「大衆の原像」をどこに置くか
そもそも「大衆の原像」なんてものはないんだよ、幻想なんだよ、今の時代ではすでに失われたものにすぎないのだよ、という言い方もできるし、その立場に立てば「どこに置くか」という問いは無効になります。でも、私にとっては、この問題は結構切実だったりもします。
「大衆の原像」というのは吉本隆明さんの概念で、戦後知識人の転向というコンテクストで使われた言葉です。知識人がその知識なり思想なりに「大衆の原像」を繰り込んでいかないと、その知識は大衆から乖離していくよ、ある政治集団なり、知識集団なりに閉じられてしまうよ、そうした思想はいかに高度であっても欺瞞でしかないんだよ、みたいなことです。大雑把な理解ですが。
吉本さんにとっての「大衆の原像」のイメージ。自分や家族が今日を生きることができ、明日もまた同じように生きることを望む存在で、それ以外の政治経済や思想などについては無関心である、というもので、それは戦後間もなくの、たくましく生きる庶民の姿だったのだろうと思います。
こういう「大衆の原像」があるのかと言えば、もしかするとないのかもしれません。大衆から分衆へ、ウェブを通してそれぞれの個がつながる時代へ、ということなのだろうし、メディアの多様化で、「大衆の原像」の一言で言い切ってしまえるような「大衆」が見えにくくなったのは、ある程度事実だろうと思います。
例えば私。
こうしてブログを書いていて、アクセス数はともかくとして、とりあえずはウェブを通して世界に発信できているという現実があり、夜中にこんな文章を書いている私は、「大衆」と言えるのか。言えないとすれば、吉本さんの言うように、私は広い意味で「知識人」なのか。人によっては「ブログのようなものを書いている時点で、おまえはもうすでに大衆なんかじゃねえよ。」だろうし、人によっては「いつも読んでるけど、知識人なんて笑わせんなよ。調子乗るんじゃねえ。おまえなんか、大衆そのものじゃねえか。」でしょう。つまり、私は「大衆」であり「大衆」でなく、「知識人」でもあり「知識人」ではない、そんな存在。
もちろんこれは概念の遊びに過ぎないことは、私のブログを読んでいただいている方なら、わかることだと思います。私はまったくもって知識なんかないし、概念ではない「知識人」という人は、学者さんとか、それに類する人のコトに決まっているし、私にあるのは専門分野においてのそれなりの経験くらいのもので、自己規定としては大衆そのものだと思とし、メンタリティも大衆としか言えないんだろうなと思います。
だけど、「私のようなやつが大衆なんだよ」と言えるかと言えば、躊躇はしてしまいます。
程度の差こそあれ、ブログとかTwitterとかやってる時点で、同じようなものでしょうね。で、もはや吉本さんが言う「大衆」なんて、どこにもいないんだよ、と言いたくなるけど、それは事実ではないのでしょう。ネットにあらわれている個は、わずか一部であって、大多数は、いまだに、少なくともメディア上ではもの言わぬ人で、それを専門用語で言えばサイレントマジョリティーということになるのでしょう。
ではサイレントマジョリティーこそが「大衆」か。吉本さんの言う「大衆の原像」か。それはもはや成り立たないのかもしれません。それはだだ単にネットでものを言わないだけだろうし、その中にも、様々なクラスタがあって、だからこその、マスメディアの衰退があり、そんな「大衆」はどこにもいないということが、とりあえずの今の前提であるように思います。
けれども、その前提は、かならずしも前提にはなっていない、ということは巷の言説を見ればわかります。
これからの消費者は発言する消費者で、情報を自ら発信し、摂取し、つながりを求める、という今風な言い方は、「これからの消費者」と言い切ってしまう時点で、じつは無意識に「消費者」イコール「大衆」としていて、やはり頭の中で「大衆」を設定してしまっているのです。で、そういう消費者を設定した時点で、そのコミュニケーションは、決定的にサイレントマジョリティーを取りこぼしていてます。で、その消費者の設定の狭さ、精度の低さゆえに、うまくいかないことがよくあるのも事実。
つまり、多くの人に受け入れられるということを指向する限り、多かれ少なかれ「大衆の原像」というものを現実に乖離しないかたちで思い描く必要がやっぱり出てくるのですね。それがあるとしても、ないとしても、自分なりの確固たる「大衆の原像」をイメージする必要が出てきます。そのイメージを核にしながら、あらゆることを遂行していくことが求められるのです。必ず。あらゆる人は、意識するかしないかは別に、それをやっているはずです。まあ、それを「大衆の原像」なんて古い言葉で言わなくてもいいけれど、思い描いているの同じようなことのはずです。
そして、その「大衆の原像」あるいは「大衆の原像」と同じようなイメージの精度の差が、結果の差を生み出すと言ってもいいんだろうなと思います。ブログだから、ネットについて言いますが、例えば、ウェブサービスが当たるかどうかは、じつはこのイメージの精度の差が大きく影響しているはずです。わかりやすく言えば、「ユーザー像を見誤ったな」というやつですね。
よく言われる「キャズムを超える」なんてものは、この「大衆の原像」イメージの精度の問題でもあるのだろうと思うし、「大衆の原像」があるにしてもないにしても、私たちはそのイメージを持たざるを得ないのです。一周回って、吉本さんが提示した「大衆の原像」をどこに置くか、という課題は同じように、今を生きる私たちにも突きつけられているように思います。ほんの些細なことでも、常に突きつけられます。
きっと、「大衆の原像」はファンタジーです。もしかすると、吉本さん本人にとっても「大衆の原像」とは、そういうのだったのもかもしれないという気もします。今も昔も、そんなものは実体としてはどこにもない。けれども、「大衆の原像」をイメージしなければ、前には進めないし、そのイメージの精度が低ければ、現実と乖離してしまう。つまり、失敗する。
少し前に、「キャズムの超え方 」というエントリでこんなことをを書きました。少し長いですが引用します。
広告の分野でよく言われることがあります。時代の半歩後を行け、と。半歩先ではなく、半歩後。私はわりとその言い方が好きで、いつも心に留めてきま した。まあ、私自身が高感度アンテナを張り巡らせた最先端人間でもなく、いたって地味な人間なので性に合っているのもありますけど。なんとなく逆説的な言 い方ではあるから、いやいや先を行ってなくちゃ駄目でしょ、と言われそうだけど、半歩後を行くという言い方に一理あるとすれば、キャズムを超える、つま り、世の中に新しいコンテクストを提示するための方法論としてなんだろうと思います。
それは、あえて言うと未来を見るための方法論なのかも、とも思います。先を行く者には、未来は遮るものが何一つなく見渡せるけれど、現在が見えに くいのだろうなと思ったりします。でも、未来と言うのは、過去と、現在が軸になって、はじめて未来ですよね。ほんとは、過去があって、現在がある。その続 きにしか未来はないはずなんです。そんな未来を見るための場が、半歩後という場なのかもしれません。
ジョブスのプレゼンテーションの中に、ネットブックについての言及もありましたね。「何もちゃんとできない」と言っていました。そのあたりに、半歩後から現在を見ている証拠がありそうです。ネットブックが流行っている理由をきちんと把握したうえで、その時代のニーズだけをきちんと汲み取り、そのう えで「何もちゃんとできない」と言っているように思えます。
つまり、iPadは、ネットブックが象徴する現在と紐付けられた製品であるということなんですね。その現在を見るための場所は、やはり半歩後にし かないでしょう。きっと、ネットブックの流行を嫉妬まじりで見ていたんだろうなあ。どうして、こんな中途半端なものに人は惹き付けられるのか、なんて思い ながら。そこを突き詰めると、たまたまタブレットPCのようなカタチになった、ということに過ぎないのでしょうね。
あのとき書いた「時代の半歩後」というのは、もしかすると、未来に向けての新しいコンテクストを提示するための核となる「大衆の原像」イメージの精度を高めるための方法なのかもしれません。少し時間がたって、そんなふうに思えてきました。
そのイメージを考えるとき、私の頭の中には、ネットなんか見たことがなく、多様化された消費社会をしなやかに楽しむスキルを持ち合わせていない父や母がどうしても浮かぶんですね。私は「大衆の原像」を考えるとき、そのような人たちをどうしても切り捨てては考えられません。けれども、それこそが「大衆の原像」であるというのは違うとは思います。
ならば、私のようなネットを使って自ら発信し、情報を享受する個人こそがこれからの「大衆の原像」であるとイメージすることは、いくら時代の先を行っているように見えても、私の中にある父や母と同じ感覚を否定することにもなります。どれだけ時代が進んでも、きっとこれから先も私はその感覚を持ち続けるだろうし、その過去からつながる感覚を否定して、新しい大衆像を提示することは、イメージによって現実を変えることであり、そういうことはあり得るとしても、それはイデオロギーであり、革命の仕事なのでしょうね。
そのどちらでもなく、そのどちらも包括するイメージでなければ、やはり「大衆の原像」とは言えないのでしょう。イデオロギーではない未来を描くためにも、このあたりはしっかりと考える必要があるのでしょうね。それは、かなり難しいことでもあるし、きっと自分自身の内なるファンタジーに過ぎないのだけれど。たぶん、語れない、語りにくいから想定しないという選択は、これからも不可能だは思います。
| 固定リンク | コメント (10) | トラックバック (0)