広告屋としてのらもさん
今思うと、時代の先を行き過ぎていたようにも思います。時代がやっと追いついてきたかもな、とも思います。
広告屋としての中島らもさんの代表作である「啓蒙かまぼこ新聞」と「微笑家族」。前者は宝島、後者は今はなきプレイガイドジャーナルに掲載されていました。クライアントは、かねてつ食品(現カネテツデリカフーズ)。これを許したクライアントも度量があると思うし、得意先、広告制作者、媒体社、そして読者が一緒になって楽しんでいる感じが出ていて、ほんといい仕事だなあと思います。
まずは、若い世代は広告なんて真面目に見ないよ、裏もわかってるよ、という前提があって、広告なんて見てもらえないんだから広告じゃない広告にして、とにかく楽しんでもらいましょう、ということなんだろうと思います。カタチは普通の広告とはまったく違うけど、目的は同じ。企業やブランドに好感や関心を持ってもらいましょう、ということ。そういう意味では、きわめてまっとうな広告なんだと私は思います。
私は、手法的には、ど真ん中ストレートが好き。それが得意だと自分で思うし。だから、まっとうな広告だとは思うけど、手法が反広告的ならもさんのつくった広告のようなものはあまりつくってきませんでした。つくってきた広告は、どれも、もっともっと広告らしい広告。けれども、広告らしい広告をつくるときに、いつも頭にあったのは、このらもさんの広告でした。直球を投げるなら、これを超えないといけない、みたいな。
中島らもさんとは違って、私は、広告というものは、手法も含めて普遍的なものとして考えています。だから、こういう反広告的な広告を自分の手法にはしていません。きっと、性格がどうしようもなく真面目なんだろうな、私は。ある意味、不真面目とも言えるかもですが。まあ、しゃあないです。
でも、だからこそ、反広告的な広告がもたらす効果を、広告らしい広告は超えなければいけない、とも思ってきたんですけどね。広告が効かない時代。そんな言い方が単なる言い訳になるような、今の時代でも、ああ広告っていいよなあ、と思ってもらえるような広告をつくりたい。みんなが広告だとわかって、それでも親しまれ、好感を持たれたり、納得してもらえたりする広告をつくりたい。
それと、広告に求める役割がある程度の大きさを超えると、社会性みたいなものが求められると思うし、その社会性というものは、脱構築的な広告というか、広告の解体みたいなものでは応えられないような気がします。解体しきった環境の中になお残る、広告のプリミティブな力こそが必要で、それは、わりと時代に影響されない普遍性を持った形式だとも思います。このあたりが、このブログでずっと書き続けてきた、私の変わらないこだわりです。このへん、もっとわかりたい。
だから、ブログでなんだかんだ言っているわりには、私のつくってきた広告は、わりとヒットした広告にしても、新しい手法を求める広告関係者が見れば、ちっとも新しく見えないだろうし、でもまあ、それはそれでいいのかな、とも思います。つくった本人は、ここが新しいねん、みたいなことは思うけど、でもそれはキャッチーな新しさではないし、ほめられにくいので、ほんの少しさみしくはあるけれど。
これから、いくつの広告をつくれるかはわからないけれど、こういう広告はきっとこれからもつくらないと思います。それは、私がやらなくてもいいだろう、とも思うし、他の誰かがもっとうまくやるだろうし、こんなメディア多様化の時代だからこそ、やれるとも思うんですよね。どんどんやってください。こういう流れは、今の広告の停滞を変えると思うし。コミュニケーションデザインやバズマーケティング、行動ターゲティングだけが新しい広告ではないとも思うしね。
それにしても、ちょっと前までは、こういうことは思わなかったですね。昔は、あっ、いいな、つくりたい、になってたんですけどね。キャリアを重ねて、自分のことが、いいも悪いもわかってきた、ということなのかな。それに、自分とは手法が違っても否定はしないようにもなってきました。大人になったってことかも。
でも、あんまりこういうことは言わないほうがいいかも、なんてことも思います。もしかすると、気がかわってつくるかもしれないし。でもまあ、このやり方だと、らもさんみたいにうまくはつくれないだろうなあ。結局、負けるとわかっている試合はすすんではやりたくないっていう、せこい心情なのかもしれないなあ。まあ、人間なんだし、いろんな人がいるわけだし、それでいいとも思ってますけどね。
最後にどうでもいいけど、2年前、こんなエントリを書いてました。私にとってらもさんは、そんな感じの人です。リリパットも見たことないし、小説もあまり読んでないし、あまりいい読者ではなかったかもなあ、です。
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お見事。ナイスです。たかがネーミングですが、こういう商品がこんな素敵なネーミングをまとって世の中に出ることで「大阪市って、最近いい感じだよなあ。」みたいなブランド広告にもなるし。この「ほんまや」の場合は、たぶん広告をやっていないのでしょうけど、ネーミングが広告として機能するだけの力を持っていますよね。






日本の近代的広告(もしくは広告コピー)のはじまりは
