カテゴリー「広告の話」の123件の記事

2009年11月 2日 (月)

広告屋としてのらもさん

 今思うと、時代の先を行き過ぎていたようにも思います。時代がやっと追いついてきたかもな、とも思います。

 広告屋としての中島らもさんの代表作である「啓蒙かまぼこ新聞」と「微笑家族」。前者は宝島、後者は今はなきプレイガイドジャーナルに掲載されていました。クライアントは、かねてつ食品(現カネテツデリカフーズ)。これを許したクライアントも度量があると思うし、得意先、広告制作者、媒体社、そして読者が一緒になって楽しんでいる感じが出ていて、ほんといい仕事だなあと思います。

 まずは、若い世代は広告なんて真面目に見ないよ、裏もわかってるよ、という前提があって、広告なんて見てもらえないんだから広告じゃない広告にして、とにかく楽しんでもらいましょう、ということなんだろうと思います。カタチは普通の広告とはまったく違うけど、目的は同じ。企業やブランドに好感や関心を持ってもらいましょう、ということ。そういう意味では、きわめてまっとうな広告なんだと私は思います。

 私は、手法的には、ど真ん中ストレートが好き。それが得意だと自分で思うし。だから、まっとうな広告だとは思うけど、手法が反広告的ならもさんのつくった広告のようなものはあまりつくってきませんでした。つくってきた広告は、どれも、もっともっと広告らしい広告。けれども、広告らしい広告をつくるときに、いつも頭にあったのは、このらもさんの広告でした。直球を投げるなら、これを超えないといけない、みたいな。

 中島らもさんとは違って、私は、広告というものは、手法も含めて普遍的なものとして考えています。だから、こういう反広告的な広告を自分の手法にはしていません。きっと、性格がどうしようもなく真面目なんだろうな、私は。ある意味、不真面目とも言えるかもですが。まあ、しゃあないです。

 でも、だからこそ、反広告的な広告がもたらす効果を、広告らしい広告は超えなければいけない、とも思ってきたんですけどね。広告が効かない時代。そんな言い方が単なる言い訳になるような、今の時代でも、ああ広告っていいよなあ、と思ってもらえるような広告をつくりたい。みんなが広告だとわかって、それでも親しまれ、好感を持たれたり、納得してもらえたりする広告をつくりたい。

 それと、広告に求める役割がある程度の大きさを超えると、社会性みたいなものが求められると思うし、その社会性というものは、脱構築的な広告というか、広告の解体みたいなものでは応えられないような気がします。解体しきった環境の中になお残る、広告のプリミティブな力こそが必要で、それは、わりと時代に影響されない普遍性を持った形式だとも思います。このあたりが、このブログでずっと書き続けてきた、私の変わらないこだわりです。このへん、もっとわかりたい。

 だから、ブログでなんだかんだ言っているわりには、私のつくってきた広告は、わりとヒットした広告にしても、新しい手法を求める広告関係者が見れば、ちっとも新しく見えないだろうし、でもまあ、それはそれでいいのかな、とも思います。つくった本人は、ここが新しいねん、みたいなことは思うけど、でもそれはキャッチーな新しさではないし、ほめられにくいので、ほんの少しさみしくはあるけれど。

 これから、いくつの広告をつくれるかはわからないけれど、こういう広告はきっとこれからもつくらないと思います。それは、私がやらなくてもいいだろう、とも思うし、他の誰かがもっとうまくやるだろうし、こんなメディア多様化の時代だからこそ、やれるとも思うんですよね。どんどんやってください。こういう流れは、今の広告の停滞を変えると思うし。コミュニケーションデザインやバズマーケティング、行動ターゲティングだけが新しい広告ではないとも思うしね。

 それにしても、ちょっと前までは、こういうことは思わなかったですね。昔は、あっ、いいな、つくりたい、になってたんですけどね。キャリアを重ねて、自分のことが、いいも悪いもわかってきた、ということなのかな。それに、自分とは手法が違っても否定はしないようにもなってきました。大人になったってことかも。

 でも、あんまりこういうことは言わないほうがいいかも、なんてことも思います。もしかすると、気がかわってつくるかもしれないし。でもまあ、このやり方だと、らもさんみたいにうまくはつくれないだろうなあ。結局、負けるとわかっている試合はすすんではやりたくないっていう、せこい心情なのかもしれないなあ。まあ、人間なんだし、いろんな人がいるわけだし、それでいいとも思ってますけどね。

 最後にどうでもいいけど、2年前、こんなエントリを書いてました。私にとってらもさんは、そんな感じの人です。リリパットも見たことないし、小説もあまり読んでないし、あまりいい読者ではなかったかもなあ、です。

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2009年10月20日 (火)

ソフトのアップグレードを重ねるたびに、Googleにしたくなる。

 というバナー広告がCNET Japanに出稿されていました。白地にキャッチだけのシンプルなデザイン。クリックすると、「世界で200万もの会社が、すでにGoogleにしています。」と書いてあるページに飛びます。Google Appsの広告。

 まるで広告の教科書のようです。

 際立った商品があって、その価値が新しければ、表現はシンプルになる。だからといって、「これからはクラウドだよね。」みたいなことじゃなくて、きちんと使う人の気持ちの洞察があって、落としどころはイメージではなく事実になっている。きちんとクリエーターが仕事をしている。この広告には、広告の基本がすべてありますね。

 これを広告理論で言えば、こんな感じになります。

 1)Proposition=Google Appsなら管理運用の手間を削減
 2)Consumer Insight= ソフトのアップグレードはうんざり
 3)Facts=世界200万の会社がGoogle Appsを選択

 これは、広告会社や企業によって違いますが、それにしても、このGoogleの広告はきわめて基本に忠実。ある意味で、ストレートすぎるくらいストレートです。でも、これくらい各項目に強い結びつきがあれば、そのままストレートでいくほうが強いのかもしれません。もちろん、Insightの発見が秀逸なのですが。とにかく、これは幸せな広告ですね。時代を表現する最先端の商品があり、届ける側が相当な自信を持っていて、それに応えるクリエーターがいて、奇をてらわずに直球で勝負。

 こういう古典的な広告を、Googleという今を代表する企業が出しているところが面白いと思います。一方では、これまでのオールドスクールな広告環境をテクノロジーで破壊してきた企業とも言えるでしょうし。私は、Googleのやっていることは、きわめて純広的でまっとうなことをやっていると思っていて、破壊ではないとは思うけれど。

 この広告を見て、私は少し希望が持てたんですけどね。まったく新しくないところが新しい。そんな感じがするんですね。どう思いますか。

 (バナーのスクリーンショットの縮小版を貼っておきます。クリックしてもページには飛びませんのであしからず。)

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2009年10月11日 (日)

ネットよりも新幹線のほうがすごい

 大阪から帰ってきました。1泊2日。サクッと行って、サクッと帰れるのは、新幹線があるおかげ。会って、顔を見て、いろいろ話せばいろいろ安心できるし、時代が変わっても、このへんはずっと変わらないだろうな、と思います。

 タイトルの「ネットよりも新幹線のほうがすごい」という言葉は、アメーバニュース編集長の中川淳一郎さんの新書「ウェブはバカと暇人のもの」にあった言葉です。この本、タイトルに少し毒があるけれど、すごくいい本です。基本、新書は繰り返しは読まないけれど、この本は、わりと何度もパラパラと読んでいます。

 ウェブ2.0とか、プラットフォームの時代へだとか、コミュニケーション・デザインとか、いろいろ言われていますけど、この本にあるようなことがベースになるものだと思います。ネットは便利だし、こうして私のような普通の人が、ブログでものが言えて、ブログを書く人たちや読む人たちとささやかなコミュニケーションができているのは、確かにネットのおかげだけど、それでもネットは主語にはならないだろうし、どんな時代だって主語は人でしょ。

 うちの両親も、うちの妹も、ネットをやらない人だけど、それでも何不自由もなく元気に生きているし。私は、リテラシーという言葉があまり好きではりません。それは、以前、「続・リテラシー考」というエントリに書きました。そのエントリに登場する年輩のクリエイティブ・ディレクターのような人を、私は遅れているとは言いたくないんです。それは、うちの両親や妹、それに親しくしているあの人この人を否定することになるから。私にとっては、大切な人だもの。

 ネットよりも電話のほうがすごい
 ネットよりも新幹線のほうがすごい

 人はご飯を食べて体を育て、人と会って友情を培い、勉強をすることによって学校に入り、そこでさまざまなことを学び、学校を卒業することによって社会進出の礎・資格を獲得し、恋愛をすることによって人生にスパイスが与えられ、性交をすることによって快感を得て子どもを作り、仕事をすることによって社会とのつながりを感じ、愛する人に死なれることによって悲しみを覚える。
 私たちの人生、なんとリアルな場の占める割合が多いのだろうか。これら人生の大部分を占める要素にネットはそれだけ入り込めたのか?
 大したことはない。

ウェブはバカと暇人のもの」中川淳一郎(P244〜255より)

 大したことはない。だから、私はブログが好きで、ネットが好き。そこにあるいろいろ含めて、好き。だからといって、これからはネットだとは思ったこともないし、これからも思わないです。そんな考えで、私はこれからもネットにかかわると思うし、それは、他のメディアだって同じスタンスです。

 ここ10年くらいの広告実務の経験から言っても、今も昔もそんなに変わってないと思うんですよ。いいものは広告すれば売れるし、必要がないものは広告しても売れない。ただそれだけ。ネットだって、テレビだって、新聞だって、ただのメディアじゃないですか。ほんとのところをよく知って、必要に応じて、身丈にあわせて、使いこなせばいい。そんなふうに思っています。

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2009年9月20日 (日)

広告って

 広告とは何かとか、これからの広告はどうあるべきなのかとか、そんなむずかしい話じゃなくて、単純に、なぜ私は広告の仕事が好きなのかなあ、なぜなんだろうなあ、という感じのやわらかめのお話です。

 私は、社会人になってから、ということはもう20年ですが、広告をつくるという仕事以外したことがありません。役職的には最初はCIプランナーも経験していますが、まあ、おおざっぱに言えば、これも広告をつくる仕事と言えるのではないかな。

 それに、私は営業という仕事もしたことがありません。広告会社にとっての商品は、広告です。その広告を売るのが営業の仕事だとすると、私は社会人になってから自らを売るという仕事をしたことがないのですね。

 私がずっとやってきたのは、相手がいて、その人の思いに応えるという仕事。つまり、そこに主体がないわけです。だから、相手によって自分はどんどん変わるし、変わるべきだと思うし、というような、ちょっと倒錯ぎみの心持ちで仕事をしてきたような気がします。あるコピーライターさんが、「自分のコピーっていうのはないんです。でも、相手のために書いてきたさまざまなコピーをずらっと並べて、どうしようもなくにじみ出る共通のニュアンスが、クリエイターであるあなたの自分らしさってことではないかな」と言っていましたが、ほんとそう思います。

 かれこれ10年ほど前の仕事ですが、ある百貨店のバレンタインデーキャンペーンの広告コピーを書いたことがありました。

 「うれしいあなたが、うれしい私です。」

 つまりは、そういうこと。広告をつくる仕事っていうのは、そういう仕事なんだと思います。よく言えば、いい人で、わるく言えばおせっかい。それが、広告をつくるということ。それは、弁護士とかお医者さんの仕事に似ています。もしかすると対極にあるのが芸術家なのかもしれません。広告をつくる仕事は、絵とか映像とか言葉とかの芸術的素養をつかってする仕事だから、ややこしい部分もあるのですが。

 今にはじまったことではないけれど、広告をつくる側の利益のための提案というのがあるにはあって、それがここ最近の不景気で目立ってきました。広告をやらしたい、みたいなことですね。ひとつの基準は、今は広告的な施策は必要がないんじゃないか、と提案できるかどうか、もしくは、その方針に心から同意できるかどうか、なんでしょうね。

 でも、そういうことが外部にいるとできにくくなっている構造的な問題がでてきて、そういう広告をつくる人たちがどんどん中の人になっていく潮流も出てきました。無印良品なんかもそうだし、ユニクロも半ばそう。ソフトバンクの一連の仕事も、実質的にはそんな感じなんだと思います。私の感覚だけかもしれませんが、今、いいな、機能しているな、と思う広告は、みんなそういう構造で仕事をされているような気がします。

 それはきっと、広告という仕事のシステムがどんどん複雑になってきて、外の人のままでは、経営者もしくは責任者とがっぷりよつの話ができにくくなってきた、ということなんでしょうね。

 私は、広告を「自分のことをまったく知らない人に自分のことを知らせること」と定義しています。つまり、不特定多数に向けて、ということが広告の条件で、ゆえに、広告は、広告を見る人の立場で言えば、受動性がその特徴です。そういう意味で言えば、「自分」と「自分をまったく知らない人」のあいだに広告をつくる人がいて、そういう独特のポジションから見えるものをつかって、その両者をうまくつなぐのが広告にできることであり、広告にしかできないことだろうと思います。

 そういう独特の思考のあり方が、私はすごく好きなのだろうと思います。だから、広告の仕事が私は大好きなんですね。で、やはり私の専門性というのは、どうやらそこあると思いますし、世の中に向かって、正面切って自信があります、と言えるのはやっぱりそれだろうと思います。

 まあこのブログは、商売でもないですし、それほそ根性を入れて精密に書いているわけではなく、自分の書きたいように書くゆるい場所ではあるんですが、このブログで言えば、自分の専門外について書くときのスタンスでもあるのでしょうね。

 広告のことを書く時は、当事者というかプロとしての意識があって、そういう意味では、このブログの広告エントリというのは、広告的でもなんでもない書き物ですが、専門外についての書き物はどこか広告的なんでしょうね。まあ、でもアクセス数を見るぶんには、社会的なニーズは広告系エントリに分があるようですが、例えば音楽については、私は挫折した人だし、これはすごいなあという憧憬みたいなものを、なんとか違うコードで表したいという感じになるのかもしれません。ふと、そんなことをふと思いました。

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 土曜日から長いお休みをとる方も多いのではないでしょうか。私も、ずいぶん久しぶりの長い休暇です。ここ最近は、ほんといろいろきつかったので、しばらくゆっくり休みたいと思っています。やっぱり、休みって必要ですよね。なんか身にしみて思いました。でも、休み中もブログは書くかもですけどね。みなさまよいシルバーウィークを。ではでは。

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2009年9月14日 (月)

イチローさんのような広告プランニングが求められているのかもしれない

 マリナーズのイチローさんが、米大リーグ史上初の9年連続200安打まであと「2」とのことで、テレビのスポーツニュースでもイチローさんの特集が目立っていました。インタビューで、イチローさんは、サードとレフトの間に落ちる凡フライのラッキーヒットに対してこんなことを言っていました。

「狙ってやっているんですよ。解説の人は、それをラッキーでしたね、というかもしれませんが。」

 で、このあと、狙ったところに打てることを実証するビデオが流れて、なるほど、それは本当だろうな、イチローさんは狙ってやってるんだろうな、とテレビを見ながら思いました。

 イチローさんは大スターですが、ホームランバッターではありません。私は野球はあまり詳しくはないけれど、子供の頃の記憶で言えば、王さんや田淵さんのような華のあるバッターではなくて、本来は、コツコツとヒットを重ねるタイプの地味な選手ですよね。そんな彼が球界を代表するスター選手であることは、今の時代を象徴しているような気がします。

 私の専門は広告ですから、広告の話になりますが、今求められる広告プランニングは、イチローさんのようなものではないかな、と思います。凡打に見えようと、狙ったところに打って確実にヒットにする、というような。逆転満塁ホームランのような華はないけれど、コンスタントにブランドを成長させられる継続性、持続性のある広告プランニングこそ求められているような気がします。

 私が経験してきた広告プランニングの実務を見ても、こういうイチローさん的なスキルが必要であるケースが多かったように思います。テレビCM、新聞広告、交通広告など、マスメディアを中心に、割合シンプルにメディアを組み合わせられた時代は、ホームランが求められました。というより、毎回打てればホームランを打つほうがよかったように思います。

 けれども、メディアが多様化して複雑になり、低成長の経済状況下で、ブランドを短期視点だけでなく長期視点で考えないといけなくなってきた今、逆に、今、このタイミングでホームランはいらないというケースが増えてきました。また、フェーズによっては凡打に見えるけれど、確実にヒットにはなっているというような、地味なコミュニケーションの積み重ねが優先されるケースもあります。自分の経験で言えば、そのことに神経を注いで来たような気がします。それは、意識して、というよりも、実務の必要から意識させられたという感じです。

 コミュニケーションデザインという新潮流で学ぶべきところがあるとすれば、私は、広告コミュニケーションを時間軸で見るという部分であると思っています。こういうことを言うと、おまえわかってないよ、と言われそうですが、じつは、本音で言えば、生活者のコンタクトポイントで広告が生活者を追いかけていくような、平面的な軸でのコミュニケーションデザインはあまり意味がないと思っています。というか、それは、わりあい前提としてある戦術レベルの話かな、と思っています。

 時間軸で見れば、広告をやらなくていいフェイズ、あるいはやってはいけないフェイズというものもあり、逆に、ここは何がなんでもやらなくちゃいけないフェイズもあります。この見極めは、長期的に見たブランドの成長と、生活者の意識から導き出されるものなのでしょう。で、その生活者というのは、結局は自分だったりするんですよね。

 ホームラン、ヒットエンドラン、ポテンヒット、バンド、フォアボール。そうした、様々なものをフラットに見られる地平にこそ、これからの広告プランナーが立つべき場所なんだろうな、と思います。そのためには、イチローさんのように日々のトレーニングによって、基礎体力を養うしかないのだろうな、と。

 で、私?

 基礎体力のなさを痛感しています。なんかそういうことに気付いてからは、自分はわからないことだらけだなあ、なんて思っている次第です。いろんなことを勉強しなきゃなあ。まあ、あきらめずに、コツコツとがんばるしかないですな。ではでは。

 追記:

 記録達成しましたね。素晴らしいですねえ。

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2009年9月 2日 (水)

たかが広告、か?

 広告という切り口で時代を見た場合、きっと「たかが広告」の時代なんだと思います。これは、いくら広告が好きだ、広告を愛している、と叫んだところで、どうにもこうにも時代の変化なわけです。かつてあんなに素晴らしかった広告が、今ではこんなありさまなんてこと言って、昔を懐かしんだところで、状況は何にも変わらないですよね。やけ酒はすすむかもしれないけれど。

 時代は「たかが広告」。その意味はきっと、メディアが多様化していることによる、広告が主に置かれるマスメディアの地位の低下。こうして私が書いている、ブログをはじめとする個人メディアだってその一部だし、古き良き広告をとことん愛して、新しい広告をつくろうともがく私にしても、その「たかが広告」の時代を進めている張本人だったりもするのです。広告、しかも、これまでの所謂オールドメディアと言われるマスメディアを生業としている人が、ブログやらを毛嫌いする人が多いのには、きちんと理由があるのだと思います。本能的に嫌いますよね。だって、マスメディアが、様々なメディアの一部になってしまうのだもの。

 こういう話はもう聞き飽きましたよね。ネットを眺めると、いくらでも目に入ってきますものね。これからは広告じゃないよ。口コミだよ、CGMだよ、ブランデッド・エンターテイメントだよ、プラットフォームだよ。まあ、そうかもしれないです。今は、その土壌は小さいけれど、これからはそんな環境が世の中を覆ってしまうんだ、という話もわからないでもないです。未来の話は景気が良く聞こえますし、衰退していってる側にいる者からすれば、はいはいわかりました、という感じで、極論だよなあと思いながらも黙って聞くしかないよな、という感じもあるにはあるし。

 本音を言えば、私は、ノスタルジーたっぷりの昔話も苦手だし、まだ来ていない未来を根拠にした極論も苦手。どっちも違うんじゃないの、というのが実感として、あるいは予感としてあるんですね。マスは小さくはなるけど、社会が続く限りきっとなくならないし、ネットはもっともっと大きく巧みになるけれど、それが覆いはしないだろう、と思うんですね。だったら、それをどっちも使えばいいじゃない、みたいな感じ。これからはネットだ、ネットで覇権をとるぜ、とも思わないし、ネットなんかどっかにいっちまえ、とも思わないんです。だって、それって広告の環境に過ぎないじゃないですか。環境あっての広告であって、その逆はないものね。

 だから、なんか、環境を嘆くんじゃない、という感じもするわけです。また、環境を美化するのもおかしいんじゃないか、とも思うわけです。フラット化というじゃないですか。だったら、この環境をフラットに見ましょうよ、と。その中で広告がやれることって、ほんとにないですか。

 口コミ、CGM。それを上手く運ぶには、やっぱり広告の力が必要ではないんですか。日本の選挙はともかく、アメリカの大統領選では、ネットが大活躍って言いますよね。見たか、口コミ、CGMという感じですよね。でも、そのパワーが発揮できたのは「YES, WE CAN.」という広告的な言葉があったからですよね。それって、古典的すぎるくらいの広告の力ではないですか。ちょっと例が古いけれど。

 考えようによっては、口コミ、CGMまで射程に置いた長いコミュニケーションのフィールドで広告を設計するには、より力強い広告的な芯が必要になってきている、とも言えるんじゃないかな、と思うんですね。ということは、今の時代を生きる広告人の方が、牧歌的な時代の広告人よりも、よりダイナミックなプランニングが必要だ、という言い方もできるよね。まさに「されど広告」の部分が今ほど求められる時代はないんですよ。だから、若い人で本気で広告をやろうと思う人は、嘆く必要なんかないんです。おっさんの愚痴は、右から左に受け流せばいいんですよ。

 私?私はやりますよ。これからも。まだまだ、若いあなたには負けませんよ。若いあなたのような突破なことはもうやれないかもしれないけれど、私にはあなたにはない経験があるからね。それに、こんな時代「たかが広告」なんて言ってるうちは、私には勝てんよ。それに、ネットを語るなら、少なくともブログくらいやろうよ。別に今流行のTwitterでもいいけど。

 えっ、そんなこと言わずに力あわせてやっていきましょう、って?そうだね。古い広告クリエーターの悪いクセだね。なんでも勝負事にしてしまうクセ。こんな時代でも、がんばってやってるあなた見てたら、なんだか元気でてきたよ。ありがとう。お互いがんばろうぜ。じゃあね。また会おうぜ。

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2009年8月24日 (月)

ほんまや

 大阪にいる親父と電話で話していたら、こんな話に。

 「ほんまや、知ってるか?」
 「えっ、ほんまや?知らんけど。」
 「水や。」
 「水?」
 「ペットボトルの。水道局の。」
 「水道局?」
 「そうや。大阪の水道局がつくってるやつ。話題やで。」

 うちの親父は、大阪に帰るといつも「広告みたいな、そんな若くて感覚のするどいやつしか通用せえへん商売、いつまでもできると思ったらあかん。おまえももう若くないんやから、しっかり考えんと。」と小言ばかり言うわりには、ときどき関西のとっておき情報をこうして教えてくれるのです。

 電話を切って、「ほんまや」ってなんだろ、と思ってGoogleで検索すると、ありました。

Honmayaimage_2

 「なにわ育ちのおいしい水 ほんまや "Honmaya"

 大阪市のページですね。大阪市水道局がつくっているようです。「“ほんまや”とは、大阪市の高度浄水処理水を加熱殺菌した上で、ペットボトル(500ml )に詰めたものです。ラベルも一新にピンクのボトルで新たにデビューしました。」とのことで、希望小売価格が100円(税込)だそうです。このサイト、なかなかのつくりで、お役所なのに、とってもいい感じ。そこらの民間企業顔負けです。こういうのは元MBSアナウンサーの平松市長効果なんでしょうね。

 このネーミングもよくできてますねえ。こんな感じでしょうね。

 「大阪の水道水って、まずくて飲まれへんわ。」
 「それ古いなあ。今はすごくおいしなってるんやで。」
 「ほんまかいな。」
 「ほんま、ほんま。これ、飲んでみ。」
 「あっ、ほんまや。」

Honmaya_3  お見事。ナイスです。たかがネーミングですが、こういう商品がこんな素敵なネーミングをまとって世の中に出ることで「大阪市って、最近いい感じだよなあ。」みたいなブランド広告にもなるし。この「ほんまや」の場合は、たぶん広告をやっていないのでしょうけど、ネーミングが広告として機能するだけの力を持っていますよね。

 私はよく若い人に「販売促進の売りが目的の広告だって、まわりまわってブランド広告なんですよ。販促広告とブランド広告を区別するのは、作り手の理屈。だから、しっかり作らないと駄目。」と言っていますが、これなんか、お手本ですよね。これ見て、大阪市っていいじゃない、と思う人、確実にいると思うんですよね。

 離れてみてわかりますが、こういうのって関西方面は上手ですよね。茶目っ気のさじ加減が絶妙というか。ネーミングやデザインに、説教くさいエコロジーの匂いがこれっぽっちもしないのも、じつは相当考え抜かれてるんじゃないでしょうかね。きちんと100円で売るところも、ほんとに100円で売れそうなとろこも、大阪らしくってとってもいいです。大阪の水はお金出しても納得のうまさです、というメッセージも感じるし。

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2009年8月15日 (土)

新しい広告は新しいテクノロジーから生まれるんじゃない。新しい表現から生まれるんだ。

 ここ最近、自分のブログの広告関係の過去ログを読み直しています。あんたどんだけ自分が好きやねん、みたいな感じもしないではないですが、時間の経過によって、過去の自分を客観的に見られるメリットもあり、いろいろな思考の整理にもなるんですね。

 で、客観的になって自分の書いたことを読んでみての感想。結局、このブログの人はこういうことを言いたかったんじゃないかな、みたいなこと。それが本日のエントリのタイトルにあるようなこと。なんだか「踊る大走査線」みたな台詞ですが、繰り返しますね。

新しい広告は新しいテクノロジーから生まれるんじゃない。新しい表現から生まれるんだ。

 このブログの人は、ことあるごとに表現の問題、表現の問題、と言っています。このブログの人は、所謂インターネットの人ではなくて、従来のマスメディアの広告を生業にしている人なので、ときどき、ちょっとイライラしながら書いているな、と思うエントリもあります。その行間に感じられることを代弁すると、こういう感じでしょうか。

 インターネットの人は新しいテクノロジーが新しい広告をつくるというけれど、それは違うんじゃないか。例えば、ラジオができて、テレビができたとき、広告の本質みたいなものがガラッと変わったか。変わってないと思う。まあ、変わるという言葉をどんな意味合いで使うかにもよるだろうけど、それでも変わってないと言い切れると思う。それは、DDBのフォルクスワーゲンでも、平賀源内でも何でもいい、過去にさかのぼって広告の歴史を見てみればいい。広告という行為の本質は何も変わっていない。

 けれども、表現はどんどん変わっている。はっきり言えば、80年代の広告は今、通用しない。その延長線上にある今の広告も通用しにくい。当たり前。その時代において最大限の効果を生むことが広告に与えられたミッション。後世にもなお通用するということは、広告のミッションではない。時代が変われば表現が変わる。それだけのこと。

 そのことをインターネットの人は鬼の首を取ったように、広告は終わった、広告はシステムになる、と叫ぶ。それが、この今の情況。でもね、広告はシステムにはならないよ。あの時代の豊かな広告からは学ぶことはたくさんある。学ぶものがないという人は、学び方を知らないだけだと思う。

 多様なメディア。個人発信。ネットによってできた新しい環境とこれまでの環境の違いは、大きく言えば、この2つ。この新しい環境から出て来たものは、情報の拡散・消費の速度が上がったこと。そして、フラット化。この条件の中でどう広告するか。伝えたいことをきちんと伝えきるか。それはまさに表現の問題でしかないではないか。

 みたいなことかな。こう書くと、ずいぶん反抗的なもの言いだよなあ、と思います。あと、こういう言い方をすると、テクノロジー否定のような感じに受け取られるけど、そうではないですからね。むしろ、日々進化するテクノロジーに必死についていってる私がいるもの。それはそれで、餅は餅屋、お互いがんばりましょう的な別の問題。でも、こういう補足を書かないといけないのが、情報発信における「今」ってことなのかも。そんな環境で、いかに広告が広告が本質的に持っている力を発揮できるか、というのが、このブログの広告関係エントリの主題だったのだろう、と思います。

 表現の問題というのは、表現の設計の問題でもあります。大胆な言い方になりますが、成功するかどうかの8割は、その設計で決まってしまいます。その設計のいい解を見つけられたら、その仕事の成功はなかば見えます。で、いい設計をしておけば、後からついてくる様々メディアでの様々な表現は、生き生きと活かされてくるものです。設計という言葉からのこじつけではなく、このニュアンスは都市や建物の設計に似ていると思います。

 私がこのブログを書き始めた頃からの仕事でも、それは実感することです。だから、もう、広告は個別のクリエイターの問題ではないのだと思います。もちろん、個別のクリエイターが優秀であることは必要。けれども、建築家のリアルな実務がそうであるように、それは建築主との幾度ものコミュニケーションによって生まれるもの。そう考えると、これはある人の受け売りではあるけれど、プレゼンの時代が終わり、ミーティングの時代が始まる、ということは確実に言えることだろうと思います。

 あとは、産業としての広告業界が、その流れに対応できるか、ということ。そして、この流れが見えてきたことが、私が実感する「時代の変わり目」というものの正体のような気がしています。

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2009年6月26日 (金)

TCCのこと

 この話は一生書かないでおこうかな、と思っていたけど、そろそろいいかなと思う部分もあり、今ならルサンチマン風味を加えずに書ける気もするので書くことにします。TCC、つまり東京コピーライターズクラブのこと。

 私は、TCCの会員ではありません。TCCに入会するには、年に1回行われるコピー年鑑作品募集の新人部門に応募し、新人賞を受賞しなくちゃいけなくて、私がTCC会員ではないということは、つまり、新人賞をもらっていないということ。

 私の世代のコピーライターにとっては、TCC新人賞はコピーライターの登竜門的なところがあって、私も例に漏れず、TCC新人賞は大きな目標でした。確か、計8回ほど応募したはずですが、ノミネートが3回で、ついに縁がありませんでした。ちなみに、募集要項は、単独コピーライター作品(つまり複数のコピーライターがかかわっている仕事は除外)で、印刷だと5点必要。年に十数人が受賞します。

 私にとって、TCC新人賞をもらっていないことがコンプレックスになっていました。私のことを「コピー侍」という、言われた本人が少し照れてしまうような愛称で呼んでくれる人もいるし、そんな愛称で呼ばれてしまうくらい広告コピーが大好きで、今もなお1行の力を信じて仕事をしているけれど、そんな私はTCC会員ではない。そのことに、なんとなく引け目に感じることが今もあります。人からは、今どきTCCは権威じゃないでしょ、と言われたりもします。また、私の仕事や作品を知る人からは、えっ、TCC会員じゃないんだ、と驚かれることもあります。そんなとき、少し引け目を感じる自分は、なんだかなあ、と思ったりもします。

 私自身、TCCなんて関係ねえよ、と思っていたわけでもないし、恋い焦がれていた時期も確実にあったし、だから、そのこと自体はあるがままに受け止めるしかないのだろうな、と思います。ただ、これからも新人賞を狙っていこう、とは思わないんですね。年齢の問題でもなく、私がもうクリエイティブ・ディレクターだからでもなく、自分の仕事のあり方として。TCCという価値観があり、その価値観と縁がなかったのであるならば、その価値観とは違う価値を提示していくのが私の役割なのではないか、というかそういう役割を担ったほうがおもしろいのではないか、とある時期に思ったからです。だから、いっそのことTCCに応募するのはやめてしまおう。数年前に、そんなふうに思いました。

 それは、もしかすると自分の中のルサンチマンのねじれた決着の付け方だったのかもしれないけれど、まあ、そういう決意をすることで、TCCが持っている広告の価値感とは違う価値を本気で提示しなければいけない状況に自ら追い込むこともできるだろうし、それは、私の仕事の取り組みにおいてはポジティブなパワーとして働くだろうな、とは思ったんですね。

 こういう書き方をすると、どうしてもルサンチマンの罠に絡めとられてしまいそうになるけれど、ルサンチマンからの視点ではなく思うのですね。今のところ、とってから言えよ、という心の声から自由になることができる書き方を見つけられていないのだけれど。でも、たまたま私は縁がなかったけれど、縁がなかったからこそ考えたことや、見えてきたものもあったし、それはそれでかけがえのない自分だけのノウハウにもなってきたかな、とは思うんですね。縁がなかったがゆえの自負心というのは、少しはあるんです。

 私は、誰が何を言おうと、広告の力を信じているし、言葉の力を信じています。その信じるものを、TCCというものさしではなく、あえて自分のものさしで、コツコツとかたちにしていく。そういう道も、それはそれでけっこうおもろいんやないかな、なんて最近は思ったりしています。

 PS 若いコピーライターさんたちへ

 でもねえ、とれるものは早めにとっとくほうがいいですよ。それは、ほんとにそう。こういうのは、とってから言う方がかっこいいしねえ。そういう意味では、このエントリはすっごくかっこわるいんだけど、まあ、私が書く、私のブログだしね。でも、今の若い人って、もはやTCCとかにも、私が若い頃ほどのこだわりはないのかもしれないですね。そういう自由さって、私はいいと思います。その感じでがんばれ。私も負けずにがんばりますよ。

 追記(6月27日):

 それと、ある時期から違う価値を提示していこう、みたいな人とは少し違うやり方を指向するようになっていったから、その分、世界を幅広く見渡せるようになった部分もあるな、とも思います。縁がなかったがゆえの自由と言いますか。だから、この不況でも私はすこぶる元気だし、私がつくる広告も、今どきめずらしいくらいに機能しているという手応えもあるんですね。

 だからこそ、私が考える広告は、ほかの人が考える広告より、とてつもなく広いと思うし、4マスという形式が無意味化してもへっちゃら感は確実にあるんですよね。今、広告に対しては悲観の気持ちはあまりないんですよね。実感として。9月から、新しいことをやろうと今準備しているのだけれど、そこでやることは、きっと新しい広告のはず。それが詭弁と言うならば、それは今までになかった広告的な何かのはず(ですよね)。

 だからこそ、このルサンチマン漂う辛気くさい話を、今書こうと思ったのかもしれんなあ。

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2009年6月11日 (木)

広告の瞬間

 今日のお昼の出来事。

 東京は、午前中小雨。朝からちょっとバタバタしていて、幸い雨も上がりそうな感じだし、お昼はお弁当に。わりと人気の弁当屋さん。いつもは長い行列ができているんだけど、今日はそうでもなかったんですね。ああ、やっぱり雨が降ってたからなあ、なんて思いながら店の前で待っていると、お店のおばちゃんが出てきて、

 「ちょっとごめんね、雨が上がったから看板を外に出しますね。」

 で、黒板にチョークでメニューを手書きしている看板をお店の外に出したんですね。すると、その瞬間、どこからともなくお客さんがゾロゾロと。あっというまに、いつもの長蛇の列ができてしまいました。

 すごいもんだなあ。看板ひとつで、結構違うもんなんですね。なんか広告の瞬間に立ち会えた感じで、なんだか得した気分になりました。

 ちなみに、こんなお弁当。

Bento

 お魚弁当、お肉弁当などのすべてのお弁当の今日のおかずが全部入った「全部入り」が750円。お値段は少し高めで、カロリーはかなり高め。でも、うまいんだよなあ。

 こんなこと書いてたら、なんかおなかがすいてきました。でも、今頃食べると健康にはよくないんですよね。どうしたもんかしらねえ。

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2009年5月17日 (日)

こういうことだと思うんですけどね

 いい感じのネット広告を「47NEWS」という共同通信や地方新聞各社が運営するニュースサイトで見つけました。小さなテキストバナーです。下の写真の赤枠に囲まれた部分がそれです。

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 何気なく見ていたときに、ちょっと気になって思わずクリックしてしまいました。で、このテキスト広告をクリックすると、下写真のサイトに行きます。

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 谷村美月さんという女優さんのサイト「谷村美月 ここです。」です。中身は、あっさりしているけれど中身はきちんとある、わりと誠実なつくりのサイトでした。私は、谷村さんは今まで知りませんでしたので、私個人をターゲットと考えたとき、この小さなテキスト広告は完璧な仕事をしたことになります。

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 私は、ネット広告のこれからは、こういう小さなテキスト広告の質が高まっていかなければ未来はないだろう、と思っています。このブログでも何度か書いていますが、こういう「ネット広告の路地裏」の質的な向上こそが、ネット広告のこれからの本質的な部分だろうと思います。なぜなら、こういうバナー広告が、ネット広告における「純広」だからです。

 バナー広告の最小単位は、こういうテキストバナーです。ここでは、広告コピーが裸のままで試される部分です。これまでよいとされてきた広告コピーの表現は、今はリアルに感じない。であるならば、どういう表現がリアルで、人を惹きつけるのだろうか。そういう問いが、職業人としての私の課題なのですが、この「谷村美月 ここです。」という広告コピーはひとつの解答であるように思います。

 この小さなテキスト広告は、きわめて現代的な気が私はしています。それを言葉にするのは難しいけれど、感覚的には、この言葉は届くと思います。こういう広告表現は、これからのネットでのひとつの雛形になり得ると思います。(なんとなく、今はそれが理論化できていないから、あまりうまくは伝わらないかもしれませんが。)

 広告の、それも表現を担っている専門職である私が思い描く、これからのネット広告の基本的な姿は、こういう感じだな、と思いました。私にとっては、WOMやコミュニケーション・デザインは、やはり一手法であって、広告の本質としてはこちらのほうだろうな、と思うんですね。こういうテキスト広告は、いちばんシンプルな純広のカタチですし。

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 思想家のマクルーハンという人は「メディアはメッセージである」と言いました。その是非や妥当性については、いろいろとあるでしょうが、その言葉に忠実になって感受するところのネットメディアが許容する広告というのは、きっとこうした小さな広告のような気がします。これからテクノロジーがどんどん進化しても、ネット広告では、現在のテレビCMのような大きな広告は主流にはならない気が、私にはします。

 あくまで広告表現技術としては、なんとなく「谷村美月 ここです。」というコピーが示す方向性にあるだろうと思いますし、こうした予感に立つとき、もうひとつの思想家の言葉が浮かんできます。マルクスの「上部構造は下部構造が規定する」ですね。もしこういう未来が来たとき、専業のコピーライターというのは、存立できなくなるんだろうな、ということ。もちろん、マス広告はなくならないとは思うし、その部分との関連作業として、きちんと仕事として成り立ってはいくだろうけれど、ネット広告だけでは、やはり難しいだろうな、と。

 なんとなく、この部分は、私の感覚が正しければ、広告の表現で飯を喰う者としては、なんか悩ましいことだよなあ、と思います。

追記:このテキスト広告とサイトは、媒体社である47NEWSの企画です。各地方紙で、谷村さんの連載が掲載されるとのことで、そのタイアップの意味合いでしょう。そのあたりの、包括的なコミュニケーション設計も現代的ですね。でも、これを47NEWSとは独立した広告と見たときも、かなり優れていると私は思います。

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2009年5月 5日 (火)

広告村の外に出てみる

 それこそ20年近く広告村で飯を喰ってきて、社会人になってから広告しかやったことがないし、ゴールデンウィークの長い休みだというのに、広告のことをぼんやり考えたり残してきた仕事の企画書を書いたりしているような奴でもあるし、他にやりたいこともないし、今のところは、他のところでは飯は喰えないだろうなと思うので、まあ、広告村の住人としてはごくごく平穏に暮らせているのだろうなとは思います。

 広告村。そんなものはないのかもしれないし、はてな村と一緒で、それは外部からの視線が定義するものにすぎないだろうけど、ほんの少し前までは、私が書いているような広告の話は、業界の中で流通していただけだったし、その中には、コピーライターの誰それが何したとか、広告村の住民でしか面白いと思わない話もたくさん含まれていて、ま、そういう村的な話の豊かさが、業界の豊穣さを計るメルクマールだったりもするわけで、「広告批評」という雑誌の終焉をひとつのきっかけとして、そういう広告村というものも成り立たなくなってきたという流れは、もう止められないんだろうな、と思います。

 その流れはゆっくりゆっくり川の流れのように、ひとつの方向に進んでいて、広告村のいい時代に生きた世代なんかはきっとこのまま広告村の中でキャリアを幸せに終えることができるのでしょうが、私のようなその下の世代はそうもいかないのだろうなと思います。私がこの広告村にいたいかどうかは自分でも正直よくわからない部分があって、本音ではこの広告村は嫌いでもないし、でも、なにかしら広告村はこのまま拡散してしまうのだろうな、という予感がだけはあるにはあります。

 自分の思いとしては、この広告村の村人として確かな位置を占めたいという思いでやってきたところがあり、それこそキラ星のような先輩たちの歴史がそこには脈々と続いていて、その中の小さなひとつの点くらいにはなりたいと思いながらがんばってきました。結局、若いときにあれほどほしかった広告賞というものの動機はそういうことだったような気がします。あの情熱は、自己顕示欲というよりも、キャリアアップの根拠を増やすという実利的なものというよりも、広告村の中で自分の存在を示したいという思いが核になっていたように思います。

 でも、やっとこさ賞をコンスタントにいただけるようになった今、その広告村自体があまり意味のないように私には思えてきて、なんだかそのへんは、せっかくがんばってここまできたのに因果なものだよなとは思います。もちろん、私が単に感情的に意味がないと思っているだけであれば、「勝手に言ってろよ、このクソ広告ブロガーが」てなもんですが、広告村の有力な住民(ま、有名クリエイターのことです)が喰えなくなってきたりする状況があり、それは、村の村たる所以のひとつである互助会的システムがまず機能しなくなってきていることのひとつの証拠でもあり、広告に限らず社会的なシステムの変容は、まずはこういうところに現れるわけであって、そのあたりは、もはや経済的にも目に見えるカタチの変容であって、村思考そのものが、もはや個人の経済的領域でも時代とは逆のベクトルを持ってきたことを意味しているのだろうな、とぼんやり思ったりするのです。

 なんとなく思うのは、広告をこれからなんとかしていこうと思うのなら、広告村から少し離れたところに出てみることが必要なんじゃないかな、みたいなこと。その見晴らしのよい場所で、もう一度、広告という社会システムを考え直してみることが必要なんじゃないか、と。私は、学問として広告をやっているわけではないので、思考が実践と結びついていて、それは思考が結果と結びついているわけで、結果を出すという目的においては、もう、広告村の素晴らしい日々を懐かしんでいる暇はないんだろうと思うし、なんとなく、ここでつらつら書いていることは、わりあい何かしらの広告の前線的な意味合いもあるような気もしていて、それは、なんとなく、広告村の中では語られていないことなんじゃないか、みたいな自負も少しはあるんですね。

 ゴールデンウィークなんで、主題はこれ、という論の進め方をせずに、なるだけ率直に書いてみました。それは、迷いながら書くことと同義だと思っているし、それがブログというメディアの特性のひとつだとも思うんですが、まあ、それはともかく、同じような質のことを考えている人がいる限り、それが同業であっても、他業種であっても、ひとつの時代の中で生きる者同士でつながっているということだろうし、広告村の外に出てみることは、そんなに悪いことでもないんだろうな、とも思うんですね。というかね、もう広告村の中で広告を考えていても、新しいものは何もないだろうな、ということです。経済的なことも含めてね。

 それは、ほんとは、私と同世代周辺の広告村の親しい人たちにいちばん伝えたいことでもあるんですけど、まあそれは「何を言うとんねん」という反応しかないだろうな、という感じもあるんですよね。でもねえ、もう義理とか人情とか、そういう広告村の利権の奪い合いでは、何も解決しないと思うんですよ。だって、社会に広告村を守る義理はないんだし、もうそのノリは社会性を失ってしまったということでもあるわけだし。変わらなきゃね。お互い、ちょっとしんどいけど。いままでのいい思いはとりあえず置いていって、村の外に出て、もう少し見晴らしのいいところに立ってみようよ。そんなふうに、私は思うんです。

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2009年4月 4日 (土)

いいプレゼンって何でしょうね

 これは人によっては違うんでしょうね。それと相手によっても違うし、規模によっても違うから、この手の話には正解はないでしょうから、ごく個人的に。

 私はプレゼンが苦手でした。人前で話すのが苦手というか、極度の緊張しい(関西弁で緊張する人のこと)でした。今はどうかというと、ほとんど緊張しません。華麗なプレゼンではないけれど、まあ、理路整然と話せるし、飽きがこないように、というか、印象的なプレになるように緩急もつけられます。なぜ、できるようになったかというと、慣れでしょうね。あと自信。このあたりの話はかつて書きましたので、今悩んでいる人は、よかったら読んでみてください。

プレゼンの時、声が震えて、心臓がバクバクして、汗が噴き出し、自分で何を話しているのかがわかんなくなって、会議室から逃げ出したくなることはありませんか。

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 私は広告の仕事をしていますので、たいがいのプレゼンは広告案の提示だったりします。このところの傾向としては、広告案をスチレンボードとかに貼らなくなりました。分厚いボードは、プレゼンが立派に見えるけど、過度に立派に見えすぎるというか、そんな感じ。得意先でも、小声で、処分に困るから次からはボード貼りはやめてね、なんて言われたこともありますし。

 パワーポイントにjpegを貼って、スクリーンに映し出す方法もあります。この場合は、企画書も紙で手渡しではなく、スクリーンベース。大規模なプレだけでなく、そういうプレになれている得意先なんかでは、小規模でもやります。

 これは、終始こっちのペースでプレゼンを進められるから都合はいいのですが、そのぶんプレゼンのインタラクティブな熱さみたいなものがなくなります。プレゼンテーターと聴衆みたいな感じになるし、プレゼン、質疑応答、みたいな段取りが、なんとなく冷たい感じになってしまいます。

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 私のパワポのスライドショーの使い方。テレビCMのプレゼンを、紙芝居形式でやるんですね。

 日本のCMコンテは、縦長の用紙に、キーになる重要なコマを大きくして、普通のマンガみたいにコントラストをつけた表現をしますよね。キャッチフレーズは大きめの太字フォントで斜めにして、みたいな感じで。でも、あれは、実際に作るときには、けっこうバイアスがかかってしまいます。テレビではコマに優劣はないですから。単純に等価のフレームが連続するだけ。

 一方、海外の絵コンテは、横長の用紙に、均等の面積のコマを並べる方法が多いです。テレビCMの構造から言うと、本当はこちらの方が理にかなっています。ただ、単調に見えます。海外は長尺が多いからそうなるのでしょうし、日本の場合は15秒が多いから、絵コンテはデフォルメがきついということでしょう。

 絵コンテだと、どちらの方法も一長一短があるのですが、これをパワポのスライドショーでやると、なかなかいい感じになります。1ページにひとつの絵。それをどんどんスライドしていって、その絵と同時に、しゃべりでナレーションと少しの絵の補足を加えていきます。

 わりとオンエアに近い感覚でプレゼンできます。説明も、オンエアに比べてほんの少し長いくらいですみますし。それに、何よりも、聞いている方が面白い。絵コンテは、慣れている人は読み込めるんですが、慣れていない人だと、絵コンテを理解するのは結構難しいものです。演出コンテだと、このコマはこういうふうに撮影するんだ、みたいな理解につながりますが、企画コンテの段階だと、紙芝居のほうがわかりやすいような気がします。

 これは、よく考えると、絵でつくるアニマティクス、写真でつくるフォトマティクスといったビデオコンテの廉価版みたいなものですね。

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 スライドショーではなく、企画書を配って話す場合、ときどきいる困ったちゃん。配ると、どんどん先を読んでいく人。あれは、プレゼンをする方としては、すごくやりにくいです。いくら熱心に話しても、人の話なんか聞いちゃいないんですよね。そういうタイプの人は。

 顔には「俺は人の話なんか聞かないよ。ぜんぶわかっているからさ。」みたいなことが書いてあって、先先読む行為が、自分を偉く見せようみたいな発露だったりするんでしょうが、あれは見ててみっともないなあ、なんて思います。

 こういうとき、どうするか。企画書にからめて、企画書に書いていない裏話的なことを話しはじめるんです。同席している他の方が熱心に聞き入るような話をします。そうすると、場がこちらに集中しますよね。全員の視線がこちらの目元に向きます。そうなると、先々読んでいた人は、その場の流れから一歩遅れるんです。その人はあせります。で、追いつこうとします。

 で、ようやくプレゼンがまとまりのある場になって、通常営業に戻れるという感じです。まあ、先々読む人だけが相手の場合は打つ手なしですけどね。いや、ひとつだけあります。企画書に見積もりをつけないことですね。別紙にして最後に渡すようにすること。そういうタイプは、要するに見積もりを見たいわけですから。

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 いいプレゼン。何でしょうね。相手によっては企画書ではなく、1枚のシートを出して、それについてあれこれディスカッションみたいな方法が、いいプレゼンにつながることもあるし。逆に長くて物語になっているような、エンターテイメント性のある企画書を楽しみにしてくれている人もいるし。

 私としては、相手によって柔軟にプレゼンの手法は変えていったほうがいいんじゃないかな、なんて思っています。CIブームの頃は、司会進行にプロのアナウンサーを起用するみたいなここともありましたし、海外の広告会社なんかでは、プレゼンに本物のライオンを連れてくるみたいな話もありますが、まあそれも相手によって、それが最適だと思った結果だったんでしょう。今は時代が違いますし。

 最後に、とっておきのテクニック。とある人から盗んだテクニック。

 プレゼンが散漫になってきたら、わざと小声で話しはじめるんです。それこそ、聴こえないようなささやき声で。そうすると、人は聴こうとしますから、話し手に集中するようになります。大きくはっきりした話し方だけがプレゼンの話し方ではないんですよね。若いとき、そういうふうに話す上司を見て、なるほどなあ、と思ったやり方で、私もときどき使います。

 けっこう効きますよ。

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2009年4月 2日 (木)

スナフキンはどこへ行った

 コピーライターが若い人の憧れだった頃、コピーライターの言葉はスナフキンの言葉だった。少なくとも多くの若いコピーライターは、スナフキンの言葉を書きたがった。つまり、スナフキンになりたがった。企業の言いたいことの代弁でもなく、かといって消費者の生の言葉でもない、そのふたつの境界上で語られる言葉。その言葉を書けるのは、コピーライターしかいない。そんなふうに思っていた。その自負があった。

 スナフキンというのは、春になるとムーミン谷に戻ってくる吟遊詩人。自由と孤独、音楽を愛し、ややこしい人間関係からも、厳しい現実からも一歩身をひいて、真実らしい言葉を言葉少なに語って、その言葉だけを残して、冬が来る前にまた旅に出かけていく。

「そのうちなんてあてにならないな。 今がその時さ。」

「大切なのは、自分のしたいことを、自分で知っている事だよ。」

「おまえさん、あんまりおまえさんがだれかを崇拝したら、ほんとの自由はえられないんだぜ。」

「この世にはいくら考えてもわからない、でも、長く生きることで解かってくる事がたくさんあると思う。」

「明日も、きのうも、遠く離れている。」

 そんなスナフキンの言葉をコピーライターは新聞に、ポスターに、刻みたがった。消費社会の中で、コピーライターだけが、その消費社会の汚れの中から逃れられると、本気で思っていたふしがあるように私は思う。また消費社会のシステムは、そんなコピーライターの浮世離れした「真実」の言葉を望んでもいた。

 スナフキンは、いまどこを旅しているのだろう。スナフキンは、春になったら戻ってきてくれるのだろうか。いま、広告の言葉は、スナフキンになれない。それは幸福なことか、不幸なことか、私にはわからない。スナフキンを気取る広告の言葉は、今の時代のリアルにはなれない。おまえはスナフキンではない。そんなふうに思う人々が、そこにいるから。

 けれども、コピーライターという語り手の専門性がもしこの先、企業の言葉、あるいは消費者の言葉に取り込まれてしまわないとすれば、それは、どちらにしてもスナフキンにならざるを得ないとも言えるかもしれない。スナフキンをやめたとき、コピーライターの専門性は終わる。

 であれば、方法はひとつしかないのかもしれない。旅に出ないこと。ムーミン谷に止まりつづけて、ときには怒り、ときには落ち込み、ときにはよろこび、ときどき間違いしくじる、それでも、そのときどきの「真実」を語りつづけるスナフキンになること。そんな身の丈なスナフキンの言葉を、もうかつてのように人はありがたがらないかもしれない。けれども、それでいいのだろうとも思う。

 スナフキンがムーミン谷に戻り、もう旅をしないと決意するとき。それが、消費社会の新しい局面だろうと思う。そのときは、まだ来ていないし、来ないという公算も高い気もする。そうなれば、広告の言葉は、企業の言葉、あるいは消費者の言葉に取り込まれてしまうことになるだろうと思う。そんな社会は、私は息苦しいと思うけれど、それは私が決めることではなく、社会が決めていくのだろうと思う。

 いま、スナフキンはどこを旅しているのだろう。そして、スナフキンは、いつの日か戻ってくるのだろうか。私にはわからないけれど、やがて来る新しい消費社会が、ムーミン谷にとどまりつづけるスナフキンを必要とするという希望に、かけてみたい気持ちが私にはある。

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2009年3月31日 (火)

29年前の伊勢丹のコピー


女の記録は、やがて、男を抜くかもしれない。

女性と男性は、仕事で同じテーブルを囲むだけではなく、肉体のパワーでだって対等なんだということが次々と実証されてきました。男と女が肩を並べる、あたらしいパートナーシップの年、それが、たったいま始まったところです。どちらからも助ける手を出すことができる、これからの二人の生活。そこに、1980年を見ます。ことしも、スポーツの空気をいっぱいかかえて、汗を流す女性たちに声援をおくる、伊勢丹です。

 

 若い頃、2Bのエンピツで、何度も何度も書き写しました。土屋耕一さんの広告コピーです。年代で言えば、私は、糸井さん、秋山さん、仲畑さんに憧れる世代ですが、その先輩たちがお手本にした大先輩である土屋さんは、私の世代のコピーライターにとっては教科書みたいなものでした。

 糸井さんは、明治チョコレートの「オレ、ゴリラ。オレ、景品。」が好きだったと、今日の「ほぼ日」でお書きになっておられますね。私は、そのゴリラを欲しがった世代です。お会いしたことはありませんが、今までお世話になりました。土屋さん、ありがとうございました。

土屋耕一 - Wikipedia

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2009年3月22日 (日)

「好感度」考

 広告の効果を計るひとつの指標として、好感度というものがあります。好感度はどうやって計るかというと、テレビCMに関して言えば、CM総合研究所という民間の会社がテレビ視聴者1500人に対して独自に調査していて、その結果が月2回発表されます。また書店では、月刊で「CM INDEX」という雑誌が販売されています。

 好感度は、そのCMがどのくらい好かれているか、つまり受け入れられているかを見る指標で、その中の項目には、単純な「好き・嫌い」から、「商品を買いたくなったか」というものまで複数あって、その合計点で決められます。昔、三菱自動車でエリマキトカゲがでるCMがありましたが、あのCMは好感度調査でナンバーワンを獲得し、エリマキトカゲブームを巻き起こしましたが、自動車はさっぱり売れませんでした。

 あの時、わりとお堅い頭の持ち主たちから、それ見たことか、という意見がたくさん出ました。なんだ、好感度が高くても、ものが売れなきゃ意味ないよね。商品を語らず、エンターテイメントに走るからそんなことになるんだ。そんな感じ。なんか、その空気は、とっても嫌らしかった。だからといってCMに好感度は必要ない、ということにはならんでしょうに。

 一般的な傾向として、好感度ランキングではタレントCMが上位に来ます。理屈は簡単。タレントが、すでに好感度を持っているから。このタレントの好感度の持ち票は、事実としてかなりのものがあります。なかなかノンタレで、この持ち票を凌駕するのは難しかったりします。企画会議で、すぐにタレント起用の話になりがちなのは、わりときちんとした理由があるんですよね。

 ある出来事がありました。私は外資系ですから、タレントCMは広告の堕落だなんて言うクリエイターがわんさといます。私は、じつはタレント広告否定派。だって、タレントが持つ好感度票を使うのは、制作者としては安易だもの。それに、そのお手軽な好感度票は長持ちしないし。でも、事の成り行きからそのCMはタレント起用と相成りました。

 みんなが知っている女優さん。CMの撮影になって、基本的に我々関係者は、サインなんてもたったりしないのが慣例です。当たり前ですよね。仕事なんだから。でも、タレントCMは広告の堕落だ、なんて偉そうなことを言っていたクリエイターさん、タレントのマネージャーさんに黙ってサインをもらっていたんですね。我々には黙って。もう、ほんと、駄目な人ですよね。

 でも、人間なんてそんなもんです。それがタレントの力です。その人が実証してくれたわけなんですよね。

 好感度は大切です。こんな基本的な指標を否定してもしょうがないと思います。好感度は、私は、広告制作者としては、死ぬほどほしい。CMをつくるとき、業種別トップをいつも狙います。まあ、総合トップを狙う、と言わないところが弱気なとこなんですが。

 でも、その好感度の質は問いたいとは思うんですね。私が、あまりタレントCMが好きではないところは、結局はその好感度が借り物だからなんですね。借り物の好感度は、長続きしないんです。それと、ありものの好感度を借りずに好感度をつくるのは、かなり難しいことではありますが、そこが広告制作者の腕の見せ所でもありますし。

 好感度は、効率の指標でもあります。結局、3度見ないと印象に残らないものを、2度で印象に残すことだから、それは広告費の節約にもつながります。で、その好感度は、しくみでは作れなくて、どこまでいってもクリエイティブというか表現がつくるものです。こんな時代だからこそ、クリエイティブは大切。

 このポジショントークな落ちはどうよ、とは思いますが、まあ、とりあえずはそんな感じに、広告制作者である私は考えている次第です。それがクリエイティブのテクノロジーなんじゃないかな、みたいな。ではでは。

関連エントリ:
タレント広告はなぜなくならないのか(1)
タレント広告はなぜなくならないのか(2)

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2009年3月 8日 (日)

「デュラムおばさんのフェットチーネ」に上戸彩さんのCMは必要なんだろうか

Packege_4 Rogo_3  サッポロ一番から地域限定で発売されている「デュラムおばさんのフェットチーネ」というカップパスタ、ご存知ですか?

 フェットチーネと呼ばれる平べったいパスタで、「お湯をかけて5分待てば本格パスタ」的な商品です。私は、すこし前にコンビニで見かけて、一度食べてみました。215円。まあ、おいしい。上品だけどね。で、人気が出て来たのか、スーパーマーケットでも見かけるようになりました。

 最近、上戸彩さん出演のCMがテレビで流れています。地域限定商品なので関東ローカルのスポットだと思うんですが、派手さはないけどおしゃれっぽくてかわいいCM。白ホリに白い服を着た上戸さんが、パッケージを持って商品を紹介しているシンプルな構成。商品パッケージに描かれた「デュラムおばさん」がイタリア語で何かしゃべっていて、上戸さんがおばさんの口もとを指で押さえる。そんなストーリー。

 このCMを見て、自分が注目していた商品のCMがやってることに、「おっ、やってる」とは思ったものの、なんとなく、「これちょっとおいしいかもなあ」と密かに感じていた自分のちいさな楽しみがこわされた感じもありました。「デュラムおばさんのフィットチーネ、食べたことある?あれ、おいしいよ。」と人にすすめる楽しさがなくなるやんか、みたいな。

 ネーミングやパッケージデザインを見た限りでは、商品設計的にも「Spa王」とは違って、口コミで徐々に広がっていく的な感じになっているのに、上戸さんか、と思いました。これによって、口コミが「デュラムおばさん」から「上戸さんのCM」に変わってしまうと思うし、それは長期的には損だよな、と思います。

 ま、人がやっている仕事ではあるので、どうでもいいと言えばいいのですが、こういうところに今の流通とか広告の置かれている微妙な状況があるのだろうとも思います。口コミを信じ切れるのかといえば、きっと限界はあるでしょうし、POSで管理された今のコンビニ、スーパーの棚を考えると、ある程度は瞬間風速的なコミュニケーションも必要になってきます。「口コミを信じて、じっくり待ちましょ」と言い切れない状況もあるでしょう。

 じゃあ上戸さんに、ブログとかインタビューとかで「デュラムおばさんのフェットチーネが、最近のお気になんです。」みたいに語ってもらえばいいじゃん、みたいなことですが、そう思った時点で、その手法というのは、その商品を出している企業から閉じられてしまうというのが、私は「口コミ」だと思います。それでもやろうとすればやれるとは思うけど、でも、その一線を超える企業は、どこかでそのコミュニケーションの魂みたいなものをスポイルしてしまうのでしょう。

 今、タレントCMに代表されるようなマス広告も曲がり角ですが、インターネットの成長とともに、その可能性を高らかに誇ってきた「口コミ」も今、曲がり角のような気がします。「口コミを信じましょ」という場合の「口コミ」は、このブログで書いているような、どこからも頼まれもしないのに「ディラムおばさんのフェットチーネ」について書いてしまうような自然発生的な口コミであって、その自然発生的な口コミを誘発する状況はつくれるけれど、それを組織化したりシステム化すると、集まってくるのは無料もしくは格安で商品がもらえるといった別の動機の消費者を呼び込むとこになるし、口コミが「仕込み」に転換すると、その価値も180度変わってしまいます。

 ウェブだからといって、人の価値が大胆に変わるわけでもなく、かつてウェブで「先進的」と言われていたものの「先進的」という衣の陰にかくれていた「うさんくささ」が表に出始めているのが今だろうと思います。けれども、情報の消費のスピードだけは、どんどん速くなって、「口コミ」を待っている間にどんどん時代から取り残されてしまう。そんな、ちょっとしんどい時代なのかもしれません。

 「デュラムおばさんのフェットチーネ」に上戸彩さんのCMは必要なんだろうか。

 そういう問いかけに、いらねえんじゃねえの、と即答できない状況が一方であり、だからといって、手放しで肯定もできない、そんな感じの広告コミュニケーションの現在です。しかしまあ、いろいろ難しいですね。

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2009年3月 1日 (日)

制作側で「コミュニケーションデザイン」を設計する一人として

 前回のエントリ「「制作のやつは馬鹿だから」みたいなことがあるのかもね。」でコメントをいただきました。いろいろ考えさせられるコメントでしたので、エントリにしてコメントに答えてみたいと思います。

私は、広告を発注するサイドの人間なのですが、今回のエントリーを拝見して、ブリーフした後、制作サイドでは、やはり、こういうことが起きているのか?と複雑な心境になりました。新しいパラダイムが導入されて、結果が出る前の間は常にこういう葛藤がありますよね。「広告人さん」の意図は、コミュニケーションデザイン自体を否定することではなく、プランナーが上目線で独りよがりで、クリエイティブと一緒に課題解決しようとしないことに対する問題提起ですよね?私は、広告代理店に対しては発注側ですが、社内では、そうした新しい試みを定着させていく推進派の役割を負っています。その視点から、「広告人さん」のエントリーを読むと、本当に示唆深いです。「広告人さん」がプランナーに対して抱いているような感情を関係者に抱かせてしまっては、新しい試みはうまくいかないのだと。その際、推進者(≒プランナー)として、取るべきスタンスについて、お聞かせ頂けると嬉しいです。よろしくお願いします。

 前回のエントリに書いているような事柄は、どこの分野でもある「勘違い」を題材にしているので、コミュニケーションデザイン全般の話としては一般化できにくいだろうと思います。おっしゃるように、それが今旬の新しいパラダイムだからこそ、ある種の「勘違い」を誘発している面があり、いずれは過渡期の笑い話としてこなれてくるだろうな、とは思うんですね。

 制作側の反省としては、エントリの自称コミュニケーションデザイナーの制作に対する定着への敬意(に見える軽視)は、やはり、現実として制作の大部分が定着の人であるというのもあるのかもしれません。これも一般化は難しいかもしれませんが、私の認識では、少なくとも広告会社においては、制作≒プランナーであるべきですが、制作側にもその修練が足らない現状もあるのだろうなと思います。

 逆に言えば、制作経験のないプランナー側は、定着についての認識が甘い、というのもあるかもしれません。もしきちんとした認識があれば、エントリの自称プランナーのような、全制作も含めた全機能を手足のように使おうとする「上から目線」ではなく、自身の構想に共鳴する仲間をまず探すことからはじめると思うんですね。

 つまり、そこで、人を選ぶという過程があるはず。その過程を経ないと、新しい試みには反発があるだろうから頓挫することは、コミュニケーションの専門家であれば容易に想像できるはず。また、その時点で従順な制作は、自身の構想を十分に定着してくれないだろうとことも想像できるはず。

 頓挫は発注先への成果物の質的低下につながります。過渡期の実験であるということもあるでしょうが、その実験過程でのいわゆる「はずれくじ」を買わされる得意先はたまったものではないのだろう、と私は考えます。

*     *     *     *

 私は、実際の仕事でのコミュニケーションデザインを実施している制作者でもあり、この新しい試みを実施するにあたってのもろもろを書きたいと思います。こういう話は具体的なほうがわかりやすいと思いますので。

 時代の先端手法であるコミュニケーションデザインの神髄については、書籍などで触れていただくとして、こうした流れの中で、いわゆる中堅代理店の制作が、現場でどのような解釈で、予算的にもいろいろ制限が多い仕事の中、効果を最大化していくためにコミュニケーションデザインを応用しているのかを主眼に書いていきますね。神髄については、多分に「禅問答」的な部分があるので、私にはわからない部分もありますし、こういう地に足ついた感じがブログの良さでもありますしね。そのへんは、あらかじめご了承くださいね。

 はじめにコミュニケーションデザインを定義ですが、これは最近広告の分野で言われている狭義のコミュニケーションデザインを指しています。広義では、単にコミュニケーションにおけるデザインを指すようですが。

 コミュニケーションデザインは、メディアの全領域を立体的なひとつのメディアとして考え、その立体的なメディアを構成する下位のメディアにおけるコミュニケーションを、そのメディア特性を考え効果を最大化できるエピソードにすることで、そのひとつひとつのエピソードの相乗効果で、全体のコミュニケーションをストーリーとして見せていき、通常のマス投下だけのコミュニケーションでは得られない効果を指向していく広告の方法論だと把握しています。

 下位のエピソードの事例では、gooの街頭Tシャツキャンペーンやユーザ参加型サイトなど、通常の広告とは違う個性的な施策が目立っていますが、それはコミュニケーションデザインを構成する一部であり、その個性的な施策=コミュニケーデョンデザインではなく、それも含めたストーリーの設計がコミュニケーションデザインと呼ばれるものだろうと思います。

 実務においては、そういう個性的な施策だけでなく、あらゆるメディアにおける表現が、上位の設計の一エピソードをなすものになります。つまり、ひとつのエピソードがこけると全体のストーリーはこけるという構造を持っていて、制作実務では、あらゆるメディアの定着管理が、これまでの手法とは考えものにならないくらい重要になってきます。

*     *     *     *

 ここからは、中堅で働く制作である私の本音モードで。

 具体的に言えば、作業が10倍増しなわけですね。当たり前ですよね。今までみたいにテレビCMつくって、新聞広告つくって、リサイズ、リサイズではすまなくなりますから。それは受注側だけでなく、発注先もたいへん。でも、このたいへんさは省力化できないたいへんさなわけです。なぜなら、ひとつ手を抜くと全体がこわれるから。

 いきなり小さな話で申し訳ないですが、たった1枚のDMでさえ、いままでのような安易なつくり方ではすみません。それに、ひとつひとつの表現も大事ですが、メディアを立体的に見ながら、時系列でもその変化を考えるので、スピード感覚も桁違いです。私の認識では、コミュニケーションデザイン的な手法の成功は、このスピード感覚も重要な気がします。決断の速さや修正を恐れない強い心というか。

 もちろん初期設計段階もたいへんなんですが、実施におけるたいへんさもすごいものがあり、また、設計と実施が同じ担当者でないとできない方法論でもあります。初期設計が壮大で、実施段階でいろいろあって失敗してしまうケースが多いですよね、このコミュニケーションデザインは。

 なので、コミュニケーションデザインは、発注先、受注先も含めて、良好な関係と即断できる風通しのいい組織がなによりも大切な手法なわけで、それが今まで以上に密接に定着にひも付けされているという手法なんですね。

 変わったTシャツ着た人を街頭に出して話題をつくりましょ、だけがコミュニケーションデザインではないんです。それは、コミュニケーションデザインの一部ではあるけれど。

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 そうなると、制作側としてはどうなるか。マスを経験している制作というのは、テレビ大好き、30段ヤッホーな人たちなわけです。ぶっちゃけすぎですが。でも、そういうメンタリティでは困るわけなんですよね。それは、同じように自称コミュニケーションデザイナーさんにも言えることなんですけどね。派手な初期設計だけでは、コミュニケーションデザインは動いていかないわけなんですね。

 この分野では、純粋なプランナーというのはあり得ないのではないか、と私は思っています。つまり、それを設計し仕切る人は定着について責任を持たなければならない。その長期にわたるもろもろの作業についての責任を持とうと思う人でないと、失敗をするやり方なわけです。その責任をあいまいに考えるならば、マス低調と言われる今でも、マス投下型の従来のやり方の方が効果があります。

 それは覚悟と言い換えてもいいかもしれません。私の制作スタッフについては、DMであろうとおまけであろうとテキストバナーであろうと、等価かつ同じ力で取り組む考え方の徹底に苦労しました。それは自分も含めてですけどね。それと、これについては、発注先から学んだことでもありますし、その結果から身にしみたことでもあります。

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 私としては、今も段階では、「コミュニケーションデザイン指向」の制作はプランニングを、「コミュニケーションデザイン指向」のプランナーは定着を、きちんと身につけたほうがいいと思っています。もう時代がそうなっているんだから、互いの領域の浸食なんて言わなくていいと思うんです。重要な部分を人任せにする思考は、時代遅れです。

 で、そうした努力の中で、自然と優秀な専門性を持った人が引き寄せられるはずで、今活躍するコミュニケーションデザイナーでいい制作がついている人は、そうした自然過程を経ているはずで、かつては外部スタッフの協力を含めて、手探りで未体験の定着に取り組んで来た人です。つまり、定着の責任を自分に帰させてきた人。

 制作である私なんかも、私の場合は元CIプランナーではありますが、その過程で、私の取り組みに興味を持ってくれる優秀なプランニング領域の人との出会いもありましたし、営業の信頼もその過程で得てきました。そういうことからできた信頼が、いいチームをつくると思うんですよね。なんか、きちんとした答えにもなっていないし、結論が凡庸で申し訳ないんですが。

関連:定着のイメージを持たないコミュニケーション・デザインの気持ち悪さ

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2009年2月 7日 (土)

継続が速度を上げる

 ♪ガリガリ〜クン ガリガリ〜クン ガリガリ〜ク〜ン 

 たとえば、ガリガリ君のTVCMのコミュニケーション速度。その速さは、同じ歌詞、同じメロディで、何年にもわたって継続しているから出ているものでしょうね。年長組が歌ってるのを聴いて、年下の子供たちが真似をして、そういうサイクルがずっと続いているのだと思います。初見だと、今のコミュニケーションの速度には到達していないはず。

 このいいサイクルがあるおかげで、通常のコマーシャルより、ガリガリ君のコミュニケーションのコストはずっとずっと下がっているはずです。何クールかでタレントを変え、コミュニケーションのコンセプトさえも変えてしまう数多のブランドより、ずっとずっとコミュニケーションの効率は高くなっていると思います。

 この効率の高さは、何億円をつんでも手に入れられないもの。もし、どこかのアイスキャンディー屋さんが、「いくらかかってもいいから自社のブランドを、ガリガリ君のように、いつでもコンビニに置いてあるようにしてほしい」と言われても、なかなかできるものではないと思います。

 ある一方向のベクトルとしては、広告コミュニケーションはアイコン化を目指すものだろうと思います。信号の「止まれ」を意味する赤。これを一夜にして青に変えることはできません。言葉のコミュニケーション速度の優位性は、この領域に入ると、確実に逆転します。色、音、カタチの絶対的優位がそこにはあって、私なんかの言葉をベースにする広告制作者がアートや映像ベースの広告制作者に対して抱く憧憬みたいなものは、この部分だったりします。

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 追記です。YouTubeの「ガリガリ君のCMを集めて見た!!」という動画の引用を追加しました。それにしても、見事なマンネリ。素敵です。私は、こういうのこそブランディングのお手本だと思うんですよね。本気で。だって、いろいろ長くやってたら自社のCMでも飽きるし、調子が悪いときには、CMを変えたくもなると思うんですよ。右肩上がりだけではないですからね。特にコンビニ商品は。

 こういうの、簡単にできるようで、なかなかできることではないんですよね。

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2009年2月 6日 (金)

言葉の速度について

 広告は見てもらえる、みたいな気持で作るなというのは、マス広告の危機だなんだといわれる前からよく言われることで、とあるクリエイターは、きれいなポスターをつくってきた後輩クリエーターに対して「キミ、この広告で人が振り向くと思う?例えばさ、白いポスターの真ん中にうんこがあるとするじゃない。それ、気持いいかどうかはともかく、見るよね。そのうんこのポスターに勝たないといけないのよ。」と言ったそうです。まあ、うんこのポスターは極論だとは思いますが、広告は、「そんなもの誰も見るかいな」みたいな気持でつくってちょうどいいんじゃないか、と思います。

 新聞広告でも、テレビCMでも、ポスターでも、ウェブバナーでも、広告である限り、まずは見てもらうことが大事。でもそれは第一段階クリア、みたいなことに過ぎなくて、そのあとの段階がいくつもあります。これだけ情報が多くなってきた今の世の中、人々の広告に対するスルー力はかなり上がってきています。ちょっとうっとおしいな、と思われるだけで、華麗にスルーされてしまうんですよね。

 なので、広告の言葉は、どうしても読みたくなるくらいの魅力、もしくは、言いたいことがストレートかつすぐに伝わる「速度」が求められます。魅力の部分は、まあ魅力的な言葉をつくりましょうってことだから、あまり語ることもないんですが、「速度」については、広告独特のものでもあるし、ここが文芸の言葉と広告の言葉の決定的な違いのような気もするので、ちょっと書いてみます。

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 たとえば、とあるキャンペーンが2月28日で終わるとして、そのことを「あ、終わってしまう、急がなきゃ」と思わせるコピー。次の2つのコピーのどちらをチョイスするべきか。

2月28日終了。

2月28日まで。

 この2つのコピーは、「速度」という観点からは明快な違いがあると私は思っています。特に調査をしたわけでも実験をしたわけでもありませんので、あくまで私は、ということですが。答えは、下の「2月28日まで。」です。

 理由は明快。「終了」が頭の中で音に変換されるときに「終了→しゅうりょう」という1プロセスが必要なことに対して、「まで」はそのまま見たままで音だからです。その余分の1プロセスで、人の感情における理解の「速度」は遅くなります。しかも、「まで」は音が2つに対して、「しゅうりょう」は「しゅ」を1つと数えると2倍の4つ、数えなければ3倍の6つあります。

 よく広告コピーでは「なるだけ漢字はひらけ(ひらがなで表記しろ)」と言われます。「下さい」は「ください」のほうがよく、「私達」は「私たち」のほうがよい、みたいなこと。これは、誰にでもやさしく表記するという部分もあるけれど、きっと速度の問題でもあるのでしょう。で、ここで「私」はひらきませんでした。これは、「私」という漢字は、ひらがなの「わたし」より速度が速いからです。たいがいの漢字はひらくほうが速度が速く、日常で頻出する簡単な漢字は、ひらがなより漢字のほうが速度が速いということなんですね。

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 広告コピーをつくる人。コピーライターという職業ですが、華やかな言葉をつくる職人(ってもう誰も思ってないかもですね)であるだけでなく、こういう「速度」みたいなものもねちっこく考える職業でもあります。最近、広告がやたら多様化してきて、広告のコピーはインパクトでしょ、みたいな感じになってきて、そういうのなら誰でも書けるみたいな空気がさみしいのですが、まあ、それでも自信をもってコピーライターと言える人たちは、こんなことも日頃から考えていることをちょっとお伝えした次第です。

 これからの世の中、コピーひとつの表現の良し悪しって、結構大切だと思うんですよね。クリエイティブって、販売促進の中では何気に「予算削減」の機能を果たすので。目的に対して100万円かかるところを、広告の表現が優れていると50万円で済むみたいなことはありますから。ビジュアルの良し悪しは予算の多い少ないに左右されがちだけど、コピーは基本はそれがありませんしね。

 1千万円かけてつくった豪華なポスターがB倍2連貼りであったときに、隣に4分の1の大きさのB1ポスターで、しかも白地にコピーだけの超低予算ポスターを貼って、その1千万円ポスターを圧倒する快感みたいなことを昔、仲畑貴志さんがおっしゃっていましたが、まあ、そんな感じですよね。特に物量作戦が取れない小さな会社なんかには、言葉の力って、すごく有効だと思います。そういう意味では、これからしばらくは言葉の時代が続くんじゃないかな、と思っています。

関連:継続は速度を上げる

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2009年2月 3日 (火)

ちょっと前までは広告のことしか考えてなかった

 これ、誇張なんかじゃなくて、ほんとにそう。もちろん、牛丼を並にすべきか大盛りにすべきか、それとも卵を付けるべきか、とかは考えてましたよ。でも、たいていは広告のことばかり考えていた。ということは、広告のことしか、というのは間違いなんだけど、まあ、そういう言い切り、気持ちいいじゃないですか。

 広告のこと以外も考えるようになってきたのは、最近かも。それまでは、ああだこうだといろいろ考えるけれども、広告のまわりでいろいろ考えていただけで、半径1クリックじゃないけれど、わりと狭い範囲で考えていたように思います。今も狭いことは狭いんだけど、それでも、思考が広告からはみ出したりもしている自分に、ちょっと驚いたりしています。

 広告というシステムが過渡期に来ているから、というのもあるけれど、それだけではないような。逆に、広告からはみ出した部分で考えるから、過渡期としての広告を新しい視点で考えられるようになったというのはあるかも。なんていうか、肩の力を抜いて広告を考えられるというか。なんでしょうね、この感じ。土の上にある茎とか葉っぱじゃなくて、地下茎の広がりというか。

 そういう意味では、言うほど危機感はないんですよ。私の場合は。わりとオールドファッションの広告屋は、危機感ありありだろうなんて思われているかもしれませんし、東洋経済なんかの特集を読んで、やべえよ、やべえよって騒いでるイメージありますけど、私はそうでもないです。もちろん、それでまわりの空気が淀んだり、貧すれば鈍するみたいなことは、やだなと思いますよ。でも、まあ、それもしょうがないな、みたいな感じ。とりあえず、私は、それでも元気です。

 こういう状況のとき、あっ、俺の時代が来たな、みたいなこと思うほうが精神的にはいいし、ほんとにクラッシュしたらクラッシュしたで、しょうがないしね。でもね、やっぱり、私の予想ですが、今のような広告はこれからも残ります。コアの部分はね。それで、表面上というか、形式的な部分は縮小はするだろうけど、コアの部分のカタチを変えた拡大は当然あるだろうし、そのときに、ある意味で、今までの広告以外のところの思考はもっていないと駄目だろうな、という感じはあります。柔軟にいかないと。

 全体の受け皿が縮小して、もしそれで私が残れなかったら、別のとこいくし、その別の場所でも、コアの部分は広告をやっているとは思うんですね。思考としての広告というのか、なんというか。なんか、そのへん楽観的じゃないとしんどいですよね。不況、かかってこんかい、という感じ。

 あれ、いつのまにか、いつまでも広告だよね、という話に変わってますね。でもまあ、広告以外のことを考えられるようになってきたのは実感なんですよ、というお話でした。ではでは。

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2009年1月20日 (火)

広告は作品か

 面白い論議には乗っておくが吉なので、私も考えてみます。というか、このテーマ、このブログでも何度も何度も書いてきているので、あらためて考える、かな。(興味のある方は、下ほうにある@niftyブログ内検索で「広告 作品」で検索するとある程度追えるかもです。)

広告批評の欺瞞: おまえはその広告を褒めているが、その広告を見て商品を自腹で買ったのか? - analog

広告=作品論の是非 – smashmedia

 まず、ブログ「analog」のhidetoxさんの論点。これに尽きるでしょうね。

広告評論の欺瞞、それを私は次のように告発する:おまえはその広告を褒めているが、その広告を見て商品を自腹で買ったのか?

 まあ、確かにね。「買わないし、買いたくないけど、評価する」とかね、そういうのは多いですよ、実際。なぜそうなるか、というと、まあ、あれです。身も蓋もない話をすると、広告制作者って多い訳ですよ。作家になりたかった、とか、画家になりたかったとか。だから、その表現が広告という枠組みを離れれば離れるほど評価したがる。新しい広告の可能性とか言って。(私は、とある高級外車の広告を担当していたことがあって、それは自分では買ったことがないです。自分がターゲットじゃないし、そんな余裕もなかったから。でも、こういう話ではないですよね。すみません。余談でした。)

 崩れ系が多い広告制作者。

 これが駄目と言いたいわけではなくて、むしろ、私は若いときそういうことを一度も思ったことがない人は、すごく高い確率で広告制作者には向いてない、とも思っていて(たまにものすごい例外はあるけど)、どこまで言っても、広告表現っていうのは、そういう言葉やビジュアルが持つアート性みたいなものを利用してつくるわけです。それは、ロートレックの時代からそう。元電通関西の堀井さんの言葉ですが、ご紹介します。

広告を芸術に利用するんやない。芸術を広告に利用するんや。

 私は、この言葉は至言だと思っていて、自分が仕事をするときは、出来る限りこの言葉に忠実であろうと思っています。世の中の「これは商品が売れるだろうな」とか「実際に広告で商品が売れたよな」という広告を批評的に見てみてください。涙ぐましい「芸術の利用」がそこにあるから。写真、イラスト、音楽、その他もろもろ。

 もちろん、その広告の戦略みたいなものが間違っているとものは売れない(売りが目的でなければ効果は生まない)し、そこも含めて広告の設計だとは思いますが、その設計だけではやっぱり広告はつくれないです。例えそれが芸術性がゼロに見えようとも、その素人くささはやっぱり芸術が寄与しているわけです。それは、お笑いの世界でいうと「天然」を評価する、ということに近いですね。で、この「天然」の領域。真似してもできるものではないので、私はその領域は敬して遠ざかろうと思っています。

 それと、広告の役割は、長期的に見ると、すべてが「売り」なんだけど、短期的に見ると「売り」だけじゃなく、最終的に安定して「売れ続ける」ための投資ということもあります。それを「ブランド」とか言ったりするけれど、この「ブランド」という言葉がくせ者で、当人の好きなように定義できます。なので、私はなるだけ使わないです。その場合は「知名度を上げる」とか「マインドシェアを高める」とか「ポジショニングを変える」とか具体的な目標設定をします。

 でも、hidetoxさんの苛立も分かります。多くの広告制作者と広告作品を批評する人たちって、ビジネスについて「甘ちゃん」だからね。それと、私は広告制作者だから分かりますが、芸術性が高いけど広告になっていない広告作品を、ありゃ駄目だね、って言うのは勇気がいるんです。ルサンチマン風味が加わるから。制作者以外の人は、わりと素直にそれが言えるのでしょうが、制作者はなかなかそれが言えないんです。で、黙っちゃう。そういう感じかな。

 続いて、ブログ「smashmedia」の河野さん。私もほぼ同意です。

広告=作品論と、その否定論は極右と極左な感じがしていて、大事なのはきっとその間にある。今はまだ広告を絶賛する人の声が大きすぎるので、反対派がもっと増えたほうがいいんだろうな。

 そうですよね。大事なのはその中間。ただ、これはバランス論というのではなくて、私なんかは、広告をやるときは、徹底的に「芸術」を利用しつくしたいと思っているので、そういう意味では、私は、自分の広告をある種の「広告作品」でもあると思いながら広告をつくっています。でも、それは広告「作品」ではないですね。まあ、他人が評価して、それを「作品」と呼ぶぶんには何の問題もありませんが。広告活動も広く言えば「文化」だし、商いを含めてそこに「文化」を担う気概がなくなったら、それこそ世の中終わりだし。

 若い頃は、そのへんの整理があまりついていなかったけれど、今は完全に広告原理主義でやっています。まあ、若い時はしょうがないんですよね。自分のキャリアを高めたいという、広告にはまったく関係ない動機が働くから。で、それをコントロールするのは、上司の仕事なんだろうな。

 あと、補足的に言えば、今の時代、かつて効いた広告表現手法が徹底的に効かなくなってきているのはあると思います。かつて輝いていた広告表現手法は、今出すと「ああ、広告だよねえ。ご苦労さん。」となってしまうような気がします。広告制作者界隈では、けっこうこの社会の変化は残酷。今まで自分が積み上げてきたスキルが無意味になってしまうんだもの。

 そんな時代のリアルな表現って何だろう、というのが私の今のテーマであって、手応えがあるかと思えば、するりとこぼれる毎日ですが、なんかあるとは思っています。たぶん、それでも旧来の表現手法は生き続けていくとは思うんです。でも、私は、旧来の表現手法を守っても、私にとっていいことがある場所には今いないし、ちょうどそれを考えるいいポジションにいるかもな、と思って模索しています。なんか広告が、その行為を含めてリアルに思える企て。それを見つけたいなあ。そんな感じで、中途半端な規模の広告代理店にて仕事をしている次第です。ではでは。

関連エントリ:

なぜ広告を作品だと思ってはいけないのか。(広告のing感の話。少し論点は違うけど。)

広告を芸術に利用するんやない。芸術を広告に利用するんや。(堀井さんの言葉についてのエントリです。)

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2009年1月11日 (日)

「したたか」でいこうぜ。

 僕のブログは、ふだんは主に広告実務のあれこれを書くことが多いです。役立つ知識だったり、僕自身の広告についての考え方だったり。そんな記事は、これから広告業界で働こうと思っている人とか、広告業界で働く若い人が、ためになるなあ、なんて感じで読んでくれていることも多いかと思います。また、同じくらいのキャリアの人とか、もっとベテランの方なんかは、おまえの考え方は違う、なんて読み方もされているかもしれません。どんな読み方にせよ、いつも読んでくれて、ほんとうにありがとうございます。

 これから、広告業界はきっと今より規模がずっとずっと小さな業界になっていくと思います。少なくとも、ここしばらくは縮小傾向が続くはずです。僕が所属する会社だって、いつまであるかわかりません。大手も、当面、会社消滅はないにしても、人員削減は避けられないでしょう。もしかすると、今年の中頃あたりに大型合併があるかもしれません。みんな、生き残りに必死です。

 きっとこれからリストラがはじまります。ここまでの状況になったら、いよいよ弱い人が標的になります。弱い人とはどういう人か。それは、志なかばの若い人のことです。これからもっともっと勉強をして、いろいろな経験を積んで、一人前になろうとしている人のことです。この人たちが直面する災難の特徴は、その予兆がないことです。それは突然やってきます。

 ある程度のキャリアがあれば、それまでの間に、次第に自分に与えられる仕事が少なくなったり、責任が著しく小さい仕事ばかりが与えられたり、本人が自覚するかどうかはともかくとして、その予兆はあるものです。しかし、若い人にはそれがありません。チームに所属し、そのキャリアに応じた仕事をこなす日常を過ごしている限り、さしたる疎外感も持ち得ないでしょうし、チーム全体としてはうまく回っている状態なので、本人にとっては寝耳に水になってしまうのです。それは、僕がCDになって理解できたことです。

 僕は、デザイン会社から、広告制作会社を経て、外資系広告代理店へとキャリアを進めてきました。その間には、バブル崩壊と、外資系広告代理店ブームの沈滞化という2つの時期を経験しています。ちいさな広告制作会社、特に広告制作職は、クビが当たり前の世界です。また、外資系も同様です。制作職は、英語を武器にしている人も少なく、いわゆる外資渡り鳥な人も少ないと思いますし、大手ではない広告業界と外資系がクビ上等な世界だと知るのは、やはりある程度の経験が必要なので、若い人はどうしてよいのかわからない状態になってしまうと思います。

 たくさんの事例を今まで見てきました。悲惨な事例もあったし、そのリストラがきっかけに、長い目で見れば、それが、その人の人生にとっていい契機になって、その後の幸運をつかんだ事例もありました。そしてまた、その人が対象になったのは、若い人の場合、ある程度は偶然の要素が大きいことも多かったように思います。運が悪かったとしか言えない事例も多々ありました。つまり、誰でもよかったけれど、たまたまあなただった、ということです。

 はじめから一人前になれる人はいません。だから、一人前になる途中で、はい終わり、という状況に絶望を見てしまうかもしれません。あなたがあなたなりに一生懸命仕事に取り組んできた人であるならば、多くの人があなたに同情するでしょう。会社が悪い、経営は何を考えてるんだ、あなたより辞めさせたほうがいい人はいるじゃないか。あいつのほうが働いてないのに生き残るのは上司に媚を売っているからだ。

 あなたには、こういう同情や善意に感謝すると同時に、やるべきことがあります。それは、あなたが置かれている状況を正確に把握すること。箇条書きにして確認してみてください。その状況把握に感情を持ち込んではいけません。自分のことは甘く計算しがちです。でも、なるだけ感情を排除すべき。そして、同情や善意を取っ払った上で、あなたが信頼できると思う人に相談をすることです。その人は、あなたに対して批判的なことや厳しいことを言えれば言える人ほど、信頼できる人という基準で考えてください。大切なのは、前を向くとこです。前を向くことに、慰めは必要ありません。

 「したたか」でいてほしいのです。自分の未来に対して「したたか」でいてほしいのです。「こずるく」生き抜く才能がなかったあなただからこそ、「したたか」さが必要なのです。

 本当にやりたいことは何ですか。あなたが今やれることは何ですか。やりたいこととやれることのバランスはどうですか。冷徹に自分を見つめてください。生きていくことも重要です。縮小していく業界で、これからもきちんと楽しく食っていく自信がありますか。そこまで追いつめて考えられたら、可能性はかなり広がっているはずです。

 ここまで読んで、このブログを書いている僕、つまり、今日も明日も安穏と外資系広告代理店で働きつづけるお気楽なCDごときに私の気持ちはわからない、と思う人もいるかと思います。本質的には僕にはわからないのかもしれません。僕は、今まで、すべて自発的に会社を辞めてきましたし、そもそもその時の時代が今とはかなり違いました。今ほど厳しくはありませんでした。無茶な辞め方をしたこともありますし、それでもなんとかやってこれました。でも、今は状況が違います。

 このエントリを書く僕も、このエントリの未来の読み手のひとりです。もし僕がその状況に追い込まれたとき、このエントリを読み直そうと思っています。僕は、これからもこのブログで、縮小していくこの業界の希望を書いていきたいと思います。だからこそ、このエントリは、広告ブログのはしくれとして、今のこのタイミングで書かなければいけないエントリだと思って書きました。今の僕には、業界を根本的に変えていく力も、経営にコミットする力もありません。僕が今書けることは、自衛策しかありませんでした。

 最後に僕が今考えていること。この時代になって、僕は今、自分がやりたいことは広告業界でなくてもできるのかもしれないと考えるようになっています。でも、縮小していくこの広告業界で、まだ僕に価値がある限り、僕はこの業界にいようと思っています。広告が好きだし、この業界で生きていきていくこともできるだろうという自己認識があるから。でも、この業界がこの先、もっともっとつまらなくなるか、それとも僕をこの業界が必要としなくなるとき、いつでも違う場所で生きていくつもりでいます。そのための準備を始めています。

 僕の場合、本当にやりたいことは何かと考えたとき、それは、究極的には広告をつくることではなく、言葉を核にしたクリエイティブなのだろうと思うようになりました。僕は、その一点を大切ににしながら、これからはもっともっと「したたか」でありたいと思っています。

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2009年1月 2日 (金)

新聞の元旦企業広告に見る2009年の気分

 こんな時代になっても、元旦の新聞広告はそれなりにお金がかかるし、企業も力が入るもの。てなわけで、2009年の企業広告のキャッチコピーをご紹介しながら新しい年の気分なんかをあれこれ考えてみましょうかね。暇だし、自分のかかわった広告はこの中にないから気楽だしね。ソースは朝日新聞(大阪版)本紙です。

ことしモ〜 メグミルクをよろしくお願いします。
(MEGMILK)

不便は便利。 「紙の本」は、ネット社会の中で人間の感覚が求める“最先端のスロー・メディア”です。
(新潮社)

活字の力。
(文藝春秋)

確かな「言葉の力」のために
(三省堂)

岩波新書創刊70年 いちばん古く、いつでも新しく。
(岩波書店)

英語力・日本語力グレードアップ宣言。
(大修館書店)

本が、読みたい。 ときどき無性に読みたくなるのは、なぜだろう。しばらく読まないと不安になるのは、なぜだろう。
(講談社)

百年後だって、人間はきっと変わらない。
(新潮文庫)

本のちから 人類の知的財産を次世代に
(光文社古典新訳文庫)

人は、本と向き合いながら自分と向き合っている。
(集英社)

本を読んであげるは抱きしめてあげるに似ている。 本は愛を伝える。小学館の学習雑誌と児童書
(小学館)

走り出せば、その先にきっとうれしい未来がある。
(TOYOTA)

日本人はなぜ、家を「うち」と呼ぶのだろう。
(積水ハウス)

「ありがとう」とミツバチは言った。「こちらこそ」と花も言った。
(キヤノン)

ハイブリッドカーを、安くつくれ。
(HONDA)

花であり、月であり。
(花王)

がん征圧をめざし今年も努力します。
(日本対がん協会)

99年分の日立の技術が、2009年の地球にできること。
(日立)

エコアイディアの家にくらそう。
(パナホーム)

おとそが過ぎたんじゃないんです。家が、何だかあたたかいんです。
(大和ハウス)

ハート温暖化。
(髙島屋)

人も地球も輝かせる製品で、新しいくらしを世界へ送ります。
(パナソニック)

 出版が10、住宅が3、自動車が2、干支である牛をモチーフにしているのが、メグミルクの小さな突き出しだけでした。少し前なら、元旦の広告は干支を使ったビジュアルのオンパレードだったんですが、そんな浮かれた気分でもないんですかね。

 去年がどうだかは忘れましたが、やたら出版の広告が多いです。もしかすると、これは企業広告の意味もあるけれど、実際の購買も目的にしているのかもしれません。年末年始は本が売れるし。というか、そういう実利があるから、経営側も元旦の出稿に踏み切れたのかも。私の感想としては、新潮社が面白かったですね。「不便は便利。」「百年後だって、人間はきっと変わらない。」企業としては、ネットをすごく意識しているというか、本屋としてはそれでいいんじゃないか、と思いました。

 髙島屋の「ハート温暖化。」というのは、すこし首を傾げる広告コピーでした。「温暖化」というネガティブワードをポジに反転させるような、皮肉めいた感じもなく、わりと素直に言っている様子。髙島屋は、以前からわりとこういう、何を言いたいんだろう的なあいまいな感じの広告が多かったけれど。でも、こういうなんかわけのわからない部分がある企業は、現実では強いのも事実で、かつての西武のように一本筋が通っている企業は、時代の変化に合わせる柔軟性にはやや欠ける部分もあり、こういう企業のダイナミズムみたいなものは、決して経営学では説明できないんでしょうね。

 自動車は、どちらもハイブリッドがテーマ。というか、今、それしかテーマがないから、そのテーマを語れない他社は元旦出稿を見送ったのでしょう。もしかすると、別冊にはあったかもですが。でも、各社ともに、新聞をもし使うとすると、3日以降の「初売り」でしょうね。でも、今年は「初売り」はふるわないかも。

 新聞の元旦広告で今年の気分がわかるという時代は、もう終わったのかもしれませんね。こういうの、昔は「広告批評」の役割でしたし、その時代は、こういう記事が掲載されるのは2月売りでした。時代のスピードは、どんどん早くなって、情報が消費されるスピードも速くなってきて、これなんかもね、今日は小学校時代からの知人と飲みに行くから3日分の記事として書いているのですが、こうして書くと投稿しちゃえ、と思ってしまうんですよね。このへんのスピード感が、やっぱり既存メディアとは明らかに違うんです。

 ブログを書いている身として痛感しますが、既存のメディアは、スピードということで言えば、絶対にブログのような個人メディアに負けるわけで、出版の広告が多かったのも、なにかそのあたりを暗示しているような気もしないわけではなく、そのあたり、いろいろ考えなきゃならないことも多いなと思う年の初めではありますね。

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2008年12月27日 (土)

「enは転職者とはてブを応援しています。」と、広告とネットコンテンツの新しい関係。

En

 はてなブックマーク(参照)の自社広告(はてなが用意するという意味です)枠がエンジャパンに変わりました。私は前から、はてなブックマークの自社広告枠を注目していて、前にリクルートだったときは、けっこうコピーに力があって、面白いなあと思っていました。リクルートの場合は、自社であらかじめ読み物系のコンテンツを用意しておいて、そのコンテンツの内容を想起させるようなコピーを掲載し、なんだろうと思わせておいて、自社コンテンツに誘導するというカタチでした。

 ネット広告は、アーカイブ性が少ないので、ここに事例を示せないのが残念ですが、リクルートでは、ユーザー目線のつぶやきコピー系だったように記憶しています。テキスト系のネット広告としては異彩を放っていましたが、方法論としては王道で、どちらかと言えば、広告が元気だった頃の手法に近く、見ている側からの印象としては、テキスト広告でもやり方を考えればここまでできるんだという感じでした。

 今回のエンジャパンは、そういう意味からは、リクルートと違ってグッと企業目線。企業としてどう考えているのかがメッセージされています。私がエンジャパンで面白いと思ったのは、「enは転職者とはてブを応援しています。」というコピー。これ、普通のようでいて、今まであまりなかったのではないでしょうか。ここには、なんとなくネットコンテンツと広告の新しい関係が見えてくるような気がします。

 そもそも広告って、こういうものだったのではないかな。広告主のことをスポンサーと呼んだりもしますが、そのスポンサーが持つ本当の意味。つまり、あるコンテンツのスポンサーになり支えることで広告をする、という。塩野義製薬の「ミュージックフェア」とか、大昔で言えば、日清の「ヤングOH!OH!」とか、「てなもんや三度笠」の「あたり前田のクラッカー」とか。

 コンテンツの収益モデルとして、よく広告モデルと言われますが、その広告モデルには2つあるような気がします。ひとつは「新聞・雑誌」型。もうひとつは「民放テレビ・ラジオ」型。なぜこの2つに分かれるかと言えば、「新聞・雑誌」がメディア自体がひとつのポリシーを持ったコンテンツであるのに対して、「民放テレビ・ラジオ」は放送局のポリシーが上位概念としてあるものの、「新聞・雑誌」というコンテンツに当たるものは、じつは「番組」。だから、前者は、広告はコンテンツとは独立して存在していて、後者は、広告はコンテンツと密接に関わっています。

 たぶん、このエンジャパンの表現は、後者の「民放テレビ・ラジオ」型の広告表現だと思います。エンジャパンは、livedoorクリップでもなく、Buzzurlでもなく、はてブを応援する、と(そういう意図ではないかもしれませんし、ソーシャルブックマークの代表たるはてブを応援するという意図かもしれませんが)。つまり、ここではエンジャパンは、はてブという広告媒体に出稿する広告主ではなく、はてブというコンテンツのスポンサーなんですよね。

 本来は、広告とコンテンツの関係で言えば、こちらのほうが全うな気がします。今の新聞、テレビ広告の凋落というのは、主に「新聞・雑誌」型広告モデルの凋落でもあって、テレビの広告の落ち込みは、主にスポット枠(番組と番組の間に放映される15秒枠のこと。提供枠は番組中に30秒枠で流されます。)の落ち込みが原因になっています。で、スポット枠というのは、テレビにおける「新聞・雑誌」型の広告なんです。で、ネットのスポット枠では「Ads by Google」のひとり勝ちなんでしょうね。

 このはてブのエンジャパンの広告、私のような広告を生業としている人から見ると、それなりにはてブユーザに好感を持って迎えられるような気がしますし、そう思いたい気持ちもあるのですが、そうでない人から見るとどう見えるのかが、少し気になるところです。それと、ネットコンテンツの広告は、こういう感じの「民放テレビ・ラジオ」型のほうが向いているような気もするんですけどね。(と、これを新幹線の中で書いていて、もうすぐ新大阪なので、このへんで。ではでは。)

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2008年12月25日 (木)

2008年の広告業界を振り返って。

 昨年同様(参照)、この1年の広告業界を振り返ってみます。と書き出してみたものの、どうも今年は気乗りしません。つまりは、そんなどんよりとした1年だったということなんでしょうね。2008年の前半戦は、昨年度の継続という感じだったと思いますが、後半は違いました。サブプライムの破綻に端を発するアメリカの金融危機の影響を大きく受けた感じになってきました。ただ、これは、今のところ「気分」の問題であって、その影響を実際に受け始めるのは来年からだと思います。

 朝日新聞、日本テレビ、テレビ東京が赤字に転落しました。しかしながら、これは世界同時株安の結果というよりも、企業全体の広告の出し控えという構造的な問題と、テレビに関して言うと、北京オリンピックの影響だと思います。

 広告出稿に関しては、オリンピックが期待したほど盛り上がらず、収益性が比較的高いスポット枠の不振もあったと聞きます。詳しいことはわかりませんが、大雑把に言えば、これもサブプライムに端を発した今回の金融危機の影響ではないということ。だからこそ、より深刻だということなんでしょうね。

 ネット広告も振るいませんでした。ここ最近で象徴的だなと思ったのは、「ショックウェーブのサービス終了」のニュース(参照)でした。「市場環境の悪化で広告収入が見込めず、今後の事業の見通しが厳しくなったため」とのことです。これはある意味で、ネットサービスの広告モデルの破綻を意味していて、広告モデルが駄目なら他のやり方があるのか、というと今のところ有力なモデルが見つからない状態で、来年からは各社とも試行錯誤が続くのではないかと思います。

 広告コンテンツの制作分野で言えば、今年は、広告代理店はいわゆる「コミュニケーション・デザイン」の1年だったと思います。これがブームで終わるか、それとも実のあるものになるのか、今のところ私には見えてきません。ただひとつだけ言えることは、昔のように、みんながテレビだけ見ている時代ではなくなってきたということ。それは肌で感じます。

 と同時に、こういうふうに多様なメディアに接することができる時代になってきて、逆説的な言い方になりますし、人によっては異論があるでしょうが、テレビ、新聞といったマスメディアの強さが私には際立って見えます。もちろん、かつてのような影響力は持ち得ないのは事実なのですが、様々なメディアを比較すると、その圧倒的な強さを認識させられます。

 メディアミックスのキャンペーンの場合、テレビCMの放映前と放映後では、ネットのレスポンスが明らかに違いますし、ブログや掲示板などの口コミにおいても、その元ネタとしてはテレビが最強です。その感覚は、もしかすると、元ライブドアの堀江さんにはあったのかな。そのあたりが、個人的には、他のネットベンチャーの方々と堀江さんの大きな違いだろうと思います。良くも悪くも、堀江さんにはマスが見えていたような気がします。

 こんな時代だからこそ、あえて、2009年は「マス=大衆」について考えてみようかな、と思っています。広告に携わる人間は、これまで「マス=大衆」の終焉を意識してきました。そして、テレビCMで「分衆」化したターゲットに向けて広告コンテンツをつくってきた傾向があったような気がします。でも、その「分衆」はもはやテレビなんか見なくなってしまったんですよね。

 大晦日は紅白でも見ながら、もう一度「マス=大衆」というものを捉え直してみようかな。そんなことをぼんやりと考えています。なんとなく冴えないエントリでしたが、みなさま、メリークリスマス。さあ、いよいよ2008年のラストスパート。元気出していきましょう。

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2008年12月 4日 (木)

こういうのって、ある意味で広告の理想形だよなあ。

 テレビにしたって、新聞にしたって、ウェブにしたって、所詮広告はおじゃま虫。コンテンツを中心に考えれば、広告なんてなかったほうがいいに決まっています。まあ民放なんかは、広告収入で成り立っているから、その猥雑さが民間のたくましさだったりするところはあるけれど、例えば映画館で映画を見ているときに、物語の途中でCMが入ったりすると興ざめですよね。

 基本的には、私は広告をそんな「おじゃま虫」という立ち位置をベースに考えていて、だからこそ、せめて広告はおもしろくなくちゃいけないだとか、せめて何かの役に立つものでなければならないだとか思うわけで、広告というものがそれ自体で自立しているものであるとはあまり考えていません。私がお得意さんに対して、これじゃいくらなんでも悲しすぎます、と抵抗する論拠は、ここ。広告はおもしろくあらねばならない、ではなく、「おじゃま虫」たる広告はせめておもしろくないと失礼じゃないですか、という感じです。

 おもしろい広告なんかつくっても誰も見ていないし、売り上げに寄与はしない、みたいな広告否定論を見かけたりしますが、その論とは私の考えは微妙に違います。おもしろいを美しい、かっこいいと言い換えてもいいんですが、そういうのは、必要。なぜなら、広告は「おじゃま虫」だから、そのくらいしないと受け入れられないし、つまりは効果を生み出さない、という考え方をしています。

 ま、だから、なんとなく製品やブランドの素晴らしさをまっすぐに表現する広告は、ちょっと苦手ではあります。もちろん、自ら広告であることをカミングアウトしているような広告らしい広告や、その表現自体が見事な広告は、それ自体がおもしろを表現してしまっているので、いいちゃいいんですが、中途半端な広告は、ちょっと恥ずかしく思えるんですね。(ま、自分もそういうの作ってるかもですが。)

2008y12m03d_221326977  そんな中、これいいなあ、ある意味、広告の理想がたくさん入っているなあ、という広告が、これ。Perfumeの「Baby cruising Love/マカロニ」のテレビCMで、スペースシャワーTVで放映されたそうです。時報に合わせて、かしゆかさん、のっちさん、あ~ちゃんさんが一言添えて時間をお知らせするというもの。ダンスのタイミングにもあっていて、すごく気持いいですね。

「おなかがすいたら早弁。パフュームのあ~ちゃんが午前11時をお知らせします。」
「何が出るのかな?恋話(こいばな)!パフュームののっちが午後1時をお知らせします。」
「お昼寝の時間だけど、チャンネルはそのまま。パフュームのかしゆかが午後2時をお知らせします。」

 という感じです。ちょっとユニクロの「UNIQLOCK」に企画が似ているとか、パフュームかわゆすとかを差し引いても、いい広告ですよね。そもそも、新譜のCMにしたって、新譜のCMは当たり前じゃん、という常識を取っ払ってよくよく考えれば、そもそもそんなに薦めたかったら15秒じゃなくて、楽曲全部聴かせたたらんかいな、といいう話だし、それでも広告したいのなら、これくらいの気の利かせ方というか、楽しませ方しないと広告としては駄目じゃん、みたいな理想の姿があるなあ、と思いました。

 しかも、その楽しませ方が、パフュームの新譜の世界観とは違うところから来ているのがいいですよね。そのへんの楽しませ方の太っ腹加減がすごく好ましいです。余談ですが、この手の広告は、日本の外資系広告会社は苦手なんですよね。外資の場合は、アイデアは製品やブランドに強力に結び付けたがります。こういう楽しい企画は「おもしろいけどオフストラテジーだよねえ。」とか言われてしまいがち。でもまあ、そんな不粋な人は無視すればいいだけですけどね。

 で、こういう広告は効果的だとも思うんですよね。データで確かめたわけではないけれど、こうしてYouTubeにアップされるくらい注目されているわけだし。なんとなく最近思うのは、広告をつくる人は、世の中の人はみんな広告が大嫌いだ、という前提でつくったほうがいいんじゃないかな、なんてこと。その中で、いかにして、広告を見てもらうのかを、なんかスパム的なベクトルではないところで追究したいな、と思っています。

 それにしても、最近は広告のことばかり考えています、というか、今、余裕がないから広告のこと以外考えられないというか。ほんと師走とはよく言ったものです。てな感じで、本日はこんなところで。ではでは。

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2008年12月 3日 (水)

総合の意地

 総合広告代理店という言い方があって、一頃、この言い方がかっこわるい時期があった。クリエイティブエージェンシー、ブランドエージェンシー、様々な言い換えが生まれた。当の総合代理店では、総合を名乗るために、様々な専門職種に分化していって、職種のたこ壷化が起こった。で、そこに捻れが起きていてるのが今なんだろう。

 クリエイティブ、コミュニケーション、ブランドという名のもとに、たこ壷の組織化が急がれていて、でもそれは、総合が歩んで来た末路から来る断末魔みたいなもの。総合の中のたこ壷が、市場で戦っている専門と違いがあるとすると、その責任の負い方なんだと思う。

 専門で戦っている人は、もっともっと厳しい場所で戦っているはず。実力があっても世界が変わって価値が変われば、淘汰もされる。総合って何だ。それはきっと、専門の連携なんかではなく、総合という職種なんだろうと思う。総合は多機能ではなく、思考のあり方の問題。そこでは総合としてのスキルが問われる。

 結局は、ひとりの人間の頭の中の問題だと思う。総合として、責任を負う。専門で戦う人たちと、少なくとも質的には同じ、もしくはそれ以上の厳しい場所で戦っていたいと思う。それでしか総合は専門と対等にはなれないだろう。少なくとも個人としては。総合には総合の意地がある。

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2008年11月21日 (金)

アイデアとは何か

 外資系の広告業界にいると、ことあるごとにアイデアという言葉にぶち当たります。ぶち当たるという表現をあえてつかったのは、それが、ぶっちゃけてしまうと非常にうっとうしい場面で出くわすことが多い言葉だからですね。

 外資系というのは、アイデア教の教徒みたいなところがあって、またそれが宗教的であるが故に、アイデアという言葉は様々な解釈がなされていきます。アイデアという言葉の意味は、その宗派によって違うという感じです。人によっては、アイデアとは誰も見たことのないことだったり、アイデアとは説明しにくいことをはっきりわかるようにできるメタファのことだったり。

 広告にはアイデアが必要不可欠。そういう言い方をする人が求めている広告は、たいがいは「ビジュアルとんち」だったりします。日本の広告にはアイデアがない、とその人が言うとき、それは、日本の広告には「ビジュアルとんち」がない、と言いたがっていると思って、ほぼ間違いがないと思います。

Kissmark  「ビジュアルとんち」というのは、わかりやすく言えば、私がつくった広告で言えば、こんな感じ。ストリート生まれのシューズ、というメッセージを「ストリートから生えてきたシューズ」というビジュアルに置き換えたわけですね。こういうのは、私は嫌いではないですし、自分がつくったくらいだから面白いとは思っているんですが、まあ、いわゆる「とんち」ですよね。

 この手の広告は、すごく外資系ではほめられます。でも、この手のビジュアルでなければ広告ではない、というわけではありませんよね。一手法です。(でも、この話、外資系広告会社以外の人は、そんなこと思ってねえよ、当たり前じゃんかよ、な話かもしれませんね。)

 この感じは、広告業界、とりわけ外資系に特有のものなんでしょうね。一般の社会では、わりと素直にアイデアという言葉が解釈されているように思います。一般の社会でつかわれるアイデアという言葉は、もっと実があるような気がします。

「それ、いいねえ。アイデアだねえ。それでいこう。」

 なんて使われ方をするときのアイデアが、私はアイデアだと思っています。つまり、それまでなんかうっとしい状況があって、どうにもこうにも動きようがないとき、あっ、この考え方を実行したら、もしかするとうまくいくんじゃないか、という考えのこと。

 まあ、いいかっこして言えば、みんながニコニコする素敵な考え、という感じでしょうか。奇抜さとか、新しさとかとは基軸が違うと思うんですね。奇抜であったり新しかったりするのは、そのアイデアの単なる見え方の話であって、アイデアは、その状況でみんなの虚をつくものだったりするわけだから、結果として奇抜で新しい見え方をするのが多い、というだけで、奇抜さや新しさは、アイデアの条件ではないような気がします。

*     *     *     *

 有名な本だから知っている人も多いかと思いますが、ジェームス・W・ヤングという広告マンが1940年に書いた「アイデアのつくり方」という本があって、この本に書かれているアイデアという言葉の解釈は、わりと納得させられるものが多く、ふむふむそうだなあ、なんて思います。薄い本だし、字が大きいので、すぐ読めます。まあ、同じお金なのに損した、と思う人もいるかもしれませんが、古典だし、読んで損はないのではないでしょうか。

 ジェームスさん曰く、アイデアとはこういうもだそうです。

アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない

 ラディカルですよね。この考え方は、オリジナリティとは何か、という論議でも度々出てくる考え方ですよね。で、このジェームスさんは、広告会社の人らしいところがあって、誰にでもアイデアが出せるようにアイデア創出の方法を明らかにしているんですね。なんでもメソッドにしてしまうところが、なんとも広告会社の人らしいです。

1. データ集め
2. データの咀嚼
3. データの組み合わせ
4. ユーレカ(発見した!)の瞬間
5. アイデアのチェック

 ユーレカというのは、ギリシャ語で「我、発見せり」という意味です。データ集め、咀嚼、というところが広告マンらしいですが、そこで「組み合わせ」が出てくるところが、ジェームスさんのラディカルなところ。最後のチェックというところは、広告マンらしさがありますが、組み合わせと言い切ってしまうところが、とってもいいですよね。

 でもねえ、私、うがった見方をするわけです。きっと、ジェームスさん、ユーレカがすごく得意だった人だと思うんですね。ユーレカは誰にも負けない自信があったんでしょうね。だから、こんなに開けっぴろげに「アイデアなんてものはなあ、所詮は組み合わせなんだよ。世の中には、新しいものなんてねえんだよ。」と言えるんでしょうね。

 そのあたりが、この本の魅力でもあるんでしょうね。私は、アイデアは、やっぱりこのユーレカがすべてを決めると思うんですよね。このユーレカみたいな発見する力は、知識とか体験の質と量がものを言うし、それを補う理解力や想像力みたいなものが大切になってくるし、チェックするにしても、基準となる経験がなければチェックしようがないわけだし。

*     *     *     *

 アイデアが出たなあ、と思う時って、私の場合は、たいがいは何気ないときだったりします。起きて、眠いなあ、もう少し寝ていたいなあと思っているときとか、飯を食っているときとか、そんなときにアイデアを思いつきます。もちろん、それまでああだこうだ、データを読んだり、考えたりしているんですが、出てくる時は、たいてい何気ないとき。

 それで思いついて、それを実行したときのことを想像してみて、「あっ、これはいけるかもしれんなあ」と思えるときは、そのアイデアは自分の中でお買い上げ。たいていは、「こうしてこうなって、あっ、そうか、だめじゃん」みたいなことが多いですが。

 で、いけるかもしれんなあというアイデアは、私の場合は、あえてメモしません。で、時間がたって「あのアイデアなんだっけ」となったとき、そのアイデアは駄目なんだろうな、という解釈をします。忘れるようなアイデアは、たいていはそのときの高揚感がいけると思わせているだけで、いいアイデアは一度思いついたら、忘れるようなものではないんですよね。

 なぜ忘れないかと言えば、その考え方を実行すると、今まで解決できなかったことが解決できそうな気がするからなんです。つまり、その状況はすごくうれしい状況なわけです。うれしい未来は、わくわくするので忘れるはずはないんですよね。

 それと大事なことは、アイデアって、先の「おっ、アイデアだねえ」という言葉のニュアンスにも感じるように、誰でもできる簡単な方法だったりもします。特定の人にしかできない方法をアイデアとは呼びません。それは秘技とか秘伝とかでしょう。そんなこんなで、忘れてしまったアイデアというのは、ちょっと複雑すぎたということなんでしょうね。

 だから、まあ忘れてしまっても悔やむことはない、ということなんだろうな、と私は思っています。というか、それはちょっと強がりかも。正しくは、忘れたものはしょうがないじゃん、忘れるようなアイデアはたいしたことがなかったんだよ、きっとそうだよ、そうに違いないよ、とちょっと涙目で自分に言い聞かせています。ではでは。

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2008年11月12日 (水)

ただいま、「ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)」を広告しています。

 たとえば、ing感のあるコピーというのは、こういうことなのかもしれないな、と思ったりします。このところ、「プリミティブな広告」とか、そういうことを考え続けていますが、これだけメディアが多様化して、すべてがバレバレな時代において、広告という行為が本来持つ力を取り戻すためには、ある意味でこんな感じのところまでいかないと駄目なのかも、と思ったりします。

 広告という行為自体が熱を持って迎えられるためには、もはや広告が広告以外の何かに偽装することでは足らなくて、広告が広告であると、今一度カミングアウトする必要があるのじゃないかな、なんてことを考えます。

 ただ、これは絶対的に過程論なんだろうとは思います。こういうのは一度やったら終わりだし、模倣すればするほど、ただの表現に成り下がるわけだし、時代の戦略というものかもしれないな、とも。

 その昔、広告の自己否定というか、ちょっとしたひねりを効かせるのが鮮度を持つ時代がありました。「広告より口コミを信じましょう。」とか、私が書いたものでは「インターネット・プロバイダは、広告で選ばないほうがいい。」とか。それを広告で書く、みたいな。それがちょっと賢いよねえ、というひねった感じ。

 でも、そんなこんなしているうちに、そういうひねりみたいなものの存立する基盤自体がなくなってきて、「どうするよ、広告」みたいな状況がいまで、それでも力を持つ広告というのは、案外、今日のエントリのタイトルみたいな、ある意味アホな表現なのかもしれないです。(ある意味、極論だけど。)

 こういう視点に立つ限り、なんとなく広告というものは普遍のような気も、私は結構本気でしていて、まあそんなことを仕事をしながらうだうだ考えている次第です。それでは、本日はそんな感じで。

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2008年11月11日 (火)

なぜ広告を作品だと思ってはいけないのか。

 あくまでデザイナーやコピーライター、CMプランナーなどの広告制作者に向けての話ではありますが、若い人への戒めの言葉として「俺たちは芸術作品をつくってるんじゃない。広告をつくっているんだ。」というものがあります。これ、なんとなく感覚や職業倫理としてはわかるんですが、いまいち明快な理由がわからずにいました。

 曰く、作品だと思ってつくると、狙いにいきすぎて表現が荒れてくるから。曰く、そもそも企業がお金を出しているのであって、その広告はあなたのものではないから。うーん、なんか違う。そこには、ルサンチマンの匂いがします。真面目で実直な表現がいちばん。広告は商品を語るもの。違う、違う。そんなもんじゃない。真面目でも、おもしろくないものはおもしろくないし、人はそれを愚鈍と言います。

 でも、作品と思ってはいけない、というのは確かに制作者としてはすごく理にかなっているように思います。まあね、結果として作品という名で語られるのはありだとは思うけど、作品をつくっている気になると、実務的には、結果として痛い目にあうことも多く、まあこれは私が作家性で勝負していないこともあるにはあるけど、作品と思ってつくるとろくなことはない、と。そんな気がします。

 で、考えてみて、ひとつ結論のようなもの。作品だと思ってつくると、その広告のing感がなくなるからなんじゃないかな。作品というのは、それだけで過去のような気がするんですね。ドイツの広告雑誌に「アーカイブ」というものがあって、その雑誌に掲載されることが世界のクリエーターの憧れだったりしますが、文字通り、作品だと思ってつくる時点で、それは広告よりも先に作品であるので、生まれたときからアーカイブ化を目指している表現であるような気がします。

 特に、メディアの多様化で、これだけ情報の消費が早くなって来ているいま、ing感のない広告は、広告としてのパワーを生み出さないような気がします。デザイン好きの好感度な人が、いいよねこれ、で終わるような気が。それではいまはしんどい。

 ブログをやっていて痛感しますが、ブログのエントリだって賞味期限がありますよね。結果としていいエントリはじわじわ読まれ続けますが、それでも、旬は投稿されて長くて1週間。ほとんどは、1日から2日。広告も同じだと思います。出稿されて、掲載されて、目に入って3秒が勝負。その勝負に破れると、ほとんどは無視されてしまいます。再発見は、まあない。

 作品だと思ってつくると、後で見直しても、やっぱりいいよなあ的な質、具体的な話で言えば、品のない言い方になるけれど、自分のポートフォリオに入れて、あとで見直したときにも良く思えるというような質を目指してしまうような気がするんですよね。今効いて、今を生きているような表現をチョイスする比率が下がるし、なにか見事に定着されすぎるものって、現在進行形な感じが失われてしまうような気がするんですね。

 まあこれは微妙なニュアンスの話ではあるので、結果で示していくしかないんでしょうけど。ある広告の仕事で、コピーをチョイスしていて、面白いコピーなんだけど、なんか違うなあ、というような私の中の微妙な違和感があって、その答えがこれなのかもしれません。なんかing感がないんですよね。広告に、ドライブ感がないというか。なんかうまく説明できなかったけれど、本人はわりとわかった感があるのはどうしたものなんでしょうね。

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2008年11月 6日 (木)

プリミティブな広告

 つくりたいのはそういう広告なのかもしれない、と最近思う。広告のためにコピーを考えたい。デザインを考えたい。映像を考えたい。音楽を考えたい。

 プリミティブ(Primitive)には、原始の、根源の、という意味から派生して、古くさい、粗野なという意味がある。なんとなく思うのは、そういう古くさく粗野なものも引き受けた上で、プリミティブでありたいということ。

 コピーのために広告があるのではなく、デザインのために広告があるのではなく、映像のために、音楽のために広告があるのではない。広告をつくるという目的がある限り、コピーも、デザインも、映像も、音楽も、広告のためになければならない。もちろん、広告をつくるという行為においての話だけど。

 これは簡単なようで難しいことで、僕らはいま、豊穣なコピー、デザイン、映像、音楽の積み重ねの先端に生きていて、その文化の束縛からはなかなか逃れることはできない。けれども、そんな文化なんか知る由もないたこ焼き屋のおじさんの頭の中を想像することはできる。彼は、自信のたこ焼きを売るために、どんな言葉を書くだろうか。

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2008年10月15日 (水)

定着のイメージを持たないコミュニケーション・デザインの気持ち悪さ

 私なんかは、完全に定着原理主義なんでしょうね。あっ、定着っていうのは、広告を例にすると、プランなりアイデアなりがあって、それが頭の中とか企画書とかにある状態だと、その時点では広告にはなっていないですよね。そのプランなりアイデアなりを、具体的な言葉や絵にして、テレビなり新聞なりに定着して、はじめて広告になりますよね。その具体的な表現のことを定着って言います。

 私の定着のベースは、言葉だったりしますが、言葉じゃなくても、絵でも映像でも、まあそれなりに定着のイメージは持てていたりします。クリエイティブという職種は、そういう職業ですから。実際は、そのイメージを伝えながら、アートディレクター、映像ディレクター、プロデューサー、デザイナー、フォトグラファーとともに制作をしていきますが、その過程においては、やはり根拠は、自分の中の定着イメージです。

 そういう意味では、私がやる限り、その広告の質は、私の定着イメージに規定されます。良くも悪くも、私という個人の能力を大きく超えることはありません。これは、共同作業を否定しているわけではなくて、私が一緒にやる人は、すべて、自分の分野に関しての強力な定着イメージを持っている人であり、例えば、映像ディレクターは、自分のつくる映像は、自分の中の定着イメージを自分の手で定着させる能力を持ち合わせている人が映像ディレクターと呼ばれるのであって、それを外部に依頼するなんてことは、ありえないわけです。

 他の表現分野においても、映画なら、映画監督はきちんと映像を自分の手でつくるし、小説家は、きちんとひと文字ひと文字、言葉を綴ります。ミュージシャンは、実際に曲をつくったり、歌ったり、ギターを弾いたりします。そういう人を表現者というのであって、そこに表現のコアの部分においては、プランニングやアイデアと定着の分離なんて、あり得ないわけです。

 コミュニケーション・デザインという言葉が一人歩きしてから、この定着のイメージを持たない自称コミュニケーション・デザイナーが増えてきて、まあ、ちょっとばかり愚痴っぽくなるけど、非常に気持ち悪いんですよね。そういうこと、あり得るのかな、いや、それはないだろう、なんて自問自答していますが、まあ、あり得ないでしょうね。

 彼らは、わりと、簡単に「外につくらせる」と言ってしまうんですよね。それと、派手なことしかやりたがらないし、地味で日当りの悪いコミュニケーションは逃げてしまいます。でもね、コミュニケーション・デザインというのを簡単に言えばさ、コミュニケーションの全領域をデザインするということだから、テレビが良くて、たとえばDMやテキストバナーがカスだったら、それで全部のコミュニケーションが駄目になるという考え方でしょ。だからね、私は、ある時期から、SPやウェブの定着作業を全部引き受けるようにしてきたんですね。めちゃくちゃ時間と手間がかかるし、めんどくさいけどね。全部を、自分の定着イメージに近いカタチで定着したいから。

 そうなってくると、なんか不愉快な状況が起きてきて、自称コミュニケーション・デザイナーさんたちが、こっちに「つくらせよう」なんてバカなことを考えるわけ。明らかに、クリエイティブはアイデアを定着だけする機能だと勘違いしているわけ。それは、まあ勉強不足なんだろうけどさ、そういう勉強不足の無邪気さっていうのはたちが悪くて、もう説得もめんどくさかったりするわけです。

 コミュニケーション・デザインの総本家の著書とかを読むと、あの人たち、コピーも映像もビジュアルも、タレントの手配も、メディアの分配も、自分の定着イメージでもって、自分の手で定着しているわけなんですよ。その中には、めちゃくちゃめんどくさいこともあるし、そういう仕事をすると、細かいことのクオリティを問われるので、いままで外部に委託して来た細かい作業も、ぜんぶ自分でしなきゃなくなります。あの人たちは、それをやっています。

 そういうめんどくさいことを中抜きしたコミュニケーション・デザインに何の意味があるんだろう。だから、信頼もつくれないし、実績が上げられないんだろうし、その実績をちょっと人がよさそうで怒らなそうなクリエイティブを使ってつくろうなんて、虫が良すぎるんじゃないかな。いいかげん、おじさんだって怒るよ。私は、自分がコミュニケーション・デザインをやっているだなんて自称しないけれども、それは単に羞恥心の問題であって、それ以上の意味はありません。

 漫画を書けない人は、漫画家を名乗っちゃいけない。それだけのことなんですけどね。じゃあ、編集者の役割はどうなのさ、となるけど、それは編集という専門領域の定着イメージというのがあるし、広告で言えば、営業とかマーケに当たるんだろうし、それは計り知れない専門性がきちんとあるんですよね。

 自称コミュニケーション・デザイナーさんたちに言いたいこと。人をあてにせずに、自分でやればいいじゃない。それでできなかったら、自分がそんだけのもんだったということですよ。要するに、自我が肥大化してただけ。酔ってる状態ってこと。それを、クリエイティブが駄目だから、とか言うんじゃない。

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2008年10月14日 (火)

来年あたりが勝負どころなんでしょうね。

 今、東京行きの東海道新幹線の中で書いています。世界金融危機関連のニュースがマスコミを賑わせていますが、なんとなく印象としては、本当の危機の始まりって案外静かなものだんだなという感じです。今、あまり広告業界はよくなくて、自動車、電子関連の不調などで、大手広告代理店でさえ減益になってきていて、そのトレンドの中の金融危機。ストックを食いつぶしている現状でのこの金融危機。タイミング的には悪かったなあ、と思います。

 経済関係にはあまり詳しくないので、分析とか予測とかはできませんが、大雑把に言って、来年あたりは、今年以上に厳しくなるような気がします。こういうとき、私のような中堅代理店がまず淘汰されていきがちです。来期は、かなりしんどい展開になってくるのではないでしょうか。中堅クライアントは広告費を削ってくるでしょうし、とりわけ外資はそういう傾向は強くなるでしょう。

 今、新幹線の電光掲示ニュースで「米過去最高の上げ幅で株価回復」と出ていましたが、短期的にはそういう状況は繰り返すでしょうが、全体の景気低迷は避けられない情勢なんでしょうね。それが杞憂に過ぎないことを望みますが、たぶん景気は低迷するでしょう。

 私は、かつてのバブル崩壊のときに新入社員でした。つまり、ほとんどいい時期を知らない業界人なので、今回の事態もわりと冷静でいられますが、逆にまわりの静かでのんびりした感じが不気味に思えます。こういうとき、時が過ぎて行くにつれて、どんどん人の価値観や判断基準から建前とかきれいごとがなくなるんですよね。

 前のバブル崩壊のときは、そうなるのはあっという間だったし、その本音がもたらす人間関係の悲喜こもごもは、あまり美しいものでもなく、できれば見たくないとは思うけど、しょうがないんでしょうね。避けるすべがないですし。いろんな人生の岐路を見て来たし、私とて、今ここにあるのは、そのときに考えたことがかなりの基礎になっています。

 どちらにしろ、こういう時期だからこそ、なんか表層とかではなく、本質の部分で考えないといけないのかな、なんて思っています。広告はあらゆる時代にも必要なのか。必要であればどのように必要なのか。そんなことをもう一度考えなくちゃ、と思います。半年後、私はこのブログにどんなことを書いているのでしょうか。なんとなく中途半端な感想しか書けませんでしたが、ひとつの記録として残しておきます。

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2008年10月 1日 (水)

妥協のお話

 妥協は大事という意見は嫌われがちだけど、妥協は大事だと思います。クリエーターのくせに妥協が大事なんて何事だ、と怒られそうだけど、それでも妥協ということを、もう少し真剣に考えるべきだと私は思います。

 たとえば、急ぎの仕事で、予算も限られているとき、どの部分を優先して、どの部分を妥協するのかをあらかじめ決めることはすごく大事。特に、自分と利害を共有できない外部スタッフとともに作業をするとき。

 優先するべきこと。それは納期と予算。これについては動かしようがありません。クオリティ。これもきっと優先されることは動かしようがありません。これらは絶対に動かしてはいけません。

 問題は、ここから先です。そのクオリティを出すために、どこが大事で、どこが妥協できるのか。それをあらかじめ決めておくことは大事だと思うのです。その優先順位を決めるのは、目的です。その目的を達成するために、ここだけははずせないと思う部分はこだわる。けれども、その他の部分が時間やお金の面でどうしてもかないそうもないときは、思い切って妥協する。もしくは、切り捨てる。これをしないと、すべてが中途半端に終わってしまいます。

 よく外部スタッフに、どうでもいいこだわりを、優先すべき事柄と同じように厳しく要求して、そのために、結果として、外部スタッフが、そのどうでもいいこだわりを果たし切るために、どうしても守りきらなければいけない部分が逆に犠牲になって、目的が果たせなくなる。そんなケースを今までよく見てきました。

 それはなぜなのか。簡単です。利害を共有していない外部スタッフにとって、そのどうでもいいこだわりは、その仕事の絶対条件に見えてしまうからです。どうでもいいこだわりが達成できなければ、何を言われるかわからない。そんな思いが先に立つからです。

 いかなる状況でも全方位にパーフェクトを。それは美しいけれど、所詮はきれいごとだとも言えます。人間の力は有限なのです。そして、人に対してする要求は、その人の力を無限だと仮定してはいけないのです。

 外部スタッフも含めて、すべてのスタッフが互いに目的を共有することで解決できるとあなたは言うかもしれません。しかし、それは、理想論であり、独我論ではないでしょうか。私の業界に照らして言えば、広告主、広告代理店、制作会社、フリー、それぞれ存立基盤は違います。存立基盤が違えば、同じ目的を共有するといっても、どうしようもなく、その解釈に違いが出てくるものなのです。

 であるからこそ、発注においては、優先順位を明確にしておくことが重要なのです。これは時間がなくても、お金がなくても、優先されなければならない。けれども、これは、妥協しても、思い切って切り捨ててもよい。もし余裕があればその部分もこだわってね、でも、余裕がなければ、その部分はなくてもいいです、くらいの明確な意思表示が重要だと思います。

 あえて言います。すべてに手を抜かない、ということは、すべてに手を抜く、ということと同じだと思います。このことは、発注側に立ったときも、受注側に立ったときも、同じように思います。すぐれた仕事をする人は、どこか抜けたところがある。そんな経験からも、きっと言えることだろう、と私は思っています。

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2008年9月25日 (木)

 私のエントリのタイトルには、「。」がついているのが多いです。それは、私がコピーライター系だからなんでしょうね。土屋耕一さんの世代は、キャッチコピーに「。」をはぶくことが多いように思いますが、それ以降の世代は、かたくなにコピーに「。」をつけたがるようです。「。」がつくとコミュニケーションのための言葉という感じがします。「。」がつかないと、タイトルというか、フレーズというか、そんな感じ。

 そういえば、我々の世代はキャッチコピーと言いますが、その上の世代はキャッチフレーズと言いますよね。今日、電車に乗っていると、山田優さんが出演するユニクロのワンピースのポスターが貼ってあって、そのキャッチコピーが、たしかこんな感じでした。

ユニクロのワンピース。

 あえて「。」をつけてるんですよね、きっと。「。」をつけることで、タイトルちゃいまっせ、メッセージでっせ、ということを、このコピーを書いたコピーライターは言おうとしているんですよね。それが伝わっているかどうかはわかりませんが、私は広告屋なので、「うんうん、わかります。わかりますよ。」という感じでポスターを眺めていました。しかし、山田優さん、足長いなあ。試しに、比較。

ユニクロのワンピース
ユニクロのワンピース。

 下の「。」付きは、ただのワンピースちゃいまっせ、ユニクロのワンピースなんですよ、おねえさん、っていう感じがしませんか。

 有名なところでは、ずいぶん古いですが、JR東日本のダイヤ改正の広告。小泉今日子さんが出演していた広告で、キャッチコピーが「ジャンジャカジャーン。」というもの。これも比較してみます。

ジャンジャカジャーン
ジャンジャカジャーン。

 ね。なんか違うでしょ。違わないですか。違うと思うんですけど。下のほうが、なんか「大発表ですよ。みなさん、聞いてください。」というメッセージが読み取れるような気がします。かつて、私が大阪で仕事をしていた頃の作品から。なんばCITYというショッピング街のセール広告のコピーです。「関空効果。」というコピー。これは、ニュースで言われはじめる前に掲載して、テレビのニュースで取り上げられたのがうれしかった仕事です。あの頃、若かったなあ。これも比較。

関空効果
関空効果。

 上は小泉現象とか劇場型政治とかと同じタイプの言葉ですが、下は「によってお得なんです」的なメッセージを感じたりしませんか。しませんか。すると思うんですけど。どうでしょうか。そういえば、「モーニング娘。」も「。」がありますよね。

モーニング娘
モーニング娘。

 この違いはどう説明すればいいんでしょうか。でも、とにかく新しさというか、ユニークな存在という感じはしますね。たとえば、普通の言葉に「。」をつけるとどうなるか。とりあえず列記して、このエントリの締めとさせていただきます。なんか、この締め方は少し新しいかも。ではでは。

ブログ
ブログ。

広告
広告。

疲労
疲労。

愚痴
愚痴。

宮沢賢治
宮沢賢治。

スナフキン
スナフキン。

幸せ
幸せ。

放送事故
放送事故。

フリーズ
フリーズ。

労働
労働。

寝不足
寝不足。

カラマーゾフの兄弟
カラマーゾフの兄弟。

ドストエフスキー
ドストエフスキー。

ニーチェ
ニーチェ。

マルクス
マルクス。

鷹の爪
鷹の爪。

ホッピー
ホッピー。

就寝
就寝。

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2008年9月22日 (月)

「大人の事情」の取り扱い方

 広告なんて泥臭いものを仕事にしていると、ことあるごとにいわゆる「大人の事情」ってやつに翻弄されてしまいます。広告が泥臭いビジネスだと言っても、やっぱり表現には変わりがないので、制作サイドとしては「幸せとは何か」みたいなことを、けっこう真面目に追求したりしていて、そんなピュアピュアモード全開のときに、先方の部長さんがこう言っている、だとか、ああいうのは社長が嫌いだとか、そんな話が入ってきたりするんですよね。

 そんなものはクリエイティブには関係がない、一切考慮しない、と言い切れれば美しいのですが、まあ、こちらも大人ですから、うまく切り抜けなければなりません。理想を貫くことで、その表現が世の中に出ないよりも、いろいろ苦戦しながら、たとえそれが妥協であったとしても世の中に出た方がいいと、私は信じています。限度問題ではありますが、100のものが80くらいになるのならば、それは世の中に出した方がいいのではないかと思います。

 広告は、その時、その時を切り取る時代の表現だし、小説や絵画なんかのピュアアートと違って、発表を作者がコントロールできるわけではありませんので、妥協も制作過程の内とはじめから考えておく方が健全だと思います。現実は、翻弄されっぱなしではありますが、私なりの「大人の事情」の取り扱い方を書いてみたいと思います。

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■「大人の事情」をはじめから制作過程に組み込んでおく

 これだけでずいぶん気分が違ってきます。「大人の事情」がからまない制作はない、と考える方がうまくいくのではないかと思うんですね。現実、ほとんどからみますし。何事もなくうまく行くというふうに想定しないことは大事だなあと思います。でも、ここで大事なのは、どうせ「大人の事情」がからんでくるから、じゃなくて、いずれにせよ「大人の事情」がからんでくるはずだから、という感じがいいかもです。微妙な違いですけど。

■フレキシビリティのある企画でスタートする

 がちがちに表現を詰めてスタートしない、ということですね。企画をガラス細工のように繊細に構築してスタートすると、ちょっとした「大人の事情」でパリッとひびが入って、すぐに粉々になってしまいます。たとえそれが素晴らしい表現であっても、割れてしまっては元も子もありません。それならば、スタートは芯だけ決めて、多少の「大人の事情」が入っても、カタチを柔軟に変形できるような「ゆるさ」が初期段階では大事だと思うんですね。

■表現の繊細な部分にこそ明快な理由を

 企画の根幹が繊細な表現にゆだねられていることはよくあります。ここは、絶対に薄暗くなくちゃいけない、とか。そういう部分は、繊細な部分であるが故に、感性とか、イメージとか、フィーリングとか、味とか、あいまいな言葉で説明されがち。でも、こういう部分にこそ、明快な理由がいるんです。それも、目的に直結するような。売り上げなら、売り上げに寄与する、とか、ブランディングなら、こうこうこういう理由で、その表現が必要だというような。それが見つけられなければ、たぶん、その表現は、なくてもいい。それくらいの気構えがちょうどいいような気がします。

■チームで共有するときには「目的」が先

 ここでいつもつまずくことが多いです。私は、とりあえずチームには、そうした「大人の事情」は隠さず公開しようと思っているのですが、これを先に話してしまうと、どうしても「大人の事情」を優先するモチベーションになるようです。先に書いた「どうせ」ですね。共有すべきは、目的です。そして、その目的を遂行するときの壁としての「大人の事情」という段階を踏まないと、「大人の事情」を乗り越えようとディレクションするその態度が、スタッフには安易な妥協、つまり保身と理解されてしまいます。こうなると、ディレクションする方としては、やけ酒飲んで「俺の気持ちもわかりもしないで。ちくしょー。」と愚痴るしかなくなります。

■「大人の事情」はチーム全員に知らせなくてもいいのかも

 迷うところです。このところ、自分で処理できることなら、「大人の事情」は知らせる必要はないのかもしれないと思ってきています。どうしてかというと、厳しい言い方ですが、「大人の事情」に立ち向かえるかどうかは、責任の大きさに比例するような気がするからです。責任が小さなメンバーや外部クリエーターにその「大人の事情」を伝えても、混乱するだけのような気もします。であるならば、CDのわがままや好みに還元させたほうがすっきりするかも。ここらへんは、私はまだ試行錯誤中。

■「大人の事情」をブラッシュアップのチャンスだと思う

 ここがいちばん大事かも。そのアイデアや表現をもう一度考え直すチャンスだと前向きに捉えることは大切。経験で言っても、あのとき揉めなければこのアイデアや表現は出なかったな、と思うことがままあります。また、そんな気構えでいると、「大人の事情」が出ている状況で、少し余裕を持って対処できるような気がするんですね。たいていは、我々制作は、そういう状況で感情的になってしまいがちですが、これを営業はいちばん恐れるんですね。それは身にしみてわかります。まずは聞く。解決はそれからでも、この場合は遅くありません。聞く耳をもたないのが最も駄目。

■どうしても駄目というときはその企画をあきらめる

 これはいちばん難しいですね。どうしても駄目なときは、先方の「大人」と渡り合うしかありません。徹底的に話し合って、どうしても駄目なときは、私は企画を引き上げます。たいがいの「大人の事情」は、企画の修正だったりするので、相手はきょとんとしますが、それでも引き上げます。で、短時間で新しい企画を作ってもっていきます。いろいろやってみたけど、こういう状況になったら、案外この方法が最も合理的のような気がします。その企画には未練はあるけど、しょうがないです。

 

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 ここまで書いた「大人の事情」は、どれも私が対処できるようなものですが、世の中には、一介の会社員ではどうすることもできない「大人の事情」もたくさんありますよね。こうなったら、もうどうすることもできません。その場合は、まず「大人の事情」がからまないところから企画をはじめるしかありません。それで、針の穴に糸を通すようなプランニングをするしかないです。

 私がもっとも嫌いなのは、制作のスタート時では理想に燃えて、ピュアな仕事をしているのに、「大人の事情」に負けて、へんてこな駄目広告をつくって、そのメンバーが、カンプ(プレゼン用の広告見本。Comprehensive Layoutの略。)はよかったんだけどねえ、とか愚痴っている感じ。カンプが良くてもしょうがないんです。なんかホームランを目指して三振みたいな感じがして。「大人の事情」に右往左往してもがくのは、みっともないけど、それもクリエイティブの仕事のうち。私はそんなふうに思ってます。

 月曜日に出社される方は、本日もがんばっていきましょう。お休みをとられた方は、ゆっくり休んでくださいませ。いいなあ、休みたいなあ。では、本日はこんなところで。

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2008年9月 9日 (火)

45年間、ずっと赤字だったんだ。

 ちょっと古いニュースですが。

 サントリーの佐治信忠社長は23日、朝日新聞のインタビューで「売り上げが伸びており原材料費の高騰分を補っている」と話し、ビール事業が08年12月期に黒字化する見通しを明らかにした。実現すれば63年にビール事業に本格参入して以来初めて。
サントリー、ビール事業悲願の黒字化へ 参入45年で初 – asahi.com(2008年6月24日)

 へえ。そうなんですね。不勉強で知りませんでした。もう、とっくに黒字だと思ってました。萩原健一さんと和久井映見さんの「♪モルツ♪モルツ♪モルツ♪モルツ♪うまいんだな、これがっ。」のときも、松田聖子さんのスイートメモリーにのせてペンギンが歌ってたときも、「カンビールの空きカンと破れた恋は、お近くの屑かごへ。」のときも、ずっと赤字だったんですね。

 サントリーの07年12月期の連結売上高は約1.5兆円で、ビール事業の売上高は15%の2252億円。同期も黒字化に近づいたものの、ザ・プレミアム・モルツなどの販促費がかさみ、かなわなかった。
同記事より)

 販促費がかさみ、というところがグッときました。同記事には「ザ・プレミアム・モルツ」や第3のビール「金麦」「ジョッキ生」の販売増が寄与とありました。今や、アサヒ、キリンに続く第3位のシェア。シェアをとるためなら赤字も辞さず、という感じなんでしょうね。そういえば、うちの親父は、ずっとキリンラガー(クラシック)だったんですが、最近、マグナムドライがうまいって言ってるもの。

 サントリーのビールは、一頃、ウィスキーの味がするだなんて言われて、あまり人気がなかったんですが、モルツあたりから風向きが変わったんですよね。でも、モルツが、麦芽100%から水に訴求を切り替えてから、また後退したようなイメージがありました。でも、ザ・プレミアム・モルツでまたまた少し盛り返して、その後の、3年連続モンドセレクション金賞受賞が決定打になったような気がします。

 そう考えると、まあいろいろなことを捨象して言ってるとこありますが、数々の名作CMよりも、3年連続モンドセレクション金賞受賞というのが黒字化のトリガーになったとも言えるわけで、広告屋としては少しさみしい感じもしますが、でもそれはその通りでもあるのでしょうね。名作CMはお金で買えますが、モンドセレクション金賞はお金で買えませんからね。

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2008年9月 8日 (月)

会社を辞めたいなあ、と思ったら、気休めに、このエントリを読んでみてくださいな。

 私は広告会社のクリエイティブ局に勤めています。いわゆる制作職ですね。テレビCMとか、ラジオCMとか、新聞広告とか、雑誌広告とか、ウェブ広告とか、ポスターとか、パンフとか、チラシとか、いろいろ作っています。広告コンテンツっていうやつです。

 クリエイティブとは言いますが、実際には、制作職というのは、地道な作業の連続だったりします。とはいいつつも、広告会社にとってクリエイティブは表向きのわかりやすい看板だったりするので、組織の中では、けっこうやり玉にあげられやすい職種だったりもするんですよね。

 「業績がふるわないのはクリエイティブが駄目だから。」

 そんな話になりがちです。でもって、全社あげてのクリエイティブ強化運動がはじまります。元気があるのは、クリエイティブ以外の人たち。自分のことを棚に置いて、どうクリエイティブを強化していくのか、様々な意見が出てきます。

 かの海外有名クリエイティブエージェンシーでは、広告制作に入る前に得意先の経営者と納得いくまで話す、とか、これからは当社としての水準に達していない広告は出さないでおこう、みたいな意見がたくさん。熱病ですね。みんなうれしそう。顔が上気しています。

 で、クリエイティブ以外の人たちがうれしそうに話す海外の事例。社長と納得するまで話す、とか、自社の水準を超えるものしか出さない、とか、みんな、そんなクリエイティブ以外の人たちのクリエイティブ床屋談義に嫌気がさして大きな広告会社から出て行ったクリエイティブの人たちの話。そんなクリエイティブ談義には、前提からして自己矛盾があるんですよ。

 なんだろ、このねじれ現象。この不愉快なクリエイティブ床屋談義。

 熱病だから、1ヶ月くらいで終わります。なかったことになります。そんな不真面目な論議だから、真面目に受け取ると不愉快になるだけ。そんなもんだから、そういうクリエイティブ談義をしている人の話を上の空で聞いていたら、そんな顔するなよぉ、なんて言われてしまいました。こんな顔しているだけましだと思ってくれないと。しまいにゃ怒るよ。

 何でも持続と継続なんですよ。10年でも20年でも、同じテーマで、1日も休まず考え続けることが、真剣に考えるということなんです。すぐに飽きてしまう熱病のような論議を、私は考えるとは思いたくありません。真剣に考えれば、状況の厳しさも正確に見えてくるし、甘ちょろい夢語っている暇があったら、やるべきことがたくさんあることも見えてくるはず。

 社内の政治抗争に巻き込まれ、ほされているときに、自分を大切に思ってくれているお得意先のちいさな仕事でとれるだけ広告賞をとった時期がありました。それはもう、小さな賞から大きな賞まで貪欲に。でも、社内の評価はほとんど何もなかったです。で、わかったことがありました。要するに、熱病のようなクリエイティブ床屋談義は、社内政治的な意図が隠されているんですよね。動機が不純なんですね。でも、話している本人は、そんな政治的意図は自覚しないから、これまたたちが悪いんですが。

 あと、こういう政治的なクリエイティブ談義に巻き込まれないようにするテクニックはあるにはあります。長髪にしたり、髪を染めたり、髭をはやしたり、服装を派手にしたり、そんなことをすればいいんです。私も、けっこう追いつめられて、髪をのばして、後ろでしばったり、そんなことをしました。それで雑音はかなり減ります。でも、あほらしいんです。それも、ねじれた保身だったりするので。政治抗争が終わったとき、ばっさりとやめてしまいました。

 世の中には、今の状況を、ぜったいに自分のせいだとは思わない人がいて、もし、これを読んでくれている若いあなたが、なんでも自分の中に原因を見いだしてしまう人ならば、先輩として、そんな、ぜったいに自分のせいだとは思わない人たちの言うことは聞かなくていいとだけ言っておきます。そのぶん、あなたと同じように、今の状況を自分のせいだと思って、知らず知らずに自分を追いつめてしまう他の分野の人の言うことを、耳をすまして聞くようにすればいい。腹を割って話すようにすればいい。

 そういう人たちがいる限り、まだまだ、あなたはその会社にいる意味があると思うし、その人たちの、自分に向けた、愚痴や嘆きの中にこそ、今の状況を突破するための答えがあるのだから。

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2008年9月 6日 (土)

ネーミングこわい

 広告実務のひとつにネーミングがあります。でも、このネーミング作業、見た目よりたいへんです。広告制作者にとっては、ネーミングは寿命の長い成果物でもあるので、やりがいもあるにはありますが、その分、待ち構えている作業工程は多岐に渡るし、そのネーミング如何でそのブランドの運命が決まる感じもあるので、発注を受けたときの気分は、ちょっと重いものがあるのも事実なんですね。

 ネーミングのテクニックは、慣れるとけっこう簡単だったりします。ネットを見てみると、ここがよくまとまっているのでご紹介。わかりやすいですね。そこに出ていた分類は、こんな感じです。

1)プラス造語法(A+B=AB)
2)減量造語法(A+B=ab)
3)変形造語法(A=a)
4)頭文字造語法(アクロニム造語法)
5)並び替え(アナグラム)造語法
6)語呂合わせ造語法
7)その他

 では演習。ある広告人がブログをはじめようとしている。そのブログ名をネーミングする。さて、どうしましょう。プラス造語法でやると、こんな感じ。

アド+ダイアリー=アドダイアリー

 減量造語法では、こんな感じ。

アド+ブログ=アドブロ

 変形造語法では、こうなります。

アドバタイジング=アドジン

 アクロニムでは。

ADVERTIGING+DIARY=ADIA(エイディア)

 アナグラムでは。

アドバタイジング=バドア

 語呂合わせでは。

売ります=ウリマス

 最後のは、ちょっと無理がありますが、語呂合わせは例えば、書く立場になって言えば「カキマス」なんてネーミングをつけがちかもしれませんね。で、そのネーミングがマスコミとかの意味付けをして、とかなんたらかんたら。

 で、ネーミング案ができあがったら、競合調査です。実務では、ここからがたいへん。たいがいはすでに登録されています。弁理士とかに調べてもらったり、専門のデータベースで検索したりして、そのネーミングがブランドの商品類の中で登録されていたら、その時点でアウト。近い商品類でも、実際に有名なネーミングになっていたら避けるのが吉、という感じです。あと、買い取りという手段も考えます。この過程でつまずくとほんとにつらい。もう、投げ出そうかな、という感じになってきます。

 もうひとつの関門もあります。この演習を見て、なんだプロのくせして、しょうもないネーミングだなあ、なんて思いませんでしたか(まあ、演習なので、このネーミングは、実際にあまりクオリティは高くないですが。)

 ここもしんどい。社内の営業とか、お得意の担当者とかがなかなか納得してくれません。揉めます。制作者はバカ扱いになります。こんなネーミングしか出せないのは問題だ、とか、いろいろね。でも、ここがくせもの。ネーミングは、基本的には、この世界ではじめて生み出されるコトバなんですよね。だから、初見では違和感ありあり。逆に違和感のないネーミングは、すでに世の中に存在する、もしくは似た世界観があるネーミングなので違和感がないということで、オリジナリティという意味では劣るんですよね。

 かのNTTドコモ。最初は違和感がすごくありました。Do Communication with a Mobile phoneの頭文字2文字を合わせた、アクロニム手法だということですが、今は慣れてしまいましたが、そもそも「ドコモ」ですよ。あの頃、最後に「モ」が付くネーミングは珍しく、すごくへんな感じがありました。今でこそ、「パスモ」とか最後に「モ」のネーミングはメジャーになっていますが。ドコモは公式には言っていませんが、ドコモの場合は、発想の根幹は「どこもかしこも」のドコモなんでしょうね。で、英語の意味は後付けなんでしょうね。

 私は、根が広告屋だからということもあるのでしょうが、ネーミングは、最初は違和感があるほうが、後々は成長してくれるような気がします。スイカというJR東日本のカードもいい例です。Suitable Cardの略だった気がしますが(追記:Super Urban Intelligent Cardの略とのこと 、思い切って、一見意味がわからないスイカというへんてこな名前をつけるほうがいいような気がします。西日本のICOCA(イコカ)みたいに、「どっかにいこか」みたいな意味がわかるネーミングは、なかなかネーミングとしての記号化が難しいような気がします。ネーミングに、いつまでたっても意味が付着してしまって、純然たる記号として立ち上がってこないんですよね。

 このへん、一頃流行したバルトとかが言っていた「神話作用」だとか「表徴」だとかの受け売りではありますが、なるだけ意味から離脱したネーミングのほうが、長い目で見ればお得なんだ、という気はしています。言葉は、追いつめて行くと、どんどん意味から離れていって、単なる音の組み合わせになっていきますので、言葉の根源的な力を生かすためには、意味から離れるほうがよいというのが持論です。

 海原とか海燕とか海水とかよりも、海という言葉のほうが、根源的な力は強いはずです。「う」という音と「み」という音を連続で発生して、いわゆる海を表すというのは、そこまでいけば、そういう決まりであるというしかなくなってきます。そういう強さというのは、意味の構築ではつくれない強さだと思います。そこには、いつも「わけわからん」ということと背中合わせではあるのですが。

 最近、朝日新聞社の「論座」という月刊誌が終わるというニュースがありましたが、同じ朝日新聞社の週刊誌「AERA」が元気なのと比べると、ネーミングの影響もあるのかもな、と思ったりもします。アエラという音も、一見意味がわからない感じがいいんだろうなという気もします。一方のロンザは、音から意味がわかります。もちろん、これはちょっと暴論気味ですが。ちなみに、「AERA」は、ラテン語で地球の意味だそうです。

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 ネーミング関係の書籍をご紹介しておきます。ネーミングの実務で必携なのは、ネーミング辞典。便利です。英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ラテン語などの単語が併記されていて、この手の辞典ではいちばん使いやすいと思います。サイズもちいさくて(コンサイスサイズ)おすすめ。続いて、岩永さんはネーミングの第一人者。日立の「からまん棒」とか、今はありませんが「新宿マイシティ」などなど。あと、バルト。なんか懐かしいです。バルトは日本が好きだったんですよね。

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2008年9月 3日 (水)

広告は普遍だろうか

 忙しさを言い訳にして、大切だけど直近は関係がないから考えずにいることを、じっくり腰を据えて考えることができるのがブログの良さでもあるし、思考のログとして残しておくのも意味があるだろうということで、見切り発車で書いてみることにします。と、どこかで読んだことがあるような、いかにもブログだよなあ、という出だしで始まった本日のエントリですが、ところで、広告という行為は、人類にとって普遍的な行為だとあなたは思いますか。

Hiragagennai_2  日本の近代的広告(もしくは広告コピー)のはじまりは平賀源内の「本日丑の日」と言われています。この広告コピーで夏に売れなかった鰻がバカ売れし、今では「宇奈とと」でさえ長蛇の列ができる習慣として、すっかり定着してしまいました。

 このことは、逆から見れば、江戸時代以前には、今見るような近代的広告は存在しなかったということでもあります。つまり、広告という行為、少なくとも近代的広告とか広告コピーとかは、少なくとも日本では普遍的な行為ではなく、歴史段階の中で生まれた一時的な行為であるとも言えるのですね。やがて広告はなくなる。そんな仮説も成り立ちます。

 なんだかさみしい話になってきましたが、そんなことを考えたのは、広告業界の人なら知っているとは思いますが、広告武勇伝というか、広告業界ちょっといい話、みたいな2つのエピソードのことをぼんやりと考えていて、そういう話、今の時代で成り立つかな、と考えたからでした。30年くらい前の話です。

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 ひとつめは、とある家電メーカーの話。

 その家電メーカーは、ポータブルラジオを世界で売っていました。それぞれお国事情もあるので、そのメーカーは、販売する国によってラジオの仕様を変更していました。で、そのメーカー、欧米でも絶好調なのに、ひとつだけなかなか売れない地域があったんですね。それはアラブの国々。広告もそれなりに出稿しているし、性能もいいらしい。どうして売れないのか困ってしまいました。

 そこでコピーライターは、そのメーカーのラジオ工場まで出向いて、設計した人にもう一度そのラジオのことを聞きに行きました。

 「このアラブ向けのラジオの特長はなんですか。」
 「えーっと、まあ性能的には日本仕様とあんまり変わらへんなあ。デザインが豪華な感じなのと、うーん、あっ、そうそう、砂漠の国だから、砂が入らないようにしているし、入っても故障しないように丈夫に作ってあるってことくらいかな。」

 で、そのコピーライター、広告に「砂に強い」と書いたそうです。そうすると、今まで売れなかったラジオが大ヒット。あっという間に、トップシェアになったそうです。

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 もうひとつのエピソード。

 とある引越サービス会社の話。とはいっても、当時は運送会社はあったけれど、引越専門会社はありませんでした。その社長さん、これからは引越サービスを専門にすれば当たると信じて始めたのですが、まあまあ需要はあるものの、なかなか大ヒットという感じにはいきませんでした。今風に言えば、キャズムを超えられずにもがいていたわけですね。

 その社長さん、なじみのバーでいつものようにひとりどうしたらいいのか考えていたそうです。そこにやってきた常連のお客さん。その人は広告会社の営業マンでした。いろいろと、その社長さんの話を聞いているうちに、その営業マンは、これは絶対に行けると確信したそうです。

 「社長、テレビCMを作らせてください。CMを流して駄目だったら、私、その損失分を私が一生かけて返しますから、ね、お願いします。」

 社長さん、その営業マンの心意気に惚れて、広告会社に言う通りCMをつくって、オンエアしてみたんですね。そしたら、大ヒット。その会社は業績を伸ばし、ついには、日本に今までなかった引越サービスというジャンルを作ってしまったんです。今の引越サービス業は、この営業マンとの出会いがなければ、今もなかったのかもしれません。

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 そんなふたつのいい話。今もことあるごとに語られ続けている話ではあるけれど、今の状況でそのまま成り立つのかなと、ふと思ってしまいました。広告の力って、こういうことではあるんですけどね。まあ、今でも成り立つと言えば成り立つし、私にしても、こういう話の何十分の一かのプチちょっといい話は、いくつかは持ってはいます。でも、これからはどうなんだろうな、あと100年くらいたった時、広告はどんなものになっているのか、もしかすると、近代的な広告のシステムはすでになかったりするのかな、と考えてしまったのです。

 文学とか絵画とか音楽とかは、何千年経とうとあるだろうなと思うんですね。あと、政治とか経済も。たぶん、かつてのマルクス主義が言っていたようなユートピアはできないでしょうし、いろいろすったもんだやるんでしょうね。でも、広告はなんとなくそんな普遍ではなさそうな気もします。歴史段階の中の徒花なのかもしれないな、と思ったりもします。

 この話、広告をどう定義するかで話の展開が変わってくるとは思いますが、なんとなく気になります。どうなるんでしょうね。まあ、ここ30年くらいは大丈夫でしょうけど。とまあ、そんな壮大なことに頭を巡らせるのは、近々の状況が切羽詰まっているからだったりして、そんなこと考えている暇があったら企画を進めてくれよ、という声も聞こえてきそうなので、今日はこのへんで。ではでは。

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2008年9月 1日 (月)

過渡期としての企業とウェブの関係

 あまり過渡期という言葉を使わないようにしないとな、とは思っているのですが、企業とウェブの関係については、今は確実に過渡期なのではないかなと思います。もちろん、ウェブ慣れをしている大企業なんかは、もはや過渡期ではないかもしれませんし、逆に小さいけれど先鋭的な企業だと、ウェブでのびのびとコミュニケーションを行えている企業もたくさんあります。ま、この手の話を一般化して語るのはいいことではなさそうなので、とある企業の話を書きます。

 従業員数2000人くらいの、一般の人にはあまり知られていないけれど、その業界ではトップ企業。売り上げのほとんどはB to Bだけど、ごく一部のサービスは一般の人向けで、そのサービスのマス広告はそこそこ出稿している、そんな感じの企業です。私は、その企業と約3年くらいおつきあいさせていただいています。

 その企業とは、私が正式にクリエイティブディレクターになった直後からのおつきあいなので、忌憚なく意見を言える関係を持たせていただいていることもあって、ウェブについても突っ込んだ提案をちょくちょくさせていただいています。今まで実現したのは、バナーを中心としたウェブでのキャンペーン、他のエンタメサイトへの参加、リスティング、ブロガーミーティングといったところでしょうか。

 3年前と比べると、ずいぶんウェブに対する拒否反応もなくなってきて、ウェブでのコミュニケーションに積極的にはなってきました。今、私が提案しているのは、アフィリエイトとブログです。これは、前からずっと提案してきました。でも、その当時は、アフィリにしてもブログにしても、こちらが望まないサイトにリンクされるのが怖い、という理由から却下になってきました。こちらが情報の流通をコントロールできない状況では、なかなか二の足を踏んでしまうということでした。

 わかりやすく言えば、ウェブでのコミュニケーションはブランド構築を阻害する、という感じ。もっと言えば、ウェブは怖いという感じですね。私がウェブを薦めるときに絶対に言っていることがあります。ウェブの原則は「公開と共有」であり、この「公開と共有」の原則を守れないと、ウェブでは失敗しますよ、と。

 わかりやすいのがブログですね。この企業でも、例えば、「日産:ティーダ公式ブログ TIDA BLOG」なんかの成功例はよく話に出ているのですが、それが自分のことになると躊躇してしまうようです。話していると、炎上したらどうするんですか、という話が必ず出てきます。でも、ブログをやっている経験から言えば、炎上するほど読まれるPVは、企業ブログといえどもなかなか稼ぐことはできませんし、ブログは初期投資が低い分、リーチに関してはやはりマスの足下にも及ばず、地道にやっていくメディアであることは、あまり理解されていませんでした。これは、ブログでコミュニケーション、口コミで倍々ゲームみたいな甘い企画書を書く私たちも悪いんでしょうね。

 もうひとつは、誰が書くのか、という問題です。日々忙しく業務に追われる担当者は、どうしても逃げ腰になりがちです。それに、ブログといっても文章力は求められるし、きめ細かなコミュニケーションスキルはマス広告以上に必要な気がします。それに、企業が表に出す文書ですので、社内の承認がたいへんだ、みたいなこともあります。

 誰が書くか問題に対しては、理想は、得意先社内の担当者でしょうけど、私は、別に広告会社所属の私が書いてもいいと思っています。ただし、その場合は、得意先社内の誰かに成り代わらないのが原則でしょうね。私の立場で書くというのが条件でしょう。あと、日産の例にもあるように、コメント機能は使わず、トラバだけにするとかいろいろな方法もあります。私自身は、企業ブログにもコメント欄はだんぜんあったほうがいいとは思いますが、企業によりけりでしょう。コメント、トラバはブログの付加機能と考えたほうがよさそうです。

 あとは慣れでしょうね。様々なニュースサイトさんをはじめ、はてブ、ニューシング、2ちゃんねるなどのソーシャルなウェブサービスにも、企業側が慣れることも必要かもしれません。毎日、いろいろなことを発信し続けられて、世の中を楽しくするネタ的要素を提供しながら更新しつづければ、ブログは企業にとってかけがえのないコミュニケーションの場になるような気がします。なによりも等身大なところがいいですし。

 今は、確実に過渡期とは言えるけれど、そろそろこの分野に関しては過渡期を脱しそうな気がします。でも、この分野が、広告会社にとっては手弁当的なのが、私としては気になることは気になるのですが、まあ、そのへんはいつか解決されるだろうな、という楽観的な気持ちで。とりあえず、先に進めるほうが大事なんだろうな、と、そんな感じで。さきほど新幹線が静岡を通過しましたので、今回はこのへんで。

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2008年8月28日 (木)

お疲れ様です。

 なんていうか、今、とある仕事でいろいろあってちょっとトラブル中。脳内の危機感センサが発動中。パトライトがビュンビュン回ってます。いろんな人間関係があって、それぞれの思いがあって、それがすれ違ったり、ちいさな隙間が積み重なって、とんでもない大きさになって、ようやく気付いて、それをとりあえずパテで埋め埋めしているところ。

 でも、今までだったら、めげちゃうところが、けっこう楽しんでいる自分がいるんだなあ。不思議。なんか、こういうとき、理由がどうであろうと責任はまずクリがとる。全国のクリのみなさん、そう思うでしょ。でも、いままでの経験から、とりあえずその流れがわかってるから、今は、自分がやるべきことがわかるんですね。そのぶん、なんか危機を楽しんでいる余裕があるんだな。

 まあ、駄目なときは駄目だし、それはあがいてもしゃあないと思える分だけ、それを避けるすべを知っているし、なんか本能でさくさく動けるんですよね。で、きっと今回は、なんか少々無理をすれば乗り切れる感じがします。うん。大丈夫。たぶん、乗り切れる。

 こういうとき、大切なのは孤立しないこと。とりあえず上司に相談したり、同僚ととことん本音で話すことは大事。お得意と仲がよければ、お得意ともとことん話した方がいいです。もしあなたが逃げるタイプじゃなかったら、とかく孤立してしまいがちなんです。非がなくても、正しくても、それは関係がないんよね。孤立すると、しんどいよ。いいことないよ。ネガティブスパイラル。孤立すると、人の悪いところばかり見えるから、落ち込むしね。

 理解してくれない人には、理解してもらうまで話すこと、大事。他人の話も、拒絶せずに聞くこと、大事。拒絶してくる人は、拒絶感がなくなるまで、とことん本音トーク。それを根回しと世間は言うけど、でも、見方を変えると、コミュニケーションだからねえ。コミュニケーションのないところにチームワークなんかなくて、そんなチームワークって、日本語では馴れ合いと言うんだろうね。

 こういう立ち回りを率先してできるようになったのは、最近かな。今まではできなかった。むしろ、孤立する自分が好きだったりした。クリはそういう人、多いですよね。私は、年齢的にも、中途半端におっさんだから、このブログ読んでくれている人、若い人が多いともいます。そういう人に、そっと教えたい。ひとりはさみしいよ。いいことないよ。仲間がいると心強いよ。仲間をつくろう。そのために、きちんと話そう。誤解は解こう。

 こんなとき、楽しいと思おう。危機を楽しんで、人間模様を楽しんで、メモをして、いつかそれをネタにして広告をつくってやろう、そんな余裕で乗り切ろう。ブログっていいよね。こんなことを書けるんだもの。読んでくれているひとがひとりでもいる限り、ひとりじゃないんだもの。全国のテンパッてるみなさま、お疲れ様です。

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2008年8月15日 (金)

パナソニックの白ものCM第一号は電球

 10月1日のパナソニックへの社名変更、ブランド統合に先駆けて「パルックボールプレミア」のCMがパナソニックブランドで放映されていました。パナソニックブランド白ものCM第一号は電球から、というのは「二股ソケット」の松下さんらしいです。

松下電器産業 - Wikipedia

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2008年7月24日 (木)

思いつきのクリエイティブ

 このところ、医療関連の話題を書くことが多いので、当然、看護を専門にする人のことを書くこともあるのですが、なんとなく看護婦っていう名称はなくなったということなので、看護士って書いていたんですが、これも間違いだったということに気付きました。

 正しくは、今まで女性を看護婦、男性を看護士と言っていたそうなのですが、これを男女ともに看護師というふうに統一したとのこと。知らなかった、というようり、ことえりではまだ変換されないようです。でも、ことえりのせいにしちゃいけないですね。いろいろなエントリで、看護士って書いているかもしれません。修正は折を見て。

 医療関係のニュースで、気になること。なんか各自治体で「小児医療無料化」が押し進められているようで、(参照:みんなの意見で社会が滅ぶ - レジデント初期研修用資料)、こういうこと書くと子どもを持つ親御さんからは反発はあるのだろうけど、何を考えているんだろうと思います。

 特に小児科が今疲弊していて問題になっているときに、なんでだろうと思います。何もこの時期に、と思います。最近、から明るい制度の深淵にグロテスクな発想を見ることが多いです。なんだろう、この感じ。私は、コンビニ医療という言葉と、そのリテラシーを市民にしいていく風潮を批判するエントリ(続・リテラシー考)を書きましたが、こんな制度を始められたら、コンビニ医療をやめようと問いかける人のがんばりだって、水の泡じゃないですか。これ一発で、ぜんぶ吹き飛びます。

 ほんとの意味でのマーケティングがないんです。マーケティングは、泥臭い過去を見て、今を見て、未来を見ること。その泥臭ささを引き受けて、見たくないものもぜんぶ見てクリエイティブをしなければ、絶対にうまくいくはずない。それがどんなに心地よくても、思いつきのクリエイティブほど、害を与えるものはないんですよ。これひとつで、何十年と築き上げたブランドが吹き飛ぶことだってあるんです。

 吹き飛んだあと、気付いても時すでに遅しです。医療行政も、少しは市場から消えていった幾多のブランドに学べばいいのに。失敗の事例は世の中に出ないから、学びようないかもしれないけど。

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2008年7月15日 (火)

じゃあ、それ絶対だと言える?

 今、新幹線の中。まもなく名古屋です。名古屋を出ますと新横浜に着くとのことなので、それまでに書ききればいいなあ、なんて思ってます。休日と有給休暇中は、いろいろと忙しかったので、あまり手広く考える暇がなかったけど、まあ、それなりにぼんやりといろんなこと考えているわけで(もちろん仕事のこともね)、それを書いてみようかな、なんて思っています。

 このところ、お医者さんの先生のブログをよく読んでいます。その中で、へへえ、おもしろいなあと思うエントリがありました。なんとなく有名ブログだから、紹介ということでもないし、発掘感がないけれど、まあおもしろいんだからしょうがないか。って、しょうがないとかそんな問題でもないけど。

 そのエントリでは、今、社会は医師に対して「大丈夫」という言葉を過剰に求めていて、その責任も過剰に追わされて、その状況にあることに意識的な先生、このエントリの言葉を借りると「ものがよく見えてる先生」は、「大丈夫」を安売りできる分野に逃げ込んでいる、ということが書いてありました。

地域の基幹病院から呼吸器内科の先生がいなくなって、今本当に困ってる。

肺気腫の人とか、喘息の人とか、うちにかかったこともないような人が、「専門的なご加療をよろしくお願いします」なんて紹介状持って、うちみたいな施設に運ばれてくる。相手は呼吸器専門の開業医で、自分たちはただの一般内科なのに。

やっぱりずるいと思う。やろうと思えば仕事できるのに。無能のふりして「大丈夫」大安売りして、明らかに格下の医者相手に「専門的なご加療を」とか、思ってもいないこと口にして、自ら設定した範囲を超えた「大丈夫」のツケを回して、自分はまた別の元気な人つかまえて、また「大丈夫」を売り歩いてる。

「大丈夫」の排出権取引をやらせてほしい - レジデント初期研修用資料

 ああ、なるほどなあ。そんな感じだろうな、と思います。でもって、なんとなく、私自身、どうやら先生やケースワーカーさんに「大丈夫」を求める患者家族と思われているふしが、どうにもあるので、なんとも複雑なんですが。いつも、先方が過敏に反応してきたな、と感じたら「いえいえ、そういうことではなくて」という言い訳をこちらがしなくちゃいけなくて、しんどいなあ。ただ質問しているだけなのに、とこちらは思うのですが「大丈夫」を求めていると思うんだろうな。「もう治りませんから」と言われたわけだから、それは理解してますってば。でも、しょうがないんだろうな、そういう空気の中で息を吸っているんだから。

 まあ、そんな愚痴はともかく、この話、最近の仕事でもよく見かける光景ではあるなあ、と思いました。こちらの広告の仕事は、命がかかっていないので気楽と言えば、まだ気楽だけど。

 最近の傾向かもしれませんが、コミュニケーションプランナーという言葉が一人歩きして、自称広告プランナーが増えてきたような気がします。垣根を超える、という概念も流行っていますし、いろんな分野で、自称広告プランナーだらけなんですね。で、たいがいは、そのプランニングというのは、戦略とかではなく、いきなりエクスキューション(表現)だったりするわけで。

 そんな自称広告プランナーばかりが集まって会議しても、もめるだけなんですよね。その時点で、自分の専門性をベースにしなくなるから。垣根を超える、というのは、なんらかの専門性がベースになってないと辛いのではないかな、と個人的には思っています。なんとなく、今の空気では形勢が不利だけど。

 自称広告プランナーたちは、自分のアイデアを私とかのクリエイティブにかたちにさせたがるんですね。彼らは、最終的な定着のスキルは持っていないから。当然、拒みます。なぜ拒むかと言うと、その時点で、こちらはエクスキューションではなく戦略のことを一生懸命考えているから。AISASとか、そういうのは戦略じゃないから。それは、方法論だからね。

 で、今考えていることを説明します。しょうがないから、大急ぎでエクスキューションの例を示しながら。そうすると、こう言います。

 「じゃあ、それ絶対だと言える?100%、成功するって言える?」

 言えるわけないじゃない。神様ではないんだしね。でもね、100%失敗するという案ではないという自信はあるんですよ。それにね、私はね、大きなところだけやって、小さなところはクリエイティブ、よろしくなんて、自称広告プランナーがやりがちな手抜きなこと、絶対に言わないんですよ。今のコミュニケーションって、軸でしょ。それは、君たちが大好きな新しい広告の考え方じゃないですか。それって、最後は、地味で丁寧な作業をどれだけ見られるかが、案外勝負なんですよ。今の広告って、昔みたいに、大きなとこ一発で、あとはどうでもいいみたいな大らかな時代じゃなくなったという時代の必然があるんですよ。

 私自身、CIプランナーから広告制作に入った人間だから、まあ、元自称広告プランナーであるんですが、私は本気だったから、定着まで責任が持てるだけのスキルは学んだし、いつもそれを担保にしています。それに、そんな実制作を扱う広告制作のアンカーが、お得意の政治を読んだり、戦略の前提になるステイトメントの整理まで手を出さざる得ないのは、そんな「大丈夫、あとはクリエイティブが最高のビジュアルとコピーを考えますから」という自称プランナーばかりになっていて、高度な専門性と直感を持ったアカウントやマーケやメディアが不足しているから。

 さとなおさん曰く、コミュニケーションプランナーというのは、戦略からメディア選定、最終定着、結果の責任までひとりの人間の考え方で行うという仕事モデルなんですよね。このコミュニケーションプランナーという言葉を広めたさとなおさんの名誉のために言っておきます。そのひとりの責任あるコミュニケーションプランナーを中心にチームワークがある、という考え方。だから、さとなおさんは、今でこそ主流っぽいけど、ずっと本流ではなかったんです。

 なんか書いているうちに怒ってるみたいな文章になってしまったなあ。他分野で覚悟を持ったコミュニケーションプランナー指向の人は、応援しています。もし一緒に仕事することがあったら、先輩として出来る限りの支援をしたいです。それは、孤立無援の厳しい道のりになるから、追い風だけは送りたいと思います。新しい広告は、私は個人をベースにしたものから生まれると思っています。組織の時代を経て、もう一度、個人の時代が来るような気がします。そのときに、いい酒が飲めるように、お互い、がんばろう。

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2008年7月11日 (金)

広告は喧嘩である。

 と元気よく言い切ってみました。言い切るって、気持ちいいもんですね。でもまあ、言い切ってみると妙に弱気になってきて、広告は喧嘩でもある、だなんて書き直そうかなと思ってきました。まあそれはともかく、広告は喧嘩であるというのは、半分は当たっているかもです。

 例えば、広告が立ち上がって、その広告がわりとエッジが立った広告だった場合、必ず何かの反応があったりします。あの表現はおかしいのではないか、という意見がお客様相談室に入って来たりします。今日も、そんなことがありました。

 で、その意見を見てみると、なんとなくおかしい。利害関係者が、広告表現をつぶしに来ているような気がします。わざと誤読しているような気がします。それに、私は地方の代議士だとか言っているのに、でも名前は名乗らなかったり。じつは、そういうことはよくあります。ライバル会社の関係者だと思います。大人の世界としては、まあそれはほぼ正解でしょう。

 こういうとき、お客様対応がうまくできていれば、何の問題もなかったりしますが、偶然が重なって、運悪くこじれてしまうこともあります。そうなると、もう挽回するチャンスがないんですね。なにせ、お客様の声ですから。お得意の社内で問題になり、広告にチェックが入ります。このワードは削除。このワードは変更。

 どうするか。

 まずはそれを受け入れる。しょうがないです。受け入れたくなくても、受け入れなければしょうがないですし。だからこそ、その変更を肯定的に受け入れてみる。この肯定的、というのが大事です。で、受け入れた上で、その変更がなければ考えつかないアイデアを考えます。削除や変更という条件ができたことでしか生まれないアイデアです。そのアイデアを定着して、前よりもいい広告をつくります。

 それしかないんですね。それをしないと、ケチがついたという事実だけが残って、調子良く走り出した広告が失速してしまいます。むしろ、そのお客様の声、もしくは、ライバル会社の策略を、追い風に変えてしまうんです。結果的に、あのことがあってよかったな、と言うために。

 広告は喧嘩だと思います。すべての広告は、市場で勝ち残るための握りこぶしです。であるならば、いかに良い喧嘩ができるかが問われます。それは、人間関係でも同じことだと思いますけど、喧嘩をするとき、その質の善し悪しが残酷なまでに出てしまうんですね。

 いい喧嘩をするためには、瞬発力が必要になります。すばやく対応することが何より大切です。時間が経てば経つほど、取り得る方法は少なくなっていきますから。逆説的ですが、多様な方法を残しておくために、瞬発力が必要なんです。時間切れ、こうするしかない、みたいな負け方だけは絶対に避けるべきです。悔いが残るから。

 まあそんなふうに、広告は喧嘩である、なんて書いてきましたが、それが成り立つには、ある前提がいりそうですね。喧嘩をしているフィールドに、武士道みたいな、相手に塩を送るみたいな、ルールというか美学というか、そんな共通認識としてある場合は成り立ちますが、こちらが素手で戦っているときに、バズーカーを持ってこられると、もはや、どうしようもありません。でも、最近はそんなことも多いですね。万事休す、降参、みたいな。

 市場もそうですし、競合コンペなんかでも、そういうの多いですね。ああ、そうこられると、もうどうしようもないな、みたいな。それでも勝たなきゃ食えないので、どうにかしようとは思いますが、たいていは、善戦だったね、という感じで終わります。一頃のジャンボ鶴田さんみたいです。いまだに、バズーカーに素手で勝つ方法は見つかりません。誰か教えてくれないですかねえ。

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2008年6月30日 (月)

いつまでも良心や善意に頼りっきりでいいのだろうか

 NNNドキュメント’08「笑って死ねる病院」(テレビ金沢制作)を見ました。石川県金沢市の城北病院の話。82歳になる肺がん末期のご老人を中心に、地域と医療現場のやりとりが紹介されていました。このご老人は、入院90日を超えて、病院から転院を迫られました。その理由は、このブログでも書いた高齢者の入院90日規定(参照)です。入院に対する保険点数が90日を超えると極端に下がるのですね。

 転院先を探すも、どこも引き受け手がなかったそうです。このご老人の奥さんが、かかりつけ医であった城北病院の先生に相談し、城北病院に転院することになったとのことです。番組によると、今、末期がんの患者は、どこの病院も引き受けたがらないそうです。赤字をつくるからです。

 城北病院は、地域の人たちと協力しながら経営をしている病院だそうです。引き受けた城北病院の主治医がインタビューに答えていました。実際には、そのご老人の医療サービスについては、病院は赤字だそうです。つまり、良心でやっているということです。これまで私は医療はこうあるべきでやってきたけれど、医療制度がこうなってしまった今、これからも同じことができるかどうか自信がない、といった趣旨のことをおっしゃっていました。

 やっぱり、制度の問題なんですよね。身も蓋もない言い方で言えば、お金の問題です。

 例えば、卑近な例で申し訳ないけれど、私のやっている広告の仕事。私たち広告会社は、今、多くの仕事で、媒体コミッションによってその大部分の対価を頂いています。媒体コミッションというのは、テレビとか新聞とかの広告媒体を買うときに発生する手数料のこと。

 大雑把に言えば、仮に手数料が10%として、6億の媒体で投下する広告の場合、6000万の利益が出ると言う訳です。600万なら60万の利益。そういうコミッション制でやっていると、媒体を大量に投下しない会社の仕事は、儲からない仕事になってしまうんですね。企画という軸で言えば、6億の仕事も600万の仕事も等価なはずです。

 実際、多くの広告マンは、そのプライドにかけて、どちらも手を抜かずにやっていますが、いつまでもそのプライドを維持していけるかどうかは私も自信がないです。経営的な問題が出ると思いますし。つまり、コミッション制というのは、緻密で良質な企画を受けるためには、媒体をたくさん使ってくださいよ、という制度なんですね。そして、この制度は、マス広告一辺倒時代の終焉とともに綻びが出てきています。

 人の命にかかわる医療と、そうでない広告を同列に語ることはできませんし、広告会社の淘汰と医療機関の淘汰は、その意味はまったく違うとは思うけれど、構造は同じような気がします。

 良心とか善意とか、そういったものは儚いものです。たったひとつの制度によっていとも容易く崩れ去るものです。上部構造は下部構造に規定されるとマルクスは言いましたが、ほんとその通りだな、と思います。下部構造に規定されない強靭な意識を要求するのは、ただの人間に聖人になれと言っているようなものだと思います。

 私が、この医療制度のことがグロテスクだと思うのは、意識の変革には言及せずに(グロテスクすぎて言及できないでしょう)、制度によって、間接的に人の意識の変革を迫っているところです。医師にはそれ以上診るな、患者にはあきらめろ、そう言わずに、制度によって、そう仕向けようとしている、ということなんですよね。

 たぶん、この制度はあまりにグロテスクすぎるので近い将来、矛盾や問題がたくさん出て破綻すると思うし、しばらくは良心に頼ることと、制度をよく知り、自衛することが大切だと思うけど、その間にも、今の制度の犠牲になる人が出てくるわけで、なんかいたたまれないです。医療難民と言われる人たちに何もできないわけだから、私のこうした言葉は、身勝手なセンチメンタリズムに過ぎないけれど。

 

 追記:

 終末期の問題は、本来医療ではなく、「ケア」として考えるべきもので、政府の考え方としては、もともとは、というか大義は、これからは、なるだけ慣れ親しんだ自宅において介護保険制度によるケアで行うようにしていきたいとの趣旨だとは思います。この医療制度と介護保険制度はセットで考えられていました。

 しかしながら、医療に替わるほど介護は発達していない現状と、現在、終末期ケアは医療機関に頼らざる得ない状況を考えると、やはり、患者にあきらめろと言っているに等しいのではないかと考えます。また、この医療と介護の境界にある患者はたくさんいます。つまり、例外が多すぎると思うのです。

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2008年6月21日 (土)

ポジショントークってなんだ?

 前から気になっていたのですが、ブログまわりで言われるポジショントークという言葉。大まかに感じることで言えば、例えば私だったら、外資系広告代理店のCDというポジションから、最近の広告なってないよね、どれもこれも駄目、あっ、それに君のブログに書いてあった広告論、それ私から言わせるとぜんぜん違うから、素人の意見だから、みたいな今ある特権的な立場を根拠にして上から目線で書くみたいなふうに読み取れるけども、ちょっと違うのかも。どうなんでしょ。

 しかしまあ、あくまで例で書いただけですが、鼻持ちならないやな奴ですね。こんなやつのブログ、私は絶対に読まないですね。いや、もしかすると、嫌なもの見たさに購読するかも。ある意味で、ぜんぶ自分に跳ね返ってくる分、潔いかも。私は、できませんけど。

 このポジショントーク、確か金融用語だっけかな、と調べてみると、やっぱりそうでしたね。「Wikipedia - ポジショントーク」(参照)にはこうありました。

ポジショントークとは、株式・為替・金利先物市場において、買い持ちや売り持ちのポジションを保有している著名な市場関係者が、自分のポジションに有利な方向に相場が動くように、市場心理を揺さぶる発言をマスメディア・媒体などを通して行うことを指す。

 なるほど。で、風説の流布とは違って、影響力のある人が自分の望む未来を予測しているだけだから、あまり問題にはならないけど、インサイダー情報がからむなり、度が過ぎると風説の流布になるし、今の世の中ではあまり好まれるやりかたではないのかもしれません。というか、嫌われがちですよね。

 ブログでは、もっと広義にポジショントークという言葉が使われているみたいですが、この金融用語の意味で、ポジショントークについて論じているエントリには、広告βさんの「ポジション・トーク」(参照)がありました。なるほど、なるほど。確かに広告っていうのはポジショントークそのもの。商品というポジションが希望する未来を語りますから。

 現代の状況を踏まえるなら、ポジションを隠すことではなく、明らかにすることが一番お得なのではないか。

 広告βさんは、実務の実感からそんなふうに書かれています。私も同意です。大雑把に言えば、いま、企業はさまざまな情報に囲まれていて、自ら発信する情報だけで自分のポジションを仮想できません。であるならば、ポジションを明らかにすることが、ポジショントークである広告を有効に働かせる方法であると思います。

 要するに、お前が言うな、とか、何言ってるの、というツッコミを意識するということでしょうか。またツッコミがあるだけましですが、多くは、ああ広告ね、とノイズとして無視されてしまいます。広告は、広告主のポジショントークと明確に意識される時代。だから、一頃のコピーライターブームの熱狂が終わったんですよね。でも、それは逆説的にコピーライターの本当の力が試される時代でもありますね。

 どうしてポジショントークについてあれこれ調べてみたかと言うと、津田大介さんのTwitterでのつぶやき(参照)にブクマがたくさんついていたから。それにしても、つぶやきが話題になるって、すごいですよね。さすがTwitterと思いました。どこがさすがなんだかはわかりませんが。その元の文章はこんなのです。Twitterだとどうしても全文引用になってしまいますが。

俺はネットの一部にある「誰が言ったかが重要じゃない。何を言ったかが重要なんだ」って概念を根本的に信頼していない。それが14年ネット見てきた結論。匿名だってポジショントークは盛んに行われてるし、むしろなぜその人がそういうポジショントークをしてるのか辿ることで論点が見えてくるから。

 ここで言われるポジショントークっていうのは、ブログまわりで属人論法と呼ばれるもののイメージとイコールっぽい。ニアイコールくらいでしょうか。多くのブログでも、属人論法からなされる発言という意味に近いかも。微妙に違うかもしれませんが。でもって、属人論法の定義を調べてみたけど、なかったです。属人論法というのは、冒頭の例みたいな感じとか、受け手の側から観ると、あの人が言っているから正しい、みたいなことらしいです。度が過ぎると危険ですね。

 でもまあ、仕事において私が置かれている状況は、いやになるほど度が過ぎた属人論法ばかりですけどね。それを打ち破るのは、けっこう大変だけど、それを突破しないといい仕事はできない気がします。実務では、それは企画書とかプレゼンの役割ですね。中身で勝負というか、その属人論法を打ち破るために頑張っています、という感じです。これもある意味で、今の私のポジションを根拠にしている属人論法でもありますけどね。

 行き過ぎた属人論法というのは駄目だし、論議が成り立たなくなってしまいますから、現実的に困ったもんだなあ、とは思いますが、一般のコミュニケーションで完全に属人論法を排除するのは、なかなか難しいのでしょうね。

 ブログなんかの場合だと、完全に匿名でやっていても、エントリを積み重ねていくことで「この人」というのがつくられていきますし、コメントなんかでも何度かやり取りをさせていただくうちに、たとえそれが具体的でなくても、なんとなくその人のバックボーンが見えてきますから。それを情報から排除するのは難しいです。まあ、ディベートの流儀というか、コミュニケーションに対する倫理的な態度のひとつとしての話ではないでしょうか。

 また、この倫理的態度を突き詰めて、発言の根拠を求めていくと、結局は、それまでその人がどんな発言をしてきたかというバックボーンを問われてくるような気がしますので、属人論法の完全排除は、結果として、究極の属人論法になってしまうような気もするし、難しいものだなと思います。

 この属人論法という言葉、どうやら飯田泰之さんの「ダメな議論—論理思考で見抜く(ちくま新書)」(参照)から流行ったっぽいですが、もしかするとネットが先かもしれません。それとも、論理学の用語なんでしょうか。このあたりはあまり詳しくないので、私にはわかりません。どうなんでしょうね。

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2008年6月 7日 (土)

私はブレーンストーミングが嫌いです。

 ブレーンストーミング、やってますか。脳に嵐を起こしてますか。このブレストってやつ、私、嫌いです。ブレストって何?という方は、こちらのリンクを見てください。わかりやすく解説されています。

ブレーンストーミング - @IT情報マネジメント用語事典

 BBDOの副社長だったAlexander F. Osbornさん(BBDOのOの人なのかな)が発案したそうです。なるほど、だから広告業界ではよくやるんですね。仕事が始まると、その担当スタッフのひとりが、必ず「ブレストやろうぜ」と言い出すんですね。明るい笑顔で。うんざりするんです。まあ、これは個人的嗜好だから、しぶしぶ付き合いますけどね。

 ブレストの鉄則は、大きく言えば2つあって、大胆で突飛な意見を言う、というのと、批判や反論は言っちゃいけない、というもの。これが性に合わないわけです。それと、ブレストの目的は、企画の前の固い頭を柔らか頭にする準備運動というか思考実験に近いものだけど、それを認識していることも少ないし、正しいブレストは、司会進行役が絶対にいるんですが、まあ、日常のブレストは、それが省略される場合も多い。これが、またくせものなんですね。

 そうなると、どうなるか。限定的に発言をフラットにすることで、逆説的に、限定的な権力ゲームになってしまったり、前提をまったく考慮しない、または自分に都合良く誤読することで、意味のない戯れ言大会になってしまったり、そんな感じです。

 現実では、ブレストでなされる意見は、大胆に見えて、じつはきわめて常識的で凡庸なことも多いです。でも、批判や反論は閉じられているので、なるほどねえ、なんて言わないといけない雰囲気なんですよね。メンバーの全能感が次第に増幅され、そんなカラ明るい空気の中で、こっちは、どんどん不機嫌になっていくんです。

 で、ブレストが終わって、それぞれの企画作業へ。えっこらさと企画を進めていると、メンバーの一人がやってきて、「俺の意見、反映されてる?」なんてことをニコニコしながら聞いてくるわけです。ほんとはその意見が使えないからだけど、「ちょっと予算の問題でね」とか嘘付いて、そんでもって、その人はさみしそうな顔して帰っていくんですね。もうね、ブレスト、やめませんか。誰も幸せにならないじゃない。

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2008年6月 1日 (日)

ね。

 コピーライターが書く文章で特徴的なこと。語尾の「ね。」ですね。なぜ「ね。」を付けたがるかというと、共感をつくりたいからですね。つまり、逆のいい方をすると反感をつくりたくないからつけるということですね。しつこいですね。

 という私も例に漏れず、このブログでも「ね。」を多用してしまいがちなんですが、まあ、この書き方はわりあい自分の思考の流れに近いというか、そんな感じです。あまり多用すると、共感の押し売り感が出てしまいます。お前のことだよ、と言われそうであれなんですが、そういう共感のコントロールをコピーライターが過剰に意識し出すと、だいたいはコピーが薄っぺらくなってきます。

 ある程度キャリアを積んで、技術的に共感のコントロールができてくると、この壁にぶち当たります。なぜ壁になるかと言えば、共感のコントロールというのは、いわゆる文体の技術であって、コピーを構成する要素は、メッセージの内容と、それを伝えるためのストーリーだったり、文体なんかより大切なものがたくさんありますので、文体の技術に特化することで、他の構成要素を軽視してしまうからです。

 つまり、少々、メッセージ内容が陳腐で、ストーリーが稚拙でも、文体の技術=共感のコントロールだけで、なんとなくコピーになってくるのです。でも、それは勘違いだけど。

 共感のコントロールは、すなわち、コピーライターのスキルでもあるので、得意先からコピーにケチがつくと、コピーライターのスキルにケチがつけられるように思ってしまうので、なんとなく存在否定をされた気になって、あの得意先はわかってない、みたいなネガティブスパイラルに入っていきます。

 でも、本当の問題点は、メッセージ内容だったり、それを伝えるためのストーリーだったりします。それに気づいたとき、またもうひとつの成長があるのではないかな、なんて、自分のキャリアを振り返りながら思います。

 まあ、こうした広告独特の共感コントロールは、文体だけでなく、視点にもあって、それが、ああ、いかにも広告だなあという、独特の広告臭の実体ではないかと思っています。今、それが見破られている時代な気がしていて、それが、広告屋としての私のテーマだったりします。

 ちょっと前までは、いかにも広告だなあ、という文体なり視点なりがリアルでした。そのリアルは、なんとなく新しい時代を開いてくれそうだ、とか、こんな生活っていいかも、とか、そんな感じでした。でも、今、そんなリアルは、誰もリアルだとは思わないのがリアルな社会の姿ではないかな、と思います。

 じゃあ、何がリアルなのか。それを今、いろいろな仕事で模索中です。ひとつは、プレスリリース的な世界だったり、逆に、これまで愛されてきた、子供もご老人も、みんなが楽しめる世界だったり、仕事によってまちまち。とにかく言えるのは、あの、広告がいい時代のやり方は、もうできなくなってきてるのかもなあ。ね、あなたもそう思いませんか。

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2008年5月20日 (火)

ですますで書くか、だであるで書くか。あなたはどっち?

 まあブログなんだし、好きなように書けばいいんじゃないかと思うけど、個人的には「だである」調は苦手ですね(書くのは、という意味です。読むのは、どっちも好き、というか、文章と内容によりますね)。どうしてかというと、私が広告屋さんだからですね。この理由はちょっと説明がいるかもです。

 広告関係の年鑑を時系列で見ると分かるかもしれませんが、広告の文章は「だである」調と「ですます」調が半々くらいだったのですが、ある時期を境にして、めっきり「だである」調が少なくなってしまいました。ある時期というのは、きっとバブル崩壊あたり。ここから先は私の仮説ですから、そのつもりで読んでくださいませ。

 要するに、ものが売れなくなって、相対的に消費者が強くなったんですね。そうなると、広告が商品の物語やイメージを描いて、消費者に読め、見ろ、というふうにいかなくなったんです。今までの広告は、情報発信。いかに優れた情報発信をするかが勝負所でした。でも、消費者が強くなると、消費者の声を聞くことが大事になってきて、そうなると、発信側のしゃべり方も丁寧になりますよね。だから「ですます」調が増えた、と。

 共感を軸に考えると、憧れから、いい人、やな人、というような等身大の共感に変わったということです。広告は、というよりブランドは、基本的には羨望と尊敬を構成要素としていると思います。その強烈なアンチテーゼとして、ブランドを、ああアホやなあ、でも、おもろいやっちゃな、という、ちょっと下から目線な親しみを要素に構成したのが大阪面白CM。

 で、海外の有名ブランド的な羨望と尊敬と、大阪面白CMを代表とするアホなやっちゃな、でもお前のこと好きやで的な広告のあいだにあるたくさんの広告では「ですます」調が主流になっていったわけです。私は、「だである」調から「ですます」調への移行をはっきりと覚えています。ファッションの仕事が多かったので、ファッションについて語ることが多かったのですが、ある時期、はっきりと「だである」調では伝わらないなと思ったときがありました。これじゃ、伝わらない、と思ったんですね。

 それからというもの、日夜、「ですます」調。最初の頃は、「だである」調で書いたものをわざわざ「ですます」調に直したりしていました。今では「ですます」調がすっかり染み付いてしまって、気づくと「だである」調が苦手になってしまっていたんですね。というか、今書いているような感じは「ですます」調というよりも、会話とかおしゃべりみたいな書き方かもしれません。

 そんな感じで書いているのですが、ときどき「だである」調で書くこともあります。その日の気分です。昨日のエントリなんかもそうですね。そのへんは、書いているときはあまりこだわりなくやっています。でも、客観的に読むと、なんとなくぎこちないかもですね。日々書く、という意味では、私の場合、今のところは、こういうおしゃべり調が圧倒的に書きやすいです。いわゆる散文なんでしょうね。凝縮させるのではなく、いろんなことが散っている感じ。

 あと、余談。「だである」調とは言いますが、このところの傾向として「である」はあまり使われなくなっているような気が。昨日の私のエントリでも、「表現の場としては頂点であったようだ」と「なんとも本末転倒な話ではあるが」というのがありましたが、「である」はありませんでした。なんでだろう。

 もうひとつ余談。「だ」という言葉は、関西弁では「や」になります。「だね」は「やね」ですね。哀しい色やね、のやねです。「だ」という書き方にいまいちしっくりこないのは、私が関西言葉系列の人間だからかもしれません。関西人が「だ」で文章を書くのは、物書きになるという意識のジャンプが必要なのかも。中島らもさんの本を読んでいて、そう思いました。私にはその意識のジャンプはあまりないかも。

 しかし、文体って何でしょうね。

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2008年5月19日 (月)

かつてテレビは軽蔑される存在だった。

 TBSのドキュメンタリー番組「あのとき…村木良彦氏とTV私論 是枝裕和」を観た。テレビ黎明期の話。放送局ではラジオがメディアとして偉く、ラジオ制作部は駄目な人、使えない人を新しくできたテレビ制作部に出したとのこと。もちろん映像メディアが軽く見られていた訳ではなく、映画は、表現の場としては頂点であったようだ。一方、テレビは紙芝居と揶揄された。テレビ黎明期の武勇伝はよく聞くけれど、そうした現実のリアルな話はあまり聞かない。けれども、よく考えれば、そんな感じであることは容易に想像できる。

 今や死語かもしれないが、広告代理店にはラテ局という部署があった。テラではなくラテ。ラジオ、テレビ。それは、できた順番というだけではない何かが表現されていたのだろう。テレビは、映画の模倣から始まったとドキュメンタリーは語る。けれども、落ちこぼれのテレビマンたちは、映画に近づくことをあきらめる。カットが多く、緻密にモンタージュされた構成を放棄し、カットが少なく長まわしする手法を選んだ。そのために、長まわしに耐えられる素材を探し始める。なんとも本末転倒な話ではあるが、時代を根本的に変えてしまうことは、そういうご都合話から生まれるのだろうな、と思った。

 しかしまあ、テレビ黎明期を支えた人たちのすごいこと。構成、寺山修司。音楽、山本直純。もちろん、このドキュメンタリーの主役である萩元晴彦、村木良彦。笑福亭鶴瓶がよくラジオで嘆く話がある。昔のラジオは挑戦があった、自由があった。そこにマーケティングが入って来て、ターゲットをセグメントした。斜陽のラジオ局だから、広告を取るためには仕方がないことかもしれない。結果、深夜はアニメ番組と、アイドルが出演する全国ネットの30分番組ばかりになった。大阪のラジオは終わった。鶴瓶はそう嘆きながら、大阪のラジオ番組に今も出演し続ける。自身を育ててくれたラジオを蘇らせるために。

 逆に見れば、ラジオは終わったと嘆くことで、鶴瓶にとって、ラジオは今も黎明期であるとも言うことができる。テレビは終わった、新聞は終わった、広告は終わった。そう認めることで、黎明期を生きることができるのかもしれない。自分の領域で言えば、黎明期を生きるということは、広告とは何かと問い続け、ひとつひとつ形にしていくことなのだろう。広告とは何かと考えることは、その答えを形にしていくことがなければ、ただの問答に過ぎない。いろいろ考えさせられた。月曜日が始まる。

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2008年5月13日 (火)

ええコピーやなあ

 自分のことは棚に置いて、私がええコピーやなあなんて思った他人がつくった広告コピーの話など。うちの会社の若手クリエーターには批評はするな、批評される人になれ、なんてかっこいいことを言っているんですが、このブログを見たら、言ってること違うじゃないですか、なんて言われそうですが、たまには私も息抜き、息抜き。あまり有名ではないやつをセレクトしました。では、始めます。

 

たくさんの、Helloと出会える。

 某航空会社の留学プランの広告コピー。いいですよね。なんか、いい感じの光景が目に浮かんできます。留学したくなりますね。たくさんの人たちとのいい出会いが待っていそうです。

 

理由が分かれば、人は動く。

 某コーヒー会社のインスタントコーヒーの広告コピー。テレビCMが流れていましたので、知っている人も多いのではないでしょうか。アルピニストの野口さんが子供たちに「山では生ゴミも凍って残ってしまうんだ。だから捨てちゃいけないんだ。」と教えていました。このコピー、広告コピーを超えて、私の大好きな言葉になりました。ほんと、その通りだと思います。

 

そんな人おらんて。

 某絵具屋さんの企業広告のコピー。ビジュアルは、完璧な女性の肖像。こうあるべき、こうあるべき、を重ねていくと、完璧な人物は描けるけど、実際はそんな人おらんて。まあ、少々不満でも、自分らしい自分を認めてぼちぼちやっていくしかないなあ、なんて思います。

 

爆発しなくても芸術でございます。

 これは、たしかカルチャーセンターの広告だったような。おばあさんが絵筆を持っているのがビジュアル。ブログも、楽しんで書くのがいちばんですね。

 

月曜の朝が好きですか。

 これは、私の大阪時代の先輩のコピー。某大規模店舗街の広告コピー。身内褒めっぽいから、書いた人はヒミツです。ところで、月曜の朝は好きですか。私は、うーん、どうでしょうか。好きなときと嫌いなときがあるなあ。

 

男のメンツ。女のプライド。

 またまた、身内褒めシリーズ。先輩作。これ何の広告だと思いますか。ちょっと考えてみてください。答え。某大規模店舗街が発行するクレジットカード。言えてますよね。カードって、こういうこと。特に、女のプライド、というのがいいですよね。いえ、今日は私が払うから、なんて光景が目に浮かびます。バブルが終わりかけの頃ですね。

 

マナーから、ルールへ。そして、マナーへ。

 これは東京都中央区のタバコのマナー広告のコピー。最初は、マナーからルールへ、というコピーでした。言いたいことは分かるけど、あまりいい印象がありませんでした。当初は、反発する人も多かったです。そういうこともあってかどうかはわかりませんが、こないだ、喫煙所で看板を見たら、そして、マナーへ、という言葉が足されていました。なるほどねえ、と思いました。

 

今日は帝劇 明日は三越

 最後のこれは、百貨店の三越のキャッチフレーズ。ずいぶん昔のもの。私が三越をやっているとき、担当は、みんなこの名コピーを意識しながら仕事をしていたんですよね。「カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂。」とか、「当たり前田のクラッカー。」とか、こういうみんなが口ずさむコピーって、幸せ者だよなあ、と思います。

 広告って何だ、というのは教科書を読めば読むほどわからなくなるけど、こうしたコピーを見ると、ああ、広告ってこういうことか、ってわかるような気がしませんか。こうして並べてみると、短い言葉だけど、その言葉で、今までわからなかったことが、頭の中で気持ちよくパッと開けてくる、というか、そんなコミュニケーションの力が、広告の力だと思うんですよね。

 最近、いろいろしんどいけど、がんばらないとなあ。ではでは。

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2008年5月 6日 (火)

広告的、ウェブ的

 これはいろいろと誤解を招きやすい概念だと思うので、この広告的、ウェブ的という概念を思いつくきっかけから書きたいと思います。それと、あらかじめ言っておきますが、長いです。でも、ひとつ読んでやるか、という方は、少々のお時間おつきあい願います。では、始めますね。

 私が広告を制作する際に重視することのひとつにメディアがあります。テレビ、新聞、パンフレット、ウェブ。その他にも多種多様なメディアがありますよね。そのメディアを大きく分けると、大雑把に2つに分けることができます。

 それは、受動メディアと能動メディアです。受動メディアはテレビ、ラジオ、新聞、雑誌、交通、ウェブのバナーなど。つまり、人が他のことを考えていても目や耳に受動的に情報が入ってくるタイプのメディアのこと。能動メディアは、パンフレットやDM、企業ウェブサイト(スペシャルサイト)など。つまり、人が能動的にならなければ目や耳に情報が入ってこないタイプのメディアのことです。

  受動メディア=受け手が情報を受動的に摂取するメディア
  能動メディア=受け手が情報を能動的に摂取するメディア

 これまでは、情報の発信側の視点から、ATL(Above the line=川上)、BTL(Below the line=川下)という区別をしたり、メディアバイイングやターゲットの母数の視点からマス、SPと区別したりしていました。しかし、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌という4マスという考え方が、交通広告やウェブ広告の登場で、もはや意味がなさなかったり、旧来のメディア区分は、実質意味がないのではと個人的には思っています。

 そこで、私は、上記の受動メディア、能動メディアという区別をしているのです。この分け方は、それぞれのメディアでの表現のあり方を考えるときに利点があります。受動メディアにおいては、人はその情報にまったく興味がないことを前提に表現をつくっていかなければならず、逆に、能動メディアにおいては、人はその情報を欲しがっている、深めたがっているということを前提に表現をつくっていかなければならない、ということが分かるのですね。

 この話は、当たり前と言えば当たり前の話ですが、私にとっては、実務上の必要から生まれた概念でもありました。広告制作者の多くは、テレビCMや新聞広告のような受動メディアの方法論に慣れ親しんでいます。そうした広告制作者は、能動メディアのときでも受動メディアにおいて良いとされている方法論で表現をつくることになります。しかし、そうした方法論で作っても、その能動メディアにおいては理想的とは言えません。つまり、効きません。

 具体的に言えば、新聞広告でよいとされている表現をDMに流用しても、最良の解であるとは言えないわけです。逆も同じです。いま、このメディアはブログですので、ウェブ上の個人メディアを例にとって説明します。ブログの場合、基本的には相手はウェブの全領域です。ですから、より多くの人に伝えるためには、つまりSBMなどにキャッチされるには、タイトルの付け方がキャッチーである必要性が出てきますよね。それが行き過ぎると、「釣り」とか呼ばれたりしますよね。けれども、あらかじめ読み手を知り合いなどに限定したmixiなどのSNSの場合、それはいりません。むしろ、そういう人たちにきちんと言いたいことを伝えるためには、タイトルが過度にキャッチーであってはいけないのです。眺めてみても、普段着の言葉が多いですよね。

  ブログ(受動メディア)=タイトルはキャッチーに
  SNS(能動メディア)=タイトルは普段着感覚で

 本文については、ブログは誰にでもわかるような書き方をするほうがよいですよね。異なる感覚や文化圏の人にも、発信者が何を信じ、どういう文化圏に属するかを匂わせるほうがベターでしょうね。しかし、SNSの場合は、それはあまり必要ないですよね。だって、読み手は書き手のことをある程度知っているのですから。

  ブログ(受動メディア)=本文は誰にでもわかるように書く
  SNS(能動メディア)=本文はわかっている人に向けて書く

 もちろん、SNSでも公開の度合いによっては受動メディア的な要素も必要でしょうし、ブログでも常連読者が多いと、能動メディア的な度合いが大きくなっていきますので、一概には言えませんが。それと、これは私が広告制作者だからこう分析しているだけで、ブログはこう書け、SNSはこう書けといった話ではないことをあらかじめ断っておきますね。

 これまで、メディアの区別に関しては、受動、能動という分け方をしてきました。それを表現の側から見るとどういうことになるのかな、と考えたのですね。そうすると、受動メディアに関しては、広告的というワードが出てきました。そして、能動メディアに関しては、ウェブ的というワードが頭に浮かびました。これ、誤解が多いかもしれません。世の中には、ウェブ広告という言葉や、DM広告という言葉があるからです。ここで言う広告とは、一般的にオールドメディアと言われているフィールドでの表現の方法論のことです。それは、これまでの広告文化の中で培われ高度化したものだから、私は広告と呼んでいます。また、ここで言うウェブとは、一般的にウェブ文化の中で発展して来ている表現の方法論のことです。

 こうして考えると、面白い結論が導きだせたりします。ウェブを例にとります。テキストバナーを含めたバナー広告は、広告的な表現であり、その情報の伝達も広告的。一見華やかに見えるスペシャルサイトは、ウェブ的な表現であり、その情報の伝達もウェブ的。ですから、バナー広告は、これまでのマスメディアの方法論が適用できます。しかし、スペシャルサイトを同じ方法論で作ると失敗してしまいます。口コミサイトもそうですね。広告的アプローチでは失敗します。

 この広告的、ウェブ的という概念を、もっとセンセーショナルに言うこともできますよね。例えば、表現1.0、表現2.0。でも私はそういう文脈には乗りたくなかったんですよね。私は、広告的、ウェブ的という2つは等価だと思うんです。ブログとSNSの比較でもそうですが、じつはWeb2.0と言われる環境の中でも、広告的、ウェブ的があり、その双方が得意なところは違う。そんなふうに考えた方が、現状に近いのではないかなと思ったりします。

  広告的=受動メディア的な表現及び情報発信
  ウェブ的=能動メディア的な表現及び情報発信

 なぜ広告的の対義語としてウェブ的にしたかの説明をします。Web2.0とかCGMとか言われますよね。でも、私には、このブログは旧来メディアの延長線上に見えたんですね。ウェブテクノロジーの進化によって、個人メディア、たとえば自費出版とか同人誌とかが手軽になった感覚。だから、書かれるものは、日記文学と言われるものとそう変わらない。しかし、決定的に違うところもあるんですね。それは、トラックバックをするときに書く内容。これは、書かれる表現として今までにない表現のように思えました。こう言えるかもしれません。

  元エントリー=広告的
  トラバのエントリー=ウェブ的

 まあ、私の思いもかなり含まれていますが、コミュニケーションというものを最も高度化したもの、少なくとも高度化の指向性を持っていた分野は、まぎれもなく広告であると思うのですね。その高度化を別の軸から揺さぶりをかけたのが、ウェブのコミュニケーションであると思うのです。それは、少なくとも見かけ上は能動性の固まりですよね。情報に対して能動的であるという信念のもとに形作られたコミュニケーションであるように思えます。

 感覚的には、その新しさをWeb2.0と呼ぶような気がします。そのセンセーショナルな部分をきれに取り去って、表現の構造だけ見ていくと、それは広告的なコミュニケーションとはまったく違う、ウェブ的としか言えないような方法だと思うのですね。それは、言ってみれば、究極の能動性を前提にしたコミュニケーション。頭の中では、もっと明確に概念化されているような気がするのですが、あまりうまく書けなかったかもしれません。でもまあ、不完全でもとりあえず世に問うてみようというウェブ的な態度で、このエントリを公開してみます。ではでは。

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2008年5月 4日 (日)

偽善なのだろうか

 広告は人の生活が幸せになるためにある、と考えるのは偽善なのだろうか。そんなことを最近考える。いい年こいて、いいかげんこんな思考パターンから卒業せえよ自分でも思うのだが、考えてしまうもんはしゃあないかな、とも思う。若い頃は、自分が考える善なるものを通す力もなく、自分が考える善なるもの以外の価値観で事態が動いていくことに、強い違和感を持つことがあった。けれども、今は単純に若気の至りであったのだと理解できる自分がある。
 もちろん、今だって自分が考える善なるものが通らないことはたくさんある。けれども、その善なるもの以外にも、別の善なるものの可能性があることが見えてきてからは、そういう違和感を感じることはなくなってきた。簡単に言えば、修羅場に強く、あらゆる状況に柔軟に対応できる、みたいなことなのだろう。
 この文章は、なんとなく若い広告マンが読むことを想定して書いているけれど、それは、きっと若い頃の自分に向けて書いているということとほぼ同義だと思う。だから、たまたまこの文章を読んだ人は、それぞれ、広告に当てはまる何かに言い換えてもらえれば通じると思う。若い私は、今の私を見て、いいかげんだ、日和見だ、勝手だと思うだろう。しかし、それは半分は違う。今の私は、若い頃の私より、よっぽど善なるものの呪縛が行動を支配している。大人ってどうしようもない、と若い人は思うかもしれないが、大人のほうが、若い人より想像力が遠くまで及ぶ分、善なるものの呪縛による苦悩は深いと思う。と書く私もまだ若いけど。
 もしかすると、それは偽善なのかもしれない。その思いは、自分以外の善なるものが見えてくると、より深くなる。
 けれども、人は、善なるもの以外の行動規範は持てないような気がする。盗人にも一分の理とも言うし。世の中で起こる揉め事の大半は、この正義の問題に起因しているように思う。一見、それが論理の整合性とその破綻を競っているように見えるものであっても。その揉め事を突き動かしているコアは、各人の正義であって、そこには究極自意識に還元されるような気がする。その自意識を社会的に超えようとするものが、政治と呼ばれるものである一方で、その自意識を意識として超えようとするものが宗教と呼ばれるもののようにも理解できそうな気がするが、その政治的達成が妥協であり、その宗教的達成の究極が悟りというものであれば、それはもしかすると常人には超えられないものなのかもしれないとも思う。
 そんな自意識に対峙する唯一のものが、関係であって、それを吉本隆明は関係の絶対性という言葉によって、自意識の上位概念に置いた。それは、吉本の凄まじい自意識の逆説的な現れとも言える気がする。ここで、初めて善なるものの呪縛は悪と結ばれる可能性が開けてくる。相当な関係の契機によってしか、人は悪にはなれない。しかしそのとき、人は、同時に偽善という呪縛からも人は解き放たれる。でも、それは人が恐怖すべきものなのだろうとも思う。
 偽善なのかもしれない、と思うとこ。偽善だろう、と問われること。
 それが生活と呼ばれるものなのかもしれないなと思う。ちょっと泣き言めくけれど、ここ数日、いろいろきつかった。ああ、わかりやすい関係の絶対性やなあ、なんて思った。そんな状態のときに、時間を見つけて、連休明けのプレのために企画作業。そんなもんね、善なるものの呪縛がなけりゃ、やる気にならんて。広告は人の生活を幸せにするためにあると思わないと、やってられんて。偽善なのかもしれない、とは思うけど、まあ、うるさいアホ、偽善で悪いか、という感じでがんばろうかな、と。そんな感じ。

追記:ご心配いただいた方にご報告。おかげさまで、開業医さんや大きな総合病院の先生など、何人もの先生と相談して、私なりに最善の手が打てました。ほっとしてるところです。今回は、ちょっと文体が変わってしまいました。ゴールデンウィークだしね。って理由になってないけど、こんな感じもたまにはいいのかな、なんて。でも、毎回これだと知恵熱出そうだし、ボロも出るでしょうから、次はいつもの感じで。では、みなさまよい連休後半戦を。私も楽しみます。

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2008年4月22日 (火)

このところ企画書ばっかり書いています。

 人によってはAppleのKeynoteかもしれませんが、私の場合はMicrosftのPowerPointを使って書いています。クリエイティブは企画書をあまり書かない人が多いですが(書いても企画趣旨みたいな簡単なものの人が多いですね)、私はかなりきちっとした企画書を書く方です。別の場所に書いたことがあるんですが、クリエーターのための企画書の書き方のコツを書いておきます。

 1)書体の種類はできれば1種類、文字の大きさは大中小の3段階以内
 2)色は1色もしくは2色しか使わない(画像は除く)
 3)デザインテンプレートは使わない
 4)論理の流れをページごとに変えたりしない
 5)迷ったらシンプルを選ぶ

 つまりは、ごてごて盛り込まないみたいなことでしょうか。クリエーターは多少文章が長くてもいいと思うし、文章で語るスタイルでもいいと思います。そのかわり、その文章は語りかけるような感じで書いた方がいいような気がします。お得意の方も、クリエーター(まあ、企画書を専門に書く人ではない、みたいにとってください)に、データたっぷりのいわゆるプロの企画書は求めていませんから。あと、挿絵的な意味の希薄な写真やイラストは使わない方がいいかもです。図形は円とか長方形とかの基本図形を中心に、必要最小限がいいと思います。でも、吹き出しは使いますね。消費者はこう思っていますよ、みたいなことを書くときは便利です。

 ちなみに、ここに書いている企画書は、しゃべる自信がない人を前提にしています。本当は、いい企画書はプレゼン=しゃべりを前提にして、要素だけを見出しで書いていって、事例がビジュアルでたっぷり掲載されているタイプのものだとは思うんですけどね。言ってみれば、ここで言う企画書は、スタンドアローンでも楽しく読める小冊子みたいな感じでしょうか。広告コンテンツを紹介する前置きとしての企画書は、それでいいような気がしますね。私の場合は、そのコンテンツがそういう表現に至った自身の思考の中身をオープンにするような気持ちで企画書を書いています。

 私はもともとCIプランナーなので、パワポのなかった頃から企画書を書いていました。そのときは、ワープロで文字を打ち出して、コピー機で拡大縮小したり、それをハサミで切って台紙にペーパーセメントで貼ったり、画像なんかもコピーしたものを切って貼ってました。色を使いたいときは、パントン(PANTONEをそう呼んでましたね)を切って、ぺたっと貼っていました。透明のシールになっているものを貼ると、文字が透けて見えるんですね。

 あの頃にくらべると、本当に楽になりました。広告カンプもそうですけどね。パントンの色シールを贅沢に使ったりして、よくデザイナーの先輩に怒られました。矢印なんかのシールもあったんですね。それは、結構高価なものだったので、コピーして使ってました。

 私より前の世代だと、企画書は手書きなんですよね。プランナー時代、あこがれの会社はPAOSだったんですが、そのPAOSが手がけたCIの事例がたくさん載っている「DECOMAS」という名の百科事典みたいな分厚い本があったんですが、その中に手書きの企画書が掲載されていて、それはもう芸術のようでしたね。その影響か、私も急ぎの仕事なんかで、A3の紙に太いペンで手書きの企画書を書いてお得意に持っていったりしますが、けっこう評判いいですよ。デジタル時代に、逆に新鮮なのかもしれません。

 CIプランナーから広告制作に転身して、そしてまたこのごろCIの仕事が増えてきました。不思議なものだなあと思います。あの頃と違うのは、受注金額でしょうか。桁がひとつ少ないですね。ちょっと生っぽいですね。こういう生な話はブログに向かないかも。まあそれはともかく、クリエーターの人に限らず、企画書は書けた方がいいですよ。でも、パワポ2008のマック版は、現在のところ、文章ブロッグを全選択して文字入力すると落ちるクセがあるから気をつけてください。バグでしょうね。早くパッチを配布してほしいなあ。

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2008年4月18日 (金)

広告屋さんは、いろんな企業を見られることろがちょっと素敵。

 このブログを読んでいただいている就職活動中のみなさんの中には広告業界志望の方もいらっしゃるかもしれませんね。広告業界は、最近はあまり人気がないようです。マス広告が以前ほど華やかではないし、それに、メディアも多様化し、分散化しているので、多くの学生さんの日常生活の中にも、広告が気持ちの中に占める割合が低くなっているのかもしれません。

 広告会社を志望する動機としては、私もあんな広告をつくってみたい、とか、私のアイデアで流行をつくって世の中を動かしてみたいとか、そんなとこでしょうかね。まあ、その気持ちもわかりますが、外から見るのとやってみるのとはずいぶん違うもので、日常の仕事は、すごく地味な作業の繰り返しだったりもします。どの業界もそうだと思うけど、そんなに華やかな世界でもないしね。

 最近はIT系を志望する人が多いようですね。それは分かる気がします。だって、まだまだ進化を続ける業種だと思いますしね。そんな世の中で、あえて広告業界もいいかななんて思っているあなたに、少しいい話でも。

 広告業界の楽しいところは、いろんな企業の姿を、第三者としては割と当事者的な目線で見られるところでしょうか。保守的な会社もあれば、先進的な会社もありますし、最先端の業種もあれば、もうそろそろ衰退するかな、という業種もあります。こうして広告業界に身を置いてみると、世の中って、いろんな仕事で成り立っているというのが身にしみてわかります。

 何の専門家でもないという感じとか、根が生えてない感じとかはあるけど、いろんな会社のいろんな人に会えるのは、広告業界の魅力のひとつではありますね。私なんかも、これまでにかかわった会社は100を超えるんじゃないかな。それぞれに悩みがあって、それぞれに喜びがあって、ほんといろんな社会への関わり方があるんだなあといまだに驚くことがあります。

 そういう感じで考えると、広告業界に向いている人は、いわゆる個性が強い人ではなく、あれこれ人の気持ちを読みすぎるほど読んで、そんな自分がときどき嫌になるくらいの人の方なんじゃないかなと最近思います。今日も、私はパワーポイントに向かって、この時間まで、うじうじと長編の企画書を書いていました。そんなしんどい作業をするときにね、自分のためとかそんな動機ってあまり効かないもんなんですよ。そんなときけっこう効くのは、この企画書、あの会社のあの担当者がよろぶかな、よろこべばいいな、もうちょっとがんばろ、みたいなこと。いざというとき、自分のため、みたいなことは屁の突っ張りにもならないもんです。

 サービス精神っていうんですかね。正しい意味での公務員に求められる公僕精神。そんなたいそうなものでもないけど、まあそんな感じ。いちばん遠いと思うような感じが、じつは広告業界ではすごく大事だったりするような気がします。私にあるか?あるのかなあ、それともないのかなあ。よく分かりませんが、そんな地味だけどサービス精神がたっぷりある人が、案外うまく働いているのは、今までよく見てきたなあと思います。

 私なんか、広告業界は向いてないんじゃないか、なんて思っているそこのあなた。もしかすると、そんなあなたは、広告業界で伸びる人なのかもしれませんよ。

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2008年4月15日 (火)

「広告批評」休刊が象徴するもの

 前回のエントリ「広告の終わりのはじまり」を書きながら気になっていたのは、この「広告批評休刊」というニュースを、さとなおさんはどう思ったのだろうということでした。ネットを眺めてみると、広告批評休刊について語るブログは多いものの、あのニュースを聞いて、私が心の中でざらっとしたものを感じたのとは、正直言えばコンテクストが違うというか。こんなこと思うの、私だけ?というもやもやした気持ちでいました。

 まあそれは、広告業界では私は大きなニュースであると思っていた広告批評休刊という出来事が、それほど大きなものではないという証拠であるようにも思えるし、職場でもそのことを大きなこととして話すこともなかったし。時代認識としては、悲しいけれど、広告業界にさえ、もはや広告批評にそれほどの意義がなくなっているという意味では、正しいとも言えるし、そう考えればなおさら心の中のざらっとしたものが増幅されるような、そんな感じでした。

 そんなこんなのもやっとした気持ちでいると、さとなおさんの個人サイトであるwww.さとなお.comから「広告批評、休刊」というエントリが。なるほど、なるほど。随分率直かつ辛口。それに比べると、私の「広告の終わりのはじまり」はぐっと甘口。長いあいだ読んできた雑誌だし(とは言っても楽しみは橋本治さんの連載だったりする)、80年代のマス広告黄金期は学生で、社会に出てからはバブル崩壊という、割の合わないキャリアを重ねてきた私としては、なんとなく複雑な気持ちもあり、そんなひとつの時代の終わりへのセンチメンタリズムが、甘さになっているのかなとも感じたり。

 とはいいつつ、「明日の広告」の先頭を走るさとなおさんにも、「いいことなのだろうな。」という、すこしとまどい気味の言葉に、そんなセンチメンタリズムみたいなことは感じるけれど。

中の人たちはまだまだ少し前の「マス広告栄光の時代」の殻を引きずっている人が多いし、変わらないといけないとわかっている人たちも、日常の作業に追われてなかなか変われないままに日々を過ごしている。この「広告批評」の休刊は、まさに「顕在化された明日」である。志望者減少も「顕在化された明日」である。スルーせず重く受け止めるべきだと思うし、もう猶予はない。

広告批評、休刊 – www.さとなお.com

 中堅広告会社の中の人である私としては、この「顕在化された明日」をどうカタチにしていくかだと思います。こうして、気になるなと思う人の言葉をリアルタイムで読めるよろこびを噛み締めつつ、私は私で、さとなおさんが描くものとは違う「明日」をつくっていかなければ。そうでなければ、こうして今言葉を書いている意味がないと思うし。

 そんな言葉と同時に、今日は、広告の黄金期にメインストリームで活躍し、いちはやくネットというフィールドでのクリエイティブに活躍の場を移した糸井重里さんの言葉を読む機会を得ました。西武流通グループの企業広告の仕事をされていた時の失敗談。いいコラムなので、まだ読んでいない方はぜひぜひ。

ぼくは、あの時代の西武の広告をやっていたせいで、
「広告」が「経営」の重要な一部分であることを知ったし、
最も責任のある人が「広告」を考えることが、
どれだけ力強い効果をもたらすかも学んだ。

ある没になったコピーの思い出 – ほぼ日刊イトイ新聞

 ウェブ2.0やCGMなどに象徴される新しい時代の中で、広告はどう変わればいいのか。私はこのブログでも、ああだこうだと書いて来たけれど、この「広告が経営の重要な一部分である」ということは、これからも変わらないような気がしています。企業広告に限らず、商品広告でもそれは同じ。意思や想いを伝える手段としての広告は、きっと変わらない。けれども、ひとつ言えることは、その「経営」の想いを伝える「表現」の仕方が変わったということ。

 私は中堅広告会社に所属していますから、広告予算も中規模なものが多いです。そのために、どちらかと言えば、ひとつの広告原稿が届くか届かないかを考え続けてきているところがあり、例えば、掲載機会が新聞広告1発しかない場合、その新聞広告が届かなければ、1,000万円を超えるお金が無駄になる、ということを意識しながらやってきたところがありました。つまり、効かなくなってしまったマス広告を効くようにするにはどうしたらいいんだ、みたいなことが現実的な課題として突きつけられてきたんですね。

 そうした視点で見たとき、私の問題意識から言えば、きっと「文体」の問題があるのではないかな、というふうに思っています。つまり、時代が変わり、今までの広告の「文体」(それは言葉に限らず)が通用しないんじゃないか、という危機感です。広告批評休刊が象徴するものは、そうした広告文体がもはや終わりに近づいた証拠でもあるのではないか、という気がするんですね。効かなくなってしまった広告。それは、簡単に言えば、ああ、これ、コピーライターさんが書いたのね、デザイナーさんがデザインしたのね、というような広告。

 広告批評などに代表される広告雑誌をかつてほど熱心に読まなくなったひとつに、こういう私の気分があることも事実です。もちろん、以前ほど業界に対する名誉みたいなことにガツガツしなくなっているというのもあるけど。最近は、私がつくった広告が運良く掲載された号でさえ、スルーすることが多くなりました。かつてはそんなとこはありえなかったのに。出たらすぐに本屋さんに買いにいっていたのに。そんな自分が不思議でもありました。掲載されている広告も、昨今では、ピンとこないことも正直多く、前回のエントリでいただいたコメントであったような業界の閉鎖性を感じたりもしました。(中の人である私にもその閉鎖性はあるんでしょうね。)

 きっと、それは、広告が文化になり、その文化としての広告が鑑賞され、批評されていくうちに、文化としての広告が文化そのものになったことに原因があるような気がします。それは、文化であっても広告ではないので、もはや広告としての力を持ちようがないのは、論理的には正しいような気がするし。であるならば、もはややることはひとつ。広告を広告に戻してやること。広告が文化であるのは、広告が広告だからだと思うし、今、そんなふうに感じています。

 とまあ、ちょっと真面目に論じてはみたけれど、要するに、ブログやら何やらで、経営者、職業人、学生、消費者、生活者、おっちゃん、おばちゃん、にいちゃん、ねえちゃんの生の言葉が行き交う時代。そんな時代に、あいかわらず、古き良きマスメディア/大衆という構図の中での文化としての広告は、まあそういう感じも生き続けるとは思うし、そのマスな感じも甘美な感じはあるけれど、それを前提とした表現だけでは、ちょっとしんどいという感じ。それが現場としての実感です。リアルに思えないんですね。もちろん、それをメディアを軸に考えると、さとなおさんのおっしゃるメディア・ニュートラルなコミュニケーション・デザインということになるんだろうけど。

 自分まわりの生活を見ても、ひとつの問題意識で書いた前回のエントリがあり、それを書いてもやもやしているときに、まったく違う生活の流れの中でさとなおさんが書き、糸井さんが書き、それを読みながら、こんなことをうだうだ深夜に書いているという、ちっぽけだけど、考えてみると、かなりすごい生活の変化(情報摂取という意味でね)があるわけで、そうした現実の中で、そろそろ広告も広告屋も「変わらなきゃ」っていうのはあるなあ、なんとか新しい時代をつくっていかなきゃなあ、と思う今日この頃です。

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2008年4月13日 (日)

広告の終わりのはじまり

 マドラ出版の「広告批評」が来年の4月で休刊とのこと。30周年を期にしての決断だそうです。広告批評の公式ウェブサイト(参照)にお知らせがひっそりと掲載されています。テキストではなく、くせのある明朝体フォントで丁寧に組まれた文章をGIF画像にしたものであることが、なんとなく今の時代に対してのひとつのスタンスであり、ささやかな抵抗であるような気もします。ちょっと深読みに過ぎるかもしれませんが。

 創刊した一九七九年と言えば、テレビCMを中心に、広告が大きな転換期を迎えた年です。マスメディアの中で巨大化していく広告を、暮らしの視点から、あるいは大衆文化の視点からどうとらえ、どうみんなの話題にしていくか。現代の「広告評判記」をどうつくっていくか。そんな思いで走りつづけた三〇年だったと感じています。
 そしていま、広告はマスメディア一辺倒の時代からウェブとの連携時代へ、ふたたび大きな転換期を迎えています。マスメディア広告と一緒に歩きつづけてきた小誌としては、このへんでひとつの区切りをつけたいと考えました。

 そのGIF画像に書かれていた文章の引用です。つまらない話かもしれませんが、私はこの引用をコピー・アンド・ペーストではなく、キーボードを打って入力しました。大した作業ではないけれど、こうした小さな作業ひとつとっても、情報というものの受容のされ方は違ってくるものだと思います。実感としては、このひと手間が入るだけで、より丁寧によく噛み締めて文章を読むようになりますね。

 広告批評が標榜していた批評とは、まさにそういうことであったのだと思います。マスメディアによって一方的に送信される広告という情報を、暮らしの視点、大衆文化の視点で、もう一度読み直す、つまり批評するということを、広告批評はやってきたのでしょう。その批評によってもう一度見いだされた広告は、マーケティングの一手法としての広告を超えて、生き生きとしたカウンターカルチャーとして花開きました。そして、そのことは、広告制作者に少なくない自負心を与えてくれました。我々は文化の担い手なのだという自負心です。

 私は、広告批評のこの潔い引き際を見事だと思っています。発行人である天野祐吉さんが「部数の減少や赤字による休刊ではありません。」と毎日新聞に語っておられるように、熟考された上での決断であると思います。マスというモノサシでは、今、広告を批評するという行為が成り立たなくなってしまったのでしょう。それは、さみしいことではあるけれど。

 けれども、まさしく、この決断が、広告批評は、自身に対しても批評的であったことの証になっていると思います。まだ1年あるし、月並みな言葉になってしまいますが、本当に、30年間お疲れさまでした。そのときどきで共感したりしなかったりはありましたが、編集方針が明快な広告批評が、数ある広告雑誌の中ではいちばん好きでした。

 さて、これからの30年を私たち広告人はどうしていくかです。広告批評が語るように、今は第二の転換期です。こうした時代に生きる、一人の広告制作者として、この先をどう設計していくのかは、自分の人生設計を含めて、すごく悩みます。なんとなくの実感では、もっと周辺分野を幅広く学ばないといけないな、という感じがあります。なんとなく自分の中の暗黙知的なことを、形式知にして既知化したい欲求というか、そんな感じです。浮き世稼業の広告制作者がそんなことを考えるのも、時代ですよね。

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2008年4月 7日 (月)

10年前の自分がこのブログを読んだら、どう思うだろうか。

 10年前と言えば、1997年。松田聖子さん、神田正輝さんが離婚し、消費税が5%になり、山一證券が破綻し、京都議定書が採択された年です。私は、30歳で、とある広告制作会社で百貨店の新聞広告コピーを書いていました。ブログが日本で定着するのは2002年頃とのことだから、世の中にはまだブログはありません。

 Googleができて、糸井重里さんの「ほぼ日刊イトイ新聞」が創刊されたのもこの年(参照)で、そこから思い起こすと、その頃、私はあまりウェブには親しんでいなかったのではないでしょうか。職場で見るくらいですね。個人のメールアドレスもまだ持っていなかったし、会社から支給されるメールアドレスも、それからすぐに移籍した会社からだったような気がします。ケータイも持っていませんでした。

 記憶をたどっていくと、その頃の私は、今よりも、もっとギラギラしていたような気がします。英国の広告代理店であるSaatch & Saatchの広告理論を知るようになったのもその頃。西欧の広告理論にかぶれていた時期でした。いろんな本や雑誌を読んだりして。それと、ちょっと告白めくけど、あの頃は、すごく広告賞がほしかったです。まだ若かったし(って今も若いつもりだけど)、広告制作においては今に比べるとイニシアティブはとれていなかったので、どうしても自身の存在証明は広告賞になりがちなんですね。

 あの頃は、まだひとつも広告賞をとっていなくて、それが強烈なコンプレックスになっていました。幸い、私の場合は、ある時期から、ひとつの広告を成り立たせる構造のほうにも興味が出てきましたので、そのコンプレックスが表現を汚していくことはなかったような気がしますが、そのコンプレックスにつぶされて表現が汚れていく人は、この業界には多いです。特にコピーライターは。

 それに、広告賞のことばかり考えると、自身の置かれている状況に対して恨み節を奏でるようになっていきます。広告の賞は、どうしてもそうです。多くの人に見られてなんぼの広告ですから。大きな広告の方が有利になってしまいます。ちょっと生っぽいモードになっていますが、なんとなく10年前の自分に向けて書いている気分なので。あえて10年前の自分に向けて言えば、広告賞は結果です。それに、君が心の底からほしがっている広告賞をとったからって、君が考えているほど幸せにはなれません。上には上があるしね。それに、広告賞は大事だけど、それがすべてではない。

 10年前の自分がこのブログを見たら、なんと言うのでしょうか。共感するのでしょうか。それとも、反感を持つのでしょうか。有名じゃない普通の広告人から見たいろいろ、というスタンスに、若い私は、今の私の中のルサンチマンの匂いを嗅ぎ取ってしまうのかもしれません。中途半端なポジショントークなんかいらないよ、なんて言いながら、有名広告人のポジショントークを反芻しているのかも。それとも逆に、いいよな、広告代理店で、CDで、広告賞もとってて、なんてルサンチマンなことを思うのかも。それとも、案外、コメントやトラバを送って、小難しい論議をしているのかも。

 まあね、この10年前の自分が、今の自分が書くブログを読むという設問自体、人生というものの偶然の蓄積を無視したありえない論議なのかもしれないけれど。「ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)」というタイトルをこのブログにつけた理由のひとつに、10年前の自分に向けた言葉を、10年前の自分が思うほど成功もしなければ、大きな失敗もせずに、なんとか広告の仕事を楽しくやっている10年先輩の私が書きたいということがありました。ほんとは、ジャズが好きだし、「酒とバラと広告の日々」みたいなタイトルをつけてもよかったんですが。「The days of Wine,  Roses and Advertising」とか英語でかっこ良くタイポを打って。

 こんなWeb2.0の時代だし、なんの工夫もなしに商用に転用できてしまうこと以外は、なるだけ、こんな自分でもそれなりに蓄積した知識やノウハウがあるわけだし、そんなあれこれをすべて投げ出して、みんなと共有したいと思うし、私自身も、そんなブログからいろいろ得てきたわけだから、ギブアンドテイクな感じで、つらつら書いています。

 これだけはやっぱり言えるけど、ブログができて、いい時代になったと思います。テキストを通してだけど、距離も時間も関係なしに、つながることができるんですからね。10年前の私のような、悶々と毎日を過ごしている、見知らぬ広告人のみなさん。こんな自分が書いたたわごとだけど、パクれるところがあったら、どんどんパクって自分のものにしてくださいな。それと、読んでいただいているすべての人に。今後とも、よろしくお願いします。

 

PS:ちょっと仕事が忙しくなりそうなので、1週間ほど更新できない感じになります。

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2008年4月 5日 (土)

女子と男子。処女性と童貞性。そんな話。

 フジテレビの「バニラ気分」という番組で、ボクシングの内藤さんが生まれ変わったら女子になりたいと言っていました。テレビ的な落ちとしては、オカマさんになりたい、爆笑という感じでしたけど、なんとなくその気分はわかる気がします。内藤さん、チャンピオンになって、テレビに出だして、ふつうボクシングのチャンピオンがテレビに出だすと、ある典型的なやぶれかぶれな感じになっていき、やっぱりボクサーだしなあという感じに落ち着いていきますけど、あの人があんなネアカな感じでも、内藤さんらしい自然な感じでキープしていられる秘密に、そんな内藤さんの感性があるんだろうな、と思いました。

 まあ土曜日なので、このまま脱線気味に言葉を綴っていこうかなと思いますが、広告、とりわけコピーに関して言えば、男子はもうだめだな、女子の時代だなあ、と思う時期がありました。時代の空気はすぐに変わるから、今はそうでもない気がしますけど。その感覚で言えば、世間ではジョージアで「明日があるさ」という広告がやっていた頃。私は「社長、もういっぱいいっぱいです。」とか「がんばれ、日本のバックアップ。」とか書いてました。その頃、女子を対象にした感じはどうなのかと言えば、「元気出していきましょ。エーザイ」とか、「私、誰の人生もうらやましくないわ。」だったり、私のものだと「私の自由。」だったり(誰も覚えてないか)そんな感じ。

 男子は、いままで絶頂期で、不況とかなんやかんやで、これからは落ちる一方という感じで、歴史的な段階はあるにせよ、女子は過渡期だし、これからもまだまだいけるという感じ。そういう意味では、男子はひたすら「ふんばる」「耐える」で、女子は「まだまだこれから」という空気。男子領域の表現の金脈は、ちょっと暗めなところにあって、女子領域の表現の金脈は、すごく明るいところに広がっていて、豊穣な感じがしていました。私だけかもしれませんが、女子の広告制作者がうらやましいと思っていました。

 もちろんこれは、生物学的な性差っていうのとあまり関係がない話でもあって、女子の広告制作者でも、女性的な感性をあまり持っていない人もいますし、その逆もあります。広告会社というのは、比較的女子が働きやすい場所だと思いますし、消費ということで言えば、女子的な感覚がメインストリームのような気がします。そういう意味では、男子と言えども女子的な感覚はもってないとつらいかもしれないですね。これからの時代は、男子的だけで乗り切ってはいけないような気がします。

 でもまあ、そうなってきたのは、ある意味では時間の経過によってなされてきたことではあります。大手広告代理店なんかでも、かつては女子は働きにくかったそうです。女性のCDは数人しかいませんでしたし、かつては女性だけで構成された広告代理店も生まれて、女性分野の商品の広告で活躍したこともありました。代表的な広告は、オカモトの「男も妊娠すればいいのに。」とか。まあ、その表現の是非はともかく、女子性のリアルはあったような気がします。その代理店は発展的に解消しましたが、それがひとつの時代の転機だったような気がします。社会的使命を終えた、というやつですね。

 あれから、すこし時間が経って、女子、男子をめぐる表現の金脈まわりの話は、どんな空気かといえば、私の感覚で言えば、あまり女子、男子が関係なくなってきたなあという感じです。それは、ウェブの大衆化となにやら関係があるような気もしていますが、どうなんでしょう。今の時代の空気は、女子、男子というよりも、あいまいになってきた生活という領域をどうするのか、みたいなことかも。いっしょくたになっていくのか、生活がすべてを飲み込むのか、その逆か。なにやら抽象的な話ですが、まあ土曜日なので、メモ的に。

 それと、女子的なるものもバリエーションが出て来たような気もします。女子的ということで言えば、aikoさんの持っている女子的、YUKIさんが持っている女子的、宇多田ヒカルさんが持っている女子的、矢井田瞳さんが持っている女子的は微妙だけど、明確に違いますよね。かつては、松田聖子さん、中森明菜さん、小泉今日子さん、プリプリ、みたいな感じで、男子的な目線からわかりやすい女子的感性でした。

 一方の男子性ということで言えば、幸か不幸か、これは人間というものと同義みたいな感じで語られてきた感じがします。ちょっと言うのはあれですが、女子の場合は、少女と女を分つものとしての「処女性」みたいなことが語られてきましたが、男子の場合は、少年と男を分つものとしての「童貞性」みたいなことは、ある種のタブーになってきたことにもよるんじゃないかな、と思います。

 男子の場合は、少年と言い、少男と書かないですよね。私は、「童貞性」という軸で見ていけば、男子的のバリエーションも豊穣に見えてくるのではないかと思っています。この「処女」「童貞」というのは、実際の経験があるかというのは、そんなに関係ないかもしれませんが。心性を表すものとしての「処女性」「童貞性」。

 なんか妙な話に展開してしまいましたが、こんなうだ話もたまにはいいかなあと。土曜の昼にテレビを見ながら、頭の中にいろいろ浮かぶ感じを言葉にすると、こんな感じです。でもまあ、その半分も表現していないでしょうが。ぜんぶ表現したら、この世の中で生きていけないんじゃないかというようなことも考えるのが人間なんだし。その逆にぜんぶ表現しても、凡庸さが際立つだけだという考えもありますが。そんなわけで、投げっぱなしジャーマンで。ではでは。

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2008年3月23日 (日)

クライアントか、スポンサーか、お得意先か。

 最近は、パートナーという言い方もあるようですね。広告会社から見た広告主をパートナーと呼ぶということの意図するところは、広告主と広告会社は対等であるべきみたいなことなんでしょうけど、広告主と広告会社は非対称な関係であるのは変えられない事実で、それは個人的には、考え方や理想としてはわかるけどピンとこないです。それよりも、非対称な関係だからこそ、広告主は専門家である広告会社に依頼する意味があると思うんですね。

 我々が専門家たり得ているのか、という論議は大いにありますが、まあ今はそれはそれとしてとりあえず置いておいて、まずは、もっとも一般的だと思うクライアントという言葉から。ウィキペディアにはこうあります。

クライアント(client)とは、広告の用語で、広告代理店が依頼を受けて担当した広告主のことをいい、特に得意先、顧客を指す言葉として用いられる。同義語にアカウント(account)がある。

一般に用いられる広告主(広告料を支払って広告活動を依頼する法人または個人)はアドバタイザー(advertiser)、民間放送の広告主、番組提供者はスポンサー(sponsor)、得意先となりうる見込み客をプロスペクト(prospect)として区別している。

したがって、雑誌や新聞などの紙媒体における広告主をスポンサーと呼ぶのは適切ではない。

クライアント(広告) - フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 clientという言葉は、ラテン語が由来だそうで、忠告を聞く人という意味がある言葉だそうです。心理療法なんかでも、相談者のことをクライエントと言いますし、この言葉は、専門家である広告会社が相談者である企業に、マーケティングやストラテジーを提供するという関係性を表現しています。我々が広告主のことをクライアントと呼び出したのは、それほど昔ではないような気がします。

 昭和44年(1969年)に発行された『みごとなコピーライター』という西尾忠久さん(参照:著作をブログ化されています。これは素晴らしいことだと思います。)のアメリカ広告業界で活躍するコピーライターのインタビュー集では、広告主のことをアカウントと呼ぶ記述が多くみられます。ナンバー2キャンペーンで有名なレンタカー会社がエイビスに対抗して、ナンバーワンであるハーツの広告を担当したことで有名なジム・ダーフィーさんだけは、明確にクライアントと呼んでいます。

 DDBがワーゲンの広告キャンペーンで一躍有名広告代理店の仲間入りをした頃は、まだ牧歌的な時代(ある意味では戦国時代)でした。その時代が終わり、一応の決着が出た後は、欧米の広告代理店はどんどん肥大化していきます。マーケティング理論や調査手法も緻密化し、そうしたムーブメントの中から、クライアントという言葉が生まれたのでしょう。これは推測ですが、多種乱立時代から、メガエージェンシーの時代に移行するときに一般化した言葉のように思います。

 この言葉、広告会社の間では一般的ですが、広告主は自分たちのことをクライアントとは呼びません。そりゃそうですよね。広告会社の身内では「こないだ、とあるクライアントがさあ」と呼び、広告代理店では「あの代理店、いいかげんなんだよね」と呼ぶ。そんなリアリティを持っている言葉です。身内向けの言葉ですね。

 次に、スポンサーという言葉。これは、私より随分先輩の広告人がよく使う言葉ですね。先のウィキペディアの記述にもありますが、これは、番組提供が由来。日本の広告会社はテレビ局、ラジオ局とのつながりが深く、民放の番組のためのスポンサーを探すことが広告会社の仕事であるという意識が強かったので、その番組スポンサーが一般化して、広告主の総称として使われたのでしょう。

 年配のクリエーターさんは、広告主のことをスポンサーとよく言います。そのニュアンスは、表現者として広告作品を作らせてもらえる、みたいな感じがあります。とある年配のクリエーターさんは、社内の担当営業のこともスポンサーと呼んでいました。つまり自分にとってのスポンサーですね。それはある意味でわかりやすいなあ、と思いました。クリエーターという人種は、良くも悪くもそんな感じです。このスポンサーという言葉は、今ではあまり使う人がいなくなりました。使うのは、もっぱらテレビ、ラジオの業界でしょう。

 最後に、お得意先。これは、もうビジネスが続く限り生き続ける言葉でしょう。お得意、と短く言うことも多いです。でも、これは広告用語ではなく、一般のビジネス用語というか、商売の言葉ですね。私は、この言葉を使うことが多いです。

 クライアントも、スポンサーも、パートナーも、それを発するときに、自分の考え方を問われるような気分になり、ちょっとしんどいんですね。考え過ぎかもしれませんが。私自身は、理想としてはパートナーな感じを目指したいなと思いますが、それを目指す最中に、それが実現してないにもかかわらずパートナーと呼ぶのは、なんか気恥ずかしい感じがします。まあ、分かりやすく言えば、照れるんですね。

 余談ですが、一頃、広告代理店を、広告会社もしくはエージェンシーと言い換えよう、みたいな空気がありました。クライアントといい、広告会社やエージェンシーといい、広告会社側の自意識が見え隠れして、ある意味、なんかかわいらしいというかいじらしいというか。そんな私も広告会社と書いてしまっていますね。

 英語のagencyには代理店という意味がありますが、この広告代理店という言葉が日本で定着した理由には、日本の広告会社の多くが、媒体社の広告販売代理店にルーツを持つということが挙げられるでしょう。日本の広告会社の実務の現状にはぴったりくるというか。

 ホイチョイプロダクションのマンガ「気まぐれコンセプト」を見ててもそんな感じがします。ちなみに、あのマンガに出てくる白クマ広告社制作局のマツイさんは、元サーファーですが、確かにこの業界にはサーファーが多いですね。なぜだろう。ちなみに、私は元サーファーではありません。でも、ジャズ研出身ではあるので、まあ、ある種の典型ではあるんでしょうね。

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2008年3月22日 (土)

いい空気をつくる人。

 ブログのエントリと広告は似ているところがあって、本人がこれは自信があると思って書いたものがあまり評判にならなかったと思えば、何気なく書いたものが思わぬ評価を得ることがあって、そんなコントロールのできなさ加減がなんだかせつないものがありますね。広告の場合は、やはり本職なので、わりあい意識して狙いにいきますが、ブログのほうは、毎日機嫌良く書ければいいやと思っているところに違いがありますが。

 長いこと広告稼業をやっていると、それなりに評判になった広告をつくる機会もあるわけで、まあそんなに有名なクリエーターでもないので、多くの人は知らないけれど、業界の人に見せると、ああ、あの広告をつくった人なんですか、なんてこともあります。でも、そんな世間の評価みたいなものを度外視して自薦でお気に入りの広告を選んだら、私の場合、見事に何の評価も受けずに消えてしまった広告ばかりです。まあ、消えてしまったといえども、沈黙の評価というのを私は信じていますけどね。

 そんな自作の中で、いまも自分で、いいなあ、なんて思うのが、タイトルになっている某空調メーカーのコピーがついた広告です。ブログをはじめた頃は、あまりブログの空気がわからなかったので、自作の紹介などをしていましたが、ブログというものはあまりそういうのに適さないメディアであるような気がしますので、最近は自作の紹介はしなくなってしまいました。それに、こういう個人メディアに載せていいのかわからないところもあって、それよりも今自分が考えていることのほうが重要な気もしますので。まあ、今のところ、そんな感じです。

 なので、広告の会社名も明かしませんし、ビジュアルも載せないのは何ですが、「いい空気をつくる人。」という広告の言葉は、自分がつくった言葉の中ではわりと好きなんですね。小さい広告でしたが、実際に出稿された広告なので、もしかすると覚えている人はいらっしゃるかもしれません。

 マーケティング的には、その空調メーカーが総合家電メーカーに対抗するためには、専門性を打ち出すことが必要、みたいなことではありますが、それよりも、「いい空気をつくる人」というのは確かにいるなあ、というのが実感としてあり、私はあまりそういう人ではないので、そういう人への憧れやら、尊敬やら、嫉妬やら、そんな複合的な感情が入り交じって、個人的には今も妙に記憶に残る言葉ではあるんですね。

 いい空気をつくる人というのは、今の時代、すごく求められているような気がします。空気を読むというのが流行りましたが、空気を読むより、空気をつくるというほうがポジティブな感じがして好きです。でも、空気読め、は流行しましたが、空気つくれ、は流行りませんでしたが。今は、いい空気をつくる人が、さみしそうにうつむいてしまう時代のような気がします。それこそ、空気を読めよ、なんて言われてね。なんか世の中がギスギスしているなあ。

 今日、駅のエスカレータでもたついているご老人がいらして、それを見た若者が、遅えなじじい、みたいなことを、それこそみんなに聞こえる声の大きさで言っていたんですね。友達と2人でした。ということは、彼は、きっとその友達もまわりの人もいらいらしているという空気を感じて、その空気を読み、同意を求めるかのようにそう言ったということなんですね。よくぞ言った、みたいなことを思われたかったのでしょうね。さみしい。

 最近の若いもんは、といったステレオタイプな話になりそうですが、じつは世の中の空気はそうでもなく、いちばん荒れているのはおじさんおばさんのような気がします。街で、チッっていう舌打ちをよく聞くようになったのは気のせいではないと思います。そんなにイライラしても、何も変わらないのになあ、とこっちまでイライラしてくるのは、やはり空気はつくられる証拠でもありますね。

 できれば、いい空気をつくりたい。ほんと、そう思います。なんかいい人っぽいこと書いちゃってますが、いい人っぽいことを書く人は、本当はやな人と相場が決まっていて、そんな感じの私だからこそ、なおさらいい空気をつくる人になりたいな、なんて思うんですね。でも、私には無理かもしれないな、とも思います。ないものねだりですね。いい空気をつくるっていうのは、一種の才能のようなものでもあるから。

 そろそろ桜が咲きますし、「時代なんてパッと変わる。」という秋山晶さんの名コピーがあるように、突然おおらかな世の中に変わるかもしれないので、悲観はしないでおこうと思います。これを書いたきっかけは、駅のあの若者を見てやな気持ちになっただけなんだし、時代なんて本当にすぐ変わるから。でも、同じ秋山さんが「時は流れない。それは積み重なる。」なんて書いているわけだし、その秋山さんの代表作は「ただ一度のものが僕は好きだ。」だったりするので、あてにはなりませんが。まあ、広告なんてものは、書くというより、時代に書かされている、みたいなところがありますからね。

 それにしても、今の時代、むずかしいなあ。

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2008年3月15日 (土)

バーチャルスタジオって、知ってました?

 やりかた次第では広告表現の幅が広かるかもしれないな、と思いましたので、ご紹介します。まあ、今やお金をかければたいていの表現は可能ではありますので、予算の中でどう思え描くクリエイティブを実現していくかっていう観点からのご紹介ですので、あしからずですが。

 紹介したいのはバーチャルスタジオというもので、テレビの番組制作なんかではおなじみの技術です。NHKのサイエンスZEROとかでもそうですね。私、これをはじめて利用しまして、なるほどなあ、よく考えられているな、と思いました。

Cg_2  仕組みは、こんな感じです。

 基本的にはブルーバック(写真はわけあってグリーンバック)のスタジオ撮影なわけです。CGの場合、よく使いますよね。ブルーの部分が抜けるので、人物や物のマスクを切って合成したいときに使います。撮影は、すべてこのスタジオを使います。写真では人物とテーブルが本物で、それ以外のセットはありません。

 カメラは定点が1つと、クレーンが1つ。そこそこの大きさがあるスタジオでしたので、クレーンはかなり上からのアングルが撮影できます。まあ、ここまでは普通のオールCGのスタジオものとかわりはありません。普通のやり方は、こうした人物や物をブルーバックで撮影して、映像編集スタジオでCGと合成するやり方ですね。

 でも、この普通のやり方の場合、けっこうカメラアングルが制限されてくるんですね。なぜかというと、カメラがぐぐーっと動くと、CGもぐぐーっと同じように動かないといけなくなるんですね。人物のカメラアングルとCGのカメラアングルが少しでもずれると、違和感が映像に出てしまいます。照明との複雑なからみもありますし。そのためには時間とお金をかけるか、もしくは、アングルを少なくするかしかありません。

 私の場合、低予算の場合は、あえて演出コンセプトをシンプルイズベストにしていきます。引き算ですね。人によりますが、私は、予算がないのに豪華を目指して、それが予算の関係でかなわなくなる、みたいな映像は好きではないんですね。なんとなくその挫折感が貧乏くさくて。だから、あえて引き算で考えます。そうすることで、シンプルな映像に意図が感じられるというわけです。

Cg  で、このバーチャルスタジオ、何が違うかというと、カメラからはこんなふうに見えるんですね。これがミソです。あらかじめCGで作り込まれたスタジオとリアルタイムで同期しているんですね。カメラが動くと、リアルタイムでCGも動きます。スタジオを俯瞰する映像でも、完全にアングルが人物や物と同期しています。

 もうひとつこのバーチャルスタジオの面白いところがあって、たとえばプレゼンテーションっぽい映像の場合、写真のようにセンターにバーチャルなスクリーンが宙に浮いた形で出現しますよね。このスクリーンの中身も、カメラアングルと同期するんですね。効率的にこのバーチャルスタジオを使用するためには、スクリーンの中のCGなんかを先に制作しておくといいと思います。販促物での使用の場合、なかなかコンテンツを先に制作するのは難しいのが現状ではありますが。

 スタジオはあらかじめ作り込まれたパターンから選ぶことができます。もちろん、完全にオリジナルでつくることもできます。今回はパターンから選んで、それをアレンジしています。説明ビデオなんかの場合は、対象物を拡大して回転させたり、それを司会者が指差して説明したりする演出があったほうが、わかりやすいものが作れる場合があります。いまの時代のCGの使い方としては、豪華を目指すより、わかりやすさのために使う、という場合が多くなっているのではないでしょうか。パワーポイントなどのプレゼンよりビデオが勝るとすると、まさにそのわかりやすさですしね。

 このバーチャルスタジオ、いわゆる実写もののアニメーション、たとえばクレーンアニメや人形アニメなんかに応用できるかもな、と思っています。これまで、予算や時間を考えると、どうしても実写アニメの世界は小さくなりがちでした。つまり、作り込む世界の面積以上の世界は作れないんですね。

 しかし、ある程度詳細に映る世界を実際につくりこんで、その背景をCGにすれば、例えば、ジャングルとかそういう世界であっても、カメラが俯瞰でそのジャングル全体を見渡すようなスケールの大きな映像も可能になるかもしれません。ずいぶん昔に、そんな実写アニメのCMをつくったことがありましたが、その時は、カメラアングルを限定しました。このバーチャルスタジオを応用すると、もしかすると、実写アニメが持つ温もり感を保持したまま、広大な世界を描けるかもなあ、と思っています。

 それと追記ですが、人物の影などは、編集でかなり緻密に追い込んでいかなければなりません。というか、この手のオールCGものは、そのあとの編集の丁寧な作業がクオリティを決定してしまいます。今のCGは、別に現実と見まがうような世界をつくるためにといよりも、CGはCGとして、よりスムーズにコミュニケーションできるかどうかのために使うのが一般的であるような気がします。見る人はそのへんの仕組みはよく知っていますから。だからこそ、CGだなあっていう違和感だけは避けたいですよね。

 今回、使用したのはイマジカさんのシステム(参照)です。ページを見ると、06年からサービスを提供されているようですね。一度、お試しになってはいかがでしょうか。

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2008年3月 9日 (日)

笑かしたいけど、笑われたくない。

 吉本新喜劇の座長として活躍されている芸人の小籔千豊さんが「めちゃイケ」に出演されて、妙に緊張してしまった理由として「笑かしたいけど、笑われたくないとか考えてしもて」と言っていました。あはは、わかるわかる。でもねえ、笑われるって、すごく素敵なことでもあるよなあ、なんて思います。もちろん、あの吉本新喜劇をまとめあげている当の小籔さんは、そんなことも十分承知なんでしょうけどね。

 その昔、私がいた会社で、アメリカンホームダイレクトの広告をつくっていて、当時、大ヒットしていました。私は残念ながらその制作チームの一員ではありませんでしたが、あの広告チームに入りたくてしょうがなかったです。だって、自慢できるし。♪ピンピロリーン、と音が鳴って、親指と小指をたてて親指を耳にあてて高速に振るジェスチャー(海外では電話のサイン)をするCMです。

 あのCMは、けっこう人気があって、好感度調査でもナンバーワンをとったこともあったんじゃなかったっけ。妙にバタ臭いストーリーと違和感ありありの登場人物。でも、あのCMが人気が出た要因は、計算でつくったものではないんですよね。ああいう好感をつくるのは、計算ではなかなか難しいと思います。計算でつくると、どうしても媚みたいなもんがにじみ出てしまいます。だから、あのとき私が思ったのは、あの広告にかかわりたい。つくりたいではなかったんですね。

 お笑いの世界もそうだけど、広告の世界もそんな不確定要素を持っているから楽しいんだと思います。最先端の知識を吸収して、それをアウトプットできたとしても、その人が愛される広告をつくれるかどうかは、また別の問題。このへん才能とかも関係してくるのでしょうけど、笑われるという視点を加えると、才能だけとも言えないような。

 笑われるという感じの笑いって、笑う方が能動的に笑っているという感じになるので、そこがいいとこなんですね。笑わせるという笑いは、受け手は常に笑わせられているという受動的な立場になるので、その受動的な立場が嫌だなと思うとき、その笑いは突然効力を失います。さんまさんのような笑わせる能力がきわめて高い人は、そのへんのプロセスにすごく自覚的ですよね。ほぼ日刊イトイ新聞の「