カテゴリー「書評」の6件の記事

2009年9月 6日 (日)

[書評] 『無印ニッポン 20世紀消費社会の終焉』堤清二 三浦展(中公新書)

Muji  セゾングループ元会長での堤清二さんと、「アクロス」元編集長、今話題の『下流社会』や『非モテ!』の著者であるマーケター三浦展さんの対談集。

 堤清二さんが、小説家・詩人としての名前である辻井喬名義ではなく、ゼゾングループを率いてきた経営者として対談に臨まれているところが、言い過ぎでもなんでもなく、この本の最大の魅力であると言ってもよいと思います。

 9月4日に書いたエントリでも触れましたが、兵庫県尼崎市塚口にある「つかしん」という街型ショッピングゾーンについて、ほんの数ページではありますがきちんと率直に触れられていました。「つかしん」は、今はグンゼの経営になっています。私はここ最近は訪れたことがありませんのではっきりしたことはわかりませんが、ブログ検索などで見ると、まあまあ市民に愛されている施設ではあるようです。

 私は大阪育ちですので、セゾングループの文化はあまり享受していません。でも小さいながらに確実にあった体験としては、南大阪の郊外にある八尾の西武百貨店の最上階にあった八尾西武ホールでの映画観賞。私の世代の関西の若者は、少しマイナーな映画を上映してくれるホールは、扇町ミュージアムスクエアか八尾西武ホールという感じだったんですね。八尾は大阪中心部からは少し離れていましたが、電車に乗って通っていた記憶があります。大林宣彦さんの自主制作映画の上映や、寺山修司さんの映画を見たのもここ。「廃市」や「書を捨てよ街へ出よう」はここで観ました。

 ちょっと余談になりますが、寺山修司さんの映画「書を捨てよ街へ出よう」は、クライマックスシーンに急に画面がホワイトアウトし、主人公の私の独白が延々と流れるシーンがあるんですね。でも、当時の八尾西武ホールはおせじにも防音が良くないんです。言い方は悪いけど、平場に間仕切りがあるだけのホール。隣にはおもちゃ売場があって、おもちゃの音やら子供の笑い声なんかが、シリアスな独白シーンにまじるんです。確か、主人公である私が津軽弁で「俺を忘れないでくれ。俺を忘れないでくれ。俺を忘れないでくれ。」と叫ぶのですが、その台詞に混じって、おもちゃの音と子供の笑い声。それが、妙にリアルで。今も脳裏に焼き付いてます。

 関西は、地元資本の百貨店が強い地域で、東京資本の百貨店は当時ほとんどありませんでした。伊勢丹も松屋もありません。もう今はありませんが、名古屋資本の松坂屋が天満橋にあり、三越が北浜にあっただけ。高島屋や大丸、そごう、阪急などが東京に進出している関西資本系百貨店とは対照的でした。そんな中、郊外に八尾西武をつくり、またまた郊外に「つかしん」をつくったセゾングループは、なんか意欲的だな、と思いましたし、その一方でつくる場所が郊外ばかりだったの、それを不思議に思ったところがありました。当時高校生だった私には、セゾンの郊外戦略なんてものはわかりませんでしたし。

 この本は、書名が示しているとおり、無印良品の「これでいい」コンセプトをもとに、日本のこれからを探っていくというのもですが、この数ページの「つかしん」の構想とその失敗体験の中に核心があるように思えました。堤さんは、「つかしん」をどう考えたかを率直に短い言葉で語っています。

見えない共同体のようなものを考えていましたね。規模は小さいかもしれませんが、若者たちはいろいろな場所でそういうものを作っています。たとえば、あまり有名ではないシンガーソングライター。そのまわりには、一〇〇人単位の共同体ができている。それは、職場共同体や家族共同体や地域共同体とは似ても似つかないテイストによる共同体です。(134P〜135P)

 また、失敗の原因については、こう語っています。

つかしんでは、百貨店の人をトップにしたのが間違いでした。テナントや業者を下に見る。村にとっては全員がテナントだから、対等でなければならない。わたしがそう言うと、わかりました、とは言うんだけれど、実行が伴わなかった。(135P)

 パッケージ型ではなくパッサージュ(街路)型の都市計画。具体的に言えば、大崎ではなく五反田的な都市計画。もっと言えば、自然発生的に成長した高円寺や麻布十番、大阪で言えば、京橋や鶴橋のような入り乱れた商店街を持つ、多層構造、重層構造の街づくり。これは、街づくりだけの話ではなく、クロスメディア環境にも、コミュニケーション環境にも援用できる、所謂「場」の話だと私は思っているのですが、そういうパッサージュ型の構想というものが可能なのか、可能であれば、可能にならない理由は何なのか。そういう課題を喚起させてくれる話でした。

 この話に関連して広告人として最近思うことは、同じように、エンクロージャー戦略というか、消費者を囲い込み育てていく、のようなやり方はもうそろそろ終わりに来ているのではないか、ということ。それは、旧来型のマーケティングの終わりでもあり、基本であるターゲティングという手法自体がもはやどうしようもなくゴールに向かっているように思えます。行動ターゲティングとか、そういう試みが花盛りな時に言うのは、なんだか時代遅れな感じがしますが、そのターゲティングの発想の根幹にある「見つける・育てる」という考え方自体が、消費の楽しさや自由を奪い、ますます硬直化させてしまっているのではないか、と思います。

 これは、ある意味で反ブランド的な考え方になりますが、そういう反ブランド的な「これでいい」というコンセプトを消費者に投げかける無印良品という「ブランド」はやはり気になります。これは本書でも触れられていますが、ユニクロも同じ。大衆の終焉、マスの消滅、とは言われていますが、都市という視点で見れば、そこには、子供、若者、中年、高齢者、すべてを呑み込む、まさに大衆のいる場ではあります。これは、人間が社会を形づくる限り変わることはありません。

 であるならば、マスプロダクトというものがこれからも成り立つには、論理的には無印的あるいはユニクロ的な「これでいい」的なコンセプトしか持ち得ないのではないか、とも思えます。現実は、まだそこまでは来ていないけれども。しかしながら、未来のマスプロダクトを思考する無印的なものが「最大公約数」的な発想では作られていないというアイロニーが、何か大衆というものの熱が少しずつさめて来て、平熱へと行き着く未来を示しているように思います。

 それは同時に「これがいい」というブランドの本質について、もう一度考え直すことでもあるのだろうと思います。話が循環しますが、そして、この新しい「これがいい」を考えることは、地方あるいは地域を考えることでもあるのだろうな、その土地の風土や文化に根ざした「これでいい」と「これがいい」をコインの裏表として考えるとこだと思います。そう考えると、やはり、最初の疑問に戻るのです。

パッサージュ型の構想というものが可能なのか、可能であれば、可能にならない理由は何なのか。

 可能であるという答えがあるかもしれないと思うのと同時に、可能でないという答えもあるだろうな、と思います。もしかすると、パッサージ型への自然成長を阻害しない構想だけが求められる、ということかもしれません。このあたりの最前線では、今どういう考え方があるのだろう。ちょっと知りたくなりました。

 対談本でもあるし、答えを探している人にはもの足りないかもしれませんが、人によってそれぞれの気づきがある本かもしれません。おすすめです。ではでは。

 ■関連エントリ:ユニクロは、日本の人民服である。

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2009年9月 4日 (金)

「つかしん」まわりのこと

 西武、パルコ、無印まわりの話で、ここまで率直に「つかしん」について話されているのは初めてではないでしょうか。私は、セゾン関連では「つかしん」プロジェクトがずっと気になっていました。消費社会や都市、コミュニティ、建築などいろいろな分野に波及する様々な学びの種が含まれているような気がしていて、そのことをまわりに話しても、まあ「つかしん」自体をあまり知る人がいなかったので、うーん、なんともだなあ、と思ってきたので、これはありがたかったです。

 まだ読了していないので、それ以上は書けなさそうなんですが、とりあえずおすすめの本とは言えそうな気がしますね。私がこの本を知ったのは、新聞の社説でちょっと触れられていたからで、そんなオールドタイプの情報摂取の仕方も、なんかいろいろ、これからの諸々を考える上で感慨深いなあ、と思ったりしています。

 とともに、なんとなくわかってきたのは、こういうちょっと気になるな、みたいなことを書く時は、Twitterみたいなツールは便利なんだろうな、ということですね。ブログ、特に私のような書き方をするブログは、ツール自体がある程度の長さで整理して書け、みたいなことをツール自体が要求をしているような気がして、実際、トップページに短いエントリが入るのは、なんとなく気が引けるんですね。

 Twitterで書くなら、こういう感じかな。

 「この本、おもしろいよ。セゾンまわりで「つかしん」に触れられてるの、はじめてかも。URL」

 ま、おすすめです。きちんと読んだら、きちんと感想を書きたいと思います。ではでは。

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2009年7月15日 (水)

[書評]『「買う気」の法則 広告崩壊時代のマーケティング戦略』山本直人(アスキー新書)

 仕事の発注があって、営業、マーケ、クリ、SPなどのメンバーが集められ、ああだこうだと会議を重ねて、でも結局、なんだかんだ話しても結論が出ず、さて、分科会だということで、それぞれ考えるみたいなことになり、もう一度集まって、「どう?考えた?」なんてこと言いながら、途中までできたマーケが作ったパワポ企画書を見ると、そこには「AISASとは」と紙のまん中に大きな文字でレイアウトされてて、そこから10ページほど説明が続く、みたいな。まあ、そこまで我々広告会社は馬鹿じゃないし、きちんとものも考えている気もするけど、わりとそれに近いものは、確かにあります。

 ちなみに、「AISAS」というのは、AIDOMAの法則という古典的モデルから発展させた広告効果モデル。電通の登録商標でもあります。知っている人は多いかと思いますが、一応。

AIDOMA
Attention=認知
Interest=関心
Desire=欲求
Memory=記憶
Action=購入

AISAS
Attention=認知
Interest=情報検索
Search=情報収集
Action=購入
Share=情報共有

 あきらかにネットを意識した広告効果モデルである「AISAS」は一世風靡しましたが、ブログ「広告って、なに?」でおなじみの山本直人さんの新しい著作『「買う気」の法則 広告崩壊時代のマーケティング戦略』(アスキー新書)では、こう書かれています。(山本さん及びアスキー・メディアワークスの渡部さん、献本ありがとうございました。)

 さて、このAIDOMAからAISASという話は大変わかりやすいのだけれど、個人的には「アレレ?」と思った。というのも私が広告会社の在籍時に「AIDOMA」というモデルは、ほとんど使われなかったからである。(P124)

 この感覚は、私にもあって、きっとAIDOMA、AISASは、購入もしくは情報共有という成果から逆算して心理を追っている部分があって、そもそものはじまりである「認知」に至る部分をあえて考えないようにしているところがあるからです。この「認知」に至るには、柄谷行人さんの言葉を借りると、そこにはその大小にかかわらず、必ず「命懸けの飛躍」があって、そこの部分をああだこうだするのが、我々広告人、というかクリエイティブの最初の仕事だと、他の人は知りませんが、とりあえず私は思っていたりします。(とは言いつつ、AISASは、広告効果の過程をうまく語れていて、それなりの成果も出しているとは思いますが。)

 その部分は、山本さんの言葉を借りれば、購買決定モデルで言うところの「問題意識=Problem recongnition」であるだろうし、消費者の心理的な部分に着目すれば「インサイト」だったりするわけですが、そういう「認知」を実現する初期条件に着目して、現代のクロスメディアにおける戦略(私的には戦術かな)の指南をするチャートが、山本さん考案の「ABCDモデル」です。

 「ABCDモデル」の詳細は本書のいちばんの肝だと思いますので、まずは著作を読んでいただくとして、X軸を「購買時の慎重度」とし、Y軸を「長期関与者の存在」としているところが新しく、戦術決定においては、わりとこれで解ける問題もあるんじゃないかな、と思いました。ただ、やはりそれでも思うのは、それぞれのメディアが持つボリュームの問題があって、そのジレンマはまだまだあるかもなあという感想は持ちました。

 この「ABCDモデル」は山本さん自身が「ヤマモト・グリッド」と命名しようか躊躇した、と書かれていましたが、私は、今度、企画書で使う時は「ヤマモト・グリッド」と紹介しますので、山本さん、よろしくです。

 他にも、広告について、いろいろ刺激的な示唆があり、特に「事業主」の方で広告を担当している方は読むと面白いと思います。でも、本当は反発はあるかもですが、こういう本は広告会社の人が読んでおくほうがいいんだろうな、と思いますけどね。USP=Unique Selling Proposition)の部分とか、What to sayとHow to sayの部分とかについては、必ずしも私とは考えが同じわけではないし※、とりあえず戦略の部分に限定しても、やはり広告会社みたいな「外部性」は必要な部分はあると思いますし、たとえ中の人であっても、いかに中で「外部性」を持っていられるかというのが勝負になるとも思います。これは、企画を担当する人の宿命みたいなものかもしれませんね。同じような問題意識を持つ広告人として、いろいろこの本から自分の考えをあらためて批判的に検証し直す部分も多々ありました。

 違いの部分は、私が外資カルチャーの人間だから、ということと、私のコアの部分をクリエイティブにおいている、みたいなところがあるんでしょうね。個人的には、経歴的には私と山本さんが逆のキャリアの進み方をしていて、にもかかわらず、同じ時代で同じ課題を共有し、それぞれの解が似ているようで違うという部分が、非常に面白く、かつ、非常に刺激的でした。

 

 USPについては、1960年代にロッサー・リーブスが考案し、その後、ベイツという広告会社が提唱し実践。「お口で溶けて手で溶けない。M&M'sチョコレート」みたいな成功例を示したけれど(参照)、その後、USPはその理論の限界性みたいなものを指摘されていますし、本家のベイツは本国では解散し、そこから発展させたSMP=Single Minded Propositionを提唱したサーチ&サーチは、SMPを捨ててしまうことになります。でも、本書が言うUSPは、マーケティングの基礎としての、もっと基本的な部分のオリエンの意味でしょうけど。

 また、How to say、What to sayについては、昔、外資系を中心にプランニングと定着の分離で「クリエイティブが思い切り遊べる砂場」理論とかがありましたが、どうもうまくいったとは言い難く、コミュニケーションデザインの潮流から言っても、それは不可分なのではないかという思いが私にはあります。

 では、山本さんの著作のテーマでもある、事業主と広告会社の関係はどうなるかというと、結論的には山本さんと同じような感じになります。というか、もっと過激なことを考えてしまっているかもです。お互いにリスクを負った関係がベストなんでしょうね。それには、我々専業広告人だけでなく、きっと「事業主」側も「変わらなきゃ。」がいるんでしょうね。

 このブログで著作を知った方、山本さんのブログの関連エントリ「まもなく、新刊。」もあわせてどうぞ。

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2009年6月 1日 (月)

1967年生まれの僕が、1949年生まれの鹿島茂さんが書いた『吉本隆明1968』を読んでみて思ったこと(2)

 吉本隆明という思想家は、独特の問題意識を持っているように思います。私の思い込みかもしれませんが、思想家というものは、原理を追求し、倫理を問うてくるものだと思います。もちろん、ここでいう思想家とは、著作が多くの人に読まれ、語りつくされるような思想家ですが、例えば、僕のような一般の人が書くブログにしても同じです。

 僕は広告屋で、広告の過去、現在、未来を僕なりに語っています。それはひとつの党派性であり、「僕」という独立した個の中での原理でもあります。そして、その言説は、当然のように倫理を問うてくるものです。問うてくると言っても、その影響力の問題がフィルターとしてあるのですが、そのフィルターを捨象したうえで純化して言えば、僕のブログを読んだ人は、共感か拒絶か、という態度表明を少なからず強いてくるものです。

 そうした人間の思考が持つ「世界共通性」つまり原理の希求は、この現実の生活や実際のビジネスのリアルからどんどん離れていくベクトルを持っています。つまり、それ正論だけど、理想論だよね、と言った具合に。純粋に、個が「世界共通性」を希求するとき、それは必然のような気がします。

 そうして獲得された「世界共通性」、しかし、それはあくまで個が希求した「世界共通性」のひとつに過ぎないのですが、その原理は、やがて現実との不具合を、日々平々凡々と「現実」を暮らしている人々の意識、倫理、行動を変えることで整合をつけようとします。ときたま僕がこのブログで批判的に書いている、「素晴らしい広告を理解しない日本の国民は民度が低い」と語る広告屋みたいなことですね。

 しかし、そうして、ネットの言葉で言えば「上から目線」で語る本人も、そういう「現実」に生きる人間です。その「世界共通性」は、やがて生み出した本人さえも否定していくようになります。そのようなプロセスに対しての問題意識が、初期著作のみならず、とってもいい感じのお爺さんになられた今においても、凄まじく激しいのが、思想家吉本隆明のような気がします。

 アマゾンのレビューに、こんな文章がありました。

吉本は個人的な密かな楽しみや、独り善がりな自分勝手にも寛容である。「社畜」などとサラリーマンの哀しさを捨て置き、罵倒することは決してない。彼自身特許事務所にいたときの経験から、仕事が終わった後に同僚と一杯飲みに行くことの「たまらない」楽しさを知っている。そして、思想の営為とは、そうしたたまらない楽しさと決して無縁ではないということを語ったのが吉本だった。

Amazon.co.jp : 吉本隆明1968 (平凡社新書 459)

 この吉本さんの視線は、単に、「私は民衆とともにある」という使命から来るものではないのは言うまでもありません。そうした身勝手な使命こそ、吉本さんの批判対象であり、その「たまらない楽しさ」は、吉本さんにとっての市民としての自然から来る実感だと思います。

 ではなぜ吉本さんは、彼の用語で言えば「大衆の原像」にこだわるのか。それは、きっと、思想家として希求する「世界共通性」のためなのでしょう。「大衆の原像」を折り込まない「世界認識」は無効であることを強く意識してのことだろうと思います。そこには、知識人として原理を突き進める本能との激しい葛藤が見えます。こういう問題意識を持つ思想家は、私は、吉本隆明という人がはじめてでした。

 ジャズピアニストの山下洋輔さんが、どこかで「プロになるということは、今までアンサンブルを楽しんでいたアマチュアの仲間たちと決別することでもある」ということをおっしゃっていたように記憶しています。思想家としての吉本さんにとって、この決別の痛みは当然あるのだろうと思います。なんとなくこの『吉本隆明1968』という本を読みながら、吉本さんの言う「大衆の原像」というものは、その決別の痛みのことなのだろうと思いました。そして、その痛みを忘れて希求された「世界共通性」は破綻し堕落すると吉本さんは言っているような気がします。思想とは、その痛みも取り込むものなのだ、と言っているような気がするのです。

 鹿島茂さんが「個人的に一番好きな文章である」という「別れ」という吉本さんのエッセイを、孫引きになってしまいますが、引用します。小学5年生の吉本少年が私塾に通い始める頃のお話です。

 わたしはあの独特ながき仲間の世界との辛い別れを体験した。別れの儀式があるわけでも、明日からてめえたちと遊ばねえよと宣言したわけでもない。ただひとりひっそりと仲間を抜けてゆくのだ。(中略)わたしが良きひとびとの良き世界と別れるときの、名状し難い寂しさや切なさの感じをはじめて味わったのはこの時だった。これは原体験の原感情となって現在もわたしを規定している。

『背景の記憶』(平凡社ライブラリー)

 僕は思想家でも知識人でもないけれど、なんとなくこの感覚がわかるような気がしますし、生きるとことは、多かれ少なかれ、こうした「名状し難い寂しさや切なさ」の繰り返しだったりすることも、ぼんやりと分かりだしてきました。そして、そこには二度と戻れないのでしょう。その痛みの感覚を「成長」という名のもとになかったとこにして、やりすごすこともできるだろうし、実際、そうしてきたときもあるような気もしますが、それは違うだろう、ということなんでしょうね、きっと。

1967年生まれの僕が、1949年生まれの鹿島茂さんが書いた『吉本隆明1968』を読んでみて思ったこと(1)

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2009年5月31日 (日)

1967年生まれの僕が、1949年生まれの鹿島茂さんが書いた『吉本隆明1968』を読んでみて思ったこと(1)

 大学教授でフランス文学者の鹿島茂さん(本好き御用達の本棚「カシマカスタム」の発案者でもあられます!)が書き下ろした『吉本隆明1968(平凡社新書459)』を読みました。ですます調のやわらかい口調で書かれていますが、中身はけっこう重めで、423ページと新書にしてはけっこう長めです。

 この本は、たぶん私と同じか、それより下の世代の編集者の鹿島さんへの質問がきっかけで書かれたとのことです。

「吉本隆明さんって、そんなに偉いんですか?」

 もちろん、その質問に対する鹿島さんの答えは「偉いよ、ものすごく偉い」なんですが、その吉本さんの「偉さ」を、自身の吉本体験をひもとくかたちで解き明かしていこうという見立てで書き綴られていきます。鹿島さんはこう書かれています。

吉本隆明を再読するという体験を介して、戦後のターニング・ポイントである一九六八年の「情況」に吉本隆明をもう一度置き直すことで見えてきた「四十年後の吉本隆明体験の総括」です。

 ちょっと補足しておきますと、なぜ「情況」と括弧付きなのかというと、吉本隆明さんは同人雑誌『試行』(発刊してすぐに吉本さんの単独編集になったので、ほぼ吉本さんの個人雑誌と言っていいと思います。今で言えば、きっとブログ。)で、「情況への発言」という連載を続けてこられたから。鹿島さんの世代の吉本さんを読み込んでいる人は、『試行』に掲載される「情況への発言」を食い入るように読んできたとのことです。私はその下の世代なので、リアルタイムではないですが。

 1968年という時代は、70年安保と呼ばれる1968年頃から1970年まで続いた2回目の安保闘争があった時代です。安保闘争は、日米安保条約に反対する労働者・学生・市民の反戦・平和運動で、60年安保と比較して、70年安保は、60年安保、67年の羽田闘争を経て、分裂した新左翼諸派による一時的かつ同時多発的な共闘運動という意味合いが強いようです。また、70年安保は戦後最大の学生運動と呼ばれています。70年以降は、新左翼は各セクトの武力衝突(内ゲバ)が激化し、連合赤軍事件やあさま山荘事件などが起き、やがて学生運動自体が衰退していきます。ちなみに、私が大学に入った87年には、ほとんど表立っては、学生生活の中で学生運動は意識される感じではありませんでした。

 そして、鹿島さんが引用されている吉本隆明さんの著書である『芸術的抵抗と挫折』は1959年、『擬制の終焉』は1962年で、どちらも60年安保前後に書かれたものです。『高村光太郎』は1966年。本書でも触れられていて、私がはじめて読んだ吉本さんの著作(講演集)である『自立の思想的拠点』は1970年。この本を読んでみようと思っている若い人、もしくは私と同じ世代の人は、そのあたりの時代背景を頭に入れてから読み進めていかれるといいかもしれません。

 転向論(知識人の戦後の転向についての考察)に一定の成果を上げた吉本さんは、1969年の時点では、1965年に『言語にとって美とは何か』と1968年に『共同幻想論』を出版されていて(『心的現象論序説』は1971年)、すでに当時の学生さんにとって知的ヒーローとして見られていたのはあるかもしれません。ご本人は、「知的ヒーローなんて、よせやぃ。」とおっしゃるかもしれませんが、まあ当時の学生時代を語る人は、読んでいない『共同幻想論』を小脇にかかえて歩くのがかっこ良かったと言いますし。僕らの世代だと、浅田彰さんの『逃走論』とか『構造と力』みたいな感じですね。

 でも、この本は、そういうたぐいの「吉本は僕らのヒーローだった」みたいな吉本ファン本とは一線も二線も画する部分があって、吉本さんの考え方についてのけっこう切実な思いが語られています。遅れて来た吉本隆明さんの読者である私でさえ、ことあるごとに、こういうことを吉本さんならどう考えるのだろうか、と思うし、ましてや1968年に青春を過ごした鹿島さん世代の方ならなおさらだろうと思うんですね。

 その切実さをもってしても、何を吉本隆明という個人に依存しているんだよ、という揶揄も成り立ちそうですが、どうしようもなく僕らの思考の核として吉本隆明さんが存在してしまうのは、戦後の知識人としては吉本隆明さんだけが持ち得た「独特の問題意識」によるところが大きいのではないか、と思います。

1967年生まれの僕が、1949年生まれの鹿島茂さんが書いた『吉本隆明1968』を読んでみて思ったこと(2)に続きます

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2009年5月25日 (月)

ウェブはバカと暇人のもの?

 そんなわきゃねえわねえ。というか、タイトルに釣られまくりの私が言うのもなんですが、そうでもないんじゃないですか、なんて思うわけでして、なんで「ウェブはバカと暇人のもの」と思ってしまうのかというと、ウェブという市場を自分の商売における理想郷だと位置づけるからそう思うわけで、思ったよりもうまくいかないと思うと、市場にいる人のことを民度が低い奴らと思うのは、私がいままでいくつも聞いてきた、日本市場から撤退していった外資系広告代理店や外資系企業の捨て台詞と同じわけです。

 日本人は、本当の広告がわからない国民だから。本当の広告がわかる国民とは何かというと、欧米の国民であり、本当の広告とは、その広告代理店がつくっている広告なわけです。そんな勝手な話、あるかいな、と誰だって思いますよね。そもそも、その国民にわかってもらうためにつくられた映像とか画像とかを広告と言うわけであって、つまり、その広告は広告以下だったということです。

 そもそもウェブに限らず、社会というものを、自分に都合良く解釈しちゃ駄目なんです。広告に込められたコンセプトやら戦略やらを深く感受して、ときには深読みして行動してくれる、そんな都合のよい人を、賢い消費者なんて言葉に言い換えては駄目なんですよ。消費者2.0なんて言い方をしちゃ、駄目。

 自分の行動を振り返ってみたらいいと思います。そんなに合理的で理性的な判断をしてますか。私はしていません。そういう意味では、けっこう暇でバカだったりします。そんな、暇でバカな人っていうのが、どんな時代においても市井の人というものだと思うし、そういう人たちに何かを伝えるための技術っていうのが、広告という技術なんだと思うんですよね。そういう人たちというのは、まさに自分のことだし、だからこそ、ありのままの自分を隠して賢くみせることに一生懸命になるタイプの人は、広告をやっちゃ駄目なんだろうと、なんとなく思います。でも、賢くみせたい人はこの業界に多いのも事実なんだけどね。

 ま、そんな暇でバカな人がなんだかんだありながら楽しく有意義に生活しているウェブという社会を「ウェブはバカと暇人のもの」とあえて言わなきゃならんのか。それは、悔しいから。もうね、僕らはこれだけ経験したんだから、Web 2.0とかなんとか言わずに、過剰な期待はせずに、ありのままを見て、それを認めたうえで考えようよ、コミュニケーションとか、場の問題とか、みたいなことを、著者の中川さんはかなり過激な口調で書いておられます。

 ということで、わりと面白い本でしたよ。そこから先をどう考えるかは、人それぞれではあるとは思うんですけどね。

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