[書評] 『無印ニッポン 20世紀消費社会の終焉』堤清二 三浦展(中公新書)
セゾングループ元会長での堤清二さんと、「アクロス」元編集長、今話題の『下流社会』や『非モテ!』の著者であるマーケター三浦展さんの対談集。
堤清二さんが、小説家・詩人としての名前である辻井喬名義ではなく、ゼゾングループを率いてきた経営者として対談に臨まれているところが、言い過ぎでもなんでもなく、この本の最大の魅力であると言ってもよいと思います。
9月4日に書いたエントリでも触れましたが、兵庫県尼崎市塚口にある「つかしん」という街型ショッピングゾーンについて、ほんの数ページではありますがきちんと率直に触れられていました。「つかしん」は、今はグンゼの経営になっています。私はここ最近は訪れたことがありませんのではっきりしたことはわかりませんが、ブログ検索などで見ると、まあまあ市民に愛されている施設ではあるようです。
私は大阪育ちですので、セゾングループの文化はあまり享受していません。でも小さいながらに確実にあった体験としては、南大阪の郊外にある八尾の西武百貨店の最上階にあった八尾西武ホールでの映画観賞。私の世代の関西の若者は、少しマイナーな映画を上映してくれるホールは、扇町ミュージアムスクエアか八尾西武ホールという感じだったんですね。八尾は大阪中心部からは少し離れていましたが、電車に乗って通っていた記憶があります。大林宣彦さんの自主制作映画の上映や、寺山修司さんの映画を見たのもここ。「廃市」や「書を捨てよ街へ出よう」はここで観ました。
ちょっと余談になりますが、寺山修司さんの映画「書を捨てよ街へ出よう」は、クライマックスシーンに急に画面がホワイトアウトし、主人公の私の独白が延々と流れるシーンがあるんですね。でも、当時の八尾西武ホールはおせじにも防音が良くないんです。言い方は悪いけど、平場に間仕切りがあるだけのホール。隣にはおもちゃ売場があって、おもちゃの音やら子供の笑い声なんかが、シリアスな独白シーンにまじるんです。確か、主人公である私が津軽弁で「俺を忘れないでくれ。俺を忘れないでくれ。俺を忘れないでくれ。」と叫ぶのですが、その台詞に混じって、おもちゃの音と子供の笑い声。それが、妙にリアルで。今も脳裏に焼き付いてます。
関西は、地元資本の百貨店が強い地域で、東京資本の百貨店は当時ほとんどありませんでした。伊勢丹も松屋もありません。もう今はありませんが、名古屋資本の松坂屋が天満橋にあり、三越が北浜にあっただけ。高島屋や大丸、そごう、阪急などが東京に進出している関西資本系百貨店とは対照的でした。そんな中、郊外に八尾西武をつくり、またまた郊外に「つかしん」をつくったセゾングループは、なんか意欲的だな、と思いましたし、その一方でつくる場所が郊外ばかりだったの、それを不思議に思ったところがありました。当時高校生だった私には、セゾンの郊外戦略なんてものはわかりませんでしたし。
この本は、書名が示しているとおり、無印良品の「これでいい」コンセプトをもとに、日本のこれからを探っていくというのもですが、この数ページの「つかしん」の構想とその失敗体験の中に核心があるように思えました。堤さんは、「つかしん」をどう考えたかを率直に短い言葉で語っています。
見えない共同体のようなものを考えていましたね。規模は小さいかもしれませんが、若者たちはいろいろな場所でそういうものを作っています。たとえば、あまり有名ではないシンガーソングライター。そのまわりには、一〇〇人単位の共同体ができている。それは、職場共同体や家族共同体や地域共同体とは似ても似つかないテイストによる共同体です。(134P〜135P)
また、失敗の原因については、こう語っています。
つかしんでは、百貨店の人をトップにしたのが間違いでした。テナントや業者を下に見る。村にとっては全員がテナントだから、対等でなければならない。わたしがそう言うと、わかりました、とは言うんだけれど、実行が伴わなかった。(135P)
パッケージ型ではなくパッサージュ(街路)型の都市計画。具体的に言えば、大崎ではなく五反田的な都市計画。もっと言えば、自然発生的に成長した高円寺や麻布十番、大阪で言えば、京橋や鶴橋のような入り乱れた商店街を持つ、多層構造、重層構造の街づくり。これは、街づくりだけの話ではなく、クロスメディア環境にも、コミュニケーション環境にも援用できる、所謂「場」の話だと私は思っているのですが、そういうパッサージュ型の構想というものが可能なのか、可能であれば、可能にならない理由は何なのか。そういう課題を喚起させてくれる話でした。
この話に関連して広告人として最近思うことは、同じように、エンクロージャー戦略というか、消費者を囲い込み育てていく、のようなやり方はもうそろそろ終わりに来ているのではないか、ということ。それは、旧来型のマーケティングの終わりでもあり、基本であるターゲティングという手法自体がもはやどうしようもなくゴールに向かっているように思えます。行動ターゲティングとか、そういう試みが花盛りな時に言うのは、なんだか時代遅れな感じがしますが、そのターゲティングの発想の根幹にある「見つける・育てる」という考え方自体が、消費の楽しさや自由を奪い、ますます硬直化させてしまっているのではないか、と思います。
これは、ある意味で反ブランド的な考え方になりますが、そういう反ブランド的な「これでいい」というコンセプトを消費者に投げかける無印良品という「ブランド」はやはり気になります。これは本書でも触れられていますが、ユニクロも同じ。大衆の終焉、マスの消滅、とは言われていますが、都市という視点で見れば、そこには、子供、若者、中年、高齢者、すべてを呑み込む、まさに大衆のいる場ではあります。これは、人間が社会を形づくる限り変わることはありません。
であるならば、マスプロダクトというものがこれからも成り立つには、論理的には無印的あるいはユニクロ的な「これでいい」的なコンセプトしか持ち得ないのではないか、とも思えます。現実は、まだそこまでは来ていないけれども。しかしながら、未来のマスプロダクトを思考する無印的なものが「最大公約数」的な発想では作られていないというアイロニーが、何か大衆というものの熱が少しずつさめて来て、平熱へと行き着く未来を示しているように思います。
それは同時に「これがいい」というブランドの本質について、もう一度考え直すことでもあるのだろうと思います。話が循環しますが、そして、この新しい「これがいい」を考えることは、地方あるいは地域を考えることでもあるのだろうな、その土地の風土や文化に根ざした「これでいい」と「これがいい」をコインの裏表として考えるとこだと思います。そう考えると、やはり、最初の疑問に戻るのです。
パッサージュ型の構想というものが可能なのか、可能であれば、可能にならない理由は何なのか。
可能であるという答えがあるかもしれないと思うのと同時に、可能でないという答えもあるだろうな、と思います。もしかすると、パッサージ型への自然成長を阻害しない構想だけが求められる、ということかもしれません。このあたりの最前線では、今どういう考え方があるのだろう。ちょっと知りたくなりました。
対談本でもあるし、答えを探している人にはもの足りないかもしれませんが、人によってそれぞれの気づきがある本かもしれません。おすすめです。ではでは。
■関連エントリ:ユニクロは、日本の人民服である。
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