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2019年10月17日 (木)

Riskという概念

 加入している生命保険の担当者に新人さん(とは言っても入社したての人ではなく、3年の経験を経て顧客の担当ができるという制度とのこと)が補佐で付いて、ご挨拶ということでいろいろ話を聞く機会があった。僕の場合、この年で独身で子供もいなくて、そのうえ親も亡くなってしまっているので生命保険の必要性が希薄になっているので時間を取らせるのも申し訳ないなあと思いつつつ、話を聞いていた。

 新人さんなので、いろいろと保険という商品の知識を基礎から丁寧に教えてくれる。ただ、僕は広告の仕事で金融関係は数社担当していたし、それなりの知識があり、「これはどちらが保険会社が儲かると思います?」というような質問があるプレゼンだったので、途中からその正解率を競うゲームを楽しむみたいな感じで話を聞いていた。あらためて基礎から教えてくれるので、学びという意味でもそれなりの面白さはあったけれど。

 その話の中で「Riskってどういう意味だと思います?」という質問が来た。ふと考えると、うーん、と考え込んでしまった。適切な訳語がない。自分の肌感覚では分かる。それは、英語のRiskという概念で考えてしまっているからだけど、日本語では適切な表現がなかなかできない。

 パチンコ、パチスロをやらない人には分からないかもしれないが、その筋の世界には「期待値」という言葉がある。期待値は、その台での勝利期待度みたいなものを表す言葉だ。例えば、パチンコなら1000円でデジタルが回る回数が20回を超えれば(この回数は台にとって違うけど)期待値が100を超えるので当たらなくても打ち続けてもいい、打ち続けるべき、という考え方だ。パチスロには設定があって、小役を数えて出現率を割り出せば、ある程度は設定を推測できるという、客側に設定を推測する楽しみをあらかじめ台に組み込んである。

 熟練者は、その期待値を推測して勝利を目指すのだが、パチンコ、パチスロは基本的には完全確率抽選なので期待値を100を超えていても負けることはある。運の問題が左右するわけだから。逆に期待値が100を大幅に下回っていても、運が良ければ勝つこともある。それでも長期的には期待値が100を超える台を打ち続ければ勝率は上がる。

 Riskはどういう意味かという問いで、まず考えたのはそういうことだった。でも、Riskって期待値でしょ、という答えはしっくりこない。で、答えを聞いた。答えは「Riskって危険って考えるじゃないですか。でも、危険はDangerですよね。Riskは危険ではないんですよね」というものだった。物理的な危険はDangerだし、心理的な危険、つまり恐怖は「俺たち、ノーフィアー!」のFearだ。でも、それは僕が知りたかった答えではなかった。

 辞書を引くと「(危険・不利などを受けるかもしれない)危険、恐れ、危険、被保険者」とある。ま、つまり、日本語には適切な訳語がない、ということ。ニュースでよく使われる「という恐れがあります」や「という懸念があります」の「恐れ」や「懸念」が感覚的にはRiskに近いかも、と思ったが。それでも、被保険者をRiskと言い切る英語が持つシビアな感覚は日本語圏ではあまり表現はできていないなあと思った。

 Riskyという言葉がある。こちらは一般的には「危ない」「際どい」という意味で日本語でもよく使われる。「あぶない刑事」はRiskyな刑事という意味だろうし、パチスロライターで元アルゼ取締役のリスキー長谷川さんは際どいという意味で使っているのだろう。

 Riskという言葉を調べてみると、マーケティング関係のページがたくさん見つかる。対義語はBenefit(便益、利益)で、RiskとBenefitは相関関係にあると解説されている。マーケティング界隈にありがちだが、わりと簡単なことが小難しい理論で語られているが、要するに「得られるかもしれないことはこれだけあるけど、理論的には失敗したときに被る損はこういうのが考えられるよ。行動を起こすときは、ベネフィットとリスクを頭に入れて考えようね」ということだ。

 ここ最近、SNSなんかで話題になっているダムやスーパー堤防、タワマンなんかの台風関連の話を見るに、Riskという言葉が日本語でこれ、というものが見つからないということが影響しているのかなあ、と思ったりもする。つまり、Riskという概念は外来の概念なのだろう。Riskという概念が完全に定着するには、もう少し時間がかかりそうな気がした。

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2019年10月 7日 (月)

「同和」という言葉をめぐって

 本当は専門家が語るべきだろうと思うが、今回の騒動で問題となった同和という言葉を中心に少しだけ。僕らの世代では当たり前でも、今の若い人たちはあまり知らないことなのかもと思うし、極めて党派的対立が強い分野なので、専門家ではない一般人がアウトラインを語る意味は少しはあるだろうと思う。

 もともとこの言葉は被差別部落の環境改善と差別解消を目的とした事業を、差別によって立ち遅れていた生活インフラや都市環境を他の地域と同じような水準にすることで差別を解消しようという意味で同和事業と呼んだことから来ている(追記あり)。地方で個別に行われていたものが、69年、同和対策事業特別措置法として正式に立法化され国策事業になった。10年の時限立法だった。

 多額な予算を投入する国策事業なので、どうしても利権ができる。で、その利権を巡るいくつかの騒動が事件となり同和利権という言葉ができた。一方で、部落解放運動の中で、大きく3つある団体の中でも最大の組織である部落解放同盟は、同和事業利権への傾斜を深めるとともに、過激な糾弾闘争を繰り広げていた。それは、差別的発言をした人を糾弾会に呼び出して一人に対して集団で徹底的に反省と自己批判を迫るというものだった。精神を破壊される者も多かった。この闘争で部落差別にまつわる様々な言葉がタブー化することになる。集落を示す部落という言葉さえ、公では使えない状況になる。やがて、同和という言葉が代替語となる。そして、同和という言葉さえもタブー化するようになっていく。

 映画評論家の町山智浩さんがジャーナリストの佐々木俊尚さんの「高浜町と関西電力の話は同和がらみなのですか…。本当ならこれはまたマスメディアで報じにくい案件に。」という発言に対して「差別的な風評拡散で通報しました。佐々木俊尚はもうジャーナリストを名乗ってはいけないと思います。」というツイートを行った背景には、同和という言葉が、被差別部落の言い換え、もしくは差別的なニュアンスを含む隠語であり、差別性が感じられるようになったという事情がある。一方で、佐々木さんが用いた「同和がらみ」という言葉は、単に同和事業に関わる利権がらみという意味でしかない。(現段階としては、故・森山元助役は後述する部落解放同盟朝田派の方法論を個人で引き継ぎ、部落解放運動を利用して自身の権力を保持してきたのだろうと思う。現在、朝田派は失脚している。その意味では、森山氏が原発立地である高浜町と関わった当初はともかく、今回は同和事業との関わりも薄く、ここ数年においては部落解放同盟と関係がない可能性が高いと思う。)

 10年の時限立法であった同和対策事業特別措置法はその後、3年延長され終了したが、まだ被差別部落の環境改善と差別解消が達成されたわけではなく、地域によっては事業を進める必要があった。そこで、82年、地域改善対策特別措置法(地対法)が施行される。同和という言葉がここで公式には消えることになる。これは同和利権に関係する不祥事や事件、また、前述の同和が部落差別を意味する隠語として機能してしまっている現状なども反映しているのだろうと思う。また、この法律が検討される協議会では、部落解放同盟の糾弾会や同和事業を巡る騒動が議題にあげられ協議会に対して批判を強めていた部落解放同盟にとっても、この時点で同和という言葉がネガティブなイメージを持つようになってきて、同和という名前を冠することを望まなくなっていたのかもしれない。そのあたりの空気感は、当時、活動家として内部から部落解放同盟の運動方針を批判をしていた藤田敬一さんの著書「同和こわい考―地対協を批判する (あうん双書)」に詳しい。本は絶版で入手は古本の出品を待つか図書館で読むしかないが、このサイトに当時の様々な方の論考の貴重な記録が残されている。興味のある方は一読を薦める。)

 ここで、部落解放運動の団体について整理しておきたい。

 今では部落解放運動の団体としては部落解放同盟しか報道されなくなってしまったが、部落解放同盟がその過激な活動によって社会問題を起こしていく中で、その強力な批判者だったのが日本共産党だった。糾弾闘争や積極的な行政への介入による利権獲得は、部落解放同盟の当時の指導者である朝田善之助が提唱した朝田理論によるものだった。団体内の権力闘争で朝田派は主流派から失脚し、以前より穏健にはなったが、部落解放同盟は現在でも糾弾闘争を肯定的に位置づけ、糾弾を否定する言論こそが差別と偏見のあらわれと主張している。この朝田の指導体制に反旗を翻す者たちを日本共産党が吸収する形で、全国部落解放運動連合会が誕生する。一方で、保守系では全日本同和会が存在したが、部落解放同盟同様に暴力による同和利権獲得運動に批判が集まり、同和利権に関わる事件に関与した者を除名、排除する形で新たに自由同和会が誕生。ほぼ自民党系と言っていいだろうと思う。自由同和会は、部落解放運動から階級闘争と天皇制否定を排除する運動方針をとっている。

 全国部落解放運動連合会が共産党系、自由同和会が自民党系という流れで、部落解放同盟が社会党系と見る向きもあるが、厳密に言えば、前者2団体と違い、主体は部落解放同盟であり、社会党は団体が支持している政党に過ぎない。ちなみに、現在、部落解放同盟中央本部が支持を表明している国政政党は立憲民主党である。また、地域によっては自民党を支持するなど、まちまちである。

 共産党系の全国部落解放運動連合会は、日本共産党との結びつきが強く、ほぼ日本共産党であると言っていい。部落解放同盟が引き起こした事件としては、代表的なものはオールロマンス事件八高事件などいくつもあるが、佐々木さんが「マスメディアで報じにくい案件」と触れられているように、マスコミが差別問題として報道に及び腰になる中、事件の真相に迫る批判的な報道をしてきのは「赤旗」を始めとする日本共産党の機関紙だった。週刊誌でさえ、大きな刑事事件になるまでは報道できない状況だった。今回の関電の騒動で、森山元助役の関電や部落解放同盟とのつながりとを報じていたのが日本共産党の理論政治誌「前衛」だったのはそういう背景がある。

 部落差別問題についての日本共産党の見解はどういうものだったのか。

 それは文字通り「同和」である。10年の時限立法としての同和対策事業特別措置法に対して、最も国策の考え方に近かったのは、じつは日本共産党なのではないかと思う。被差別地区と他の地区が同和されたとき部落差別問題は解決されるという考え方で、糾弾闘争、同和利権について徹底した批判を展開した。日本社会でも批判的な空気はあったが、直接言論で批判していたのは日本共産党しかなかったと言ってもいいかもしれない。同時に、その主張は国や世論に近く、そこがまた、急進的な解放運動側からは批判される点でもある。これは、今となってはあまり知られていないことだろうと思う。04年、全国部落解放運動連合会は「部落問題は基本的に解決した」と終結宣言をし解散。発展的に全国地域人権運動総連合と名を変えた。

 82年に施行された地域改善対策特別措置法(地対法)は、02年に期限が切れ、国策としての同和対策事業は終焉。今は地域の状況により、地方公共団体が主体の事業となっている。部落解放同盟は地対法に代わるものとして人権救済法の成立を主張した。自由同和会も同様の主張をした一方で、日本共産党はかつての糾弾闘争に法的根拠を与え、新たな利権になる懸念が大きく、国家による言論統制につながるとして一貫して反対の立場をとっていた。

 今回の騒動で気になったのは、同和利権との関連は大阪ではすぐに想像がつくが、同和問題に馴染みのない東京ではいまいち想像がつきにくいという意見が多かったことだ。それには理由がある。それは東京には歴史的に差別がなかったからではない。多くの都市が差別解消のために同和事業を進めてきた中で、東京都は一貫して「東京には部落差別問題は存在しない」という立場だったからだ。革新系の美濃部都政になって差別問題に取り組むようになるが、その頃には急速な都市化によって流動化し、ある程度の同和がなされてきたという事情がある。また、各団体が他地域ほどの影響力が持てなかったことも影響はしているだろう。

 同和という言葉を巡る騒動で思うことは、同和という、本来はニュートラルなはずの言葉に無限の含みを持たせて差別認定することで、その領域をアンタッチャブルにしてはいけないということだ。一般の人々が語ることが禁忌となれば、その禁忌を破り語る権利が自分たちには特権的に与えられていると主張する党派による一方的かつ啓蒙的な歴史しか知ることができなくなる。それは誰もが望まないだろう。

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 追記:

 同和という言葉の起源をさらに辿ると、2つの言葉に行きつく。和衷協同(人々が心を同じくして共に力を合わせ、仕事や作業に当たること)の略と同胞一和もしくは同胞融和(昭和天皇即位の勅語「人心惟レ同シク民風惟レ和シ」の意をとって熟語化したもので、民心の和合の願いが込められている)の略としての同和だ。企業名によくある同和の多くは前者で、同和事業の同和は後者である。

 同和事業の文脈における同和はもともと融和と呼ばれていたが、社会事業団体である中央融和事業協会が昭和16年6月に 同和奉公会と名称を改めてから広く同和と呼ばれるようになった。ちなみに、中央融和事業協会は勢力を拡大していた水平社運動の弾圧のために「同胞相愛の趣旨に則り旧来の陋習を改め国民親和の実を挙」げるという目的で内務省社会局によって設立。融和から、より人々を団結されるという意味合い、つまり、今風な言葉で表現すれば同調圧力の強い同和を使用した同和奉公会への名称変更は、戦時下で"一億総進軍の急需"にこたえる必要性が出てきたことによる。名称変更により、水平社運動の弾圧とその対抗運動から、より多くの国民を戦争遂行に動員するため団体の色合いを強めていく。終戦後、同和奉公会は解散した。

 戦後、同和対策特別措置法ができたことで水平社運動を起源とする部落解放運動は同和という言葉を同和事業とともに、他の地域と同水準の社会インフラと都市機能の実現を示す言葉としてニュートラルかつ運動の根幹として肯定的に受容していく。しかし、同和という言葉には歴史的経緯から戦争の影が見えるし、その根源において融和もしくは同和という言葉が、とりわけ弾圧の対象となった水平社運動を受け継ぐ部落解放同盟にとって初めから否定的な意味合いを帯びていたことは指摘しておきたい。

 幸いこの原稿は多くの方に読まれ、読まれた方の中には同和は同胞融和の略であることの説明がないことに疑問を持たれた方もいた。確かにその説明はあっていいと思った。ただ、説明するとなるとある程度の詳しさも必要になる。同和奉公会の解散から同和対策特別措置法の施行には時間的な切断があり、もともとの同和という言葉の由来と経緯にまで踏み込んだ考察は、水平社の流れを持つ部落解放同盟の歴史的なインサイトに触れることになる。それは、日本の部落解放運動を語る上で重要にはなるが、本稿はある党派性を持った啓蒙的歴史ではなく(それはそれぞれの党派が語るべきこと)、戦後の部落解放運動全体を視野に入れてアウトラインをドライな視点で語ることで、同和という言葉を知らない人に向けて、主に戦後における意味合いと文脈の理解の手助けとするという目的があり、その目的から逸脱するので、あくまで補足として追記した。

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2019年9月 7日 (土)

久しぶりにコメント欄が荒れた

 と言っても転載先のBLOGOSで、だけど。

 昨日、このブログに投稿した「映画と広告と文在寅」という記事がBLOGOSに転載された。なぜかいつも僕はBLOGOSは相性が良いらしく、このエントリーもかなり読まれた。政治家さんや政治評論家さんなどの強めのオピニオン記事が多い中、僕のものはちょっと異質な感じなんでしょうね。

 知らない人もいるかもしれないから念のために書いておくと、BLOGOSは、登録されているブログに投稿された記事を編集部が見て転載するかどうかを決める仕組みになっている。随分前に編集部から登録していいかを尋ねるメールがあり、いいですよと答えた。掲載されるときも事前連絡はないし、例えば告知メインの「本を書きました。『超広告批評 広告がこれからも生き延びるために』池本孝慈(財界展望新社刊・9月1日発売)」みたいな記事は掲載はされない。掲載する記事を選ぶ権限は編集部が持っている。完全に。あと、やっぱり政治経済系の記事が掲載されがちかな。ちなみに、金銭は発生していない。ブログの書き手にとっては、載った、多くの人に読まれた、うれしい。そんな感じ。BLOGOSで完全原稿が購読できるので、こちらのブログへの流入は少ない。PVで言うと、先の記事で言えば100倍近くの差がある(ま、たまにしか書かなくなって、僕のブログの閲覧者が少なくなったということもあるけど)。

 「映画と広告と文在寅」という記事は、タイトル通り「政治と広告」をテーマに論じたものだ。僕は直近に起こった小学館の週刊ポストの「韓国なんて要らない」という見出しについての騒動を話しの枕に書き進めた。この騒動もまた広告の問題だよなあという思いもあって枕として選んだ。小学館の週刊ポスト編集部は韓国特集を組むにあたって、広告的にインパクトのある見出しを付けたのだろう。この騒動が広告的な問題でもあるというのは、僕にとっては自明で、そこは多くの人にとっても何ら新しい発見でもないだろうと思った。なので、詳しくは書かなかった。で、週刊ポストの件を批判するその言説の中にも広告的な誘導があるよね、という細かい部分をメインに論じた。そのほうが、後半の論につながるという自分なりの計算もあった。そこは、書き方が親切ではなかったかなとは思う。余談だけど。

 僕が書きたかったのは広告的な観点から見た韓国文在寅政権の成り立ちで、そこには自伝の出版や映画、ニュース映像、演説など、様々なイメージが複雑に絡み合って今の政権が形成されてきたということが見えてくるだろうということだった。それは、文大統領に限らず、トランプ大統領でも安倍首相でも同じで、普遍的な意味合いを持っているだろうと思った。その広告的なイメージ形成のプロセスが激しく表出され、国内及び国際社会と激しく摩擦を起こしているのが現在の文政権で、それは社会的関心の高い日韓問題を考える際の一助になるのではないかとも考えた。

 しかし、コメント欄が枕の部分で荒れた(とは言っても炎上未満の小さな荒れ方ではあるが)。要因としてはBLOGOS編集部が、この記事を多くの人に読んでもらうために、つまり、広告的につけた「韓国で日本批判する本の需要ない」という見出しが挙げられるだろう。枕の部分を紹介した見出しで、僕の記事の趣旨とは異なる。テクニカルなことを言えば、僕は〈批判はともかく「日本と関係を絶ちたい」というニーズはないはずだ〉と書いているので、同じ書くなら「韓国に日本批判本の需要なし」ではなく、「韓国に〈断日〉本の需要なし」だったのだろう。

  週刊ポストの件と同じことが自分にも起きてしまったなあと思った。炎上はしなかったし、謝罪に追い込まれたりはしなかったけど、コメント欄が荒れた。編集部的には活発になったと言えるだろうけど。でもまあ、これはよくあることで、大した話ではない。正確さは若干欠いていたとは思うが、こういう地味な記事を読んでもらうための導入としては見事で、実際にこうして多くの人に読まれたわけだ。それが編集の重要な仕事の一つだ。これは僕が連載している雑誌でも変わらない。編集とはそういうものだ。そういう意味では、この問題は、わりと根深い問題でもあるよなあ、と我が身を持って感じてしまった。

 BLOGOSのコメント欄は、表示するには1クリック必要な仕組みになっていて、そこで読者が感じたことを自由に投稿し合う場になっている。コメントするには登録がいる。そうした仕組みが、いい意味でも悪い意味でも自由な言論空間を成り立たせているのだろう。多くのコメントは編集部が誘導した「韓国で日本批判する本の需要ない」というテーマについてだった。その様々なコメントに目を通しながら思ったことは、多くの人に読まれたけれど、きちんと読んでもらえないものだよなあ、ということだった。まあ、これは今に始まったことでもなく、そういうことも含めて読まれるということで、無料で見られるネットは顕著だけど、雑誌でも書籍でも同じだろう。

 そんな中でも、ああ、きちんと読んでいただいているなあと思えるコメントもあった。

あれ?コメント欄が荒れてる?なんでだろう?
韓国側を中心に様々な言説をけっこう丁寧にわかりやすく意訳してる記事ではあるけど、本記事筆者自身が韓国側に立ってるとかそういうことではない、やや日本寄りながら極力中立指向の良いバランスな記事だと思ったけどな。

前半ではなくて、後半に論旨があるんだろうな、これ。
日本批判とかよりも国内の分断が激しくて内々の批判や否定に終始していると言う事なんだろう。
その広告合戦の末にあらわれたのが「革命」を標榜する文政権で、広告に彩られた「虚像」を演出していると言う感じかね。結構、厳しい評価だな。

この記事の筆者さんが李泳采教授の発言を支持しているように理解してコメントしている方が多いようですが、それは誤解かと思います(書き方自体が良くないのですが)。
当該発言に対する筆者さんの評価は、「この発言は、論理のすり替えによる広告的な誘導があると思った。社会の良識に訴える受け入れやすい論調であるが、そこに自身の党派への広告的誘導が潜んでいることは指摘しておきたい。」という個所にあると思われます。
つまり、仮に李氏の言うとおり<断日>の本が中国や韓国にないのだとしたら、それは<断日>が彼らにとって明確に不利益だからであって、韓国の出版界のほうが道義的に優れている証拠と解釈すべきものではない、というのがこの記事における評価でしょう。
韓国は広告国家である、というのがこの記事の主張で、後半では文在寅の自伝をその観点から批判的に取り上げています。

見出しや冒頭で批判している人もいるようだが、要点は、広告戦略として革命政権を気取る文政権の問題であり、面白い記事。よく読まないともったいない。

 他にもいろいろあったけど、丁寧に読んでくれてありがとうね。ちょっとBLOGOS批判っぽい書き方になってしまったけど、そういうつもりはあまりなく、このコメント欄が自由な空間だからこそ、こういうコメントもいただけるのでしょう。コメント欄を含めて、サイトの設計は上手だなあと思っています。左翼やら右翼やら、文章が下手やら、書き方が悪いやらいろいろなコメントもあったけど、きちんと読んでもらえるように書くって難しいね。ま、でも、あの記事はあれでよいとも思うけど。

 なお、この記事にはオピニオンはありません。ただのとりとめのない雑感でした。こんなことがあったよ、いろいろ思ったよ的な。ではでは。

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2014年9月 2日 (火)

父の死

 思想家の吉本隆明さんが生前よく言っていた言葉に「死は自分に属さない」というものがあります。確か、湘南で海水浴中に溺れた後、目や体を悪くして、その際に読書や文筆に支障を来し、これからの人生をどうしようかと思い悩んだ末、辿り着いた結論だったと思います。簡潔に言えば、生きている意味がない思っていたけれど、やっぱり生きようと思ったということです。死は自分に属さないのだから、生きているうちは生きるにまかせるしかない、それが生きることだ、ということですね。
 吉本さんは文芸批評家でもあるわけだから、自死を積極的に否定するようなある種のヒューマニズムや、生きることこそ素晴らしいといった狭義の思想から導き出された言葉ではなく、生と死を突き詰めた、吉本さんなりの原理的思考から導き出された言葉であると私は理解しています。
 七月の末、私は父を亡くしました。その死は、想像以上にあっけないものでした。
 父は糖尿病を患い、随分前からインスリンを打っていましたし、糖尿病の合併症から片目と片耳が機能しなくなっていて、そのうえ、初期の肝硬変も患っていました。こうして言葉にすると満身創痍ですが、日常生活はそれほどでもなく、毎日健康に気をつけながら、認知症、摂食障害、腎不全で寝たきりになって、数年前から入院している母のお見舞いが毎日の日課という感じの生活を続けていました。母が病に倒れ、父も弱ってきてからは、私も週に一度は父に電話で連絡を取り、一ヶ月に一度は大阪に帰っていて、この年になって親と会い、一緒に飯を食い、テレビを見ながらおしゃべりをするようになって、まあ、体が悪くなったのは不幸ではあるけど、こういう状況にならなきゃめったなことでは大阪に帰るなんてしなかっただろうし、ものは考えようだなあ、なんて思っていました。
 一ヶ月に一度、大阪に帰るようになった理由として父に伝えていたことは、病床の母のお見舞いでした。本音では父に会いにいく、という理由もあったけれど、本人には一度も言ったがないし、東京大阪間は新幹線で三万円くらいかかるので、それを言えば、「もったいない。そんなためにわざわざ帰ってくるな。そんなんやからおまえはいつまでたってもお金がたまれへんねん」と言われるのがおちでしたから。どこの親も、男親はこんな感じなんでしょうね。
 数年前、父は一度だけ泣いたことがあるそうです。私にではなく、私の妹に電話口で泣いたそうです。母がおかしくなったとき妹にめったにかけない電話をして、「もうどうしていいのかわからへんねん」と泣きじゃくっていたそうです。私もその後、大阪に帰り、そのときにはじめて母の病状を知りました。躁うつ病を患っていたこと、数日前からうつ状態から躁転していたこと。東京で仕事をする私に心配をさせたくなかったから言わなかったということでした。
 その後、母は入院するのですが、その後は、母の転院や特養への入居などの件で、結構な苦労を父とともにしてきて(ほんと、いろいろ苦労するんですよね。国や公共団体の制度としてそのあたりはハードルを上げなきゃ制度が破綻するからしょうがないのでしょうけど、いろいろあります。そのあたりのことは、ほんの少しですがこのブログにも書いてきましたので、よかったらそちらをご参考にしてください)、父とは共闘する仲間のような気分にもなっていました。これは、父の死を基準にして見られる今となっては、私の親子関係にとっては、本当に幸運だったなあと思います。
 父の死があっけなかったと冒頭に書きましたが、その一方で父の死が近い将来やってくることも意識はしていました。ちょうど去年の今頃だったと思います。低血糖で昏倒し救急車で運ばれたのですね。それまでも、低血糖で倒れることは何度もあって、その度ごとに救急車で運ばれたりしたのですが、そのときは、ちょっと程度が違いました。
 テレビ画面の左端に、8:35というテロップが焼き付いてしまったいるので、低血糖で倒れて暴れまくったのがたぶん朝8時すぎで、父が血だらけで倒れているのが発見されたのが午後三時過ぎ。救急車が来たときにはその部屋の惨状に殺人事件かと思ったそうです。集中治療室に入ったときには、医師から「奇跡的に命は助かりましたが、脳に障害が残ることを覚悟してください」と言われ、もしかするともう駄目なのかもしれないと思いました。東京から大阪に戻り、血だらけでものが散乱した部屋の掃除を、血生臭さで吐きそうになりながらなんとか済ませ、病室に行ったときには、全身に包帯に巻かれた姿で「なんや、帰ってきたんか。大げさな。」と言っていました。意識を失っているわけだから、暴れたことや苦しんだことは記憶に残っていないんですね。幸い脳に障害もなく、一ヶ月ほどで退院しました。
 そんなことがあったものだから、死は意識していたし、本人もそれからは「もしかすると、もう駄目かもしれんなあ。わしも長ないから覚悟しとけよ」と言ったりしていました。七月の末、九十八歳になる父の母、私から見ると祖母が亡くなりました。父が喪主を務め、私は父の補佐をしました。そのときも「おばあさんは看取れたけど、おかあさんはもしかしたら看取れんかもしれんなあ」と言う父に「そんな縁起でもないことを言うなや。ほんまに」と返したり、弱気にはなっていたとは思いますが、次にやってくる満中陰法要に向けて、まあそれなりに元気にやっていたんですよね。
 もうすぐ祖母の法要だからと東京から父に電話をしました。「来週の木曜に帰るから」「なんでそんなに早いねん」「まあ、いろいろやることあるやろから、早いにこしたことないやろ」みたいな会話をしました。日曜の夜でした。それが、父との最後の会話でした。
 翌朝、ゴミ出しをしたあと、マンション一階のエレベーターホールでちょっとふらつき、管理人さんに大丈夫ですか、と声をかけられ、いや大丈夫、大丈夫とエレベーターに乗り、十一階に着いてエレベーターを出たとたんに倒れたとのことです。救急車がやってきたときには、すでに心肺停止状態で、状態から言って、倒れてすぐ意識を失っていとのことでした。医師によると、今回は、低血糖ではなかったそうです。インスリンの単位を下げていたので、むしろ高血糖状態でしたし、結局、司法解剖はやらずに済んだので死因は正確にはわかりませんでしたが、たぶん心不全による急死なんでしょう。
 私が大阪に着いたときにはすでに父は死んでいました。病院で運ばれ、妹が見守る中、心臓マッサージを続け、心臓は再び動き続けていたのですが、脳はすでに膨張し、強いマッサージで肋骨が折れ、内臓が破裂する状態だったので、私の到着を待たずにマッサージを中止したとのことでした。妹は「ごめんな、お兄ちゃん。でも、これ以上やるのは、お父さんがかわいそうやってん。かわいそ過ぎるねん」と泣いていました。病院で父に対面し、その遺体を見ると、ヒゲはきちんと剃られていましたし、身なりもきれいでした。そして、何よりも、顔がすごく穏やかだったんですね。
 そのとき、私の思ったことを正確に言えば「ああ、生きる気満々やったんやなあ」というものでした。生きる気満々、という表現は故人に対してちょっと不謹慎かとは思うけど、そのとき、浮かんだ思いは、まさにこの言葉でした。父は生きる気満々だった。少なくとも、しばらくは生きていく気満々だった。だから、息子としては、もう少し生きてほしかったし、親孝行ももう少ししたかった。
 でも、そんな私の気持ちに関係なく、そして、生きる気満々だった父の意向にも関係なく、ただただ冷たくなった穏やかな顔がそこにあって、ああ、これが死というものなんだな、と思うしかありませんでした。
 当たり前の話ではあるけれど、生きている人間は、自分の死を実感することはできないんですよね。もうちょっと言えば、生きている人間は、自らの死を所有することはできない、という言い方になるのかもしれません。死にたい、という言葉は、原理的には、これ以上生きていくのはつらい、ということになるだろうし、死をもって償う、という言葉や、自らの死を課す、という言葉は、むしろ、生きている私の誠意や尊厳に関わる言葉であるのでしょう。そこで語られる死という言葉は、生の究極表現としての死です。こう書くと、決して自らが所有したり、味わったりできない自らの死の魅惑的な部分を誘発してしまいそうな気がしますので、もっともっと正確に書けば、自らが語る自らの死は、生の究極表現としての死に過ぎない、と言うべきなのでしょう。
 たぶん、宗教思想、宗教哲学という言い方を除く意味での思想、哲学の領域では、つまるところ「死は自分に属さない」という定義が終点なんだろうという気がしています。そして、その終点を境として、思想、哲学と、宗教が別れていくのでしょう。自分に属するものとして死を扱う限り、そこに生を超えた絶対的なものを置かなければ成り立たないと思うんですね。死につつ、その死を所有し生きる、という絶対的な場所がなければ、そうした考えは成り立ちません。それは、神の国だったり、浄土だったりするのだと思います。
 そういう場所さえ設定できれば、生きながら、人は死について考えを及ぼせる、今まで限界だった死という思考の終点を超えることができる。その人の死について考える、今、生きている人たちの思いに答える考え方を提示できる。さらに、今、世界で起こっている困った事象として、他人の死についてまで、その絶対的な場所から半ば所有しているかのようにコントロールできる。世の中の、宗教的な思考や行為の体系には、その始まりに、この、生を超えた絶対的なものを無理やり設定する、という、今の言葉で言えば、ブレイクスルーやジャンプがかならずあったのでしょう。
 通夜、告別式の中で、葬儀会社の葬儀司会者の方が「仏教では、死は二つあると考えます。一つは、肉体の死。もう一つは、魂の死です。故人のことを思い続ける方がいる限り、魂は生き続けます。思う人がこの世にいなくなったとき。それが本当の死です。ですから、本日はお父様のことを思う存分話してあげてください」とおっしゃっていて、それは素敵な言い方だと思いました。仏教がそういう考え方を本当にするのかどうかは私にはわからないけれど、その考え方は、祖母の葬儀からすぐに父の葬儀の喪主を務めることになり、少し気が動転しているあの状況の私にとっては救いにはなりました。
 きっと、宗教思想が希薄な日本の社会の中で、日常から人の死を扱う葬儀会社が、その折り合いをはかるために見つけた言い方なのでしょう。狭義の思想、哲学は、あらゆる宗教思想から独立した、言わば究極の世間知であると私は考えているのですが、その「死は自分に属さない」という考え方にも馴染む考え方のように思いました。そして、もうひとつ思ったことは、「死は自分に属さない」という言い方をひっくり返すと「死はその人に関わる人に属する」となりますが、その「死はその人に関わる人に属する」という原理の中で、魂といった宗教的なニュアンスを少しでも自分の考えに入れなければ、生きている人はちょっとやってられないものなのだなということでした。
 病床の母のこともあり、父の死によって、私が生きていく環境は大幅に変わっていくだろうし、その変化に、今、ほんとこれからどうなるんだろうなあ、うまくいくかなあ、とか思ったりするし、その変化に向けて、うんざりするほどやることがあるのだけれど、なんとなく「死は自分に属さない」あるいは「死はその人に関わる人に属する」という言葉は、でもまあ、なんとかなるっしょ、だって、それが生きていくことなんだもん、というような気にもさせてくれます。
 今は自分に向けて、ま、これからいろいろあるだろうし、うまくいかないこともあるだろうけど、がんばれや、という言葉をかけてあげたいなあと思います。ほんと、自分に向けた言葉ばかりの文章ですが、読んでくれた方は、どうもありがとうございました。この文章が、ほんのちょっとでも誰かの助けになりますように。

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2014年8月29日 (金)

ラジオのこと

 ナイティナインのオールナイトニッポンが9月いっぱいで終わるそうですね。8月28日深夜放送分をradikoで聴きました。矢部さんが終わる理由を話していました。たぶん、その理由はいろんなところで報道されるでしょうから、ここでは詳しくは書きませんが、私はとてもいい終わり方だと思いました。こんな理由で20年続いた番組を終わらせることができるのも、ラジオというメディアのいいところだと思うんですよね。
 ラジオの出演者はパーソナリティと呼ばれます。テレビではパーソナリティとは呼ばれません。ナイティナインはテレビで冠番組をいくつも持つ人気タレントです。でも、そんな彼らにもそれぞれの人生があるわけで、その中でテレビでは決して表現しないけれど、当然、人間として心のなかで感じていることもあるわけですよね。その秘めた思いを、きっとほんの少しだと思いますが、きちんと表現できるのが、映像を禁じられた音声メディアであるラジオというメディアなのでしょう。そこには確かに、パーソナリティとしての矢部さん、岡村さんがいました。
 パソコンがあれば誰でも簡単に映像コンテンツが作れてしまう時代ですが、私はラジオが大好きです。これは懐古趣味じゃなくて(まあ、私の世代は若い頃にラジオを聴きまくった世代ですので、少しはあるのでしょうけど)、たぶん、メディアの条件みたいなものなんだと思います。映像を禁じるからこそできることはあるのだろうなと思うんですね。マクルーハンが「メディアはメッセージである」と言っていますよね。その真意を理解しているわけではないけれど、たぶん、メディアの条件によってメッセージは変わる。そんなふうに思います。同じ映像でも、テレビと映画では違う。同じように、ラジオにしかできないことがある。きっと、ある。その、ラジオにしかできないことが、私は好きなんですね。
 縁あって、今、私は放送批評懇談会というNPO法人でラジオ委員をしています。任期4年で3年目に入りました。ラジオ委員会では全国の放送局のラジオ番組をたくさん聴くのですが、今、ラジオは必ずしも面白い番組ばかりとは言えません。今までラジオをまったく聴いたことがない人が聴いて、またラジオを聴いてみようと思わせるようなパワーがある番組は、以前より少なくなっているような気がします。
 いまいちばんの人気者で、今どき珍しくラジオに積極的な人たちなので、AKB48のメンバーが出演するラジオもたまに聴いたりしますが、多くは、テレビの楽屋っぽい雰囲気があるんですね。たくさんの人達が出演するひな壇番組を楽屋に移したみたいな感じ。吉本や松竹の芸人さんが出演する大阪の深夜ラジオも、その傾向が強いです。つまり、ラジオは、テレビの裏側みたいなメディア理解なんですよね。ファンの人にとってはそれでいいと思いますが、ラジオに元気がない時代だからこそ、もう少し欲張ってほしいなあと一ラジオリスナーとしては思うんですよね。AKB48が出演するテレビ番組には、ファンの人以外の視聴者を惹きつける魅力があると思うんですが、なぜかラジオにはそれが少ない気がしています。
 例えば、AKB48のファンの方が、そのメンバーの声を聴きたいからラジオを買って、もしくはradikoにアクセスしてラジオを聴いたときに、AKB48のメンバーの魅力とともに、あっ、ラジオって面白いなあ、魅力的だなあと思えるような番組であれば、と思うんですね。これを逆に言えば、AKB48のことをまったく知らない人が、そのラジオ番組を聴いて、あっ、この番組、面白い、また聴きたい、と思わせるような番組。もっと言えば、AKB48きっかけで他のラジオ番組も聴いてみようと思わせるような番組。私は広告屋ですが、ラジオをもっとたくさんの人に聴いてもらうためには、大規模な広告キャンペーンなんかより、よっぽど効果があると思うのです。
 そんな中で、AKB関連で、これはいいなあと思うラジオ番組がひとつだけあります。大阪のMBSラジオでやっている「NMB48のTEPPENラジオ」。渡辺美優紀さんが特にいいですね。NMB48のみるきーではなく、今どきの女の子は、こういうふうに世の中のこと、人生のことを考えているんだなあ、と感じます。もちろん、それは、みるきーこと渡辺美優紀さんにラジオパーソナリティとしての才能がある、ということでもあるのですが、彼女のトークを聴いていると、そうそう、ラジオって、こういうこと、とうれしくなります。で、そんなラジオ番組だから、しっかり聴く人も増えているようで、もともと週3回の15分枠番組が、今年から週1回の1時間番組になりましたもの。放送エリアの方は、ぜひ聴いてみてください。
 とまあ、ラジオのことをつらつらと書いてみましたが、ブログを書くのは久しぶりで、どうも調子がうまくいきませんね。ブログは個人メディアで、どう書こうが私の勝手ではあるんですが、やっぱり照れがどうしても入ってしまいます。じつは、久しぶりにブログを書こうと思ったきっかけは、放送批評懇談会主催のイベントを告知しようと思ったからなのですが、前段が思いの外長く、かつ、イベントにあまり関係のない話になってしまいました。でもまあ、こういうの、ブログらしいのではないでしょうか。ブログというメディアができることって、こういうことですよね。きっと。ともあれ、ここまで読んでいただいた方、どうもありがとうございました。
 では、告知です。放送批評懇談会ラジオ推奨委員会主催で「ギャラクシー賞を聴いて、語り合う会」というイベントを開催します。9月28日(日)、場所は東京半蔵門のFM東京です。第51回ギャラクシー賞の受賞作の中から、今年第1回目の今回は、大賞受賞作と優秀賞受賞作を聴きます(第2回目も予定しています)。今回の2作品は、どちらも震災に関連したラジオ番組です。あの震災から3年経ちましたが、その時間の経過も含めて、ラジオというメディアがあの震災のその後をどう描いたのか。パーソナリティというラジオ独特の言葉が示すような、ひとりひとりの人に寄り添ったラジオらしい表現のあり方が、この2つの作品にはきっとあるはずです。そのあたりをぜひ聴いてほしいと思います。
 制作者の方もゲストにお呼びしています。もちろん、質問もできますよ。会費は1,500円です。なんだ、無料じゃないのかよ、と思った方もいらっしゃるかもですが、まあ、そのぶん、たっぷり時間をとっていますし、そのぶん結構楽しい会だったりします。業界の方は、もうご存知だと思いますが、私はむしろ、ラジオなんか興味ない、そういえばここ数年、ラジオ聴いてないなあ、という感じの方に来ていただきたいなあ、と思っております。まあ、有料イベントだしハードルはかなり高いでしょうけど、そこまで言うなら行ってみようかな、という方、委員一同、お待ちしております。
 聴取作品の概要や申し込み方法などが記載されていますので、詳しくは、下のリーフレットをご覧くださいませ(画像をクリックで拡大できます)。ちなみに表面の写真は、今年の7月に岩手県の大槌町で撮影した写真です。大賞受賞作の中にも、大槌町で町のガイドをする女子高生が出てきます。彼女が番組の中で話していた堤防の造成と町全体の再開発が進められていています。
 

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2012年8月 6日 (月)

本日より、はじめます。(追記あり)

 いろいろ考えたけれど、こういうのはさらっと書くほうがいかなと思いました。ご報告です。東京の神保町にある広告会社(いわゆるクリエーティブエージェンシーです)に入社しました。

 今年の1月にエントリを書いてから、フリーランスとしていくつかの案件はお受けしたりはしていたのですが、ようやく腰を落ち着けて仕事ができる環境が整いました。この場所から、いろんなことをやっていきたいと思っています。また、あらためてこちらのブログでもお伝えしていきたいと思っております。

(2004年8月29日追記)

 ブログをしばらく書かなかったのでご報告が遅れましたが、上記の会社は退社いたしました。現在はフリーランスで活動しております。今後ともどうぞよろしくお願いします。

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2012年3月11日 (日)

前を見る

 前途洋々、前向き。そのとき、前が意味するところは、未来。けれども、以前、1年前の出来事、というように、前という言葉を過去の意味で使われることもあります。

 前は未来か過去か。そんな疑問を持ったことって、ありませんか。

 「まえ」という言葉は、目を意味する「ま」と、方や辺を意味する「へ」が合わさってできたそうです。つまり、顔の目がついている方、目線が向いている方向が「まえ」というのが、前です。前という言葉は、本来は過去や未来を表す言葉ではなく、人の身体の前後左右を規定する言葉。主体はあくまでも人なんですよね。

 道を歩いている人をイメージすると、とてもわかりやすいです。道を歩いている時、その人の目に映っているものは、まだその人が歩いたことのない道や、訪れたことのない場所の風景です。立ち止まって道を振り返ると、目の前に広がっているものは、今まで自分が歩いて来た道や風景。道を時間に置き換えれば、前という言葉がなぜ未来と過去という、まったく逆の意味を持つ双方の意味に使われるのかがわかるような気がします。

 これは、ただのレトリックに過ぎないかもしれませんが、目がついている方、目線が向いている方向という、前という言葉が持つもともとの意味に忠実に考えるなら、頭の後ろに目がついていない限り、人は、前しか見ることしかできない生き物です。前向きであろうと、後ろ向きであろうと、人は、人である限り、前を見ている。そして、前を見るということは、未来ばかりでなく、過去を見つめるということもちゃんと意味してる。

 前という日本語って、しみじみいい言葉だよなあ、とあらためて思いました。

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2012年3月10日 (土)

今、広告業界に進みたいんですっていう学生さんに居酒屋でなにか話すとしたら

 何を言うんだろうなあ。

 いろいろ難しいなあ。社会も広告も、ここ10年くらいでずいぶん変わったからなあ。これ、ほんとに変わったなあと思うんですよ。たとえばね、この文章を読んでくれてますよね。どうも、ありがとうございます。文章は読まれてなんぼなので、すごくうれしいです。でもね、これはよくよく考えてみると、この文章を読んでもらってるというのは、そのぶんほかのものを見たり聞いたり読んだりできなくなっちゃってるってことなんですよね。時間は誰でも平等に1日に24時間しか与えられてないですから。

 これ、10年くらい前では考えられなかったことなんですよね。もちろん、その頃も同人誌とかはあったよ。でもね、同人誌って手に入れるのに、ちょっと努力がいるじゃないですか。でも、このブログを読むのに努力はあまりいらないですよね。RSSに登録してもらってたら、更新の度にリアルタイムでお知らせが来ますし、ときには、twitterやfacebook、mixiなんかで、なんか広告人の人がへんなこと書いているよ、どれどれ、って感じで読まれることもあるじゃないですか。

 つまり、情報発信が特権ではなくなってしまったということなんです。それはもう、なんの特権でもなくなってしまいました。ここ数年は特にそう。これは、私なんかの書きたい、読んでもらいたい人にとっては、革命みたいな出来事だったんですよね。それは、グーテンベルクの印刷革命以来の大快挙。でもね、このことは、これまでの広告にとっては都合が悪かったんです。だって、広告なんて、ほんと、見られてなんぼ、読まれてなんぼの最たるものですから。みんながテレビを見て、新聞を読んでくれると思ってるから、安心して広告できるわけでしょ。でも、そうでもないらしいぜ、他にも見るもん読むもんたくさんあるし、俺だってテレビあまり見てないし、新聞だってあまり読んでないんだもん、でもまだ大丈夫じゃないかな、でもちょっと心配、みたいなことがここ数年の広告業界の人たちの気持ちだったんです。

 もちろん、希望はないわけではなかったんですよ。だって、逆手にとれば、広告をする側がやる気になれば、高い媒体費を払わずに情報発信ができるようになったんですから。それに、いろんな情報発信の場ができたから、いろいろなことを試せるし。こりゃいいや、っていう会社もたくさんあったと思うんですよね。これ、広告にとってはよかったことだったけど、こうなっても広告業界にとっては、ちっともよくなかったことだったりもして、食い扶持をどこに求めりゃいいの、みたいなことになったり。

 GmailとかHotmailとか使っている人は多いんじゃないでしょうか。使ってなくても、みんな名前くらいは知っていますよね。この2つのサービス、ほとんど、これまで広告だと思われるようなかたちという意味では広告はまったくしてなくて、それでもここまでの知名度とユーザーを獲得しちゃったんです。これは、ほんと当時としてはすごいことだったんです。昔はMS Officeにしても、競合のLotus Notesや1-2-3にしても、広告をしていましたからね。Lotusなんか、タレントを使ってテレビCMまで打ってましたから。でも、この2つは、それなしでできちゃったんですね。こりゃ、まいったな、ってもんです。

 僕らの世代では、広告で時代を動かしたいんです、とか、世界を変えたいんです、という人がよくいました。今もいるのかな。コピーライター志望とかだったら、言葉で世界を、みたいなことになったりしますよね。でも、そういう人には、だったらブログを書けばいいじゃないですか、って答えます。これ、嫌みではなく、本気でそう思ってます。だって、GmailもHotmailもできるんですから、世界を変えるなら、ブログを書く方が広告業界に入るより近道だったりするんですよ。でも、まあ、広告業界に入って、時代を動かしたい、世界を変えたいってプレゼンしたら、明日から来なくていいと言われますけどね。

 言われますけど、動機としては、まあ、ありだったんです。ちょっと前までは。いまも、それでもかろうじてありかもしれません。だから、みんな環境広告とか公共広告とかをやりたがったんです。私にもまだ少しはあります。隠し持ってます。でも、でもね、思うんですけど、今までのやり方ではたぶんむずかしんだろうなと思っています。時代が違うし、メディア環境も、あまりに違いすぎます。何と違うのかっていうと、僕たちの先輩方がつくってきた、キラ星のような広告が成り立っていた状況と。

 お手本にはできると思うんです。そこからいろんなものを吸収できるとも思います。でも、アウトプットは別の何かであるはずです。それは、どちらかというと、その時代の変化のはざまに生きてきた僕自身の問題意識かもしれないですね。僕には、バブルの呪縛があります。消費マインドとか、消費についての態度だったり、そんなこんなに重い課題を抱えています。それは、もしかすると、若い人にはないかもしれませんね。

 という意味では、いつの時代でもそうだと思うんだけど、若いということは、それ自体希望だったりするんですよね。俺が、私が、新しい方法を見つけたる。そんな人は、はっきりと広告業界に来てほしいなあと思います。他の業界に行くより、広告業界に来てほしいです。時代を動かしてください。世界を変えてください。これはいい、時代を動かすはず、世界を変えるはず、という商品やサービスをちゃんと知ってもらって広めること。それが、広告が時代を動かす、世界を変えるということですから。

 新しい方法を見つけたる、ということが、たぶん、今の広告に必要な資質なんだろうなあ。そう。そう思います。これまでは、動機としては、自己表現が強かったんです。あの人みたいなコピーを書いてみたい。あんな素敵なデザインをしてみたい。はっきり言えば、それでよかったんですよね。課題を解決するよろこびとか、そんなプロフェッショナルっぽい挟持は、あとからついてくるものですから。でも、今は、それだけじゃきつい。そんな気がします。

 商品や広告をとりまく状況も複雑になりましたし、目標設定も多種多様になりました。また、これまでは生活者の心をつかめばよかったように思いますが、今はそれだけでは無理。専門用語で、インサイトって言うんですが、インサイト一発でモノやコトが動くことほど単純な社会ではなくなりました。というか、新しい商品を求める生活者のインサイト自体が見つけにくくなってきています。個人的には、インサイトをベースにしつつも、その先の段階、コンテキストに高める必要があると思っています。たとえば、PCの延長線であったタブレットPCをPCとは切り離し、見るため、楽しむためのビューワー的ツールというコンテキストに変えたからこそ、iPadは受け入れられた。そんなことです。

 新しい方法を見つけたいです、って。そうですか。それはよかった。では、最後に、いろいろ具体的な話を。

 一言で新しい方法って言うけれど、それは、今までも、いろんな人たちが試みてきたものでもあるんですよね。ソーシャルメディアなんかが急速に発達してきて、あれっ、これは駄目なんじゃないの、これやったら信頼なくしちゃうよ、ということが新しい方法として喧伝されることが多いんですね。でも、そういうのって、ブームの後、かならず問題になって消えていくから、そんなに問題にしなくてもいいのかもしれませんが。

 どれだけ世の中が変わっても広告は広告なんです。広告とは、メディアを使って不特定多数に商品やサービス、あるいは企業のメッセージを伝えるということ。それは変わりません。メディアという変数が変わるだけ。だから、あえて辛気くさい言葉を使いますが、健全な社会にとって広告はどうあるべきか、っていうことを自らが問うていかないといけないことは、今も昔も変わりません。

 最近、流行語になったステマっていうのがあるじゃないですか。読者を偽って、ある業者がソーシャルメディアに投稿をしていたっていう、あれです。あれ、どうして駄目なのか。情報の信頼性を損なうからなんですよね。広告は、情報の信頼性が担保されて、はじめて社会で成り立つものです。いくらものが売れるからといって、それは自らの首を絞めることになります。もうひとつ、広告の場であるメディアの信頼性も損なってしまうこと。広告の意図を隠して読者を装った投稿がたくさんあるメディア、楽しくないですよね。つまり、そんなメディアは淘汰されてしまうんです。

 だったら、悪いのはメディアの広告モデルなんじゃないですか、っていう考え方もありますよね。でも、私はそうは思わないです。というより、広告モデルであることは、メディアにある種の社会性を与えると思ったりもしています。広告があるからこそ、その社会とのバランスを絶えず問われるんですよね。問われることこそが、メディアにとっての社会性、あるいは公共性ではないかと思うんです。それは、Googleとかの動向を見ていても、そう思います。もし、Googleが課金モデルだったら、検索結果にGoogleの意向がもっと反映されるはず。その意向に共感する人だけが使えばいい、ということになりますよね。

 同時に、表現についても、他のどの表現よりも強い公共性が広告には求められます。現場に出れば、それが具体的な規制として迫ってきますし、できれば、表現する人自身にもある種の公共感覚は強く持ってほしいなあと思います。でも、それは萎縮することではないんです。例を出しますね。森林伐採に反対する広告。女の子の髪の毛の半分をバリカンで刈っていくんです。もうひとつ。拳銃所持に反対する意見広告。赤ちゃんが部屋で遊んでいて、部屋にあった拳銃を手にとり、口もとへ。その表現は残酷だ、という苦情もあったんですね。でも、その表現には強い公共性があります。そう考えるとき、それは社会に対して主張しなければならない。それは、広告の公共性を主張することでもあるのです。

 書き出したら、いろいろ話すことはあるなあとは思いますし、まだまだ話せそうですね。でも、居酒屋さんでこんな話ばかりされたら困っちゃうかもですね。私は、わりとそういうタイプだったりもします。もし、お話する機会がありましたら、そのありたは大目に見てやってください。これまで書いてきたことも、そんな、これから広告業界に入りたい人に向けている部分もありますので、もし興味があったら過去ログも探ってみてくださいませ。ひとつひとつのエントリが、悩みながら、迷いながら、とりあえず出した答えだったりもしますので、この人の言ってること間違ってるよねってのもありです。私も、まだまだ考えていきたいです。試行錯誤を続けます。

 お互い、がんばりましょう。

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2012年1月17日 (火)

思い出せるように

 けっして忘れない。あの時、あれだけ心に誓ったのに、いつのまにか忘れてしまう。悲しいけれど、それが人間だと思うんですね。オフコースに「いつも いつも」という歌があります。もう30年以上前の歌になります。アルバム「FAIRWAY」のいちばん最後に入っています。アルバムには曲名さえ書いていない短い歌です。

あなたのことは 忘れないよ
ふるさとの 山や海のように
ふるさとの 友たちのように
また会う日まで
いつも いつも いつも

 この歌が美しいのは、人は忘れるものだからなのだと思うのですね。だからこそ、美しいメロディにのせて歌われる「忘れないよ」という言葉がとてもいとおしく響くのでしょうね。

 忘れたくても忘れられないことで人は苦しんだりもします。そう考えると、忘れるということは、人間が生きていくために必要な能力なのかもしれません。

 忘れたいという思いがあっても忘れられない。

 忘れないという思いも、きっと同じです。心は確かに自分のものではあるけれど、自分の思い通りにならないのもまた心というものなのでしょう。

 神戸で、阪神大震災17年のつどいが行われるというニュースがありました。東日本大震災の被災者の方々も参加されるそうです。ある方は、街が復旧していった神戸の体験を聞いてみたい、とおっしゃっていました。

 私は1年ぶりに、17年前の震災の記録を読みました。何度も読んだはずなのに、はじめて読んだような気持ちになりました。やっぱり、人は、忘れてしまうものだのな、とそのとき思いました。だからこそ、人は記録し、つどい、語り、伝えるのでしょう。

 少しでも思い出せるように。

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2012年1月16日 (月)

ドラえもん、なんとかしてやってくれ。

 前回の書評エントリーでご紹介した『さいごの色街 飛田』の中で、著者であるフリーライターの井上理津子さんが飛田の菩提寺に取材をしたときのエピソードがありました。そのエピソード自体にそれほど重い意味もないし、本の主題とはまったく違うけれど、そのエピソードを新幹線の中で読んだときに、なぜか親鸞のことが前より少しだけわかった気になったんですね。自分としては、あっ、そうか、という感じ。新鮮でした。今回はそのことについて書きます。

 とは言っても、この本と親鸞はまったく関係ありませんし、このことを書こうと思ったのは、たまたま、twitterのタイムラインで親鸞関連のことが多かったというこだけなんですけどね。私は親鸞にも仏教にも詳しくはないので、間違っているところもあるかもしれませんが、そのあたりは、日々の考えることを書き記す、ライフログとしてのブログの気軽さで、ということでお読みいただければと思います。それと、タイトルは釣りじゃないけど本文にはあまり関係がありませんのであしからず。最後にわかるようになってます。お時間のある方は、最後までおつきあいくださいませ。

 エピソードはこんな感じです。

 飛田は江戸時代からある遊郭ではなく、大正時代に難波新地の焼失の代替地として誕生した、当時としては新興の遊郭で、そのためかどうかは書籍では触れられていませんでしたが、なぜか付近に飛田の人たちのための寺院や神社がありません。普通、遊郭にはあるんです。

 関心を持った井上さんは、飛田の料理組合の方々に取材をします。そこで、大阪から離れた場所に飛田で暮らす人たちの菩提寺があるという話を聞き、組合員がバスでお参りに出かけてお布施をしたという資料を見せてもらいます。そこで、そのお寺さんに取材すると、私たちは飛田とは何ら関係ありませんと答えるばかりだったそうです。

 私は、言おう言わまいか迷っていた、お坊さんの冷たい対応について話し、「お寺というのは本来オープンなところのはずなのに、招かれざる客だったとしても、あの対応はないと思う」とも言った。一緒に憤慨してくれるだろうと思っていたのだが、少し間をおいてから、
「気持ちは分かるけど、まあ、そういうこともあるやろ」
 と言った。表情をぴくりとも動かさず、淡々とした口調だった。最初、私は少し拍子抜けしたのだがやや切なくなってきた。

 たぶん、仏教というかお寺さんが必要とされるのは、それほど信仰の厚くない多くの人にとっては人が死んだときなのだと思います。もちろん、生きていくなかでの支えとして信仰するという役割もあるでしょうけれど、多くの人にとって生活でお寺さんが強く意識されてくるのは、死者をどう弔うか、生きていく人たちが死者とどう向き合うか、という中でのことだでしょう。

 親鸞が生きた鎌倉時代は、武家の世の中になったばかりの乱世でした。その中で、人を救済するためにある仏教が、人を選んでしまうことも多かったでしょう。今でさえこうなのですから。あいつの葬式はできない、お墓はつくれないなんてこともたくさんあったのだと思います。それに、今よりも、もっともっと生と死はひと続きだったとも思いますし、庶民としての「まあ、そういうこともあるだろう」という諦観もあるだろうけど、終末思想に染まる世の中、不安だったのだろうと思います。

 仏教は、その体系にどこかエリート主義的なものがあります。ブッダも出自は貴族でしたし。もともとは、いかに自分が悟りを開くか、つまり、自分の魂を救済するかのための体系で、だからこそ高度な教典と修行が仏教にはあるんですよね。仏教の場合、まずは自分を救済して、悟りを開き、そして、民衆を救済するという順序です。親鸞も、知の最高峰である比叡山で修行した仏教エリートのひとりです。

 そんなエリートの親鸞は、こう思ったのではないかなあ、と思ったんですんね。なんか、あっ、そうか、と思った時、頭の中で親鸞が現代語で話していたので、ちょっと失礼かなと思いつつそのまま書きますね。

 *    *

 多くのお寺さんから見放されてしまった人は、日々の信仰もそんなに厚くない。仮に、見放されなかったとしても、そんなに信仰の厚くない人には、多くのお寺さんは冷たかったりする。でも、それっておかしいことなんじゃないか。阿弥陀は救いたい人は、むしろそういう人だったりもすると思うし、日々信仰が厚く善行を積んでいる人は、むしろ阿弥陀の救いをあまり必要としないはずではないか。

 でも、いつのまにか、念仏の唱え方、修行の仕方、善行の積み方、お布施の多い少ないによって、阿弥陀救われ度ランキングみたいなものができてしまっている。それって、すごくおかしいことだよね。そんなのじゃ、救いの意味がないし、仏教の意味がないよね。阿弥陀って、そんなことを思っているわけないと思う。

 *    *

 現世、そして来世における自己の救済という仏教のメインストリームから親鸞の考え方を見た時、その論理はかなりアクロバティックな飛躍を含んだものになるし、今伝わる親鸞の考え方は、かなりの部分が弟子が体系化したもなので、なおさら難解です。しかし、身も蓋もないけれど、自分が死んだらどうなるんだろ、地獄に堕ちるのかな、ちゃんとお葬式があって、お墓が建つのかな、という生活の機能としての仏教の目線で考えると、親鸞がわかりやすくなるように思いました。

善人なおもて往生す、いわんや悪人をや

 つまり、「大丈夫ですよ。阿弥陀様は私もあなたも、そこのあなたも、みんな含めて救済してくださいます。安心してください。阿弥陀様にとっては、自力でも極楽に行ける善人なんかより、阿弥陀様の助けがなくては極楽に行けない悪人のほうが大仕事の救いなのだから、仮にあなたが悪人だとしても、阿弥陀様はなおさらすすんで救済してくださるはずです。念仏だって、お布施だって、大きな声では言えないけれど、本当は関係ないんです。阿弥陀様はそんなに小さい方じゃありません。当たり前じゃないですか。」ということなのでしょう。

 これもひとつの物語にすぎませんし、その親鸞理解はもしかすると浅い、間違っている、ということなのかもしれませんが、これまでの生活の機能としての仏教を根本的に否定し、かつ、その否定によって仏教の本質に迫ろうとした親鸞の考え方のベースには、こういうことがあったように思えたのです。そして、こういう流れであれば、私にもわかる気がします。親鸞がこう言ってくれるのは、きっと当時の民衆にとってはうれしかったことでしょう。

 ただ、この時代が要請した考え方は、当然、現世での善悪を他力によって否定することにもなります。その考え方は、単に救済における善悪の否定ではありますが、結果として、悪のほうが救われる契機は高いという結論を導き出せるし、また、他力を突き詰めると、論理的な帰結として絶対他力による悪を肯定することにもなり得ます。つまり、仏教の原初とは別のかたちで、危険な部分も含めた仏教という思想の本質的な部分に触れることにもなるんですね。そこに、親鸞の怖さというものがあるのだろうなあ、と思います。弟子たちが親鸞の思想を書き記した『歎異抄』が江戸中期まで秘密にされてきたのもなんとなくわかる気がします。

 でも、もともとの考え方のベースはこんな感じに日常に根ざしていたのではないかなあ、とも思ったりしています。考えてみると、この私の気づきは浄土真宗の信者の方の理解に近いのかもなあ。私の場合、信仰ではなく、書物から入っているから、こういうことになってしまうんでしょうねえ。どちらかというと、私にとって親鸞は思想家のイメージなんです。

 そういえば、昨日、宗教学者の島田裕巳さんのツイートにこんなのがありました。

親鸞に会いたい。ドラえもん、なんとかしてくれ。

 ああ、なんとなくわかります。弟子から見た親鸞だけではなく、あの時代、親鸞はどんな人だったのか、当時の人々からどんなふうに思われていたのか、私もすごく知りたいです。私は親鸞に会っても何も話せそうになさそうなので、このツイートでの願い通り島田さんに会ってもらって、島田さんから、親鸞はこんなこと言ってたよとか、こんなふうに思われていたよとかたっぷり聞いてみたいです。

 ドラえもん、なんとかしてやってくれ。

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