カテゴリー「メディア」の21件の記事

2015年9月 7日 (月)

「ラジオってどうやって聴くんですか?」

 嘘みたいな話ではあるけれど、人気アイドルがラジオ番組をはじめるというようなニュースが出たときなんかに、ラジオ局や家電量販店で若い人から「ラジオってどうやって聴くんですか?」という質問が寄せられるらしい。また、若い人に「ラジオって聴いてる?」と質問すると「聴いてる、聴いてる」と答えるので「ラジオで?それともradikoで?」と尋ねると「うんん、YouTubeで」。まあ、どちらの話も笑い話ではあるけれど、あながち嘘ではないんだろうなあ、とも思ったりします。

 これは前に書きましたが、現在のラジオの聴取率は関東広域圏で6%前後。曜日や時間帯によって変わりますが、大雑把に言えば、100人いれば6人くらいラジオを聴いている計算になります。ちなみに、ラジオの聴取率調査が始まった2002年の聴取率は関東広域圏で8.3%でした。現状をどう評価するかは、数字の読み方を知る知らないによって違うでしょうし、立場によっても異なるのだろうと思います。

 よくラジオの聴取率はradikoらじる★らじるを含まないよね、という話がでるんですが、それは間違い。受信機に機械を取付けるテレビと違って、ラジオは個人に質問する形式なので、家で聴いても、お店で聴いても、歩きながら小型ラジオで聴いても、radikoで聴いてもラジオを聴いたことになります。なので、radikoやらじる★らじるができてラジオ復活、みたいな話は、まあ、かなり盛った話で実際とは違います。それは、あえて言えば、これからの話。個人的には大いに期待はしていますが、今のメディア環境の中でのラジオメディアの地位低下は、複層的な問題がからみあっていますから、これはいろいろ時間がかかりそうな気がしています。

 現象として言えば、聴取率が3%から4%下がると、冒頭のような「ラジオってどうやって聴くんですか?」というようなことが起きる、ということなんですね。こういうことが起きるということは、かつてラジオを聴いていたのに今は聴かなくなってしまった人の中にも、潜在的にあるインサイトだということで、「ラジオってどうやって聴くんですか?」という質問に答えることは、それなりに意味があることだと思います。

 では、どう答えるか。考えてみると、これはほんといろいろあるんです。多種多様。しかも、どの聴き方も一長一短。それは、ラジオのメディアとしての短所であると同時に、後述しますが、ラジオメディアが放送メディアとして、テレビと比較してもかなり先を行った先進メディアであることの証拠でもあります。そして、メディアとして見た場合に、それこそがラジオメディアの面白さでもあると思ったりします。個人メディアであるブログの特性を活かして、自分のわかる範囲で、かつ、かなり独断と偏見を交えながら、いろんなラジオの聴き方を書いてみたいと思います。

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 ラジオで聴く。

 これは定番中の定番で、今年、日本でラジオ放送がはじまって90年ですが、これまでもずっと行われてきたラジオの聴き方です。

 しかしながら、今、この聴き方が、とりわけ都心部においてかなりきつい聴き方になってきています。いわゆる難聴取問題です。特にAMに顕著で、コンクリートのビル内ではちゃんと聴けないこともかなり多く、その一方で、手頃な値段で買える、いわゆる安いラジオ受信機の電波受信性能は下がってきている傾向にありますので、ラジオを買ったはいいけど、こんなんじゃまともに聴けないじゃないか、ということが十分あり得ます。

 じつは、ラジオ各局は、この電波受信をめぐる環境の悪化に苦しめられてきました。以前ならうまく聴けたラジオが今、うまく聴けなくなってきている。そのことは、経営的な観点からも、防災的な観点からも、かなり問題でした。

 そこで、以前はラジオもテレビと同様に地デジ化しようという動きがありました。デジタル化によって、難聴取はある程度解消はされますが、今度は別の問題が出てきます。テレビと同じで、地デジ化で今までのラジオではラジオが聴けなくなってしまうんですね。それはあまりにもリスクがあり過ぎる、ということで、この動きはなくなりました。その代替として、今、進められているのがAM放送のFM波での同時放送です。FM補完放送と呼ばれ、地デジ化で空いた1chから3chの周波数を使います。AMはこれまで通りです。首都圏、関西圏などは、この秋以降となりますが、鹿児島の南日本放送を皮切りに、続々とスタートしています。

 どんなラジオでラジオを聴くか、ということを考える際には、このFM補完放送を考慮に入れなければ損をしてしまいます。旧テレビ地上波アナログの1chから3chの音声が聴ける古いタイプのラジオなら、このFM補完放送は聴けますが、テレビの地デジ化以降に生産され、かつ、FM補完放送対応のラジオが出るまでの期間に生産された多くのラジオでは残念ながらFM補完放送は聴くことができません。また、このタイプのラジオは今も数多く流通しています。また、海外製の高級機も、まだ未対応のものが多いです。購入の際は、FMの受信周波数が76MHz〜108MHzになっているかどうかの確認をおすすめします。

 そのあたりを考慮しながら、どんなラジオを選べばよいかを考えてみます。僕は、今のラジオ電波受信環境を考えると、ラジオは多少値が張っても基本性能が高いもののほうがよいと考えています。音質にこだわる、インテリア性を求める、など様々なニーズはあるかと思いますが、ここでは個別ニーズは考えないこととします。また、震災でラジオの重要性がクローズアップされ、できればラジオは備えておきたいという防災的観点も、せっかくラジオを買うのですから考えてみたいと思います。いつも聴く用に1台、防災用に1台というのが理想ではありますが、ちょっともったいないですし。

 基本性能が高い。持ち運べる。いざというとき電池で動く。この3点を考えておすすめは、これ。

 少々デザインが古いですが、AM、FMともに受信性能がかなり高く、スピーカーも大きく音質もいい。いわゆる普及帯価格の中ではかなりおすすめ。もっと受信性能が高い高級機はありますが、普通に使う分には、これ以上はないのではないでしょうか。もちろん、ワイドFM(FM補完放送)対応。電池でも動きます。えっ、今どきステレオではないの、と思う方もいるかもしれませんが、屋外FMアンテナを設置しないでラジオのロッドアンテナを立てて聴く場合、より雑音のない音で受信できるモノラルのほうが、日常使いではよい選択かと思います。

 でも、デザインが好きではないとか、もっと大きいもの、あるいは小さいものがいいと思う方は、実売5000円から10000円くらいのソニー、またはパナソニック(どちらもラジオ作りに熱心)のものであれば、あまり問題は出ないように思います。

 防災用には、こちらがおすすめ。

 Amazon.co.jpでもラジオでベストセラー1位になっていますね。これがいいところは、同種の防災ラジオと比較しての受信性能の高さ。ラジオは多少値段が高くても、受信性能。これはラジオ選びの鉄則です。ただし、現在のところ注意が必要なのは、現行機はワイドFM対応ではないということ。つまり、これでFM補完放送は聴けません。ちなみに、この機種は手回し発電でスマートフォンを充電できます。こういう気配りは、さすがソニーだと思います。

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 ケーブルテレビで聴く。

 うちはケーブルテレビではないから、どうでもいいや、と思った方もぜひ読んでみてください。ラジオのデジタル化というかつての動きの中で、実現すれば、かなり面白いことになったのではないか、と個人的に思っているのが、このテレビで聴くというラジオの聴き方です。古い地デジ対応テレビのリモコンに、Dラジオというボタンがあるのは、その頃の名残。Dラジオ、つまりデジタルラジオのことです。このテレビでラジオを聴くという方法、インターフェイス的にはまだまだ課題はあるものの、首都圏、関西圏、福岡圏のJ:COMで実現しています。

 利用方法は、リモコンでJ:COMテレビを選曲し、dボタン(データ放送)を押し、そこからラジオ局を選択。少しめんどくさいですが、テレビに飽きたらラジオ、という選択肢ができることは、今後のラジオメディアを考える際に、とても重要だと僕は考えています。仕組みとしては、FM補完放送やradikoと同様、同時再送信です。

 参加局は、首都圏はTBSラジオ、ニッポン放送、文化放送、関西圏は毎日放送、福岡圏はRKB、KBC。いろいろ課題はあるかと思いますが、こういう流れができたことはラジオメディアにとっては未来に向けての大きな一歩だと思っています。ラジオ、ケーブルテレビともに他局も追随してほしいです。

 また、あまり知られていないのは、FM局に関しては、多くのケーブルテレビ局は同時再送信を行っています。残念ながらSTBからテレビ受信機への出力はできないのですが、アンテナ端子(ケーブルテレビ出力端子)とシステムコンポなどのFMチューナーを同軸ケーブルで接続することで、通常のFMアンテナ端子とつなぐ場合と同じように高音質出力ができます。屋外にFMアンテナがなくてもクリアな音質でFMの音楽放送が聴けるのは、かなりのメリットではないでしょうか。

 ※上記AMラジオの同時再送信に関しては、デジタルテレビの難聴取対象地区の集合住宅でアンテナではなくJ:COMのケーブルテレビ回線でテレビを受信している該当地区の世帯であれば、J:COMと有料チャンネルの契約しなくても利用できます。FM放送に関しても同様で、こちらは周波数変換パススルーという技術だそうで、これまでの屋外FMアンテナと同じように同軸ケーブルで接続するだけでクリアな音声で受信できます。配信されている放送局であれば、これまで距離が遠いなどの理由で雑音が入っていた放送局もクリアな音質で受信できるので、FMアンテナからの移行にもメリットはあります。(2015年9月9日追記)

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 radiko(民放ラジオ)とらじる★らじる(NHKラジオ)で聴く。

 ネットの常時接続環境が安定していれば、IPラジオ同時再送信という方法は、もともと難聴取問題の解消のためにできたものですので、都心部に難聴取環境が多い現在、もっともラジオを安定して聴くことができる方法です。スマートフォンでは、各サービスともアプリをダウンロード。PCではサイトにアクセスすることで簡単に聴取できます。

 物理的な制限がある電波ではなく、ウェブを利用したデータ通信を利用していますので、原理的にはどこにいてもネット環境であれば受信可能ですが、民間放送ラジオ局が参加しているradikoの場合は、放送免許における放送エリアに近づけるために、受信側のIPアドレスで都道府県を判定しエリアを決定しています。大阪にいれば大阪府と判定されます。放送免許による放送エリアにしたがって受信可能ラジオ局をリストアップしているので、大阪府でエリアによっては電波の受信が可能で普通に聴くことができるKBS京都や京都のα—STATION、和歌山放送などはリストには出てきません。地域によっては、地元局1局、放送大学、短波のため放送エリアが全国であるラジオ日経の3局4チャンネル、もしくは地元局がradiko不参加の場合は、地元局がなく放送大学とラジオ日経の2局3チャンネルしか選択できないこともあります。一方、東京の場合は、12局13チャンネル、大阪の場合は、10局11チャンネルの選択肢があります。

 ※後に調べると違っているようです。例えば、放送免許ではラジオ関西は兵庫県県域、アール・エフ・ラジオ日本は神奈川県県域ですが(参照)、大阪府、東京都でリストアップされます。また放送サービスエリアで厳密に区切られているようでもなさそうです。各局の方針や調整などもあるのかもしれません。(2015年9月9日追記)

 上記の理由により、一言でradikoと言っても、地域で温度差があることは否定できません。この情報の地域格差は、広告モデルの限界といっていいだろうと思います。一人あたりの放送局数は、自分の住む地域の広告市場の大きさに比例してしまいます。一方、広告市場に依存しない公共放送であるNHKが聴取できるらじる★らじるは、全国どこにいても仙台、東京、名古屋、大阪の放送局を選ぶことができます。

 また、radikoのIPアドレスを利用した地域判定はWiMAXなどのWiFiを使った移動通信系ウェブ接続サービスではうまく機能しません。接続した際に任意で選ばれる基地局で地域が判定されてしまい、東京都にいても大阪府や山口県で判定されてしまったりすることがよくあります。これは技術的には回避不可能とのことで、希望の地域判定が出るまで根気よく接続し直す以外手がありません。地域判定のあるradikoの大きな弱点のひとつとなっています。

 大きな利便がありつつも弱点もあるradikoですが、昨年4月から画期的なサービスが始まっています。月額税別350円がかかりますが、エリアフリーで全国のラジオ放送局が聴けるradikoプレミアムです。全国どこにいてもプレミアム参加局が聴取可能で、2015年9月現在、75局76チャンネルが選択可能です。このサービスが画期的なところは、地域における情報格差の拡大という広告モデル固有の問題について、有料サービスではあるけれど、ひとつの解決に向かう道を示せたということです。これは、BSやCSなどの多チャンネル化が進んだテレビもまだできていないことです。テレビが進んだ方向は、コンテンツのニッチ化により課金モデルとさらなる広告市場の拡大という道でした。これは、放送メディアにおけるラジオメディアの先進性としてもっと誇ってよい、と僕は思っています。

 個人的な意見として聞いていただきたいのですが、もしあなたがラジオをあまり聴いたことがなく、これからラジオを聴いてみたいと思っているならば、初月無料ということもありますので、一度、radikoプレミアムに加入してみてはどうかと思っています。何でもそうだと思いますが、ラジオが好きになるかどうかは、面白いラジオ番組を聴くかどうかで決まります。キー局、準キー局はもちろん、地方にも人気番組はたくさんあります。地域メディアとして育ち、これからも地域を支えていくラジオには、まだまだ知らない楽しさが詰まっています。

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 コミュティFMのIPラジオ同時再送信で聴く。

 コミュニティFMは、県域放送より狭い市町村を放送対象エリアとするFM放送です。当然、放送エリアでしか電波受信はできませんが、ウェブではradikoやらじる★らじる同様、PC、スマートフォンでIPラジオ同時再送信を聴くことができます。CSRA(コミュニティ・サイマルラジオ・アライアンス)のウェブサイトにあるSTATION LISTから地域を選び、聴きたい放送局のオレンジ色の[放送局を聞く]ボタンをクリックすれば再生がはじまります。

 ただ、この公式のサイトはサイト設計が少し古く複雑で使いにくいかもしれません。その場合はサイマルラジオというウェブサイトの方がシンプルで便利。たぶん、こちらもCSRAが制作しているサイトだと思うのですが詳細はわかりません。各局のウェブサイトからのリンクはこちらになっていることも多いようです。使ってみたところ、これまで不具合はありませんでした。

 Windowsでは問題なく使用できるのですが、MacではWindows Mediaメタファイル(拡張子は.asx)を開くためのソフトウェアをインストールする必要があります。代表的なものはVLC media playerで、無料で使用できます。(2015年9月11日追記)

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 radikoとらじる★らじる、コミュニティFMなどのIPラジオをどう聴くか。

 もちろん、PCやスマーフォンにイヤホンを挿して聴くのは王道です。ここでは、それ以外の方法を書きたいと思います。具体的には、自宅の居間や個室、ベッドルームなどでテレビを観るように、くつろぎながらラジオを聴く方法です。

 最も簡単なのは、アンプ内蔵のスピーカーにPCやスマーフォンを接続して聴く方法です。僕はこの方法でラジオを聴くことが多いです。スピーカーはある程度音質のいいものを選んだほうがいいように思います。群を抜く音質でなくてもいいかと思いますが、長時間ゆったりと聴くとなるとそれなりの音質が求められます。これは、いろんなアンプ内蔵PCスピーカーで聴いてきた経験から、そう思います。

 小さなスピーカーは、低音が弱く、高音がシャリシャリしたものが多いようです。音楽を聴くためなら、くっきりと聴けることもあって、それでよいのですが、ラジオの場合は人のしゃべり声が主ですので、どちらかというと中低音がしっかりしたものを選ぶといいようです。あと、USB接続はノイズを拾いやすく、ブルートゥースはまだ不安定な気がしますので、電源付きの接続はイヤホン端子からのアナログ接続がいいように思います。でもまあ、これは好みの部分もありますね。

 BOSEは、低音が強くて音楽を聴くには好みが分かれそうですが、ラジオには相性はいいのではないかと思っています。僕は、この前モデルのCompanion IIを使用していますが、音量は小さな部屋なら十分過ぎるほどあります。僕は、もうひとつ大阪用に上記右のスピーカーを所有していますが、値段に差があるということもありますが、低音が弱く、高音が強く、はっきり明瞭な音なので、ラジオを長く聴くには聴き疲れするような気がしました。あと、やはりUSB給電はノイズを拾います。手軽に音楽を聴くにはとてもいいスピーカーなんですけどね。

 また、こういうタイプのオーディオシステムであれば生活とラジオが溶け込みそうな気もします。ちなみに、これはラジオチューナー付きでワイドFM(FM補完放送)対応です。ラジオとカセットテープがメインだった頃と違って、今はスマートフォンありきなので、こういうタイプのパーソナルオーディオに力を入れているみたいです。せっかく買うのであれば、音楽データだけでなく、radikoやらじる★らじるでラジオを聴くとより生活に活かせるようになるのではないでしょうか。

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 最後に電波でラジオを聴くか、IPでラジオを聴くか、という問題について。

 僕個人の意見としては、それはどっちでもいいと思っています。どっちで聴いたからといって、コンテンツの内容が変わるわけではありませんし。リスナーから見れば、ラジオはどう聴こうがラジオです。この話は、ラジオ界隈とウェブ界隈で起こった大きな出来事があって、これまで放送と通信の文脈で色がついて話されることが多かったけれど、時代がそういう文脈を追い越していったような気がしています。

 ただ、こういう時代になっても変わらないことは、電波、IP双方の特性です。電波は距離や地理的な影響は受けるけれど、受信に関しては無限。一方のIPは距離や地理的な影響は受けないけれど、受信に関しては有限。IPで震災などで一度に大勢の人がアクセスするとサーバがパンクする可能性が高いのです。つまり、防災には電波受信の従来のラジオが今も有効なんですね。実際に、radikoが開始されたとき、TBSラジオの人気深夜番組「伊集院光JUNK」が始まったと同時に、一時的にradikoがつながりにくくなってしまいました。

 これはラジオに興味がなくても、同じように言えることです。電源が使えない。電話やネットがつながらない。そういうときに、電池で長時間使えるラジオは貴重な情報源になります。もしものために電池で動くラジオは持っていたほうがいいし、radikoでラジオを聴いている人も持っていたほうがいいです。

 震災後、ラジオ界隈では、これでラジオの重要性が再認識された、これでラジオは上向きになる、と言われていました。実際、聴取率は一時上がったけれど、すぐに下りました。当たり前ですよね。人々の意識が変わって、ラジオが重要と思ってくれたわけでもなく、そのとき、単純にラジオには聴くものがあった、聴く必要があった、ということなんです。僕はそう思っています。

 防災にラジオが有効。万が一のとき、ラジオメディアは大きな役割を担う。これは本当。電池付きのラジオを持っていたほうがいい。これも本当。でも、だからこそ、ラジオを日頃からたくさんの人が聴いていて、万が一のときにたくさんの役割が果たせるためにも、豊かでないといけないと思っています。だから、電池付きのラジオは持ったほうがいいとは言うけれど、防災に必要で社会にラジオが必要だからラジオを聴け、とは言いません。

 言いたいのは、ラジオは面白いよ、ということ。聴く機会が減ってきたけど、聴いてみると、ラジオはまだまだ面白い。テレビではあまり面白くないなあと思っていたタレントさんがラジオだと味があるなあと思うこともあるし、テレビではかわいいだけのアイドルが、ラジオでは考え方が真面目だったり、少し影が感じられたりすることもあるし。映像がなくて、スタジオにマイクがあればできてしまうラジオでは、今もやっぱり、ものが自由に話せるように思うし。それになによりも、文書にするというフィルターを通さない生な言葉が聴けるメディアだし。

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 僕は単なるラジオリスナーですが、ひとつだけラジオと関わりがあることがあります。それは、NPO法人の放送批評懇談会のラジオ委員として活動していることです。月1回の合評とギャラクシー賞の審査で、相当な数のラジオ番組を聴いています。そういう意味では、比較的、全国くまなくさまざまなラジオ番組を聴いているので、radikoプレミアムもできたことですし、面白い番組はこれからも紹介していきたいと思っています。また、昔は当たり前だった番組の録音についても書きたいと思います。今は、相当敷居が高くなりました。

 放送批評懇談会から告知です。ひとつは、セミナー「ラジオの可能性を考える すべてを語る120分」が9月11(金)に東京の明治記念館であります。ラジオメディアであり、地域メディアでありながら好調なCBC南海放送の両代表が語る攻めの戦略。有料セミナーです。メディア関係者なら応用できることはたくさんあるのではないでしょうか。すでに申し込みの締切日は過ぎていますし、定員を超えているかどうかはわかりませんが、念のために告知します。興味のある方は問い合わせてみてください。定員を超えていたら、ごめんなさい。詳しくはこちらを。

http://www.houkon.jp/symposium/seminar2015.html

 もうひとつは、恒例のラジオ番組を聴く会<ギャラクシー賞入賞作品を聴いて、語り合う会Vol.20>です。今回は大阪でやります。要申込、参加無料です。日時は9月27日(日)で、梅田茶屋町のMBS毎日放送本社です。聴取作品はMBS「ネットワーク1・17」と琉球放送「いちゃりば結スペシャル」となります。こちらは、たぶんまだ席に余裕があると思います。この2つの番組は、この記事の後半に書いたことと関係する番組です。関西の方はぜひ参加してくださいませ。

http://www.houkon.jp/galaxy/news.html

 というわけで、良いラジオライフを。

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2015年7月23日 (木)

感覚的に言えば、ラジオの人気番組の影響力は地上波テレビの不人気番組の影響力とほぼ同じである

 興味深い記事がネットに出ていた。当該記事はフジテレビの不調を揶揄するゴシップ記事ではあるけれど、別の見方をすれば今のラジオのメディアパワーを感覚的に把握する上で、非常に示唆的な記事として読むことができる。

 打開策が見えないまま夏休みシーズンに突入するフジテレビだが、苦戦の影響に『ミヤネ屋』だけでなく、ある番組の名前が上がっているという。

「それが、大竹まことさんの『ゴールデンラジオ!』(文化放送)です。毎週、平日の13時から15時半まで放送しています。放送時間がほとんど同じこの番組は、同時間帯の関東のラジオ局で一番聴取率がいいんです。テレビとラジオで簡単に比較はできませんが、少なからず影響があると上層部は判断しているようです」(番組スタッフ)

視聴率1.1%の『グッディ!』ライバルは『ミヤネ屋』ではなく『ゴールデンラジオ!』だった!? -  日刊サイゾー(2015.07.21)

 本文には「テレビとラジオで簡単に比較はできませんが」とあるが、じつはテレビの視聴率の母数はテレビを見ている世帯ではなく調査対象世帯全体であり、ラジオの聴取率の母数は調査エリアに在住の男女12~69才の個人総数であり、その誤差を捨象して考えれば、テレビの視聴率とラジオの聴取率は比較可能。むしろ、ラジオの母数が個人総数であることから、母数がより大きい分、同じ1%でも人数は多いとも考えられる。ただ、ラジオの場合は、年6回の聴取率調査の時期と合わせて各局がスペシャルウィークと称して特別企画を実施するので、ラジオの数字は実際は少し盛られているとは言える。また、テレビは世帯なので、1カウントでも複数人が観ている可能性も高い。なので、いろいろ総合的に判断して、ざっくりと考えれば、テレビの1%とラジオの1%はほぼ同じと考えていいと思う。

 日刊サイゾーの記事にあるフジテレビ『グッデイ!』の1.1%は、関東広域圏で聴取率首位のTBSラジオの聴取率とほぼ同じ。関東広域圏のラジオ全体が約6%で、その中でラジオの第2のプライムタイム(第1のプライムタイムは朝時間帯)である昼時間帯で最も聴取率がいい番組である文化放送『ゴールデンラジオ』は、軽くフジテレビ『グッデイ!』を超えていると考えられる。これは、別に時代の変化ではなく、一般的に朝や昼時間はテレビよりラジオの方が強い傾向にあって、この記事が煽るようなことでもない。

 ここから見えてくるのは、今、ラジオのメディアパワーは、感覚的に言えば、時間帯を含めてあまり見られていない地上波テレビの低視聴率番組くらいはあるということだ。もっとわかりやすく言えば、ラジオの聴取率1%は、関東広域圏で言えば単純計算でおおよそ36万人であり、ラジオの人気番組は、この1%、つまり36万人をベースに前後した数字と考えるのが妥当。この数字から、ながら聴取や飲食店やタクシーでの聴き流しを考慮して、熱心に聴取しているリスナーを3分の1とかなり低く見積もっても10万人であり、しかも放送メディアであるラジオは、この数字は瞬間の数字ではあるので、ウェブメディアを含めたあらゆるメディアの中で、ラジオ離れが叫ばれる現状においてもなお、このくらいの影響力を持つメディアである、ということは実感できると思う。

 メディアは、自分が接しているメディアが世界のすべてだと考えてしまいがちであり、その中での好き嫌いや希望的観測で未来を語りがちになる。メディアに限らず、現実は現実として理解しておくことは大切。ラジオにかぎらず、メディアを考える際には、こういう実際の力を感覚的に知っておくことは大切だと思う。

 ちなみに、このエントリでは関東広域圏のローカル番組をベースにしていて、全国ネット番組では影響力はさらに上がる。また、地域によってラジオの影響力は若干違う。例えば、聴取率調査を実施している関西圏や北海道圏では、関東広域圏より少しラジオの聴取率は高い。つまり、少しだけラジオ人気が高い。

 さらにラジオメディアを考える際に重要なのは、地域によって市場がまったく異なるという点だ。地上波テレビも同様ではあるが、その地域格差はテレビ以上であり、例を挙げると、東京都がAM、FMの民放ラジオ局が約10局に対して、広島県は2局と、聴取できる放送局の数にはかなりの開きがある。また、地理的条件による違いもある、関東近辺の地方だと東京キー局が聴こえるので地元局はかなり厳しい競争を強いられていたりするが、先に挙げた広島県のように地理的条件により巨大都市圏の影響を受けない地方では、民放がAM、FMそれぞれ1局しかリスナーに選択肢がないケースもあり、そういう地域では独占に近い市場の中で日々の放送が行われている。

 ここでは触れなかったコミュニティFMでも、J-WAVEなどの在京局番組の再送信の割合が多い局は、地域の選択可能なラジオ局の中でもそれなりの存在感を示していて、各地域の市場はもっと複雑になる。メディアとしてのラジオを語るとき、このような地域差があり、一言で「ラジオとは」と語れない難しさがあると思う。

 そういう地域差がある一方で、ラジオメディア全体を見ると、IPストリーミング技術を使ったradikoの有料版であるradikoプレミアムの登場で、月々350円で全国のほぼすべての地上波ラジオが全国どこでもリアルタイムで聴ける環境ができている。これは、テレビ放送がこういうメディア環境になっても実現できないことをラジオが一足先に実現してしまっているということであり、ここにじつは放送メディアとしてのラジオの先進性があったりもする。このあたりのことは、また別の機会に。

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 告知です。私も所属している放送批評懇談会のラジオ委員からイベントのお知らせがあります。ラジオ部門<ギャラクシー賞入賞作品を聴いて、語り合う会Vol.19>が、2015年7月26日(日)午後1時~午後5時、赤坂TBSセミナー室で行われます。今回は「花は咲けども~ある農村フォークグループの40年~」山形放送(大賞)と「風の男 BUZAEMON」南海放送(優秀賞)の2作品です。下記リンクのページにある申し込みの締め切りは過ぎていますが、事務局によると、申し込み多数で席数を増やしたのでまだ若干の余裕があるので申し込みは大丈夫とのことです。有料イベントですが、興味のある方はどうぞ。

 http://www.houkon.jp/galaxy/news.html

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2014年10月 4日 (土)

「欠落」とラジオ

 第17回目の「ギャラクシー賞入賞作品を聴いて、語り合う会」が無事終了しました。大賞受賞作「これからを見つめて〜LOVE & HOPE 3年目の春だより〜」(FM東京)と優秀賞受賞作「ラジオドラマ 想像ラジオ」(ニッポン放送)を聴く会でした。ゲストの延江さんや宗岡さんの話も興味深く、とてもよい会だったなあと思いました。個人的には、テレビでもなくインターネットでもなくラジオで、その上、あの震災から3年目の今、震災関連2番組を聴くということで、あまり多くの人は集まらないかもなあと思っておりましたが、会場で用意した席もほぼ満席で、あやうく立ち見の人が出てしまうくらいでした。ライブならまだしも、立ちながらラジオを聴くのはやっぱり辛いですものね。ほっとしました。

 印象では、今回は他の会と比較して、学生さんやラジオ業界以外の方がたくさんお見えになっているようで、少し希望が見えてきたなあという感じもしました。ごくごく小さなイベントですから、これをもって全体の傾向とすることはできませんが、まず、そもそも私自身がラジオ業界人ではありませんし、ラジオメディアを取り巻く環境が日に日に厳しくなっていく中、業界の中で閉じている場合ではないと強く思いますし、広告業界もそうですが、こういう業界内での名誉になるような賞が関係するコミュニティは余計に閉じがちになるとも思いますので、こういう外の空気が気持よく入ってくるような流れが今後も続くといいなあと思っています。これは前回書いたこととも関連しますが、閉じることは本当に良くない。せっかくの賞です。賞きっかけで、開く、広がる。今後も、そういう会にしたいなあと思っています。

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 「これからを見つめて〜LOVE & HOPE 3年目の春だより〜」は日頃FM東京を聴取している方はご存知かと思いますが、毎日早朝に放送されている震災支援番組「LOVE & HOPE」の年に1度の集大成的な特別番組で、東北各県の復興地に生きる人々のインタビューで構成されています。当日、生放送で放送されました。震災から3年目、テレビ、新聞、雑誌、ウェブメディア、様々なメディアが特集をしていました。その中で、音声メディアであるラジオが表現したのは、まぎれもなく東北に生きる人たちの「声」でした。映像メディアでも声は届けられるし、文字メディアでも声は記録され編集された文字として届けられますが、ラジオが届けた「声」は、より自然で生き生きとした声だったように思います。これは、あなたがラジオびいきだからじゃないの、と思われそうですが、そこにはきちんとしたメディア特性から来る理由があると思うんですね。

 ラジオの現代的特性と言えるものでしょうが、現代を生きるメディアとして、あえて、当日の懇親会でお話しさせていただいたFM東京プロデューサーの延江さんの言葉をお借りすると、そこにメディアとしての根本的な「欠落」があるからです。それは、ウェブ時代に個人メディアでさえ簡単に手に入れられる映像の欠落です。あらかじめ映像が禁じられたメディア、それがラジオです。映像が禁じられた、という言葉は、加えて言えば、文字も禁じられたということを意味します。しかし、その欠落こそが現代的な意味において、ラジオというメディアの表現上の利点となり、未来に向けて、メディアとしての可能性へとなり得るのだと思います。

 先の番組で言えば、インタビューされている方々の前にテレビカメラはありません。当然、照明もレフ板もなく、生放送の場合は送信機が必要ではありますが、多くの場合はアシスタントもなく小さなレコーダーとマイクを構えたラジオマンだけです。それは、メディアの進化という観点で言えば、あきらかに後退ですが、あえて後退を選ぶことで、メディアが本質的に持つ暴力性、言い換えればメディアが手に持つ武器をより少なくすることに成功しているとも言えます。

 カメラは、どれだけ時代が変わっても、普通の人間にとってはある種の暴力性を持ってしまいます。私は、比較的カメラや映像に自分が記録されることの多い職場にいたことがあるのですが、私も最初カメラを向けられたときに構えてしまいました。簡単に言えば、笑顔をつくり、ピースサインみたいなことをしてしまったんですね。ほとんど無意識の反応でした。カメラを向けた人を見ると、少し嫌な表情だったんですよね。あっ、それ、欲しい絵じゃない、というような。二、三秒の出来事でしたが、そのときのことを今も覚えています。

 カメラの前で自然でいること。それが私に求められていたことで、その求められたことにきちんと応えることができなかった。それが、その出来事のすべてです。そのくらいのことは、少し慣れればできてしまうことでもありますが、そこでもう一度、その最初の体験に立ち返って考えてみると、カメラの前で自然でいることと、カメラの前で構えてしまうことは、どちらが自然なのだろうとも思うのですね。カメラを向けられると構えてしまう。それが、むしろ自然なことなのではないか、とも思います。長年付き合ってきた親しい人でもなく、親でも子でもない、そんな人にカメラを向けられて構えず自然にいることを求められる状況自体、本当は、少し異常なことなのかもしれません。

 昔は、テレビが一般人にカメラを向ける行為には、はっきりとした暴力性が見えました。しかし、今は、それほどでもなく、むしろ、構えることが初々しいと思えるような時代です。でも、これは、カメラを向けられても自然でいることが求められる空気の中、写される側も自然でいようとする意志とスキルがあることも多くなってきている分、カメラを向けるという暴力性の内実をより複雑なものにしてしまっていると解釈することもできます。その複雑な様相は、よりカジュアルになったウェブ動画の映像表現の中に多く見られるもののように思えます。現実に限りなく近いが故に、現実から最も遠いもの。それが、現在の映像なのかもしれません。

 ラジオというメディアは、その複雑な暴力性を持つ武器を捨てることで成り立つメディアと言うこともできるかと思います。もちろん、メディアである以上、その暴力性からは逃れることができませんが、より武器を少なく、素手に近い感覚で人に接する。それが、ラジオという気がします。

 番組の中で、岩手県大槌町で観光ガイドを務める少女がインタビューに応えていました。会で聴かれた方もいらっしゃるでしょうが、その少女が読み上げる手紙は感動的でした。私は、彼女のインタビューの中で心に残ったのは、大槌町が復興政策として進める、高い防波堤をつくり、街を高台にする大規模な街づくりに反対し声を上げてきて、その中で町長や町会議員、県や国の責任者と対話する中で、彼女自身が、大槌町にとって本当にいいことは何なんだろう、以前みたいに、ただただ反対だとはっきりと言えなくなってきている、と心のなかに芽生えた迷いを率直に語っているシーンでした。

 あのシーンは、あの声の表情も含めて、ラジオというメディアにしか伝えられなかったものなのではないか、と思ったんですね。つまり、他のどのメディアでも伝えることができない復興地の今があると思いました。もちろん、ラジオもメディアですから、100%自然な姿とはいえませんが、それは素手に近い取材者との信頼関係がつくる、最低限の「構え」しか彼女の中にはなかった、と言えるのではないでしょうか。

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 個人的なことなのですが、会の後、FM東京の延江さんが当日会場に掲載していたポスターを気にいってくださって、もし廃棄するならもらえないか、とおっしゃってくださいました。トークショーでも話されていましたが、番組の大きなテーマとして震災の風化を防ぎたいというものがあったそうです。

Kikukai17

 このポスターに書かれれいる言葉「ラジオは、忘れない。」は、まさにあの震災のことを風化させまいというメディアの気持ちを表現したものです。当然、テレビもウェブも忘れないと思いますが、高い公共性が求められる放送メディアでありながら身軽で、かつ、その「欠落」故に丁寧に人のありのままの思いを表現できて、十分な時間をかけて表現、表出できるラジオだからこそ、「忘れない」と言い切れるだろうと思って書いたものでした。

 写真は、今年の7月に撮影した大槌町です。たまたま仙台に立ち寄った時、このラジオ番組を聴いて、そういえば大槌町にちょっと足を伸ばしてみようかと思って行った時に私が撮影したものです。同じ東北だからすぐだろうと思ったら、かなり時間がかかってびっくりしましたが、おかげで遠野を横断する釜石線にも乗れたり、細麺の(新日鉄の工員さんがさくっと食べられるように細麺になったとのことです。最近は珍しくなったあっさり醤油味です。)釜石ラーメンも食べられたり、実りのある小旅行になりました。

 バスを乗り継いで辿り着いた大槌町は小雨で、復興工事の真っ最中でした。かつて街があった場所は盛り土があり、工事車両が行き交っていました。そこにニュータウンのような街の完成図が描かれた看板がありました。写真は、大槌町役場仮庁舎の奥にある小高い公園から撮影したものです。本当は、有名なひょうたん島を撮影したかったのですが、残念ながらズーム機能のない私のGR DIGITAL IIでは撮影できず、沿岸の工事で近くまで行くこともできませんでした。

 夕方でしたので暗い写真になってしまいましたが、延江さんはその写真も気に入っていただいたとのことでした。その際にも、「この写真に大槌町の今が感じられるのは、ラジオと同じように、グラフィックにも欠落があるからなんでしょうね。ムービーではこうはいきませんよね。」とおっしゃっていました。写真の撮影は素人ですので、少しこそばゆかったですが、うれしかったです。

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 「ラジオドラマ 想像ラジオ」は、聴き応えのある濃密なラジオドラマでした。当日聴かれた方は、ラジオなかなかやるなあ、と思われたのではないでしょうか。原作を読まれた方だとなおさら興味深く聴かれたことでしょう。地上波放送とインターネット放送を組み合わせる手法も新しかったし、西田敏行さん、小泉今日子さんの演技力も抜群でした。

 これも、映像の欠落というメディア特性によって獲得された世界だったと思います。例えば、原作の小説の世界を忠実にラジオに移し替えたものに過ぎなかったでしょうか。例えば、このラジオドラマをテレビドラマ化することを想像したとき、このラジオドラマが持っている世界が映像によってより良くなると思えるでしょうか。それは、たぶん否、だと思います。それは、まさしく音声メディアであるラジオだからできた固有の世界だったのだと思います。

 テレビドラマの楽しさをラジオでも、というものでも私はいいとは思っています。アーチストのライブ番組は、これだけ高画質、高音質化したテレビにおいて、ラジオはテレビの楽しさをラジオでも、という域にとどまるだろうと思います。でも、それでも、ラジオには今もこの楽しさは欲しいですし、最近は少なくなってきているけれども、昔のようにたくさんやってほしいなあとラジオリスナーとしては思います。NHK-FMの「The SESSION 2014」のような番組は、ラジオの最高の楽しさのひとつだと思います。ここでラジオならでは、というものは、テレビではあまり取り上げないアーチストをじっくりたっぷり取り上げるという機動性、身動きの軽さなのだと思います。

 ただ、表現作品としてひとつハードルを上げた時、やはりラジオだからできたというものがあってほしいとは思います。このラジオドラマは、その点では、たっぷり、というか、言い方はあまりよくないですが、こってりとありました。

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 第18回「ギャラクシー賞入賞作品を聴いて、語り合う会」は、11月8日(土)午前1時〜午後5時、赤坂TBSのセミナー室で行うことになりました。17回と同じく、第51回目ギャラクシー賞受賞作品の中から、「赤江珠緒 たまむすび」TBSラジオ&コミュニケーションズ(優秀賞)と、「途切れた119番~祐映さんと救急の6分20秒~」山形放送(優秀賞)を取り上げます。

 詳しくはこちら(PDF)を御覧くださいませ。

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2014年9月14日 (日)

「読者のみなさま」と内向化するメディア

 テレビ朝日の報道ステーションで朝日新聞の謝罪会見を見ていたとき、あるフレーズに違和感を持ちました。それは、吉田調書スクープ報道についての謝罪の後、従軍慰安婦問題での吉田証言についての謝罪の言葉の中の結びの部分です。

「訂正が遅きに失したことについて読者のみなさまにおわび申し上げます」

 語られた言葉の一部分を切り取ってあれこれ語るのはあまりよくないとは思いますので、該当部分を正確に書き起こすと以下のようになります。

「記事を取り消しながら謝罪の言葉がなかったことでご批判をいただきました。裏付け取材が不十分だった点は反省しますとしましたが、事実に基づく報道を旨とするジャーナリズムとしてより謙虚であるべきであったと痛感しております。そして吉田氏に関する誤った記事を掲載したこと、そしてその訂正が遅きに失したことについて読者のみなさまにおわび申し上げます」

 私が違和感を持ったのは、「訂正が遅きに失したこと」を「読者のみなさま」に謝罪、という部分だったのですが、全体を読むと謝った記事を掲載したこと、つまり、誤報を謝罪するとも読めるので、とりあえず「訂正が遅きに失したこと」という部分についての違和感は私自身のうがった見方も多少は影響しているのかな、とも思いました。で、朝日新聞DIGITALの当該記事を見てみると、

一方、朝日新聞社が過去の慰安婦報道で、韓国・済州島で慰安婦を強制連行したとする吉田清治氏(故人)の証言を虚偽と判断し、関連の記事を取り消したことについて、木村社長は「訂正が遅きに失したことについて読者のみなさまにおわびいたします」と語りました。
吉田調書「命令違反で撤退」記事取り消します 朝日新聞DIGITAL(2014年9月12日03時02分配信)

 となっていて、やはり「訂正が遅きに失したことについて読者のみなさまにおわびいたします」となっていて、あえてこのフレーズが印象に残るような工夫はされているようです。朝日新聞としては、あくまで「訂正が遅きに失したこと」を「読者のみなさま」に謝罪したという印象が残るようにしたいと多少は思っているとは言えそうです。

 この記事がウェブで配信された5分後に配信された朝日新聞社長名義の記事の見出しには「みなさまに深くおわびします」とあります。この記事は、本紙の1面にも掲載されたものなので、本紙を読んでいる時点で読者ということは自明なので省略したのではないかと思いますが、その一方で、大きなサイズのフォントで組まれる見出しに謝罪を限定する「読者」という言葉を使うことへのためらいも感じられます。同記事の英語版には「I apologize to our readers and other people concerned By TADAKAZU KIMURA/ President of The Asahi Shimbun」とあります。「to our readers and other people concerned」つまり「私たちの読者のみなさまと関係するみなさま」となっています。日英双方の記事を通して言えることは、少なくとも日本国内においては、大きな見出し多少のためらいは持ちつつも、朝日新聞にとって「読者のみなさま」という言葉は、かなり重みのあるものだったのだと言えそうです。

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 なぜ朝日新聞は、テレビをはじめ様々なメディアで報道される謝罪会見の場で、あえて「読者のみなさま」という言葉にこだわったのか。その謎解きは、ある程度はできます。

「訂正が遅きに失したことについて読者のみなさまにおわび申し上げます」

 この文章から「読者のみなさまに」という部分を削除するとこうなります。

「訂正が遅きに失したことについておわび申し上げます」

 となると、公の謝罪会見における謝罪の言葉としてはより自然になりますが、不特定多数への謝罪と比較して、今度は「訂正が遅きに失したことについて」が軽く見えてしまいます。つまり、文章に自然さがなくなるのです。これでは、この部分だけではフレーズとして独立させることはできません。「読者のみなさまに」という言葉を抜いて引っかかることのない、より日本語として自然な文章にするためには、

「記事を取り消しながら謝罪の言葉がなかったことでご批判をいただきました。裏付け取材が不十分だった点は反省しますとしましたが、事実に基づく報道を旨とするジャーナリズムとしてより謙虚であるべきであったと痛感しております。そして吉田氏に関する誤った記事を掲載したこと、そしてその訂正が遅きに失したことについておわび申し上げます」

 と、ここまでしっかりと引用しなければ文章として自然にはなりません。すると、「吉田氏に関する誤った記事を掲載したこと」つまり誤報を謝罪という印象が強くなります。朝日新聞としては、一度、公式に本紙で記事を取り消している以上、あらためて誤報を謝罪するという、誤報の強調は避けたかったのではないか。少し考え過ぎではないかと思われるかもしれませんが、まあ自社の存亡にかかわる事態です。たぶん考えているでしょう。

 それは、ある程度は成功しているようにも思えます。この観点で言及し批判しているのは、私の見た範囲では、自民党の石破地方創世相がBS日テレの「深層NEWS」だけでした。読売新聞の記事を引用すると、

いわゆる従軍慰安婦問題の一部記事についての謝罪には、「国際社会に与えた影響を考えると、読者の皆様におわびするという表現は、私はどうも引っかかる」と述べた。報道が外交に悪影響を与えたことを批判したものだ。
なぜ間違い起こるのか…石破氏、厳正な検証要求 YOMIURI ONLINE(2014年09月11日 23時53分)

 と、問題の大きさに比して謝罪の範囲が「読者」に限定されていることについての批判となっています。朝日新聞が英語版の記事をウェブで配信しているくらいですから影響が世界に及んでいると自らが自覚しているわけですし、吉田調書の問題も吉田証言の問題も朝日新聞が主張する誤読という文脈は、総合的に考えれば無理筋な主張だと思うので、この石破氏の批判は十分に理解できます。

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 ただ、もうひとつ思うのは、朝日新聞は、危機管理の観点から「読者のみなさま」への謝罪というかたちをとったという以上に、かなり本気の部分で、謝罪の対象、つまりこの問題の当事者は、「読者のみなさま」であると思っているのではないか、ということです。吉田調書の問題では、謝罪会見で朝日新聞社長はこう話しています。

東電および読者のみなさまに深くおわび申し上げます

 この吉田調書の問題では、記事の内容から当然のこととして第一の当事者が東電、およびという言葉で結ばれているのでほぼ同列ではありますが第二が読者のみなさまということが読み取れます。この部分は先に挙げた朝日新聞の記事で「読者及び東電福島第一原発で働いていた所員の方々をはじめ、みなさまに深くおわびいたします。」と修正されています。ここでは新聞紙面であることから第一と第二は逆転していますが、最終的には「みなさま」で結ばれています。ここでも朝日新聞のためらいが感じられます。そこから見えてくるのは、ライブで出てしまった謝罪会見の言葉が、じつは朝日新聞の本音である可能性が高いということでないかということです。

 この問題が表面化するきっかけの一つとなった週刊文春の記事でも、この「読者」という言葉は何度も出てきます。私は、週刊文春を購読しているので、もしかすると、その記事の中で幾度となく目にした「読者」という言葉とのつながりのなかで違和感を持ったのかもしれません。

長年にわたる朝日新聞ファンの読者や企業、官僚、メディア各社のトップ、ASA幹部の皆さんなど多くの方から「今回の記事は朝日新聞への信頼をさらに高めた」「理不尽な圧力に絶対に負けるな。とことん応援します」といった激励をいただいています 
スクープ報道 朝日新聞 木村伊量社長のメール公開 週刊文春WEB(2014.09.03 18:00)

 ジャーナリズムの精神に則った良心的な記事を送り続ける記者もたくさんいますし、すべてがそうだと言うことはできませんが、朝日新聞にとっての世界は、朝日新聞を信頼し、朝日新聞こそが日本を良き方向へ導くと考える、所謂朝日シンパだけで構成された世界だったのではないでしょうか。とりわけ、全国紙で言えば、朝日、毎日と読売、産経というように二分化され、各紙のロイヤルユーザーにとって新聞選択の重要な論点になり得る従軍慰安婦問題および原発問題においては。そこには、サイレントマジョリティー、沈黙する大多数の人たちさえ存在しなかったのかもしれません。

 現社長が広告局出身であるということも多少は影響しているのでしょう。全国各地に隈無く販売店網を持つ日本の新聞は、そのリーチの広さと高さから広告媒体という意味合いが強く、広告媒体としての力が低下している現状で、ロイヤルユーザーを過剰に重視する空気が形成してしまったのかもしれません。であれば、その流れの中で、ロイヤルユーザーが最も重視する従軍慰安婦問題および原発問題の分野において、インパクトの追求、事実性の軽視が起こってもおかしくないだろうと思います。

 それは、つまり、報道記事の広告化です。ジャーナリズムの精神に基づき事実を最重要視すべき報道記事が、「広告媒体としての朝日新聞」を広告する広告コンテンツに転化するという意味では、対象や目的は違えど、構造としては戦時中のプロパガンダと同じです。広く社会に向かうはずの報道が、内に閉じてしまっています。

 たぶん、このメディアの内向化こそが、私の違和感の正体だったのだと思います。朝日新聞は、謝罪記事の結びにこう書いています。

読者のみなさまの信頼回復のために何が必要かを検討し、将来の紙面づくりにいかしていきます。
吉田調書「命令違反で撤退」記事取り消します 朝日新聞DIGITAL(2014年9月12日03時02分配信)

 これはこれである程度評価はできるのでしょうが、やはり違和感は残ります。きっと「読者のみなさまの信頼回復のため」ではなく、実も蓋もないけれど、本来、社会に必要な報道機関のひとつである新聞社であるために何が必要かを検討し、将来の紙面づくりにいかせることができて、はじめて結果として読者がついて、読者に信頼されるわけではないですか。やはり、そこに倒錯がある気がします。と同時に、この内向化は、見えにくいけれども、かなり根が深いとも思っています。

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 ここからは余談です。

 これを読んでいる方は、きっと日頃からウェブに親しんでいる人でしょうから、影響の大きさや個別の事象を捨象してしまえば、同種のことはよく見かけるありふれた光景なのではないでしょうか。吉田調書や吉田証言の話ではなく朝日新聞でなければ、twitterで「またかよ」と書けばすむ話かもしれません。また、今回は朝日新聞の認識で言うところの「誤報」の影響が大きかったから見えにくかったけれど、「読者のみなさまへ」というフレーズだけとれば「ファンサイトかよ」と揶揄すればいいだけ話です。今、ウェブを眺めれば、商業メディアから個人メディアまで、「内向化するメディア」の姿はいくらでも見つけられます。

 なぜ、メディアが内向化してしまったのか。理由はいくつもあるでしょう。また、その理由はこれまでに言い尽くされてしまっています。ファンの言及が可視化されたこと。ウェブにおけるコミュニケーションインフラによって、ファンとのつながりがより簡単にできるようになったこと。ずっと広告を生業としてきましたが、口コミがこれだけ可視化されるなんて、ちょっと夢のような出来事なのですね。観測範囲に自身にシンパシーを持つ人だけを集めることさえ可能になりました。ファンの囲い込みもこんなに簡単にできるとは、あの頃のマーケターは思いもしなかったでしょう。

 それでいいこともたくさんありましたが、その一方で、ちょっと困ったこともたくさん起きました。今のウェブは、もっと正確に言えばコミュニケーションインフラ環境は、ウェブを使わない人にも影響を与えてしまうくらいの力は持っています。時代の空気をつくるくらいはできてしまいます。

 その流れの中で、鋭角的に時代の空気を象徴してしまったのが、今回の朝日新聞の問題だと考えています。ここ最近、マスコミをにぎわせる大きな事案が立て続けに起きました。交響曲第1番〈HIROSHIMA〉、STAP細胞、号泣会見。それぞれ事案は異なりますが、構造的には同じだと思います。また、ウェブを日々にぎわせる「内向化したメディア」による炎上事案もその構造は同じです。

 共通するのは、徹底的な自己肯定です。朝日新聞で言えば、この二つの「誤報」は、陰謀論的な文脈ではきっと説明できません。リスクがあまりにも大きすぎます。

 それはきっと、外部を排除した自己と自己にシンパシーを持つ者、構造的には自己の分身との二者関係が無限円環する中で自己目的の遂行が肥大化し、多少の不正は取るに足らないものとして意識されないからこそ起こったことなのでしょう。もしくは、事実確認が軽視されるほどに、自己目的が肥大化してしまっていたか、どちらか。無我夢中という言葉がありますが、自己目的が肥大化するあまり、社会的な存在である私がなくなるような、まるで夢の中で行なってしまった、というのが、記事を書き、その記事を承認していった人たちの実感なのではないでしょうか。きっと、今後の朝日新聞の第三者による検証でも、世間が期待しているような明快な悪意は出ないだろうと思います。

 時代の空気。それは、ある新しい状況がつくられたときにできたブームです。そして、ここ最近起きた大きな事案は、そのブームがピークに達し、ようやく終焉を迎えつつあることを示しているとも言えます。

 それは、この件に関して言えば、社会のこれからにとって、唯一といっていいくらいの希望です。

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2014年8月29日 (金)

ラジオのこと

 ナイティナインのオールナイトニッポンが9月いっぱいで終わるそうですね。8月28日深夜放送分をradikoで聴きました。矢部さんが終わる理由を話していました。たぶん、その理由はいろんなところで報道されるでしょうから、ここでは詳しくは書きませんが、私はとてもいい終わり方だと思いました。こんな理由で20年続いた番組を終わらせることができるのも、ラジオというメディアのいいところだと思うんですよね。
 ラジオの出演者はパーソナリティと呼ばれます。テレビではパーソナリティとは呼ばれません。ナイティナインはテレビで冠番組をいくつも持つ人気タレントです。でも、そんな彼らにもそれぞれの人生があるわけで、その中でテレビでは決して表現しないけれど、当然、人間として心のなかで感じていることもあるわけですよね。その秘めた思いを、きっとほんの少しだと思いますが、きちんと表現できるのが、映像を禁じられた音声メディアであるラジオというメディアなのでしょう。そこには確かに、パーソナリティとしての矢部さん、岡村さんがいました。
 パソコンがあれば誰でも簡単に映像コンテンツが作れてしまう時代ですが、私はラジオが大好きです。これは懐古趣味じゃなくて(まあ、私の世代は若い頃にラジオを聴きまくった世代ですので、少しはあるのでしょうけど)、たぶん、メディアの条件みたいなものなんだと思います。映像を禁じるからこそできることはあるのだろうなと思うんですね。マクルーハンが「メディアはメッセージである」と言っていますよね。その真意を理解しているわけではないけれど、たぶん、メディアの条件によってメッセージは変わる。そんなふうに思います。同じ映像でも、テレビと映画では違う。同じように、ラジオにしかできないことがある。きっと、ある。その、ラジオにしかできないことが、私は好きなんですね。
 縁あって、今、私は放送批評懇談会というNPO法人でラジオ委員をしています。任期4年で3年目に入りました。ラジオ委員会では全国の放送局のラジオ番組をたくさん聴くのですが、今、ラジオは必ずしも面白い番組ばかりとは言えません。今までラジオをまったく聴いたことがない人が聴いて、またラジオを聴いてみようと思わせるようなパワーがある番組は、以前より少なくなっているような気がします。
 いまいちばんの人気者で、今どき珍しくラジオに積極的な人たちなので、AKB48のメンバーが出演するラジオもたまに聴いたりしますが、多くは、テレビの楽屋っぽい雰囲気があるんですね。たくさんの人達が出演するひな壇番組を楽屋に移したみたいな感じ。吉本や松竹の芸人さんが出演する大阪の深夜ラジオも、その傾向が強いです。つまり、ラジオは、テレビの裏側みたいなメディア理解なんですよね。ファンの人にとってはそれでいいと思いますが、ラジオに元気がない時代だからこそ、もう少し欲張ってほしいなあと一ラジオリスナーとしては思うんですよね。AKB48が出演するテレビ番組には、ファンの人以外の視聴者を惹きつける魅力があると思うんですが、なぜかラジオにはそれが少ない気がしています。
 例えば、AKB48のファンの方が、そのメンバーの声を聴きたいからラジオを買って、もしくはradikoにアクセスしてラジオを聴いたときに、AKB48のメンバーの魅力とともに、あっ、ラジオって面白いなあ、魅力的だなあと思えるような番組であれば、と思うんですね。これを逆に言えば、AKB48のことをまったく知らない人が、そのラジオ番組を聴いて、あっ、この番組、面白い、また聴きたい、と思わせるような番組。もっと言えば、AKB48きっかけで他のラジオ番組も聴いてみようと思わせるような番組。私は広告屋ですが、ラジオをもっとたくさんの人に聴いてもらうためには、大規模な広告キャンペーンなんかより、よっぽど効果があると思うのです。
 そんな中で、AKB関連で、これはいいなあと思うラジオ番組がひとつだけあります。大阪のMBSラジオでやっている「NMB48のTEPPENラジオ」。渡辺美優紀さんが特にいいですね。NMB48のみるきーではなく、今どきの女の子は、こういうふうに世の中のこと、人生のことを考えているんだなあ、と感じます。もちろん、それは、みるきーこと渡辺美優紀さんにラジオパーソナリティとしての才能がある、ということでもあるのですが、彼女のトークを聴いていると、そうそう、ラジオって、こういうこと、とうれしくなります。で、そんなラジオ番組だから、しっかり聴く人も増えているようで、もともと週3回の15分枠番組が、今年から週1回の1時間番組になりましたもの。放送エリアの方は、ぜひ聴いてみてください。
 とまあ、ラジオのことをつらつらと書いてみましたが、ブログを書くのは久しぶりで、どうも調子がうまくいきませんね。ブログは個人メディアで、どう書こうが私の勝手ではあるんですが、やっぱり照れがどうしても入ってしまいます。じつは、久しぶりにブログを書こうと思ったきっかけは、放送批評懇談会主催のイベントを告知しようと思ったからなのですが、前段が思いの外長く、かつ、イベントにあまり関係のない話になってしまいました。でもまあ、こういうの、ブログらしいのではないでしょうか。ブログというメディアができることって、こういうことですよね。きっと。ともあれ、ここまで読んでいただいた方、どうもありがとうございました。
 では、告知です。放送批評懇談会ラジオ推奨委員会主催で「ギャラクシー賞を聴いて、語り合う会」というイベントを開催します。9月28日(日)、場所は東京半蔵門のFM東京です。第51回ギャラクシー賞の受賞作の中から、今年第1回目の今回は、大賞受賞作と優秀賞受賞作を聴きます(第2回目も予定しています)。今回の2作品は、どちらも震災に関連したラジオ番組です。あの震災から3年経ちましたが、その時間の経過も含めて、ラジオというメディアがあの震災のその後をどう描いたのか。パーソナリティというラジオ独特の言葉が示すような、ひとりひとりの人に寄り添ったラジオらしい表現のあり方が、この2つの作品にはきっとあるはずです。そのあたりをぜひ聴いてほしいと思います。
 制作者の方もゲストにお呼びしています。もちろん、質問もできますよ。会費は1,500円です。なんだ、無料じゃないのかよ、と思った方もいらっしゃるかもですが、まあ、そのぶん、たっぷり時間をとっていますし、そのぶん結構楽しい会だったりします。業界の方は、もうご存知だと思いますが、私はむしろ、ラジオなんか興味ない、そういえばここ数年、ラジオ聴いてないなあ、という感じの方に来ていただきたいなあ、と思っております。まあ、有料イベントだしハードルはかなり高いでしょうけど、そこまで言うなら行ってみようかな、という方、委員一同、お待ちしております。
 聴取作品の概要や申し込み方法などが記載されていますので、詳しくは、下のリーフレットをご覧くださいませ(画像をクリックで拡大できます)。ちなみに表面の写真は、今年の7月に岩手県の大槌町で撮影した写真です。大賞受賞作の中にも、大槌町で町のガイドをする女子高生が出てきます。彼女が番組の中で話していた堤防の造成と町全体の再開発が進められていています。
 

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2012年7月30日 (月)

「復興ブログの終了について」を読んで考えたこと

 福島県いわき市小名浜に「アクアマリンふくしま」という水族館があります。福島県立で、正式名称は「ふくしま海洋科学館」といいます。ほんとよくできた水族館で、環境水族館と自らが名乗っている通り、海の生き物たちがどんな環境で生きているのかがとてもよくわかる水族館です。

 昨年の3月11日に起こった大震災で、このアクアマリンふくしまも被害を受けます。そして、原発事故。津波による浸水で9割の魚が死亡して、セイウチなどの怪獣たちも他の水族館に避難したりしました。この一連の危機的状況の中で生まれたのがブログ「アクアマリンふくしま復興日記」でした。ブログのスタートの日である2011年3月31日の記事にはこんなふうに書かれています。

アクアマリンふくしま震災復興ブログをはじめました!
津波の影響で電源、ネットワーク機器が壊滅的被害を受け、正式ホームページで情報発信が困難になりました。
そのため、このブログでアクアマリンふくしまの復興状況を皆様にお伝えしていきます。

これからどうぞよろしくお願いします!

復興ブログ始めました - アクアマリンふくしま復興日記

 このブログはたくさんのニュースにも取り上げられました。ご記憶の方も多いかと思います。私も報道で知ったひとりで、以来、このブログはよく読んでいました。再オープンの時は自分のことのようにうれしくて、常磐線に乗って見に行ったりもしました。家族連れやカップルの人たちが多くて、男ひとりで出かけた私はちょっと浮いてしまっていたように思いましたが、でもまあ、私自身も再開がうれしくてうきうきしていたのか、水族館の施設内部を10人ほどのグループになってガイドさんとともに巡るバックヤードツアーなるものにも参加したり(ちなみに、男ひとりで参加しているのは私だけでしたが、これ、おもしろかった。おすすめ。)もしました。

●    ●

 2012年7月23日、「アクアマリンふくしま復興日記」に「復興ブログの終了について」というエントリが投稿されました。このエントリは大変な話題になっています。以下、上記エントリからの引用です。

多くの読者様と共に歩んできた「アクアマリンふくしまの復興日記」をこれ以上汚されたくないと考えこのブログを終了する決断をしました。

特に今、私が取り組んでいる福島県を取り巻く原発問題について、今後、情報発信する際にこのような圧力がかかる可能性があるのであれば、現在の職を続けていくことは私には無理です。

ということで、私の机の上には今、明日、提出する予定の退職願が置かれています。

放射線の問題に対しては真摯な気持ちで取り組んでいきたいから…

職を賭して伝えなくてはいけないこともあります。

 そして、「例えば」と前書きされた上で、いわき湯本温泉の「復興ホタルプロジェクト」のことを挙げられています。「アクアマリンふくしまの復興日記」を運営する水族館職員の方(富原聖一さん)は、生物多様性の観点に加え「ホタルは0.5μSv/hの放射線を浴びると光らなくなる」という科学的に疑わしい説を主催者側が採用し、ホタルが光ることで安全性をアピールするという手法には問題があると、地元紙「いわき民報」に投稿して、そのことでプロジェクトの主催者の方から抗議を受けていたとのことです。

 ウェブでは、今回のこのエントリの論点として、「生物多様性」の問題及び「ホタルは0.5μSv/hの放射線を浴びると光らなくなる」という説の科学的妥当性についての反応が多いようです。しかし、富原さんはこうお書きになっています。

今回のプロジェクトが、ただ単にホタルの放流だけなら、再生産のできそうにない土地ですし黙認する事も可能でした。

なぜなら、過去に何度もこのようなホタルの放流事実があるからです。

今更…というわけです。

いずれ、この国内移入種の問題は法整備も含めて考えねばならないことですけどね。

 また、こうもお書きになっています。

仮に、ホタルの専門家の実験の内容、0.5μSv/h でホタルが光らなくなることが事実だった場合、それによって、いわき市が安全だと世間に伝わるかも知れませんが、普通に0.5μSv/h 以上ある場所が多くある、他の地域の方は今回のプロジェクトをどう思うのでしょうか?

自分たちはホタルも棲めないところに住んでるのかと思ってしまうのではないでしょうか。

0.5μSv/h 以上は危険だと福島県外の人々に捉えられませんでしょうか?

福島復興を促進するはずのプロジェクトが逆に風評被害を引き起こさないかと懸念を抱きます。

 ここからは文章を精読したうえでの推論ですが、富原さんの本意はやはり上記の「逆に風評被害を起こさないかという懸念」にあると思います。少なくとも、今回の職を辞してまで言わなければならなかったこととしては、圧倒的にこちらにウェイトがかかっていたのではないでしょうか。

●    ●

 今回の「アクアマリンふくしまの復興日記」の件は、こうして考えてみると、震災、原発事故から1年と少し経った日本の様々な状況を象徴する出来事ではなかったのかと私には思えます。そして、この件は、今を象徴する重要な様々な問題が複雑にからみあっている出来事のように思ったのです。その複雑なからみあいをほんの少しでも解きほぐすことができれば。そんな思いも私にはあります。

 それに、私自身がここ最近ずっと考え続けてきたテーマの大部分が、この出来事ひとつに含まれている気がしているので、すこし長くなりそうですが、できるだけ丁寧に書き綴っていきたいと思います。

 まずは問題を整理します。

1)メディアの問題

 この「アクアマリンふくしまの復興日記」は、震災と津波の被害で壊滅的な状況の中で、職員の方々の現場の判断で、Yahoo! JAPANというウェブサービスの無料ブログを利用することで生まれた、非常に個人の色合いが強い公式ブログであったということ、そして、そこに書かれた言葉もまた個人の色合いが非常に強いものであったということが前提としてあります。私は、震災発生時は今と同じように東京にいましたので実感としてではなく、想像として語るほかないのですが、きっと現場ではある種の無政府状態が生まれていたのだと思います。当時の一連のエントリを見ても、頼るものは自分たちしかない、自分たちがこの水族館を守るしかない、という気概を感じます。

 だからこそ、企業や団体の公式ブログとしてはたぐい稀な読者との絆を生み出しました。その語り口は、公式ブログのお手本と言ってもよいくらいものだったと思います。

 先に引用した言葉ですが、2012年7月23日のエントリにはこう書かれています。

多くの読者様と共に歩んできた「アクアマリンふくしまの復興日記」をこれ以上汚されたくないと考えこのブログを終了する決断をしました。

 富原さんがお書きになったこの言葉に偽りはないだろうと思います。このブログの1年半の歩みを自らの復興への歩みと重ね合わせて励まされてきた方も多かったのだろうとも思います。そして、読者の方々と一緒に、このブログは個人ブログ、公式ブログを含めても、日本で有数のウェブメディアになっていきました。それは、声がより多くの人に届く、つまり影響力が大きいメディアになった、ということを意味しています。

 このメディアを、県立の水族館のスタッフが個人の資格で書く「個人ブログ」であると捉えるのか、それとも県立の水族館が団体として運営する「公式ブログ」であると捉えるのかで今回の見立ては変わってきます。

 今回、「アクアマリンふくしまの復興日記」を閉鎖することの直接の理由としては、いろいろと言いたいことを言えなくなってきたということだと思いますが、この観点で言えば、公式ブログをはじめとする企業及び団体の公式メディアでは、どこまで個人の意見の表明は許されるかという問題が見えてきます。特に、ホタルプロジェクトについては、水族館が専門領域とする「生物多様性」の問題や、実験結果の妥当性だけではなく、前述の通り、「ホタルは0.5μSv/hの放射線を浴びると光らなくなる」という仮説のもとに、天然のガイガーカウンターとして現地の安全性をアピールするというプロジェクトが、結果的には「0.5μSv/h 以上は危険だと福島県外の人々に捉えられ」ることの懸念を述べられています。

観光施設である水族館が、地元の温泉街のイベントにクレームを付けるということは、本来、やってはいけないことです。

 と述べられているとおり、この主張は公式ブログが受け止められる意見の範囲、つまり水族館がその専門性において責任をまっとうできる意見の範囲をかなり逸脱しています。このもしかすると最後になるかもしれないエントリに書かれたことは、こうなるのではないでしょうか。それでも言わなければならない。なので、結果的にエントリの削除を求められるかもしれないけれど、多くの人が読んでくれているこの場で言う。そして、その責任は退職というカタチで取る。それは、つまり、厳しい言い方をするならば、多くの人たちに個人の意見を知ってもらうために、水族館のメディアを意見の周知のために利用するということになってしまっているのではないでしょうか。

 私は富原さんが述べられている主張は正しいと考えます。その話法はともかく(後述します)内容については共感します。しかし、その意見が、水族館の公式ブログで述べられたことには違和感がありました。これは、私が企業や団体のコミュニケーションを専門にしているからなのかもしれません。少し厳密に考えすぎているような気もしないではないです。しかし、対話的なソーシャルメディアでの企業や団体のコミュニケーションでは、その領域の区分けは厳密に考えておいたほうがいいのではないかと思っています。また、加えて、公式と個人の区分けを決めたうえで、たとえば個人ブログやTwitter、Facebookなどで、個人の資格においてものを言う環境がもう少し整ってくれたらいいのに、と思っています。

 あるブロガーさんと話をしていたとき、そのブロガーさんはこう言ったことを思い出しました。

 「今のウェブで言論の自由があるのは、社長かフリーランスだけなんだよ。」

 ほんとにそうだと思います。この件でも、発端は富原さんの上毛新聞での投稿でした。そこで使われた肩書きは「アクアマリンふくしま 学芸員」ではなく「団体職員」とされていました。にもかかわらず、それが県の問題として誹謗中傷と受け止められ福島県に抗議をされてしまった。そのような現状では、公式ブログ上で言おうと、個人ブログ上で言おうと、結果は同じだったのかもしれません。けれども、それでもなお、この主張は、「アクアマリンふくしま」の正式な見解としてのコンセンサスを得られなかった以上、個人の資格で、個人が管理するブログなどのメディアにおいてなされてほしかったと思うのです。

 そういう論調はウェブにはあまり見られませんでしたし、私のこの意見は今回の件については少数派だと思うのですが。

 「アクアマリンふくしまの復興日記」は、前述の通り、震災直後の無政府状態に近い環境の中で、かなり個人の判断でものごとを動かさざるを得ない状況で生まれました。そのことから、書き手側に公式と個人の境界線があいまいになってしまっていたのだろうと思います。この条件について考えたとき、私は公式ブログを逸脱している、だから駄目、というふうには思うことはできません。職を辞しても言いたいことがある。言わなければならないこともある。いざと言うとき、道理はともかく言わなくちゃいけない、多くの人に知ってもらわなければならない、ということがあるのも理解できます。

 ただ、私は富原さんの主張されることは真っ当だと思うし、「アクアマリンふくしまの復興日記」は優れた広報活動であっただけに、どこで言うかという「メディア」というファクターについても、科学的事実と同じくらい厳密であってほしかった、と思うのです。

 多くの人に知ってもらいたいと組織の中で働く個人として思っている。けれども、その主張は組織としての意見としてはコンセンサスは得られなかった。そのとき、退職をかけて、組織の名を冠したメディアで主張し、そのメディアを道連れにするという、自爆的な方法を取るのではなく、個人が運営管理するメディアにおいて、組織と切り離した個人の資格において主張をしてほしかった。

 それが個人がメディアを持てる時代の筋の通し方だと思います。

2)低線量被爆の評価をめぐる問題

 今回の件では、ウェブでは「ホタルは0.5μSv/hの放射線を浴びると光らなくなる」という説の科学的な妥当性についての言及が多かったように思います。しかし、今回の件の本題は、この部分だけではなく、むしろ、富原さん自身が「仮に、ホタルの専門家の実験の内容、0.5μSv/h でホタルが光らなくなることが事実だった場合」とお書きになっているように、「復興ホタルプロジェクト」がその意図と関係なく、結果的に0.5μSv/hを安全の基準としてメッセージしてしまうことの懸念だったのだのでしょう。

 しかし、安全基準は0.5μSv/h ではなく、少なくとも公式には「放射性物質汚染対処に関する特別措置法」によって定められた基準であるべきです。現状、福島県には空間線量が0.5μSv/h以上の地域はあります。たぶん、この0.5μSv/hという基準は、放射線管理区域の基準である0.6μSv/hに基づいているのだと思うのですが、その基準を積極的に採用してしまうと、意図していなくても多くの地域は危険であるという印象を与えてしまうことになります。

 たぶん、「復興ホタルプロジェクト」の主催者であるいわき湯本の方々にはその意図は薄かったのだろうと思います。生物多様性の問題はひとまず置くとして、単純に復興のシンボルとしてのホタルの光という、観光的なイベントだったのでしょう。しかし、「ホタルは0.5μSv/hの放射線を浴びると光らなくなる」という説を採用して、安全性を証明するというサブテーマを設定した企画者には、明らかに「放射性物質汚染対処に関する特別措置法」に対する不信感はあったのだろうと思います。要するに、国の定める基準は信じられない、ということでしょう。また、同様に考える人たちに対して、より積極的な安全をアピールしたいという意図もあったのだと思います。

 これは、今回の件から「生物多様性」と「ホタルは0.5μSv/hの放射線を浴びると光らなくなる」という問題を切り離してみた場合、多くの対立が起こった「震災がれき広域処理」とほぼ同じ構図です。

 つまり、低線量被爆の評価をめぐる対立の問題であると言えると思います。大雑把に言えば、IAEA(国際原子力機関)の基準を採用するか、それともECRRやドイツ放射線防御協会の基準を採用するか、という対立。私は当然前者で、その意味では、今回の富原さんの主張は全面的に同意です。

 そして、その観点で考えると、今回の富原さんの立場は、県立の水族館の立場と矛盾はしないはずです。ただ、やはり今回の論点は、県立の水族館が言及できる範囲を超えてしまっているとは思います。公式のブログでは、その意見が妥当であったとしても、いかに現場で働く人が言いたいことであっても、低線量被爆の評価をめぐる対立に言及したり、他の復興プロジェクトを原発問題にからめて批判することは、メディアの特性から言って、背負い切れないのだろうと思うのです。

3)話法の問題

 これは、今回の件とは少し離れて「震災がれき広域処理」についてですが、「震災がれき広域処理」のコミュニケーションは、低線量被爆の評価をめぐる対立を心の問題にすり替えてしまったことに問題があったのではないかと私は考えています。

 問題の根本は信の問題、つまり、どこを基準に安全を考えるかという問題であるはず。互いに違う基準で考える限り、本来、お互いの理解はできるはずがありません。例えば、IAEA(国際原子力機関)の基準を信じる人は、それが当然と思うように、ECRRやドイツ放射線防御協会の基準を信じる人は、それが当然だと思うでしょう。

 被災地を応援しよう、という心の問題としてのコミュニケーションは、基準を同じ人に対してのコミュニケーションです。しかし、今必要なのは、政府が依って立つ基準は、この基準であり、政府としては、その基準以外は採用できない、ということだったのではないか、と思っています。

 例えば、心の問題としては、被災地を応援したい、という気持ちと、子供を守りたい、という気持ちは、どちらが正しくてどちらが間違っているということでもないだろうと思うのです。一頃、かつて放射線を専門とする科学者たちが提唱した「正しく恐れる」という言葉をよく聞きました。でも、感情に正しさなんてないと思うのです。まずは感情を肯定する、ということが大切だと考えています。

 こんな私でも、真っ暗闇の中を歩いていると、おばけが怖いと思うときがあります。そんな私に対して、おばけはいない、あんたのその感情は間違っている、と言われたとしたら、うるさいわ、そんなこと知ってるわ、こわいもんはこわいんじゃ、となるでしょう。

 今回の件でも、かなり強い調子で批判の言葉が綴られていました。気持ちはわかるんです。でも、やはり、それでも福島県の復興への思いはいわき湯本の人たちも同じはずです。その思いだけは肯定してほしかった。その思いを肯定しつつ、事実は事実として丁寧に語る話法はないだろうか。そんなふうに思います。自分にできるかはわかりませんが、でも、そういう話法が今必要とされているのだと思います。

●    ●

 現在、7月30日ですが、「アクアマリンふくしま復興日記」は7月末で閉鎖されるとのことです。富原さんは辞表を書かれています。このエントリを私が書いた意図は、今回のこの件が、今の日本で問題になっていることの縮図のように思えたことと、もうひとつ、一見、相当な揉め事に思えるけれど、問題を丁寧に整理すれば、何か解決策が見えるのではないかと思ったからです。

 富原さんの主張は、県立の水族館の主張として、生物多様性にしても科学的妥当性にしても原発関連の認識にしても、なんら過激で逸脱している部分はなく、そういう意味では退職する必要などないではないか、と思うんですね。生物多様性については、富原さんもお書きになっているように、水族館としても問題点の指摘以上にはアクションは起こさず、静観の姿勢だったわけですし。むしろ、水族館の職員としては、こういう人にこそいてほしいと思えるような方ではないか、とも思います。それは、きっと水族館の方も同じだと思います。退職することの妥当性は、組織の問題としてはないはず。

 ただ、ひとつ、水族館して主張しようというコンセンサスがなければ、公式ブログでは言うべきではなかったのでしょう。それは、今からでもできることではないですか。たぶん、水族館としては、あの意見は同意であっても主張はできないだろうから、当該エントリを削除して、新たにつくる富原さんの個人ブログで同じ主張をしていけばいいだけ。まあ、新しい話法も考えなくちゃいけないでしょうし、いろいろ抗議の電話が先方に行ってるみたいだから、ちょっとだけ上の人たちに動いてもらわなくちゃいけないでしょうし、水族館としても、そういった主張を個人としてするぶんには許容できるという度量も必要でしょうけど。で、もしそうなったら、とても素敵だなと思います。

 それに、あのブログは、富原さんのものではなくて、「アクアマリンふくしま」という水族館のものであり、読者のものでもあるのだから、富原さんの意志に関わらず、「アクアマリンふくしま」ファンの読者としても残してくれたらうれしいなあ、とも思うんですよね。

 こんな時代だし、退職みたいな後ろ向きの話ではなくて、広報ブログの新しいあり方、そして、組織と個人メディアの新しいあり方を見せてほしいなあ、と思ったりしております、というか、そういうふうにならないもんかなあ、なんて思ったりするんですけどね。

追記(8月2日)

 富原さんはこれからも水族館で働き続けられるとのことです。ブログ「アクアマリンふくしま復興日記」は残念ながら閉鎖とのことで、現在、「ご愛読ありがとうございました」という最後のエントリのみが閲覧できます。

 アクアマリンふくしまの公式ブログが新たにはじまるそうで、「アクアマリン発 阿武隈生きものブログ」というタイトルだそうです。館長さんのネーミングとのこと。この一節を読んでも、組織としても熟考されてのことだと感じられます。本当に見事でいい解決だったと思っています。

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2012年3月 4日 (日)

コンテクストは同じでも、twitterというコミュニケーションの場がつくるモードの中では、表現は生っぽくなる

 というわけで実証。

 状況としては、土曜の深夜、はてなブックマークの新着エントリーで知ったYouTubeのビデオクリップを見て、あっ、これいいなと思ってツイートしたのがきっかけ。KNOTSさんは、なかなか人気のある作家さんみたいですが、私ははじめて聞きました。タイトルが「年越しセックス」というものなのですが、なんか2011年という年を考えると、ああ、確かになあ、そういう気分かもなあと思ったりしました。

 
 で、歌詞や音作りが私の世代になじみがある感じで(Yukiさんの曲なんかに通じるものがありますね。90年代のクロスオーバーな音というか)、こんなツイートをしました。

なかなかよい歌&よい映像。タイトルはあれですが、おすすめ。ちょっと懐かしい音ですね。 / “年越しセックス/KNOTS” http://htn.to/k8SNek

 ということがあり、また、同時に、広告コミュニケーションまわりでいろいろ考えているものの、なんとなくブログに書くにはもう少し寝かせたりしないとなあ、という思いもありながら、たまたまそれがつながって、いきおいでツイートしてみたわけですね。連続性のあるツイートですが、あらすじを頭の中で描いているわけでもなく、書いては展開みたいな感じで、推敲もあまりしていません。元ツイートはこちらでどうぞ。

これぞテレビCMというようなものは別だけど、テレビCMでもセンスよくがんばってみました、いいでしょ、これ、コマフォト載るかもかも、賞とれるかもかも的なものは、YouTubeで流れている個人制作のビデオクリップに負けちゃってるものなあ。まず、動機が違う気がするんです。

言葉だってそう。生活のなにげない気付きや心のつぶやき的な言葉は、80年代以降、広告コピーが得意としてきたし、いまだにコピーライターはそんな言葉にあこがれていろんな商品にあてはめたりしてるけど、この分野では、もうtwitterでときたま流れてくるツイートとかに完敗してると思う。

コピーライターの自負は、生活インサイトを言葉にする、言葉にできる、みたいなことだったんだけど、そんなものはコピーライターが独占してるものでもないわけであって、ネットはそんな表現の部分も、独占から解放したんですよね。

ここ最近の関心領域とあわせて言えば、それは、写植版下からDTPへ、銀塩からデジタルへ、という、あの時が転換点だったと思います。広告で言えば、本当に負けたのは、プロを自負する僕らの本気の表現であって、いいでしょ、これ、本来は広告ってこうあるべきなんだよな、という広告だと思うんです。

これはあまりみんな言わないことだけど、マス広告で言えば、唯一生き残ったというか、絶対領域なのはタレント広告ですよね。タレント広告だけはあいかわらず元気なんです。考えてみれば当たり前で、表現の市場開放のあとでも独占できるのは、こういうタレント広告的なものしかないですから。

で、ね、負けてばかりはいられへんやんか、というのと、でも、ほんとうは負けているよね、こういうYouTubeの映像っていいやん、すてきやん(紳助さんみたいですが)ということを前提にして、もう一度広告を考えていきたいっていうのが、僕のテーマだったりして。

これもなかなか言い切る人もいないけど、広告なんかなくなるわけないんですよ。自営で飲食とかお店とかやってる人ならわかると思うけど、どこかのタイミングでなんらかの形で広告をしなきゃいけないフェイズってあるわけで、その前提で広告の言葉って、表現ってなんだろみたいなことを考えるわけです。

ネット系以外の広告の制作者って、あまりこういうことをtwitterでつぶやかないじゃないですか。それは、私がネット好きというのもあるけど、なんていうかな、こういう夜中のツイートって生活インサイトの表現に近いものがあって、どこかでそれが独占物だと思っているからな気がするんですね。

でも、それはもうとっくに独占物じゃなくなっちゃったんです。twitterはリアルの属性が反映する部分があるから、いままでどおりでもなんとかやれる気もしてしまうんだけど、でも、もう表現は解放されちゃいましたよね。そこで、どうするか。解放されたところからはじめるしかないんです。

僕は最近、若い人に70年代以前のCMとか広告を見る方がいいよ、と言っています。それは、広告がサブカルチャーではなくて、きちんと広告だった時代の広告だから。そこから学ぶことはたくさんありますし、自分自身も新しい発見が多いです。

自分自身も、いろいろ回り道だったり、迷路だったり、ややこしい感じで右往左往しちゃってますが、もういちど、そこからはじめてみようと思ったりしています。なんか、書いてて思いましたが、こういうことを書くのは、ブログよりtwitterがいいみたいですね。

 単純誤植は修正してありますが、まあ、こんなことを書いているわけですね。ちなみに、このツイートに関しては、一連のツイートを書き上げてから、返信をしたりしたので、返信して考えが展開されるみたいな要素はあまり入っていません。

 こういう見せ方はTogetterで簡単にできますし、ブログでもツイートを掲載している方も多いと思いますが、あまりツイートを掲載したりしないこのブログでやってみると、いつもブログで書いている表現と、twitterという場での表現の差がはっきりわかるんじゃないかな、と思い、やってみた次第です。まあ、それと、せっかく書いたのだし、ブログでも載せてやれ、みたいなスケベ心もなきにしもあらずですが。

 個人的には、エントリのタイトルにあるように、ずいぶん生っぽいなあと思いました。でも、まあ、主張自体は、このブログで書いてきたこととそれほど違わないです。ということは、twitterでは“表現”が少し生っぽくなるということですね。それは、twitterが140字の制限があるということと、オープンな場ではあるけれど、少なからず、フォロー、フォロアーという、ある程度は自分が把握できる関係値の中で書いているということもあるのでしょうね。

 ちょっと真面目に言うと、このブログで「表現の問題」という表現で言ってきたことのひとつには、こういうことが少し関連しています。つまり、広告コミュニケーションに限定して言えば、メディアが多様化してきた今、コミュニケーションの場にはいろいろあって、その場は、それぞれモードが違います。そのモードが違う中では、そのモードに最適化した語り方というものがおのずからあるわけで、そのことを身を持って示すことができるかな、と。もちろん、ツイートをした時点でそんなことはまったく考えていないわけで、事後的にですが。

 それと、もうひとつあります。語り方はモードによって最適化する限り違ってくるけれど、語りたいこと、つまり、語りのコンテクストは違わないんですよね。ブログであろうと、twitterであろうと、それに、私の場合は、リアルでも、ほぼ同じコンテクストなわけです。実際に会ったら、まったく違うことを言ってたよ、ということは私の場合はまあ、ほとんどないです。これは、自分で言うことではなく、他人が評価することではあるんですが、まあ、自己評価としては、この分野については、そうかな、と。

 こういうこと、私が広告の仕事を始めた頃は、あまり意識はしていなかったんですよね。広告とカタログは違うよ、とか、店頭はもっとこんな感じで、みたいな話はありましたが。今はもっと細分化されていますよね。もちろん、今でも、メディアをクロスして使わなければ意識はしなくていいんですが、そういうわけにはいかないこともたくさんありますよね。それに、そういう多様化で、もうマスメディアという場のモードも変容してきているわけですし。

 今まで通りではしんどいよなあ。それが、私のベースというか、通奏低音なわけです。とまあ、元ベーシスト的なちょっと格好をつけた言い方をしてしまうところは、ブログという場がつくるモード故なんでしょうね。ちなみに、こういう通奏低音という言葉の使い方は、音楽的にはちょっと違うらしいですよ。調べてみたらちょっと面白いです。

 では、引き続き、よい日曜日を。

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2012年2月19日 (日)

「つぶやき」と「いいね!」

 2年前の今頃、『「つぶやき」と訳したのがよかったのかもね。』というエントリを書きました。読み返してみて、あの頃は、私はまだtwitterユーザーではなかったんだなあ、と土曜の深夜にしみじみ。ちょっと前のエントリを引用してみます。ちょっと長いですが。あの頃、twitterの宣伝文句はこんな感じだったんですね。

 サービスがはじまった当初のキャッチフレーズは、こうでした。

What are you doing?

 日本語で言えば、「今、何してる?」という感じですね。Buzz(このBuzzって、蜂のブンブンという羽の音のこと)的な、気軽で前向きなコミュニケーションの指向性を感じますね。これも、相手に語りかけるという意味では「つぶやき」とは違います。

 で、今の英語版のキャッチフレーズは、こうなってます。

4_3

Share and discover what’s happening
right now, anywhere in the world.

See what people are saying about…

 うまく訳せませんが、直訳で言えば「世界中のいろんなところで、たった今何が起っているかを共有しよう、発見しよう。みんなが何を話しているか、見てみる…」という感じでしょうか。それが、日本語版ではこうなります。

2_3_2

あなたの今を共有して、
ツイッターで世界の出来事を知ろう

みなさんが何をつぶやいているか見てみよう

 英語では、tweetではなくsayが使われ、そのsayが日本語では「つぶやく」と訳され、みたいな関係です。まあ、tweetはsayの比喩表現でもあるから、地の文としてはsayになるでしょうね。それが、日本語では「話す、話しかける」とか「おしゃべりする」とかではなく「つぶやく」となっていて、これは既に「Twitter=つぶやく」という構図が出来上がっているということも多分にあるでしょうけど、この「つぶやき」というキーワードは、とても日本語圏のユーザーに受け入れられやすい言葉のような気がします。

 say、つまり「話す」という行為は、必ず相手が必要な概念です。一方の「つぶやき」は相手がいらない言葉で、そこがよかったんでしょうね。最終的には、「コミュニケーションを楽しむ」という同じベネフィットがあるにしても、その導入では、英語圏と日本語圏ではちょっと切り口が違うんですよね。日本では、まず自分。内省的。これは、日本語圏のユーザーが内省的というわけではなく、導入において「さあ、楽しいコミュニケーションを」といくと、まず入り口でつまずくということ。心理的な敷居が高すぎるんです。

 この「つぶやき」という訳語はほんと絶妙で、もちろん、この「つぶやき」という言葉だけが貢献したわけではありませんが、2年経った今、twitterは日本市場で受け入れられていきました。世界でも、日本はtwitter好きだそうですね。私も、かなり好きになりましたし、それは「つぶやき」という気軽さもあると思います。

 もうひとつ、引用。これは、Facebookが台頭してきた今、twitterというウェブサービスの基本構造を考えるうえではかなり重要な部分ではないかな、と思います。

 日本語版の訳は、英語の元の文とは少し意味が違っていますね。このあたりは、すごく興味深いです。英語の元の文が、shareとdiscoverが同列(Share and discover)なのに対して、日本語ではshareすればdiscoverできる(共有して知ろう)という関係になっています。少し啓蒙的です。shareしなけりゃ、discoverなんてできないんだよ、という感じ。

 これも文化の違いなんでしょうね。日本では、shareという概念は、どうしても身内の中でのshareという概念になりがち。でも、Googleなんかが代表的ですが、いわゆるWeb2.0的な文脈のshareは、コミュニティ内のシェアではなく、もっとソーシャルに広く、言ってしまえば、ウェブのすべてに広がるshareです。ここでは、前者のshareと後者のshareは、じつは対立概念になります。この少しばかり啓蒙的な日本語の言い回しには、もしかすると、そんな日本人スタッフの思いも少し入っているのかもしれませんね。

 twitterは基本的にはオープンなウェブサービスで、少数のフォロー、フォロアーで使用している人も、そのツイートはウェブの世界に開かれています。ブログにおける個別エントリのように、ツイートにはひとつひとつパーマリンクが発行されますし、時間はかかりますがGoogleにもインデックスされます。大通りや大広場であっても、路地裏や小さな公園のベンチであっても、上を見上げると同じ空、みたいな感じです。

 そんなオープンで外向的なウェブサービスであるtwitterは、日本市場では「tweet」を「つぶやき」と、あえて内向的に表現しました。これ、今になって思いますが、日本で受け入れられるために、かなり日本のインターネットユーザーのインサイトを考え抜いたんだろうと思うんですね。オープンなプラットフォームだからこその「つぶやき」。とりあえず、あなたが思ったことをつぶやくだけでいいんですよ、コミュニケーションはあとからついてきますから、というようなお誘いの仕方。公共空間では、あまりコミュニケーションや自己主張を避けがちな日本の人たちにぴったりなアプローチです。

 で、一方のFacebook。

 Facebookは、基本的にはそれぞれのユーザーの情報のやりとりは、Googleにインデックスされませんし、プロフィールはネットにオープンにはなっていますが、基本は、mixiのように、また、古くはメーリングリストのように限られた人たちのコミュニケーションを実現するプラットフォームです。

 このクローズドSNSの中核機能である「Like」をFacebookは日本市場のためにどう表現したのか。ご存知のとおり「いいね!」ですね。これ、twitterとまったく逆のアプローチです。つまり、内向的なウェブサービスに、より外向的にお誘いするというアプローチ。

 英語でいうLikeは、「いいね!」よりもあっさりした意味合いがありますよね。好きという概念に対して、英語はLoveとLikeの2つの語に分かれていて、Likeと!も付けずに放り投げる感覚は、日本語の「いいね!」とはずいぶん違います。これも、twitter同様、かなり日本のインターネットユーザーのインサイトを考え抜いたんだろうなあと思うんです。

 あまりいい言葉ではないですが、旅の恥は書き捨てという言葉もあるように、仲間内どうしだと、かなり濃密なコミュニケーションや行動をするところがあるように思います。安心感がある空間ではのびのびするのも日本の人の特徴。そういう人たちに向けて、クローズドなサービスが「いいね!」とアプローチする。twitter同様、これまたお見事です。

twitter:オープン(外向的) tweet=つぶやき(内向的)
Facebook:クローズド(内向的) Like=いいね!(外向的)

 この「つぶやき」と「いいね!」はもう当たり前の言葉になってしまいましたから、あまりこのアプローチの凄みがわかりにくくなってしまっていますので、参考として、twitterのtweet、FacebookのLikeを、その機能をそのままに、あえて、普通、何も考えずにフラットに訳したらこうなる、というのを示しておきます。これまでのウェブサービスの文脈もふまえるとこんな感じになるのではないでしょうか。

tweet=おしゃべり
Like=お気に入り

 こうなると、やっぱりそれぞれの魅力が半減どころか、ずいぶん普通に思えてきますね。なんだか、インサイトの踏み込みが一皮甘い感じ。特にtwitterには抵抗感がでてきそうです。FacebookのLikeも「いいね!」と表現したからこそ、今、広告業界でゴールドラッシュみたいになっているんでしょうね。もし「Likeをふやす」とか「お気に入り数アップ」と企画書に書かれていても、なんでもかんでもFacebookページという状況にはならなかったと思います。

 この「いいね!」という訳によって、広告欄やコメントなどにつく「いいね!」は、日本ではこんな感じで表現されるんですね。日米の比較です。

○○ like this.
○○さんが「いいね!」と言っています。

0,000 people like this.
0,000人が「いいね!」と言っています。

 これ、ほんと見事です。嫌みなくらい見事。日本では「いいね!」と「言っています」なんですよね。なんだかなあ、すごく読まれてる。憎らしいほど読まれすぎてます。ユーザー推奨はもともと効果がありますが、それを仕組みとしてドライに表現するのではなくて、より同調の負荷がかかるような「あの人も言ってますよ」的な表現にしたのは見事としか言いようがないなあ。情報商材のネット通販なんか、ぜんぶこれですものね。あの「いいね!」はフィクションに近いし、一方通行の「いいね!」ですが、こちらはリアル。強いです。

 個人的には、日本語表現の過剰なまでの見事さは、実態以上に企業の「いいね!」されたい熱を加速させた一方で、企業とユーザーの直接交流的なFacebookの良さはちょっと見えにくくしてしまっているので、やがてFacebookのネックになってくるんじゃないかな、とは思うんですが、でも、そうなればなったでまた対応はしてくるのでしょうし、まあ、Facebookとしてはいいところで落ち着くのではないでしょうか。

 企業側、業界側では、今、人気投票的な部分がクローズアップされて、人気を得ればマスに匹敵するメディアがつくれますよといったとらえられ方がされがちですが、twitterもFacebookもソーシャルメディアではあるので、基本は継続的な情報発信とその情報をもとにした継続的な直接対話。その性質上、原則的には所謂「ハードセリング」には向かないとは思うんですね。本来は、一時的な加熱を狙うのではなく、地味にコツコツやっていくタイプのものではあると思います。

 最後に、同じく2年前の『ソーシャルメディアとの距離の取り方』というエントリから引用します。

 せっかくのソーシャルメディアへの参加です。初期費用はゼロに近くても、継続のもろもろを考えればゼロではありません。短期の成果を急ぐあまり、ソーシャルメディアで嫌がられては本末転倒です。マイナスのブランディングだけは避けたいですよね。そのためにも、どうソーシャルメディアと距離を保ちながら付き合っていくのかを考えることは大切です。めんどくさいけど、そのことをきちんやるのとやらないのとでは、2年後、3年後、ずいぶん違ってくるのだろうな、と思います。

 あれからtwitterもFacebookもずいぶん広まったけれど、今も考えはほとんど変わりません。もっとも、ソーシャルメディアという位置づけが変わらない限り変わりようがないとも言えますが。ちょっと夢や希望を熱く語らない分、もしかするとつまらない印象はあるかもしれませんが、なるべくフラットに冷静にソーシャルメディアを考えていきたいとあらためて思っています。

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2012年2月 6日 (月)

インターネットをもっと怖がろう

 ブログをはじめたての頃、投稿ボタンを押すのがすごく怖かったんです。

 誰でも閲覧できる場所に自分が書いたものを投げ出すわけですから。はじめて投稿ボタンを押した時はすごく緊張しました。でもまあ、投稿ボタンを押してすぐに、名もなきブログのエントリをひとつ公開したくらいでは誰も見てはくれない、なんてこともわかるんですけどね。

 あの頃はまだユーザーの多くに、インターネットはオープンな空間であるという共通認識はあったと思います。無断リンク禁止みたいなことで、特定のブログコミュニティとの揉めごとはあったけれど、オープンであるがゆえの怖さみたいな感覚は、ほとんどの人が持ち合わせていたような気がするんですね。

 批判したら反論される。オープンな空間なんだから当たり前の話で、このブログでも過去に何かや誰かを批判する内容のものもありますが、それなりに覚悟を持って、怖い気持ちを乗り越えながら投稿ボタンを押したりしていたわけです。でも、それが表現するってことですよね。

 たくさんの投稿を重ねた今も、その怖さはやっぱりあります。ご批判を受けて、自ら反論をしたこともありますし、論が甘くて、浅くて、そのうえ間違ったことを書いて、専門家の方からご指摘を受けて、どう屁理屈こねても駄目だなと思って白旗を上げたことだってあります。

 2ちゃんねるなどでの誹謗中傷が問題になることがありますよね。それは、ほんと問題だとは思いますが、それでも、名無しを保持するシステムや名無しであることを維持するコメント主の意志は、やっぱり、インターネットはオープンな空間であるという認識に根ざしていると思うんです。つまり、そこにはオープンな空間に対しての自己防衛の意図があります。

 最近、ちょっと気になること。

 TwitterやFacebookといったソーシャルメディアが登場して、インターネットがオープンな空間であるという認識が少し薄くなって来ているんじゃないかな、と思うことがあります。過剰に意識する必要はないけれど、それにしてもなあ、という気がします。最近、Twitterとかで起きているいつくかの誹謗中傷問題を見て、ちょっと今までとは質的に違うものを感じています。

 システム的に言えば、自ら設定をしない限り、TwitterもFacebookもオープンなインターネットの中に何の囲いもなくあるんですよね。フォローしなくても、友達にならなくても、設定をしない限りは、誰でも全部閲覧できます。なんとなく知った仲間とのプライベート空間のように思えるのは、インターフェイスがそう見せているだけです。インターネットに公開されるブログエントリと何ら変わりはありません。

 mixiでさえ、その気になればオープンになってしまうこともあるんだし、それこそTwitterは、少し前、まだ競合サービスがひしめいていた頃はミニブログと呼ばれていたんですから。

 確かに、あのタイムラインのインターフェイスをずっと眺めていると、ある種の無敵感覚というか、自分が今置かれている環境をまったく考えに入れないゆるい意識になるのはわからないでもないけれど、それは、基本的に間違っているし、これからインターネットがどのように発展したとしても、そういう感覚が許容されることはないと思うんですね。システム的ににありえないたぐいのものですから。

 とは言え、私もそうしたインターフェイスの罠にはまってしまっていて、TwitterやFacebookで無敵に振る舞う人をタイムラインなんかでは見たことがなかったんですよね。だから、そういう人はいないことになってしまっていて、あまりこの問題について考えてはこなかったのは不覚でした。でも、今のソーシャルメディアの環境を考えると、それは必然ですね。

 インターネットがオープンな空間であるという認識が薄くなってきているのは、よくないなあと思います。現実は、どう思おうが、どこまでいってもオープンな空間なわけですし、そういう環境なんだしわからないでもない、で済まされない気がするんですよね。分かってやっていて、それなりの武装もしているのならともかく、そういう人って、タイムラインを見ると普通の社会人だったりして、余計に根が深そうだし、結果は悲惨になりそう。

 私なんか、これだけ書いて来たのに、投稿するときにはいまだにいろいろ考えますもの。インターネットをもっと怖がろう。いろんな事例を見るにつけ、あえてそれくらい言ってもいいのではと思い出してきました。

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2012年1月12日 (木)

ステマ

 ちょっと前にステマという言葉がネットの人気ワードになっていて、最初、何のことかいまいちわからなかった。で、ちょっとリンクを見てみると、ああ、なるほどね、ステルスマーケティングのことか。知らないあいだにステマって言うようになったんだ。

 スマートフォンのことをみんながスマホと呼び出したときの気持ちにちょっと似ている。軽い敗北感。ほんの数年前、スマートフォンって単語を使ってるのはウィルコムユーザーくらいしかいなかった。今やスマートフォンを通り越してスマホ。そんなスマホをあきらめたウィルコムは好調。時代は変わる。

 グルメ系の口コミサイトに投稿されていたコメントが業者のものだったというニュース。テレビでも報道されて警察も動いているとのこと。ネット関連株も下がったらしい。愉快な話ではないけれど、ひとつのきっかけとしてはいいのかもしれないとも思う。

 業者のコメントで順位が上がったお店は大人気だったらしい。妙な話だけど、逆にそのグルメ系メディア、つまり、消費者の評価の影響力の大きさを証明とも言えるし、昔、マス広告全盛時代に「広告より口コミを信じましょう。」という広告コピーがあったけど、頭いいでしょ的な広告の自己否定をはるか彼方に置き去りにして、時代はますます口コミへ。反動はない。たぶん。

 少し前に、世界最大手の検索サイトが日本市場限定でユーザーのブログを利用したキャンペーンを実施したことがあった。それを知ったアメリカ本社は、即刻、キャンペーンを中止し相当重い処分を下した。問題になったのは、ブログを使ったということではなく、ユーザーに報酬を払ってユーザーにブログを書いてもらったこと。さらに詳しく言えば、そのブログにnofollowという検索サイトのページランク対象外を示す属性をつけなかったことが問題になった。

 それは、その検索サイトにとって、ページランク、つまり、リンクの順位付けへの信頼がそのままサイトへの信頼につながっていたからだ。サイトへの信頼。それは、すべての収益の基礎。その信頼が壊れれば、やがてすべての収益を失う。実際、黎明期に信頼の喪失により消えた検索サイトもある。世界最大手の検索サイトはその歴史から学んだ。

 口コミサイトにとっての生命線は口コミ。その信頼を失えばすべてを失う。

 これからもステルスマーケティングは行われるだろう。ステルスマーケティングを利用する企業もなくならないだろう。広告やマーケティングの信頼性を阻害してまでも儲けたいやつは、いつの時代もいる。

 けれども、口コミを生命線にするサイトを運営する企業は、そのことに対して毅然とした排除の意思を示す必要があった。どのネット企業よりも厳しく示す必要があった。合法、違法、そんな第三者の基準に関係なく、運営の姿勢として。それが嘘偽りなく感じたことを書いてくれるユーザーを信じるだと思う。守ることだと思う。そのサイトを愛するユーザーの信頼を運営が守らなくて誰が守るというのだろう。

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