こんな写真を載せているからではないですが、なんとなく今年の年の瀬は、いつもの年よりも静かな気がします。それは私だけの感覚なのか、世間でもそうなのかはわからないけれど。
このところ少し更新が途絶え気味になってしまっています。いろいろと考えていることはあるのですが、どうにもこうにも言葉にならなくて、沈黙だけが積み重なっていくような気がします。頭の中で考えていて、あっ、そういうことかと思うと、スルッと答えが遠くに逃げていく感じ。
こういう感覚は前にも何度か経験していて、いつかはまた普段どおりの感覚に戻るんだろうけど、やっぱり、その渦中にいると先が見えない感というのがじんわりとまとわりついて、この状態がずっと続く気がしてしまいます。
少し前に風邪をひいてしまって、休みの日に熱が出てずっと寝てすごしたりしていました。風邪をひくと体がだるいし、熱が出ると、もう何も考えられなくなります。ちょっとした体の変化だけど、健康なときとは感覚がまったく違います。でも、その感覚の違いは健康な時には想像することすらしないんですよね。たかが風邪だろ、薬飲んであたたかくして寝れば治るさ、みたいな感覚。
なんとなくそのあたりの想像力を、忘れることなくつねに持っていたいと思いました。窓から見える街並の、いくつもの屋根の下には、いろいろな人が住んでいて、それぞれの思いを抱えながら生きている、という単純な事実を忘れてしまうときがあります。
でも、そんなそれぞれの思いを抱えたいろいろな人たちに向けてメッセージを投げかけるということが広告だと思うし、その様々な思いをひとつひとつ知ることはできないけれど、思いはそれぞれで、それが大前提なのだと思うことなしには成り立たない仕事ではあるんだと思います。
当たり前の話ではあるし、今さらわかってどうするの、ということでもありますが、最近、販促と広告の違いについて、自分の頭の中ですごく整理されてきました。きっと販促のほうが概念が大きいですよね。その中に広告という手法があって、広告がなくても販促は成り立つということだな、と。販促の一手法としての広告。これが正しい認識なんだろうな、と。もちろん、そう言い切るためには、より狭義の広告を定義しなきゃいけないのだけれど。
きっと、様々な販促の手法は、それぞれ対象とする場というかモードというものがあり、それは最終的には個としての人にたどり着くにしても、その人が今ある場あるいはモードが違うと、その思考も感受性も違うわけで、広告は、よりソーシャルな、公共性のある場あるいはモードにおけるコミュニケーションであるのだろうと思います。
今までは、企業コミュニケーションにおいては、ソーシャルな公共性のある場でしか成り立たなかったから、こういうことは考える必要がなかったとも言えるかもしれません。
まあ、そんなこんなを考えながら、あっ、そういうことかもと思って、具体的に書こうとすると、スルッと逃げていくわけなんで、この話題は来年に持ち越しでしょうね。ではでは。