コピーライターは言葉の専門家なのでしょうか。
私のいる広告業界の現場でよくある風景。
社内ミーティング。ある仕事で、クリエイティブが徹夜でつくった広告案を見た営業が、腕を組み、押し黙ってしまいました。重い沈黙。その沈黙を切り裂くように、営業が一言。
「なんて言うか、コピーが違うと思うんだよ。」
一通りの押し問答のあと、結局、作り直すことに決まり、それぞれが作業に。コピーライターは顔に悔しさをにじませて、ひとり作業室の中で言葉を吐き捨てます。
「何もわかってないくせに、コピーに口だすなよ。」
多かれ少なかれ、こういうことは多いと思いますが、そのときのコピーライターの心情は、こういうものだと思います。俺は言葉の専門家であるのに、言葉の専門家でもない人間があれこれ簡単にいいやがって。特に言葉は人を表すというように、言葉を否定されることは、その人を否定されるに等しいような感覚を持ってしまいがちです。
コピーライターが言葉の専門家であるというのは、半分は真実であると思いますし、コピーライターという職業を選んだ以上、あらゆるタイプの言葉を一通り使いこなせるくらいのスキルはあるべきだと思いますし、文章を使うのに慣れていない人は、コピーライターにはあまり向いていないとは思います。ピアニストはピアノが弾けるのが条件、みたいなものです。
しかし、コピーライターは言葉の専門家であるというのは、半分は間違っています。欧米の広告理論では、What to sayとHow to sayを明確に分けようとする傾向があり、クリエイティブはHow to sayの専門家みたいなことが日本では言われがちですが、欧米のクリエイターに、そんな認識を持っている人はあまりいないのが事実です。つまり、クリエイティブの半分はWhat to say=何を言うかでできています。
先の営業は、その何を言うかが違うのではないかということを言いたかったのでしょう。言葉なんて、誰でも使えます。事実、遠い都会に住む子供を思い綴った母親の手紙の言葉が証明しています。その母親は、きっと言葉の専門家ではありません。普通に暮らす普通の人です。けれども、言いたいことがあれば、人はいい言葉を綴ることができます。
では、誰もがコピーライターになれるのか。答えは否です。コピーライターの半分の仕事は、言いたいこと、言うべきことを見つける仕事です。それは、いい手紙を書いたその母親にはできないことです。所詮は広告は他人の話。その他人が言いたいことを見つける作業ですから、それなりにノウハウがいります。そして、その言いたいことを適切な表現で日本語にするのが、残り半分の仕事。その残り半分の仕事も、じつは結構大切ではあるんですけどね。
コピーは、極論で言えば、名詞と動詞で書けとよく言われます。犬、走る。人、話す。そんな感じ。これは、何を言い表しているかというと、何を言うかを突き詰めて考えろ、ということなんですよね。日本語の表現技術が高まってくると、日本語の持つ文化的な形態だけで文章にできるようになってきます。言いたいことが特になくても、いい文章が書けてしまうのです。
言葉というのは不思議なもので、その形式に忠実であるだけで、何となくその言葉の体系が持つ魂みたいなものが、ある一定の意味性を与えてくれるような気がします。特に文章が巧い人なんかは、その罠にはまってしまいがちです。
言葉の体系が持つ魂みたいなものということを突き詰めると、英語の方が論理を語るには優れる特徴があるとか、日本語は情緒的であるとかに行き着きます。チョムスキーが言う深層構造と生成文法は、言葉にする前の何か、すなわち深層構造がまずあり、人間が言葉を獲得するための持って生まれた能力、生成文法により民族言語の持つ文法構造がつくられていくという理論で、文法が思考を決定するという旧来の言語学に対する批判であったその理論は、逆説的に、言葉とは私であるという結論につながっていきます。
しかし、名詞と動詞で書けという広告コピーでよく言われる教えは、その生成文法に抗う考えがしなくもなく、漢文が複雑な文法構造を持ってないにもかかわらず、高度な内容をきっちりと伝えられてしまっている事実に似ているような気がします。それはチョムスキーの言う、言葉に表出される前の深層構造の姿に近いような気がするし、であるならば、民族言語の持つ魂みたいなものって、いったいなんなんだろうなんて考えてしまいます。
一般的には、英語などの外国語に訳しやすいコピーがいいコピーとされていて、私などは、外資系企業でのプレゼンで、翻訳の人に、君のコピーは訳しやすいですね、と言われるとうれしかったりしますが、それはコピーが商業文だからなのかもしれません。しかし、多くのコピーへの共感は、文章が持つリズムや雰囲気に依存していることもまた事実で、このあたりの話は、私にとっては興味が尽きないです。
ちょっと前は、こういう広告屋の表現論の論議に出てくるのは、ソシュールのシニフィアン、シニフィエだったような気がするのですが、時代が変わったということなんでしょうか。でも、まあ正直言うと、シニフィアン、シニフィエも、生成文法もよくわからないところがあるんですが。ぼちぼち読み直していこうかな、なんて思っています。
| 固定リンク | コメント (4) | トラックバック (4)