カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の385件の記事

2014年9月 2日 (火)

父の死

 思想家の吉本隆明さんが生前よく言っていた言葉に「死は自分に属さない」というものがあります。確か、湘南で海水浴中に溺れた後、目や体を悪くして、その際に読書や文筆に支障を来し、これからの人生をどうしようかと思い悩んだ末、辿り着いた結論だったと思います。簡潔に言えば、生きている意味がない思っていたけれど、やっぱり生きようと思ったということです。死は自分に属さないのだから、生きているうちは生きるにまかせるしかない、それが生きることだ、ということですね。
 吉本さんは文芸批評家でもあるわけだから、自死を積極的に否定するようなある種のヒューマニズムや、生きることこそ素晴らしいといった狭義の思想から導き出された言葉ではなく、生と死を突き詰めた、吉本さんなりの原理的思考から導き出された言葉であると私は理解しています。
 七月の末、私は父を亡くしました。その死は、想像以上にあっけないものでした。
 父は糖尿病を患い、随分前からインスリンを打っていましたし、糖尿病の合併症から片目と片耳が機能しなくなっていて、そのうえ、初期の肝硬変も患っていました。こうして言葉にすると満身創痍ですが、日常生活はそれほどでもなく、毎日健康に気をつけながら、認知症、摂食障害、腎不全で寝たきりになって、数年前から入院している母のお見舞いが毎日の日課という感じの生活を続けていました。母が病に倒れ、父も弱ってきてからは、私も週に一度は父に電話で連絡を取り、一ヶ月に一度は大阪に帰っていて、この年になって親と会い、一緒に飯を食い、テレビを見ながらおしゃべりをするようになって、まあ、体が悪くなったのは不幸ではあるけど、こういう状況にならなきゃめったなことでは大阪に帰るなんてしなかっただろうし、ものは考えようだなあ、なんて思っていました。
 一ヶ月に一度、大阪に帰るようになった理由として父に伝えていたことは、病床の母のお見舞いでした。本音では父に会いにいく、という理由もあったけれど、本人には一度も言ったがないし、東京大阪間は新幹線で三万円くらいかかるので、それを言えば、「もったいない。そんなためにわざわざ帰ってくるな。そんなんやからおまえはいつまでたってもお金がたまれへんねん」と言われるのがおちでしたから。どこの親も、男親はこんな感じなんでしょうね。
 数年前、父は一度だけ泣いたことがあるそうです。私にではなく、私の妹に電話口で泣いたそうです。母がおかしくなったとき妹にめったにかけない電話をして、「もうどうしていいのかわからへんねん」と泣きじゃくっていたそうです。私もその後、大阪に帰り、そのときにはじめて母の病状を知りました。躁うつ病を患っていたこと、数日前からうつ状態から躁転していたこと。東京で仕事をする私に心配をさせたくなかったから言わなかったということでした。
 その後、母は入院するのですが、その後は、母の転院や特養への入居などの件で、結構な苦労を父とともにしてきて(ほんと、いろいろ苦労するんですよね。国や公共団体の制度としてそのあたりはハードルを上げなきゃ制度が破綻するからしょうがないのでしょうけど、いろいろあります。そのあたりのことは、ほんの少しですがこのブログにも書いてきましたので、よかったらそちらをご参考にしてください)、父とは共闘する仲間のような気分にもなっていました。これは、父の死を基準にして見られる今となっては、私の親子関係にとっては、本当に幸運だったなあと思います。
 父の死があっけなかったと冒頭に書きましたが、その一方で父の死が近い将来やってくることも意識はしていました。ちょうど去年の今頃だったと思います。低血糖で昏倒し救急車で運ばれたのですね。それまでも、低血糖で倒れることは何度もあって、その度ごとに救急車で運ばれたりしたのですが、そのときは、ちょっと程度が違いました。
 テレビ画面の左端に、8:35というテロップが焼き付いてしまったいるので、低血糖で倒れて暴れまくったのがたぶん朝8時すぎで、父が血だらけで倒れているのが発見されたのが午後三時過ぎ。救急車が来たときにはその部屋の惨状に殺人事件かと思ったそうです。集中治療室に入ったときには、医師から「奇跡的に命は助かりましたが、脳に障害が残ることを覚悟してください」と言われ、もしかするともう駄目なのかもしれないと思いました。東京から大阪に戻り、血だらけでものが散乱した部屋の掃除を、血生臭さで吐きそうになりながらなんとか済ませ、病室に行ったときには、全身に包帯に巻かれた姿で「なんや、帰ってきたんか。大げさな。」と言っていました。意識を失っているわけだから、暴れたことや苦しんだことは記憶に残っていないんですね。幸い脳に障害もなく、一ヶ月ほどで退院しました。
 そんなことがあったものだから、死は意識していたし、本人もそれからは「もしかすると、もう駄目かもしれんなあ。わしも長ないから覚悟しとけよ」と言ったりしていました。七月の末、九十八歳になる父の母、私から見ると祖母が亡くなりました。父が喪主を務め、私は父の補佐をしました。そのときも「おばあさんは看取れたけど、おかあさんはもしかしたら看取れんかもしれんなあ」と言う父に「そんな縁起でもないことを言うなや。ほんまに」と返したり、弱気にはなっていたとは思いますが、次にやってくる満中陰法要に向けて、まあそれなりに元気にやっていたんですよね。
 もうすぐ祖母の法要だからと東京から父に電話をしました。「来週の木曜に帰るから」「なんでそんなに早いねん」「まあ、いろいろやることあるやろから、早いにこしたことないやろ」みたいな会話をしました。日曜の夜でした。それが、父との最後の会話でした。
 翌朝、ゴミ出しをしたあと、マンション一階のエレベーターホールでちょっとふらつき、管理人さんに大丈夫ですか、と声をかけられ、いや大丈夫、大丈夫とエレベーターに乗り、十一階に着いてエレベーターを出たとたんに倒れたとのことです。救急車がやってきたときには、すでに心肺停止状態で、状態から言って、倒れてすぐ意識を失っていとのことでした。医師によると、今回は、低血糖ではなかったそうです。インスリンの単位を下げていたので、むしろ高血糖状態でしたし、結局、司法解剖はやらずに済んだので死因は正確にはわかりませんでしたが、たぶん心不全による急死なんでしょう。
 私が大阪に着いたときにはすでに父は死んでいました。病院で運ばれ、妹が見守る中、心臓マッサージを続け、心臓は再び動き続けていたのですが、脳はすでに膨張し、強いマッサージで肋骨が折れ、内臓が破裂する状態だったので、私の到着を待たずにマッサージを中止したとのことでした。妹は「ごめんな、お兄ちゃん。でも、これ以上やるのは、お父さんがかわいそうやってん。かわいそ過ぎるねん」と泣いていました。病院で父に対面し、その遺体を見ると、ヒゲはきちんと剃られていましたし、身なりもきれいでした。そして、何よりも、顔がすごく穏やかだったんですね。
 そのとき、私の思ったことを正確に言えば「ああ、生きる気満々やったんやなあ」というものでした。生きる気満々、という表現は故人に対してちょっと不謹慎かとは思うけど、そのとき、浮かんだ思いは、まさにこの言葉でした。父は生きる気満々だった。少なくとも、しばらくは生きていく気満々だった。だから、息子としては、もう少し生きてほしかったし、親孝行ももう少ししたかった。
 でも、そんな私の気持ちに関係なく、そして、生きる気満々だった父の意向にも関係なく、ただただ冷たくなった穏やかな顔がそこにあって、ああ、これが死というものなんだな、と思うしかありませんでした。
 当たり前の話ではあるけれど、生きている人間は、自分の死を実感することはできないんですよね。もうちょっと言えば、生きている人間は、自らの死を所有することはできない、という言い方になるのかもしれません。死にたい、という言葉は、原理的には、これ以上生きていくのはつらい、ということになるだろうし、死をもって償う、という言葉や、自らの死を課す、という言葉は、むしろ、生きている私の誠意や尊厳に関わる言葉であるのでしょう。そこで語られる死という言葉は、生の究極表現としての死です。こう書くと、決して自らが所有したり、味わったりできない自らの死の魅惑的な部分を誘発してしまいそうな気がしますので、もっともっと正確に書けば、自らが語る自らの死は、生の究極表現としての死に過ぎない、と言うべきなのでしょう。
 たぶん、宗教思想、宗教哲学という言い方を除く意味での思想、哲学の領域では、つまるところ「死は自分に属さない」という定義が終点なんだろうという気がしています。そして、その終点を境として、思想、哲学と、宗教が別れていくのでしょう。自分に属するものとして死を扱う限り、そこに生を超えた絶対的なものを置かなければ成り立たないと思うんですね。死につつ、その死を所有し生きる、という絶対的な場所がなければ、そうした考えは成り立ちません。それは、神の国だったり、浄土だったりするのだと思います。
 そういう場所さえ設定できれば、生きながら、人は死について考えを及ぼせる、今まで限界だった死という思考の終点を超えることができる。その人の死について考える、今、生きている人たちの思いに答える考え方を提示できる。さらに、今、世界で起こっている困った事象として、他人の死についてまで、その絶対的な場所から半ば所有しているかのようにコントロールできる。世の中の、宗教的な思考や行為の体系には、その始まりに、この、生を超えた絶対的なものを無理やり設定する、という、今の言葉で言えば、ブレイクスルーやジャンプがかならずあったのでしょう。
 通夜、告別式の中で、葬儀会社の葬儀司会者の方が「仏教では、死は二つあると考えます。一つは、肉体の死。もう一つは、魂の死です。故人のことを思い続ける方がいる限り、魂は生き続けます。思う人がこの世にいなくなったとき。それが本当の死です。ですから、本日はお父様のことを思う存分話してあげてください」とおっしゃっていて、それは素敵な言い方だと思いました。仏教がそういう考え方を本当にするのかどうかは私にはわからないけれど、その考え方は、祖母の葬儀からすぐに父の葬儀の喪主を務めることになり、少し気が動転しているあの状況の私にとっては救いにはなりました。
 きっと、宗教思想が希薄な日本の社会の中で、日常から人の死を扱う葬儀会社が、その折り合いをはかるために見つけた言い方なのでしょう。狭義の思想、哲学は、あらゆる宗教思想から独立した、言わば究極の世間知であると私は考えているのですが、その「死は自分に属さない」という考え方にも馴染む考え方のように思いました。そして、もうひとつ思ったことは、「死は自分に属さない」という言い方をひっくり返すと「死はその人に関わる人に属する」となりますが、その「死はその人に関わる人に属する」という原理の中で、魂といった宗教的なニュアンスを少しでも自分の考えに入れなければ、生きている人はちょっとやってられないものなのだなということでした。
 病床の母のこともあり、父の死によって、私が生きていく環境は大幅に変わっていくだろうし、その変化に、今、ほんとこれからどうなるんだろうなあ、うまくいくかなあ、とか思ったりするし、その変化に向けて、うんざりするほどやることがあるのだけれど、なんとなく「死は自分に属さない」あるいは「死はその人に関わる人に属する」という言葉は、でもまあ、なんとかなるっしょ、だって、それが生きていくことなんだもん、というような気にもさせてくれます。
 今は自分に向けて、ま、これからいろいろあるだろうし、うまくいかないこともあるだろうけど、がんばれや、という言葉をかけてあげたいなあと思います。ほんと、自分に向けた言葉ばかりの文章ですが、読んでくれた方は、どうもありがとうございました。この文章が、ほんのちょっとでも誰かの助けになりますように。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2014年8月29日 (金)

ラジオのこと

 ナイティナインのオールナイトニッポンが9月いっぱいで終わるそうですね。8月28日深夜放送分をradikoで聴きました。矢部さんが終わる理由を話していました。たぶん、その理由はいろんなところで報道されるでしょうから、ここでは詳しくは書きませんが、私はとてもいい終わり方だと思いました。こんな理由で20年続いた番組を終わらせることができるのも、ラジオというメディアのいいところだと思うんですよね。
 ラジオの出演者はパーソナリティと呼ばれます。テレビではパーソナリティとは呼ばれません。ナイティナインはテレビで冠番組をいくつも持つ人気タレントです。でも、そんな彼らにもそれぞれの人生があるわけで、その中でテレビでは決して表現しないけれど、当然、人間として心のなかで感じていることもあるわけですよね。その秘めた思いを、きっとほんの少しだと思いますが、きちんと表現できるのが、映像を禁じられた音声メディアであるラジオというメディアなのでしょう。そこには確かに、パーソナリティとしての矢部さん、岡村さんがいました。
 パソコンがあれば誰でも簡単に映像コンテンツが作れてしまう時代ですが、私はラジオが大好きです。これは懐古趣味じゃなくて(まあ、私の世代は若い頃にラジオを聴きまくった世代ですので、少しはあるのでしょうけど)、たぶん、メディアの条件みたいなものなんだと思います。映像を禁じるからこそできることはあるのだろうなと思うんですね。マクルーハンが「メディアはメッセージである」と言っていますよね。その真意を理解しているわけではないけれど、たぶん、メディアの条件によってメッセージは変わる。そんなふうに思います。同じ映像でも、テレビと映画では違う。同じように、ラジオにしかできないことがある。きっと、ある。その、ラジオにしかできないことが、私は好きなんですね。
 縁あって、今、私は放送批評懇談会というNPO法人でラジオ委員をしています。任期4年で3年目に入りました。ラジオ委員会では全国の放送局のラジオ番組をたくさん聴くのですが、今、ラジオは必ずしも面白い番組ばかりとは言えません。今までラジオをまったく聴いたことがない人が聴いて、またラジオを聴いてみようと思わせるようなパワーがある番組は、以前より少なくなっているような気がします。
 いまいちばんの人気者で、今どき珍しくラジオに積極的な人たちなので、AKB48のメンバーが出演するラジオもたまに聴いたりしますが、多くは、テレビの楽屋っぽい雰囲気があるんですね。たくさんの人達が出演するひな壇番組を楽屋に移したみたいな感じ。吉本や松竹の芸人さんが出演する大阪の深夜ラジオも、その傾向が強いです。つまり、ラジオは、テレビの裏側みたいなメディア理解なんですよね。ファンの人にとってはそれでいいと思いますが、ラジオに元気がない時代だからこそ、もう少し欲張ってほしいなあと一ラジオリスナーとしては思うんですよね。AKB48が出演するテレビ番組には、ファンの人以外の視聴者を惹きつける魅力があると思うんですが、なぜかラジオにはそれが少ない気がしています。
 例えば、AKB48のファンの方が、そのメンバーの声を聴きたいからラジオを買って、もしくはradikoにアクセスしてラジオを聴いたときに、AKB48のメンバーの魅力とともに、あっ、ラジオって面白いなあ、魅力的だなあと思えるような番組であれば、と思うんですね。これを逆に言えば、AKB48のことをまったく知らない人が、そのラジオ番組を聴いて、あっ、この番組、面白い、また聴きたい、と思わせるような番組。もっと言えば、AKB48きっかけで他のラジオ番組も聴いてみようと思わせるような番組。私は広告屋ですが、ラジオをもっとたくさんの人に聴いてもらうためには、大規模な広告キャンペーンなんかより、よっぽど効果があると思うのです。
 そんな中で、AKB関連で、これはいいなあと思うラジオ番組がひとつだけあります。大阪のMBSラジオでやっている「NMB48のTEPPENラジオ」。渡辺美優紀さんが特にいいですね。NMB48のみるきーではなく、今どきの女の子は、こういうふうに世の中のこと、人生のことを考えているんだなあ、と感じます。もちろん、それは、みるきーこと渡辺美優紀さんにラジオパーソナリティとしての才能がある、ということでもあるのですが、彼女のトークを聴いていると、そうそう、ラジオって、こういうこと、とうれしくなります。で、そんなラジオ番組だから、しっかり聴く人も増えているようで、もともと週3回の15分枠番組が、今年から週1回の1時間番組になりましたもの。放送エリアの方は、ぜひ聴いてみてください。
 とまあ、ラジオのことをつらつらと書いてみましたが、ブログを書くのは久しぶりで、どうも調子がうまくいきませんね。ブログは個人メディアで、どう書こうが私の勝手ではあるんですが、やっぱり照れがどうしても入ってしまいます。じつは、久しぶりにブログを書こうと思ったきっかけは、放送批評懇談会主催のイベントを告知しようと思ったからなのですが、前段が思いの外長く、かつ、イベントにあまり関係のない話になってしまいました。でもまあ、こういうの、ブログらしいのではないでしょうか。ブログというメディアができることって、こういうことですよね。きっと。ともあれ、ここまで読んでいただいた方、どうもありがとうございました。
 では、告知です。放送批評懇談会ラジオ推奨委員会主催で「ギャラクシー賞を聴いて、語り合う会」というイベントを開催します。9月28日(日)、場所は東京半蔵門のFM東京です。第51回ギャラクシー賞の受賞作の中から、今年第1回目の今回は、大賞受賞作と優秀賞受賞作を聴きます(第2回目も予定しています)。今回の2作品は、どちらも震災に関連したラジオ番組です。あの震災から3年経ちましたが、その時間の経過も含めて、ラジオというメディアがあの震災のその後をどう描いたのか。パーソナリティというラジオ独特の言葉が示すような、ひとりひとりの人に寄り添ったラジオらしい表現のあり方が、この2つの作品にはきっとあるはずです。そのあたりをぜひ聴いてほしいと思います。
 制作者の方もゲストにお呼びしています。もちろん、質問もできますよ。会費は1,500円です。なんだ、無料じゃないのかよ、と思った方もいらっしゃるかもですが、まあ、そのぶん、たっぷり時間をとっていますし、そのぶん結構楽しい会だったりします。業界の方は、もうご存知だと思いますが、私はむしろ、ラジオなんか興味ない、そういえばここ数年、ラジオ聴いてないなあ、という感じの方に来ていただきたいなあ、と思っております。まあ、有料イベントだしハードルはかなり高いでしょうけど、そこまで言うなら行ってみようかな、という方、委員一同、お待ちしております。
 聴取作品の概要や申し込み方法などが記載されていますので、詳しくは、下のリーフレットをご覧くださいませ(画像をクリックで拡大できます)。ちなみに表面の写真は、今年の7月に岩手県の大槌町で撮影した写真です。大賞受賞作の中にも、大槌町で町のガイドをする女子高生が出てきます。彼女が番組の中で話していた堤防の造成と町全体の再開発が進められていています。
 

Kukukai17_1_2

 

Kukukai17_2

 

 PDFファイルはこちら(2.4M)

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2012年8月 6日 (月)

本日より、はじめます。(追記あり)

 いろいろ考えたけれど、こういうのはさらっと書くほうがいかなと思いました。ご報告です。東京の神保町にある広告会社(いわゆるクリエーティブエージェンシーです)に入社しました。

 今年の1月にエントリを書いてから、フリーランスとしていくつかの案件はお受けしたりはしていたのですが、ようやく腰を落ち着けて仕事ができる環境が整いました。この場所から、いろんなことをやっていきたいと思っています。また、あらためてこちらのブログでもお伝えしていきたいと思っております。

(2004年8月29日追記)

 ブログをしばらく書かなかったのでご報告が遅れましたが、上記の会社は退社いたしました。現在はフリーランスで活動しております。今後ともどうぞよろしくお願いします。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2012年3月11日 (日)

前を見る

 前途洋々、前向き。そのとき、前が意味するところは、未来。けれども、以前、1年前の出来事、というように、前という言葉を過去の意味で使われることもあります。

 前は未来か過去か。そんな疑問を持ったことって、ありませんか。

 「まえ」という言葉は、目を意味する「ま」と、方や辺を意味する「へ」が合わさってできたそうです。つまり、顔の目がついている方、目線が向いている方向が「まえ」というのが、前です。前という言葉は、本来は過去や未来を表す言葉ではなく、人の身体の前後左右を規定する言葉。主体はあくまでも人なんですよね。

 道を歩いている人をイメージすると、とてもわかりやすいです。道を歩いている時、その人の目に映っているものは、まだその人が歩いたことのない道や、訪れたことのない場所の風景です。立ち止まって道を振り返ると、目の前に広がっているものは、今まで自分が歩いて来た道や風景。道を時間に置き換えれば、前という言葉がなぜ未来と過去という、まったく逆の意味を持つ双方の意味に使われるのかがわかるような気がします。

 これは、ただのレトリックに過ぎないかもしれませんが、目がついている方、目線が向いている方向という、前という言葉が持つもともとの意味に忠実に考えるなら、頭の後ろに目がついていない限り、人は、前しか見ることしかできない生き物です。前向きであろうと、後ろ向きであろうと、人は、人である限り、前を見ている。そして、前を見るということは、未来ばかりでなく、過去を見つめるということもちゃんと意味してる。

 前という日本語って、しみじみいい言葉だよなあ、とあらためて思いました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年3月10日 (土)

今、広告業界に進みたいんですっていう学生さんに居酒屋でなにか話すとしたら

 何を言うんだろうなあ。

 いろいろ難しいなあ。社会も広告も、ここ10年くらいでずいぶん変わったからなあ。これ、ほんとに変わったなあと思うんですよ。たとえばね、この文章を読んでくれてますよね。どうも、ありがとうございます。文章は読まれてなんぼなので、すごくうれしいです。でもね、これはよくよく考えてみると、この文章を読んでもらってるというのは、そのぶんほかのものを見たり聞いたり読んだりできなくなっちゃってるってことなんですよね。時間は誰でも平等に1日に24時間しか与えられてないですから。

 これ、10年くらい前では考えられなかったことなんですよね。もちろん、その頃も同人誌とかはあったよ。でもね、同人誌って手に入れるのに、ちょっと努力がいるじゃないですか。でも、このブログを読むのに努力はあまりいらないですよね。RSSに登録してもらってたら、更新の度にリアルタイムでお知らせが来ますし、ときには、twitterやfacebook、mixiなんかで、なんか広告人の人がへんなこと書いているよ、どれどれ、って感じで読まれることもあるじゃないですか。

 つまり、情報発信が特権ではなくなってしまったということなんです。それはもう、なんの特権でもなくなってしまいました。ここ数年は特にそう。これは、私なんかの書きたい、読んでもらいたい人にとっては、革命みたいな出来事だったんですよね。それは、グーテンベルクの印刷革命以来の大快挙。でもね、このことは、これまでの広告にとっては都合が悪かったんです。だって、広告なんて、ほんと、見られてなんぼ、読まれてなんぼの最たるものですから。みんながテレビを見て、新聞を読んでくれると思ってるから、安心して広告できるわけでしょ。でも、そうでもないらしいぜ、他にも見るもん読むもんたくさんあるし、俺だってテレビあまり見てないし、新聞だってあまり読んでないんだもん、でもまだ大丈夫じゃないかな、でもちょっと心配、みたいなことがここ数年の広告業界の人たちの気持ちだったんです。

 もちろん、希望はないわけではなかったんですよ。だって、逆手にとれば、広告をする側がやる気になれば、高い媒体費を払わずに情報発信ができるようになったんですから。それに、いろんな情報発信の場ができたから、いろいろなことを試せるし。こりゃいいや、っていう会社もたくさんあったと思うんですよね。これ、広告にとってはよかったことだったけど、こうなっても広告業界にとっては、ちっともよくなかったことだったりもして、食い扶持をどこに求めりゃいいの、みたいなことになったり。

 GmailとかHotmailとか使っている人は多いんじゃないでしょうか。使ってなくても、みんな名前くらいは知っていますよね。この2つのサービス、ほとんど、これまで広告だと思われるようなかたちという意味では広告はまったくしてなくて、それでもここまでの知名度とユーザーを獲得しちゃったんです。これは、ほんと当時としてはすごいことだったんです。昔はMS Officeにしても、競合のLotus Notesや1-2-3にしても、広告をしていましたからね。Lotusなんか、タレントを使ってテレビCMまで打ってましたから。でも、この2つは、それなしでできちゃったんですね。こりゃ、まいったな、ってもんです。

 僕らの世代では、広告で時代を動かしたいんです、とか、世界を変えたいんです、という人がよくいました。今もいるのかな。コピーライター志望とかだったら、言葉で世界を、みたいなことになったりしますよね。でも、そういう人には、だったらブログを書けばいいじゃないですか、って答えます。これ、嫌みではなく、本気でそう思ってます。だって、GmailもHotmailもできるんですから、世界を変えるなら、ブログを書く方が広告業界に入るより近道だったりするんですよ。でも、まあ、広告業界に入って、時代を動かしたい、世界を変えたいってプレゼンしたら、明日から来なくていいと言われますけどね。

 言われますけど、動機としては、まあ、ありだったんです。ちょっと前までは。いまも、それでもかろうじてありかもしれません。だから、みんな環境広告とか公共広告とかをやりたがったんです。私にもまだ少しはあります。隠し持ってます。でも、でもね、思うんですけど、今までのやり方ではたぶんむずかしんだろうなと思っています。時代が違うし、メディア環境も、あまりに違いすぎます。何と違うのかっていうと、僕たちの先輩方がつくってきた、キラ星のような広告が成り立っていた状況と。

 お手本にはできると思うんです。そこからいろんなものを吸収できるとも思います。でも、アウトプットは別の何かであるはずです。それは、どちらかというと、その時代の変化のはざまに生きてきた僕自身の問題意識かもしれないですね。僕には、バブルの呪縛があります。消費マインドとか、消費についての態度だったり、そんなこんなに重い課題を抱えています。それは、もしかすると、若い人にはないかもしれませんね。

 という意味では、いつの時代でもそうだと思うんだけど、若いということは、それ自体希望だったりするんですよね。俺が、私が、新しい方法を見つけたる。そんな人は、はっきりと広告業界に来てほしいなあと思います。他の業界に行くより、広告業界に来てほしいです。時代を動かしてください。世界を変えてください。これはいい、時代を動かすはず、世界を変えるはず、という商品やサービスをちゃんと知ってもらって広めること。それが、広告が時代を動かす、世界を変えるということですから。

 新しい方法を見つけたる、ということが、たぶん、今の広告に必要な資質なんだろうなあ。そう。そう思います。これまでは、動機としては、自己表現が強かったんです。あの人みたいなコピーを書いてみたい。あんな素敵なデザインをしてみたい。はっきり言えば、それでよかったんですよね。課題を解決するよろこびとか、そんなプロフェッショナルっぽい挟持は、あとからついてくるものですから。でも、今は、それだけじゃきつい。そんな気がします。

 商品や広告をとりまく状況も複雑になりましたし、目標設定も多種多様になりました。また、これまでは生活者の心をつかめばよかったように思いますが、今はそれだけでは無理。専門用語で、インサイトって言うんですが、インサイト一発でモノやコトが動くことほど単純な社会ではなくなりました。というか、新しい商品を求める生活者のインサイト自体が見つけにくくなってきています。個人的には、インサイトをベースにしつつも、その先の段階、コンテキストに高める必要があると思っています。たとえば、PCの延長線であったタブレットPCをPCとは切り離し、見るため、楽しむためのビューワー的ツールというコンテキストに変えたからこそ、iPadは受け入れられた。そんなことです。

 新しい方法を見つけたいです、って。そうですか。それはよかった。では、最後に、いろいろ具体的な話を。

 一言で新しい方法って言うけれど、それは、今までも、いろんな人たちが試みてきたものでもあるんですよね。ソーシャルメディアなんかが急速に発達してきて、あれっ、これは駄目なんじゃないの、これやったら信頼なくしちゃうよ、ということが新しい方法として喧伝されることが多いんですね。でも、そういうのって、ブームの後、かならず問題になって消えていくから、そんなに問題にしなくてもいいのかもしれませんが。

 どれだけ世の中が変わっても広告は広告なんです。広告とは、メディアを使って不特定多数に商品やサービス、あるいは企業のメッセージを伝えるということ。それは変わりません。メディアという変数が変わるだけ。だから、あえて辛気くさい言葉を使いますが、健全な社会にとって広告はどうあるべきか、っていうことを自らが問うていかないといけないことは、今も昔も変わりません。

 最近、流行語になったステマっていうのがあるじゃないですか。読者を偽って、ある業者がソーシャルメディアに投稿をしていたっていう、あれです。あれ、どうして駄目なのか。情報の信頼性を損なうからなんですよね。広告は、情報の信頼性が担保されて、はじめて社会で成り立つものです。いくらものが売れるからといって、それは自らの首を絞めることになります。もうひとつ、広告の場であるメディアの信頼性も損なってしまうこと。広告の意図を隠して読者を装った投稿がたくさんあるメディア、楽しくないですよね。つまり、そんなメディアは淘汰されてしまうんです。

 だったら、悪いのはメディアの広告モデルなんじゃないですか、っていう考え方もありますよね。でも、私はそうは思わないです。というより、広告モデルであることは、メディアにある種の社会性を与えると思ったりもしています。広告があるからこそ、その社会とのバランスを絶えず問われるんですよね。問われることこそが、メディアにとっての社会性、あるいは公共性ではないかと思うんです。それは、Googleとかの動向を見ていても、そう思います。もし、Googleが課金モデルだったら、検索結果にGoogleの意向がもっと反映されるはず。その意向に共感する人だけが使えばいい、ということになりますよね。

 同時に、表現についても、他のどの表現よりも強い公共性が広告には求められます。現場に出れば、それが具体的な規制として迫ってきますし、できれば、表現する人自身にもある種の公共感覚は強く持ってほしいなあと思います。でも、それは萎縮することではないんです。例を出しますね。森林伐採に反対する広告。女の子の髪の毛の半分をバリカンで刈っていくんです。もうひとつ。拳銃所持に反対する意見広告。赤ちゃんが部屋で遊んでいて、部屋にあった拳銃を手にとり、口もとへ。その表現は残酷だ、という苦情もあったんですね。でも、その表現には強い公共性があります。そう考えるとき、それは社会に対して主張しなければならない。それは、広告の公共性を主張することでもあるのです。

 書き出したら、いろいろ話すことはあるなあとは思いますし、まだまだ話せそうですね。でも、居酒屋さんでこんな話ばかりされたら困っちゃうかもですね。私は、わりとそういうタイプだったりもします。もし、お話する機会がありましたら、そのありたは大目に見てやってください。これまで書いてきたことも、そんな、これから広告業界に入りたい人に向けている部分もありますので、もし興味があったら過去ログも探ってみてくださいませ。ひとつひとつのエントリが、悩みながら、迷いながら、とりあえず出した答えだったりもしますので、この人の言ってること間違ってるよねってのもありです。私も、まだまだ考えていきたいです。試行錯誤を続けます。

 お互い、がんばりましょう。

| | コメント (19) | トラックバック (0)

2012年1月17日 (火)

思い出せるように

 けっして忘れない。あの時、あれだけ心に誓ったのに、いつのまにか忘れてしまう。悲しいけれど、それが人間だと思うんですね。オフコースに「いつも いつも」という歌があります。もう30年以上前の歌になります。アルバム「FAIRWAY」のいちばん最後に入っています。アルバムには曲名さえ書いていない短い歌です。

あなたのことは 忘れないよ
ふるさとの 山や海のように
ふるさとの 友たちのように
また会う日まで
いつも いつも いつも

 この歌が美しいのは、人は忘れるものだからなのだと思うのですね。だからこそ、美しいメロディにのせて歌われる「忘れないよ」という言葉がとてもいとおしく響くのでしょうね。

 忘れたくても忘れられないことで人は苦しんだりもします。そう考えると、忘れるということは、人間が生きていくために必要な能力なのかもしれません。

 忘れたいという思いがあっても忘れられない。

 忘れないという思いも、きっと同じです。心は確かに自分のものではあるけれど、自分の思い通りにならないのもまた心というものなのでしょう。

 神戸で、阪神大震災17年のつどいが行われるというニュースがありました。東日本大震災の被災者の方々も参加されるそうです。ある方は、街が復旧していった神戸の体験を聞いてみたい、とおっしゃっていました。

 私は1年ぶりに、17年前の震災の記録を読みました。何度も読んだはずなのに、はじめて読んだような気持ちになりました。やっぱり、人は、忘れてしまうものだのな、とそのとき思いました。だからこそ、人は記録し、つどい、語り、伝えるのでしょう。

 少しでも思い出せるように。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2012年1月16日 (月)

ドラえもん、なんとかしてやってくれ。

 前回の書評エントリーでご紹介した『さいごの色街 飛田』の中で、著者であるフリーライターの井上理津子さんが飛田の菩提寺に取材をしたときのエピソードがありました。そのエピソード自体にそれほど重い意味もないし、本の主題とはまったく違うけれど、そのエピソードを新幹線の中で読んだときに、なぜか親鸞のことが前より少しだけわかった気になったんですね。自分としては、あっ、そうか、という感じ。新鮮でした。今回はそのことについて書きます。

 とは言っても、この本と親鸞はまったく関係ありませんし、このことを書こうと思ったのは、たまたま、twitterのタイムラインで親鸞関連のことが多かったというこだけなんですけどね。私は親鸞にも仏教にも詳しくはないので、間違っているところもあるかもしれませんが、そのあたりは、日々の考えることを書き記す、ライフログとしてのブログの気軽さで、ということでお読みいただければと思います。それと、タイトルは釣りじゃないけど本文にはあまり関係がありませんのであしからず。最後にわかるようになってます。お時間のある方は、最後までおつきあいくださいませ。

 エピソードはこんな感じです。

 飛田は江戸時代からある遊郭ではなく、大正時代に難波新地の焼失の代替地として誕生した、当時としては新興の遊郭で、そのためかどうかは書籍では触れられていませんでしたが、なぜか付近に飛田の人たちのための寺院や神社がありません。普通、遊郭にはあるんです。

 関心を持った井上さんは、飛田の料理組合の方々に取材をします。そこで、大阪から離れた場所に飛田で暮らす人たちの菩提寺があるという話を聞き、組合員がバスでお参りに出かけてお布施をしたという資料を見せてもらいます。そこで、そのお寺さんに取材すると、私たちは飛田とは何ら関係ありませんと答えるばかりだったそうです。

 私は、言おう言わまいか迷っていた、お坊さんの冷たい対応について話し、「お寺というのは本来オープンなところのはずなのに、招かれざる客だったとしても、あの対応はないと思う」とも言った。一緒に憤慨してくれるだろうと思っていたのだが、少し間をおいてから、
「気持ちは分かるけど、まあ、そういうこともあるやろ」
 と言った。表情をぴくりとも動かさず、淡々とした口調だった。最初、私は少し拍子抜けしたのだがやや切なくなってきた。

 たぶん、仏教というかお寺さんが必要とされるのは、それほど信仰の厚くない多くの人にとっては人が死んだときなのだと思います。もちろん、生きていくなかでの支えとして信仰するという役割もあるでしょうけれど、多くの人にとって生活でお寺さんが強く意識されてくるのは、死者をどう弔うか、生きていく人たちが死者とどう向き合うか、という中でのことだでしょう。

 親鸞が生きた鎌倉時代は、武家の世の中になったばかりの乱世でした。その中で、人を救済するためにある仏教が、人を選んでしまうことも多かったでしょう。今でさえこうなのですから。あいつの葬式はできない、お墓はつくれないなんてこともたくさんあったのだと思います。それに、今よりも、もっともっと生と死はひと続きだったとも思いますし、庶民としての「まあ、そういうこともあるだろう」という諦観もあるだろうけど、終末思想に染まる世の中、不安だったのだろうと思います。

 仏教は、その体系にどこかエリート主義的なものがあります。ブッダも出自は貴族でしたし。もともとは、いかに自分が悟りを開くか、つまり、自分の魂を救済するかのための体系で、だからこそ高度な教典と修行が仏教にはあるんですよね。仏教の場合、まずは自分を救済して、悟りを開き、そして、民衆を救済するという順序です。親鸞も、知の最高峰である比叡山で修行した仏教エリートのひとりです。

 そんなエリートの親鸞は、こう思ったのではないかなあ、と思ったんですんね。なんか、あっ、そうか、と思った時、頭の中で親鸞が現代語で話していたので、ちょっと失礼かなと思いつつそのまま書きますね。

 *    *

 多くのお寺さんから見放されてしまった人は、日々の信仰もそんなに厚くない。仮に、見放されなかったとしても、そんなに信仰の厚くない人には、多くのお寺さんは冷たかったりする。でも、それっておかしいことなんじゃないか。阿弥陀は救いたい人は、むしろそういう人だったりもすると思うし、日々信仰が厚く善行を積んでいる人は、むしろ阿弥陀の救いをあまり必要としないはずではないか。

 でも、いつのまにか、念仏の唱え方、修行の仕方、善行の積み方、お布施の多い少ないによって、阿弥陀救われ度ランキングみたいなものができてしまっている。それって、すごくおかしいことだよね。そんなのじゃ、救いの意味がないし、仏教の意味がないよね。阿弥陀って、そんなことを思っているわけないと思う。

 *    *

 現世、そして来世における自己の救済という仏教のメインストリームから親鸞の考え方を見た時、その論理はかなりアクロバティックな飛躍を含んだものになるし、今伝わる親鸞の考え方は、かなりの部分が弟子が体系化したもなので、なおさら難解です。しかし、身も蓋もないけれど、自分が死んだらどうなるんだろ、地獄に堕ちるのかな、ちゃんとお葬式があって、お墓が建つのかな、という生活の機能としての仏教の目線で考えると、親鸞がわかりやすくなるように思いました。

善人なおもて往生す、いわんや悪人をや

 つまり、「大丈夫ですよ。阿弥陀様は私もあなたも、そこのあなたも、みんな含めて救済してくださいます。安心してください。阿弥陀様にとっては、自力でも極楽に行ける善人なんかより、阿弥陀様の助けがなくては極楽に行けない悪人のほうが大仕事の救いなのだから、仮にあなたが悪人だとしても、阿弥陀様はなおさらすすんで救済してくださるはずです。念仏だって、お布施だって、大きな声では言えないけれど、本当は関係ないんです。阿弥陀様はそんなに小さい方じゃありません。当たり前じゃないですか。」ということなのでしょう。

 これもひとつの物語にすぎませんし、その親鸞理解はもしかすると浅い、間違っている、ということなのかもしれませんが、これまでの生活の機能としての仏教を根本的に否定し、かつ、その否定によって仏教の本質に迫ろうとした親鸞の考え方のベースには、こういうことがあったように思えたのです。そして、こういう流れであれば、私にもわかる気がします。親鸞がこう言ってくれるのは、きっと当時の民衆にとってはうれしかったことでしょう。

 ただ、この時代が要請した考え方は、当然、現世での善悪を他力によって否定することにもなります。その考え方は、単に救済における善悪の否定ではありますが、結果として、悪のほうが救われる契機は高いという結論を導き出せるし、また、他力を突き詰めると、論理的な帰結として絶対他力による悪を肯定することにもなり得ます。つまり、仏教の原初とは別のかたちで、危険な部分も含めた仏教という思想の本質的な部分に触れることにもなるんですね。そこに、親鸞の怖さというものがあるのだろうなあ、と思います。弟子たちが親鸞の思想を書き記した『歎異抄』が江戸中期まで秘密にされてきたのもなんとなくわかる気がします。

 でも、もともとの考え方のベースはこんな感じに日常に根ざしていたのではないかなあ、とも思ったりしています。考えてみると、この私の気づきは浄土真宗の信者の方の理解に近いのかもなあ。私の場合、信仰ではなく、書物から入っているから、こういうことになってしまうんでしょうねえ。どちらかというと、私にとって親鸞は思想家のイメージなんです。

 そういえば、昨日、宗教学者の島田裕巳さんのツイートにこんなのがありました。

親鸞に会いたい。ドラえもん、なんとかしてくれ。

 ああ、なんとなくわかります。弟子から見た親鸞だけではなく、あの時代、親鸞はどんな人だったのか、当時の人々からどんなふうに思われていたのか、私もすごく知りたいです。私は親鸞に会っても何も話せそうになさそうなので、このツイートでの願い通り島田さんに会ってもらって、島田さんから、親鸞はこんなこと言ってたよとか、こんなふうに思われていたよとかたっぷり聞いてみたいです。

 ドラえもん、なんとかしてやってくれ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年1月 5日 (木)

「ええがな、ええがな、やれ!やれ!」

 NHKの連続テレビ小説『カーネーション』で印象的なシーンがありました。終戦直後の大阪・岸和田。戦争中に禁じられた「だんじり」ですが、戦争が終わってもまだ禁じられたままでした。

 岸和田の人たちは、大げさな話ではなく命の次に「だんじり」が大好き。私は、岸和田市に近い高石市にある高校に通っていたので、よくわかります。私立高校で規則が厳しい学校でしたが、その学校で生徒指導をしていた体育の先生が岸和田市出身でした。普段はどんなことがあっても学校を休まない人でした。けれども、毎年「だんじり祭」が近づくとそわそわしだして時々休みをとるようになります。それは、毎年のことで、その先生が休むようになると、生徒たちは、ああ、そうか、そろそろ「だんじり」の季節かあ、となるんですよね。

 戦争が終わって、警察からは「だんじり」はまだやるなとお達しが出ているものの、岸和田の人たちはいてもたってもいられず、納屋に眠る「だんじり」の前に集まります。その中に、ヒロインである糸子と、その娘の直子。まだ小さな直子は、男たちがひく「だんじり」をひきたくてたまりません。でも、岸和田の「だんじり」に使われているケヤキには女神がやどっているとされ、それまでは女性がひくことはできませんでした。

 「だんじりひきたいねん!」
 「女の子やろ。あかん。」
 「いやや、ひきたい!」
 「あかんて!がまんしなさい!」

 すると、久しぶりに「だんじり」をひくよろこびに満ちた男たちがから、こんな声がかかります。

 「ええがな、ええがな。ひけ!ひけ!」

 大人の男たちにまじって、つなを握る直子。あこがれの「だんじり」をひけて、とてもうれしそうな顔をします。それを見て「えっ、あっ、ほんまにええの?」といった戸惑う表情を見せる糸子。文字に起こしてみると、これだけのシーンですが、戦争が終わって、女性が社会にどんどん出ていく時代がはじまる瞬間を見事にとらえていました。

 このシーンを見て、私が新人の頃を思い出しました。今考えると、大学が出たばかりの駆け出しのプランナーに、よくあんなことをまかせてくれていたなあ、と思うことがあります。ビル開発や日本酒の新商品開発の仕事とか。はじまりは、いつもこんな感じでした。

 「それ、おもしろそうですねえ。」
 「そうか。おもしろそうか。やってみるか。」
 「え、いいんですか。」
 「ええがな、ええがな。やれ!やれ!」

 日本酒の企画では、調子に乗って企画を勝手に考えて企画書にしていました。その企画を当時のチーフデザイナーに見せると、じゃ、持って行こう、とお得意とつないでくれたりもしました。そのお得意の担当の方にプレゼンすると、いつもこてんぱんにやられてしまいしまたが、その方は、帰り際にこう言ってくれました。

 「また考えたら、持ってきて。おもろかったわ。」

 プランナーをやっていたとき、隣の部署のコピーライターの先輩に同じように言うと、

 「書いてみるか?」
 「いいんですか。でも‥‥」
 「ええがな、ええがな。書け!書け!」

 思えば、あの一言がなかったら、きっと私は、今、広告の仕事をやってなかったし、「ある広告人の告白」なんてブログも書いてなかったりするんでしょうね。

 人生が動いたり、時代が動いたり、そんな瞬間って、そんな大人たちの「ええがな、やれ!やれ!」があるんでしょうね。その「ええがな、やれ!やれ!」の言葉の裏には、なんかあったら責任とったるから、ということもあるでしょうし、この「ええがな。」という言葉はいいもんだなあ、と思いました。

 もちろん、20年前といえども今とは時代が違うし、社会も、経済も、業界も、今よりももっともっと信じられていたけれども、こういう大人であることのよい部分も忘れてはいけないなあ、と思います。昨日からか今日からかに仕事はじめの方も多いですし、最後にこの言葉を送ります。自分に向けてでもありますし、若い方へのエールの言葉としても、ね。

 「ええがな、ええがな。やれ!やれ!」

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2012年1月 2日 (月)

普通の爪楊枝

 年末年始はずっと大阪。しばらくは、親父と男二人のむさ苦しい暮らしが続きます。飯は家で食うので、近くのショッピングセンターまで買い物に。食料品を買うついでに、そういえば爪楊枝がなくなってたなあ、なんてことで、紙にメモして出かけました。

 ショッピングセンターにあるスーパーマーケット。それにしても、たくさんのお客さんがいるもんだなあ。元旦なのに買い物かあ。世の中も変わったなあ。なんて思う私も時代の子。晩飯のおさしみとか野菜とか豆腐とかを買っているんだもの。人のことは言えんわなあ。

 半額になったお節の誘惑も振り切って、必要な分だけの食料品を買い込んで、さてと、爪楊枝はどこだ、と探すも見つからず。どうしたもんかと店員さんに聞くと、ああ、ここには置いてないんですよ、薬局か100円ショップなら置いてますよ、と。一瞬、薬局って、心の中で突っ込みを入れたものの、そういえば、最近の薬局は何でも売ってるものなあと、とりあえず笑顔で納得する素振りを。

 エスカレーターに乗って2階に。微妙な感覚だけど、生鮮食品を入れた袋を持って別の店に行くのは、ちょっとだけ抵抗感があるんですよね。衣料品や雑貨を先に買って、最後に食料品。そんな掟が私の中にはあるようです。

 薬局。最近の薬局はお菓子や飲み物もあるんだなあ、と関心しながら、店内をうろうろ。爪楊枝って、キッチン用品でもないし、糸ようじっていうのがあるけどデンタル関連商品でもないし、と少し迷ってしまいました。ようやく爪楊枝を発見。日用雑貨の棚に、割り箸と一緒に並んでいました。

 でも、残念ながら、その爪楊枝は買いたい爪楊枝ではありませんでした。1本1本がビニールの袋に包まれているやつなんですよね。お弁当とかに添えられているタイプの爪楊枝。そのビニールの袋、今はいらないんです。ほしいのは、筒状のパッケージに裸の爪楊枝がぎっしりつまってるやつ。実家には、どこかの土産物だったと思うんですが、きれいな石に筒状の穴が掘ってある、ちょっと上等な爪楊枝立てがあって、そこにきっちり入れるには、あの袋は、申し訳ないけど邪魔なんです。それに、家ではゴミになるだけだし。その清潔を考えたひと手間の気持ちはわかるんですけどね。

 というか、ビニール製の安もんの筒型パッケージと、そこにぎっしり詰め込まれた爪楊枝の隙間に、柳楊枝って墨文字で書いてあるペラペラの紙が入ってるのが、普通の爪楊枝だと思うんですけどねえ。どうして普通の爪楊枝を置いてくれないんだろう。

 でもまあ、しょうがない、これでいいや、と思ったりしましたが、すぐに、いやいや、年始早々、妥協はいかん、と考え直して何も買わずに薬局を出ました。で、エスカレーターで3階に。100円ショップには絶対あるでしょ。日用雑貨と言えば、今や100円ショップなんだし。しかしまあ、いろいろあるもんですね。えっ、これが100円なんてものもたくさん。必要がなくても、思わず買ってしまいそう。それに、デザインもかなりがんばってます。10年ほど前は、いかにも100円でござい、っていうものばかりでした。中の人、いろいろがんばっているんだなあ。負けないようにがんばらないとなあと、年始っぽいことを思ったり。

 こちらはさすが100円ショップ。爪楊枝は簡単に見つかりました。棚のかなりの面を使って商品が積まれていました。ここでは人気商品なんですね。でも、でもねえ、やっぱりないんですよ、あの爪楊枝。棚には2種類あったのですが、ひとつは薬局に置いてあったのと同じ、1本1本がビニール袋に入れられた200本入りのもの。もうひとつは、紙の袋に入れられた300本入りのもの。ここで心が折れて、結局、紙袋に入った300本入りをひとつ購入。消費税込みで105円。

 ぼんやりとした敗北感を抱えながら家路に。なぜ袋入りしかないのかなあ、なんてことをぼんやりと考えていました。

 もしかすると、最近の衛生指向で裸の爪楊枝は絶滅してるのかもなあ。まさかそんなことはないだろう。いやいや、でも案外そんなこともあり得るかも。なにせ、ここ数年、爪楊枝には見向きもしなかったしなあ。えっ、これってもうどこにもないのか、いつのまに、っていうものもたくさんあるしなあ。

 で、ブロガーの悪いくせですが、ネットでいろいろ見てみたんですね。すると、あの裸の爪楊枝はたくさんありました。あの見慣れた裸の爪楊枝は300本入りなんですね。価格は60円前後。少し大きめの容器に入った500本入りのものもありますが、こちらも60円から80円。お徳用と称したものは、同価格で2個セットとか、それ以上のセットもりました。

 さらに調べてみると、環境対応を謳った国産のものが、やっと100円。竹製やセルロース製、ミントやキシリトール付き、和菓子に使う工芸ものなど、高額の差別化商品はたくさんありますが、概ね、爪楊枝は通常価格60円前後の商品のようです。セールものでは、切りがないほど安いものもあります。

 家庭で使うことを考えれば2個セットとかはちょっと多いと感じるし、かといって、いくら小さな商品といえども、60円の商品を棚に置いておくのはもったいないし、その値段では安さも演出できない。そんなこんなで、悩んだ末の、ちょっと付加価値、袋入り、ということなんでしょうね。まあ、今回のケースはたまたまだと思うんですよね。街のお店ではしっかり定価で売ってると思うんですが、大型ショッピングセンターの大型店というシステムでは、今や普通の爪楊枝はどうしていいのかわからない商品になってしまっているのかもしれないですね。

 普通の爪楊枝を求める声がこれから高まるとも思えないですし、たぶん、普通の爪楊枝は、こうしたシステムの中では、ずっと、どうしていいのかわからない商品のままなんでしょうね。まあ、普通のスーパーとか、街のお店で買えばいいことなんですが。

 ネットというシステムは、そこらを軽くすくいとることができているんでしょうけど、その一方で、やっぱりどこまで行ってもネットはリアルの、思ったときにすぐ手に入れられるっていう部分は超えられないとも思うし。この普通の爪楊枝から、いろんなことが見えてきますね。お買い物に限らず、おおよそ、今の世の中はシステムで動いていると思うし、そんなシステムはいろんなことを便利にはするけど、システムであるが故に取りこぼしてしまうものもたくさんあるんだろうなと、2012年のはじめに考えました。

 ちょっとばかり年始の誓い的なことを書くと、こうした、新しい時代の新しいシステムの中で取りこぼしてしまった「どうしていいのかわからない問題」を、今年は考えていきたいと思っています。これから、きっといろんなシステムが変わります。また、ちょっと前に変わったシステムが動きだし、新しい問題が出てくるだろうとも思います。そんなとき、昔はよかった、昔に戻ればいいじゃん、っていう倫理を持ち出してくるんじゃなくて、今のシステムの中で「こうすればいいじゃん」という答えを出していければと思っています。

 小さな答えでも、積み重ねれば、世の中、少しはよくなるでしょ。そんな思いを込めて。2012年もどうぞよろしくお願いします。 

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2011年6月 3日 (金)

「小さな肯定、小さな支持」を積み重ねる時代へ

 少し前に「不支持が力を持つ時代」というエントリを書きました。昨年7月の参院選のときに書いたものです。私は、こんなことを言ってました。

 代案のない否定。

 確かに。代案のない否定が集まっても、とりあえずそれ、やめとこ、ということしか決まりません。それでも時間は流れるので、じゃあどうする、と瀬戸際まで追いつめられて、時間切れというカタチでものごとが決まっていく。その積み重ねの総体が時代というものだとすると、こんな不確実なものはないですよね。

 多かれ少なかれ、我々を覆っている時代の気分って、そんな感じかな、とも思ったりします。とりあえず今はやめとこ、という気分が、今の停滞をつくっているのかも。

 今回の内閣不信任案の件でも、そんなことを思いました。私はあまり政治に言及するタイプではありませんし、政治に詳しくもありません。けれども、なんとなく今回の件が嫌で嫌でしょうがなかったのは、そんな「不支持が力を持つ時代」を象徴する出来事だったからかもしれません。被災地復旧への継続的な支援が必要で、復興のフェイズにさえ入っていない今も状況においてもなお「不支持こそが力」と考える、その信の絶望的な深さを感じました。

 宮城県の被災者からも、疑問の声があがる。仙台市若林区の荒浜地区から若林体育館に避難している農業、安達嘉博さん(77)は「政争によって、被災者支援や復興に向けた政策の策定が進まなくなる。津波で家を流され、塩害で農業もできなくなった。震災前のように暮らせるよう政府に期待したいのに、またごたごたが始まるのか」とうんざりした表情で話した。
内閣不信任案:「被災地に目向けて」怒りとあきらめの声 - 毎日新聞

 もちろん、このような声がすべてとは言いません。ただ、ほとんどの人は、これに近い気持ちをいだいたのではないかとは思います。感覚的に、としか言えませんが、少なくとも過半数は超える人たちはそう思っているでしょう。なぜ有権者のそんなインサイトを読めないかというと、要するに内向きだからでしょうね。自分たちが属するコミュニティの外の人たちの気持ちが見えてないんです。

 たぶん、「不支持が力を持つ」の裏側には、「圧倒的な支持」への願望があるのだと思います。属するコミュニティから見える人たちの気持ちこそが民意である。そんな確信が、ある程度はあったのでしょう。けれども、今はそんな時代ではないです。そこから見える人たちは、マスではない。

 昨年の7月に書いたエントリは、こう続いています。

 今の時代に、大きな肯定は似合わないのでしょう。大きな肯定は、些細な否定でいとも簡単に否定に変わります。小さな代案をひとつひとつ提示して、小さな肯定、小さな支持を積み重ねていくこと。小さな。それは、具体的に、ということでもあります。

 小さくあれ。具体的であれ。積み重ねろ。

 政治に限らず、なんでもそうだと思うのですが、時代はそんなふうに変わって来ていると思います。だからこそ、これまでのマスが見えやすかった時代のやり方では駄目だと思うんですね。これは、自分にも言い聞かせたいことでもありますが、時代の変わり目は、やっぱりインターネットだと思います。もっと言えば、それはきっと、ブログでしょう。

 twitter、Facebookの時代にブログかよ、と思われるかもしれませんが、やっぱり変わり目は、ブログにあったと思うんですね。ブログが一般化して、時代は変わった。そう思います。

 以前からあった2ちゃんねると個人サイトではなく、ブログ。その意味するところは、独立した個の発信が簡単になったという、その1点。それぞれの独立した個が、発信する個に変わったということ。個の発信が特権ではなくなったということ。

 このことは、小さなことのように見えて、とてつもなく大きなことだったのだろうと思うんですね。このことは、ブログをやっているやっていないに関わらず、社会が、簡単に個が発信できるシステムを構築した、ということです。今から思えば、この社会システムの変化は、相当なものだったのだと思うのです。

 小さくあれ。具体的であれ。積み重ねろ。

 その支持のプロセスの変化は、ブログをやっている人は実感できると思います。そういうことからでしか支持は生まれない、そんな時代であることは、ブログをやっていれば、体感できるはず。その意味合いにおいては、twitterはミニブログという位置付けができるし、Facebookはフレキシブルで高機能なブログとも言えます。

 ブログがはじまって10年。その社会の変化は、より確定的な変化として、インターネットの外の世界にも、よりわかりやすいカタチで現れてくるはずです。もちろん、小さな視点では、ブログがもたらしてきた変化への感受性は、ある閉じられたコミュニティにおける感受性である、とも言えなくはないないですし、その強い感受性とこれまでのやり方との間に葛藤がないと言えば嘘になりますが、でも、どちらに賭けるかと問われれば、やはり、変化に賭けるしかないだろう、と私は思います。

 いろいろ悩みは多いとは思うけれど、時代は、「小さな肯定、小さな支持」を積み重ねる時代へと、より激しく動き始めるはず。今、あらためて、そう思います。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧