東京は雨が降らないですが、あじさいは咲いています。昭和っぽい写真ですが、2010年の写真です。Willcom03で昨日の朝に撮影しました。こんな写真は、きっとiPhoneには撮れないですよね。偉いぞ、Willcom03。
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オフコースに「雨の降る日に」という3分にも満たない短い歌があります。1975年に発表された「ワインの匂い」というアルバムに収録されています。アルバムA面の最初の曲です。レコード針を落とすと、まず雨の日に自動車が道路を走る音が流れ、そのあとに小さなピアノの前奏。オフコースにしては珍しい素直な和音が四分音符に添ってゆっくりと進行していきます。小田和正さんの作詞・作曲です。
赤いパラソルにはあなたが似合う
そんな歌詞が出てきます。何気ない描写なんですが、妙に心に引っかかるんですよね。30年以上前の歌なのに、この時期になるといつも思い出します。
あなたには赤いパラソルが似合う、ではなく、赤いパラソルにはあなたが似合う、なんですよね。ああ、赤いパラソルには、なんだよなあ。そんなふうに思うんです。いつも。要するに、この描写をする人の世界は転倒しているんですよね。普通は、こういう描写はしないはずなんです。
どうしてこう表現するのかな、と考えると、きっと、この世界は自意識の世界なんでしょうね。私がいて、私の意識の中に世界があって、その中に、世界の一部として赤いパラソルがある。
この曲はこういう言葉ではじまります。
人はみな誰でも流れる時の中で
いくつもの別れに涙する
だけどあなたはひとり
私を中心とする自意識の世界の中では、たくさんの赤いパラソルがあり、いくつもの別れがあるけれど、そんな中で、唯一の例外として、たったひとりの交換不可能な「あなた」がいて、それは、安定した自意識の王国に侵犯してくるものであって、その自意識が揺れ、王国が壊れそうになる感覚を、小田さんは「愛」と名付けていたような気がします。
小田さんの歌には「恋」という言葉はあまり出てこないんですよね。少なくとも、オフコース時代は。鈴木康博さんの歌とは対照的です。小田さんの「愛」は、没交渉的なものが多く、内省的。その自意識を中心に閉じられた世界が、この転倒を生んでいるんだろうな、と思います。
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1977年に発表された「秋の気配」という歌があります。中期のオフコースを代表する曲ですから、ご存知の方もいらっしゃるのではないでしょうか。ガットギター、フォークギター、エレクトリックピアノ、ボリュームペダルを使ったエレキギター、ストリングス、エレキベース、ドラム、パーカッション、そして、コーラスが、それぞれ控えめなのに練り込まれ考え抜かれたフレーズが丁寧に重ねられていきます。ベースラインも美しくて、音楽的にもかなり高度。
歌詞は、広角の世界から、徐々に焦点が絞られて、心的な世界へ至る情景の転換が、まるで映画を見ているような感覚があります。今で言えば、キリンジの「エイリアンズ」の感覚と似ていますね。最近、なぜか「エイリアンズ」をよく聴くのですが、ほんといい曲ですよねえ。公団、ボーイング、バイパス、僻地。私の世代からすると、ちょっとかっこ良すぎるけどね。
すみません。少し話が脱線しました。「秋の気配」という歌の中に、こんな言葉がでてきます。
こんなことは今までなかった
僕があなたから離れていく
つれない恋人に「嘘でもいいから微笑むふりをして」と願うわりには、あなたが離れていくのではなく、「僕があなたから離れていく」と描写するのですね。変ですよね。あなたが離れる、私は追う、ではなくて、さめていくあなたから目をそらして、港に視点を映して、自意識から見える世界を変えているんですね。それを、「僕があなたから離れていく」と表現しているのだと思います。
この頃、オフコースファンは女性が多かったそうです。女子校の学生さんが、修学旅行のバスの中で「秋の気配」を合唱したという話も聞いたことがあります。きっと、当時の女子高生たちは、そんな男に憧れたのではなく、この歌が描く自意識の王国に自分の自意識を重ねたのだろう、と想像するのですが、どうでしょう。
確か小田さんの著書にこの歌詞についての言及があったなと思いましたが、ウィキペディアの同曲の項目(参照)にありました。孫引きですが引用します。
“僕があなたから離れていく”って歌うと、まるでとてもやさしい人で、やむを得ず離れていくような…。“別々の生き方を見つけよう”とかって、よく映画の別れの場面であるじゃない? “いつの間にかすれ違った”、とか。でも、本当に好きだったら、別れないもんね。別れるのは“好き度”が低下したからなんだし、もっといい相手が出てきて “こっちのほうがいいなあ”と思ったからかもしれないんで。そういう傲慢な気持ちを横浜の風景の中に隠したのが、あの曲だったんだ。でも、書いたときは必死だったんだよ、言葉さがして。本当はそんなつもりなかったんだけど、あとで考えたらひどい男だな。
「たしかなこと」小田和正
小田さんらしいですね。どこか建築的なんですよね。つまり、すべてを力学で見ると言うか。傲慢さは自意識の特徴でもあるし、あながち仮説は間違っていないのかもしれません。
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この転倒した世界の構図は、今でいうところの「セカイ系」と同種のような気もするけれども、違うところは、「私ーあなた」を世界としていないところでしょうね。まあ、「セカイ系」という概念も定義が揺れているから、一概には言えませんが。
小田さんの転倒した世界の構図は、つねに「私」なんですよね。小田さんは、きっと近代的自我の人なんだろうと思います。だから、「君のために翼になる 君を守り続ける」と宣言した後に「個人主義」や「相対性の彼方へ」というキーワードが出てくることは合点がいきます。
小田さんは、早大の建築科大学院時代の修士論文に「建築との訣別」と題したそうです。これは教授に却下され「私的建築論」として受理されるのですが、きっと訣別するほどに「社会」という確実な手応えが、小田さんにはあったのでしょう。
先ほど言及したキリンジの「エイリアンズ」の世界は、そのような確実な社会が感じられない気がします。あえて言えば、社会というものは「私ーあなた」つまり「エイリアンズ」という小さな世界に溶けています。その小さな世界が、目に見えない大きな社会に対峙するという感じです。
キリンジの「Drifter」という歌から。
たとえ鬱が夜更けに目覚めて
獣のように襲いかかろうとも
祈りをカラスが引き裂いて
流れ弾の雨が降り注ごうとも
この街の空の下 あなたがいるかぎり
僕はきっとシラフな奴でいたいんだ
子供の泣く声が踊り場に響く夜
冷蔵庫のドアを開いて
ボトルの水飲んで 誓いをたてるよ
欲望が渦を巻く海原さえ
ムーン・リヴァーを渡るようなステップで
踏み越えて行こう あなたと
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「雨の降る日に」という歌について書きます、と書いたわりには、話が広がって、「自意識」についての考察めいたものになってしまいました。書いているうちに、なんとなくわかったことがありました。それを書いて、このエントリをひとまず終えたいと思います。
「自意識」とは、キリンジの歌にあるように、きっと「シラフ」のことです。そのシラフの世界は、多くの人の「自意識」が重なって、つねに「酔った」状態として表れる、今ここで動いている社会というものに対しては転倒として表れるのだろうな、と思います。それを、かつて、思想家の吉本隆明さんは「自己幻想は共同幻想と逆立する」と呼んだりしました。
だからどうなんだ、と言われれば、何もないけれど、私としては何かをつかんだような気もしています。前回のエントリ「「大衆の原像」をどこに置くか」とも関連しますが、もし、そのイメージの根拠を求めるならば、酔った状態である、アクティブな社会現象に求めるのではなく、「シラフ」の状態である「自意識」に求めたほうがいいのだろうな、ということ。
そのためには、こちら側もさめていることが必要で、そこでは自身の「自意識」を見つめることにもつながっているのでしょう。そのことは個人的には大きな収穫ではありました。なんとなくまとまりのない文章になってしまいましたが、それを生で提示できるのもブログという個人がどうにでもできる自由なメディアのよさなんでしょうね。
では、よい休日を。今日は、東京は一日晴れのようです。