俳句は短歌の後にできた
より短い形式である俳句のほうが短歌より後にできた。これ、ちょっと不思議な感じがしませんか。普通、シンプルな形式がより複雑化するのが道理な感じがしますよね。でも、日本の定型詩の歴史で言えば、俳句が後というのは、概ねこれは事実であるようです。あまり私は詳しくはありませんし、この分野はいろいろ説があるようにも思いますが、少なくとも、きちんとした定型詩の形式として成立という意味では、短歌が先で俳句はかなり後になってから、ということは言えると思います。
でも、これはジャズの歴史でも同じなんですよね。これも大雑把な捉え方になってしまいますが、ジャズの発祥と言われるデキシーランドジャズなんかは複数のホーンと、ベース、ドラム、ギターかバンジョーというような中編成のバンドが多かったですし、その後、商業音楽として成功したジャズはビッグバンド形式でした。
大きなホールや酒場でビッグバンドで演奏されていたジャズですが、小さな酒場でもジャズを取り入れたいというニーズができきたんですね。で、トリオやカルテットという小編成のジャズバンドが誕生するわけです。小編成でも、ビッグバンドのスィングやグルーブを再現するために、音の厚みをカバーするかのように、より複雑でダイナミックなソロが取り入れられました。これが、ビバップです。
このビバップにより、ソリストは自由を獲得していきます。これまでのバンドマスターから、ソリストがスターになる時代がやってきます。ビバップの時代にチャーリーパーカーやバドパウエルのような天才ソリストがたくさん輩出されました。その天才がビバップをつくったということと同時に、より編成が小さくなったビバップという音楽形式が天才をつくった、とも言えると思います。
短歌、俳句は、基本的にはひとりの人がつくる芸術ですが、もしかすると同じようなことが言えるのかもしれません。短歌は上の句と下の句に分かれ、基本、状況とその状況についての私の思い、という構成になりますよね。しかし、その上の句だけを切り取った俳句は、状況を描くことだけで思いまで伝えるということになります。それは、思いを言葉にするということを禁じてしまう分だけ、厳しく私の資質が問われることになります。つまり、俳句という最短の定型詩の成立には、これまでの短歌や連歌をはじめとする和歌という定型詩ジャンルの成熟があったと思うのです。
俳句は短歌の後にできた。あるいは、ビバップはビッグバンドジャズの後にできた。
これは、不思議でもなんでもなく、きっと必然なんだろうと思います。定型詩にしても、ジャズにしても、そのジャンルが成熟する段階で必ずsubtraction(引き算)が起ります。それは、つまり、subtractionが可能になると言い換えてもいいのかもしれません。subtractionには勇気がいります。subtractionによって残されたものは、そのものだけで世に問えるだけの価値のあるものなのか。ある。そう言える自信がなければsubtractionなんてできやしないのだから。
また、そう言えてはじめてsubtractionが必然になります。なぜなら、そう言えてはじめて、他の価値とのaddition(足し算)が自らの価値の相殺として機能してしまうと思えるようになるのですから。他の価値とまざってしまうのは、もうごめんだ、かんべんしてよ、と。
たぶん、この必然は、定型詩やジャズという芸術分野だけでなく、テレビやスマートフォンをはじめとする工業製品をはじめとするあらゆる消費材、居酒屋やファーストフードをはじめとするあらゆるサービスにも当てはまるような気がします。
今の消費社会を、バブル期を基準として不景気による後退と見るか、それとも、ある種の成熟と見るか。そのことが、あらゆることを考えるうえで鍵になってくるように思います。それによって、結論も、今後の行動も、すべてが変わってきますから。で、私はどう考えているかって?もちろん。私は成熟である考えています。
きついけど、自分も含めて、みんな成熟してしまったんだし、たぶん、もう戻れないんだから、やるしかないんだろう。そんなふうに考えています。
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