カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の355件の記事

2009年12月 7日 (月)

マルちゃんの涙

 プロスポーツは残酷な世界なんだろうと思います。

 私は大阪市で育ちました。小学校、中学校は公立に通っていました。市内の公立なので、いわゆるマンモス校です。学区は、大企業の本社工場がある地域で、人口も多く、たくさんの生徒が学校に通っていました。そのたくさんの生徒の中で、群を抜いて運動神経の優れた男の子がいました。圧倒的でした。体格もよく、陸上競技も、ソフトボールも、サッカーも、何でも一番でした。

 その彼は、甲子園で何度もの優勝経験を持つ野球部がある高校に進学しました。その高校が甲子園に出場することになって、テレビ中継を観ると、その彼は、3塁側のベンチに座っていました。補欠だったんですね。大都会のマンモス校でいちばんだった彼をしても補欠なんです。高校野球でもそうなのですから、その高校球児から選抜されるプロの選手のレベルというのは、どんなものなのだろう、とテレビを観ながら思ったことを覚えています。

 ゴルフの国内男子ツアー最終戦で、マルちゃんこと丸山茂樹さんが優勝しました。石川遼さんが19位で、18歳での史上最年少賞金王を決めたツアーでもありました。マルちゃん、40歳。国内ツアー10年ぶり、日米含めてでは6年ぶりの優勝だそうです。

 やはり、プロスポーツの世界はすごいところだな、と思います。18歳で賞金王。かつて世界で大活躍したベテランが、6年ぶりの優勝。

 マルちゃん、優勝インタビューで泣いていましたよね。おしゃべりが上手で明るくて、テレビでもよく見かける人ですから、ついつい、いつでも大活躍と思ってしまうんですよね。私はゴルフは詳しくないですし、いつもマルちゃんの戦績を意識しているわけでもないですから。アメリカから帰ってきたことさえ、そんなに知らなかったし。

 6年なんですよね。あれだけ勝ってきた人が、6年勝てなかった。

 自分の6年を考えると、それは長過ぎるくらいの歳月なんですよね。なんて残酷なんだろうと思ってしまいます。優勝できるのは、全国から選ばれた、ほんのわずかのプロの中でも、一握り。かつてその頂点を走っていた人が、ある時から6年勝てなくなっていた、ということなんですよね。もし私がその立場だったら、そんな残酷な事実に耐えられないかもしれないな、と思います。

 プロスポーツに生きるということは、他の分野よりも何倍も何十倍も年齢というものを意識するということでもあるのでしょう。若い時のようにパワーで勝てることも少なくなってくるでしょうし。勝ち方を変えなくてはいけなくなりますし、そのことだけでも、相当な精神的なきつさはあるのだろうと思います。

「今回勝ったからって、賞金王(を目指す)とはまだ言えないが、高いところに目標は持って行きたい。来年は若手に“丸山さんが来た、イヤだな〜”と思われるいやらしいゴルフをしていきたいね」
最終戦で存在感を見せつけた!丸山茂樹10年ぶり10度目の勝利! - asahi.com

 とってもマルちゃんらしいコメントですよね。そうそう。18歳には18歳、40歳には40歳の戦い方があるということですよね。元気が出ました。若い人は、石川さんの賞金王に共感した人が多いでしょうけど、42歳の私は、だんぜんマルちゃんに共感してしまいましたです。マルちゃん、6年ぶりの優勝おめでとう。めげずに、前向きに、がんばっていかなくちゃだなあ。ではでは。

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2009年12月 1日 (火)

走りながら考える

 たいがいの人の場合、考えるということは、走りながら考えるということになりますよね。立ち止まってゆっくり考えるなんて悠長なことは、孤高の哲学者でもなければなかなかできることではないですし、立ち止まることは、それはそれで勇気がいることだから、ま、走る。そして、走りながら考える。

 自分の過去ログを読んでみると、去年の12月1日もそんなことを書いていました。成長がないというか、なんというか、人間はそんなに急激に変わるものではないという証なのかもしれません。

 年を重ねることは、経験を深めることでもあるけれど、その経験の深さはこれからの可能性の狭さを意味する部分もあって、もう若い学生さんのように、自分の中に無限の可能性は見つけられなかったりもするのです。だからといって、もう変われないのかというと、そうでもなくて、今だに新しい経験だらけの毎日だけど、それは、いつのまにか自分の経験に照らし合わせたりしていて、それは、いいことでもあり、邪魔になることでもあるということでもあるんだろうなあ。ものごとは、いつも両義的だよなあ、と最近思います。

 去年の今頃のエントリを読み進めると、その時点で456あると書いてありました。これが701回目の投稿だから、1年で245のエントリを書いてきたことになります。よく書くことがあるよな、なんてことも思いますが、結局は、ひとつのことを手をかえ品をかえ書いてきているような気もするので、そんなにたいしたことではないような気もします。つうか、思いつくままつらつらと書くのは楽しいしね。こういうのを慰みって言うんでしょうね。

 とにかく走る。走りながら考える。

 きっと、それは、どんなかたちであるにせよ走っていなければ考えられなくなる、ということでもあるんだろうなあ。リアルに走ると、最近はちょっとゼイゼイと息を切らすようになってきましたが、ま、師走なんで、走ります。そういうことで、12月。さあ、2009年のラストスパート。明るく元気にいきましょう。

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2009年11月30日 (月)

バスに乗る

 住んでいる場所にもよるとは思うけれど、私の場合は、心に余裕がない時がしばらく続くと、ああ、最近はバスに乗っていないな、って思います。

 私の住まいは駅から歩いて10分ほどのところにあって、普段は駅まで歩いて電車に乗って移動します。仕事でいろんなところに行く時でも、バスを使うことはまずないです。たいがいは地下鉄かJR。たまにあっても私鉄くらいのものです。それに、バスで行くと便利な場所であっても、そういうところはたいがいタクシーを利用します。

 日曜日、ちょっと用事があり中野区のはずれまで。行きは徒歩で30分ほどかけて行きました。私は極度の方向音痴なので、少し迷ったりしながら、なんとかたどり着きました。それはそれで楽しかったのですが、少し疲れてしまって、用事を済ませると、なんとなくバスを使ってみようかという気になりました。

 ほんとは中野に帰りたかったんですが、バスが高円寺北口行きしかなかったので、まあいいか、高円寺で古本でも見るか、なんてことで、5分ほど停留所で待って、バスに乗車。

 東京の都バスって、先払いなんですよね。210円。Suica(というか、この場合はPASMOと言うべきか)が使えます。大阪の市バスは後払いなので、ちょっと勝手が違ってとまどってしまいました。大阪ではPiTaPaですね。そう言えば、「全国IC乗車カードあれこれ」というエントリを書いたなあ、コメントをいただいたのに追記してないなあ、追記しなきゃなあ、なんて思いながら、いちばん後ろの窓際の席に。

 お客さんは、8割方の席が埋まるくらい。日曜日なので、お母さんと子供、ご老人の方が多かったです。みんな、買い物に行くのかなあ。それとも、それぞれの用事があるのでしょうか。大阪に帰っているときは、入院している母の面会のためにバスに乗ることが多いですが、そのときは親父と二人。平日にじいさんとおっさんの二人で何の用事だろ、なんて見え方をしているんでしょうね。

 車窓から眺める中野の街は、いつもと少し違って見えますね。目的を持って、駅までひたすら歩くときには見えない風景がそこにありました。ま、なんていうこともない風景ではあるのですが、余裕のないときには見逃しがちな生活の姿が車窓から見えたんですよね。いろんな人が住んでいるなあ、なんて。で、ぼけーっと外を見ている私もそのひとり。それが、ちょっと心地よかったりしました。

 高円寺の駅に近づくにつれて、街の空気が少しずつ変わってきて、ほんの少しですが、華やぎがあるというか。これから居酒屋で飲むんだろうなというような若者やら、お買い物をするんだろうなというようなお母さんやら、パチンコでひと勝負のおじさんやら、そんな人たちがつくる空気です。

 ずいぶん前のことですが、某航空会社がヨーロッパで運行している観光バスの広告コピーで「ヨーロッパはバスがいい。」というものを書いたことがあります。小さな雑誌広告の仕事ですが、商品担当の人から「いいですねえ。ほんと、バスじゃなきゃわからないヨーロッパがあるんですよ。」なんてすごくほめられて、それが若かった私には、とてもうれしかった仕事でした。あれから、もう20年近く経つんだよなあ。

 高円寺に着いたときには夕暮れでした。大学生の頃にもよく通っていたニューバーグで500円のチーズバーグを食べて、古本屋さんに寄って何も買わずに、総武線の黄色い電車で中野に。なんか小学生の作文みたいな感じになってしまいました。明日は30日ですが、11月最後の日です。西向く侍の侍ですから。で、このエントリで700回目。ということで、今後ともよろしくです。ではでは。

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2009年11月27日 (金)

あの〜、その〜

 駒沢大学での講義が終わりました。高先生、学生のみなさん、ありがとうございました。お話をいただいた今年の5月頃は、いろいろと重なっていて、落ち着くまで待っていただいたりしましたので、私としては半年越しのお約束を曲がりなりにも果たすことができて、今、ほっと一息ついているところです。

 講義では、広告とは何かということを中心にお話しさせていただきました。このブログを読んでくださっている方のためにも、学生さんへの補完の意味でも、かいつまんで内容を記しておきますね。

 私は、広告をこのように理解しています。

いろんな人がいるところで
自分のいいたいコトを発信して
そのいいたいコトに注目してもらって
そこにいる人たちに伝えること

 これをもう少し言えば、こんな感じになるでしょうか。

いろんな人がいるところ=メディア
自分のいいたいコト=メッセージ

 いろんな人が集う場所が、つまりはメディアと言われるものの内実です。だから、インターネットというものはインフラではあるけれどメディアではありません。しかし、このブログも、あなたのブログも、小さな小さなメディアです。

 そのメディアにメッセージを乗せて、いろんな人に見てもらうこと。その要件を満たせば広告です。そのメディアの多くは自分のものでもいいし、他人のものでもいい。多くは他人のものであるけれど、それは単に、パワーメディアの多くは他人のメディアであるから、というだけの理由です。

メディア × メッセージ

 それが広告の力を示すもので、そのどちらが弱くても、純粋にかけ算なので、どちらも等しく広告の力に影響を与えます。これは広告実務をやっている方には、よくわかる話ではないのでしょうか。いくらすぐれたクリエイティブでも、乗せるメディアが貧弱だと駄目だし、いいメディアに乗せることができても、クリエイティブが駄目なら駄目なんですね。

 この道理は、きっといくら時代が変わっても変わることはありません。また、この考え方は、きっと派閥とか流派のようなたぐいの話ではないだろうと思います。だから、時代の変化に即して、この軸で考えていけばいい。そんなお話をしました。これは、ほんとは自分に向けて話していることでもあるんですよね。

 とまあ、せっかくですので、講義内容を書き起こしてみましたが、マイクで話す自分の声を聞きながら、ああ、なんかしゃべりがヘタだなあなんて思いました。あの〜、その〜、ばっかりなんですよね。やになっちゃいました。後半は意識して、あの〜、その〜をなくすようにしましたが、学生のみなさん、ほんと失礼いたしました。ま、こういうエントリも書いているくらいなんで、大目に見てくださいな。

 学生さんから、いろいろリアルな質問をたくさん受けて、すごく刺激を受けました。びっくりしたのは、学生さんたちは、今という時代の空気をきっちりつかんでいるんですよね。もしかすると、それは、実務経験の長い私たちより鋭敏なのかもしれません。

 ある学生さんから、紙の広告はこれからどうなるんですか、という質問を受けました。私は、現状の説明と、どうなるかは私にはわからないと答えました。紙の広告というと、主に新聞広告だと思います。答えになっているかどうかはわかりませんが、かつて私はこんなことを書きました。少し長いですけど、引用します。

 なんとなく思うのは、このまま紙媒体の苦戦が続くと、ネットでのニュース配信はいつか有料に移行するかもな、ということですね。ネットの新聞サイトの広告は、他のポータルへの配信も含めて、PVでも広告媒体の量でも価格でも、わりと飽和点に来ているのではないかという印象を持っています。となると、今のようなネットの新聞サイトは今のままで持ちこたえられるのかな、と思ったりします。ブログを書く一個人としては、リンク切れをよく起こす新聞サイトは、もっともっとネットにパーマリンク付きのアーカイブとして保存する方向でがんばってほしいとは思いますが、企業としてはどこかに収益を求めないとやっていけないはずで、その意味合いで、私は朝日新聞の赤字転落というニュースを受け止めました。

 私は、仕事柄もあり、新聞を含めた広告メディアを観測していますが、新聞の崩壊がもしあるとすると、それがネットに入れ替わるという意味合いではなく、折り込み広告を含めた、現状においてもネットよりも広告効率のいい巨大メディアがパンクしてしまうという意味合いだと思います。カテゴリーにもよりますが、現状においてもなお、ある程度の広告プロモーションを実施するときに、新聞は、きめ細かくて格段に効率がいいんですよね。つまり、ネットは代替にならない、というか。今のところ、そんな印象です。

 それは同時に、本格的なマスの終焉を意味するのかもしれませんし、それともマスはダウンサイジングしていって、社会が要請するある適正値に落ち着くのかもしれませんが、どちらにしても、大きな社会の転換期に来ているのは、間違いはなさそうな気がします。これからどうなるかを予測するのは、思いのほか難問な気がしています。

都道府県別シェアから見た広告メディアとしての新聞

 やはり、ここでも難問と書いていますね。今、海外と歩調を合わせるように、日本の一部の新聞社でも、ネットのニュース配信有料化の動きがあるようです。そうなると、きっと紙の優位性がでてくるとは思うんですよね。ネットは無料であるからこそ、紙に対しての圧倒的な優位性があるけれど、やはりネットメディアは紙メディアの代替にならないというのが、今のところの私の実感です。今後のユビキタスの進展次第でわからないところはありますし、そのネット有料化を大衆が支持するかも不透明ですが。

 この講義は、私にとっては、やってよかったです。個人的な話になりますが、いろいろ考えが整理されましたし、あのあと、いろんな小さな出来事があり、どういう理屈かはわかりませんが、分断されているような気がしていたこれまでの経験と今が、少しだけつながったような気がしました。

 それと、ブログをやっていてよかったなと思います。世の中には、3つのモードがあると思います。プライベート、コミュニティ、ソーシャル。コミュニティの領域では、上司、部下、先生、生徒というふうに、非対称の関係があります。それが道理です。しかし、ネットがつくった公共性のあるソーシャルな空間では、ある程度、人はいい意味でフラットになれるのではないか、という実感が、今回はすごく持てました。直接の出来事というのはないけれど、なんとなくそんな気がしたのです。

 本当にどうもありがとうございました。就職活動中の方も、就職が決まった方もいたようですが、また機会があれば話しましょう。

 追記:

 なぜ欧米にはないCMプランナーという職種が日本あるのか(欧米ではCMもCD、AD、Cのチームでつくるのが普通)という理由は、このエントリを読むと参考になるかも。

 広告代理店って、何を代理しているのだろう。(1)

 要するに、日本では広告がありメディアがある、ではなく、メディアがあり広告がある、という歴史があったからなんですね。日本の広告は、そういう文化で発展しました。

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2009年11月26日 (木)

せっかくだからインタラクティブに

 今週の金曜日に、駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ(GMS)学部の講師である高先生のお誘いで、講義を行うことになりました。とはいいつつ、私は研究者でもありませんし、学生さんたちのためになる話ができるかはわかりませんが、一生懸命話しますので、講義に出席される駒沢大学の学生のみなさん、どうぞよろしくです。

 さてどんなお話をすれば学生さんにためになるかな、と考えながら、パワーポイントでコツコツとスライドをつくっているのですが、大切なことをひとつ忘れていました。そう。私はブロガーでもあるんですよね。というか、そもそも講義のお誘いをいただいたのもこのブログを通してでした。

 だったらこのブログを講義に使ってしまおう、ということで、質問を募集します。

 過去のブログエントリに書いていたあの部分、いったいあれはどういう意味、とか、あの部分は私は違うと思います、などなど、もし学生さんがこのブログを見ていたら、ぜひぜひコメント欄にてお寄せください。このエントリのコメント欄でも、他のエントリのコメント欄でも大丈夫です。もちろん、ブログに関係ないことでもかまいませんよ。

 それと、このブログはコメント欄が承認制(管理画面で私だけが読めて、そのあと私が公開するシステムです)ですので、質問が公開されるのはちょっとという方は「公開しないで」と明記していただいたら公開されませんので、お気軽にどうぞ。

 前に、はてなブックマークにていただいたコメントに答えたエントリを書いたことがあるのですが、例えばこんな感じのことをリアルにやれればいいなあ、と思っています。

 それにリアルだと、そこからオンタイムで広がるかもしれないし、私もブロガーだし、みなさんはGMS学部なんだし、せっかくだから、インタラクティブにいきましょう。

 あと、就職活動をしているみなさんに本のご紹介を。去年出た本です。「続・働く理由 99の至言に学ぶジンセイ論。」という本があります。戸田智弘さんが書かれました。私のブログからも引用されています。「お疲れ様です。」というエントリです。

 仕事って、若い時はどうしようもなく自己実現というような、自分の中で完結することばかりに目がいってしまいがちですが、実際の仕事って、いろいろなつながりによって成り立っています。私も、そのあたり、今もなおいろいろ反省するところがあるのですが、ほんとつながりとか関係とかは、仕事ではすごく大事。そういうことを教えてくれる本です。この本はとてもいい本でした。おすすめです。

 自分が就職活動のときって、どんなんだったかな、なんて考えるのですが、私の場合は、そのあたりはあまり考えてなかったなあ。たまたまCI会社に入って、成り行きで広告の世界に移り、いろいろなご縁をいただき今に至るという感じでした。正直、学生のときは広告なんてあまり興味がなかったし、そんな私が考えた広告まわりのことを、今考えていることも含めて、なるだけ正直にいろいろお話できたらと思っています。

 では金曜日、みなさんとお会いできることを楽しみにしています。

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2009年11月25日 (水)

3文字の違い

 中野サンモールの脇にある商店街を歩いていると、キャバクラの客引きのお兄さんたち。いつもは華麗にスルーなんですが、思わず足を止めそうになった言葉を投げかけたお兄さんがいました。

 「あえて、コスプレキャバクラ、どうですか。」

 あえて。

 あえて、かあ。この「あえて」という3文字はとっても効いていますね。いい。SEIYUに寄ろうと思ってたけど、ここはあえてコスプレキャバクラ、なんてことを一瞬思いましたもの。でも、キャバクラには行きませんでしたけどね。

 そう言えば、この通り、ここ最近は客引きが増えてるような気がします。不況だからなんでしょうね。

 不況だと、接待とかの仕事がらみでのお客さんも減るだろうし、常連さんも少し控えるようになるんでしょう。で、新規のお客さんを取り込まないといけなくなって、客引きが増える。客引きが増えると、ライバルが増えるので、「お兄さん、キャバ、いかがですか。」というような普通のフレーズでは客が取り込めなくなって、いろいろ工夫が必要になる。

 そんなこんなで「あえて」という3文字が出てきたんだろうなあ。それにしても、「あえて」という言葉は考えましたよね。いろんな意味にとれるものねえ。

 最近は儲からないけど、こんなときこそ、あえて…
 その手のものは興味なかったけど、人生勉強で、あえて…
 真面目真面目の人生だけど、ここらで、あえて…

 それぞれの人生とか生活とか、そんなこんなの個別の事情にうまく入っていける言葉ですよね。この「あえて」という言葉を思いついたお兄さんは、きっとそのあたりの想像力とかセンスがある人なんだろうなあ。こういうアイデアが出てくるのは、こんな時代だからこそなんでしょうね。調子がよかったら、こんな工夫はしないですみますもの。

 なんか、がんばらないとなあ、と思ったなあ。いろんな意味で。

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2009年11月13日 (金)

ある日の雑感

 いろんな本を読む。手当たり次第読む。無節操に読む。

 当たり前のことではあるが、世の中にはまだまだ知らないことがたくさんあって、知らないことを知ることで、いろいろと、考えたこともないことを考えるきっかけになるし、新しいことが入ってくることは、この年ではきつい部分があるにはあるけれど、それはきっとありがたいことでもあるのだろう。

 世の中は、私が考えるより、もっともっと広いということだ。それにしても、広いよなあ、広すぎるよなあ。

 山手線の車中、とある本を読んでいたら、高橋和巳さんが亡くなったのが三十九歳だったとの記述があって、もうすでにその年を超えてしまっているんだなとぼんやり思う。昔読んだ高橋さんの著書が、今の私より若いときに書かれたものなんだなと思うと、なんとなく、しっかりしなきゃなあ、なんて柄にもないことを考える。

 なるだけ真っ白なまま吸収していきたい。限界はあると思うけど、なるだけね。そのうえで、今まで考えてきたことが間違いではないと思えるなら、その残ったものだけが自分のものなのだろう。それだけ持っていれば十分な気がする。それでもけっこうな重さになるだろうけれど、軽やかに歩いていくには、持ち物はなるだけ軽いほうがいいだろうから。

 山手線を降りると、雨が小雨になっていた。傘を買わなくても大丈夫そうだ。少し早歩きで渋谷の雑踏を行く。重い鞄を提げて青山まで坂道を上ると、少し汗ばんだ。

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2009年11月 8日 (日)

こういう話を読むと、本能的に構えてしまうのはなぜだろう。

 ネットでコピペされ続けている有名な話。ものすごい数のサイトに引用されていますので、これ読んだことがあるわ、という人も多いのではないでしょうか。ハーバード・ビジネス・スクールというところがミソなんでしょうね。皮肉が効いていますよね。
 

メキシコの田舎町。
海岸に小さなボートが停泊していた。
メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。
その魚はなんとも生きがいい。
それを見たアメリカ人旅行者は、
「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」
と尋ねた。

すると漁師は
「そんなに長い時間じゃないよ」
と答えた。旅行者が
「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。
おしいなあ」と言うと、
漁師は、自分と自分の家族が食べるには
これで十分だと言った。

「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」
と旅行者が聞くと、漁師は、
「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。
戻ってきたら子どもと遊んで、
女房とシエスタして。
夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、
歌をうたって…ああ、これでもう一日終わりだね」

すると旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。
「ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得した
人間として、きみにアドバイスしよう。
いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、漁をするべきだ。
それであまった魚は売る。
お金が貯まったら大きな漁船を買う。
そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。
その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。
やがて大漁船団ができるまでね。
そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。
自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。
その頃にはきみはこのちっぽけな村を出て
メキシコシティに引っ越し、
ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。
きみはマンハッタンのオフィスビルから
企業の指揮をとるんだ」

漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」
「二〇年、いやおそらく二五年でそこまでいくね」
「それからどうなるの」
「それから? そのときは本当にすごいことになるよ」
と旅行者はにんまりと笑い、
「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」
「それで?」
「そうしたら引退して、
海岸近くの小さな村に住んで、
日が高くなるまでゆっくり寝て、
日中は釣りをしたり、
子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、
夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、
歌をうたって過ごすんだ。
どうだい。すばらしいだろう」

 
 まあ、すべてがそうだとは言わないけれど、上記の派閥にありがちな無邪気な拡大・効率信仰に対しては、こういう、そもそもその事業の目的って何、その目的を果たすためには、拡大や効率化以外のやり方もあるでしょ的な話でもあるし、ある種の生き方論でもあるだろうから、この小話を読んで、そうだよねえ、そのとおりだよねえ、と言ってしまってもいい気もするけれど、この話の暗示する教訓めいたものに乗るのはちょっとなあ、とも思います。

 メキシコ人の漁師さんにしても、家族が病気になったりすることもあるだろうし、そうなれば、ある程度の蓄えがなければ駄目だろうし、不漁の年もあるだろうし、それだけいい魚がとれる場所なら、他の漁師が黙ってないだろうし。きっと、生活の詳細を見てみると、そんな牧歌的なことばかりではないはず。

 MBAの人も、それだけのアイデアがあれば、自分がビジネスにしようと思い立つだろうし。旅人としてその地を立ち去ってはいかないでしょう。MBAの人の論にそえば、目的は同じでも、その拡大によって、富が生まれ、たくさんの雇用を創出し、みたいなことも言えるわけだしね。意義あることだよ、みたいな。

 きっと、話が単純化されすぎているからなんでしょうね。だから、ちょっと構えてしまうんでしょう。

 で、ほんとは、そういう、あらゆる可能性を考えたうえで、そのメキシコ人の幸せな暮らしを維持するにはどうすればいいんだろう、という話が大切なんだろうと思うんですね。そのとき、もっともっと、と考えるやり方をするのか、それとも、これでいい、これを維持することがいいことなんだ、と考えるやり方にするのか。そこは、これからの社会が、というか、これから私がどういうふうに考えていくかにつながる問題のような気がします。けっこう難しいです。悩みます。

 これまで自分が培ってきたものが十分に活かせて、それなりに私の仕事をありがたがってくれる人がそれなりにいて、その仕事が世の中のためになっている、みたいな社会性がちいさくても感じられて、その仕事で、それなりにいい気分で暮らしていけるなら、別に天下をとるとかそんなことでなくてもいいと思うし、それは、まあメキシコ人の漁師と同じ気持ちではあるだろうけど、そのためには、MBAの人の考える何百分の一かのことは考えないと成り立たないのだろうな、と。

 つまり、今、私の考えるいい感じというのは、メキシコ人とMBAの人の中間くらいのところにあるような気が。まあ、そう考えると、毎度おなじみのバランス論になってしまうんですけどね。でも、このところ、バランスっていうのは、ほんと大事だよなあ、と思います。というか、どこらへんでバランスするか、っていうのが現実が求める思考なんだとも思うんですけどね。

 そんないいバランスで生きていけたらなあ、と最近はすごく思います。

 調べてみると、もともとは「なぜ、あなたはここにいるの?カフェ」という変わった名前の本に収録されていたようです。読んではいませんが、アマゾンのリンクを辿ってみると、自分らしい生き方とは何だろうと問いかける本のようです。

 いろいろと愚痴ってしまいましたが、でもまあ、ユーモアがあって、きちんとオチがあって、いい話ではありますね。いろいろ考えさせられるし。

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2009年10月24日 (土)

あまりのインパクトに見落としていたけど

 ダイソンの羽のない扇風機「エアマルチプライアー」。ネットやテレビのニュースを見て、みんな驚いたのではないでしょうか。私も驚きましたです。

 でも、よくよく考えると、これから冬になろうとする10月に発表されたんですよね。それって、扇風機がいちばん売れないときじゃないですか。確かに、時期なんか関係ないくらいインパクトがありますけど。

 まあ、そういうところがダイソンらしいです。いいです。とってもすてき。

 「こんなんできた。すごい。オレたちって、すごいよね。きっと、みんな驚くよね。今、秋で、もうすぐ冬だけど、べつにいいんじゃないですか。これは、時期なんか関係なく、いますぐ発表しなきゃだめでしょ。」

 きっと、そんな感じだったんでしょうね。マーケティング的にはありえないでしょうけど(もしかすると、これ、新しいマーケティング?)、そういう感じ、大好きです。

 それと、もうひとつ。エアコン全盛の時代に、扇風機だものなあ。こんなにハイテク。なのに、扇風機ですよ、扇風機。

 自由だなあ。ほんと、ダイソンって自由。

 

 追記:
 こういうニュースが。30年前に出願されていたそうです。
 
http://slashdot.jp/yro/09/10/22/1218235.shtml

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2009年10月23日 (金)

過去は地続きで現在でもある

 ひとりの著者の過去のいくつかの作品をつらつらと読みながら、そんなことを思いました。

 SFではないけれど、一時的に人体を凍結でもしない限り、過去は必ず現在に続いています。たとえば、私たちは、3時間前を現在と認識することもありますよね。いや、それは過去だと言う人もいるかもしれません。では、3秒前はどうか。いや、それでも過去だとするなら、人は現在を認識することができないということにもなります。厳密に言えば、知覚はリアルタイムではないはずだから。

 現在という概念がどこまでを現在とするかということだとすれば、現代の範囲を拡張していけば、過去は現在と言ってしまってもよいことになります。ということは、過去もまた現在なのだ、という言い方もできるはずです。

 かつて、ランドサットの衛生写真のような、無限上方からの映像視線を、かつて吉本隆明さんは「ハイ・イメージ論」で「世界視線」と言ったけれど、現在を起点に、無限の過去を現在と地続きに見る視線もまた「世界視線」と言えるのかもしれません。というか、後者の視線は、ずいぶん前から人類が獲得していたものだと思うので、前者の視線は、後者の視線から着想を得た概念だろうとも思うのですが。

 人類の精神の営みの歴史から現在の精神を語る方法は、Google mapの衛生地図から都市を語ることに似ているのかもしれません。その方法が必然的に都市に住まう人々の感情のリアリズムを取りこぼしてしまうことを含めて。

 そこが、いわゆる知識というものの持つ弱点なのかもしれません。「ハイ・イメージ論」から20年ほど経って、名実ともにウェブというテクノロジーで「世界視線」を獲得してしまった普通の人である私たちもまた、知識人が持つ弱点と同じような弱点を持ち合わせてしまっているのかもしれません。いい悪いを含めて、そうした視線を手にしまった以上、表現というものの何かが変容したのは、ある程度は事実なのだろうと思います。

 あの頃、よくわからなかった「ハイ・イメージ論」は、今読むと少しわかるような気がします。それは、現在から、過去を現在として見られる読者の特権なのでしょうけど。まあ、それでも、私には難解なのには、今も昔も変わりはないけれど。

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