向でがんばってほしいとは思いますが、企業としてはどこかに収益を求めないとやっていけないはずで、その意味合いで、私は朝日新聞の赤字転落というニュースを受け止めました。

 私は、仕事柄もあり、新聞を含めた広告メディアを観測していますが、新聞の崩壊がもしあるとすると、それがネットに入れ替わるという意味合いではなく、折り込み広告を含めた、現状においてもネットよりも広告効率のいい巨大メディアがパンクしてしまうという意味合いだと思います。カテゴリーにもよりますが、現状においてもなお、ある程度の広告プロモーションを実施するときに、新聞は、きめ細かくて格段に効率がいいんですよね。つまり、ネットは代替にならない、というか。今のところ、そんな印象です。

 それは同時に、本格的なマスの終焉を意味するのかもしれませんし、それともマスはダウンサイジングしていって、社会が要請するある適正値に落ち着くのかもしれませんが、どちらにしても、大きな社会の転換期に来ているのは、間違いはなさそうな気がします。これからどうなるかを予測するのは、思いのほか難問な気がしています。

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2008年11月15日 (土)

糸井重里さんの重さ

 コピーライターの時代がありました。言葉を武器に、ひたすら言葉が紡ぎ出す世界を付加価値にして、コピーライターという職業は時代の寵児になっていきました。いま思えば、それはバブルだったのかもしれません。その付加価値には、きっと広告が含まれていなかったのだと思います。小説家、詩人、作詞家、そして、コピーライター。言葉のプロフェッショナルを指向してはいても、それは広告のプロフェッショナルを指向してはいませんでした。

 けれども、あの時代はそれでよかったのでしょう。それでもものが売れました。あの時代から少したって、つまり、バブルが崩壊する真っ最中に、私はコピーライターになりました。CIプランナーからの転身だったので、時代の寵児としてのコピーライターにはあまり興味はありませんでした。うまいコピーはうまいと思いますが、そこに憧れはなかったような気がします。

 そんな中、これはまいったなと唸らせられたのは、糸井重里さんでした。西武百貨店の「おいしい生活。」というコピー。これからの時代の豊かさは何かということを、端的に言い表しています。うれしい、ではなく、たのしい、でもなく、おいしい。糸井さんは、このコピーについて、当時はそれほど評価されなかった(とは言っても一定の評価は得ていたのですが)のが不満だったと語っています。それは、このコピーに対する糸井さんの内なる自信が語らせたのでしょう。

 西武百貨店、西武流通グループ(セゾングループ)の糸井さんのコピーを追っていくと、バブル期の消費者のインサイトの変化がわかります。それは、マーケティングデータ以上の正確さをもってわかる気がします。それは、同じ百貨店の広告を制作する私に猛烈な嫉妬と興味を与えました。

 そんななか、あっ、これで終わったと思ったコピーがありました。

ほしいものが、ほしいわ。

 ああ、これで終わる、とそのとき思いました。もうこのあとはない。そんなふうに感じました。確か、糸井さんの最後の西武百貨店の広告は、ちびまるこちゃんが登場する新聞広告でした。このボディコピーの最後はこう結ばれていました。

だから、まずひとつだけ、約束させてください。四月の新学期までに、みんなが練習して、商品の包み方が一番上手な百貨店になります。

 これ以降、糸井さんはほとんどセゾングループの広告にかかわらなくなりました。以降のセゾングループの広告は関連が深いI&Sという広告代理店の社内制作になりました。記憶に残っている広告では、「!」だけが白地に大きく描かれ左隅にちいさく「実感するだけ。」というコピーが記されたものでした。これで、完全に息の根が止まりました。その後は、ほんとにもう何もない。少なくとも理論的には。

*     *     *     *

 日経ビジネスオンラインに連載されていた「実用品としての吉本隆明」という糸井重里さんのインタビュー記事を読み直していて、興味深い言葉がありました。一部、引用します。

——それをうかがうと、1982年の西武百貨店「おいしい生活。」のコピーを思い出しますが、現在の糸井さんの意識の中に、広告のコピーライター、糸井重里というものはありますか。

糸井 ありません。

——少し嫌そうなお顔になりましたか?

糸井 いや「ありますか?」と聞かれたから、「ないよ」って言っただけですよ。何もないです。

——ない、というか、嫌悪しているという気分はありますか。

糸井 してない。そういう仕事をしてきたんだけど、その時代が終わっている。終わっているのに、そのことに気付かないままでいるわけにはいかない、というだけです。何か人が喜ぶことを考えるという点で、やっていることはずっと同じなのですが。

 それは、歌い手さんがラジオで歌うか、テレビで歌うかみたいな違いはあるでしょうね、きっと。歌っていること自体は同じように、自分が何を喜ぶか、ということについては同じですから、根っこは変わっていませんが、よその人が作る商品で喜ぶことを考えるのは終わっています。

——いつ終わったと思われますか。

糸井 「ほぼ日」を始める前にいったん終わっていますね。

——何か具体的なきっかけはあったのですか。

糸井 バブル崩壊でしょう。バブル崩壊で、結局のところ、つまらないことで話がまとまるわけです。つまり、どんな広告を作るよりも安いものが売れたりするわけです。そのときに広告って意味がない。さらに言うと、安くするって、そこにすごい工夫があるわけではなく、誰でもできることです。広告が“安い”に負ける時代を迎え、あ、これはもうあかんな、というのがあって、一から鍛え直していきましょうというのが、次の仕事だった。これは長い物語になるんですけどね。

「ほぼ日」は、吉本隆明の思想の実践だった

 糸井さんの広告は、ずっとオンタイムで追いかけて来たので、このあたりの感情の起伏は痛いほどわかります。糸井さん自身がおっしゃっていたことですが「糸井は終わった」と業界ではよく言われていました。でも、そう言いながら、私たちは業界の中で「誰でもできること」に負け続けながら、その場をしのいでいました。ほんとうに終わったのは「広告」だったのではないかな、と今になっては思います。

 少し古い広告ですが、NTT DoCoMoの「DoCoMo2.0」は、立ち上がりのグラフィック広告には興味は喚起されたものの、その後にはじまったテレビCMにはまったく興味が持てませんでした。いち消費者としても、業界人のはしくれとしても。今の広告で言えばdocomoの「Answer」も、立ち上がりの成海さんが出演する企業広告には興味はありましたが、企業側にとっては、きっと本丸である「アンサーハウス」というドラマCMシリーズには、あまり興味は持てません。

 個人によって差があるのかもしれませんが、いま支持されているのは、このような広告ではないのではないか、という感覚が私にはあります。SoftbankのCMがいま支持されているのは、きっと、その古典的な広告らしさなのではないかと思います。資生堂のTSUBAKIもそう。物量戦がものを言うという、中堅広告会社にとっては腹立たしい状況も含めて、いま、一度終わった広告は、また広告に戻ろうとしている。そんな気がします。

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 広告が広告以外のなにものかになろうとしたとき、広告は、一度、消費社会に対する役割を終えたような気がします。そして、糸井さんはクリエイティブの場を自分のメディアである「ほぼ日刊イトイ新聞」に移しました。糸井さん本人が言うように、「やっていることはずっと同じ」なのでしょう。けれども、その場は、広告ではないというのが、糸井さんの結論です。

 広告という場の中で右往左往する私は、横目で「ほぼ日刊イトイ新聞」を見ながら、一度終わった広告を、もういちどはじめるためにあれこれ考えていて、あるときは広告は普遍だと意気込んでみたり、もう駄目だと嘆きながら、悪戦苦闘しています。それは、そんなにカッコいいものでもなく、自分の専門領域はこれしかないし、職業だからという部分もありますが。

 これからも、あきらめずにあれこれ広告の可能性を追求していこうと思いますし、当面は、いま動いているプロジェクトの成果を最大化することに注力していこうと思います。こうした継続の中にしか未来はないし、ブログという個人メディアがあるからこそ、こうした内省を書き記すことができるというのは、時代の変化でもあるなあという感慨もありますが、とりあえず、前を向いていこうと思います。いろいろ、不安もあるけれど、とりあえず前向きに。

 わりと誤解される言い方かもしれません。でも、伝わる人には伝わると思いますが、やっぱりクリエイティブという一点で考えたとき、話は別で、広告じゃないフィールドになってくるんだろうな、という思いもありますね。糸井さんの90年代からの軌跡というのは、私にとってはけっこう重いです。

 

■追記1:

 私の中にある種の結論があるわけではないので、タイトルを「広告が広告以外のなにものかになろうとしたとき、広告は終わったのかもしれません。 」から「糸井重里さんの重さ」に変えました。糸井さんはいちファンというか、そんな感じであると同時に、ほんと、ことあるごとに重いんですよね。職業人にとっての私にとっても、一個人としても。

 

■追記2:

 1982年の西武百貨店「おいしい生活。」についての糸井さんの話。「クリエイティブは時代の空を飛ぶ」安部敏行著(誠文堂新光社・1989)からの引用です。

 「僕のコピーの中で、後にも先にも、本当の意味でいちばんすごいコピーは、“おいしい生活”だと思いますけどね。ただ、当時は、まだ理解が少なかったですね。あれが、コピーライターズクラブ賞をもらえなかったのが、僕は本当に泣きたいくらい哀しかったですね。賞がほしいわけじゃないんだけれども、みんなで、セーノで、“ワァーッ”というくらいほめられかったんですよ。
 昨年のナマケモノ(「いてもいいし、いてほしいとおもう。」筆者注)で、毎日デザイン賞の最高賞をもらうくらいのことは、いつでも書けるんですよ。
 そういうアベレージ・ヒッティングで賞がもらえるのは、仕事としては最高のことですけどね。あれは自分のバイブレーションが最高に高まった時に、何か啓示みたいなことがあって書けたというくらい、すごいと自分では思っていますから」

 「そのころ、ハッキリわかったんじゃないかな。モニターは自分だってことがね。逆に言うとモニターになるだけの広さと深さみたいなものをいつも抱えていないと広告屋はやってはいけない」

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2008年11月 4日 (火)

「広告はラブレター」という言説が若い人の間で話題になっていたみたいなので。

「広告はラブレター」という言説が若い人の間で話題になっていたようである。佐藤尚之氏の「明日の広告」で展開された議論が新鮮だったらしい。
一方で、私などの世代のように80年代からせいぜい90年代前半に広告業界に入った者にとっては目新しい話でもない。むしろ、懐かしさを感じる。当時は「広告は私小説」とか「メッセージはラブレター」みたいなことを言う人は多くいて、ただ今にして思えば戦前生まれの人々であった。
比喩は本質を突くとは限らない。だが、この「広告=ラブレター」という議論をどのように捉えるかによって、その人が「何を生業にしているか」が分かる気がする。

naoto_yamamoto:Blog/広告って、なに?「広告=ラブレター論の陥穽。」

 ブログ「広告って、なに?」の著者の山本さんは、私より少し先輩ですが、ほぼ同世代と言える感じなので、このへんはすごくよくわかります。山本さんは制作からマーケ、コンサル分野へ。私はCIから制作の分野へ、ということなので、ベクトルは逆ですが。

 確か、あの当時「広告はラブレター」とことあるごとに言っていたのはコピーライターの真木準さんでした。コピーライターの秋山晶さんは東京コピーライターズクラブのコピー年鑑テーマに「コピーは僕だ。」と書かれていました。この頃、よく言われていたのは、製品に機能差がなくなってきて、何で消費者が製品を選択するかというと、それはもはや製品のまわりにまとわりついている感情の衣でしかなくて、「このブランド、私に雰囲気がぴったり」みたいなことで製品を選ぶ時代だからこそ、広告はその感情の衣たるべきで、その方法論としては、比喩としてはラブレターだったり、私小説だったり、そんなパーソナルな感じがいいんじゃないか、みたいなことでした。

 消費というものが飽和状態になってきて、まさに「ほしいものが、ほしいわ。」(糸井さんの西武百貨店のコピーです)という環境になり、製品の差別化ポイントをうまくついていくという広告表現技術の限界が見えてきたときに、ひとつの方法論として「広告はラブレターである」という比喩は、言葉を武器にするコピーライターを中心に一気に受け入れられていきました。まだ、かろうじてコピーライターがカウンターカルチャーの担い手として、時代の花形商売と思われていた時代です。

 まあ、時代もよかったし、無邪気だったんだと思います。あの頃、製品に差別性がなくなってくることが、すなわち製品がコモディティ化することを意味していて、コモディティ化してしまうことは、すなわち製品が広告コミュニケーションを必要としなくなってしまうことを意味することなど、考えもしなかった。そんな明るく軽い時代でした。この考え方は普遍だとは思うのですが、あの当時は、製品の差別性がなくなった商品群が、それでもマス媒体を舞台に広告で競い合うような、広告業界に都合がいい未来が語られていたんですよね。

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 バブルを学生として過ごし、バブル崩壊とともに社会に出た広告業界の中の人である私は、このあたりのことをどう考えているかと言うと、こんな感じです。去年の今頃のエントリですね。いま読み返すと、中の人らしい書き方でもあるなあとは思いますけど、おおむねこの考え方は今も変わってはいないです。まあ、先の山本さんの問いかけに答えるならば、私は「広告を生業にしている」人であるので、それでもやはりなお「広告はラブレターである」というのが前提の論議ではありますが。

 よくね、若いコピーライターの人が感銘を受ける言葉に、前段に書いた「コピー(広告)とは企業から消費者へのラブレターである」というのがありますよね。こう書くと、コピーライターは、すごくいい気分になるんです。でもね、あえてネガティブなことを言いますが、そうして一生懸命に書いたラブレターが「このラブレターきもい」って簡単に言われちゃうのも広告コピーであるんです。残酷だけど、それが広告の現実です。糸井さんが書いていた飽きるということに関して言っても、面白すぎるものは、すぐ飽きる、というのも現実であって、特に長く運営していくキャンペーンなんかでは、じつは、この設計というか頃合いがいちばん難しいと思っています。

ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)「別にキザなことを書くつもりはないけど、いろんな意味で、広告と恋愛は似ていると思います。」

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 バイラルマーケティングの専門家であるsmashmediaの河野さんは、こんなことを書かれています。先の山本さんのエントリを読んでのお話です。

この辺の話は「ラブレターを渡せば何とかなる」とか、そもそも「ラブレターをもらったらみんなうれしいはず」という勝手な幻想に基づいている。そんなのリアルな世界にいたら、超KYじゃねーかと。相手の気持ちは無視かよ。
ちゃんと「ただしイケメンに限る」って書いてあるでしょう。

smashmedia「そのラブレターは望まれていない」

 「ただしイケメンに限る」というのが面白いですね。まあイケメンでもこういうタイプは嫌われそうでもありますが、この「広告はラブレター」という比喩には、「ラブレターをもらうとみんなうれしいはず」と信じる無邪気さが含まれているのは事実でしょう。でも、その無邪気さは間違いであるということは、一度でも失恋すればわかることでもあるし、どちらかというとコピーライターをはじめとする広告業界の人たちが、そういうことにしておきたいということでもあるんだろうと思います。

 でも、そんな甘い理想論を現実が許さなくなってきて、無邪気ではいられなくなってきたというのが、今という時代なんでしょうね。そんな折に「明日の広告」の「広告はラブレター」。この業界の行く末を案じる若い人たちで話題になるのも分かる気がします。久しぶりに、無邪気になれるというか、自信がみなぎってくるというか。

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 河野さんが、セス・ゴーディンさんの言葉の引用として書かれていましたが、「すべてのマーケティングは、スパムである。」というのは、なんか身もふたもないけれど、至言なんだろうな、と思います。私は、広告制作を生業にしている制作マンなので、仕事上、ラブレターをずっと書く仕事ではありますが、「広告はおじゃま虫である」とは思うんですね。というか、この前提は、今にはじまったことではないと思いますし、優れたラブレターとしてきちんと機能している広告は、この前提をきちんと認識しているような気がします。今も昔も。

 それとともに、当然、マーケティング活動の総体の中身を見てみると、ラブレター的なコミュニケーションの分野である広告と、市場戦略、価格戦略、大本の商品開発まで多岐に渡っていて、いつの時代でも「ラブレターだけ渡せばなんとかなる」というわけにはいかなかっただろうし、コミュニケーション・デザイン的なその渡し方の工夫みたいな広告の進化の仕方もありだとは思うんですよね。山本さんがあのエントリでお書きになっていましたが、ある種の「限界性」みたいなものは、あらかじめ広告には組み入れられているのだと思います。

 その限界性みたいなもので、限界性を超えるために、さらに複雑化し巧みに進化していくコミュニケーション・デザインの道を広告が歩むか、それとも。ここのところの私の興味は、ある程度、その進化を組み入れつつ、「でも、やっぱりこういう広告は今でもいいよね」みたいな感じで、「ラブレターうざい」というか、「ラブレター?気付かなかった。」みたいな現状でも、きちんと届く表現技術って何だろう、みたいなところですね。それは、見方によっては退化っぽく見えてしまうかもしれないけれど、広告の本能的な部分をつかまえたいというのが、今のところの課題かなと考えています。

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 ずいぶんコミュニケーション・デザイン的な方法論が流行ってきて、たぶん、このムーブメントも、かつての「広告はラブレター」「コピーは僕だ」的なムーブメントと同じように、「超KYじゃねーかと。相手の気持ちは無視かよ。」と言われてしまうような気がしているんですよね。このところのこのあたりの業界全体の熱病具合を見ていても、そう感じます。ぶっちゃけて言えば、単にメディアの多様化による消費者の意識の変化がもとになっているわけだから、その回答は、それを超えるものではないはずなわけで、今のままで走ると、今度は「ストーカーじゃないかよ。」と言われかねない状態になりそうな気が。まあ、この業界の進化って、いつもこういう道を辿るんですが。

 こういうことを言うといろんな方面から誤解されそうなんですが、わかりやすく言えば「広告よ、分をわきまえよ。」ということなんですよね。話はそこからなんですよ。だって、コミュニケーションって言っても、本音はものを売りたいっていう商売がベースなんですから。分をわきまえずに、コミュニケーション、コミュニケーションって言ってると、そりゃ嫌われるさ。

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2008年10月 6日 (月)

「暮らしの手帖」的なものをどう考えればいいのだろう

 ぼんやりとそんなことを考えています。簡単に言えば、広告収益に依存しないコンテンツのあり方について。今で言えば「ほぼ日刊イトイ新聞」がそれにあたるかもしれません。公共放送だからこの範疇には入らないけれど、ある種、NHKのコンテンツが持つ質みたいなものは、広告収益に依存しないからこそできることなのかもしれない、と思ったりします。

 知らない方もいるでしょうが、ゴールデンウィークに大阪で開かれる「春一番コンサート」も冠がありません。あのコンサートは、収益的にはきついかと思うんですが、ミュージシャンと聴き手が一緒になって純粋に音楽を楽しむ、あの独特の質は、冠コンサートでは出せないものだろうと思います。

 これまで、この手の話は、わりとアンチ資本主義的な文脈で語られることが多かったと思いますが、今や、マスメディアからインターネットまで、様々なコンテンツが広告モデル以外の新しいモデルを捜しているし、ある意味では、とりわけ「ほぼ日刊イトイ新聞」なんかは、もうひとつの未来を先取りしているように思います。

 ウェブ2.0というお題目で語られるインターネットのかたちではないですが、「ほぼ日刊イトイ新聞」は、糸井重里さんの著書の題名を借りると、あの種の雰囲気の好き嫌いはともかくとして、多くのインターネット企業がものにしようとして、どうしてもものにできない、もうひとつの「インターネット的」な姿であるように思います。

 もしかすると、ウェブ2.0的な価値観というのは、最終型的かつ細分化された広告モデルなのかもしれません。あるいは、旧来型の広告モデルの大衆化というか。Google/Amazon化する社会ではないけれど、そこで言われているロングテールにしても、結局は広告モデルの分散化、細分化だろうと思います。

 個人的な希望としての未来は、コンテンツの分散化、細分化であってほしいと考えていて、その多様性を伸ばし育てるバックボーンが、やはり、細分化、分散化された広告モデルであることのジレンマみたいなものがあるのだと思います。老舗雑誌の休刊があいついでいますが、そのことは、旧メディアの終焉といった文脈で語れない気がどうもするんですね。

 そのへん、「文藝春秋」はうまいバランスの取り方をしています。最後のほうのに広告情報館という見開きのページがあり、各広告の目次がついていて、それぞれ広告がジャンル分けされていて、読書、とか、辛党に捧ぐ、とか、「食」が文化をつくる、とか見出しがついています。ちいさなことかもしれませんが、案外、こんなところにヒントがあるのかもしれません。

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2008年8月30日 (土)

日本の広告コピーが元気だった頃

 日本の広告コピーは、わりと独自の発展を遂げて来たような気がしています。日本には「コピー十日会」というちいさなコピーライターの集まりを母体とする、「東京コピーライターズクラブ(TCC)」というものがあります。そのTCCの前には、すでに、「大阪コピーライターズクラブ(OCC)」が大阪で発足していて、コピーライターという職能が独立して何かを考えていく機運が日本にはありました。

 一方で、欧米ではそのようなコピーライターの組織はほとんどなく、広告をつくる職能のひとつとしてのコピーライターという位置づけであるようです。広告をつくる最小単位として、アートディレクター+コピーライターというものがあり、その言葉方面の担当がコピーライターということですね。やがて、広告制作のシステムが組織化され、その双方の職能は、広告会社の組織論として、クリエイティブ・ディレクターを目指す初期的な職能として位置づけられました。実際、私の職場(外資系広告代理店)でもそうですし、欧米の広告代理店の制作現場もコピーは言葉だけ、アートは絵だけを考えるという感覚はあまりありません。

 TCCやOCCという組織がなぜ生まれたかというと、それは、コピーライターという職業の地位が低かったから、その地位向上のためだった、と聞きます。昔の笑い話で、こんな話があります。元ネタは、中島らもさんだったと思います。

 とあるアートディレクターが魚のフォルムを白い紙に書いて、コピーライターに「この魚のフォルムの中にぎっしりと文字が埋まるボディーコピーを書け」と言いました。コピーライターは字数を割り出し、長文のボディコピーを一生懸命書いてアートディレクターに渡しました。その原稿をざっと見て、アートディレクターが一言。

 「やり直し。鱗の感じが出ていない。」

 もちろん、いろいろと面白く脚色はされているでしょうが、まあ、真偽はともかく、当時のコピーライターの地位は、そんな感じだったそうです。そういうこともあって、これはちょっとまずいなということでコピーライターの組織が生まれたんですね。あれから、高度成長やらバブルやら何やらで、コピーライターブームなんかがやってきて、コピーが、広告の発展とは別の独自の文化を生み出していきました。

 その文化を今、ざっと俯瞰的に見てみると、なんとなく現代詩と少し似ているような気がします。それは、言葉の自立を目指した芸術運動のように見えます。吉本隆明さんが80年代注目した広告の言葉は、まさにそんな言葉の自立を目指した芸術運動の前衛だったのだと思います。そして、そんな多くの言葉は、ビジュアルとの相乗効果を拒む自立する言葉でした。それは、詩人の言葉ときわめて近いものであったのだろうと思います。

 今、ちょっと興味があって、80年代アイドルのデビュー時のキャッチフレーズを調べています。その時期は、ちょうどコピーライターブームと重なることもあり、そんなビジュアルの呪縛から解き放たれ自立するコピーがたくさんありました。もちろん、ビジュアルはアイドルの姿であるという制約があるので、そのような自立したコピーが多く生まれやすいという背景がありますが。

 その中で、そんな自立を目指すコピーの典型例をひとつ。大江千里さんがデビューするときにつくられたコピーです。作は、当時コピーライターだった林真理子さん。決して秀作でもないし、むしろあまりよくない例とも言えるかもしれませんが、当時、日本のコピーライターたちが目指していた方向性がよくわかるかと思います。

私の玉子様、スーパースターがコトン 大江千里

 少しかわいく、ボーイッシュだった大江千里さんの声とビジュアル。ファン層が女子大生やOLであること。そして、大学生シンガーソングライターとして、すでに人気があり、なりもの入りでデビューをするという状況。そんな与件から、このコピーが生まれました。ちなみに、玉子様、というのは誤植ではなく、わざと王に﹅を打っていて、コトンに落としているんですね。

 原稿用紙の中だけで完結する世界。言葉が広告を構成する一部であることをやめ、言葉が広告になろうとする足掻きみたいなものが、このコピーに見えます。なんとなく、うーん、と考えてしまうんですね。これが80年代のひとつの広告の姿であったことは言えるのかもしれません。こうした流れの延長線上に今の広告の状況があり、このコピーが広告としての力がある言葉とするか、そうでないとするのか。あのコピーが元気だった時代が、本当の元気と見るのか、カラ元気だったと見るのか。今、どちらにも行ける場所に私たちはいるのかもしれない、と思います。

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 ちょっと調べたので、当時のアイドルたちのキャチフレーズを書いておきます。若干、年代が古いのや新しいものも含まれていますが、まあご愛嬌ってことで。良くも悪くも言葉の時代だったな、と思います。中森明菜さんのキャッチフレーズが光ってますね。言葉だけで見ると、大沢逸美さんのものも好きです。今では、こういうキャッチフレーズは見かけなくなりましたね。

ちょっとエッチなミルキーっ娘(美新人娘) 中森明菜
一億円のシンデレラ 榊原郁恵
ドレミファソラシド、シシドルミ 宍戸留美
そよ風を運ぶエンジェル 桜田淳子
日本のサイモン&ガーファンクル 狩人
ジェームスディーンみたいな女の子 大沢逸美
一億人のクラスメイト いとうまい子
デビュー前からスーパースター 一世風靡セピア
純だね、陽子 南野陽子
ひろ子という字何度ノートに書いたっけ 薬師丸ひろ子
よかった、君がいて 森口博子
とどくかな、笑顔 松本典子
胸騒ぎ、ザワ、ザワ、ザワ 少女隊
REAL1000% 菊池桃子
フェニックスから来た少女 浅香唯
国民のおもちゃ、新発売 山瀬まみ
あなたの心の隣にいるソニーの白雪姫 天地真理
香港から来た真珠 アグネスチャン
ちょっと変な女の子 網浜直子
平成5年は私にとって演歌元年です 長山洋子
ハートはまっすぐ 荻野目洋子
15歳、ためらい、小さな決心 中山忍
抱きしめたいミスソニー 松田聖子
おキャンなレディ 酒井法子
国民的美少女 後藤久美子
つまさきでまぶしい15歳 西田ひかる
一億人の妹 大場久美子
一秒ごとのきらめき…知美 西村知美
微笑少女 小泉今日子
日本のカーペンターズ オフコース
まだ誰のものでもありません 井森美幸
まごころ弾き語り 太田裕美
宇宙一のメロンパイ 小池栄子

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2008年8月25日 (月)

広告会社はこれからどこに行くのか

 その昔、聞屋と広告屋は信用するな、なんて言われたりしていました。戦後のテレビの成長とともに広告会社は巨大化していき、バブルの頃は、もはや我々は広告会社ではない、コミュニケーション全般を扱う情報商社なのだと息巻いていました。あの頃、大学生の希望職種がクリエイティブよりもSPに集まっていました。タレントさんを引き連れて、全国キャラバン。そんな華やかな時代。

 資生堂とカネボウがキャンペーン合戦を繰り広げ、街にはキャンペーンソングが流れ、マス全盛時代に酔いしれていました。もちろん、その頃、私はただの学生さん。そして、そんな時代は長く続かず、外資系の進出と業界再編が行われました。欧米流のブランドが叫ばれ、電博のスタークリエーターたちは、巨大化し硬直化した広告会社から抜け出し、次々とクリエイティブエージェンシーを立ち上げていきました。

 これからはネットだ、と広告会社にはネット専門の部署が設立され、我こそはネットの先導者であるとの自負のもと、様々なプロジェクトが実施されました。ネット広告費がラジオを抜き、ネットは、売り上げの面でも無視できない存在になりました。

 広告会社が考えるネットは、新聞や雑誌、テレビ受像機の延長線で、かつそこに双方向性を具えたコミュニケーション装置としてのネットでした。消費者が参加できる広告。単純化すれば、クリックすれば動く、そんなこと。その頃、私のPCは性能が悪く、業界誌で話題になった広告会社のスペシャルサイトの多くは、見たくても閲覧できませんでした。

 私の実務にもネットはやってきて、スペシャルサイト全盛の流れに私は背を向けて、ひたすら軽いサイトをつくり、Yahoo!などの検索サイトのバナー広告をつくり続けました。Yahoo!のトップページの小さなバナーに、旧型のPCでも閲覧できる、極限の軽さにシェイプアップしたCM動画を載せて(Yahoo!のバナーは相手のPC環境を自動認識して、貧弱な環境では静止画およびGifアニメバージョンに切り替えるようになっています)、当時のナンバーワンアクセスをとったことがあります。でも、そのとき、そのことに注目したのは、Yahoo!などネット媒体側だけでした。

 セカンドライフにパビリオンをつくり、続きはウェブでCMを乱発している間に、広告会社はネットから取り残されようとしている気がします。日本の広告会社の歴史から見たとき(参照)、広告会社がやるべきことは、スペシャルサイトや、ウェブ上で短編映画を何億もかけてつくることではなかったような気が私はします。きっと、ウェブにみんなが集える場所を開発することだったのではないか、その場所を豊かにすることだったのではないか、と。これまで、ラジオやテレビそのものを局とともに開発してきたように。

 2008年という今を象徴する出来事がありました。不動産広告を得意とする老舗広告会社である創芸が、11月1日に商号を変更するとのこと。価格.comやTravel.jp、Technorati Japanを擁するデジタルガレージグループ(参照)の中核コミュニケーション会社として、DGコミュニケーションズという会社になるとのことです。このデジタルガレージによる創芸の買収は、いろいろと話題になりました。しかし、今回のことは、その意味合いとは少し違うインパクトを持っているように思います。

 ネット企業が多角経営のひとつとして広告会社を持つのではなく、ネット企業がその一部門として広告会社の機能を持つという意味合い。小さな動きではあるし、たかだか社名変更にすぎないのではないかという見方もあるにはあるけれど、その意味合いは、これまでのネット系広告会社とも、広告会社のネット事業の展開とも違う意味を持っているような気がします。

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2008年8月13日 (水)

「なぜ理屈っぽい広告は嫌われてしまうのか。」あとがき

 なんか、私のエントリの中ではこの「なぜ理屈っぽい広告は嫌われてしまうのか。」(参照)というエントリは、比較的多くの人に読まれたようで、その中でもいろんな意見が「はてなブックマーク」(参照)に書かれていて、書いた本人も楽しく読ませていただきました。それをきっかけにいろいろ考えることもありましたので、あとがきにかえてコメントに答えてみたいと思います。(新しいネタが思いつかない言い訳だったりしますが)

デルとかのマーケティングはすさまじく上手いと思うけどなあ・・・。

 そうですね。デルはうまいと思います。新聞と雑誌で集中出稿。ショップを経由させず、そこでレスポンスでPCを売ってしまう直販というビジネスモデルを大手で最初にはじめたのはデルですものね。デルという会社は、PCは完全にコモディティ化しているという認識っぽいですね。それはある意味当たりかも。
 で、デルの広告は理屈っぽいか。私はそういうふうに思わないです。わりとスペックが淡々と説明されていて、説得調独特の嫌みは感じられません。あのエントリは、カタログ的広告批判っぽく読める部分はありますが、意図はそうではなくて、消費者を理屈で鐘楼攻めにして、自社の製品の必要性を訴えるタイプの広告で、極端なことを言えばワンビジュアルでノンコピーの広告にも、それは当てはまります。(昔のカンヌ入賞作やドイツの広告業界誌であるアーカイブに掲載されている広告もそういうの多いです)
 デルの廉価なパソコンを題材に即席でつくってみますね。昔のアップルのQuadraみたいな高額パソコンがディスプレイが真っ黒なままただ空間に置いてあるというのがビジュアルで、「パソコンも3年経てばただの箱になってしまうから。」みたいなヘッドラインをつけて、「だからデル」みたいに落とす広告とか。そんな感じ。ちょっと例がへたくそかもですが。

かくして適当な根拠と細工されたグラフを基にした扇情的マーケティングが横行するのでありますことよ。 / どうせなら←の方を「なぜ」視してほしかったかもなぁ。

 広告は理屈じゃないのよ、みたいに理解すると、まあ、そういう傾向はあるでしょうね。でも、そういう基礎データねつ造系は、結果でないし、それがバレると何かとめんどうなことになりがちですから、ここ最近は経済も不調だし、実際はあまりないのではと思います。私はバブル崩壊後に業界に入りましたので、広告業界華やかなりし頃はあったかもですが。
 扇情的マーケティングが簡単には効かなくなってきた、つまり、今までのお手軽イメージ広告が効かなくなってきたというのは、当ブログの別エントリにたくさん書いています。私はわりと予算の少ない中堅企業を担当することが多いので、メディア量で圧倒することもできず、余計に扇情的マーケティングには疑問を持ってしまいます。そのへんは、またまとまり次第エントリにしたいと思います。

全温度チアーに関しては嫌悪感にさえも行きつかず、「だからどうした?」だったから好感度も低かったんだと思うけど。また、「理屈っぽい」という点を戦犯にして思考停止になることも多いと思う。

 でもまあ、全温度チアーはそこそこ売れたんですよ。でも、花王やライオンに勝てなかった。その頃だと真珠のネックレスがときどき入っているニュービーズでしょうか。海外では通用するのに、日本では駄目という事実もあって、そのへんは文化環境を考えていかないといけないなあと思っています。思考停止については、同意です。私の場合は、企画書はけっこうねちっこく理屈で固めます。

この人の、文学少年の見方も面白い。
文学少年のたとえが意味不明

 すみません。文学少年(中途半端なっていう言葉はいるかもですね)って、そんなイメージを持ってました。というか、私が若い頃は、こういう感じの思考をしておりまして、それでもってある女性を好きになって、お近づきになれて、それでもって(以下省略)

理屈っぽくてもOKな場合の成立要件ってあるのかな

 これは難しい問題です。このエントリ、じつは最初「なぜ外資系の広告は嫌われてしまうのか。」にしていたのですが、ちょっと誤解もあるし、釣りっぽいので「理屈っぽい」にしたのですが、今度は「なぜ理屈っぽい広告は嫌われるのか」それは「理屈っぽいからです」というようにトートロジーになってしまうかな、と心配になっていたんですよね。理屈っぽい広告がOKな場合は、その理屈がおもしろかったらOKではないかな、なんて思います。へえ、そんな見方があったのか、みたいな。読んでいて息苦しくならないような感じの。まあ、面白かったら、その段階で「理屈っぽい」とは言わないのかもしれませんが。

筆者が言う「知的嫌悪」と認知科学で言われる「知覚的防衛」の差異がよくわからなかった。人間の認知能力なんて高が知れているのだから、閾下単純呈示効果を発すれば済むじゃんと思った。

 ほぼ同じかもしれません。ただ、知的嫌悪の場合は、知的には了解したけど好きじゃないという「知的」で自発的な了解が含まれるかもです。ただ、この「知的嫌悪」という概念は私のオリジナルではないので、そのへんはよく分かりません。閾下単純呈示効果というのは、私はサブリミナル効果というふうに理解したのですが、そうだとすると圧倒的な媒体投下を前提にしていてお金がかかるので、ここでは考えませんでした。それに、嫌われるけど記憶に残すというのは効率が悪いように思います。

知的嫌悪ってバカだからじゃね?商品サービスの説明は納得いくまで欲しいぜ

 まあ、消費者が置かれている状況によりけりですね。消費者が製品に興味がある段階では説明は納得いくまでしたほうがいいと思います。カタログとかの領域ですね。ただ、広告というのは、消費者への興味喚起が目的なので、あまりに多い情報はコンフリクトを起こしてしまいますので、賢明な方法とはいえなさそうです。

う~ん、このような嫌悪は感じたことが無いなあ。

 少なくなったのかもしれませんが、ここでは嫌悪による行動は無視というふうに考えていますので、ノイズとして認知のフィルターをすり抜けているのかも。

これから欲望を喚起しようって段階だったらそうなんだろうけど、すでに欲望は生じていて具体的にどの商品にするかという段階だったらどうだろう。リスティング等は後者では?

 純粋にターゲットセグメント論ではそういうことになります。リスティング等は、リアルで言えば店頭で自発的にカタログを手にしたり店員さんに聞いたりするシチュエーションには近いので、説得というのは有効ではあると思います。けれども、厳密に考えれば、ジャンルとしての興味はすでにあっても、それでもなお製品そのものには欲望は生じていない段階であるとも考えられます。
 このコメントは、いま考えている領域に重なる部分があって、すごく考えさせられました。話に飛躍があるかもしれませんが、ターゲットセグメント論で言えば、旧メディアでは専門誌広告のあり方なんかに似ているのかもしれませんね。ちょっとずれるかもしれませんが、私なりのやり方ではこんな感じです(参照)。
 私は、純粋ターゲットセグメント論で消費者が情報だけを欲しがっている段階であると思い込みすぎると、最終的にはリスティングという手法の嫌悪につながる可能性はあるかもしれないな、という思いもあって、これからの広告はテキストバナーの表現のあり方みたいなところで問われてくるのではないかと思っています。リスティングという広告空間を豊穣にしていくことも必要なのかなという思いもあります。少し暢気な話ですが。
 はてなブックマークのテキストバナー、リクルートが買い切っていた頃はすごく面白く、ああいうやり方があるのだなと思って見ていました。あれは効果はどうだったんでしょうね。あの広告は本サイトを充実させて、そこを切り口にしたテキストでサイト誘因というかたちでしたね。そのへんの事例を参考にしながら、個別の状況を見極めて、説得成分をどう配分していくのかというのは実務ではいちばんの悩みどころです。

イメージ広告が最強な理由。

 微妙ですが、そうとも断言はできません。事実、イメージ広告の効力はどんどん落ちているように思いますし、イメージ広告って、みんなが共通の話題なり夢なり希望なりを持っていることが条件だったりするので、これからはイメージ広告の効力はますます低下するでしょうね。

「しまったー!  99,800円のパソコンなんてどう考えても安くしすぎた! うっかり、してました」 を思い出した。あのCM面白かったなー

 面白かったですね。私も大好きな広告です。小霜さんでしたっけ。前述の私が創作した悪い例と比べると一目瞭然ですね。

これの例外になる業種もけっこうある。健康食品あたりが典型だろう。
一日中ジャパネットたかたを見るといいと思う。

 はい。ケースバイケースです。通販なんかは、そのへんの説得が嫌悪にならない空間がすでにできていて、この知的嫌悪は当てはまらないのかもしれません。QVCやSHOP JAPANなんかも、嫌悪にならない空間作りがまずあるように思います。だから、通販「番組」なんですよね。ジャパネットは、説得が芸になっているところがほかの通販番組とはちょっと違いますね。あの説得は、けっこう時代を突いているし、意外と客観的。

知的嫌悪:消費者がアホやからという責任転嫁、あるいは(業界的に美味しい)イメージCMや好感度タレント起用CMをプッシュする口実。ちぃ覚えた。/それにしても、GDPに占める広告費の割合はどうやったら下がるんだろう。

 うーん、私は外資畑の人間ですので、そのへんわかりませんです。広告費の割合は、これからどんどん下がるでしょう。だからこそ、1発の効果を高めないといけない。そんなふうに、GDPの割合が下がると困る広告屋は思ってます。

外資が理屈っぽいのは「トーン&マナー」にこだわるからで、こんな言葉を国内代理店の制作から聞いたことは一回もない。CMに限れば、15secという特殊な状況にあってはそれは邪魔でしかない。

 トンマナにこだわるのは、外資もドメスティックも同じような。でもまあ外資の方が、説得型は多いような気はします。外資はクライアントもデータとか理論武装は強力だし、いつのまにか自己都合だけで広告をつくってしまいがち。それは、外資の弱点ですね。それと、短尺でも根が自己都合的な説得というのはありますし、一見楽しそうなストーリーでも企業の勝手な空想だなあと白けてしまうCMは外資に限らずよくあります。それに、制作会社時代、大手二社の制作と仕事をたくさんしましたけど、これに似たような話はみんなしてましたよ。

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 お盆の時期でもあるし、新しいブログエントリも少なめではあるでしょうから。他にもたくさんコメントをいただきましたが、ぜんぶフォローしきれませんでした。すみません。それと、納得されていたり、ちょっと褒められたりしているのに答えるのはちょっと照れくさいので、割愛させていただきました。励みになります。ありがとうございます。このエントリがそれこそ「知的嫌悪」の対象にならないといいなあ。ではでは。

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8月14日追記:

 PRマンのinsiderさんからトラックバックをいただきました。3度くらい読んで、いちおう趣旨はわかりました。私の書いたエントリに対する違和感としては、場の理論に起因するものが多いような気がします。リスティング広告という場、PRという場、それぞれにコミュニケーションの場があって、それぞれでコミュニケーションに求められる機能は違うので一方的に「説得」は嫌われがちよね、と書くと、それは違うんじゃないかというふうになるようですね。まあ、それはしょうがないかな。自分の立ち位置を、すべてのエントリで書けるわけでもないので。
 私が主戦場にしている場は、テレビCMとか新聞広告とか、そういうオールドメディアの所謂「純広」です。しかも、説得大好き外資系。その立場から、その場の理論の範囲内での、ちょいと自己批判風味が加わった論考なので、まあそういう違和感は仕方がないかもしれません。私は、過激に、広告いらね、広告おわた、みたいな論者ではありませんし、きっとこれまでのような広告はなくならないとも思っています。そうした視線で、リスティングやブランデッド・エンターテイメントといった新しい広告手法を見ています。insiderさんとは、エントリを読むところ本人はそう意図されてないかもしれませんが、ほぼ同じことを考えているようには思えたけれど、ただひとつ決定的に違うことがあります。

だから僕は東京ワンダーホテル的な番組の作り方が好きです。 わざわざ15分(なり数ページ)に一回視聴者を正気に戻すようなことをせずにコンテンツの中に入れ込んでいけばいいのに、と思います。 受け手が求めてるものと送り手が送りたいものは別枠にしちゃったらそりゃ受け取るほうはどうにかしてほしい所だけ取ろうとするでしょ。そんなもん溶かして一緒にしちゃえばいいじゃないですか。

 ここは私の考えとは違う部分ですね。東京ワンダーホテル的なブランデッド・エンターテイメント手法は有効な場合はあるし、増えるだろうけど、これが主流になることはないだろうという見方です。この考え方をつきつめると、すべての民放のテレビコンテンツやウェブコンテンツになんらかのブランドメッセージが織り込まれることになってしまいます。送り手が送りたいもの、受けてが受けたいものは、じつは、番組というエンターテイメントであって、番組は本質的には広告媒体ではないし(この番組はそれを溶かしてみましたという試みだけどね)、それを成り立たせてはいけない番組もありますよね。広告は、本来、テレビ番組とは関係がないんですよ。広告はおじゃま虫。いつの時代でもね。
 この東京ワンダーホテルは、広告したいという立場に立てば究極でしょうが、その事実を知った視聴者としてはいつかは興ざめということになる気がします。だから、ブランデッド・エンターテイメントは、特別な存在であることが存立の条件みたいなものだし、興ざめ閾値はかなり低いのではというのが私の見立てです。あっ、それと誤解しないでほしいのは、私はブランデッド・エンターテイメントは駄目って言っているわけではないですよ。そういう誤読はかんべんね。
 それと、エントリの最後の部分はちょっと余計かもね。かなりの誤読もあるし。まあ、自分への戒めとしてもあるけど、自意識を制御しないで文章を読んでしまうと、そうなることは多いです。私を含めた広告代理店マンは、そんな小さな気持で日々仕事はしていないですよ。それに必要悪だとも思っていないですし。社会に対してやましい思いもないです。それは、あたなだってそうでしょ。あと、比較広告は欧米を中心とした世界では、有名無名を含めて今も当たり前にあります。訴訟も多いけどね。
 まあ、これに懲りずにまたトラバを送ってくださいませ。これからもよろしくです。ではでは。

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2008年8月11日 (月)

なぜ理屈っぽい広告は嫌われてしまうのか。

 長年、外資系広告会社で仕事をしていると、外資系広告会社や外資系広告主が陥りがちな罠もよく見えてきます。外資系(とそれに親和性を持つ日系企業)は、概ねデータ、調査、戦略が好き。要するに理屈っぽいんですね。いい言葉にすれば、論理的とも言えますが、その論理的思考にはひとつのパターンがあって、今回は、新幹線移動中につき、時間がたっぷりあるので、そんな理屈っぽい広告が陥りやすい思考パターンについて「論理的」にねちねちと考えてみたいと思います。

■それは文学少年の初恋における思考パターンと同じ

 子どものときから恋愛小説をよく読んでいて、頭の中では恋愛のいろはをすべて理解している少年がいるとします。その少年が、生まれてはじめてひとりの女性を好きになりました。彼は、考えます。どうしたらうまくいくのか。自分のいいところをアピールしようとします。僕は読書が大好きで、ピアノが上手とか。彼は、自分が他の男性とどのように違って、その女性にふさわしい男性であるかをアピールしていきます。

 ちょっとお近づきになれて、デートをしたりします。でも、毎日のことなので、その女性がご機嫌斜めのときもあります。他の男性に目移りすることだってあるかもしれません。そんなとき、彼は、これまで読んできた世界の恋愛小説の知識を総動員して、あの手この手を使って、自分にとって不都合な彼女の行動や思考を封じていこうとします。

 で、どうなるか。その女性は、少年をふるでしょう。当たり前ですよね。うざいですもの。でも、これ、データ大好き、調査大好き外資系の陥りがちな負けパターンと同じです。要は、すべての行動原理が「説得」なんです。目的を「説得」に置く限り、デートのおしゃべりはすべて「説明」になります。原宿でお手てつないで「説明」なんて、いやですものね。少年の名誉のために言っておきますが、少年が魅力がないのではないんです。その魅力の出し方が、下手くそだっただけなんです。

■うざいからふる。そんな行動を「知的嫌悪」と言います。

 消費者が持っている必殺技。それは、「無視」です。論理的には正しくても、それが「説得」というかたちをとっている限り、やっぱり人間はあまり人から説得なんかされたくない生き物ですから、そんな広告は無視ということになるのですね。日本で比較広告が根付かないのは、いろいろな要因があるかとは思いますが、ひとつは、そんな「説得」の極致である比較という方法論を「品がない」と感じてしまうからだと思います。

 比較広告の是非についてはまた別の機会にしますが、消費者は、説得を聞いたうえで、知的にはその製品の優位性を理解したけれど、その優位性があるという結論とその結論が導き出された方法そのものを「嫌悪」し、受け入れないという行動をとることがあります。それを「知的嫌悪」と呼んでいます。

 この知的嫌悪、かつてはよく言われていたのですが、Googleを調べるとあまり出てこないですね。私がこの言葉を知ったのも、15年くらい前なので、今はあまり流行らないのかもしれません。洗剤のマーケティングまわりで、CMでデモンストレーションを展開していた「全温度チアー」という製品が、なぜ製品優位性がありながら日本で根付かなかったのか、というトピックでしきりに語られていました。

 この「全温度チアー」という製品のCMは、マジシャンがカクテルシェーカーに氷とインクのついたハンカチを入れてシェイクしてきれいになるというデモをやっていました。それなりに楽しいつくりでしたが、好感度は低かったんです。その低さを心理学的に定義したのが、この「知的嫌悪」だったように覚えています。

■ウェブマーケティング時代の「知的嫌悪」

 行動ターゲティングとか、リスティングとか、生活者の消費行動や嗜好をセグメントして情報が届けられるようになってきました。広告を出す側にとっては、都合のよい世の中になってきたとも言えますが、消費者にとってみれば、これは、自分の趣味や嗜好からの自由な行動により、より「説得」の雨嵐を受ける世の中になってきたとも言えると思います。

 それに、説得型広告だけでなく、広告というシステム自体が見破られている時代でもあり、一頃のブランデッド・エンターテイメント手法(様々なコンテンツの中に広告を折り込む手法)など、広告が効かない世の中を前提として、巧妙な手法が開発されてきています。

 いま、この行動ターゲティングやブランデッド・エンターテイメントがわりと無邪気に語られていることが多いですが、この方向で進むと、きっと消費者の「知的嫌悪」を呼び込んでしまうだろうなと感じています。ホリスティックソリューションやクロスメディア戦略なんかでも、消費者の日常行動にそって、広告が待ち構えるという仕組みですし、これまで表現手法だったものが、3次元的にメディアにも援用されただけとも言えます。

 そんなこんなで、私、ちょっとそういう最新の広告手法に食傷気味なんです。オールドタイプと言えばそれまでですが、どちらかと言えば、こんな時代でも愛され受け入れられる広告というかマーケティング活動というのは何だろうな、ということに関心が移ってきています。できれば長い間、ずっとずっと愛される広告というのを作りたいな、と思っています。愛されるために、ホリスティックに、あえて手を出さないメディアを考えるとか。それはなかなか難しいけれど、愛される、みたいなこと、今の時代、すごく大切なことになってきているのではないかなと思うのですが、どうでしょう。

あとがき

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2008年8月10日 (日)

ブランドって何だろう(3)

 ブランドで最も大切なのは、ブランドが信じる固有の価値を、持続的、継続敵にコミュニケーションしていくことです。これは、実務では非常に難しいことでもあります。企業も、そして私たち広告会社も変えたがる生き物だからです。少し売り上げが下がったりすると、今まで言ってことが間違いではないかと思うのが人情だし、経営的な環境が変えないことを許さないかもしれません。

 こう変えるべきだ、という提案は容易ですが、変えるべきでないという提案は勇気がいるものです。また、変えてはいけないと頑になることは、信念の硬直化を生み出してしまいます。これは、人間でも同じですね。陳腐化するし、硬直化した思考は、現実との距離を大きくしてしまいます。

■変えてはいけないものをどこに置くか

 だからこそ、変えてはいけないものが何であるのかを認識することは重要なのだと思います。私の場合、変えてはいけないことを明文化します。例えば「ちいさなことをコツコツ積み重ねることはいいことだ」と信じる、というふうに。これを絶対なものにします。このステートメントは、明確な違いを表明できて、かつ、時代の変化では価値が変動しない普遍性を持ち合わせることが重要な気がします。

 広告表現においては、明確な差別性が最も重要と言われますが、このブランドの核は、ある普遍性が求められます。そして、この絶対変えてはいけないステートメント以外は、柔軟に変えてしまっていいと考えます。もちろん、変えることが第一義になってはいけないとは思いますが、例えば、デザインフォーマットや色なんかは、陳腐化を感じれば、変えてもいいと考えるのです。

 これには異論があるでしょう。ビジュアルの継続性もブランディングの重要な要素であることも事実です。しかし、そのために、ブランドが完全に陳腐化するよりは動いていくほうがよいような気が私はしています。人になぞらえるなら、髪型や服装は変えてもいいんじゃないか、という考え方です。わかりやすく言えば、大切なものが変わらなければ、髪型や服なんて小さなことではないか、そんなふうに思うのです。

■広告は人である、というふうになればそれが理想

 私は、ここ最近、商品広告があって、企業広告があって、ブランド広告がある、というふうに分けて考えることをしないようになりました。例えば、テレビCM。テレビを見る人にとって、企業側の役割の区別は知ったこっちゃないからです。どれも等価の15秒。テレビCMのブランドCMではかっこいいことを言って、売りの現場に近いSPやネットでは売りに徹する、そんな考え方はあまり意味がないように思うようになりました。

 いままでは、ブランド広告では、広告で人を表現すべきであると考えがちでした。でも、これは逆なのではないでしょうか。消費者にとっては、ブランドが人を表現するためにあるのが広告という器という見え方はしていないはずです。広告がブランドであり、ブランドが人であるとすれば、つまり、広告は人なのです。

 レスポンスを求める広告。実際の商売に直接寄与する広告。昔は、ハードセルと言われました。ハードセルばかりやるとブランド感が損なわれるから、定期的にブランド広告を打つ。そんな定石は、今の時代、あまり意味がないかな、と思うんです。広告が税金対策だった時代はそれでもよかったんでしょうが。

 こんな時代に、大切なのは、現実に機能する広告です。この場合、レスポンスを求める広告です。であるならば、レスポンスを求めるという行為自体が、そのブランド、つまり、その人を表現するようにしなければならないように感じるのですね。セールストーク。そこは、きれいごとを言うシチュエーションよりもより人間性を表すものです。この現実に寄与する広告こそ、本当はブランディングの主戦場とも言えると思うのです。

■ブランド感を損なうから電話番号を小さくレイアウト、の駄目さ

 もう、こういう考え方、クリエイティブからなくなったらいいのに、と思うんですね。電話番号を大きく入れることは、ブランドを損なう行為ではありません。逆に電話番号を小さくすることで、気軽さ、敷居の低さというブランド感を損なうことだってあります。

 例えば、小さな文字で電話番号を入れる行為は、目の悪い方やお年寄りに配慮しないというメタメッセージを投げかけてしまうのです。それが問題にならないブランドの場合は、特に小さくてもいいとは思いますが、誰にでも気軽に、というブランドがあったとして、その小さな電話番号ひとつで、そのブランドの信念が嘘になってしまうのです。

 あらゆるコミュニケーションがブランドの総体であるならば、ブランド広告だけがブランドをつくっているのではないのならば、そうしたひとつひとつのコミュニケーションに等価に考えるべきです。ハードセル広告が必要であるならば、ハードセルという行為そのものが、その人を表現するようにつくらなければいけないということです。そして、それは可能です。

■尊敬と憧憬のブランディングの終わり

 私は、人々がブランドに尊敬と憧憬を持って接する時代は、そろそろ終わるのではないかと考えています。尊敬と憧憬でものが売れた時代が確かにありました。高度成長期です。憧れの生活。夢の商品をようやく手に入れる幸せ。けれども、それはもうノスタルジーですよね。

 海外高級ブランドのブランディング手法の劣化コピーではものが売れなくなってきているのは、マス広告の終焉以前に、こうした時代の変化があるはずです。いま、マス広告の終焉と言われるものの大半は、表現の問題なのではないかというのが私の思いであり、このブログの広告関連エントリに貫かれているものなのだろうと、なんとなく書いてて思います。

 なんかまとまりがなくなってしまいましたが、お気軽個人メディアゆえ、なにとぞご了承を。北京オリンピックのテレビ観戦で忙しいときに、こんな空気を読めないエントリを読んでいただいたみなさま、ありがとうございます。谷亮子選手、負けてしまいましたね。でも、負けてもしっかり話す谷さんは、いいなと思いました。ああいう態度、ブランディングの見本だと思いました。ではでは。


ブランドって何だろう()(

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2008年8月 9日 (土)

ブランドって何だろう(2)

 ブランドという言葉は、牛の焼印を語源に持ち、商品あるいは企業を識別するロゴマークを意味していき、それが拡張されて、商品あるいは企業を差別化するコミュニケーション総体を表すようになりました。そして、その差別性=超過収益力の極限として、シャネルやヴィトンのような海外高級ブランドの世界があります。つまり、そのブランドである、ということで、普通のバッグの何百倍という価格で売れるということです。

■ブランディングを人に置き換えて考えてみる

 ここから、ひとつのねじれが起こります。海外有名ブランド的なブランドづくりの手法の絶対化です。でも、この商品あるいは企業を人に置き換えてみると、それが間違いであることがわかります。誰もがセレブのようなブランディング手法をとればいいのか。そうではありませんね。例えば私がセレブのような服装をし、言動も厳しく律していったとしても、逆に私というブランドを損なうだけです。信用を損なってしまいます。あるいは、ルネッサーンス!みたいなことになりますよね。まあ、それはそれで面白いからありかな、とは思いますが。

 私という人間のブランディングを考えた場合、別の方法をとることになるでしょう。それは、セレブのようなブランディングとはまったく別の手法だと思います。餃子の王将が好きで、駅そばをかっこむ私が、華麗なる世界のグルメや、繊細かつ優美な日本料理を語り出しても、「ああ、あいつも変わったよな。昔はそんなやつじゃなかったのにな。けっ。」と思われるのが関の山です。

■アサヒ「スーパードライ」のブランディング

 この話は、もしかすると広告業界に限定されるかもしれません。アサヒ「スーパードライ」というビールがありますよね。昔、村上龍とかが出て来て、なんかのプロジェクトを成功させて、みんなで乾杯、グビーッ、みたいな爽快なCMと、生産と物流の速度を速めて新鮮さを維持しているという企業広告的なCMを交互に流し続けました。

 あの「スーパードライ」のCMは、広告業界ではさんざんな言われ方でした。あんなCMだけは作りたくないとか、ブランドなんか考えずにいいたいことを言いっぱなしだとか。グラフィック広告も、水滴のついたビール缶がどアップで、太いゴシックで大きく「キレ味、爽快。Asahi SUPER DYR 品質のアサヒビールです。」みたいな感じで、駄目だよ、あんな広告、とほとんどの人が言っていたんです。

 でもね、大衆はこれを支持しました。今まで不動のナンバーワンだったキリンラガーを抜いてトップになりました。もちろん味の問題もあったでしょう。しかし、広告の貢献も無視できません。あの頃、広告業界のクリエーターが言っていた論に従うならば、それを支持した大衆は民度が低いのか。そうではありません。

 アサヒ「スーパードライ」にはブランドがあったからだと思います。スーパードライには信じるものがあるんですね。それは、「がむしゃらに努力して勝ち取る成功は尊い」という考え方です。世間のハイセンスな人たちがそれをダサいと言おうと、絶対に信じるという強度がありました。それに、決してブレない。同じことを時間をかけて何度も何度も繰り返し言う。あのストレートな企業広告的なCMも、そんな信念に貫かれています。

 私は、アサヒ「スーパードライ」の一連のコミュニケーションを高く評価しない人のブランド論を信じません。なぜなら、あれこそがブランディングなのですから。ブランドとは何か。それは、ある信念を持ち、決してブレずに、何度も何度も繰り返し言うことです。そして、それを持続、継続していく力です。それ以外の要素は、ブランディングの個別の戦術にすぎないと私は思っています。

■持続可能性から見るブランディング

 私は、ブランディング設計において最も重要なのは、初期段階のコンセプト設計における持続可能性の計算だと思っています。これから長期にわたって言い続けていくことができるだけの強度がそのコンセプトにあるかを考えることが最も重要です。時代はどんどん変わります。そんな予測不可能な時代の流れにも影響を受けずに言っていく自信が持てるかどうかが、ブランディングの鍵だと考えます。

 この持続可能性という軸で見たとき、日本にはブランディングのいいお手本がたくさんあります。桃屋、リポビタン、文明堂、オロナミン。それに、ヨドバシカメラだって、小林製薬だって、コーワだって、立派なブランドのお手本です。変えないことの信頼がブランドをつくり、製品の支持をつくっています。

 最近、ソニーが不調です。ソニーが不調なのは、製品の問題もあるでしょうが、広告戦略の問題も多大だったと思います。ソニーというブランドは、一頃まで、「私たちはプロダクト総体の品質で勝負します」というブランドであったはずです。一方の松下は「お客様ニーズを汲み取った機能をお届けします」というブランド。それが、DVDビデオの「スゴ録」という機能を売りにした松下的手法で大成功をおさめてしまいました。それは、ソニーらしくなかったんですね。ソニーの迷いは、そこからなのだと思います。

追記(8月10日):

PS3に関連して、『「映画とゲームを融合させた全く新しい映像を提示したい」と言い続けることですね』というコメントをはてなブックマーク(参照)でいただきましたが、それは違います。

ブランドとは何かという話のいい例になるかと思いますので続けますが、PS(プレイステーション)というブランドは、いままでずっと「つねに最先端かつ本流のゲームを提供しつづける(プラットフォーム)」というブランドであったはずで、映画とゲームの融合とか、新しい映像というのは、最先端かつ本流のゲームを形成する一要素にすぎません。

なので、PS3発表時に記者発表でああいうことを言ったというところにもソニーの不調の要因のひとつになっているというのが私の理解。本論で「言い続ける」と言っているものは、ブランドのコアの部分。また、仮にPS3を映画とゲームを融合させた新しい映像をつくるものとしてブランディングしたいとするならば、それはブランドのコアの設計が間違っているということでしょう。もし、ソニーがPS3誕生のときに製品のポジショニングを変えたかったのだとしたら、その変え方は、あまりにもPSというブランドを逸脱しすぎていたのだと思います。

私は、その後の、PSの広告のラグライン「これが、ゲームだ。」がブランディング的に正しいと思っています。あくまで、映像の処理能力は、本物のゲームをつくるためのスペックとしてメッセージすべきでした。あの発言は、その後のPS3の広告戦略を見ると、あの時点では、不用意でPSというブランドを阻害するものだったと思います。


■変えないこと。変わり続けること。

 変えないことは簡単ではありません。常に変えることの誘惑があります。変えたことでの成功体験が、ますます変えないことを難しくしてしまいます。変えることは、担当者の名声や、業界にとっては広告需要を生み出します。実際に、コンペの多い日本の広告環境でブランドをつくるのは難しいのも現実です。

 そして、変わらないために最も重要なことは、たえず変化をしていくことでもあります。逆説的ですが、たえず動いているということが、根本を変えないための必要条件なのです。自己同一性は、時間の流れの中での自分の連続性の中で確認されていくからです。

ブランドって何だろう(3)
に続きます
ブランドって何だろう(1)

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ブランドって何だろう(1)

 ブランドという言葉はマジックワード化しています。とくに制作現場では。「そんなふざけたことじゃなくて、ブランドをきちんと語らなければいけないよ。」とか、「もっとブランドが感じられる高級感のある表現じゃないと駄目でしょ。」とか。

 ブランドがある、ない、というのは、人それぞれで、ある人はシャネルやヴィトンなどの海外高級ブランド的な世界をブランドと呼んだり、ある人はかつての西武やサントリーみたいに人の心を語るあったかい世界をブランドと呼んだり。間違っちゃいない。でも、それはブランドのひとつとしか言えない。そんなふうに思います。


■そもそもブランドの語源は

 よく知られた話ではあるけれど、Wikipediaのこの文章がわかりやすいので、引用してみます。

ブランドとは「焼印をつけること」を意味する brander という古ノルド語から派生したものであるといわれている。古くから放牧している家畜に自らの所有物であることを示すために自製の焼印を押した。現在でも brand という言葉には、商品や家畜に押す「焼印」という意味がある。これから派生して「識別するためのしるし」という意味を持つようになった。「真新しい」という意味の英語 brand-new も「焼印を押したばかりの」という形容が原義である。

ブランド – Wikipedia

 ほかの商品と区別するための印ってことですね。狭義にはシンボルマークってことになりますが、マーケティング的には、当然、ブランドマークと同等の機能をする諸表現の総体のことであり、目に見える代表的なもので言えば、テレビCMや新聞広告などのマス広告からPR、SP、現場での社員の立ち振る舞いなど様々なものが含まれます。

 たとえば「巨人軍は常に紳士たれ」というのも巨人という球団を他の球団と区別するためのブランドを区別するひとつの要素にはなっています。ああいう行動指針が好きな人、嫌いな人を含めて、巨人ってこんな球団だよね、ということを示す重要な事柄ではありますよね。

 この「紳士たれ」という行動指針ですが、たとえば阪神が明日から「阪神は常に紳士たれ」と言い出したら、この言葉が阪神のブランドになるのかというと、否です。そもそも、阪神は紳士ではなかったし、その言葉を今後守れそうにない感じがプンプンします(私はファンですけど)。つまりブランドは、継続性、持続性が大切になってきます。ブランド、一日にしてならず、なんですね。

■なぜブランドが一元的な語られ方をするようになったのか

 それは、きっと、この他商品と区別することで生み出される超過収益力(他社より高く売ることができるブランドの力)を基軸に、その軸の中の頂点に位置するのがシャネルやヴィトンのような海外高級ブランドであるからなんでしょうね。確かに、この超過収益力で考えると、海外ブランドのようなハイファッションなトップモデルの世界というのは、ひとつの頂点であり、そういった方法論の援用である、普通の人々の心情を語るあったか世界という方法も、その方法論の下方延長線上にあるのは確か。でも、これ、方法論の話で、ブランドをつくり方のひとつでしかありません。

 このエントリを書いている動機を明らかにしておいたほうがいいのかもしれませんね。私はCMや平面広告をつくる制作者ですが、ことあるごとに、そんなブランド論にうんざりなんですね。例えば、気軽な商品があるとします。みんなに使ってほしい、敷居の低い商品。こちらとしては、おじいさんにも、おばあさんにも、子どもたちにも、あかちゃんにも好まれる広告をつくろうとしますよね。そんなブランドの設計をします。

 というときに、必ず出てくるんですよね。ブランド感がない、という人。ああまたか、と思います。で聞いてみると、必ず外人の男性や女性が出て来て、なんか素敵なことが起こるというようなことをイメージしていて、海外有名ブランドの方法論の劣化コピーなわけです。で、もう一人、気持ちが描けていない派が登場。その気持ちっていうのは、愛が、恋が、ひとのやさしさが、どうたらこうたら。

■マジックワード化し本質から乖離するブランドの定義

 その人たちが持論の根拠にしているものが、ブランドだったりするんですよね。ブランドって、本当にマジックワードだと思います。都合良く持論の補強ができるワード。でも、ぜんぶ違うんです。間違っています。それに、ここには決定的な駄目なところがあって、いわゆる普通に生活をしている、本来、この商品をいちばん手にしてほしい人を啓蒙しようとする指向性があって、そんなダサイものではなく、カッコいい、あるいは繊細な感情に気付いてくださいっていう、制作者のおごりみたいなものがあることです。

 で、こんどはこちらの論を擁護してくれる人が登場。これ、値段の安い売らんかなの商品でしょ、ここにブランドいらないんじゃない、だから、こういう広告でいいんじゃないの。失礼な。擁護してくれる気持ちだけ受け取っておきますけどね。

 でもね、ちゃんとブランドはありますってば。じいさん、ばあさん、子どもたち。あなたがたは、そんな人たちに興味ないかもしれませんが、でも、そういうメディアの先鋭的な指標にならない人たちが重要で、その人たちが主流だからこそ(というか、これからはもっともっと主流になります)、日本ではタレント広告が主流(参考:タレント広告はなぜなくならないのかになるんです。タレント広告否定派でブランド広告肯定派の人も、その理由をきちんと考えたほうがいいと思います。そんなこと言っているから、今の時代に、広告は取り残されてしまうんです。浮世離れしてしまうんです。


ブランドって何だろう(2)に続きます

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2008年8月 6日 (水)

広告会社の再編で何が変わって何が変わらなかったのか

 広告会社の再編をアサツーDK(旭通信社、第一企画の2社の合併。現ADK)が発足した平成11年(1999年)頃からだとすれば、あれから10年弱経ったことになります。それは、私が広告代理店に在籍してきた歴史にも重なりますので、少々の資料とともに、広告会社の再編によって、何が変わって何が変わらなかったのかを、ごく私的に考察してみたいと思います。

■外資の再参入とともにあった日本の広告会社の再編

 その合併のあと、様々な再編が行われました。I&SがBBDOと合併し、I&SBBDOになり、日産のハウスエージェンシーであった日放は、TBWA/JAPAN(注:/は逆向き)になり、現在はTBWA/HAKUHODO(注:/は逆向き)になっています。また、東急エージェンシーの海外広告部門であった東急エージェンシーインターナショナルは、ソニー子会社になりインタービジョンへ、そして、電通資本が入ってフロンテッジと社名を変えました。そして、大阪の老舗広告代理店である萬年社は、今はもうありません。

 これは、余談ですが、大阪では、その昔、「電通、大広、萬年」と言われていました。要するに、ナンバースリーだったんですね。萬年社は日本の広告代理店では、廣告社に次いで古く、そんな老舗広告代理店の倒産は、関西出身の広告人にとってはかなりのインパクトがありました。時代が変わったことを思い知らされた出来事だったのです。

 広告会社の再編は、欧米の広告会社が日本市場に注目した時期と重なっています。これまで外資系は、日系の広告会社と提携を結び日本で活動することが多かったようです。マッキャンエリクソン博報堂(かなり前に博報堂と提携を解消)、電通ヤング・アンド・ルビカム、レオ・バーネット協同、グレイ大広、サーチ&サーチ・ベイツ・読広。そんな中、オグルビー&メイザーが日本再参入し、レオ・バーネットは電通とDMB&Bと三社でビーコン・コミュニケーションズを設立。TBWAやBBDOといったメガエージェンシーも日本の中堅広告会社を買収するかたちで日本に進出してきました。

 その頃は、グローバルスタンダードの旗印のもと、欧米資本の広告会社が積極的に参入してきた時期でした。バブルが崩壊し、日本の国力が低下していって、参入がしやすくなったのも要因のひとつであったようです。これまでのようにウィンウィンの関係での提携は難しくなり、業界界隈でも、これからは外資の時代だ、なんて言われていました。私も、外資系にいる人間として、ある主の高揚感は確実にあったように思います。

 しかしながら、日本の経済の低迷が長期化し、そんな外資系の思惑通りには進まなかったのが今ではないかと思っています。フィー主体の収益構造を持ち、媒体の扱いを持たない外資は経営が苦しくなり、新規参入してきた外資も撤退が相次ぎました。また、そんな外資の進出に刺激されたのかどうかはわかりませんが、欧米の広告会社グループに対抗するかたちで日系広告会社の経営統合も相次ぎ、この外資系広告代理店ブームが、結果として、媒体提案力での競争という日本市場独特の特徴を強化してしまったように思えます。

■売り上げランキングから見るこの10年

 たまたま「比較日本の会社98 広告会社」という本があって、98年の広告代理店売り上げランキングが掲載されていましたので、07年と比較してみたいと思います。私と同じ世代の広告人なら、ああ、時代変わったよなあ、って思いますよ。なんだか、この表を見ながら、あの頃、ああだったよねえ、なんて昔話を肴にして、ホッピー3杯いけそうですね。

 

1998年

  1. 電通
  2. 博報堂
  3. 東急エージェンシー
  4. 大広
  5. 旭通信社
  6. 読売広告社
  7. 第一企画
  8. I&S
  9. ジェイアール東日本企画
10. マッキャンエリクソン
11. 朝日広告社
12. 創芸
13. オリコム
14. 日本経済社
15. J.W.トンプソン・ジャパン
16. 中央宣興
17. 電通ヤング・アンド・ルビカム
18. 日放
19. 協同広告
20. 日本経済広告社


2007年

  1. 電通
  2. 博報堂
  3. ADK
  4. 大広
  5. 東急エージェンシー
  6. ジェイアール東日本企画
  7. 読売広告社
  8. デルフィス
  9. 朝日広告社
10. 日本経済社
11. 日本経済広告社
12. フロンテッジ
13. オリコム
14. 電通ヤング・アンド・ルビカム
15. JR西日本コミュニケーションズ
16. 電通九州
17. JIC
18. 中央宣興
19. NTT東京電話帳
20. 新通

 

 ちなみに、07年には売り上げ非公開である外資系広告会社は含まれていませんので、純粋な比較にはならないことをお断りしておきます。

 単純に思ったことは、広告会社ブランドの多様性は減ったなあ、ということですね。旭通信社も第一企画もI&Sも今はありませんし。それと、そうそう、この頃は「電通、博報堂、東急」だったんですよね。その前は長い間「電通、博報堂、大広」の時代がありました。大阪は今も「電通、博報堂、大広」ですね。

 あの頃、上位10社くらいなら、名物クリエイティブディレクターがかならず1人はいて、ISならあの人、一企はあの人、マッキャンはあの人、YRはあの人、という感じで、互いに競い合っていた感じだったのですが、今や上位2社の戦いみたいな感じになっていますね。コマフォトを見ても、ブレーンを見ても、電通、電通、電通、博報堂、電通みたいな。ちょっと愚痴っぽくなってきましたので、個人的な感想はこのへんにします。

 ここで注目は、ジェイアール東日本企画、JR西日本コミュニケーションズのJR系広告会社と、トヨタ系のデルフィスの躍進です。また、98年当時23位だった東急エージェンシー・インターナショナルが母体のフロンテッッジが12位に。これは、東急インターがインタービジョンに変わるときの低迷を知っている者としては、大躍進と言えるのでしょうね。

 特徴的なのは、「系」が強いということなのでしょうね。JRなどの媒体系は、媒体提案力、広告主企業系は仕事の安定的供給というところでしょうか。07年には、I&SBBDOなどの外資は含まれていませんが、現実は大躍進というわけではありません。かつて話していた、「電通、博報堂、BBDO」という冗談は、どうやら冗談で終わりそうです。それに、クリエイティブで目立ったところが大躍進というニュースも皆無ですしね。それに、中堅は当たり前のように苦しいですが、上位も苦しいのが現状ですね。

■なんかつらくなってきました

 とここまで書いてきて、なんかお気軽個人メディアであるブログだから言っちゃいますが、どんどんつまらなくなってきました。というか、書くのがつらくなってきました。じゃあ書くなよってな話でもありますけどね。

 ここまでは基礎資料と、当時の業界内の印象だけですので、もう少し資料にあたって、もう少し深く考えると何かが見えてくるかもしれませんが。それに、ネット系も視野に入れないといけないんだろうなと思いますが、ネット系もそれほど好調ではないし、いまのところ群雄割拠で、規模も小さいですし。

 つらくなるのは、私が広告人だからだろうな、と思います。経済評論家とか、株のアナリストなら、もう少し客観的で冴えた考察ができそうですが、やっぱり広告人だから、なんか複雑。まあ、儲けりゃいいてもんでもないけれど、儲けないと明日はないからなあ。

 結論、過渡期。なんてことにはさすがにいかないので、とりあえず今日はここまでにしておきます。そのうち、何か希望みたいなものが思いつくかもしれません。思いつくといいなあ。きっと思いつくよね。さ、仕事仕事。続きは、少し先になるかもしれません。すびばせんねえ。(これ、最近よく聴いている桂枝雀さんの決めセリフ。エントリと関係ないですが、枝雀さん、いいですよ。一度聴いてみてくださいませ。おすすめです。ではでは。)

関連:広告代理店って何を代理しているのだろう(1)(2)(3)

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2008年7月29日 (火)

タレント広告はなぜなくならないのか(2)

 外資系広告会社のクリエイターというポジションは、日本の広告業界という内部と、欧米を中心とする世界の広告業界という外部をつなぐ境界のような位置にあります。内部であって外部でもあり、内部のようで内部でもなく、外部であって外部でもない場所からは、もしかすると内部や外部からは見えない風景が見えるのかもしれないという思いから「広告のしくみ」というお題目で、いろいろな論考を書いています。

 ココログのカテゴリーは、クリックすると、カテゴリー内のすべてのエントリが新しい日付順に表示されるので、少々うっとうしいですが、このエントリに興味を持った方は、「広告のしくみ」カテゴリーの他のエントリもどうぞ。あと、今までに書いた広告関連のエントリは「広告の話」カテゴリーにもあります。但し、これも上記と同じで少しうっとうしいかもです。このへん、なんとかならないかなあ。やっぱり、手動で目次をつくる以外に手はないのでしょうかね。

 少々、前説が長くなってしまいましたが、このエントリは「タレント広告はなぜなくならないのか(1)」の続きです。では、本題、始めます。

*     *     *     *

■曲がり角に来た日本のタレント広告

 情報のフラット化により、タレントの相対的価値が下がってきて、以前のような効果を生むことが難しくなってきたタレント広告ですが、その情報のフラット化というのは、情報の中身だけでなく、その器であるメディアにも言えることです。

 ウェブの進展とともに、テレビ、新聞、雑誌などのマスだけではなく、ウェブを含めたクロスメディアプロモーションが当たり前になってきました。そこで、当初問題になったのは、ウェブでのタレント契約のあり方です。ウェブのメディアとしての価値向上とともに、現在はそのへんはゆるくなってきましたが、ウェブはNGということが多かったのです。放映範囲が世界になるからです。

 また、デジタル故の複製という問題もあります。テレビなどコントロールがある程度可能なメディアでは、1クール(3ヶ月)、2クール、年契という放映期間を完全に守ることができますが、ウェブでは難しくなります。これは、楽曲の使用にも言えることです。

 さらには新聞折り込みや店頭チラシ、店頭SP、ウェブバナーがNGというケースも多く、以前なら、それはしょうがないと言えたのですが、ホリスティック(全体的)なコミュニケーションを実現しようと思うと、タレントが大きなネックになってくることが多くなってきているのです。

 一消費者として、ホリスティックなコミュニケーションがなされているかどうかを思い出してみると、多くは自社開発のキャラクターだったりするのではないでしょうか。Suicaのペンギンとか。私も、現在、とある企業で自社開発キャラクターを使って、2年ほど広告を展開していますが、非常に使い勝手がよく、コントロールもできていい感じです。こういう新しいメディア環境においては、タレント広告というのは、その瞬間風速の速さの魅力はあるものの、やはり少し古くなってきているかもしれないな、と感じています。

■欧米にタレント広告はあるのか

 このへん、気になるところですよね。結論としては微妙です。U2起用のiPodのキャンペーンもタレント広告と言えなくもないし(エミネムバージョンは、以前アップルがCMで無断使用したことによる裁判の和解を期に起用。いろいろ話題づくりがうまいですね)、特にアメリカでは超大物アーチスト起用はよくあることです。MCハマーのペプシもありました。比較広告でしたね。コークを飲むとうまく歌えないけど、ペプシを飲むとうまく歌えるというやつ。その前は、マイケルジャクソンが起用されていました(もしかすると日本限定かも)。

 この手の手法は、欧米では「セレブリティの起用」と呼ばれます。もちろん、タレントというのは和製英語ですから、同じ意味なのかもしれませんが、若干ニュアンスが異なります。セレブリティは、その筋の権威も含みます。ペットフードのペディグリーが展開していた「トップブリーダーも推奨」のトップブリーダーもセレブリティなんですね。

 これは、ある欧米での在住経験のあるクリエイターからの伝聞ですが、日本のような、有名な芸能人が一般人を演じるタイプのCMや、とりあえず、何の根拠もなく製品を芸能人が推奨するといったCMはないということです。欧米で普段流れているCMを見た訳ではありませんので、何とも言えないですが、海外出張などで見たテレビでは、あまりタレント広告的なものは見ませんでした。どなたかご存知の方は、コメントをお寄せくださいませ。

 という感じなので断言できませんが、タレント広告は、わりと日本に特徴的な広告文化なのかもしれません。欧米の広告会社のクリエイティブディレクターは、世界各国のクリエイティブディレクターを経験して出世していくのが多いのですが、タイやオーストラリアなど、様々な国では、優秀なクリエイティブディレクターは成功をおさめるのに、なぜか成功できない国が2つあるそうです。それは、日本と韓国。日本と韓国に配属されることは、出世コースから外れたことを意味するそうです。それだけ成功が難しいということなんですね。今まで成功したのは、ワイデン+ケネディのジョン・ジェイさんだけなのではないでしょうか。

■タレント広告はブランドをつくれないの嘘

 タレント広告はブランドをつくれない。これは、よく言われることですね。広告業界では、周期的に出てくる話題です。ブログにおける実名匿名の話題みたいな感じですね。でも、これは半分本当で、半分は嘘だと思うのです。

 確かに、クリエイターとしては、タレントの力を借りずに、自力のアイデアだけで広告をつくる醍醐味はあります。それがうまくいったときの大きな価値も、タレント広告の比ではありません。しかし、タレント広告だって、強いブランドをつくることができます。その証拠。

 森光子さんのタケヤみそ。所ジョージさんの年末ジャンボ。アニメですが、三木のり平さんの桃屋。これは、三木のり平さんがお亡くなりになった後も、息子さんの三木のり一さんに引き継がれ、今も続く名物CMです。

 私の個人的な思いですが、なんとなく、日本のブランド論って、このようなの日本の愛すべきブランドを無視しすぎなように思います。このあたりの話をカットしたブランド論は、私は信じる気になれません。みんなが、ヴィトンのようなブランドを目指しているわけではなく、なにか、日本の場合、カッコいい=ブランドというように誤解されているように思えてなりません。

 話をブランドに戻しますが、要するに、ブランドをつくることができるか否かは、タレント広告か否かではなく、同じことを続けられるかどうか、だと思うのですね。タレント広告がブランドをつくれないとするのは、タレント広告の持ち味である瞬間風速を求める限り、タレントを変え続けなければならないという宿命のためです。

■沢口靖子「タンスにゴン」の衝撃

 私は、このCMで日本のタレント広告の進化が終わったと思っています。それくらい私にとっては衝撃でした。覚えてらっしゃる人も多いかと思いますが、沢口さんが出演するタンスにゴンの最後のCM。沢口さんが、美容室で整髪されながら、友達か誰かに電話で話しているシチュエーション。

タンスにゴンのCM契約終わってん。ふふ。いつまでもアホなことばっかりやってられへんやろ。あたし、今年でもう26やで。誰が26やねん!

 同業のはしくれとして、激しく嫉妬します。面白すぎです。でもね、これが面白いのは、ある意味で、日本のタレントCMという文化が終わっている証拠でもあるんですね。つまり、もはやパロディなんです。タレントだって、一市民として、CMを切られるとショックであり、それを笑ってやりすごし乗り越えていく力強い庶民でもあるんです。

 こんなことは、私が力説するまでもなく当たり前。そんな世の中です。身も蓋もないフラットな世界。かつてタレント広告が最も得意とした、「尊敬と憧憬のマーケティング」は、もはや力を持たないのかもしれません。これまでの優れた広告表現は、すでにパロディとして消費されています。それを広告表現の歴史の連続性という文脈で評価するのは、業界人と業界を目指す若い人だけ。

 今という時代は、それを歓迎するにしても、それを悲観するにしても、そんな時代であることは間違いがないのではないかと私は思っています。

   

タレント広告はなぜなくならないのか(1)

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2008年7月27日 (日)

タレント広告はなぜなくならないのか(1)

 と言われ続けて早や20年。いまだテレビではタレント広告が大盛況です。日本の広告をくさすとき、いつも「タレント広告ばっかりじゃないか」なんて言われます。ブランドやアイデアを標榜する広告人は、いつも「だって、タレント広告にはアイデアないじゃない。それじゃブランドなんかつくれないよね。」と言います。

 まあ、こんなタイトルをつけるくらいだから、私自身もあまりタレント広告のこと、よくは思っていない証拠でもあるんですが(タレント広告は、いろいろめんどくさいしね)、でも、タレント広告はアイデアがなくて、ブランドがつくれないというのは本当なのか。今回は、そのことについて考えてみたいと思います。

*     *     *     *

■タレント広告にはアイデアがない?

 私の印象では、タレント広告は無意味ではなくて、むしろ有効。そんな気がします。なにせ、てっとり早い。テレビCMを中心とするマスプロモーションでは特に効きます。認知の速度が格段に違います。しかも、実務ではうまくできているな、と思うのは、タレントの契約料とその効果は、かなりの精度で比例しているような気がします。ほんと、よくできています。

 なぜタレント広告に効果があるのかと言えば、それはタレントを起用するという行為が、広告のアイデアになるからです。タレント広告にアイデアがないのではなく、タレント広告は、タレントを起用するという行為自体が、すでに広告に必要なアイデアを代理する点において、非常にてっとり早く、有効である、と言えるのではないでしょうか。

 これは広告の実務を考えればわかることです。例えば、アイデア至上主義のアカウントに限って、いざタレントの撮影になれば、普段なら見向きもしないCRの撮影現場に出向き、最後までうれしそうにいるものですし、何よりも、広告制作のいち過程に過ぎない撮影が、大イベントになってしまうんですよね。ノンタレのロケやスタジオ撮影ではそうはいきません。

■タレント広告とPR

 PR原稿も断然つくりやすくなります。タレント起用はニュースになります。プレスリリースが書きやすく、うまく行けば記者発表会でタレントに出演してもらって、ワイドショーに取り上げてもらえるかもしれません。取り上げてもらえると、認知にかかる費用を節約することができます。初速がだんぜん違ってきます。

 タレント広告のリスクとして知られるのは、タレントの不祥事などの不測の事態ですが、その効果と比較すれば、それほどのリスクとは言えないのではないでしょうか。このくらいの確率だと、まさか自分の会社が当事者にはならないだろう、なんて思うものだし、メリットとリスクの天秤にかけにくいと思います。今回はちょっと気合いが入っているので、ぜひタレントを起用して広告をしよう、という感じが一般的ではないでしょうか。

 タレントを起用しないで、そんなPR効果をつくろうと思うと、なかなか難しいのが現状です。それこそ、タレント起用という単純なインパクトを凌駕する、強く優れたアイデアが必要になります。クリエイティブはアイデアが勝負だろ、とは言うものの、例えば、Smap起用に勝るアイデアなんて、なかなかつくれるものではないのも事実です。

■タレント広告の効果のしくみ

 タレント広告の効果。それは、いきなりみんなが知っているタレントを広告に持ってこれることにあります。みんなが知っている、ということは、広告では重要です。みんなが顔と名前を知っているからこそ、タレントという存在は、自身を紹介するというプロセスを省略できるのです。

 私は、アドバタイジングとインフォメーションは違うと考えていますが、つまり、存在の認知、世界に存在を認めさせるというアドバタイジング的な行為を省略することで、タレント広告ではインフォメーション的な行為だけで、アドバタイジングたり得るのです。これが、タレント広告のいちばんの魔力だと思います。

 そのしくみを使ったうまい広告がかつてありました。NTTドコモの「広末涼子、ポケベルはじめる。」です。当時無名の広末さんを、あたかもみんなが知っている(これから知ることを予定されている)かのような前提で広告をつくったんですね。あれはうまいと思いました。

 タレントとモデルは、広告での演出のあり方が少し違ってきます。タレントは、そのもの自体がアイデアですが、モデルはアイデアの一要素です。私がよくやるのは、まだ知名度のないモデルさんを、タレントのように演出するやり方。あたかも、みんなが知っているという前提で演出することで、タレント広告と同様の効果のベクトルを持った広告をつくることができます。

■でもタレント広告の効果は下がってきている

 しかしながら、昨今ではタレント広告の効果は下がってきているのも事実です。それは、メディアの多様化と、このブログもそうなんですが、個人メディアの発達による、情報のフラット化です。みんなが知っているというタレント広告のおいしい部分はまだまだあるものの、そのみんなが知っているという内実が変化しているような気がします。

 タレントさんもブログを書く時代です。そんななか、タレントさんの相対的なありがたさも低下してきているのも事実でしょう。そんな中、資生堂のTSUBAKIのマルチタレント戦略は、莫大な費用を投下していることも話題になりましたが、これは、ある意味で、今の時代、かつての化粧品タレント広告黄金時代の効果は、こんな物量戦でなければ成立しない証拠でもあるのでしょう。究極のタレント広告と言えそうです。

 また、ユニクロは、タレントと普通の人を等価に見せていくために、定期的にタレントを起用していくという、逆説的なタレント起用をしています。これは、かなり前からある路線ではありますが、先見性があるというか、今の広告のあり方を、最前線で語っているように思います。

 

タレント広告はなぜなくならないのか(2)」に続きます

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2008年7月26日 (土)

欧米の広告会社はクリエイティブ手法で差別化する

 これは、私が外資系広告代理店で現在働いている理由でもあるし、それはまた、私にとっては、外資系広告代理店で働く息苦しさでもあって、微妙なところなのですが、今回の「広告のしくみ」はそんな欧米の広告代理店のクリエイティブ手法について書いてみたいと思います。

 欧米の広告会社というのは、たいがいは、ある優秀なクリエイターが設立したものだったり、あるいは、成長のトリガーになるのが、その広告会社に所属するクリエイターの作品がヒットしたことだったりするので、そのクリエイターの方法論が会社の方法論になったりします。欧米の広告会社には、例えばDDBウェイだったり、広告作品に会社のカラーがあったりします。

 現在だったら、ワイデン+ケネディの広告は、ある種のワイデンっぽさってありますよね。それに比べて、日本の場合、電通っぽさとか、博報堂っぽさというのは、希薄ですよね。日本の場合は、クリエイターによりけりです。

 欧米の広告会社は、マーケティング理論の発展とともに歩んできた部分があります。王道のマーケティング理論に対して、その発展系として違う理論が主張され、様々に分岐し、今の広告会社の多様性が生まれてきました。まずは、王道の理論から。

■Benefit

 このベネフィット理論が広告の王道ではないでしょうか。とりわけ、トイレタリー製品に適応されてきました。要するに、消費者が製品で利益を受ける部分を広告はメッセージするべきだ、という考え方です。このベネフィットにも大きくは2つあります。

Functional Benefit 機能的ベネフィット。簡単に言えば、油汚れがきれいに落ちる洗剤を例にとると、「この洗剤は、油汚れがきれいに落ちます。」みたいなことです。

Emotional Benefit 心的ベネフィット。同じ例、油汚れがきれいに落ちる洗剤で言えば、「家族がうれしい。」みたいなこと。でも、この家族がうれしいという心的ベネフィットは凡庸すぎるので、まったく駄目で、「いつまでも新品気分。」くらいまでいかないと、ベネフィットとしての差別化はできません。

 とまあ、こういう分類をするのですが、その製品の数ある特徴の中で、どの特徴を広告で表現するベネフィットにするかが勝負のしどころで、それを抽出するために、様々な手法が生まれました。

 代表的には、製品特徴や市場環境、消費者インサイトみたいな項目を整理して、最終的にひとつの短い文章であるBenefit Statementに定着させるやり方や、製品特徴を基点にして、機能的なものから心的なものへと梯子を掛けていくラダリングという手法などがあります。ラダリングの場合は、そこで出てきた様々なベネフィットから、市場環境や調査結果を参照しながら、今はどの部分を言えばいいかを判断していきます。

■USP=Unique Saling Proposition

 これは、Functional Benefitから派生して出てきた広告理論で、簡単に言えば、市場の中で唯一無二の特徴を見つけ出し、それを繰り返し言っていけば、その製品は市場で勝てる、というような理論です。Propositionは命題という意味。このUSPの成功事例で有名なのは、チョコレートのM&M’sの「お口で溶けて、手で溶けない。」というものがあります。制作は、アメリカのベイツ。

 このUSPという理論は、当然、Functional Benefitが多いのですが、Emotional BenefitでもユニークであればUPSになり得ます。ただ、心的なベネフィットでそこまで唯一無二のベネフィットはなかなかないので、どうしてもFunctionalになりがちです。

■SMP=Single Minded Proposition

 この理論は、旧来の王道であるBenefit理論から大きく逸脱しているのが特徴です。イギリスのサーチ&サーチが提唱しました。簡単に言えば、市場の中で何を言えば、その商品やブランドが勝てるのかを考え、ただそれだけを根拠にして、Proposition=命題を考え出す方法論です。

 これは有名な事例があります。英国の労働党政権下での保守党のキャンペーン。労働党政権の中、英国経済は低迷していました。街には失業者が溢れ、国民生活はどん底でした。今までのBenefit理論では、保守党の優れた点をメッセージするのが定石でしたが、サーチ&サーチが提案したのはそうではありませんでした。

Labors doesn’t working. 労働者が働いていない。

 このLaborsは、労働者を意味するとともに、労働党も意味します。つまり、労働党は働いていない、と読めるのです。ただ、これをメッセージすればいい、そう提案したのです。非常に面白く、革新的な理論ですが、ここまで来ると、ストラテジーなのか、エクスキューションなのか分からなくなる部分が少し難点かもしれません。

■Reaction

 これは、ベネフィットとかプロポジションではなく、広告というものは、要するに製品に望ましいイメージをつけることではないか、という考えから生まれた広告理論です。J,W,トンプソンが提唱していました。

 日本市場で大成功したものに、ハーゲンダッツがあります。このリアクションは、たしか「男と女の間にハーゲンダッツ」だったと思います。男と女の恋愛シーンにはいつもハーゲンダッツがある、というイメージを徹底的に浸透させていく方法です。ハリウッド女優に、Luxシャンプー&コンディショナーもそうですね。

■Disruption

 破壊を意味します。つまり、既成概念の破壊です。TBWAが提唱しています。TBWAがappleとともに歩んできたことも影響があるのかもしれません。このDisruptionという概念は、一世風靡しました。ここ最近のカンヌ広告賞の入賞作を見ても、どこかにDisruptionがあります。

 このDisruptionは、じつは日本の広告のお家芸でもありました。「不思議、大好き。」も「モーレツから、ビューティフルへ。」もそうですね。ただ、日本の場合は、この方法論が絶対である、という感じが非常に苦手なのかもしれません。ケースバイケース、場合によりけりな感じがありますね。私も、そういう感じです。

■Behavior

 ビヘイビア。いわゆる、行動、振る舞い。数年前の世界のクリエイティブはほぼこれ。今までとは違う行動様式を提案し、ターゲットの気分をすくいとる方法。バドワイザーの「Whassup!」と様々な人が叫ぶCMは、まさにBehaviorでつくられています。ちょっとDisruptionと似ているところがありますが、これはより人間の具体的な行動様式で表現する方法です。DISELなんかもこの方法論。

 ある時期、みんなビヘイビア、ビヘイビア言ってる時期がありましたが、たぶんBBDOを震源地として、多くのホットショップが同時多発で言っていたような気がします。ただ、このビヘイビア、文化環境がものを言う方法論なので、バドワイザーの「Whassup!」なんかは、どう面白いのか日本人にはわからないところがあるのかもしれません。

*     *     *     *

 と言う感じで、簡単に欧米の広告会社の広告理論を見てきましたが、最近はあまり新しい広告理論は出てこなくなりました。そのかわり、出て来たのがメディアを含めた手法というか戦術の話ですね。ウェブの影響と、テレビの衰退が原因です。

 私の私見ですが、わりあい欧米、とりわけ第2次大戦の戦勝国は、独自の理論の優位性を言いがちで、日本やドイツ、イタリアは、広告でも、そういうひとつの理論を信奉することに慎重なような気がします。アメリカでも、ワイデン+ケネディやBBHといった新興の広告会社は、あまり独自の広告理論を言わなくなってきています。

 イタリアでは、広告会社ではないけれど、ベネトンなんかは、過激で独自性のある広告をつくってきましたが、彼らはその広告を方法論化しませんでした。あの一連の広告に対して反発したのが、独自の方法論を持つ欧米の広告会社のトップの方々だったりしますし、そのベネトンの広告を支持したのは、イタリアや日本でした。

 興味のある方は、ベネトンのクリエイティブ・ディレクターであるトスカーニの著書「広告は私たちに微笑みかける死体」を読んでみてください。ちょっと古いですが、今だに考えさせられる刺激的な本です。なんか、アフェリくさい終わり方になっちゃいましたが、このエントリを熱心に読む人は、きっとこの本を持っている知人が周りにいると思いますので、借りてでも読むといいよ。面白いから。ではでは。

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2008年7月22日 (火)

外資系広告代理店の真実

 とまあ大げさなタイトルを付けましたが、外資系の本体、つまり、海の向こうの広告代理店の動向などを自分の知る限りで書いてみたいと思います。なんか最近、こういう自分の小さな知識みたいなことをエントリにまとめるのがマイブーム。って、言葉づかいがちと古いですね。この、ちと、と言うのもマイブーム。って、しつこいですね。すみません。本題、始めます。

 欧米の広告代理店の動向、こっちに入ってくるのはいい話ばっかり。クリエイティブエージェンシーの台頭だとか、あっちはアイデアで戦っているだとか。まあ、それも真実ではあります。ほんと、かつてのDDBなんかも、Saatch & Saatchなんかも、立ち上げて、あっという間にメガエージェンシー。最近では、Wieden+Kennedyだとか、Fallonだとか、BBHだとか。

 アイデア一発で大きなクライアントをつかんで、一世風靡。でも、時代の寵児になって、メガエージェンシーになって、何年かたって、組織の肥大化のつけが回って来て、ちょっと低迷。もうあそこは駄目だよなんて言われながらも、復活して、巨大代理店として安定することもあれば、どこかに吸収されて、その持ち株会社内で存続するか、名前がなくなってしまう代理店もあったり。そんなふうに、欧米の広告業界はめまぐるしく動いています。日本よりずっと自由な感じではあるとは言えますね。

 まあ、そんな広告代理店の表向きの動向は、AdvertigngAgeなんかを見ていればわかることだし、あまりこのブログに期待されていることでもないと思いますので、違うこと。欧米の広告代理店といえば、仕事がスマートで、アイデアで勝負してて、みたいなイメージありませんか。それはそうではあるんですが、これは二極化しているかも。

 私は、ときどき、本社では別の海外の代理店がやっている外資系企業の仕事を請け負うことがあるのですが、ブランドマニュアルがすごく分厚くて、広告のつくり方やデザインの仕方まで厳しく規定されていたりします。最近は、この傾向がますます強まっています。

 これ、どういう意味かといえば、クライアントを規則で縛り付けて、流出を防ぐということなんですよね。それと、新規獲得時のフィーをあげる目的も。マニュアル一式含む、みたいな。それはもう、マニュアルを読み込むと、新しい写真やら、そんな自由は一切認めない、というふうになってて、でも、そういう企業に限って、日本では本国の代理店を使いたがらないし、そのブランド管理もずぶずぶだし、日本市場用のフォトストックも持っていなかったりします。

 要は、マインドでブランドを共有化できないから、マニュアルで縛るんですね。それで安心するんです。代理店にとっては、このマニュアルがある限り、我が社に仕事が落ちるみたいなね。でも、そんなマニュアルひとつがつなぐ関係は長続きするはずもなく、すぐに担当広告代理店を決めるピッチ(競合プレ)が行われます。で、新しく決まった代理店は、そのマニュアル全否定。ブランド大刷新。多くの外資系企業が、日本でなかなかブランドをつくれないのは、そんなことにも起因しています。

 逆に、ブランドが強力な外資系企業は、ひとつの代理店と長く付き合っているところが多いですね。こういうパートナー関係が築ける形になれば、欧米の広告代理店はすごくいい仕事します。

 クリエイティブで生き残るタイプの代理店は、創業者の影響が薄くなる頃がひとつの契機で、そこから、たいがいは創業者の方法論の理論化がはじまり、そのメソッドが複雑化し、間に独自のブランド評価方法やリサーチが入ってきて、その理論の神格化みたいなものが始まって、現実に不都合が出ようと、絶対に我々が正しい、みたいなことになっていきます。そのプロセスは、まるでかつてのマルクス主義みたいです。

 それうちの会社じゃん、っていう外資系広告代理店に勤めている人も多いのではないでしょうか。私は、外資系広告代理店10年超え選手ですが、ここ最近は、そういう縛りがきつくなってきました。昔は、もっと緩かったような気がします。って、まだ10年ちょっとしか経ってないけど。海の向こうの広告代理店も、今、曲がり角に来ているのでしょうね。エージェンシー・オブ・ザ・イヤーが「消費者」という時代ですからね。

 日本の外資系広告代理店のビジネスモデルは、ひと昔前は、ワールドワイドブランドの日本展開によって食いぶちを稼いで、経営を安定的にして、その余力で国内クライアントに外資ならではの尖った広告を提供する、というものでした。私も、そんな尖ったクリエイティブに憧れて、この道に入った口ですが、それはどんどん崩れつつあります。

 アイデアというお題目も、なんだか息苦しく機能し始めているし、なんかね、アイデアがひとつの型を持ち始めているんですよね。世界を目にすれば、日本でマス広告という型が飽きられてきているように、アーカイブ(ドイツの広告専門誌。ここに掲載されることが世界のクリエーターの誇りみたいな雑誌です)に載っているような広告も、世界の消費者にあきられはじめているような気がします。その動きは、きっと世界同時な気がします。最近、海の向こうのクリエーターと話す機会がめっきり減りましたから、ほんとのところは何とも言えませんが。

 ま、曲がり角ってことで、なんとか次の展開を考えないとな、と思う今日この頃です。もう、マス広告とかウェブ広告とか、そういう狭い感じじゃなくて、コミュニケーションという大きなところで考えないといけないんだろうな、という気はしています。

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2008年7月20日 (日)

広告電通賞と鬼十則

 欧米の広告マンがよくする質問に、「広告電通賞というのは何のためにあるの?」というものがあります。電通という広告を生業とする一企業が制定する広告の賞でありながら、電通だけでなく、博報堂、ADKをはじめとする広告代理店が制作した広告作品が審査対象で、業界では日本で最も権威のある広告賞のひとつとして認識されている。そんな状況を、不思議に思うようです。社内賞みたいな感じなのに、なぜ、というわけですね。

 広告電通賞は、電通の第4代社長である吉田秀雄が、1947年の社長就任の年に制定した広告賞です。吉田は、広告業界で「広告の鬼」と言われる人で、現在の電通のみならず、日本の広告業界の近代化に多大な貢献をしました。彼が作った「鬼十則」はよく知られていますよね。

鬼十則
一、仕事は自ら「創る」べきで与えられるべきではない
二、仕事とは先手先手と、能動的に「働きかけ」ていくことで、受け身でやるものではない
三、「大きな仕事」と取り組め、小さな仕事は己を小さくする
四、「難しい仕事」を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある
五、一度取り組んだら「放すな」目的完遂までは殺されても放すな
六、周囲を「引きずり回せ」引きずるのと、引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきが生ずる
七、常に「計画」をして、長期に亘る計画を持っておれば、忍耐と工夫と、そして正しい努力と希望が生まれる
八、自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚味すらもない
九、頭は常に「フル回転」八方に気を配って、一分のスキもあってはならない。サービスとは、そのようなものである
十、「摩擦を怖れるな」、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈未練的な人間となる

 なんか、もし吉田が今生きていて、ブログをやっていて、こういうことを書いたとしたら、はてブがたくさん付きそうな感じですね。今風に言えば、ライフハックというのでしょうか。「仕事の鬼となるための10の方法」みたいな。読んでいただければわかるかと思いますが、これはいわゆる一般の経済人にも通じる普遍的な言葉です。つまり、これはいわゆる広告人に限定した言葉ではないとも言えます。吉田は、営業畑出身でした。

 これは、欧米の広告代理店の経営人が残した名言と比較するとかなり違いがはっきりします。吉田が電通社長に就任した1948年に、アメリカで広告代理店オグルビー社(現オグルビー&メイザー)を設立したデビッド・オグルビーの有名な言葉を引用してみます。「ある広告人の告白」の著者でもあります。

感覚的な主張は具体的な数字で置き換えなければならない。常識的な決まり文句より事実のほうが重要であり、中身のない文句は魅力的な言葉と差し替えなければならない。

製品を宣伝のヒーローにしよう。

デビッド・オグルビー[広告人]名著『ある広告人の告白』を遺した偉大な広告人 – ダイアモンドオンラインより

 オグルビーはコピーライター出身。畑の違いからくる差はありますが、同時期に生きた広告人の言葉として、日本では経済人としての普遍的な心構えであり、アメリカでは広告技術の方法論であることから、二つの広告業界の環境の違いを明確に物語っていると言えるでしょう。

 私は、オグルビーをはじめとする独自性の強い欧米の広告理論に魅かれる部分はありますが、この違いは、広告業界が何を目指していたかの違いであるように思います。欧米は、それぞれの広告代理店の差別化で、日本の場合は、広告の差別化、つまり、社会における広告の地位向上であったのです。

 吉田が尽力したものに、広告取引の近代化があります。また、それとともに特筆すべき実績は、誕生したばかりの民放の発展に主導的役割を果たしたこと。テレビの視聴率調査装置を完成させたのも吉田秀雄だということです。

 広告電通賞は、そんな広告の地位向上のために自らがつくった広告賞だったようです。優れた広告は、賞に値する文化なのだ、と経済界に認識してもらうための仕掛けだった、とも言えるかもしれません。とまあ、こんな感じで欧米の広告マンに説明してみるものの、「でも、それならなぜ、彼は賞に電通という名前を関したのだ?」と質問します。

 それは、まあ、文化に寄与するといっても、ビジネスでもあるし、みたいな本音の部分の表現でもあるだろうし、もうひとつ重要なファクターとしては、きっと広告制作が誰のものだったかという文化的背景があったのではないかな(参照:「広告代理店って、何の代理をしているのだろう。(2)」)、と思います。それに、敗戦からの復興という部分も。このへんの部分が複雑だから、「ニッポンノコウコクギョウカイワカリマセン」と言われてしまうところなんでしょうね。

 このエントリを書くにあたって、新しいことに気付きました。アメリカの広告業界も、ずっと15%のコミッションでやってきて、それを固定フィーにしたのはオグルビーなんですよね。1960年とのこと。明朗会計、予算削減になるということで、大変好意を持って迎えられたそうです。この固定フィー制で、オグルビー社は大躍進します。

 この固定というところが肝。つまりは、理屈としてはコストセーブなんですね。それは今も昔も、やっぱり変わらないようです。簡単な話、コストが下がるフィー制導入はよろこばれるけれど、コストが上がるフィー制導入は嫌がられる。まあ、当たり前の話ではありますけど。いろいろこのあたりの話は、難しいですね。

 なんか、日本でなぜフィー制が挫折するかの原因らしきもののひとつがわかってきたような気もしますが、ちょっと今は怖くて言えません。今言えることは、根深い文化的背景を考えずに、そのままグローバルスタンダードだと言って、欧米の商習慣をそのまま導入するのはこの先も厳しいのだろうな、ということですね。それに、欧米の商習慣もこの数年で変化しそうな気もします。その変化を起こすきっかけになるのは、きっとGoogleとかのウェブ広告関係なのでしょう。なんとなく。

 追記:もしあなたが欧米の広告マンに「広告電通賞って何?」と聞かれたら、「カンヌ広告賞に、サーチ&サーチ ディレクターズショーケースというのがあるよね。それと同じだよ。」と答えると納得してもらえます。

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2008年7月19日 (土)

広告代理店って、何を代理しているのだろう。(3)

 新聞に始まり、ラジオ、テレビといったメディアに積極的にかかわってきた日本の広告代理店は、その論理的帰結として、一業種一社制は採用しづらく、むしろ、特定業種に強いという構造を持ち、媒体コミッションを主たる収入源としてきました。いわゆる手数料ビジネスというビジネスモデルです。

 一業種一社制を取らないことで起こる問題は、これまでは、思たる制作の舞台が企業宣伝部、制作会社、そして、フリークリエイターであったことで、あまり顕在化することはありませんでした。またここで重要なのは、それぞれの制作者は、企業と直接やりとりをしていました。つまり、戦略、企画、制作のプロセスが、広告代理店内部で重複しにくかったことを意味します。

 これが、おおよそ1980年代までの現状だったのではないかと考えます。また、日本経済の成長がその問題を隠していたのかもしれません。今までの展開については、()と()をご参照ください。

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広告代理店って、何を代理しているのだろう。(3)

■ 広告代理店クリエイティブの時代

 1990年代の終わり頃、私は、とある広告制作会社のコピーライターとして、とある百貨店の新聞広告を担当していました。営業担当は大手代理店。大手代理店の営業担当と、制作会社の制作(CD/AD/C)というチーム編成です。業界で営直(営業直)と呼ばれる形態です。

 当時、その百貨店では、媒体ごとに担当代理店を振り分けていました。朝日、読売、毎日、産経は代理店A、日経新聞が代理店B。私は、その代理店Bのチームに所属していました。宣伝部の担当の方とも仲良くしていただいて、深夜、商品撮影の合間の時間におしゃべりをしていたとき、その宣伝部の方が言った言葉が、今も印象に残っています。

 「これからは、代理店の時代だからね。広告は、代理店のものになるから、本気で広告をやりたかったら、あなたも代理店に行ったほうがいいよ。」

 例外は数多くあるものの、世の中の形勢としては、その人の言ったとおりになりました。世の中は、広告代理店が媒体、戦略、企画、表現のすべてを担うようになりました。フルサービスというやつです。私は、とある外資系広告代理店に所属するようになりました。そんな時代の変化の中で、外資系を中心に「ブランド」が叫ばれるようになり、ここではじめて媒体依存で一業種一社をとれない日本の広告代理店の問題が顕在化していきます。

■ 日本の広告代理店が代理してきたもの

 こうして見てくると、一業種一社、メディアの分離、コミッション制からフィー制への移行という、グローバルスタンダードを旗印にしたお題目が、それほど単純なものではないことに気付きます。

 日本の広告代理店が代理してきたもの。それは、良質な広告媒体づくりを含めた、いわば広告環境の提供だったのではないでしょうか。それは、味方を変えれば、日本に特有の優れたシステムであったような気がします。私は、外資系広告代理店なので、どちらかと言えばグローバルスタンダードの側に位置するのですが。

 外資系広告代理店が、日本市場で苦戦しているのも、こうした根深い理由がある気がします。また、私の職業である制作について言えば、現在、代理店の時代から、欧米のクリエイティブエージェンシー、あるいはブティックの潮流に呼応するように、クリエイティブエージェンシー時代が来たかに見えました。

 しかし、欧米と決定的に違うのは、大手代理店から独立したクリエイティブエージェンシーの主たる仕入れ先が、古巣の大手代理店であることです。これは、欧米ではそうではありません。むしろ、大手代理店からの受注は独立の失敗を意味します。けれどもそれは、日本の後進性というよりも、むしろ、日本の広告代理店が代理する広告の意味の違いに起因しているように思います。もちろん、その村感というか、閉鎖性は困ったもんだとは思うけれど。

 欧米型のブランドプランニングとメディアバイイングの分離だとか、一業種一社だとか、そういう欧米のスタイルが、これまで先進的だと言われてきました。しかし、その欧米の広告業界のスタイルが、一気にオールドスタイルに見えてくる場所がひとつあります。

 それは、Googleを広告代理店、あるいは広告会社と見る場所です。それは、今、私たちが立っている場所のような気がします。その場所から見えるのは、媒体開発こそが広告代理の広告そのものであるという考え方です。それは、日本の広告代理店が先取りしてやってきたことなのではないか。そんなふうに私には思えるのです。

■Googleのビジネスモデルと日本の広告代理店

 Googleの広告事業を見ていると、あっ、そうかと気付かされることがあります。それは、構造を取り出してみると、電通をはじめとする日本の広告代理店がやってきたことと同じなのではないか、ということです。大きな代理店だけの話ではなく、アニメコンテンツをつくってきた、音楽コンテンツをつくってきた、そんな大小様々な広告代理店の行動の構造と同じではないか、ということです。

 もちろん、媒体と広告システムまで自社で開発してきて、独占的に使い、卸してたりしているGoogleと、媒体社と共同で、もしくはその業務の一部を代行する形で開発してきた日本の広告代理店では、違いがあります。けれども、Googleという企業が考える広告業の方法論と、日本の広告代理店がやってきた方法論は似ているような気がするのです。

■欧米は先進的?日本は後進的?

 欧米=先進的、日本=後進的。こういう単純なものの見方は、そろそろやめたほうがいいのかもしれません。その見方では、先進的になれない理由を、理想はそうだけど現実はそうじゃないし、とする二枚舌的な解決にしかならない気がします。そうではなく、先進、後進という先入観を排してものごとを見ていかなければ、なにか大切なものを見落としてしまう気がします。これは自分の反省として、そう思います。新しいビジネスモデルは、そこからは見えてこない気がします。

 日本でも、博報堂DYグループをはじめとして、メディアとブランドマネジメントを分離する動きが出て来ています。しかしながら、きっと、それはメディアエッジのような、媒体がすでにインフラとしてあることを前提とし、そのメディアプランニングフィー(調査、シミュレーション、戦略構築)で稼ぐという形態で進化することはないような気がします。もちろん、それはそれとして進化するでしょうが、きっと、その目指すものの本筋は、媒体、つまり環境の開発なのでしょう。そうなれば、それが自社媒体でなければ、マージンか、コミッション以外にないような気がします。

 この先、欧米の広告業界を含めて、広告業界はどうなっていくのか。ここ5年くらいは、いろいろと混乱と葛藤があるだろうと思います。また、私自身、その環境の中で生きる職業人として、どういう行動を取るのだろうか。それを、私は、マス広告の終焉とウェブの台頭、グローバルスタンダードという軸だけでなく、いろいろな角度から考えていきたいと思います。
 

広告代理店って、何を代理しているのだろう。(1)
広告代理店って、何を代理しているのだろう。(2)

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広告代理店って、何を代理しているのだろう。(2)

 前回のエントリ(参照)では、日本の広告代理店の歴史を参照し、そのルーツから、日本の広告業が媒体と不可分であるという仮説を立てました。例えば、アニメ番組の開発は、広告会社にとっては、子どもが使う玩具やゲーム、文房具などのメーカーに、ターゲットが絞られた良質な広告媒体を提供するという意味があります。

 また、その広告代理店の媒体との関わりは、新聞、テレビ、ラジオだけではなく、新しい広告媒体の開発にも及びます。オリコムは、交通広告に強い広告代理店として知られていますが、1922年(大正11年)に日本で初めて新聞折込広告を事業化した会社なのですね。社名も、折込広告社からオリコミになり、1993年(平成5年)に現在のオリコムに変わります。

 新聞折込広告は、じつはターゲットセグメントにきわめて優れた広告媒体です。しかも、新聞に折り込まれるということで、ある程度の広告の品質保証がなされるので、高級外車などの高額商品の広告にも使われています。(ちなみに、この折込広告の優れたシステムを支えるのが、全国に張り巡らされた新聞販売店による新聞宅配システムです。新聞の危機は、すなわち、新聞折込広告という広告媒体の危機でもあります。これについては別エントリであらためて書きます。)

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広告代理店って、何を代理しているのだろう。(2)

■ 媒体コミッションの本音

 企業の宣伝部や広告代理店で長年働いてきた方はご存知だと思いますが、これまで、広告代理店のコミッションは17.65%とされてきました。えっ、高いな、と思われる方も多いかと思います。業界再編と生き残りのための価格競争で、現在は、このフルコミッションで成り立っているのは稀だと思います。かなり下がってきています。

 よく知られることですが、これまでの広告代理店の商売の日常では、クリエイティブ制作費やマーケティングもサービスとして、このコミッションからまかなわれることも多く、かなり大らかな慣習で業務が行われていました。以前、「お金の話をします。」というエントリに書きましたが、このグロスでサービスという慣習だけが残り、コミッションが下がったことで、今、広告制作業界が疲弊しつつあります。

 このコミッションは、どういうことを意味してきたのでしょうか。少なくとも、当の広告代理店にとって、どのような本音を持って、正当化されてきたのでしょうか。仮説ですが、それは、媒体の開発費に広告代理店自身がかかわり投資してきた、ということなのではないか。そんなふうに思えます。企画費、制作費よりも、この媒体コミッションこそが、広告代理店のサービスの本質であるとの自負心がなければ、やはりこのコミッション17.65%は説明がつかないような気がします。

■ なぜ日本では一業種一社制が成り立ちにくいのか

 アニメ番組を例にとります。とある玩具メーカーの広告のために、テレビ局とともに広告代理店が良質のアニメ番組をプロデュースします。すると、そこには、本業とは直接関係ないアニメ番組制作のノウハウが蓄積されます。そのノウハウによって、その広告代理店は、別のアニメ番組を制作することができます。また、別のテレビ局からの引き合いがあるかもしれません。そうしてできた複数の良質な広告媒体を、ひとつの玩具メーカーだけに提供しつづけることは可能でしょうか。

 答えは、限りなくいいえでしょう。つまり、媒体開発を広告代理店の本質的な機能として定義する限り、一業種一社制は限りなく不可能に近いのです。欧米では、一業種一社制が原則的に守られています。それは、欧米の広告代理店が媒体との距離を置き、企画、戦略に重きを置いているからです。

 日本の場合、広告代理店の生業を媒体開発をしてきたという自負を根拠とする媒体コミッションとする限り、一業種一社というよりも、一業種に絞って、そこで多くの企業を請け負うほうがビジネスモデルとして理にかなっています。

 これは、制作という視点では、かなり矛盾をはらんできます。多くの広告代理店では、同じ社屋の中で、制作チームのフロアを別にしたり、個別に厳しい秘密保持契約をするなりの対応をしています。けれども、歴史的に見れば、あまり問題が発生しなかったのも事実です。

■広告は誰がつくってきたのか

 なぜ問題があまり発生しなかったのか。それは、広告制作の主な舞台が、かつては広告代理店ではなかったからです。かつて、広告制作の舞台は、まず企業にありました。企業の宣伝部ですね。高島屋、三越、松下電器、サントリー、資生堂、花王。数えきれないほどの名門宣伝部が存在し、そこには制作部がきちんとあり、デザイナーはポスターカラーを練り、コピーライターがエンピツで原稿用紙にコピーを書いていました。

 そして、しばらくして、ライトパブリシティ、日本デザインセンターなどの広告制作会社の時代がきます。かつてのマディソンスクエアの名門広告代理店を取材し、日本に欧米の最新広告理論を伝えてきた西尾忠久さん(参照)の経歴が、それを物語っています。西尾さんは、三洋電機宣伝部、日本デザインセンターを経て1964年アド・エンジニアーズ・オブ・トーキョーを設立。まさに、宣伝部から、制作会社の流れです。

 つまり、欧米の広告代理店の興隆に注目し、日本に伝えたのは、広告代理店マンではなく、宣伝部から名門制作会社に移り、自らが制作会社を設立したクリエイターだったのです。やがて、フリーランスの時代を迎えます。そこからは、コピーライターブームもあって、多くのスタークリエイターを生み出しました。

 大手代理店のある先輩クリエイターが、こんな話をしていました。例えば、自動車の広告がある。メインの新聞広告やテレビCMはフリーの先生がつくる。代理店の制作である私は、そんな中、どうしても急ぎで作らないといけない仕事や、おつきあい媒体の小さな仕事で、腕を競ったものだ、と。ほんの30年ほど前の話です。
 

広告代理店って、何を代理しているのだろう。(3)へ続きます。
広告代理店って、何を代理しているのだろう。(1)

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2008年7月18日 (金)

広告代理店って、何を代理しているのだろう。(1)

 上部構造は下部構造が決定するといいます。私は、広告制作を行う広告制作者ですが、その私が持たされている気分は、きっと私というひとりの制作者固有のものだけではなく、たぶんに、広告業界や社会、経済の状況なんかも影響しているのだろうと思います。

 広告はこうあるべき、とか、広告を制作者の手に、とか、そういう思いを表明するのはたやすいです。例えば、私は、現在、媒体コミッション制からフィー制への移行がすすめばいいな、と考えています。これは、一介の社員の立場ではどうすることもできないものの、多くの企業や広告人が、フィー制というシステムを目指しては挫折し、いまだ広く普及されないのにはきちんとした理由があるかもしれません。

 よく言われる代表的な理由として、日本の広告業界は保守的で進化してないからね、といわれるものがあります。しかし、それは本当なのでしょうか。欧米が進歩的で、日本が後進的。いまだにそうした考え方にあるのは、すこしおかしいのではないでしょうか。フィー制を阻んでいる理由は、もしかすると別の角度では評価できることなのかもしれない。それを見極めるために、時間を見て、さまざまな切り口で根本の部分からじっくりと考えてみようかな、と思いました。

 こうした意図で書くエントリを「広告のしくみ」というカテゴリーに保存しておこうと思います。今回は「広告代理店って、何を代理しているのだろう。」と題して、日本の広告代理店というシステムについて考えてみました。もしかすると情報の整理の域を出ないかもしれませんが、時間を見て、こつこつと重ねていきます。よろしくお願いします。

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広告代理店って、何を代理しているのだろう。(1)

■広告代理店の「代理」が意味すること

 最近は広告会社という言い方が一般的になってきましたが、まだまだ広告代理店という言い方は健在です。この言葉は、通常は、媒体の扱いがある広告関連会社のことを広告代理店といい、制作機能をほとんど持たない広告関連会社も、広告代理店と呼ばれることがあります。広告の制作のみを行う広告関連会社は広告制作会社もしくは広告プロダクションと区別して呼ばれます。

 もともとこの言葉は、英語のAdvertising Agencyの日本語訳でもあり、実際に、日本でも東急エージェンシー、京王エージェンシー、読売エージェンシーなどの社名に見ることができます。しかし、欧米では、Agencyという言葉は社名に使われることはほとんどありません。マッキャンエリクソン、BBDO、TBWA、サーチ&サーチ、ヤング&ルビカム、J.W.トンプソン、レオバーネット、オグルビー&メイザー、ワイデン+ケネディ、ファロンなど、創業者の名前が冠されることが一般的です。

 Agencyという言葉は、「代理業、代理店」を意味します。モデル業務をモデルに成り代わるのがモデル・エージェンシーであり、保険業務を保険会社に成り代わるのが保険エージェンシーです。そういう意味では、広告代理店=Advertising Agencyという名称は、文字通り広告業務を代理する会社であると考えられます。しかし、日本において、代理店と制作会社が明確に区別して意識されるのは、その広告というものが、新聞広告、テレビCM、ウェブ広告のコンテンツそのものとして意識されていないことが読み取れると思います。つまり、日本における、この広告代理店という名称が意味する広告とは、媒体のことなんですね。

■日本の広告代理店の成り立ち

 1888年(明治21年)創業で、現存する日本最古の広告代理店である廣告社は、毎日新聞(旧東京横浜毎日新聞)の広告取次業として創業します。電通は、もともとは通信事業を行う電報通信社と広告取次ぎ事業を行う日本広告が始まり。国策によって、通信事業を同盟通信社(現時事通信・共同通信)に譲渡し、広告取次専業となります。博報堂は、教育雑誌の広告取次店博報堂を始まりに、新聞雑誌広告取次業博報堂、内外通信社、内外通信社広告部博報堂へと名称が変わり、現在の博報堂になります。

 つまり、多くの広告代理店は、広告取次、もしくは通信社の広告取次部門として、そのルーツを持ちます。なぜ広告取次を通信社が扱っているかは、はっきりしたことはわかりませんが、ニュースを配信することと同様に、広告というニュースを配信するという、通信社業務の延長として考えられたからなのではないかと思います。その視点で考えると、その取次という業務には、ニュースを取材するという機能と同じように、広告を制作するという機能が含まれていることになります。

 また、媒体社の広告業務部門を担う事業をルーツに持つ広告代理店も多くあります。朝日新聞社のグループ企業である朝日広告社。東急グループであり、東急電鉄の交通広告媒体に強みを持つ、東急エージェンシー。西鉄グループの西鉄エージェンシー。比較的新しい会社では、JR東日本グループのジェイアール東日本企画、JR東海グループのジェイアール東海エージェンシー、JR西日本グループのジェイアール西日本コミュニケーションズ。

 ここで重要なのは、新しくできて、成功を収めている会社は、媒体社系列が多いということです。ネット系広告代理店にも同じことが言えます。成功を収めているネット系広告代理店は、何よりもまず自らが媒体社でもあることが多く、もしくは何かしらの大きな媒体と深い関係があるか、どちらかだと思います。

■媒体と不可分の日本の広告業

 日本の広告業は、その成り立ちから、媒体社との連携において発展してきました。それは、そのシステムは、広告媒体の開発という、本来は媒体社の領域の業務を「代理」してきたという側面があるのかもしれません。

 戦後、様々な広告代理店が淘汰されるなか、現在の地位を決定したのは、ラジオ、テレビへの対応だったということです。それは、ラジオCM、テレビCMという広告コンテンツを制作する体制ということではなく、ラジオ、テレビの番組開発から広告媒体開発まで、ラジオ局、テレビ局とともに広告代理店がかかわるということを意味しています。

 これは、業種が変われば、きわめて当たり前の話ではありますが、ADK、読売広告社は、アニメ制作が成長のトリガーでした。つまり、高付加価値の広告媒体をつくるために、番組制作からかかわる、という部分にこそ、日本の広告代理店の本質的な業務があったのだということもできるかもしれません。
 

広告代理店って、何を代理しているのだろう。(2)へ続きます。

広告代理店って、何を代理しているのだろう。(3)

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