思想家の吉本隆明さんが生前よく言っていた言葉に「死は自分に属さない」というものがあります。確か、湘南で海水浴中に溺れた後、目や体を悪くして、その際に読書や文筆に支障を来し、これからの人生をどうしようかと思い悩んだ末、辿り着いた結論だったと思います。簡潔に言えば、生きている意味がない思っていたけれど、やっぱり生きようと思ったということです。死は自分に属さないのだから、生きているうちは生きるにまかせるしかない、それが生きることだ、ということですね。
吉本さんは文芸批評家でもあるわけだから、自死を積極的に否定するようなある種のヒューマニズムや、生きることこそ素晴らしいといった狭義の思想から導き出された言葉ではなく、生と死を突き詰めた、吉本さんなりの原理的思考から導き出された言葉であると私は理解しています。
七月の末、私は父を亡くしました。その死は、想像以上にあっけないものでした。
父は糖尿病を患い、随分前からインスリンを打っていましたし、糖尿病の合併症から片目と片耳が機能しなくなっていて、そのうえ、初期の肝硬変も患っていました。こうして言葉にすると満身創痍ですが、日常生活はそれほどでもなく、毎日健康に気をつけながら、認知症、摂食障害、腎不全で寝たきりになって、数年前から入院している母のお見舞いが毎日の日課という感じの生活を続けていました。母が病に倒れ、父も弱ってきてからは、私も週に一度は父に電話で連絡を取り、一ヶ月に一度は大阪に帰っていて、この年になって親と会い、一緒に飯を食い、テレビを見ながらおしゃべりをするようになって、まあ、体が悪くなったのは不幸ではあるけど、こういう状況にならなきゃめったなことでは大阪に帰るなんてしなかっただろうし、ものは考えようだなあ、なんて思っていました。
一ヶ月に一度、大阪に帰るようになった理由として父に伝えていたことは、病床の母のお見舞いでした。本音では父に会いにいく、という理由もあったけれど、本人には一度も言ったがないし、東京大阪間は新幹線で三万円くらいかかるので、それを言えば、「もったいない。そんなためにわざわざ帰ってくるな。そんなんやからおまえはいつまでたってもお金がたまれへんねん」と言われるのがおちでしたから。どこの親も、男親はこんな感じなんでしょうね。
数年前、父は一度だけ泣いたことがあるそうです。私にではなく、私の妹に電話口で泣いたそうです。母がおかしくなったとき妹にめったにかけない電話をして、「もうどうしていいのかわからへんねん」と泣きじゃくっていたそうです。私もその後、大阪に帰り、そのときにはじめて母の病状を知りました。躁うつ病を患っていたこと、数日前からうつ状態から躁転していたこと。東京で仕事をする私に心配をさせたくなかったから言わなかったということでした。
その後、母は入院するのですが、その後は、母の転院や特養への入居などの件で、結構な苦労を父とともにしてきて(ほんと、いろいろ苦労するんですよね。国や公共団体の制度としてそのあたりはハードルを上げなきゃ制度が破綻するからしょうがないのでしょうけど、いろいろあります。そのあたりのことは、ほんの少しですがこのブログにも書いてきましたので、よかったら
そちらをご参考にしてください)、父とは共闘する仲間のような気分にもなっていました。これは、父の死を基準にして見られる今となっては、私の親子関係にとっては、本当に幸運だったなあと思います。
父の死があっけなかったと冒頭に書きましたが、その一方で父の死が近い将来やってくることも意識はしていました。ちょうど去年の今頃だったと思います。低血糖で昏倒し救急車で運ばれたのですね。それまでも、低血糖で倒れることは何度もあって、その度ごとに救急車で運ばれたりしたのですが、そのときは、ちょっと程度が違いました。
テレビ画面の左端に、8:35というテロップが焼き付いてしまったいるので、低血糖で倒れて暴れまくったのがたぶん朝8時すぎで、父が血だらけで倒れているのが発見されたのが午後三時過ぎ。救急車が来たときにはその部屋の惨状に殺人事件かと思ったそうです。集中治療室に入ったときには、医師から「奇跡的に命は助かりましたが、脳に障害が残ることを覚悟してください」と言われ、もしかするともう駄目なのかもしれないと思いました。東京から大阪に戻り、血だらけでものが散乱した部屋の掃除を、血生臭さで吐きそうになりながらなんとか済ませ、病室に行ったときには、全身に包帯に巻かれた姿で「なんや、帰ってきたんか。大げさな。」と言っていました。意識を失っているわけだから、暴れたことや苦しんだことは記憶に残っていないんですね。幸い脳に障害もなく、一ヶ月ほどで退院しました。
そんなことがあったものだから、死は意識していたし、本人もそれからは「もしかすると、もう駄目かもしれんなあ。わしも長ないから覚悟しとけよ」と言ったりしていました。七月の末、九十八歳になる父の母、私から見ると祖母が亡くなりました。父が喪主を務め、私は父の補佐をしました。そのときも「おばあさんは看取れたけど、おかあさんはもしかしたら看取れんかもしれんなあ」と言う父に「そんな縁起でもないことを言うなや。ほんまに」と返したり、弱気にはなっていたとは思いますが、次にやってくる満中陰法要に向けて、まあそれなりに元気にやっていたんですよね。
もうすぐ祖母の法要だからと東京から父に電話をしました。「来週の木曜に帰るから」「なんでそんなに早いねん」「まあ、いろいろやることあるやろから、早いにこしたことないやろ」みたいな会話をしました。日曜の夜でした。それが、父との最後の会話でした。
翌朝、ゴミ出しをしたあと、マンション一階のエレベーターホールでちょっとふらつき、管理人さんに大丈夫ですか、と声をかけられ、いや大丈夫、大丈夫とエレベーターに乗り、十一階に着いてエレベーターを出たとたんに倒れたとのことです。救急車がやってきたときには、すでに心肺停止状態で、状態から言って、倒れてすぐ意識を失っていとのことでした。医師によると、今回は、低血糖ではなかったそうです。インスリンの単位を下げていたので、むしろ高血糖状態でしたし、結局、司法解剖はやらずに済んだので死因は正確にはわかりませんでしたが、たぶん心不全による急死なんでしょう。
私が大阪に着いたときにはすでに父は死んでいました。病院で運ばれ、妹が見守る中、心臓マッサージを続け、心臓は再び動き続けていたのですが、脳はすでに膨張し、強いマッサージで肋骨が折れ、内臓が破裂する状態だったので、私の到着を待たずにマッサージを中止したとのことでした。妹は「ごめんな、お兄ちゃん。でも、これ以上やるのは、お父さんがかわいそうやってん。かわいそ過ぎるねん」と泣いていました。病院で父に対面し、その遺体を見ると、ヒゲはきちんと剃られていましたし、身なりもきれいでした。そして、何よりも、顔がすごく穏やかだったんですね。
そのとき、私の思ったことを正確に言えば「ああ、生きる気満々やったんやなあ」というものでした。生きる気満々、という表現は故人に対してちょっと不謹慎かとは思うけど、そのとき、浮かんだ思いは、まさにこの言葉でした。父は生きる気満々だった。少なくとも、しばらくは生きていく気満々だった。だから、息子としては、もう少し生きてほしかったし、親孝行ももう少ししたかった。
でも、そんな私の気持ちに関係なく、そして、生きる気満々だった父の意向にも関係なく、ただただ冷たくなった穏やかな顔がそこにあって、ああ、これが死というものなんだな、と思うしかありませんでした。
当たり前の話ではあるけれど、生きている人間は、自分の死を実感することはできないんですよね。もうちょっと言えば、生きている人間は、自らの死を所有することはできない、という言い方になるのかもしれません。死にたい、という言葉は、原理的には、これ以上生きていくのはつらい、ということになるだろうし、死をもって償う、という言葉や、自らの死を課す、という言葉は、むしろ、生きている私の誠意や尊厳に関わる言葉であるのでしょう。そこで語られる死という言葉は、生の究極表現としての死です。こう書くと、決して自らが所有したり、味わったりできない自らの死の魅惑的な部分を誘発してしまいそうな気がしますので、もっともっと正確に書けば、自らが語る自らの死は、生の究極表現としての死に過ぎない、と言うべきなのでしょう。
たぶん、宗教思想、宗教哲学という言い方を除く意味での思想、哲学の領域では、つまるところ「死は自分に属さない」という定義が終点なんだろうという気がしています。そして、その終点を境として、思想、哲学と、宗教が別れていくのでしょう。自分に属するものとして死を扱う限り、そこに生を超えた絶対的なものを置かなければ成り立たないと思うんですね。死につつ、その死を所有し生きる、という絶対的な場所がなければ、そうした考えは成り立ちません。それは、神の国だったり、浄土だったりするのだと思います。
そういう場所さえ設定できれば、生きながら、人は死について考えを及ぼせる、今まで限界だった死という思考の終点を超えることができる。その人の死について考える、今、生きている人たちの思いに答える考え方を提示できる。さらに、今、世界で起こっている困った事象として、他人の死についてまで、その絶対的な場所から半ば所有しているかのようにコントロールできる。世の中の、宗教的な思考や行為の体系には、その始まりに、この、生を超えた絶対的なものを無理やり設定する、という、今の言葉で言えば、ブレイクスルーやジャンプがかならずあったのでしょう。
通夜、告別式の中で、葬儀会社の葬儀司会者の方が「仏教では、死は二つあると考えます。一つは、肉体の死。もう一つは、魂の死です。故人のことを思い続ける方がいる限り、魂は生き続けます。思う人がこの世にいなくなったとき。それが本当の死です。ですから、本日はお父様のことを思う存分話してあげてください」とおっしゃっていて、それは素敵な言い方だと思いました。仏教がそういう考え方を本当にするのかどうかは私にはわからないけれど、その考え方は、祖母の葬儀からすぐに父の葬儀の喪主を務めることになり、少し気が動転しているあの状況の私にとっては救いにはなりました。
きっと、宗教思想が希薄な日本の社会の中で、日常から人の死を扱う葬儀会社が、その折り合いをはかるために見つけた言い方なのでしょう。狭義の思想、哲学は、あらゆる宗教思想から独立した、言わば究極の世間知であると私は考えているのですが、その「死は自分に属さない」という考え方にも馴染む考え方のように思いました。そして、もうひとつ思ったことは、「死は自分に属さない」という言い方をひっくり返すと「死はその人に関わる人に属する」となりますが、その「死はその人に関わる人に属する」という原理の中で、魂といった宗教的なニュアンスを少しでも自分の考えに入れなければ、生きている人はちょっとやってられないものなのだなということでした。
病床の母のこともあり、父の死によって、私が生きていく環境は大幅に変わっていくだろうし、その変化に、今、ほんとこれからどうなるんだろうなあ、うまくいくかなあ、とか思ったりするし、その変化に向けて、うんざりするほどやることがあるのだけれど、なんとなく「死は自分に属さない」あるいは「死はその人に関わる人に属する」という言葉は、でもまあ、なんとかなるっしょ、だって、それが生きていくことなんだもん、というような気にもさせてくれます。
今は自分に向けて、ま、これからいろいろあるだろうし、うまくいかないこともあるだろうけど、がんばれや、という言葉をかけてあげたいなあと思います。ほんと、自分に向けた言葉ばかりの文章ですが、読んでくれた方は、どうもありがとうございました。この文章が、ほんのちょっとでも誰かの助けになりますように。