カテゴリー「書評」の14件の記事

2015年3月28日 (土)

[書評]『止まった時計 麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記』松本麗華(講談社)

 オウム事件から20年が経ちました。あの頃、私は六本木にある広告制作会社に勤めていました。1995年3月20日の朝、いつものようにJR恵比寿駅を降りて地下鉄日比谷線の恵比寿駅へ向かおうとしたところ、駅の入り口に人だかりができていました。時間は記憶が定かではないけれど、確か朝の8時半だったように思います。どうやら地下鉄が運休していることのようでした。

 「どうしたんですか」
 「何やら食中毒があって地下鉄が止まっているようなんですよね」

 なぜ食中毒で地下鉄が止まるのだろう。そんなことを考えながら、六本木に向かうために都バスに乗ったことを覚えています。会社に着いてデスクワークをこなしていると、大阪に住む母から電話がありました。その頃、携帯電話は一般的ではありませんでしたので、正確には、会社に電話がかかってきたということです。会社に入って間もなくだったこともあり、正直、恥ずかしいなあという思いがありました。

 「もしもし、何か用か」
 「何か用って、どうやった?無事やった?」
 「無事って、だから何があ」
 「あんた、何も知らんの?テレビ、見てみ?」

 あの頃はインターネットも一般的ではありませんでした。テレビをつけてもらいました。死者13人、負傷者数6000人以上。あの日比谷線の光景は、後に地下鉄サリン事件と呼ばれる、神経ガスサリンを使った同時多発テロでした。実行犯は、仏教系新興宗教団体であるオウム真理教。単独犯ではなく組織的犯罪でした。教祖は、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚。その三女が、この手記の著者である松本麗華さんです。

 ●    ●

 この本の副題にもあるアーチャリーとは、松本麗華さんのオウム真理教内でのホーリーネーム(出家信者の祝福名)です。教団内の地位は正大師。1995年3月頃からオウム真理教は省庁制度が導入され、擬似国家的な組織構成になり階級が細分化していくのですが、それまでの階級で言えば、正大師は教祖麻原彰晃の称号である尊師の次に来る称号でした。大乗ヨーガの成就者のみに与えられる称号です。地下鉄サリン事件の発生当時、松本麗華さんは11歳でした。

 事件後、教祖麻原彰晃をはじめ主要信者が次々と逮捕される中、松本麗華さんは教団唯一の正大師となります。オウム真理教は解散し、アレフとなり、その後、上祐史浩教団代表が脱会しひかりの輪を設立。二派に分かれることになります。アレフを引き継いだ教団の大多数は反主流派、反上祐派、あるいはA派と呼ばれました。このAはアーチャリーの頭文字です。公安調査庁は、現在も松本麗華さんをアレフの幹部と連絡を取り、重要な意思決定に関与している役員だと認定しています。

 私自身も、概ね上記のような理解をしていました。上祐史浩教団代表と対立し決別したアレフの幹部であり、この手記にも詳細に書かれている大学入学拒否についての裁判も、信教の自由が争点である、というように。しかし、この手記を読んでみてわかるのは、それが誤解を多分に含むステレオタイプな解釈であることでした。あるいは、そういう構図で理解したいという願望が社会にあった、と言えるのかもしれません。

 松本麗華さんが「止まった時計」と表現するその人生は、もっと複雑で、宿命的ともいえる様々な、著者が言うところの括弧付きの「関係」に絡め取られる、壮絶なものでした。この手記を読み通してあらためて思うことですが、事件当時は、素直な、言い方を変えればまだ考えの浅い11歳の子供であり、オウム真理教は自分が育ってきた街のようなものであり、麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚はそれでもやはり父であり、幼少からの暖かい思い出もあり、事件が発生してからは、別の場所で生活するにも行く場所がなかった。手記を読むと、幼少期には自分の環境を当然のように受け入れていたことがわかります。松本麗華さんはアレフに入会はしていないと書いています。一方で、アレフや母、そして、教団代表であり後に決別しひかりの輪をつくる上祐史浩代表と自身の関わりについても率直に語っています。元信者で後に保護者となる香山さんとともに生活をし、彼女の支援のもと学校に行き、大学を卒業します。出版を前後して行われたインタビューでも、現在は宗教に興味はないと答えています。

 ●    ●

 この手記は、そういう意味では、数奇な運命にある一人の若者の自分探しの書と言えるかもしれませんが、本書ではこう書かれています。

今まで隠してきた顔をさらせば、マスコミ各社が大々的に報道し、父が病気だという事実を、少しでも社会に伝えてくれるのではないかと考えたからです。(中略)その後わたしは、父の本を出したいと考えるようになりました。本を書けば、自分の言葉で事実をそのまま伝えることができるからです。

 本を出す作業は、出版社巡りから始まりました。ある出版社には門前払いされ、別の出版社では「対談形式なら」と提案されました。断られた際の対応から、わたしは「アレフの幹部」でしかないのだと思い知らされました。そんな中、講談社の方だけは、当事者であるわたしの話を真摯に受け止めてくださり「お父さんの本を書けばいいという甘い気持ちではなく、松本さん自身の人生を書くならば」とわたしが本を書くことを許して下さいました。

 この手記のもともとの動機は、死刑判決を受けた父、松本智津夫死刑囚の本当のことを書きたいということでした。この本が他のオウム真理教関連本と一線を画するのは、まさにこの動機であり、この本が批判されるとすれば、まさにこの一点だと思います。言葉の一部が切り取られることのないように、慎重に長めの引用をします。

 事件も裁判も、わたしには耐えがたい、胸をえぐられる出来事でした。
 わたしは父について多くの批判があることは、身にしみています。
 それでもわたしは、父が事件に関与したのかについて、今でも自分の中で保留し続けています。父が事件には関わっていないと、信じているわけでもありません。父は事件に関与したのかもしれないし、してないのかもしれない。
 父は弟子たちと主張が食い違ったまま病気になり、何も語ることができなくなりました。一方の当事者である父がきちんと裁判を受けられず、いまだに何も語ることができない以上、わたしは今後も判断を保留し続けるでしょう。
 父が仮に指示をしていなかったとしたら――そう考えると、わたしには無責任なことが言えません。
 もし母が、妻として母親として、病気の父の裁判を責任をもって支えてくれていたら、わたしはまた別の考えを持っていたかもしれません。でも母は何もしませんでした。父を守れる者が子どもしかいないなら、わたしだけでも父を信じよう。父の言葉を聞くことなく、父を断罪することは絶対にしない。世界中が敵になっても、わたしだけは父の味方でいたい。
 ――これから書くことは、これらの前提を踏まえて読んでいただければと思います。

 松本智津夫死刑囚の四女は、フジテレビのインタビューで、でたらめという強い言葉で批判をしていました。また、加害者への謝罪の言葉がないことに疑問を呈していました。松本麗華さんが出版を前後して受けたインタビューでも、度々、この保留という態度について批判的に言及されていました。辛坊治郎さんも、ニッポン放送のラジオ番組「ズーム!そこまで言うか」で、他の精読した人の言葉を借りながら、松本麗華さんの主張はこれまでのアレフの主張と同じで鵜呑みにするわけにはいかないという趣旨のことを話されていました。また、この手記の重要な論点と関連することでもありますが、このラジオ番組で、この放送回の前に上祐史浩代表が出演した際に、最終的には家族は決裂したが、麻原の妻と三女は裏でアレフを操っていたのは事実であると話しています。

 これは、この本を読まれた方がそれぞれに判断することだろうと思います。司法的原則の順守よりも社会的影響の大きさから来る贖罪を優先させているように見える現実を差し引いても、父への愛情というバイアスがかかっているのは紛れもない事実だと思います。また年齢相応の思考の幼さも感じられます。しかしそれは、その思考の幼さも含めて、現在の松本麗華さんだけに許されたバイアスではないかとも思うのです。これが愛なのでしょう。これを愛と呼ばなければ、たぶん愛というものはこの世界にはない、ということになるだろうとも思います。

 ●    ●

 私はオウム真理教関連本と一線を画すると書きました。それは、まさにその特異な視点でオウム真理教のことを、さらにオウム事件から20年を見続けてきた者だけが語ることのできるオウム的なるものの仕組みが描かれていると思うからです。松本麗華さんは、母や上祐史浩代表など、様々な教団関係者が「アーチャリー正大師」という言葉を、自分が思うようにことを運ぶために利用してきたと書きます。この手記の後半に、小さな出来事が記されていました。教団が250万円もする車を信者が購入しようとした際に、松本麗華さんの母は松本麗華さんに「以前はこんなことはなかった。もっと質素だった。100万以上の車は買わなかった」と愚痴を言います。松本麗華さんはそれをどうでもいいことと思ったそうですが、結局、母は「アーチャリー正大師」がやめろと言っていると言ってやめさせたそうです。些細な出来事だからこそ、残酷なほどあからさまに本質が剥き出しになっているように私には思えました。

 村上春樹さんがオウム事件で被害を受けた人たちのインタビューを集めた「アンダーグラウンド」でこう書いています。

 あなたは誰か(何か)に対して自我の一定の部分を差し出し、その代価としての「物語」を受け取ってはいないだろうか?私たちは何らかの制度=システムに対して、人格の一部を預けてしまってはいないだろうか?もしそうだとしたら、その制度はいつかあなたに向かって何らかの「狂気」を要求しないだろうか?あなたの「自律的パワープロセス」は正しい内的合意点に達しているだろうか?あなたが今持っている物語は、本当にあなたの物語なのだろうか?あなたの見ている夢は本当にあなたの夢なのだろうか?それはいつかとんでもない悪夢に転換していくかもしれない誰か別の人間の夢ではないのか?

 ここにはカリスマに帰依することの危険が述べられています。この視点は、カリスマとカリスマに帰依する個人という対立構造です。いつか、その帰依は「悪夢」となってあなたを襲う。そう村上春樹さんは語ります。カリスマでもありただの父でもあった松本智津夫死刑囚の娘である松本麗華さんが書いた手記では、カリスマを利用する組織あるいは個人という、対立構造ではなくカリスマを内包する入れ子構造として語られます。

 わたしは今になって思います。帰依や神格化は、「尊師ならすべてわかってくれる」「何をしても尊師はご存知だ」「尊師がとめないから、尊師に許されている」という、自分の行動の責任を父に押しつけるための、免罪符ではないかと。神に人権はなく、どんなことをしても、それを許容することのみを求められます。
 わたしも同じ経験をしました。言葉では称賛されているのに、期待を裏切れば「アーチャリー正大師が指示した」ということで、自分のしたいことを他の人にやらせる口実にされることもありました。

 繰り返しになりますが、ここには愛ゆえのバイアスが見え隠れします。松本智津夫死刑囚自身も、そのことをわかった上で利用した部分もきっとあるのだと思いますし、松本麗華さん自身も書かれていますが弟子の暴走説のような単純なものではなかったと思います。それに、逆に松本智津夫死刑囚がすべてを指示した可能性も当然闇の中なわけで、他の死刑囚と同様、教団の教祖としての責任は免れるわけではありません。それでも、そのバイアスを差し引いて見た時、このカリスマと組織や個人の入れ子構造の仕組みを説得力を持って語ることができるのは、この手記だけだと思いが私にはあります。この手記が書かれてよかったと本当に思います。

 冒頭で書きましたが、公安調査庁は松本麗華さんをアレフの幹部と連絡を取り、重要な意思決定に関与している役員だと認定しています。次弟を教団と関わらせないようにお願いするために姉と共同で出した手紙が決め手になったと言います。現在、言うことをきかなくなり利用できなくなってしまった松本麗華さんのことを、アレフの幹部たちは「悪魔」と呼んでいるとのことです。一方、麻原回帰の動きがあるアレフで脱麻原をすすめていた現ひかりの輪の上祐代表は、父の接見に行く松本麗華さんを、なぜ接見に行くのだと詰ったそうです。

わたしはアレフの人間ではないのに、どうしてアレフの決まりを守らないといけないのか理解できませんでした。そもそも、上祐さん自身が逮捕されているときは、わたしに何度も「接見に来るように」と言っていたのです。このときは、大切な人をないがしろにされた気分になり、わたしは上祐さんに泣きながら電話で抗議し、最後には、わたしは「勝手にします」と言い、上祐さんも「勝手にしろ」と言って電話を切ってしまいました。

 カリスマの子として、様々な「関係」に絡め取られていく中で、もしかすると父も同じだったのではないかと考えたのかもしれません。それは、子である者にだけ許された決して一般化できない思考だと思います。けれども、そういう松本麗華さんの思考から見えてきたものは、どのようなジャーナリスト的考察や宗教的、思想的考察以上に、オウム的なるものの本質をつかまえているのではないかと私には思えます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年1月24日 (火)

システムを変えるということ

 私は大阪市民ではありませんが、生まれも育ちも大阪市ですし、大阪市がこれからどうなるのかは気になります。昨年の大阪府知事・大阪市長同時選挙は東京にいながら私なりに注視してきました。とはいってももっぱら、テレビや新聞、ネットでのニュースが情報源でした。

 このブログを読んでいただいている方はおわかりのことでしょうが、私は政治についてはあまり造詣が深くありません。ということもあり、メディアでの報道を追っても、橋下市長が主張していた「大阪都構想」は私にはよくわかりませんでした。というか、東京に住む私にとってはピンと来ないというのが正直なところでした。

 たぶん「都」にバイアスがかかっていたんですね。今はそれほどではないかもしれませんが、大阪人は東京への対抗意識があります。「都」という言葉が大阪人の誇りを刺激する部分があるのかな。そんなふうに考えていました。でも、なぜ大阪市を大阪府と統合させて、つまりは、大阪市を解消して大阪府を大阪都に変える必要があるのかはいまいちわからなかったのです。まず思ったことは、大阪市立大学はどうなるの?大阪市立総合医療センターってなくなのる?みたいなことで、政治に詳しい人からはレベルの低い話をしているなと思われるかもしれませんが、実際はそういう感じだったのですね。

 そんな私にとっては、橋下徹さんと堺屋太一さんの共著である『体制維新ー大阪都』(文春新書)はとてもわかりやすかったです。大雑把に言えば、大阪市は市としては大きすぎるということ。大きすぎるがゆえに、大阪府と似たような機能にならざるを得ない。また、大阪市は大阪府の経済の中心地であり、事実上、大阪府よりも大阪市の権限が強くなるということが起きてしまっている。逆に、大阪市内の区は東京都の特別区のような選挙で選ばれる区長がいるわけでもなく、区の人口が多い割には、区民のニーズにあわせたたきめ細かい行政がやりにくい。だから、大阪市を解体し、大阪市の区を特別区にして、きちんと「基礎自治体」として機能させなければならない。そういう趣旨がわかりやすく書かれていました。

 府庁と市役所を一つにする、と言うと、反対派の議員や学者が一斉に、「知事の独裁になるので危険だ」と批判しました。大阪府と大阪市を一つにして一人の指揮官にすればいい、と僕が言ったことが、市町村長などを全部なくすかのようにとられたようです。しかし、それは誤解です。
 大阪のすべての権限と財源を大阪都知事が把握するのではありません。そんなことは不可能です。住民とのフェイス・トゥ・フェイスの仕事は、市町村長や新設する特別自治区の区長に委ねられる。これが「やさしい基礎自治体」の役割。経済の成長戦略や雇用対策など大阪全体に関わる課題については、「強い広域自治体」の長として都知事が指揮する。効率的な役割分担をしようという話です。(P166)

 このところ話題になっている学者さんや評論家さんたちとの論戦ですが、正直に言えば、橋下市長を批判する側が的を外しているような気がしています。橋下さんがディベートが強いとか、そういう問題ではない気がするんですね。橋下さんがやろうとしていることは、「強い広域自治体」という意味では独裁という批判はかろうじて当たっている気はするけれど、むしろ、「やさしい基礎自治体」を増やすということなので、現在の行政システムは変える必要があるという立場に自らを置くならば、市町村が合併し一つになる時代に自治体を増やす方向性での改革には問題があるのではないか、という批判が本来はまっとうなのではないかと思います。

 もちろん、今の行政システムは変える必要がないという立場もあります。たぶん、橋下市長を批判するにあたっては、この立場を取るのが一番わかりやすいし説得力もあります。ただ、あまり支持を得られそうもなさそうですし、実際に誰もその立場を表明していないですよね。その立場を表明してくれれば、私にも理解できそうなのですが、そうじゃないですし、なんか、今は学者フルボッコと言われてますが、単純にかみ合っていないなあと思うんです。で、かみ合ってない中で、こういうわかりやすい本をきちんと出している時点で、橋下市長の言っていることの方が筋が通っていると思います。

 僕は、社会のシステムが根幹にあり、文明はそのシステムがアウトプットするものだと考えています。先ほどのパソコンの例で言えば、OSはシステムでソフトは文明です。
 使えるソフトはOSによって規定されてくるわけですよね。ですからソフトが大きく変わるためにはOSが変わらないといけないのですが、今の日本においてOSの変化は単なるバージョンアップでは駄目。DOSからウィンドウズになったような大転換が必要だと思うんです。
 DOSからウィンドウズに転換した途端に、素人でも扱えるようなソフトがどんどん出てきました。そしてコンピュータ社会、ネット社会といわれるようになりました。アウトプットされるものは常にシステムによって規定を受けます。だからアウトプットをいまの時代、いまの状況に合わせるためには、根幹のシステムを変えなければならないと思っているのです。(P40)

 このくだりは、私にはたいへん理解しやすかったです。OSのバージョンアップではなく、根本的に作り直そうとするわけですから、橋下市長がよく言う「権力闘争」もわからなくもないし、比較的マルクスに親しみのありそうな反橋下市長派の方々も、つまりは「上部構造は下部構造が規定する」ということなので、理解しやすいと思うんですけどね。でも、橋下市長(この本の時点では橋下知事でしたが)は、こうも言っています。

 僕はよくゲームにたとえるんです。子どもたちは、ゲームのいろんなソフトについて友達同士でしゃべります。 おもしろい隠れキャラクターがあるとか、攻略法などを朝から晩まで喋っている。
 だけど、そのゲームを動かすニンテンドーDSや、PSPなどのハードの仕組みについて、じつはこれがアメリカ軍の機密にもなるようなチップが入っているとか、集積回路はどういう配置になっているとか、日本のこんな最先端技術が使われているとかという話はしませんよね。おもしろくもなんともないですから。(P36)

 なので、専門家を除いては一般ユーザーには伝わりにくい、と。確かに、この話はあまりニュースではでてきません。だらかなのかどうかは知りませんが、あまりこのシステムの変え方についての批判や反論がでてきません。でも、私がいちばん聞きたいのは、そこなんですが。

 私は、仕事柄、Mac OSを使ってきたからMacの話をします。2001年に、OS 9からOS Xに変わりました。BSD UNIXをベースにまったく新しく作り直されています。互換性はありません。OS 9はそれなりに高性能なOSでしたので、かなり大胆な試みだったと思います。OS 9で動いていたイラストレーターやフォトショップ、MS Officeなんかもまったく動きません。これは、ユーザーにかなりの負担を強いることだったのだと思います。これによってMacユーザーを辞めた人もいるかもしれません。

 けれども、今考えると、OS Xがなければ、きっとiPhoneもiPadもなかったんだろうと思います。今の状況を考えれば、それはやらなければならないイノベーションだったのだろうと思うんですね。しかも、方向性も間違っていなかった。

 もうひとつ、思い出すことがあります。私は広告制作を生業としていますが、OS Xができても、デザイナーはもとより業界全体がOS 9を数年にわたって使い続けました。クオークエクスプレスをはじめとするソフトが対応していない、もしくは高価で変える余裕がない。現状でもクオリティはそれほど変わらない。印刷が対応していない。OS Xではソフトが不安定。そんな理由だったと思います。一頃、OS 9が入っている中古Macの需要がかなりあったと聞きます。

 システムを変えること。それは、かなりのリスクを伴うことです。方向性を間違えれば取り返しがつきません。Mac OSであれば、市場から淘汰されるだけですが、行政の場合はとんでもないことになります。慎重になりすぎても悪いことはひとつもないと思います。また、行政の場合、一度変わったら、かつての広告制作界隈のように、それでもOS 9を使い続けるという選択はもはやできないわけですし。

 今月の27日、テレビ朝日の朝まで生テレビは「激論!“独裁者”橋下市長が日本を救う?!(仮)」というテーマだそうです。大阪市民、大阪府民は、選挙で変える方を選んだわけだから、どうシステムを変えるべきなのか、その具体的な方法と是非についてきちんと話してもらえないかなと思います。私は、そのことが聞きたいです。学者さんの批判も代案も聞きたいし、おもしろくともなんともないにしても、システムが変わればどうなるのかを、メリットやリスクも含めて橋下市長もきちんと語ってほしいです。できれば、考えられるリスクを最小化する方策も。もちろん、システムを変えるべきではない、という意見も聞きたいです。あまり一般受けはしなさそうですが、そういう考え方もありだと思っています。

 こういうテーマなら、言葉の正しい意味で、ちゃんとしたディベートになると思うんですけどねえ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年1月14日 (土)

[書評] 『さいごの色街 飛田』 井上理津子(筑摩書房)

Saigonoiromachi_6

 昨年の11月頃、新大阪駅の書店でこの本を見つけて、その時は購入しませんでした。いくつかの書評で大変な力作だということも知っていましたし、ネットにさえ詳しい情報は出ていない飛田という街のことを知りたい気持ちもありました。でも、購入しなかった。それは、たぶん私が男性だからだろうと思います。複雑な思いがあるのです。

 井上理津子さんは、近年は東京に拠点を移されたそうですが、これまで大阪を拠点に活動をしてきたフリーライター。『大阪下町酒場列伝』という名著でご存知の方も多いのではないでしょうか。井上さんは、この本の冒頭で、取材をした数多くの一般男性たちについてこう書かれています。

 ちなみに、「僕は」の話は決まって、「飛田はすごいところ。最初に界隈を通った時、昔にタイムスリップしたような雰囲気にびっくり仰天した」という意味のことを言った上で、
 「風俗は嫌いだ。恋愛のプロセスなしにイタしたいとは思わない」
 「飛田は不潔そうな感じがして嫌だ。病気も怖そうだし……」
 のいずれかだった。そう、みな、自分は風俗は苦手だ、飛田には行かないと親告するのである。特段「あなた」の意見を訊いていないのに。制度そのものを問う、「女性差別そのものじゃないですか」という発言は、二十代後半から三十代前半の三人から聞いた。

 ああ、そうですよね。私も聞かれれば言いそうです。

 飛田は大阪にある地名で、大正時代に難波新地の大火事による焼失後、代替地として生まれました。「飛田新地」もしくは、「飛田遊郭」と言われることもあります。厳密には、飛田は公許の「遊郭」として存在したことはありませんが、今だに「飛田遊郭」と積極的に呼ばれるかというと、売春禁止法施行以来、多くの“赤線”がソープランド、つまり、特殊浴場に業態を変えて行く中(ちなみに、大阪府の条例ではソープランド不許可です)、飛田は昔ながらの遊郭に近い営業を今も続けているからです。

 なぜ、それが可能になったのか。自ら解釈を変えたから。つまり、売春禁止法をかいくぐる解釈を自ら編み出したんですね。

 まず、自らの業態を料亭と位置づけます。お客さんは客間で食事をします。そのお世話を中居さんがします。その客間で、お客さんと中居さんが恋愛をするのです。つまり、自由恋愛だから管理売春ではないということなんですね。監督官庁である警察側も、実際は何度か摘発をしているものの、結果としては、おおよそ見て見ぬふりをしてきたと言えるかもしれません。

 かつて、飛田にある「鯛よし 百番」という、国の登録有形文化財にもなっている、大正時代建築の遊郭をそのまま使った料理屋さんで上司の送別会を自ら幹事として開いたことがありました。その帰り、タクシーで通りを物見で巡りました。ここからタクシーを利用するとき、観光的に通りを巡ってから通りに出ることが慣例になっているのですね。

 新大阪の書店で感じたあの複雑な気分のひとつには、きっと、そのときに感じた気分もあったのだろうと思います。

 大正時代そのままの街並。長屋の料亭の玄関を照らす赤や黄色の妖しい照明。その光に照らされる女の子。美しいと思いました。けれども、その美しさは、現実感のない美しさでした。それは、タクシーのガラス窓をスクリーンにした映画のようで、あの風景は、この目で見たものではあったけれど、単なる映像でしかなかったのかもしれません。そのバーチャルな感覚が、妙な罪悪感として心に残り続けました。

 年が開けて、帰省から戻る人で賑わう新大阪の書店ではこの本は平棚に山積みされていました。さらに、そこには新聞の書評を切り抜いたPOPも飾られ、かなり売れている様子でした。そのことが背中を押してくれたのかもしれません。こういうとき、売れているという事実は、百の言葉よりも説得力がありますね。よし、せっかく、一度は読んでみたいと思ったわけだし、新幹線で東京まで2時間半もあるし、この機会に読んでみよう、とようやく購入したのでした。

 この本の帯には、こう書かれています。

遊郭の名残をとどめる、大阪・飛田。
社会のあらゆる矛盾をのみ込む多面的なこの街に、
人はなぜ引き寄せられるのか!

取材拒否の街に挑んだ12年
衝撃のノンフィクション!

 飛田は、料亭の経営者、呼び込みのおばちゃん(曳き子)、女の子の三者で成り立っています。その料亭の、それぞれの人たち。飛田の街で生きる、居酒屋さんや喫茶店のマスターやママさん。街の人々。組長。警察。そんな、飛田で生きる様々な人たちの、まさしく“生の声”が、丹念に調べられた飛田の歴史や成り立ちを交えながら、次々と描かれていきます。

 ノンフィクションではあるけれど、その読後感は小説のようでした。それは、インタビューをまとめた本にはめずらしく、インタビュアーである井上さんの共感、疑問、葛藤といった心の揺れが丹念に描かれているからかもしれません。自らは決して語らない飛田の人たちが、よくここまで語ってくれたなあ、と素直に感心しました。井上さんは、飛田の存在について肯定はしていないのだと思います。しかし、否定もしていない。寛容とも容認とも違うのでしょう。

 飛田という街があり、そこで暮らす人がいる。そのことに、寛容も容認もない。井上さんを含めた私たち第三者が愛情と呼ぶには、あまりにも身勝手すぎる。ただ、知りたい。分かりたい。きっと、そういうことなんでしょうね。

 複雑な気持ちだ。二人の言に、共感できかねる部分はたくさんあるが、私は二人を嫌いではない。タエコさんが「二階からお客さんと女の子がげらげら笑っているのが聞こえてきたらうれしい」と言った、それに近い感覚なのかもしれない。

 28歳の若さで曵き子をするタエコさんは、井上さんから「現状満足度は?」と聞かれ、「ゼロ%やな」と答えていました。そんなタエコさんは、「飛田から出るの、なんや怖いですから」とも語っていました。飛田は、ここにいなければ絶望しかない人にとって、安心して暮らしていくことができる唯一の街という一面もあるのです。

 社会のあらゆる矛盾を飲み込む多面的なこの街、と帯では語っています。私たちは、この本のタイトル「さいごの色街」という言葉が示すような、日本から失われてしまった情緒が今なお残る街というイメージだけで語りがちです。あるいは、その逆に、このような街はあってはならないと断罪することもあると思います。しかし、この本を読むと、この街は単純なのもではないことがわかります。いや、飛田だけでなく、社会のあらゆることが、本当は、賛成反対で割り切れるほど単純にはできていないのでしょう。

 この本の最後で、そんな、閉じられた、正しく言えば、この社会によって閉じざるを得なかった共同体が持つ負の部分を物語るエピソードが出てきます。飛田特有の料亭形式の風俗営業にまつわるものではありません。どのようなエピソードなのは、ぜひこの本を読んで確かめてほしいと思います。せつないです。それは、飛田だけの特殊な問題ではなく、私たちの社会そのものが持つ問題なのだろう、と私には思えました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年11月 3日 (水)

もし日本で戦争が起きてしまったら、僕は戦争のコピーを書くのだろうか

 馬場マコトさんの『戦争と広告』という本を読みました。重い本。もしかすると、今、懸命に広告の仕事をがんばっている人にはおすすめできない本なのかもしれません。広告人なら、読んだ後、自分自身にこういう問いかけをするのだろうと思います。

 「もし日本で戦争が起きてしまったら、戦争のコピーを書くのだろうか。」

 著者の馬場マコトさんは、馬場コラボレーション主宰のクリエイティブディレクター。私の世代だと、東急エージェンシーの馬場さんといういい方になじみがあるかと思います。1999年に、東急エージェンシーを退社され、「広告を得意先のものにするためには、ひとりのキャンペーンディレクターが、マーケティングからメディアまでをトータルに責任をもってプランニングする必要がある」との考えから、「一人広告代理店」を標榜し、クリエイティブエージェンシーを設立。

 私は、外資系広告代理店出身なので、たぶん馬場さんとは同じ文化にいます。馬場さんは、東急エージェンシーの前は、マッキャンエリクソン博報堂に在籍されていました。私がいた外資系広告代理店文化の中に、ドメスティック代理店の方ではありましたが、東急の馬場さんは確かにいましたし、その文化の中心人物のひとりでした。

 広告は得意先のもの。
 広告はソリューションである。
 報酬モデルはフィーであるべき。

 広告は、目的を持ったマーケティングソリューションであり、よって、それは得意先のものであり、そのソリューションを提供するのが、我々広告人のミッションである。広告表現は、目的を達成するためのひとつの手段であり、アートでもポエムでもなく、ましてや広告クリエーターの自己表現ではない。売り物は、ソリューションそのものであるべきで、報酬モデルはコミッションではなく、フィーであるべき。

 要するに、そんな文化です。そこには、広告を、自己表現のひとつのフィールドとして考えることを嫌悪する心情があります。でも、これは、広告表現の仕事を、仕事として割り切るということを意味するのではありません。むしろ、こういう心情を持つ人の方が、広告表現に自己を入れない分、表現として高度化、緻密化する傾向にあります。この傾向は、ある程度、外資系に限らず、広告表現を真剣に考えているクリエイターであれば思い当たることなんじゃないかと思います。

 ●    ●

 『戦争と広告』は、戦中、戦後を駆け抜けた、広告クリエイターたちのドキュメンタリー。本書の帯を引用します。

広告依頼主は内閣情報局。仕事は戦意高揚を図るポスター制作など。山名文夫、新井静一郎ら「報道技術研究会」の精鋭たちが取り組んだ、最前線の成果から考える、戦争の悲しい宿命。

 この本は、告発、批判の書ではありません。広告人の宿命を描いた本です。化粧品会社で、自らの表現技術を磨いてきた一人のクリエイターが、戦争によって、その表現の場を奪われ、そのとき、内閣情報局から、その才能を国家情宣に生かしてほしいと依頼があった。時代は、戦争一色。だから、断る理由はない。新しい広告、新しい広告表現を懸命に追い求める日々。

 戦争が終わったとき、48歳になった山名文夫さんは「さよなら、みんな終わりだ。」という言葉とともに、戦後の広告界で、新しい広告、新しい広告表現を、リセットするかのように、再び追い求めはじめます。いや、もしかすると、リセットさえしていないのだろうと思います。新しい広告、新しい広告表現という意味では、戦前と戦後は地続きであったのでしょう。

 大政翼賛会で「おねがいです。隊長殿、あの旗を撃たせて下さいッ!」というコピーを書いた新井静一郎さんは、戦後の広告代理店システム構築の中心人物として活躍し、その壁新聞のコピーを「射たせて下さいッ!」と修正したほうが強くなるとディレクション、デザインした花森安治さんは、戦後、「男たちの勝手な戦争が国をむちゃくちゃにしたのだから、今度は自分は女性のために償いたい」として、広告のない雑誌『暮らしの手帖』を創刊。その後、花森さんは、大政翼賛会時代については生涯沈黙しつづけました。

 ●    ●

 戦後、多くの芸術家、文学者、学者がその戦争責任を問われました。しかし、広告人はその責を問われることは、ほとんどありませんでした。それは、広告が、依頼主があり、その基本的な性格を、課題解決のためのソリューションであるとしているからなのかもしれません。いかに広告クリエイターが業界で名が知れていたとしても、広告が世に解き放たれたとき、その表現の裏にいる表現者、つまり、広告クリエイターは、基本的には匿名存在、広告は匿名表現です。

 けれども、そのソリューションの手段である広告表現は、才能や感性など、個人の資質に多くを依存する、芸術的創作によって立つ手段です。元電通関西の堀井さんは、こう言っています。

 「広告を芸術に利用するんやない。芸術を広告に利用するんや。」

 同じ広告人として、至極真っ当な言葉だと思います。広告という命題のもと、芸術だけでなく、生活者としてのクリエイターの思いさえ溶けてしまう。それが、広告。そこに、表現としての広告の捻れがあり、広告の危険があるように思います。

 ●    ●

 『戦争と広告』は告発、批判の書ではないけれども、この本の中には、戦後、吉本隆明さんが行った転向論と同じようなラディカルな投げかけが含まれているように思いました。個人な興味としては、戦後における個人のメンタリティの分断と連続性、そのベースになる広告に対する考え方そのものに興味あります。

 それは、本書の中では、山名さんと花森さんの両氏は、対照的な態度で戦後を生きた人として描かれています。山名さんが書かれた戦前と戦後のポエムを示すとこで暗示的に描かれ、花森さんに対しては、「戦争犯罪から逃げてしまった。」「そこが」「弱さになった」と書かれています。

 また、馬場さんは「戦争責任を追求する人々の視点からは、戦争に傾斜し、加担せざるを得ない表現者の資質と、またそうしなければ暮らせなかった生活者としての視点に欠けると思う」と述べられています。

 吉本隆明さんの転向論の文脈で言えば、戦前は大政翼賛会で広告立案を担当し、その才能を発揮し、戦後は一転して、「男たちの勝手な戦争が国をめちゃくちゃにした」として、戦後の消費者運動を牽引した花森さんの、戦前、戦後を通してのラディカルな活動の中には、アドバタイジングとは何か、プロパガンダとは何か、アドバタイジングがプロパガンダと違うものだとすれば、そこにはどのような違いがあるのか、ということを示唆するものが含まれているように思います。

 本書では触れられていないけれど、表層は真逆な戦前と戦後の活動の中の、見えない同一性にこそ、よりラディカルな問題が含まれているように思います。それは、表層は真逆でありながら、どちらも庶民という下からの視線を偽装した啓蒙、つまり、プロパガンダである、という同一性があり、だからこそ、『暮らしの手帖』という雑誌は、広告と同居できなかったのでしょう。

 ●    ●

 「もし日本で戦争が起きてしまったら、戦争のコピーを書くのだろうか。」

 著者の馬場さんは、率直に「書くだろう」と述べています。そして、だからこそ、「そんな時代を迎えないためには、戦争をおこさないことしかない。」と言います。

 私は、どうだろうか。

 一生活者としては、できればやりたくはない。けれども、職業人としてはどうなのだろう。「書かない」と言いたいし、葛藤もするのじゃないか、とも思います。でも、生活者として、勤め人として、断れるかどうかは、わかりません。もしかすると、これは正義である、もしくは、こういう考え方もあり得ると簡単に納得し、職業人として新しい広告を追い求めるのかもしれません。けれども、少し違う考え方も、あり得るんじゃないか、と思っています。

 2007年9月に、私は「消費者金融のマス広告は是か非か。」というエントリを書きました。あれから、少し時間が経ちました。馬場さんと20年下の世代の広告人である私は、少し違う結論が導きだせる気もしています。この問題は、なんとなく大げさかもしれませんが、世代が乗り越える課題だと思っています。

 その鍵は、前述のアドバタイジング、プロパガンダの違い、そして、アドバタイジングの社会性、言い換えれば、社会的表現としてのアドバタイジングの限界。簡単に言えば、社会的なコンセンサスを根拠にしながら、邪悪なインサイトは描いてはならない、という社会の一部である企業表現としての広告の範囲を、広告制作者自身が、自ら問い直すことなんだろうと思います。

 要するに、広告の再定義の問題のような気がします。その意味では、今言われているような、PPPなどの小さな問題も、じつは地続きなんだろうと思うのです。

 ●    ●

 私たちの世代は、戦争を知りません。馬場さんの世代も戦争を知らない世代であるけれど、より戦争が感覚的につかめない世代であることは間違いはないでしょう。戦争とは、社会のコンセンサスが戦争イコール正義である状態なのだから、上記の考えは、もしかするとまったく無効になってしまうのかもしれません。その意味では、馬場さんが言う「戦争をおこさないことしかない」という結論は、正しいのでしょう。

 でも、そうであるからこそ、私たち下の世代は、そうなる前に考えていかなといけないのではないかと思います。馬場さんと違う結論を導きださなければいけないのではないか。遠くを見通して、小さなこと、些細なことにも注意深く耳を傾けながら、新しい広告の倫理をつくっていくしかないのだろうと思います。世の中に必要とされなければ、広告で飯を食うことさえできないのだから。それが、一生活者としての広告人の視点のように思います。少し、青臭いけれど。

 だからこそ、この『戦争と広告』のあとがきに書かれている馬場さんの言葉を、結論としては受け止めませんでした。それが、広告人の先輩が届けてくれたこのという誠実な仕事に対しての、後輩広告人がとるべき正しい態度なのだろうと思っています。

| | コメント (17) | トラックバック (0)

2010年3月29日 (月)

ん、ほんとに、そうなん?

 てな表現が持つ感情のニュアンスは、「ん」という文字が確立されてなかったら、表現するのはちょっと難しかったんでしょうね。きっと、このような言い方は、時代時代で言い方は違えど、話し言葉ではずっと前からあったんでしょうが、それを書くための文字というものが発明されなければ書けないわけで、それを考えただけでも「ん」という文字の表現力はすごいもんだなあ、と。

 私は、ブログでは話し言葉で書くことが多いけど、たくさんの「ん」を利用することで可能になっていると思うし、いろいろな発音の「ん」を「ん」のひと文字で代用するという簡便化があったからこそ、これだけ広まったということもあって、「ん」の謎ときが示唆するものって、じつは様々なことに応用可能なことなんだろうとも思ったりしました。

 「ん」というのは、しりとりで負けになっちゃうような、普段はあまり有り難みがわかりにくい奴ではあるけれど、結構、いい仕事をするもんだなあ。数学でも、虚数の発見で格段に世界が豊かになったとも言うし、いろんな分野の「ん」みたいなものを発見したりつくりだしたりしていくことは、結構大切なことなんだろうな、と思ったり。

 なんかへんな読み方だけど、もうちょいがんばってみようかな、なんて思ったなあ。日本語の話だけど、読み方によっては、きっと、いろいろな分野の人たちにいろいろな示唆があると思うんですよね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年3月26日 (金)

んー

 んー、おもしろかったなあ。

 何気なく本屋さんで手に取った新書で、ずっと鞄の中で眠ったままだったんですよね。タイトルが面白そうだなあ、なんて感じで、他の本とあわせて買いました。この手の本って、買ったこと自体忘れちゃうんですよねえ。でも、電車に乗って、なんか読みたいなあと思って、鞄を開くと、この本しか入ってなくて、でもって読み出したら、もう止まらない、止まらない。

 本の名前は、『ん 日本語最後の謎に挑む』です。新潮新書から出ています。著者は、大東文化大学准教授で中国及び日本の文献学がご専門の山口謠司さん。山口さんはマルチな活躍をされていて、林望さんのファンの方だと、イラストレーターとしてご存知の方も多いかと思います。

 冒頭に、こんなエピソードが出てきます。

 ところで、唐突ではあるが、筆者の妻はフランス人である。彼女は日本の伝統文化に対して深い興味があるというタイプのフランス人ではなく、結婚してから日本にやって来て、日々の生活のなかで日本語を習得した。そのため日常生活の会話ができる程度の日本語力しかない。
 その妻が、時々、イヤな顔をして筆者に言うことがある。
「そういう音、出さないでくれる」
 彼女が「出さないでくれる」という音は、筆者が何かを考えていたり、どう応えていいか分からずに「んー」という返事をする時の声である。

 この山口さんの奥さまの反応にはどのような理由があるんだろう。その謎に、いろいろな角度から、あの手この手で迫っていきます。空海、最澄、紀貫之、清少納言、本居宣長、幸田露伴。まさに、オールスターキャスト。

 この本には、日々使っている書き言葉や話言葉を考えるうえで、いろいろな示唆があって、それはまたいつか書きたいなあ、と思いますが、今は解説なんかより、ただただ読んでみてください、というしか書くことないよなあ、と思うくらい、エンターテイメントとしても面白かったです。まるで、よくできたテレビ番組みたいな、そんな面白さがあります。というより、もともと本が持つおもしろさって、本来はこういうことで、その論法をテレビが模倣した、というのが順序で言えば正しいんでしょうけどね。

 きっと、編集の方と山口さんの関係が絶妙なんでしょうね。本書に出てくる言葉で言えば、「阿吽の呼吸」。

「あっ、その‘ん’についてのお話、おもしろいですねえ。山口さん、今度、その切り口で、一冊書いてみませんか。」
「えっ、‘ん’をテーマにしてですか。んー…」
「あっ、こめんなさい。やっぱり、ちょっと無理がありますか。」
「いやいや、それ、すごくおもしろい!」

 みたいな、会話を想像してしまいました。この本が示す、日本語における「ん」の役割って、つまりはこういうことなんですよね。私も、わりと「ん」をよく使うほうですが、その理由がよくわかりました。それと、「だ・である」が苦手なわけも。

 ほんと、久しぶりに新書らしい新書を読んだ気がしました。最近は、新書は、脱稿から出版までの速度が速くなって、長文ブログという感じのものも多いけれど、もともとは、文庫に対する新書というのは、こういうおもしろさを提供するものだったんだろうなあ、なんてことを思いました。

 おすすめです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年1月 6日 (水)

昔話のようでもあり、同時に未来の話のようでもある

 

Japangraph_2

 
 カメラマンの森善之さん主宰の「七雲」が編集・制作する『JAPANGRAPH(ジャパングラフ)』というグラフ誌があります。「暮らしの中にある47の日本」という副題の通り、日本の47都道府県をひとつずつ、「七雲」のカメラマンたちが丁寧に取材し1冊にまとめるという趣向です。第1回目の滋賀県が出来上がりました。

 ジュンク堂などの書店に並んでいます(恵文社一乗店では通販でも扱っているようです。1万円以上で送料無料。他の本と合わせていかがですか)。B5変形サイズ、オールカラー108ページ。価格は、税込みで800円です。「七雲」のカメラマン秋山さんのブログからも購入できるそうです。
 

100105231256

 
 滋賀県は琵琶湖を中心とした水の国です。湖西の街、新旭町には湧き水を利用した川端(かばた)と呼ばれる水場があり、そこで野菜やお米を洗い、食器や鍋や釜も洗うそうです。言わば、公共の台所です。その水場には、鯉も住んでいて、食器についた米粒を食べたりするそうです。

 その川端を訪れた森さんは、こう書いています。

上流に住む人は下流の人を思いやり、人だけではないという感性をも育ていていく。そういう人々の意識がなければ、かばたの文化や、水とともにあるこの土地の暮らしは成り立たないのだ。昔話のようでもあり、同時に未来の話のようでもある不思議さを感じていた。

 そこには過去のような今があって、けれども、それは決してノスタルジーではなくて、まぎれもない現在の人の暮らしであることを、「七雲」のカメラマンたちの銀塩フィルムは定着していました。

 過去のようであるけれども、それは現在であり、過去のようであるがゆえに、それは未来を指し示しているのだろうと思います。

 『JAPANGRAPH』という試み。私も応援したいと思っています。

 追記(1月8日):

 森さんよりお電話で「明日の朝に、次号に特集される岩手県に入ります」と連絡がありました。「七雲」の若いカメラマンたちも、それぞれ岩手県の各所に向かうそうです。次号は春に発売予定、とのことでした。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2009年9月 6日 (日)

[書評] 『無印ニッポン 20世紀消費社会の終焉』堤清二 三浦展(中公新書)

Muji  セゾングループ元会長での堤清二さんと、「アクロス」元編集長、今話題の『下流社会』や『非モテ!』の著者であるマーケター三浦展さんの対談集。

 堤清二さんが、小説家・詩人としての名前である辻井喬名義ではなく、ゼゾングループを率いてきた経営者として対談に臨まれているところが、言い過ぎでもなんでもなく、この本の最大の魅力であると言ってもよいと思います。

 9月4日に書いたエントリでも触れましたが、兵庫県尼崎市塚口にある「つかしん」という街型ショッピングゾーンについて、ほんの数ページではありますがきちんと率直に触れられていました。「つかしん」は、今はグンゼの経営になっています。私はここ最近は訪れたことがありませんのではっきりしたことはわかりませんが、ブログ検索などで見ると、まあまあ市民に愛されている施設ではあるようです。

 私は大阪育ちですので、セゾングループの文化はあまり享受していません。でも小さいながらに確実にあった体験としては、南大阪の郊外にある八尾の西武百貨店の最上階にあった八尾西武ホールでの映画観賞。私の世代の関西の若者は、少しマイナーな映画を上映してくれるホールは、扇町ミュージアムスクエアか八尾西武ホールという感じだったんですね。八尾は大阪中心部からは少し離れていましたが、電車に乗って通っていた記憶があります。大林宣彦さんの自主制作映画の上映や、寺山修司さんの映画を見たのもここ。「廃市」や「書を捨てよ街へ出よう」はここで観ました。

 ちょっと余談になりますが、寺山修司さんの映画「書を捨てよ街へ出よう」は、クライマックスシーンに急に画面がホワイトアウトし、主人公の私の独白が延々と流れるシーンがあるんですね。でも、当時の八尾西武ホールはおせじにも防音が良くないんです。言い方は悪いけど、平場に間仕切りがあるだけのホール。隣にはおもちゃ売場があって、おもちゃの音やら子供の笑い声なんかが、シリアスな独白シーンにまじるんです。確か、主人公である私が津軽弁で「俺を忘れないでくれ。俺を忘れないでくれ。俺を忘れないでくれ。」と叫ぶのですが、その台詞に混じって、おもちゃの音と子供の笑い声。それが、妙にリアルで。今も脳裏に焼き付いてます。

 関西は、地元資本の百貨店が強い地域で、東京資本の百貨店は当時ほとんどありませんでした。伊勢丹も松屋もありません。もう今はありませんが、名古屋資本の松坂屋が天満橋にあり、三越が北浜にあっただけ。高島屋や大丸、そごう、阪急などが東京に進出している関西資本系百貨店とは対照的でした。そんな中、郊外に八尾西武をつくり、またまた郊外に「つかしん」をつくったセゾングループは、なんか意欲的だな、と思いましたし、その一方でつくる場所が郊外ばかりだったの、それを不思議に思ったところがありました。当時高校生だった私には、セゾンの郊外戦略なんてものはわかりませんでしたし。

 この本は、書名が示しているとおり、無印良品の「これでいい」コンセプトをもとに、日本のこれからを探っていくというのもですが、この数ページの「つかしん」の構想とその失敗体験の中に核心があるように思えました。堤さんは、「つかしん」をどう考えたかを率直に短い言葉で語っています。

見えない共同体のようなものを考えていましたね。規模は小さいかもしれませんが、若者たちはいろいろな場所でそういうものを作っています。たとえば、あまり有名ではないシンガーソングライター。そのまわりには、一〇〇人単位の共同体ができている。それは、職場共同体や家族共同体や地域共同体とは似ても似つかないテイストによる共同体です。(134P〜135P)

 また、失敗の原因については、こう語っています。

つかしんでは、百貨店の人をトップにしたのが間違いでした。テナントや業者を下に見る。村にとっては全員がテナントだから、対等でなければならない。わたしがそう言うと、わかりました、とは言うんだけれど、実行が伴わなかった。(135P)

 パッケージ型ではなくパッサージュ(街路)型の都市計画。具体的に言えば、大崎ではなく五反田的な都市計画。もっと言えば、自然発生的に成長した高円寺や麻布十番、大阪で言えば、京橋や鶴橋のような入り乱れた商店街を持つ、多層構造、重層構造の街づくり。これは、街づくりだけの話ではなく、クロスメディア環境にも、コミュニケーション環境にも援用できる、所謂「場」の話だと私は思っているのですが、そういうパッサージュ型の構想というものが可能なのか、可能であれば、可能にならない理由は何なのか。そういう課題を喚起させてくれる話でした。

 この話に関連して広告人として最近思うことは、同じように、エンクロージャー戦略というか、消費者を囲い込み育てていく、のようなやり方はもうそろそろ終わりに来ているのではないか、ということ。それは、旧来型のマーケティングの終わりでもあり、基本であるターゲティングという手法自体がもはやどうしようもなくゴールに向かっているように思えます。行動ターゲティングとか、そういう試みが花盛りな時に言うのは、なんだか時代遅れな感じがしますが、そのターゲティングの発想の根幹にある「見つける・育てる」という考え方自体が、消費の楽しさや自由を奪い、ますます硬直化させてしまっているのではないか、と思います。

 これは、ある意味で反ブランド的な考え方になりますが、そういう反ブランド的な「これでいい」というコンセプトを消費者に投げかける無印良品という「ブランド」はやはり気になります。これは本書でも触れられていますが、ユニクロも同じ。大衆の終焉、マスの消滅、とは言われていますが、都市という視点で見れば、そこには、子供、若者、中年、高齢者、すべてを呑み込む、まさに大衆のいる場ではあります。これは、人間が社会を形づくる限り変わることはありません。

 であるならば、マスプロダクトというものがこれからも成り立つには、論理的には無印的あるいはユニクロ的な「これでいい」的なコンセプトしか持ち得ないのではないか、とも思えます。現実は、まだそこまでは来ていないけれども。しかしながら、未来のマスプロダクトを思考する無印的なものが「最大公約数」的な発想では作られていないというアイロニーが、何か大衆というものの熱が少しずつさめて来て、平熱へと行き着く未来を示しているように思います。

 それは同時に「これがいい」というブランドの本質について、もう一度考え直すことでもあるのだろうと思います。話が循環しますが、そして、この新しい「これがいい」を考えることは、地方あるいは地域を考えることでもあるのだろうな、その土地の風土や文化に根ざした「これでいい」と「これがいい」をコインの裏表として考えるとこだと思います。そう考えると、やはり、最初の疑問に戻るのです。

パッサージュ型の構想というものが可能なのか、可能であれば、可能にならない理由は何なのか。

 可能であるという答えがあるかもしれないと思うのと同時に、可能でないという答えもあるだろうな、と思います。もしかすると、パッサージ型への自然成長を阻害しない構想だけが求められる、ということかもしれません。このあたりの最前線では、今どういう考え方があるのだろう。ちょっと知りたくなりました。

 対談本でもあるし、答えを探している人にはもの足りないかもしれませんが、人によってそれぞれの気づきがある本かもしれません。おすすめです。ではでは。

 ■関連エントリ:ユニクロは、日本の人民服である。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年9月 4日 (金)

「つかしん」まわりのこと

 西武、パルコ、無印まわりの話で、ここまで率直に「つかしん」について話されているのは初めてではないでしょうか。私は、セゾン関連では「つかしん」プロジェクトがずっと気になっていました。消費社会や都市、コミュニティ、建築などいろいろな分野に波及する様々な学びの種が含まれているような気がしていて、そのことをまわりに話しても、まあ「つかしん」自体をあまり知る人がいなかったので、うーん、なんともだなあ、と思ってきたので、これはありがたかったです。

 まだ読了していないので、それ以上は書けなさそうなんですが、とりあえずおすすめの本とは言えそうな気がしますね。私がこの本を知ったのは、新聞の社説でちょっと触れられていたからで、そんなオールドタイプの情報摂取の仕方も、なんかいろいろ、これからの諸々を考える上で感慨深いなあ、と思ったりしています。

 とともに、なんとなくわかってきたのは、こういうちょっと気になるな、みたいなことを書く時は、Twitterみたいなツールは便利なんだろうな、ということですね。ブログ、特に私のような書き方をするブログは、ツール自体がある程度の長さで整理して書け、みたいなことをツール自体が要求をしているような気がして、実際、トップページに短いエントリが入るのは、なんとなく気が引けるんですね。

 Twitterで書くなら、こういう感じかな。

 「この本、おもしろいよ。セゾンまわりで「つかしん」に触れられてるの、はじめてかも。URL」

 ま、おすすめです。きちんと読んだら、きちんと感想を書きたいと思います。ではでは。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年7月15日 (水)

[書評]『「買う気」の法則 広告崩壊時代のマーケティング戦略』山本直人(アスキー新書)

 仕事の発注があって、営業、マーケ、クリ、SPなどのメンバーが集められ、ああだこうだと会議を重ねて、でも結局、なんだかんだ話しても結論が出ず、さて、分科会だということで、それぞれ考えるみたいなことになり、もう一度集まって、「どう?考えた?」なんてこと言いながら、途中までできたマーケが作ったパワポ企画書を見ると、そこには「AISASとは」と紙のまん中に大きな文字でレイアウトされてて、そこから10ページほど説明が続く、みたいな。まあ、そこまで我々広告会社は馬鹿じゃないし、きちんとものも考えている気もするけど、わりとそれに近いものは、確かにあります。

 ちなみに、「AISAS」というのは、AIDOMAの法則という古典的モデルから発展させた広告効果モデル。電通の登録商標でもあります。知っている人は多いかと思いますが、一応。

AIDOMA
Attention=認知
Interest=関心
Desire=欲求
Memory=記憶
Action=購入

AISAS
Attention=認知
Interest=情報検索
Search=情報収集
Action=購入
Share=情報共有

 あきらかにネットを意識した広告効果モデルである「AISAS」は一世風靡しましたが、ブログ「広告って、なに?」でおなじみの山本直人さんの新しい著作『「買う気」の法則 広告崩壊時代のマーケティング戦略』(アスキー新書)では、こう書かれています。(山本さん及びアスキー・メディアワークスの渡部さん、献本ありがとうございました。)

 さて、このAIDOMAからAISASという話は大変わかりやすいのだけれど、個人的には「アレレ?」と思った。というのも私が広告会社の在籍時に「AIDOMA」というモデルは、ほとんど使われなかったからである。(P124)

 この感覚は、私にもあって、きっとAIDOMA、AISASは、購入もしくは情報共有という成果から逆算して心理を追っている部分があって、そもそものはじまりである「認知」に至る部分をあえて考えないようにしているところがあるからです。この「認知」に至るには、柄谷行人さんの言葉を借りると、そこにはその大小にかかわらず、必ず「命懸けの飛躍」があって、そこの部分をああだこうだするのが、我々広告人、というかクリエイティブの最初の仕事だと、他の人は知りませんが、とりあえず私は思っていたりします。(とは言いつつ、AISASは、広告効果の過程をうまく語れていて、それなりの成果も出しているとは思いますが。)

 その部分は、山本さんの言葉を借りれば、購買決定モデルで言うところの「問題意識=Problem recongnition」であるだろうし、消費者の心理的な部分に着目すれば「インサイト」だったりするわけですが、そういう「認知」を実現する初期条件に着目して、現代のクロスメディアにおける戦略(私的には戦術かな)の指南をするチャートが、山本さん考案の「ABCDモデル」です。

 「ABCDモデル」の詳細は本書のいちばんの肝だと思いますので、まずは著作を読んでいただくとして、X軸を「購買時の慎重度」とし、Y軸を「長期関与者の存在」としているところが新しく、戦術決定においては、わりとこれで解ける問題もあるんじゃないかな、と思いました。ただ、やはりそれでも思うのは、それぞれのメディアが持つボリュームの問題があって、そのジレンマはまだまだあるかもなあという感想は持ちました。

 この「ABCDモデル」は山本さん自身が「ヤマモト・グリッド」と命名しようか躊躇した、と書かれていましたが、私は、今度、企画書で使う時は「ヤマモト・グリッド」と紹介しますので、山本さん、よろしくです。

 他にも、広告について、いろいろ刺激的な示唆があり、特に「事業主」の方で広告を担当している方は読むと面白いと思います。でも、本当は反発はあるかもですが、こういう本は広告会社の人が読んでおくほうがいいんだろうな、と思いますけどね。USP=Unique Selling Proposition)の部分とか、What to sayとHow to sayの部分とかについては、必ずしも私とは考えが同じわけではないし※、とりあえず戦略の部分に限定しても、やはり広告会社みたいな「外部性」は必要な部分はあると思いますし、たとえ中の人であっても、いかに中で「外部性」を持っていられるかというのが勝負になるとも思います。これは、企画を担当する人の宿命みたいなものかもしれませんね。同じような問題意識を持つ広告人として、いろいろこの本から自分の考えをあらためて批判的に検証し直す部分も多々ありました。

 違いの部分は、私が外資カルチャーの人間だから、ということと、私のコアの部分をクリエイティブにおいている、みたいなところがあるんでしょうね。個人的には、経歴的には私と山本さんが逆のキャリアの進み方をしていて、にもかかわらず、同じ時代で同じ課題を共有し、それぞれの解が似ているようで違うという部分が、非常に面白く、かつ、非常に刺激的でした。

 

 USPについては、1960年代にロッサー・リーブスが考案し、その後、ベイツという広告会社が提唱し実践。「お口で溶けて手で溶けない。M&M'sチョコレート」みたいな成功例を示したけれど(参照)、その後、USPはその理論の限界性みたいなものを指摘されていますし、本家のベイツは本国では解散し、そこから発展させたSMP=Single Minded Propositionを提唱したサーチ&サーチは、SMPを捨ててしまうことになります。でも、本書が言うUSPは、マーケティングの基礎としての、もっと基本的な部分のオリエンの意味でしょうけど。

 また、How to say、What to sayについては、昔、外資系を中心にプランニングと定着の分離で「クリエイティブが思い切り遊べる砂場」理論とかがありましたが、どうもうまくいったとは言い難く、コミュニケーションデザインの潮流から言っても、それは不可分なのではないかという思いが私にはあります。

 では、山本さんの著作のテーマでもある、事業主と広告会社の関係はどうなるかというと、結論的には山本さんと同じような感じになります。というか、もっと過激なことを考えてしまっているかもです。お互いにリスクを負った関係がベストなんでしょうね。それには、我々専業広告人だけでなく、きっと「事業主」側も「変わらなきゃ。」がいるんでしょうね。

 このブログで著作を知った方、山本さんのブログの関連エントリ「まもなく、新刊。」もあわせてどうぞ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)