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2009年11月16日 (月)

普段着の広告論

 とりたてて急ぎの話でもないのですが、「普段着の広告論」という表題で広告論めいたものをまとめてみようかなと思っています。時間を見つけてじっくりゆっくりという感じになるかと思います。このブログで書いてきたことなんかも、もう少し分かりやすいかたちで整理して、ひとつの広告論にまとまればなあ、なんて考えています。

 私が先輩たちから広告を学んできた頃と今では、広告をとりまく状況が違ってきています。これまで学んできたことが、ほんの少しだけ時代に合わなくなってきたような気がします。だから、みんな自信をなくしてしまったんですよね。

 でも、どんな時代でも、不特定多数が見る場所でメッセージを伝えるという、インフォメーションではなくアドバタイジングの意味での広告という行為は普遍だという思いも、私の中にはあるのです。このあたりの思いを、なんとか言葉にできれば、という感じです。

 広告をとりまく状況の変化には2つの要因があります。

 ひとつは、経済停滞。あえて不況ではなく経済停滞と書いたのは、今後少し上向きになることはあるかもしれないけれど、80年代のような状況はたぶん、これからはやってこないだろうなと思うからです。この低成長の経済状況の中で広告というものを考えていかなきゃならないんだろうな、という思いが私にはあります。

 もうひとつは、メディアの変化。これは、言うまでもなくウェブの出現によるメディア構造の変化です。これは、どう理屈をつけても、今の状況の変化の要因になっているとしか言えないでしょうね。例えば、私がブログを通してこういうことを書いているということが示しています。不特定多数への情報発信の敷居が下がって、メディアが多様化し、既存メディアの特権性みたいなものが薄まれば、当然、ひとつひとつのメディアで発信される広告メッセージは、その特権性が薄まることになります。それは、どうしようもなく道理として、そうなります。

 この2つの要素をきちんとふまえて広告を考えていかないといけない。けれども、それは前提に過ぎません。もちろん、その前提の中での、現実的なあれこれ、例えば、業界としての広告の規模が縮小するとか、そういったことは、個々の人の営みの中では切実ではありますが、その切実さを根拠にして道理を語ることは、それがたとえ身を切られるようなものであるとしても違うのだろうな、という意識があります。喩えて言うなら、もし私が広告で食えなくなっても、広告は、そんなことは関係なしに続いていく、ということです。

 ルサンチマンや自己意識を普遍の道理にしてはいけない。このことを頭にいつも置いていないと、その思考は現実と乖離していく思うのです。そう思っていても、人はルサンチマンや自己意識を根拠にしてしまいがちな生き物だし、その現実からの乖離は、いくつかの歴史がそれを物語っています。なるだけ、状況の変化を前提にしつつ普遍を語りたい。難しいことではあるけれど。

 その要素が持つ意味を過剰に意識して、例えば、広告の終焉の危機を煽るでもなく、最先端手法で未来を予言するのでもなく、私は、この状況の中で、ビジネスの一行為としての広告が、きちんと多くの人々に受け入れられて、きちんと効果も出して、「やっぱり広告をやってよかったな、広告って力があるよな」と思えるものになるのかを考えていきたいと思います。

 それはつまり、よそ行きではなく、「普段着の広告論」です。タキシードを着たブランド論やクリエイティブ技術ではなく、その気になれば誰でも明日からすぐにはじめられる、そんな広告論が書ければな、と思っています。

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