カテゴリー「テレビ・ラジオ」の43件の記事

2015年9月 7日 (月)

「ラジオってどうやって聴くんですか?」

 嘘みたいな話ではあるけれど、人気アイドルがラジオ番組をはじめるというようなニュースが出たときなんかに、ラジオ局や家電量販店で若い人から「ラジオってどうやって聴くんですか?」という質問が寄せられるらしい。また、若い人に「ラジオって聴いてる?」と質問すると「聴いてる、聴いてる」と答えるので「ラジオで?それともradikoで?」と尋ねると「うんん、YouTubeで」。まあ、どちらの話も笑い話ではあるけれど、あながち嘘ではないんだろうなあ、とも思ったりします。

 これは前に書きましたが、現在のラジオの聴取率は関東広域圏で6%前後。曜日や時間帯によって変わりますが、大雑把に言えば、100人いれば6人くらいラジオを聴いている計算になります。ちなみに、ラジオの聴取率調査が始まった2002年の聴取率は関東広域圏で8.3%でした。現状をどう評価するかは、数字の読み方を知る知らないによって違うでしょうし、立場によっても異なるのだろうと思います。

 よくラジオの聴取率はradikoらじる★らじるを含まないよね、という話がでるんですが、それは間違い。受信機に機械を取付けるテレビと違って、ラジオは個人に質問する形式なので、家で聴いても、お店で聴いても、歩きながら小型ラジオで聴いても、radikoで聴いてもラジオを聴いたことになります。なので、radikoやらじる★らじるができてラジオ復活、みたいな話は、まあ、かなり盛った話で実際とは違います。それは、あえて言えば、これからの話。個人的には大いに期待はしていますが、今のメディア環境の中でのラジオメディアの地位低下は、複層的な問題がからみあっていますから、これはいろいろ時間がかかりそうな気がしています。

 現象として言えば、聴取率が3%から4%下がると、冒頭のような「ラジオってどうやって聴くんですか?」というようなことが起きる、ということなんですね。こういうことが起きるということは、かつてラジオを聴いていたのに今は聴かなくなってしまった人の中にも、潜在的にあるインサイトだということで、「ラジオってどうやって聴くんですか?」という質問に答えることは、それなりに意味があることだと思います。

 では、どう答えるか。考えてみると、これはほんといろいろあるんです。多種多様。しかも、どの聴き方も一長一短。それは、ラジオのメディアとしての短所であると同時に、後述しますが、ラジオメディアが放送メディアとして、テレビと比較してもかなり先を行った先進メディアであることの証拠でもあります。そして、メディアとして見た場合に、それこそがラジオメディアの面白さでもあると思ったりします。個人メディアであるブログの特性を活かして、自分のわかる範囲で、かつ、かなり独断と偏見を交えながら、いろんなラジオの聴き方を書いてみたいと思います。

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 ラジオで聴く。

 これは定番中の定番で、今年、日本でラジオ放送がはじまって90年ですが、これまでもずっと行われてきたラジオの聴き方です。

 しかしながら、今、この聴き方が、とりわけ都心部においてかなりきつい聴き方になってきています。いわゆる難聴取問題です。特にAMに顕著で、コンクリートのビル内ではちゃんと聴けないこともかなり多く、その一方で、手頃な値段で買える、いわゆる安いラジオ受信機の電波受信性能は下がってきている傾向にありますので、ラジオを買ったはいいけど、こんなんじゃまともに聴けないじゃないか、ということが十分あり得ます。

 じつは、ラジオ各局は、この電波受信をめぐる環境の悪化に苦しめられてきました。以前ならうまく聴けたラジオが今、うまく聴けなくなってきている。そのことは、経営的な観点からも、防災的な観点からも、かなり問題でした。

 そこで、以前はラジオもテレビと同様に地デジ化しようという動きがありました。デジタル化によって、難聴取はある程度解消はされますが、今度は別の問題が出てきます。テレビと同じで、地デジ化で今までのラジオではラジオが聴けなくなってしまうんですね。それはあまりにもリスクがあり過ぎる、ということで、この動きはなくなりました。その代替として、今、進められているのがAM放送のFM波での同時放送です。FM補完放送と呼ばれ、地デジ化で空いた1chから3chの周波数を使います。AMはこれまで通りです。首都圏、関西圏などは、この秋以降となりますが、鹿児島の南日本放送を皮切りに、続々とスタートしています。

 どんなラジオでラジオを聴くか、ということを考える際には、このFM補完放送を考慮に入れなければ損をしてしまいます。旧テレビ地上波アナログの1chから3chの音声が聴ける古いタイプのラジオなら、このFM補完放送は聴けますが、テレビの地デジ化以降に生産され、かつ、FM補完放送対応のラジオが出るまでの期間に生産された多くのラジオでは残念ながらFM補完放送は聴くことができません。また、このタイプのラジオは今も数多く流通しています。また、海外製の高級機も、まだ未対応のものが多いです。購入の際は、FMの受信周波数が76MHz〜108MHzになっているかどうかの確認をおすすめします。

 そのあたりを考慮しながら、どんなラジオを選べばよいかを考えてみます。僕は、今のラジオ電波受信環境を考えると、ラジオは多少値が張っても基本性能が高いもののほうがよいと考えています。音質にこだわる、インテリア性を求める、など様々なニーズはあるかと思いますが、ここでは個別ニーズは考えないこととします。また、震災でラジオの重要性がクローズアップされ、できればラジオは備えておきたいという防災的観点も、せっかくラジオを買うのですから考えてみたいと思います。いつも聴く用に1台、防災用に1台というのが理想ではありますが、ちょっともったいないですし。

 基本性能が高い。持ち運べる。いざというとき電池で動く。この3点を考えておすすめは、これ。

 少々デザインが古いですが、AM、FMともに受信性能がかなり高く、スピーカーも大きく音質もいい。いわゆる普及帯価格の中ではかなりおすすめ。もっと受信性能が高い高級機はありますが、普通に使う分には、これ以上はないのではないでしょうか。もちろん、ワイドFM(FM補完放送)対応。電池でも動きます。えっ、今どきステレオではないの、と思う方もいるかもしれませんが、屋外FMアンテナを設置しないでラジオのロッドアンテナを立てて聴く場合、より雑音のない音で受信できるモノラルのほうが、日常使いではよい選択かと思います。

 でも、デザインが好きではないとか、もっと大きいもの、あるいは小さいものがいいと思う方は、実売5000円から10000円くらいのソニー、またはパナソニック(どちらもラジオ作りに熱心)のものであれば、あまり問題は出ないように思います。

 防災用には、こちらがおすすめ。

 Amazon.co.jpでもラジオでベストセラー1位になっていますね。これがいいところは、同種の防災ラジオと比較しての受信性能の高さ。ラジオは多少値段が高くても、受信性能。これはラジオ選びの鉄則です。ただし、現在のところ注意が必要なのは、現行機はワイドFM対応ではないということ。つまり、これでFM補完放送は聴けません。ちなみに、この機種は手回し発電でスマートフォンを充電できます。こういう気配りは、さすがソニーだと思います。

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 ケーブルテレビで聴く。

 うちはケーブルテレビではないから、どうでもいいや、と思った方もぜひ読んでみてください。ラジオのデジタル化というかつての動きの中で、実現すれば、かなり面白いことになったのではないか、と個人的に思っているのが、このテレビで聴くというラジオの聴き方です。古い地デジ対応テレビのリモコンに、Dラジオというボタンがあるのは、その頃の名残。Dラジオ、つまりデジタルラジオのことです。このテレビでラジオを聴くという方法、インターフェイス的にはまだまだ課題はあるものの、首都圏、関西圏、福岡圏のJ:COMで実現しています。

 利用方法は、リモコンでJ:COMテレビを選曲し、dボタン(データ放送)を押し、そこからラジオ局を選択。少しめんどくさいですが、テレビに飽きたらラジオ、という選択肢ができることは、今後のラジオメディアを考える際に、とても重要だと僕は考えています。仕組みとしては、FM補完放送やradikoと同様、同時再送信です。

 参加局は、首都圏はTBSラジオ、ニッポン放送、文化放送、関西圏は毎日放送、福岡圏はRKB、KBC。いろいろ課題はあるかと思いますが、こういう流れができたことはラジオメディアにとっては未来に向けての大きな一歩だと思っています。ラジオ、ケーブルテレビともに他局も追随してほしいです。

 また、あまり知られていないのは、FM局に関しては、多くのケーブルテレビ局は同時再送信を行っています。残念ながらSTBからテレビ受信機への出力はできないのですが、アンテナ端子(ケーブルテレビ出力端子)とシステムコンポなどのFMチューナーを同軸ケーブルで接続することで、通常のFMアンテナ端子とつなぐ場合と同じように高音質出力ができます。屋外にFMアンテナがなくてもクリアな音質でFMの音楽放送が聴けるのは、かなりのメリットではないでしょうか。

 ※上記AMラジオの同時再送信に関しては、デジタルテレビの難聴取対象地区の集合住宅でアンテナではなくJ:COMのケーブルテレビ回線でテレビを受信している該当地区の世帯であれば、J:COMと有料チャンネルの契約しなくても利用できます。FM放送に関しても同様で、こちらは周波数変換パススルーという技術だそうで、これまでの屋外FMアンテナと同じように同軸ケーブルで接続するだけでクリアな音声で受信できます。配信されている放送局であれば、これまで距離が遠いなどの理由で雑音が入っていた放送局もクリアな音質で受信できるので、FMアンテナからの移行にもメリットはあります。(2015年9月9日追記)

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 radiko(民放ラジオ)とらじる★らじる(NHKラジオ)で聴く。

 ネットの常時接続環境が安定していれば、IPラジオ同時再送信という方法は、もともと難聴取問題の解消のためにできたものですので、都心部に難聴取環境が多い現在、もっともラジオを安定して聴くことができる方法です。スマートフォンでは、各サービスともアプリをダウンロード。PCではサイトにアクセスすることで簡単に聴取できます。

 物理的な制限がある電波ではなく、ウェブを利用したデータ通信を利用していますので、原理的にはどこにいてもネット環境であれば受信可能ですが、民間放送ラジオ局が参加しているradikoの場合は、放送免許における放送エリアに近づけるために、受信側のIPアドレスで都道府県を判定しエリアを決定しています。大阪にいれば大阪府と判定されます。放送免許による放送エリアにしたがって受信可能ラジオ局をリストアップしているので、大阪府でエリアによっては電波の受信が可能で普通に聴くことができるKBS京都や京都のα—STATION、和歌山放送などはリストには出てきません。地域によっては、地元局1局、放送大学、短波のため放送エリアが全国であるラジオ日経の3局4チャンネル、もしくは地元局がradiko不参加の場合は、地元局がなく放送大学とラジオ日経の2局3チャンネルしか選択できないこともあります。一方、東京の場合は、12局13チャンネル、大阪の場合は、10局11チャンネルの選択肢があります。

 ※後に調べると違っているようです。例えば、放送免許ではラジオ関西は兵庫県県域、アール・エフ・ラジオ日本は神奈川県県域ですが(参照)、大阪府、東京都でリストアップされます。また放送サービスエリアで厳密に区切られているようでもなさそうです。各局の方針や調整などもあるのかもしれません。(2015年9月9日追記)

 上記の理由により、一言でradikoと言っても、地域で温度差があることは否定できません。この情報の地域格差は、広告モデルの限界といっていいだろうと思います。一人あたりの放送局数は、自分の住む地域の広告市場の大きさに比例してしまいます。一方、広告市場に依存しない公共放送であるNHKが聴取できるらじる★らじるは、全国どこにいても仙台、東京、名古屋、大阪の放送局を選ぶことができます。

 また、radikoのIPアドレスを利用した地域判定はWiMAXなどのWiFiを使った移動通信系ウェブ接続サービスではうまく機能しません。接続した際に任意で選ばれる基地局で地域が判定されてしまい、東京都にいても大阪府や山口県で判定されてしまったりすることがよくあります。これは技術的には回避不可能とのことで、希望の地域判定が出るまで根気よく接続し直す以外手がありません。地域判定のあるradikoの大きな弱点のひとつとなっています。

 大きな利便がありつつも弱点もあるradikoですが、昨年4月から画期的なサービスが始まっています。月額税別350円がかかりますが、エリアフリーで全国のラジオ放送局が聴けるradikoプレミアムです。全国どこにいてもプレミアム参加局が聴取可能で、2015年9月現在、75局76チャンネルが選択可能です。このサービスが画期的なところは、地域における情報格差の拡大という広告モデル固有の問題について、有料サービスではあるけれど、ひとつの解決に向かう道を示せたということです。これは、BSやCSなどの多チャンネル化が進んだテレビもまだできていないことです。テレビが進んだ方向は、コンテンツのニッチ化により課金モデルとさらなる広告市場の拡大という道でした。これは、放送メディアにおけるラジオメディアの先進性としてもっと誇ってよい、と僕は思っています。

 個人的な意見として聞いていただきたいのですが、もしあなたがラジオをあまり聴いたことがなく、これからラジオを聴いてみたいと思っているならば、初月無料ということもありますので、一度、radikoプレミアムに加入してみてはどうかと思っています。何でもそうだと思いますが、ラジオが好きになるかどうかは、面白いラジオ番組を聴くかどうかで決まります。キー局、準キー局はもちろん、地方にも人気番組はたくさんあります。地域メディアとして育ち、これからも地域を支えていくラジオには、まだまだ知らない楽しさが詰まっています。

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 コミュティFMのIPラジオ同時再送信で聴く。

 コミュニティFMは、県域放送より狭い市町村を放送対象エリアとするFM放送です。当然、放送エリアでしか電波受信はできませんが、ウェブではradikoやらじる★らじる同様、PC、スマートフォンでIPラジオ同時再送信を聴くことができます。CSRA(コミュニティ・サイマルラジオ・アライアンス)のウェブサイトにあるSTATION LISTから地域を選び、聴きたい放送局のオレンジ色の[放送局を聞く]ボタンをクリックすれば再生がはじまります。

 ただ、この公式のサイトはサイト設計が少し古く複雑で使いにくいかもしれません。その場合はサイマルラジオというウェブサイトの方がシンプルで便利。たぶん、こちらもCSRAが制作しているサイトだと思うのですが詳細はわかりません。各局のウェブサイトからのリンクはこちらになっていることも多いようです。使ってみたところ、これまで不具合はありませんでした。

 Windowsでは問題なく使用できるのですが、MacではWindows Mediaメタファイル(拡張子は.asx)を開くためのソフトウェアをインストールする必要があります。代表的なものはVLC media playerで、無料で使用できます。(2015年9月11日追記)

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 radikoとらじる★らじる、コミュニティFMなどのIPラジオをどう聴くか。

 もちろん、PCやスマーフォンにイヤホンを挿して聴くのは王道です。ここでは、それ以外の方法を書きたいと思います。具体的には、自宅の居間や個室、ベッドルームなどでテレビを観るように、くつろぎながらラジオを聴く方法です。

 最も簡単なのは、アンプ内蔵のスピーカーにPCやスマーフォンを接続して聴く方法です。僕はこの方法でラジオを聴くことが多いです。スピーカーはある程度音質のいいものを選んだほうがいいように思います。群を抜く音質でなくてもいいかと思いますが、長時間ゆったりと聴くとなるとそれなりの音質が求められます。これは、いろんなアンプ内蔵PCスピーカーで聴いてきた経験から、そう思います。

 小さなスピーカーは、低音が弱く、高音がシャリシャリしたものが多いようです。音楽を聴くためなら、くっきりと聴けることもあって、それでよいのですが、ラジオの場合は人のしゃべり声が主ですので、どちらかというと中低音がしっかりしたものを選ぶといいようです。あと、USB接続はノイズを拾いやすく、ブルートゥースはまだ不安定な気がしますので、電源付きの接続はイヤホン端子からのアナログ接続がいいように思います。でもまあ、これは好みの部分もありますね。

 BOSEは、低音が強くて音楽を聴くには好みが分かれそうですが、ラジオには相性はいいのではないかと思っています。僕は、この前モデルのCompanion IIを使用していますが、音量は小さな部屋なら十分過ぎるほどあります。僕は、もうひとつ大阪用に上記右のスピーカーを所有していますが、値段に差があるということもありますが、低音が弱く、高音が強く、はっきり明瞭な音なので、ラジオを長く聴くには聴き疲れするような気がしました。あと、やはりUSB給電はノイズを拾います。手軽に音楽を聴くにはとてもいいスピーカーなんですけどね。

 また、こういうタイプのオーディオシステムであれば生活とラジオが溶け込みそうな気もします。ちなみに、これはラジオチューナー付きでワイドFM(FM補完放送)対応です。ラジオとカセットテープがメインだった頃と違って、今はスマートフォンありきなので、こういうタイプのパーソナルオーディオに力を入れているみたいです。せっかく買うのであれば、音楽データだけでなく、radikoやらじる★らじるでラジオを聴くとより生活に活かせるようになるのではないでしょうか。

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 最後に電波でラジオを聴くか、IPでラジオを聴くか、という問題について。

 僕個人の意見としては、それはどっちでもいいと思っています。どっちで聴いたからといって、コンテンツの内容が変わるわけではありませんし。リスナーから見れば、ラジオはどう聴こうがラジオです。この話は、ラジオ界隈とウェブ界隈で起こった大きな出来事があって、これまで放送と通信の文脈で色がついて話されることが多かったけれど、時代がそういう文脈を追い越していったような気がしています。

 ただ、こういう時代になっても変わらないことは、電波、IP双方の特性です。電波は距離や地理的な影響は受けるけれど、受信に関しては無限。一方のIPは距離や地理的な影響は受けないけれど、受信に関しては有限。IPで震災などで一度に大勢の人がアクセスするとサーバがパンクする可能性が高いのです。つまり、防災には電波受信の従来のラジオが今も有効なんですね。実際に、radikoが開始されたとき、TBSラジオの人気深夜番組「伊集院光JUNK」が始まったと同時に、一時的にradikoがつながりにくくなってしまいました。

 これはラジオに興味がなくても、同じように言えることです。電源が使えない。電話やネットがつながらない。そういうときに、電池で長時間使えるラジオは貴重な情報源になります。もしものために電池で動くラジオは持っていたほうがいいし、radikoでラジオを聴いている人も持っていたほうがいいです。

 震災後、ラジオ界隈では、これでラジオの重要性が再認識された、これでラジオは上向きになる、と言われていました。実際、聴取率は一時上がったけれど、すぐに下りました。当たり前ですよね。人々の意識が変わって、ラジオが重要と思ってくれたわけでもなく、そのとき、単純にラジオには聴くものがあった、聴く必要があった、ということなんです。僕はそう思っています。

 防災にラジオが有効。万が一のとき、ラジオメディアは大きな役割を担う。これは本当。電池付きのラジオを持っていたほうがいい。これも本当。でも、だからこそ、ラジオを日頃からたくさんの人が聴いていて、万が一のときにたくさんの役割が果たせるためにも、豊かでないといけないと思っています。だから、電池付きのラジオは持ったほうがいいとは言うけれど、防災に必要で社会にラジオが必要だからラジオを聴け、とは言いません。

 言いたいのは、ラジオは面白いよ、ということ。聴く機会が減ってきたけど、聴いてみると、ラジオはまだまだ面白い。テレビではあまり面白くないなあと思っていたタレントさんがラジオだと味があるなあと思うこともあるし、テレビではかわいいだけのアイドルが、ラジオでは考え方が真面目だったり、少し影が感じられたりすることもあるし。映像がなくて、スタジオにマイクがあればできてしまうラジオでは、今もやっぱり、ものが自由に話せるように思うし。それになによりも、文書にするというフィルターを通さない生な言葉が聴けるメディアだし。

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 僕は単なるラジオリスナーですが、ひとつだけラジオと関わりがあることがあります。それは、NPO法人の放送批評懇談会のラジオ委員として活動していることです。月1回の合評とギャラクシー賞の審査で、相当な数のラジオ番組を聴いています。そういう意味では、比較的、全国くまなくさまざまなラジオ番組を聴いているので、radikoプレミアムもできたことですし、面白い番組はこれからも紹介していきたいと思っています。また、昔は当たり前だった番組の録音についても書きたいと思います。今は、相当敷居が高くなりました。

 放送批評懇談会から告知です。ひとつは、セミナー「ラジオの可能性を考える すべてを語る120分」が9月11(金)に東京の明治記念館であります。ラジオメディアであり、地域メディアでありながら好調なCBC南海放送の両代表が語る攻めの戦略。有料セミナーです。メディア関係者なら応用できることはたくさんあるのではないでしょうか。すでに申し込みの締切日は過ぎていますし、定員を超えているかどうかはわかりませんが、念のために告知します。興味のある方は問い合わせてみてください。定員を超えていたら、ごめんなさい。詳しくはこちらを。

http://www.houkon.jp/symposium/seminar2015.html

 もうひとつは、恒例のラジオ番組を聴く会<ギャラクシー賞入賞作品を聴いて、語り合う会Vol.20>です。今回は大阪でやります。要申込、参加無料です。日時は9月27日(日)で、梅田茶屋町のMBS毎日放送本社です。聴取作品はMBS「ネットワーク1・17」と琉球放送「いちゃりば結スペシャル」となります。こちらは、たぶんまだ席に余裕があると思います。この2つの番組は、この記事の後半に書いたことと関係する番組です。関西の方はぜひ参加してくださいませ。

http://www.houkon.jp/galaxy/news.html

 というわけで、良いラジオライフを。

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2015年7月23日 (木)

感覚的に言えば、ラジオの人気番組の影響力は地上波テレビの不人気番組の影響力とほぼ同じである

 興味深い記事がネットに出ていた。当該記事はフジテレビの不調を揶揄するゴシップ記事ではあるけれど、別の見方をすれば今のラジオのメディアパワーを感覚的に把握する上で、非常に示唆的な記事として読むことができる。

 打開策が見えないまま夏休みシーズンに突入するフジテレビだが、苦戦の影響に『ミヤネ屋』だけでなく、ある番組の名前が上がっているという。

「それが、大竹まことさんの『ゴールデンラジオ!』(文化放送)です。毎週、平日の13時から15時半まで放送しています。放送時間がほとんど同じこの番組は、同時間帯の関東のラジオ局で一番聴取率がいいんです。テレビとラジオで簡単に比較はできませんが、少なからず影響があると上層部は判断しているようです」(番組スタッフ)

視聴率1.1%の『グッディ!』ライバルは『ミヤネ屋』ではなく『ゴールデンラジオ!』だった!? -  日刊サイゾー(2015.07.21)

 本文には「テレビとラジオで簡単に比較はできませんが」とあるが、じつはテレビの視聴率の母数はテレビを見ている世帯ではなく調査対象世帯全体であり、ラジオの聴取率の母数は調査エリアに在住の男女12~69才の個人総数であり、その誤差を捨象して考えれば、テレビの視聴率とラジオの聴取率は比較可能。むしろ、ラジオの母数が個人総数であることから、母数がより大きい分、同じ1%でも人数は多いとも考えられる。ただ、ラジオの場合は、年6回の聴取率調査の時期と合わせて各局がスペシャルウィークと称して特別企画を実施するので、ラジオの数字は実際は少し盛られているとは言える。また、テレビは世帯なので、1カウントでも複数人が観ている可能性も高い。なので、いろいろ総合的に判断して、ざっくりと考えれば、テレビの1%とラジオの1%はほぼ同じと考えていいと思う。

 日刊サイゾーの記事にあるフジテレビ『グッデイ!』の1.1%は、関東広域圏で聴取率首位のTBSラジオの聴取率とほぼ同じ。関東広域圏のラジオ全体が約6%で、その中でラジオの第2のプライムタイム(第1のプライムタイムは朝時間帯)である昼時間帯で最も聴取率がいい番組である文化放送『ゴールデンラジオ』は、軽くフジテレビ『グッデイ!』を超えていると考えられる。これは、別に時代の変化ではなく、一般的に朝や昼時間はテレビよりラジオの方が強い傾向にあって、この記事が煽るようなことでもない。

 ここから見えてくるのは、今、ラジオのメディアパワーは、感覚的に言えば、時間帯を含めてあまり見られていない地上波テレビの低視聴率番組くらいはあるということだ。もっとわかりやすく言えば、ラジオの聴取率1%は、関東広域圏で言えば単純計算でおおよそ36万人であり、ラジオの人気番組は、この1%、つまり36万人をベースに前後した数字と考えるのが妥当。この数字から、ながら聴取や飲食店やタクシーでの聴き流しを考慮して、熱心に聴取しているリスナーを3分の1とかなり低く見積もっても10万人であり、しかも放送メディアであるラジオは、この数字は瞬間の数字ではあるので、ウェブメディアを含めたあらゆるメディアの中で、ラジオ離れが叫ばれる現状においてもなお、このくらいの影響力を持つメディアである、ということは実感できると思う。

 メディアは、自分が接しているメディアが世界のすべてだと考えてしまいがちであり、その中での好き嫌いや希望的観測で未来を語りがちになる。メディアに限らず、現実は現実として理解しておくことは大切。ラジオにかぎらず、メディアを考える際には、こういう実際の力を感覚的に知っておくことは大切だと思う。

 ちなみに、このエントリでは関東広域圏のローカル番組をベースにしていて、全国ネット番組では影響力はさらに上がる。また、地域によってラジオの影響力は若干違う。例えば、聴取率調査を実施している関西圏や北海道圏では、関東広域圏より少しラジオの聴取率は高い。つまり、少しだけラジオ人気が高い。

 さらにラジオメディアを考える際に重要なのは、地域によって市場がまったく異なるという点だ。地上波テレビも同様ではあるが、その地域格差はテレビ以上であり、例を挙げると、東京都がAM、FMの民放ラジオ局が約10局に対して、広島県は2局と、聴取できる放送局の数にはかなりの開きがある。また、地理的条件による違いもある、関東近辺の地方だと東京キー局が聴こえるので地元局はかなり厳しい競争を強いられていたりするが、先に挙げた広島県のように地理的条件により巨大都市圏の影響を受けない地方では、民放がAM、FMそれぞれ1局しかリスナーに選択肢がないケースもあり、そういう地域では独占に近い市場の中で日々の放送が行われている。

 ここでは触れなかったコミュニティFMでも、J-WAVEなどの在京局番組の再送信の割合が多い局は、地域の選択可能なラジオ局の中でもそれなりの存在感を示していて、各地域の市場はもっと複雑になる。メディアとしてのラジオを語るとき、このような地域差があり、一言で「ラジオとは」と語れない難しさがあると思う。

 そういう地域差がある一方で、ラジオメディア全体を見ると、IPストリーミング技術を使ったradikoの有料版であるradikoプレミアムの登場で、月々350円で全国のほぼすべての地上波ラジオが全国どこでもリアルタイムで聴ける環境ができている。これは、テレビ放送がこういうメディア環境になっても実現できないことをラジオが一足先に実現してしまっているということであり、ここにじつは放送メディアとしてのラジオの先進性があったりもする。このあたりのことは、また別の機会に。

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 告知です。私も所属している放送批評懇談会のラジオ委員からイベントのお知らせがあります。ラジオ部門<ギャラクシー賞入賞作品を聴いて、語り合う会Vol.19>が、2015年7月26日(日)午後1時~午後5時、赤坂TBSセミナー室で行われます。今回は「花は咲けども~ある農村フォークグループの40年~」山形放送(大賞)と「風の男 BUZAEMON」南海放送(優秀賞)の2作品です。下記リンクのページにある申し込みの締め切りは過ぎていますが、事務局によると、申し込み多数で席数を増やしたのでまだ若干の余裕があるので申し込みは大丈夫とのことです。有料イベントですが、興味のある方はどうぞ。

 http://www.houkon.jp/galaxy/news.html

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2014年10月 4日 (土)

「欠落」とラジオ

 第17回目の「ギャラクシー賞入賞作品を聴いて、語り合う会」が無事終了しました。大賞受賞作「これからを見つめて〜LOVE & HOPE 3年目の春だより〜」(FM東京)と優秀賞受賞作「ラジオドラマ 想像ラジオ」(ニッポン放送)を聴く会でした。ゲストの延江さんや宗岡さんの話も興味深く、とてもよい会だったなあと思いました。個人的には、テレビでもなくインターネットでもなくラジオで、その上、あの震災から3年目の今、震災関連2番組を聴くということで、あまり多くの人は集まらないかもなあと思っておりましたが、会場で用意した席もほぼ満席で、あやうく立ち見の人が出てしまうくらいでした。ライブならまだしも、立ちながらラジオを聴くのはやっぱり辛いですものね。ほっとしました。

 印象では、今回は他の会と比較して、学生さんやラジオ業界以外の方がたくさんお見えになっているようで、少し希望が見えてきたなあという感じもしました。ごくごく小さなイベントですから、これをもって全体の傾向とすることはできませんが、まず、そもそも私自身がラジオ業界人ではありませんし、ラジオメディアを取り巻く環境が日に日に厳しくなっていく中、業界の中で閉じている場合ではないと強く思いますし、広告業界もそうですが、こういう業界内での名誉になるような賞が関係するコミュニティは余計に閉じがちになるとも思いますので、こういう外の空気が気持よく入ってくるような流れが今後も続くといいなあと思っています。これは前回書いたこととも関連しますが、閉じることは本当に良くない。せっかくの賞です。賞きっかけで、開く、広がる。今後も、そういう会にしたいなあと思っています。

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 「これからを見つめて〜LOVE & HOPE 3年目の春だより〜」は日頃FM東京を聴取している方はご存知かと思いますが、毎日早朝に放送されている震災支援番組「LOVE & HOPE」の年に1度の集大成的な特別番組で、東北各県の復興地に生きる人々のインタビューで構成されています。当日、生放送で放送されました。震災から3年目、テレビ、新聞、雑誌、ウェブメディア、様々なメディアが特集をしていました。その中で、音声メディアであるラジオが表現したのは、まぎれもなく東北に生きる人たちの「声」でした。映像メディアでも声は届けられるし、文字メディアでも声は記録され編集された文字として届けられますが、ラジオが届けた「声」は、より自然で生き生きとした声だったように思います。これは、あなたがラジオびいきだからじゃないの、と思われそうですが、そこにはきちんとしたメディア特性から来る理由があると思うんですね。

 ラジオの現代的特性と言えるものでしょうが、現代を生きるメディアとして、あえて、当日の懇親会でお話しさせていただいたFM東京プロデューサーの延江さんの言葉をお借りすると、そこにメディアとしての根本的な「欠落」があるからです。それは、ウェブ時代に個人メディアでさえ簡単に手に入れられる映像の欠落です。あらかじめ映像が禁じられたメディア、それがラジオです。映像が禁じられた、という言葉は、加えて言えば、文字も禁じられたということを意味します。しかし、その欠落こそが現代的な意味において、ラジオというメディアの表現上の利点となり、未来に向けて、メディアとしての可能性へとなり得るのだと思います。

 先の番組で言えば、インタビューされている方々の前にテレビカメラはありません。当然、照明もレフ板もなく、生放送の場合は送信機が必要ではありますが、多くの場合はアシスタントもなく小さなレコーダーとマイクを構えたラジオマンだけです。それは、メディアの進化という観点で言えば、あきらかに後退ですが、あえて後退を選ぶことで、メディアが本質的に持つ暴力性、言い換えればメディアが手に持つ武器をより少なくすることに成功しているとも言えます。

 カメラは、どれだけ時代が変わっても、普通の人間にとってはある種の暴力性を持ってしまいます。私は、比較的カメラや映像に自分が記録されることの多い職場にいたことがあるのですが、私も最初カメラを向けられたときに構えてしまいました。簡単に言えば、笑顔をつくり、ピースサインみたいなことをしてしまったんですね。ほとんど無意識の反応でした。カメラを向けた人を見ると、少し嫌な表情だったんですよね。あっ、それ、欲しい絵じゃない、というような。二、三秒の出来事でしたが、そのときのことを今も覚えています。

 カメラの前で自然でいること。それが私に求められていたことで、その求められたことにきちんと応えることができなかった。それが、その出来事のすべてです。そのくらいのことは、少し慣れればできてしまうことでもありますが、そこでもう一度、その最初の体験に立ち返って考えてみると、カメラの前で自然でいることと、カメラの前で構えてしまうことは、どちらが自然なのだろうとも思うのですね。カメラを向けられると構えてしまう。それが、むしろ自然なことなのではないか、とも思います。長年付き合ってきた親しい人でもなく、親でも子でもない、そんな人にカメラを向けられて構えず自然にいることを求められる状況自体、本当は、少し異常なことなのかもしれません。

 昔は、テレビが一般人にカメラを向ける行為には、はっきりとした暴力性が見えました。しかし、今は、それほどでもなく、むしろ、構えることが初々しいと思えるような時代です。でも、これは、カメラを向けられても自然でいることが求められる空気の中、写される側も自然でいようとする意志とスキルがあることも多くなってきている分、カメラを向けるという暴力性の内実をより複雑なものにしてしまっていると解釈することもできます。その複雑な様相は、よりカジュアルになったウェブ動画の映像表現の中に多く見られるもののように思えます。現実に限りなく近いが故に、現実から最も遠いもの。それが、現在の映像なのかもしれません。

 ラジオというメディアは、その複雑な暴力性を持つ武器を捨てることで成り立つメディアと言うこともできるかと思います。もちろん、メディアである以上、その暴力性からは逃れることができませんが、より武器を少なく、素手に近い感覚で人に接する。それが、ラジオという気がします。

 番組の中で、岩手県大槌町で観光ガイドを務める少女がインタビューに応えていました。会で聴かれた方もいらっしゃるでしょうが、その少女が読み上げる手紙は感動的でした。私は、彼女のインタビューの中で心に残ったのは、大槌町が復興政策として進める、高い防波堤をつくり、街を高台にする大規模な街づくりに反対し声を上げてきて、その中で町長や町会議員、県や国の責任者と対話する中で、彼女自身が、大槌町にとって本当にいいことは何なんだろう、以前みたいに、ただただ反対だとはっきりと言えなくなってきている、と心のなかに芽生えた迷いを率直に語っているシーンでした。

 あのシーンは、あの声の表情も含めて、ラジオというメディアにしか伝えられなかったものなのではないか、と思ったんですね。つまり、他のどのメディアでも伝えることができない復興地の今があると思いました。もちろん、ラジオもメディアですから、100%自然な姿とはいえませんが、それは素手に近い取材者との信頼関係がつくる、最低限の「構え」しか彼女の中にはなかった、と言えるのではないでしょうか。

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 個人的なことなのですが、会の後、FM東京の延江さんが当日会場に掲載していたポスターを気にいってくださって、もし廃棄するならもらえないか、とおっしゃってくださいました。トークショーでも話されていましたが、番組の大きなテーマとして震災の風化を防ぎたいというものがあったそうです。

Kikukai17

 このポスターに書かれれいる言葉「ラジオは、忘れない。」は、まさにあの震災のことを風化させまいというメディアの気持ちを表現したものです。当然、テレビもウェブも忘れないと思いますが、高い公共性が求められる放送メディアでありながら身軽で、かつ、その「欠落」故に丁寧に人のありのままの思いを表現できて、十分な時間をかけて表現、表出できるラジオだからこそ、「忘れない」と言い切れるだろうと思って書いたものでした。

 写真は、今年の7月に撮影した大槌町です。たまたま仙台に立ち寄った時、このラジオ番組を聴いて、そういえば大槌町にちょっと足を伸ばしてみようかと思って行った時に私が撮影したものです。同じ東北だからすぐだろうと思ったら、かなり時間がかかってびっくりしましたが、おかげで遠野を横断する釜石線にも乗れたり、細麺の(新日鉄の工員さんがさくっと食べられるように細麺になったとのことです。最近は珍しくなったあっさり醤油味です。)釜石ラーメンも食べられたり、実りのある小旅行になりました。

 バスを乗り継いで辿り着いた大槌町は小雨で、復興工事の真っ最中でした。かつて街があった場所は盛り土があり、工事車両が行き交っていました。そこにニュータウンのような街の完成図が描かれた看板がありました。写真は、大槌町役場仮庁舎の奥にある小高い公園から撮影したものです。本当は、有名なひょうたん島を撮影したかったのですが、残念ながらズーム機能のない私のGR DIGITAL IIでは撮影できず、沿岸の工事で近くまで行くこともできませんでした。

 夕方でしたので暗い写真になってしまいましたが、延江さんはその写真も気に入っていただいたとのことでした。その際にも、「この写真に大槌町の今が感じられるのは、ラジオと同じように、グラフィックにも欠落があるからなんでしょうね。ムービーではこうはいきませんよね。」とおっしゃっていました。写真の撮影は素人ですので、少しこそばゆかったですが、うれしかったです。

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 「ラジオドラマ 想像ラジオ」は、聴き応えのある濃密なラジオドラマでした。当日聴かれた方は、ラジオなかなかやるなあ、と思われたのではないでしょうか。原作を読まれた方だとなおさら興味深く聴かれたことでしょう。地上波放送とインターネット放送を組み合わせる手法も新しかったし、西田敏行さん、小泉今日子さんの演技力も抜群でした。

 これも、映像の欠落というメディア特性によって獲得された世界だったと思います。例えば、原作の小説の世界を忠実にラジオに移し替えたものに過ぎなかったでしょうか。例えば、このラジオドラマをテレビドラマ化することを想像したとき、このラジオドラマが持っている世界が映像によってより良くなると思えるでしょうか。それは、たぶん否、だと思います。それは、まさしく音声メディアであるラジオだからできた固有の世界だったのだと思います。

 テレビドラマの楽しさをラジオでも、というものでも私はいいとは思っています。アーチストのライブ番組は、これだけ高画質、高音質化したテレビにおいて、ラジオはテレビの楽しさをラジオでも、という域にとどまるだろうと思います。でも、それでも、ラジオには今もこの楽しさは欲しいですし、最近は少なくなってきているけれども、昔のようにたくさんやってほしいなあとラジオリスナーとしては思います。NHK-FMの「The SESSION 2014」のような番組は、ラジオの最高の楽しさのひとつだと思います。ここでラジオならでは、というものは、テレビではあまり取り上げないアーチストをじっくりたっぷり取り上げるという機動性、身動きの軽さなのだと思います。

 ただ、表現作品としてひとつハードルを上げた時、やはりラジオだからできたというものがあってほしいとは思います。このラジオドラマは、その点では、たっぷり、というか、言い方はあまりよくないですが、こってりとありました。

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 第18回「ギャラクシー賞入賞作品を聴いて、語り合う会」は、11月8日(土)午前1時〜午後5時、赤坂TBSのセミナー室で行うことになりました。17回と同じく、第51回目ギャラクシー賞受賞作品の中から、「赤江珠緒 たまむすび」TBSラジオ&コミュニケーションズ(優秀賞)と、「途切れた119番~祐映さんと救急の6分20秒~」山形放送(優秀賞)を取り上げます。

 詳しくはこちら(PDF)を御覧くださいませ。

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2014年8月29日 (金)

ラジオのこと

 ナイティナインのオールナイトニッポンが9月いっぱいで終わるそうですね。8月28日深夜放送分をradikoで聴きました。矢部さんが終わる理由を話していました。たぶん、その理由はいろんなところで報道されるでしょうから、ここでは詳しくは書きませんが、私はとてもいい終わり方だと思いました。こんな理由で20年続いた番組を終わらせることができるのも、ラジオというメディアのいいところだと思うんですよね。
 ラジオの出演者はパーソナリティと呼ばれます。テレビではパーソナリティとは呼ばれません。ナイティナインはテレビで冠番組をいくつも持つ人気タレントです。でも、そんな彼らにもそれぞれの人生があるわけで、その中でテレビでは決して表現しないけれど、当然、人間として心のなかで感じていることもあるわけですよね。その秘めた思いを、きっとほんの少しだと思いますが、きちんと表現できるのが、映像を禁じられた音声メディアであるラジオというメディアなのでしょう。そこには確かに、パーソナリティとしての矢部さん、岡村さんがいました。
 パソコンがあれば誰でも簡単に映像コンテンツが作れてしまう時代ですが、私はラジオが大好きです。これは懐古趣味じゃなくて(まあ、私の世代は若い頃にラジオを聴きまくった世代ですので、少しはあるのでしょうけど)、たぶん、メディアの条件みたいなものなんだと思います。映像を禁じるからこそできることはあるのだろうなと思うんですね。マクルーハンが「メディアはメッセージである」と言っていますよね。その真意を理解しているわけではないけれど、たぶん、メディアの条件によってメッセージは変わる。そんなふうに思います。同じ映像でも、テレビと映画では違う。同じように、ラジオにしかできないことがある。きっと、ある。その、ラジオにしかできないことが、私は好きなんですね。
 縁あって、今、私は放送批評懇談会というNPO法人でラジオ委員をしています。任期4年で3年目に入りました。ラジオ委員会では全国の放送局のラジオ番組をたくさん聴くのですが、今、ラジオは必ずしも面白い番組ばかりとは言えません。今までラジオをまったく聴いたことがない人が聴いて、またラジオを聴いてみようと思わせるようなパワーがある番組は、以前より少なくなっているような気がします。
 いまいちばんの人気者で、今どき珍しくラジオに積極的な人たちなので、AKB48のメンバーが出演するラジオもたまに聴いたりしますが、多くは、テレビの楽屋っぽい雰囲気があるんですね。たくさんの人達が出演するひな壇番組を楽屋に移したみたいな感じ。吉本や松竹の芸人さんが出演する大阪の深夜ラジオも、その傾向が強いです。つまり、ラジオは、テレビの裏側みたいなメディア理解なんですよね。ファンの人にとってはそれでいいと思いますが、ラジオに元気がない時代だからこそ、もう少し欲張ってほしいなあと一ラジオリスナーとしては思うんですよね。AKB48が出演するテレビ番組には、ファンの人以外の視聴者を惹きつける魅力があると思うんですが、なぜかラジオにはそれが少ない気がしています。
 例えば、AKB48のファンの方が、そのメンバーの声を聴きたいからラジオを買って、もしくはradikoにアクセスしてラジオを聴いたときに、AKB48のメンバーの魅力とともに、あっ、ラジオって面白いなあ、魅力的だなあと思えるような番組であれば、と思うんですね。これを逆に言えば、AKB48のことをまったく知らない人が、そのラジオ番組を聴いて、あっ、この番組、面白い、また聴きたい、と思わせるような番組。もっと言えば、AKB48きっかけで他のラジオ番組も聴いてみようと思わせるような番組。私は広告屋ですが、ラジオをもっとたくさんの人に聴いてもらうためには、大規模な広告キャンペーンなんかより、よっぽど効果があると思うのです。
 そんな中で、AKB関連で、これはいいなあと思うラジオ番組がひとつだけあります。大阪のMBSラジオでやっている「NMB48のTEPPENラジオ」。渡辺美優紀さんが特にいいですね。NMB48のみるきーではなく、今どきの女の子は、こういうふうに世の中のこと、人生のことを考えているんだなあ、と感じます。もちろん、それは、みるきーこと渡辺美優紀さんにラジオパーソナリティとしての才能がある、ということでもあるのですが、彼女のトークを聴いていると、そうそう、ラジオって、こういうこと、とうれしくなります。で、そんなラジオ番組だから、しっかり聴く人も増えているようで、もともと週3回の15分枠番組が、今年から週1回の1時間番組になりましたもの。放送エリアの方は、ぜひ聴いてみてください。
 とまあ、ラジオのことをつらつらと書いてみましたが、ブログを書くのは久しぶりで、どうも調子がうまくいきませんね。ブログは個人メディアで、どう書こうが私の勝手ではあるんですが、やっぱり照れがどうしても入ってしまいます。じつは、久しぶりにブログを書こうと思ったきっかけは、放送批評懇談会主催のイベントを告知しようと思ったからなのですが、前段が思いの外長く、かつ、イベントにあまり関係のない話になってしまいました。でもまあ、こういうの、ブログらしいのではないでしょうか。ブログというメディアができることって、こういうことですよね。きっと。ともあれ、ここまで読んでいただいた方、どうもありがとうございました。
 では、告知です。放送批評懇談会ラジオ推奨委員会主催で「ギャラクシー賞を聴いて、語り合う会」というイベントを開催します。9月28日(日)、場所は東京半蔵門のFM東京です。第51回ギャラクシー賞の受賞作の中から、今年第1回目の今回は、大賞受賞作と優秀賞受賞作を聴きます(第2回目も予定しています)。今回の2作品は、どちらも震災に関連したラジオ番組です。あの震災から3年経ちましたが、その時間の経過も含めて、ラジオというメディアがあの震災のその後をどう描いたのか。パーソナリティというラジオ独特の言葉が示すような、ひとりひとりの人に寄り添ったラジオらしい表現のあり方が、この2つの作品にはきっとあるはずです。そのあたりをぜひ聴いてほしいと思います。
 制作者の方もゲストにお呼びしています。もちろん、質問もできますよ。会費は1,500円です。なんだ、無料じゃないのかよ、と思った方もいらっしゃるかもですが、まあ、そのぶん、たっぷり時間をとっていますし、そのぶん結構楽しい会だったりします。業界の方は、もうご存知だと思いますが、私はむしろ、ラジオなんか興味ない、そういえばここ数年、ラジオ聴いてないなあ、という感じの方に来ていただきたいなあ、と思っております。まあ、有料イベントだしハードルはかなり高いでしょうけど、そこまで言うなら行ってみようかな、という方、委員一同、お待ちしております。
 聴取作品の概要や申し込み方法などが記載されていますので、詳しくは、下のリーフレットをご覧くださいませ(画像をクリックで拡大できます)。ちなみに表面の写真は、今年の7月に岩手県の大槌町で撮影した写真です。大賞受賞作の中にも、大槌町で町のガイドをする女子高生が出てきます。彼女が番組の中で話していた堤防の造成と町全体の再開発が進められていています。
 

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2012年1月28日 (土)

小島慶子さん「キラ☆キラ」降板のポッドキャストを聴きながらターゲティングの功罪について考えてみました

 TBSラジオのお昼の人気番組「キラ☆キラ」のパーソナリティ、小島慶子さんが降板されるそうです。いろいろ憶測でニュースが流れたりして、その誤解を解くために、小島さんが自身の言葉でオープニングで降板の理由を語っています。

 理由は、局側から「まだラジオを聴いていない、40代、50代の男性の自営業の人を意識したしゃべりをしてください」と言われて、「ラジオはリスナーとの会話。今聴いている人に話しかけながら、その肩越しに聴いていない人を呼び込むしゃべりをしろ、と言われたら、それは絶対できない」とのことで自分から降板を申し出たそうです。出典:J-CASTニュース

 生放送ですが、TBSラジオのサイトでポッドキャストで聞くことができます。こういうニュースは活字で読むとニュアンスが変わるし、これは結構重要なことですが、この話が語られたのは隣にピエール瀧さんがいて、彼女の話を聞いてくれているという状況ですので、その部分を押さえなければいろいろ間違えそうです。興味のある方はぜひ聞いてください。興味深いトークだと思いますし、おすすめします。

 2012年01月26日(木)オープニング ー TBSラジオ「小島慶子 キラ☆キラ」

 直球ど真ん中で熱く語る小島さんと、少し距離を置き小島さんの思いを受け止めながら、小島さんの放送を楽しみにしているリスナーのことも考えて話す、大人なピエール瀧さんもどちらも素敵です。この音源だけで「プロってなんだろう」みたいなテーマで徹夜で語りあえそう。

 で、このポッドキャストを聞いて、なるほどなあ、そうだよなあ、ターゲティングって一体何だろうなあと思ったんです。局側の「40代、50代の男性の自営業の人を意識」という言葉は、あまり気持ちのいい言葉ではないけれど、そんなに突飛な発言ではないですよね。これを突飛と言い出したらマーケティングなんて成り立たないです。また、この話がラジオパーソナリティの話ではなく奇跡のプレゼン術だったりしたら肯定的に受け止められる話かもしれません。

 でも、ラジオパーソナリティは局のマーケティング戦略のパーツではなく生身の人間ですので、それはできないという小島さんの気持ちは痛いほどわかります。先のポッドキャストでも、たぶん、ピエール瀧さんはその小島さんの気持ちは全面的に肯定していて、その上で、そんな内輪の話は今聴いてくれているリスナーさんにまったく関係がない話なんだから、大人として、プロとして受け流して、聴いてくれるリスナーさんのために全力を尽くせばいいじゃないか、ということなんでしょう。

 また、ピエール瀧さんはそこまで言っていませんが、たぶん、聴いてくれるリスナーさんに一生懸命に語ることで、まだ聴いていない人にも届くかもしれないし、まだ聴いていない人に届けるのはそれしかない、ということも思っている感じがしました。それは、ピエール瀧さんがミュージシャンでありアーチストだからだろうと思います。

 じつは、この話が象徴していることは、マーケティングにとってターゲティングがいかに繊細で難しいか、ということだと思います。このケースのように、番組がはじまって人気が出てしまったら、ターゲティングの変更はほぼ不可能。小島ちゃん、そこをなんとかよろしく、ではたぶん無理だと思います。番組を変えることしかやりようがありません。

 マーケティング、とりわけターゲティングは、広告の文脈で言えば、フレームワークのフェイズで考えるべきことで、あと出しジャンケン的に立ち上がってから変更するのは不可能だと考えたほうがよさそうです。それでもターゲティングは難しいのだから。

 ターゲティングは難しいという例をひとつ。

 白鶴に「鶴姫」という低アルコール・低カロリー吟醸酒があるんですね。少し少なめの300mlビンで、軽い味わいでなかなかおいしいです。この「鶴姫」、もう20年以上前になりますが、デビューの時は若者をターゲットにしていました。当時、缶入りでイルカのイラストがおしゃれな「飛沫(しぶき)」という発泡日本酒が若者を中心に受けていて、その流れで、ターゲットを若者に、ということだったと思います。

 で、テレビCMのキャンペーンを大々的に打って、「鶴姫」は売れたんですね。でも、若者に、ではありませんでした。この「鶴姫」を買ったのは主にお年寄りだったのですね。お年寄りはあまりお酒をたくさん飲めませんよね。また、アルコールも低いほうがからだにやさしいし、晩酌に少しだけというのも、お年寄りのニーズに合っていました。

 ターゲティング的には見当違いということですが、この「鶴姫」はお年寄りに今も愛されて、20年以上経った今も愛されるブランドになったんですね。皮肉なようですが、これもターゲティングの一面ではあるんです。でも、もちろん、ターゲティングは意味がないということではなく、むしろ、マーケティングとはターゲティングと定義してもいいくらい重要で、ターゲティングひとつで商品やブランドの運命が決まってしまうほどなんですけどね。この「鶴姫」だって、若者にこだわっていたら、たぶんもう存在していないと思います。つまり、今も「鶴姫」があるのは、事後的ですが、お年寄りにターゲティングしたからとも言えるんです。

 なんか、そう考えると、小島慶子さんが降板するのは惜しいなあと思います。なんか、双方にしあわせな話ではなさそうで、しかも、ボタンの掛け違いっぽいんですよね。感情のこじれというか。局側に「まだラジオを聴いていない、40代、50代の男性の自営業の人」を本気で取りにいくつもりだったら、番組ごと変えるのもありだと思いますが、どうも話を総合するとそんな感じでもなさそうだし。真相は知りませんので、もっと何か別のことがあるのかもしれませんが、とりあえずは神足さんが戻ってくるまでは続けてほしかったなあ。

 今からでも遅くはないと思いますし、なんとかならんもんなんですかねえ。

 ■関連エントリ:「広告表現とターゲティング感覚

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2012年1月 9日 (月)

おぼっちゃまと横山くん

 昨日の深夜に何気なく見たNHK大阪の「西方笑土 横山たかし・ひろし」が面白かったです。漫才2本を前後にインタビューを挟む形式で、お笑いショーというよりは芸人の魅力を紐解くドキュメンタリーに近い番組でした。

 関西以外の方はあまりご存知ないかもしれませんが、横山たかし・ひろしは大阪松竹芸能所属のベテラン漫才師で、師匠がかの故・横山やすしさん。もともとは吉本興行所属で、横山やすしさんのことでいろいろとあって、松竹に移籍したとのこと。でも、お二人は横山やすしさんのことをとても尊敬されていて、その愛情はこの番組でも「殴られてばっかりで、ほんまつらかったですわ」と話す表情にも愛情が表れていました。横山たかしさんは、やすしさんの出棺のとき「師匠は、漫才の星から地球へ漫才しに来た、漫才星人です」と言って号泣されたそうです。

 横山たかし・ひろしの芸風は、いわゆるホラ吹き漫才。金ラメが敷き詰められたピカピカのスーツを着込んだおぼっちゃまがひたすら金持ち自慢を繰り返し、それを横山くんが激しく突っ込みを入れる。その激しい突っ込みに耐えきれず、おぼっちゃまがついに本当は貧乏であることを白状。赤いハンカチをくわえながら「嗚呼〜!」「辛いのー!」と嘆くのがお決まりのパターン。

 この番組では、前半後半と2つの演目が放送されていて、最初のものは金持ち自慢、後半はおぼっちゃまが総理大臣で、お客さん大臣に任命していくというものでした。特に後半は、横山たかし・ひろし漫才の独壇場でした。「財務大臣任命!あんたにまかせた!」と名指しで言われたお客さんのうれしそうな顔。みんなが求めるお決まりのパターンに落とし込みつつ、ネタそれぞれの展開による笑いの違いも楽しめました。

 横山たかし・ひろしは、若い頃に漫才ブームがあって人気者になるんですね。でも漫才ブームが終わって停滞してしまいます。営業でスナック回りもしていたそうです。おばちゃんだらけの劇場で漫才をしていて、ふと「藤圭子はワシの嫁じゃ〜!」と言ったら、ドッと笑いが起こったんだそうです。横山ひろしさんは、こんなふうに言ってました。

 「そしたらね、お客さんが客席から突っ込んでくれるんですわ。」

 それで、これはいけるとなって、次から次へとホラ話を重ねっていって、それを激しく突っ込む今の芸風ができたとのこと。で、漫才だし「落ち」がいるなあと思って、一転して貧乏になるという展開を思いついたり、服装をわかりやすく燕尾服や金ピカにしたり。

 「もう、昔のままではもうあかんやろと。だから、見せ方を変えたんですわ。やってることは今も昔も同じなんですよ。ただ、見せ方は変えた。」

 あらためて横山たかし・ひろしの漫才を見て発見がありました。ここまで読んで、金ラメスーツのおぼっちゃまがたかしさんかひろしさんかわかる方は関西の方でも案外多くはないのではないでしょうか。私も、じつはあまりよくわかりませんでした。

 というのは、漫才の中では横山たかしさんは「おぼっちゃま」と自ら名乗り、横山ひろしさんは横山たかしさんのことを「おまえ」と呼びます。一方の横山ひろしさんは、横山たかしさんからは、大金持ちのホラ話全開の前半は「横山」、ちょっと嘘がばれかけた中頃は「横山くん」、嘘がばれて貧乏になった最後は「横山さん」と呼ばれるんです。こんな感じです。

「大金持ちのおぼっちゃまじゃ、すまんのー。笑えよー。」
「何言うとるんじゃ、おまえ、それにせもんやないか!」
「それを言うなよ、横山くん!」

 つまり、漫才のコンビ名は横山たかし・ひろしだけど、漫才の中では「おぼっちゃま」と「横山くん」なんですね。たぶん、これは笑いのプロの本能がつくったものなんでしょうけど、漫才だから「落ち」がいると思ったこと、また、ホラ吹きを匿名的な「おぼっちゃま」にして、突っ込みを実名の「横山くん」にしたことは、このホラ吹き芸を10年を超えて今なお面白い生き生きとした芸にするための成立要件のような気がするんですね。

 横山くんは、こんな突っ込みをします。

 「いいかげんなことばかり言いやがって!おまえなあ、よう考えてしゃべれよ!」

 それに対して、おぼっちゃまはこう返します。

 「そないに言うなよ、横山くん。考えてしゃべったらおもろないがな。」

 横山くんは、熱く幸せを語ります。

 「坂を上るんや。坂を上ったら、そこに希望が見えるんや、幸せがあるんや。それが人生やないか。」

 おぼっちゃまは、こう返します。

 「きのうも江坂上ったけど、幸せなんかあれへんかったわ。嗚呼〜、ツライの〜、横山〜!」

 ちなみに、この江坂っていうのは、大阪のだたの地名なんですけど、そこで大爆笑なんですよね。で、お客さんはどちらに共感して笑うのか。たぶん、どちらにも、なんです。よく考えてしゃべらなきゃ、という部分と、よく考えてしゃべったらちっともおもろない、という部分をひとりの人間は持っている。坂を上ったら幸せがあることも、坂を上っても幸せなんかないことも、ひとりの人間はどちらも信じている。血管が浮き上がるくらい真っ赤になって怒る横山くんに、おぼっちゃまは言い、横山くんはこう返します。

 「そんなに気張ってしんどないか。命掛けるな、わずかな金に〜。早死にするぞ。」

 そこで、横山くん。

 「うるさいわっ!」

 なぜ「落ち」がいると思ったのか。なぜ「おぼっちゃま」と「横山くん」という設定にしようと思ったのか。それは、横山たかし・ひろしのご両人に一度じっくり聞いてみたいです。てな「落ち」のないエントリで今回はすみません。この「落ち」がなぜ必要なのかの問題と、この漫才芸に表れている「匿名」と「実名」の問題は、横山たかし・ひろしの芸を超えて、すごく興味深いものだと思うのでいずれあらためて考えてみたいと思っています。では最後に、私が大好きなおぼっちゃまの名台詞を。

 「笑えよ〜!笑うのはただじゃ!」

 ではでは。

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2010年7月18日 (日)

NHKアーカイブス「極楽家族」を見ました

 32年前に制作されたドラマで、今は亡きミヤコ蝶々さん、若き日の国広富之さん、大竹しのぶさんが出演されています。 第33回芸術祭優秀賞受賞、第19回モンテカルロ・テレビ祭UNDA賞受賞とのことです。かなりドラマの内容に踏み込む部分がありますので、これから何らかの形でご覧になる方は、後でお読みになることをおすすめします。

■ドラマ「極楽家族」
80分/1978年(昭和53年)

舞台は、浪速の人情が溢れる下町・大阪の通天閣界隈。事故で次男を失い悲しみに暮れる老夫婦と、その次男に瓜二つの若者が偶然出会い、一緒に暮らすことになる。若者は、やがておばあちゃんのことを「お母ちゃん」と呼び、三人はまるで本当の家族のように振る舞い始める。
それまでは親をかえりみることのなかった長男が、それを知り若者に嫉妬。そして、老夫婦の遺産相続へと話が及んでいく──。
赤の他人同士が、家族を演じることから巻き起こる、珍騒動を描いたドラマ。
仲の悪い本物の家族と仲の良い偽の家族…どちらが本当に幸せなのかとドラマは問い掛けている。

NHKアーカイブス」より引用

 上のあらすじではよくわからない部分を少し補足しておくと、老夫婦のおじいさんが脳梗塞の後遺症と認知症。この老夫婦は、少し前に事故で次男を亡くしています。レッツゴー長作さん演じる長男夫婦が、おじいさん、つまり父を精神病院に入院させようと提案するのですが、それを拒否。で、ミヤコ蝶々さん演じるおばあさんがひとりで面倒を見ているんですね。そこに偶然、亡くなった次男にそっくりな若者が現れ、三人で、偽の家族として一緒に暮らすようになる、という筋立てです。

 この亡くなった次男にそっくりな若者を演じるのが、国広富之さん。で、近所の食堂で働く娘さんを演じるのが大竹しのぶさんで、亡くなった次男と恋人同士だったという設定です。

 昭和53年という時代背景を考えると、やっぱり精神病院という言葉には拒否感が強かったんでしょうし、おばあさんが、「おじいさんを精神病院に入れる」と言われて、長男や長男の嫁さんを憎んでしまうのはしょうがないことなんだろうと思いながら見ていました。実際、自分でも抵抗感がなかったというと嘘になるし。

 でも、このドラマでは、介護の実際の部分にも少し踏み込んでいました。長男の嫁さんが「だって、精神病院しか受け入れてくれなかったんだもの」と言っていて、このひとつの台詞で、誰一人として単純な悪者にはしていないことがわかります。いろいろな人間模様が凝縮された優れたドラマになっているように思えました。この台詞の意味は、分かる人にはわかる言葉です。

 本当は、精神病院しか受け入れてくれなかった、ということではなくて、介護サービスではなく医療サービスが必要な場合(しかも当時は今のような介護制度もなかったはずだし)、認知症を専門とし、いろいろなケアの体制が整っているのが精神科であることに過ぎないんですよね。この長男の嫁さんも精神病院に入れてしまうという後ろめたさを持っていて、そのあたりの諸々は、感覚的には、今もあまり変わらないのかもしれませんね。

 個人的には、このあたりの偏見や先入観は、もっと取り払われたほうがいいとも思うし、精神病院で行われている認知症に対する医療ケアの実際なんかももっと知られたほうがいいと思うんですけどね。ドラマやファンタジーではなく、もっとドライに知られてほしいと思っています。ま、これはドラマに関係ない話ですが。

 かつて次男と付き合っていた娘さんと若者が恋に落ち、その娘さんは、若者に、なぜ赤の他人である老夫婦と一緒に暮らすのかを問いかけるんですね。若者は、自分の過去に少し触れながら、こう言います。

「それは、わしの義務なんや。わしにはその義務があるんや。」

 若者は前科があり、その償いの意味での義務。その義務を果たすことで、彼は、働くことに意味を見いだし、生きることの張り合いを見つけていきます。この偽家族のつかのまの生活は、何よりも楽しそうで、血のつながりはあるけれど、関わりが希薄な長男夫婦との関係と対比されていきます。

 このドラマは、じつは「義務」って何だろうということが隠れたテーマだったのかもしれません。義務のコインの裏側には権利があって、このドラマではそれは「おじいさんの面倒を見ること」と「遺産を相続できること」が対応しています。義務と権利が、このつかの間の楽しい生活の成立要件だとすれば、若者には、前科への償いという時点で、「義務」しか残っていなくて、奇跡的に「権利」を主張することなく成立要件を満たしてしまっていています。

 だからこそ、このつかのまの偽家族は、家族以上に結ばれ合っていて、このドラマをレッツゴー長作さん演じる長男の目線から見たとき、それは、この奇跡的に成立してしまった家族に嫉妬し、それを必死に取り戻す物語とも言えるのでしょう。

 この偽家族は、あっけなく終焉を迎えます。ドラマが終わったあとに脚本の中島丈博さんがインタビューの中でおっしゃっていましたが、この長男こそが、本当の主人公なのかもしれません。

「まあ、遺産も入るし、おまえには苦労をかけるけど、しんぼうしてや。」
「そんな悲しいこと言わんといてよ。私、そんなつもりでやってるんやないわよ。家族じゃない。家族だからじゃない。」
「そうか。家族か。家族やもんな。」
「当たり前やんか。家族なんやもん。」

 ここで、長男の義務は、若者と同じ義務になるんですよね。このエンディングは、人情劇にありがちなエンディングに見えて、きっとまったく別のものなんだろうな、と思いました。あらかじめ権利を主張しない義務。たぶん、中島さんは、家族というものはそういうものだよ、と言いたかったのではないかと思いました。

 それが家族であり、その条件さえ満たせば血のつながりなく家族であり得る。家族とはそういうもので、若者は義務と呼んだけれど、ほんとうはもっと別のものだったりもするのでしょう。さらに言えば、会社と同格ではなく、家族って本来は別の原理でできていて、権利と義務みたいなものではできていない別のものじゃないか、ということを作者は言いたかったのだろうと思います。

 最後に若者と娘さんが、こんな会話をします。

「楽しかったなあ。ほんとうの家族みたいに楽しかったなあ。」
「なに言うてるのん。あんたもこれから親になるんやで。」

 このエントリには書きませんでしたが、ミヤコ蝶々さん、言葉に表せないほどよかったです。こういう人を天才と言うんでしょうね。関西育ちの私は子供の頃からずっと見ていて、空気のようにその芸に触れてきましたが、あらためてじっくり見て、その演技に圧倒されました。いいドラマでした。おすすめです。

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2010年3月18日 (木)

radiko.jpで、AMラジオが息を吹き返すかも

Radiko

 
 関東と関西の民放AM局、FM局が参加するサイマルラジオ「radiko.jp」が始まりましたね。今は試験配信とのことですが、はてなブックマークでも2000を超えるブックマークを集めていたり(参照)、Twitterで多くの人につぶやかれたり、久々の大型の話題になっているようです。

 ただし、現在のところ放送エリア以外の場所では聴けません。放送エリア以外では下のような画面が表示されてしまいます。

Radiko_out

 ラジオ好きのネットユーザーとしては、例えば、関東在住の人が関西のラジオを聴きたいというニーズはあるだろうし、サイマルラジオなら、当然そこを期待してしまうのですが、それは、まあ大人の事情ということですね。そこまで急速に時代は変わらない、ということかもしれません。

 このradiko.jpがこれまでのインターネットラジオやポッドキャストと決定的に違うのは、民放のAM、FMの放送コンテンツが、CMも含めて何ひとつ省略されず、タイムテーブルもそのままにインターネットで再現されるという点。これは、日本の放送史でも歴史に残る出来事ではないでしょうか。

 ラジオCMがいい感じで耳に入ってきます。ラジオを聴いている感覚そのままなんですよね。いつもは能動的に接しているネットで、ラジオというメディアの「受動性」が当たり前のように実現されてしまっていることに、少しばかり驚いています。考えてみると、まあラジオを聴いているのだから当たり前ではあるのですが、それでも、こんなに簡単に実現されてしまうんだなあ、という感覚がありますね。ほんの少し前まで、楽曲やタレントなどの権利がからむCM素材は、自社のウェブサイトにさえ掲載できなかったんですよね。なんか感慨深いです。

 何度か聴いてみた感想としては、まずは音がいいこと。これはかなり新鮮でした。これもまた、理屈としては、そりゃそうだろうということなんですが、AMとFMが音質的にほとんど違いがないんですよね。となると、コンテンツはAMの方がネットにはなじみやすい気がします。このradiko.jpは、もしかするとAMラジオ復権のトリガーになるかもしれないなあ。最近はFMも音楽ばかりでなく、AM的なトーク中心のコンテンツづくりをしているようですが、その傾向に拍車がかかるのかも。

 というより、ラジオメディアの衰退って、もしかするとハード、つまり受信機の問題だったんじゃないかな、と思いました。つまり、ラジオ受信機というハードがもはや時代に合わなくなってきた、というような。考えてみると、そりゃそうだろって話ですが、こうしてあらためて、こういう状況を突きつけられると分かりやすくなりますね。結構、単純な問題だったのかも。

 ずいぶん前に、AMラジオの復活のためには、Appleに陳情してでもいいから、iPodにAMラジオチューナーを付けてもらうべきなんじゃないか、みたいなことを書いたのですが、そんなこんなもradiko.jpで一発解決。これは見事なもんだなあ、と思いました。

 私はAMラジオが好きだし、AMラジオを聴きながら他の用事をする習慣があるから、家に帰ると、まずラジオをつけて、つけっぱなしにしていることが多いけど、たとえばネットをやっているときに、わざわざラジオをつける、という行為は、簡単に思えて、結構敷居が高いのだろうと思います。ネットなんかでも、1クリック行程が増えるだけで、ユーザーが半減と言われているのに。それに、今どき、ラジオ受信機を持っていない人や、防災用にしまっている人は多いでしょうし。

 ラジオというメディアは、ターゲティング的には、自動車を運転する人や商店や町工場で働いている人のメディアとされてきましたが、このradiko.jpで、もしかするとその認識が変わるのかもしれません。

 ラジオやテレビというメディアは、いずれはこういう感じになっていくんでしょうね。汎用的には、すべてPCで、という感じになって、ちゃんと観たいときは高画質のテレビ受信機、自動車に乗っていたりして、ネット環境にないときはラジオ受信機、という棲み分け。で、PCで提供されるコンテンツとして、テレビ、ラジオのコンテンツをとらえたとき、お金がかかっているだけに、もともと優位性はかなりあるんですよね。

 それにしても、民放ラジオ各局は思い切りましたね。NHKオンデマンドや日経電子版など、従来からのマスメディアの新しい試みが続きましたが、これは、ひさびさ、当たるかもと思いました。あとは、地方局がどう判断するか、ということですね。一応、建前としては、都会の難聴取解消のためということですが、PCでラジオを聴きたいというニーズは、地方でも同様にあると思います。この流れは、早い段階で全国に広がりそうな感じがします。

 エリア制限解禁は、いろいろ難しい課題をクリアしないといけないのでしょうが、ユーザーのニーズは、確実にエリア制限解禁の方向にあるので(今、TBSラジオを聴いていたら、雨上がりの宮迫さんが「radikoで全国のみなさんが聴けるようになったんですよ」と話していました。これは間違った情報ですが、まあ、一般のニーズはそういうことですよね。)、地方局はいろいろと頭が痛いのでしょうね。このあたり、なんとかならないんでしょうか。理想論としては、その地方に住む人が聴きたくなるような魅力的なコンテンツの提供ということですが、現実はそうもいかないでしょうし。

 放送の使命としては、全国津々浦々平等に享受できるように、というものがあるにもかかわらず、これまでの放送インフラでは、いまだに実現できずにいます。でも、ネットを使えば、いとも簡単に解消できてしまうんですよね。それで万々歳と言えばそうでもなくて、そのことが地方の独自性を阻害する結果を生み出すことにもなってしまいます。それが時代の流れだよ、冷たく言い放つこともできると思うけれど、どこかに無邪気によろこべない気持ちも私の中にはありますし、現在のエリア制限は、その過渡期での現実的な解であるような気もしています。なんか、もやもやはするけれど。

 なんか自分の中には、矛盾した2つの気持ちがありますね。どちらも本音だけれど、そのどちらにも完全にはいけないもどかしさがあります。やっぱり、「ぬかるみの世界」とか「ヤンタン」とか「サタデーバチョン」とか、関西ローカルAM局の深夜放送を聴いて育ってきましたしねえ。その矛盾を一気に解決するブレイクスルーはないものでしょうかねえ。

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2010年3月 7日 (日)

「やまない雨はない」というメッセージ

 テレビドラマ「やまない雨はない」を見ました。

 このドラマは、昭和60年頃に「お天気おじさん」として人気を博したお天気キャスター倉嶋厚さんと妻・泰子さんの夫婦愛、泰子さんが癌で他界することをきっかけに発症したうつ病の闘病を描いた同名の実話エッセイをドラマ化したものです。倉嶋さんは、現在86歳でホームページも運営していらっしゃいます。

 倉嶋厚さんを渡瀬恒彦さん、泰子さんを黒木瞳さんが演じていました。新聞のテレビ欄にもヒューマンドラマと題されているだけあって、全編、人間愛に貫かれていて、ドラマとしても見事だと思いましたが、私がとくに感心したというか、リアルだなあと思ったのは、ドラマ後半のうつ病を発症した倉嶋さんを描いた部分でした。

 うつで抑うつ状態になって歩く渡瀬さんの姿(すごく説明が難しいけれど、ただ落ち込んでいる状態の歩き方ではなく、うつ病や躁鬱病のうつ状態特有の歩き方の特徴がありました。あえて言えば、脳の指令がそこに介在している感じ)や、精神科の入院病棟の様子から、役者さんを含めたスタッフさんたちの、心の病を正しく理解しようとする姿勢が伝わってきました。相当、きめ細かく観察し、いろいろな意見を咀嚼し、考え尽くして演出されたものだろうなと思いました。もちろん、テレビドラマですから限界はあるでしょうし、人によってはこんなものではないという意見もあるかもしれませんが、それでも、なるだけ脚色をしないで伝えようとする意志が画面に表れていたと思いました。

 私はまだ原作のエッセイを読んでいませんが、それは倉嶋さんが伝えたいことのひとつであったと思いますし、その意図をテレビドラマのスタッフさんたちはきちんと受け止めていたように思います。

 渡瀬さん演じる倉嶋さんは、心の病を「心に雨が降る状態」であると言います。そして、精神科の入院病棟を「雨宿り」の場所であると言います。また、少し元気になった岩嶋さんのお見舞いに訪れたテレビプロデューサーが「傷ついた人たちとこれ以上一緒にいることは岩嶋さんにとっていいことではないと思うな」とも言っていて、それを岩嶋さんが「もう少しここにいます」と拒み、立ち去るテレビプロデューサーは「もうあの人は駄目かもしれないな」とつぶやきます。

 結果として、入院しているある女子高生の言葉をきっかけに、発症後、岩嶋さんがはじめて笑い、寛解へと向かうシーンは、いろいろな意味で考えさせられました。(実際は、寛解に向かった後、仕事に復帰し、忙しく日々を過ごしていくうちに、自分の判断で薬を少なくしたり飲まなくなって再発してしまったということです。参照

 ドラマでは、どちらが正しいのかは提示していませんでしたし、きっとどちらも正解なのだろうと思います。でもひとつだけ言えることは、うつ病にしても躁うつ病にしても統合失調症にしても、「心に雨が降る」のが見えるのは本人だけであり、その雨宿りの場所として精神科があるということ。それは心が晴れている状態の人が、晴れている状態を根拠にして、どうこう言えることではないのだろうな、ということです。これは励ましたい当人にとっては無力感があるのですが、でもその原則を無視することから、すべての無理解がはじまるのでしょう。それは、自戒を込めてそう思います。

 「心に雨が降る」という状態は、降る雨を傘をさしながら、もしくは窓から外を見ながら憂鬱になるという状態とは違います。躁うつ病だった中島らもさんは、自身の心の状態を「心が雨漏りする」と表現していました。心の病の多くは、そのきっかけがたとえストレスや悲しい出来事であったとしても、そのことをきっかけにして起る脳内の神経伝達物質の働きの異常によるもので、そこから先は医療の領域です。

 予防に関しても、風邪にならない生活という意味では有効だとは思うけれど、風邪になってしまったら、そこから先は気の持ちようとは言えないし、風邪になったらすぐに病院に行くように、単なる憂鬱ではないなと思ったときにすぐに精神科に行ける状況を作ることは大切だと思います。「心に雨が降る」という表現は、そこのことが感覚的に理解できる言葉ですし、抑うつ状態とうつ病、躁うつ病の違いを知る手がかりにもなります。この感覚は、心の病になっている人を支えるときも、心の病になる可能性を持つ私たち自身に向き合うときにも、大切な感覚だと思っています。

 風邪やインフルエンザと同じくらいには心の病についても知っておくべきなんでしょうね。もちろん、知ったその先には、薬のこととか、精神論や思想・哲学を含めたいろいろな考えが錯綜し、ややこしい党派性があって、それはそれで、学者ではない一般人としてはわけがわからなくはなってしまうんですが。それでも、教養として、知れるだけ知ったほうがいいとは思います。

 とことん知った上での偏見は、それはもう悪意でもあるからしょうがないけど、知らないがゆえの無邪気さは、いちいち指摘はしないけれども、無邪気な明るさがあるだけに、なおさら悲しいなあとも思うし。今回のドラマだって、エンディングがあるドラマだからこそ気付きにくいけれど、その時々でいろいろとあったのだろうなと思います。倉嶋さんもこんなふうにおっしゃっています。明るい感じの言葉ですが、そこには壮絶な葛藤があったのでしょう。

自分でも、とてもこれではどうしようもないなというところまで落ちてしまっていても、やはり精神科に入院するということは、精神的な病であると認めることになるわけで、仕事的にもなにか偏見をもたれたりして支障がでるのではと、その時はそんな不安が広がったのだと思うんです。
UTU-NET 「うつ」を克服した人々 倉嶋 厚さんの体験談

 このドラマが伝えたかったメッセージは、タイトルである「やまない雨はない」が、様々な人たちの支援と、この最後の精神科の入院というエピソードがあって、はじめて言える「やまない雨はない」であるということなのではないかな、と思います。

 

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2010年1月18日 (月)

ぎこちない関西弁

 1月17日の夜11時からNHKで放送された、阪神・淡路大震災15年特集ドラマ「その街のこども」を観ました。

 物語は、森山未來さん演じる若者と佐藤江梨子さん演じる若者の二人の会話を中心に進んでいきます。ともに子供時代を神戸で過ごし、震災を体験し、現在は東京で暮らす二人の関西弁のぎこちない感じが強く印象に残りました。

 私は、大阪で出身で東京暮らしが長いから、このぎこちない感じは、身にしみてわかります。関西弁は、やはり自分の根拠でもあるし、そのこと自体は、自分の中では確かなことなのだけれど、でも、その関西弁は、私が日々の暮らしの中で、普段使う言葉ではないというもどかしさがあります。

 大阪に帰ると、自分が話す関西弁によって、どこにも拠り所がないことを思い知らされたりするんですね。

 東京ではすぐに関西人とわかる話し方をしているのですが、それでも、なんとなく自分がどのコミュニティにも属さない根なし草だなあ、と思わされることがあるのです。まあ、そんなにたいそうなものでもないけれど、このさみしい感覚はずっとあります。今も、ほんの少しだけ心にへばりついて取れないでいます。

 二人は、三ノ宮から御影に向かって、夜道をひたすら歩きます。互いに名前を知らないままに、ひたすら喋ります。やがて、遅い自己紹介があり、そこから関西弁が自然になってくるんですね。互いを名前で呼び、自分の領域と他人の領域が溶け合った、関西独特の二人称である「自分」も使われるようになっていきます。

 このあたりの、時が経つにつれて関西弁が生き生きとしてくる感覚も、ああ、そうそう、そんな感じだなあ、と思いました。演出もあるのでしょうが、役者自身がそのストーリーを演じる時間の中で、自然と変わってきたのもあるのでしょうね。

 でも、それでも、その関西弁は、どこかぎこちなさを残していて、その残されたぎこちなさ、不器用さこそが、今の彼であり彼女なのだろうな、とぼんやりと考えたりもしました。

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